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父と、母と、妻と
「は~い、一刀。
お暇なのか・し・ら?」
「おおー、一刀じゃ!」
「悠と協か、散歩でもしてるの?」
腕を上げて挨拶をする一刀に、劉協こと協が飛びついた。
彼女はまだ一刀の腰ほどもない身長であり、ぴょんぴょんと跳ねて抱き上げてくれとせがむ。
皇族を抱き上げるという不敬極まりない行いだが、それは過去のことだ。
現在の魏国において、最高権力者は華琳であるのだから、少なくとも今の協はただ一人の少女となっている。
悠を実の母か姉のように慕っており、それはもしかしたら、今は亡き家族の影を追っているのかもしれない。
唯一の生存の可能性が残される姉の劉弁については、彼女に伝えていないのだ。
淡い希望を悪戯にもたせ、叶わなければ辛さしか残らないから。
少なくとも一刀の判断で、劉弁が生きているという確信を得れないうちは、秘密にしておくようにと、季衣と流琉にはお願いしておいた。
心情が理解できるのか、2人とも承諾してくれている。
この、まだ両腕だけで持ち上げられてしまう年端もいかない彼女に嘘をついている一刀は、複雑な気持ちを表にださないようにと必死であった。
「どうだ? もっと高くいこうか?」
「わーい! もっと! もっと!」
青空に翳すように掲げ、くるくると回す。
兄と妹というよりは父親と娘に近い2人は、勢いよく回り終わると、仲良く柔らかな芝の上へと倒れた。
その様子を微笑んでい眺める悠は、寝転んだ2人の隣へと腰を下ろす。
笑って寝転ぶ協の頭を撫でて、陽気な太陽の日差しを体中で浴びて気持ちが良かった。
川の字とまではいかないが、協を挟むように悠と一刀がいた。
「一刀は今日、お休みなのかえ……じゃなくて、お休みなの?」
砕けた形に言い直す協は、失敗したと誤魔化すように笑う。
彼女の正体は魏において秘中の秘であるため、身形はもちろんのこと、髪型もちょんと跳ねるように頭の上で小さく結び、言葉使いも変えるようにしているのであった。
「ふふ、でも協ちゃんはどんどん上手くなっているわよ?
最近なんてよほど気を緩めないと、今みたいに失敗しないも・の・ね」
暗に一刀に会うと安心するのだと伝える悠は、褒めてもらって嬉しそうな協と笑いあった。
すっかりと2人は息が合っているようで、悠を頼んで良かったと思う。
「そうかぁ偉いな協。
俺は今日休みだよ、さっき引き継ぎも終ってね。
何しようかなって散歩してたんだ」
「じゃあじゃあ! わら、私達と遊んで!」
「そうね、私も遊んで欲しいか・し・ら?」
クスクスと笑う悠に、寝転がりながらも抱きついてくる協。
断るものは何もない。
「よっしゃ! じゃあ遊ぼうか。
何する?」
「う~ん……おままごと!」
「おままごとかぁ!
よし、じゃあ俺は……」
「父上様なのじゃ! じゃなくて、一刀はお父さんなの!」
甘えるように胸に飛び乗った協に、一刀は目をパチクリとさせてしまう。
「……俺、お父さん?」
まさかの役割であった。
普段そのような機会が多いせいか、自然と兄としての振る舞いをしてしまう一刀だったので、父親はとても新鮮に感じる。
不意打ちを受けたような一刀から視線を外して、協は悠へと振り向いた。
「悠お姉ちゃんはお母さんだよ」
「あら、じゃあ私と一刀は夫婦なのね?」
「巷でも有名なおしどり夫婦なの!」
「ず、随分と小難しい例えを知っているな、協は」
まだ園児といっても差し支えない彼女が、嬉しそうに辺りから石や木片を拾い出し、芝生を折れた枝で区切って、部屋を作った。
ここに座ってと頼まれた一刀は言われた通りにすると、悠が隣へと座ってくる。
娘役である協は、嬉しそうに石ころを動かして、悠にご飯を作ってと頼む。
器用に石ころを並べ、包丁で切る仕草を加えながら、ときおり協へと悠は笑いかけていた。
父役の一刀としては、どうしたらいいのだろうかと思ったが、とりあえず何かしなければと思い必死に考えた。
その姿をみて、協が首を捻る。
「お父さんは何をやってるの?」
「新聞を……いや、瓦版を読んでるんだが……変か?」
「瓦版って、そういう風に読むの?」
言われてみればその通りだ。
胡坐をかいて、両手を広げて読む瓦版などこの時代に存在しない。
これはいよいよ困ったぞと悩む一刀に苦笑して、悠が助け舟をだした。
「ほら、あなた。
朝ご飯が出来上がるまで、協の顔を洗って、着替えをさせておいて下さいな」
クスクスと笑う悠が、”あなた”と呼んだことに一刀はドキリとした。
おままごととはいえ、悠のような美人を妻と考えるだけでも緊張してしまう。
「お、おお。
そうだったな、それじゃあ協、こっちにおいで」
服を脱がしてと両手を挙げる協の服のそでを掴み、少しだけ持ち上げる。
これでいいのかなと内心びくびくとしながら、一刀が何度か協の服の裾をちょいちょいと引っ張っていると、協の表情が明らかに不服そうであった。
「もうお父さん! ちゃんと脱がしてよ!」
「いぃっ?!
マジで? いや、協ここは外だからさ、本当に脱ぐのはちょっと」
む~っと涙目になりながら唇を尖らせる協に、一刀はどうすればと視線をおろおろと彷徨わせた。
「……はぁ、これだからお父さんは駄目ね。
まだ寝ぼけているの?
お仕事が忙しいのはわかるけれど、ちゃんと家庭も大事にして欲しい・わ・ね?」
ねーっと悠と協が笑う。
進退窮まった一刀をからかった悠が、これが最後よと言わんばかりに言葉を付け足した。
「朝はあの洗い場で顔を洗うんでしょ?
ついでに私の部屋に協の服が揃っているから、ちゃんと着替えさせて下さいね、あ・な・た」
”あなた”の部分をかなり強調して笑う悠の迫力に、一刀の口端が引きつった。
「お、おうおうおう。
よし、じゃあ行こ”あ・な・た?”……」
3人の間に妙な沈黙が流れる。
行間というべきか、それとも空気というべきか。
悠が言わんとする事を察し、なおかつ彼女の笑顔に含まれる意味が”これぐらい読めるよな?”と脅迫めいたものであったので、一刀の背に冷や汗が流れた。
「どうしたの? あ・な・た?」
もう一度、”あなた”を綺麗に言い直した悠に、一刀は腹を括った。
「いや~! お父さんすっかり寝ぼけちゃってたなあ!
失敗失敗だ、あっはっは!」
笑いだした一刀は協の頭をグリグリと撫でると、悠へと視線を向けた。
「ごめんごめん、朝食を楽しみにしているよ……おまえ」
「はい、いってらっしゃい」
よく出来ましたと手を振る悠に背を向け、城内を目指す。
手を引かれていく協の姿が見えなくなってから、悠はふうっと息を吐いた。
「おまえ、か。
あら、案外嬉しいものねぇ」
手に持っていた小石を置き、一人になった悠は芝生の上に座り込んだ。
「夫婦かぁ、一刀が夫で、協ちゃんが子供で、きっと幸せなのでしょうねぇ」
戦場では、多くの夫であるはずの人を斬った。
誰かの子供であるはずの人を斬った。
そんな自分が家庭という光景を夢見るのは、ひどく罪深いことだと思っていた。
__でも、とても魅力的ね。
張郃こと真名を悠。
彼女は天国も地獄も信じてはいなかった。
死んだら終わり、人生はそういう勝負事なのだと割り切っていた。
理性では家庭を望めるべくも無いと訴えかけている。
でも感情では、羨ましいと感じている。
ならばどうすればいいのだろうか?
「こうみえて、私は身勝手で、わがままで、自己中で……馬鹿なのよねぇ」
自身を嘲りながら、顔を上げた。
__欲しい。
ならば私は何をすべきか?
「それにしても、一刀も大変よねぇ。
単純計算でも20、いやそれ以上か……まだ増えるかもしれないし。
1日1人交代でも、1月に1度か2度。
あら、まず死んじゃうわねぇ、ふふ」
将来の光景を見据えて、悠は笑った。
あんなにいい男を手放す? 冗談じゃない。
1月に1度が何だ、関係などあるものか。
そんな彼が好きでいるのだから、誰にも文句は言わせない。
「そう、死んじゃうわよねぇ……常人なら」
自分が惚れた男なんだ、常人であるものか。
彼女は誰よりも自分を信じれる人だった。
すくっと立ち上がると、そろそろ準備をしなければならないと思う。
朝ご飯とはいっていたが、普通に考えてそろそろお昼の時間なのだ。
戦争が終るまでわかりはしない、だが出来れば……
「協ちゃんを娘にするって、どうすればいいのかしら? 皇帝の血筋なんだけど……」
そんな事をぶつぶつと呟きながら、悠は食堂へと向かった。
母としての務めをまっとうするために。
「じゃお父さん、お願いします」
先程と同じように両手を上げた協の服を引っ張り上げる。
幼い体からスルリと服が離れ、下着をつけただけの協が一刀の足に抱きついて寒ーいと言った。
一刀は悠に言われたとおりに、部屋に綺麗に畳んであった子供服を選び、同じように着替えさせる。
んしょんしょと言いながら、腕を引っかからせる協を手伝い、ようやく服から小さな顔が飛び出してきた。
「ぷはぁっ」
「よく着れたな」
よしよしと頭を撫でる一刀に、協は笑った。
「こういう服は着た事がないの。
まだ慣れてなくって」
「そうか」
「でもでも!
最近は美羽ちゃんと一緒に、悠お姉ちゃんや七乃お姉ちゃんに色々と習ってるんだよ!
季衣お姉ちゃんや流琉お姉ちゃんも遊んでくれるの!」
世間という意味での知識が乏しい2人に、魏軍では彼女達に対して配慮がなされていた。
保護責任者を名乗り出たのは悠と七乃であったが、何かと他の者達も気にかけてくれる。
月や詠もかつての敵である美羽を気にせずに、気軽にお茶を振舞っていたりしていた。
この暖かな環境で、協は人生でも懐かしいほどの昔に失ったものを得ていた。
幼い彼女が懐かしいと感じてしまう。
生まれて、すぐに父は母から離れた。
仲が悪かったのか、それとも他に理由があったのかは知らない。
当時の協は、それが自分のせいだと思っていた。
そして母も自分から離れていく。
もう、温かさなど何も存在していなかった。
乳母も近衛も、皆が丁寧に接してくれたが誰も笑ってはくれなかった。
教育係からは、高貴な帝の血筋に生まれたから、そう振舞うようにと教えられた。
ふと街で、同い年ほどの子供を見たことがある。
父と母が両側にいて、兄弟なのかそれとも友達なのかが、じゃれあっていた。
高貴な血筋とは、笑ってはいけないのかな、人一倍頭のいい協はそう思っていた。
でも、やがて腹違いの兄だと紹介された劉弁と名乗った者が、自分を見て笑ってくれた。
そして劉協も笑っていいんだよと教えてくれた。
とても安心ができ、頼りがいのある、幼くても格好のいい人だった。
母が違えど、実の妹のように接してくれた。
嬉しかった。
自分も笑っていいんだと教えられたとき、兄だという人に抱きついた。
なのに……ある日から劉弁とはパタリと会えなくなった。
劉協はずっと探した。
宮殿という宮殿を歩き回り、その姿を追い求めた。
それでも、やはり幼い彼女にとって城は巨大過ぎた。
自由な牢獄。
お城の大抵のところはどこへでも入っていけるのに、彼女の小さな歩幅では、どこまでいっても果てがわからなかった。
それでも彼女は諦めなかったのだ。
毎日、毎日、毎日。
日が昇り、日が沈み、また昇る。
1人で部屋を飛び出しては、少しずつ、少しずつ、城の全貌を解き明かしていった。
その途中には、隠し通路があった。
その途中には、変な倉庫もあった。
父に話しかけても、ろくな返事など貰えず、あの倉庫のものが欲しいといえば、”構わない”とそのただ一言だけ。
隠し通路の入り口にもなっている変な倉庫は、彼女にとって1人になれる空間でもあったし、好奇心が刺激される不思議な場所であった。
たどたどしい手付きで、城の内部の地図を描き、覚えていく。
今日はここまでいけた、明日はこの辺までいけるかな。
1人しか知らない秘密基地で、彼女の人知れない冒険は続いていた。
そしてあの日……地方の偉い人達が多く集まる、あの日の前夜。
いつものように劉協が兄の姿を見つけられずに、肩を落として倉庫へと向かうと、扉が少しだけ開いていた。
__変だな、誰も興味がないガラクタ倉庫なのに。
そう思いながらそっと中を覗いた時、彼女は声を上げそうになった。
__劉弁様?!
しかしそれが違う人だと、協にはすぐにわかった。
顔や雰囲気が似ているとはいっても、年齢も背丈も全く違う。
劉弁が成長した姿、そのまんまを生き写しにしたような青年に息を飲んだ。
そしてその彼が倉庫にあるものに触れていく。
使い方もわからない、ただのガラクタ。
だけど協は確かに見た。
ガラクタを持ち上げた彼が、微笑んだのを。
懐かしくて、寂しさの混じった笑顔ではあったが、劉弁と同じ、安心させてくれるような笑顔だった。
倉庫から慌ててでていってしまった彼の後ろ姿を目で追いかけ、瞳に焼き付けた。
__城で見たことの無い人だ、きっと明日に集まる誰かに違いない。
バクバクと高鳴る心臓を押さえ、協はその日、初めて倉庫へは入らなかった。
次の日。
多くの者達が父上様にひれ伏す中、隠し通路を通って、柱の影にでた協はじっと昨夜の後姿を捜し続けた。
今しかないのだと、自分に言い聞かせた。
数多のひれ伏す者達の背中を1つ1つ丹念に捜し続けた。
しかしどれもが同じに見えてしまう。
せめて立ち上がって並んでくれれば……
立ち上がれば自分の目線では奥の人は見えなくなる、わかっているのだが、そう思わざるを得なかった。
やがて、報告会が終った。
父上様と十常侍とかいう恐いおじさんたちが出て行くと、大人達が次々と立ち上がった。
時間が無いと慌てる協。
ずっと、彼女は探し続けていた。
今度は奥の人が見えないくなった。
諦めはしなかった、だけど見つからない。
視界が滲んできてしまった。
必死に袖で目を擦り、探す。
ぞろぞろと大部屋から出て行く大人達。
いつ自分がここに居ることを気づかれてしまうのか、彼は見つけられないのか。
焦りと不安が混ざり合い、とても嫌な気持ちだった。
その時、柱の影から必死に覗く協の直ぐの傍……そこで1つ、声が届いた。
「おい、私達もいくぞ?」
ギクリとした。
見つかれば部屋に連れ戻される。
こんなに傍であれば、気づかれるかも。
恐る恐る影から顔をだした協だったが、目を見開いた。
__見つけた!
そこには求めていた姿があった。
一拍、呼吸を止めた協は、その姿を目線で追う。
ここで話しかけなければならない。
だけど、あの劉弁にそっくりな青年に、嫌がられたらどうしうようという不安が新たによぎった。
劉弁は対等に自分へ話しかけてくれた。
笑ってくれた。
その劉弁にそっくりな彼が、自分のことを知ってへりくだってしまったら?
この高貴な血筋に恐れを抱いたら?
笑って……くれなかったら?
自分の気持ちの整理がつかない。
だけどこれだけは思った。
__諦めたくない!
そう思えば、後は簡単だった。
見つかってもいいと、柱の影から飛び出て一直線に青年へと向かう。
ずっと……ずっと劉弁の姿は見つからなかった。
城のどこを探しても見つからなかった。
なのに、劉弁にそっくりな人があの秘密の倉庫に幻のように居たのだ。
協は縋りつきたかったのだ。
例え劉弁とは別人であろうとも、同じ雰囲気を持った人に、助けて欲しかったのだ。
小さい自分の足を恨む。
彼が一歩を歩けば、自分は三歩進まなければならないのだ。
自分の頭よりも高いところにある彼の服の裾を握れた時、涙が出そうになった。
平常心とはほど遠い、だが彼女は下手に恐れを抱かれぬために一生懸命だった。
「ちょっと来てくれぬかの?」
声が裏返っていないか、自信は無かった。
協と一刀が服を着て、外の広場へと戻ると出て行った時と同じように悠が手を振っていた。
傍にはバスケットのような木皮を編みこんだ箱が置いてあり、座るようにと促してくる。
よいしょっと、と親父くさく言いながら座った一刀の上に協がちょこんと座った。
一刀達の隣に添うように、悠も身を寄せると、父に甘えるように背中を押し付ける協へ話しかけた。
「あらあら、協はお父さんが大好きなのね」
「うん!」
迷いの欠片もない返事。
その返答に満足したのか、悠は箱を開けると中からおにぎりが出てきた。
「おお~、美味そう!」
「お母さんはお料理上手!」
「あら、ありがとう。
じゃあどうぞ、手は拭いてね」
濡れ手ぬぐいをちゃんと持ってきている悠が差し出すと、協と一刀はちゃんと手を拭ってから三角形に固められたおにぎりを手にした。
悠も手にして口元まで運ぶと、3人で仲良く声を上げた。
「「「いただきまーす」」」
その木陰に寄り添った2人分の大きな背中は恋人のそれであり、前から見れば幸せそうな3つの顔は親子のそれであった。
3人がおにぎりへかぶりつくと、少しだけ俯いていた顔をばっと上げた。
「「美味しい!!」」
「ありがとう」
にししと笑い合った2人は、次々とおにぎりを掴んで平らげていく。
1つ目が無くなり、2つ目が無くなった。
一刀が3つ目へと手を伸ばそうとした時、悠から笑われた。
「ふふ、ご飯粒がほっぺについているわよ?」
「あ、ほんとだー」
2人に視線を向けられて、気がついたように動き出す一刀。
「え? まじ?」
頬を片手で探る一刀に、悠がクスリと笑う。
__まったく、私が右側にいるんだから、右頬に決まっているでしょう?
左手で頬を触る一刀を笑いながら、しなやかな猫のように近づいた悠は、そのまま唇を頬へと押しつけた。
右頬に唇を押しつけ、くっついていたご飯粒をくわえとる。
しっかりと頬に唇を押し付けておいて、それからゆっくりと離れた。
__ふふ、これくらいは役得、よ……ぇ?
余裕をもって離れた悠だったが、思わず心が停止した。
悪戯猫のように微笑みながら、これから一刀がどういう反応をするのかと楽しみにしていたのに、彼の瞳とばっちりぶつかってしまったのだ。
そして一瞬で悟ってしまった。
「ありがとう……おまえ」
__っ! やられた!
わざとだったのかと思い至った途端に、悠の頬がボンと破裂するかのように一気に紅潮した。
誘いに乗せられてしまった。
自分のやった行為を改めて示されて恥ずかしくなり、嵌められた嬉しさもあいまって、まともに顔も見れやしない。
不意打ち過ぎて、余裕もへったくれもあったものではなかった。
「っ~~~~!」
「お父さんとお母さんはおしどり夫婦!」
協が一刀の膝上で嬉しそうに手を上げた。
きゃっきゃと騒ぐ協に手を回した一刀は、大事そうに抱え込む。
ぎゅっと抱きしめられた協は、嬉しそうに一刀へと顔を向けた。
「お父さん! 口を開けて!」
「え?」
「お口!」
少し戸惑いながら口を開いた一刀、それを確認した協は自分のおにぎりを悠へと向けた。
「お母さん! お父さんにあーんして!」
「「え”??」」
2人の引きつった声が上がった。
未だ羞恥から立ち直れない悠は、深く俯きながら耐えているのに、まさかのこの注文ときた。
背後から矢で射抜かれたような体の震えが2人を襲い、座っている協の体にもビクリと震えが伝わった。
先程の余裕はどこへと吹き飛んでしまったのか、一刀までもが顔を赤くして、隣に座る悠へと視線を移す。
すると同じ心情であったのか、紅潮したままの悠が、チラチラとこちらの様子を伺うような瞳でいた。
もはや初心な乙女のようになってしまった悠が可愛らしくて、一刀は笑ってしまう。
その笑いを挑戦と受け取ったのか、悠がなけなしの気力を振り絞って、協からおにぎりを受け取った。
そしてかなりぎこちはないが、笑顔を浮かべて一刀へとさしだす。
若干震えた手つきで、一刀の口元へと運んだ。
「ほら、あなた。
あーん?」
「お、おう。
ぁ……あーん」
「美味しい?」
「ん、んぐ。
うん! おまえが作ってくれるものは、なんでも美味しいなぁ」
なんとも違和感が満載されている会話なのであろうか。
しゃべっている内容は平々凡々であるはずなのに、2人の口調、所作、表情、全てが硬すぎる。
2人のすぐ下で、協がもっとやるのだろうと期待した瞳でじっと見つめられるのがきつい。
これは食べ終わるまで終らない、そういう事なのだろうか。
魏軍内において、頭脳派に属する武官であるこの2人がここまで動揺するなど、誰かみたことがあるであろうか。
もはやただ意地を張り合っているだけの状況だが、お互いに引く気は一切なかった。
ここで引けば、協が悲しむことがわかるからだ。
「あーん?」
「あーん」
この応酬が繰り返されることが数度。
ようやく満足したのか、協の表情に変化が訪れるかと期待した、まさにそのときだった。
がさっという音とともに、人の気配が近くに起きたのだ。
この2人が気配に気がつかなかったのも、いまさら理由は必要あるまい。
ただ、一刀へあと残り一口分のおにぎりを差し出した腕を固まらせながら、悠と一刀が音がしたほうへと視線を一緒に移した。
「あ、あんたらね、こんなところで……」
「一刀さん……へうう」
「うっし! さっそく”すくーっぷ”って奴やな、こりゃ」
「ほう、相手が悠とはな、これはまた意外」
「………………………………………………一刀」
「ふん! 流石はふしだら兼みだら男です」
元・董卓軍の顔ぶれが勢ぞろいしていた。
しかも霞の腕には、真桜印の”かめら”がキラリ。
言い訳ご無用のこの状況に、もはやあわあわと口を開いたり閉じたりするしか、2人にはできなかった。
その同様している2人の間で協だけがはしゃいでいる。
もはや帝族としての縛りを解き放たれた彼女は、年相応の無邪気な笑顔を振りまいていた。
家族の暖かさがあった。
「はーい、もっとちこう寄ってな~」
霞がカメラを構えて、呑気な声で指示をだす。
カメラに気づいた協は立ち上がり、2人の顔を自分に引き寄せるように小さい腕を回す。
なされるがままに体が傾いた一刀と悠は、協を真ん中にして3人の頬が触れ合った。
3人の顔が並ぶ。
「はい、ちーず……で、いいんやったっけ?」
「ちーず!」
カシャッ
開放された最高の笑みを満面に放つ協と、沸き立つほどの赤色で、なおかつぎこちない引きつった笑みを浮かべ続けている一刀と悠。
その3人の顔の下で、わずかに残った一口分の白いおにぎりが、印象的な1枚となった。
予兆。
「華琳の体調が優れない?」
一刀の返答に、桂花がコクンと力無く頷いた。
よく見ると、桂花の目の周りには心労からか黒ずみができ、少し痩せた感じもする。
話を聞くと、華琳の変調は今に始まったことではなく、ずいぶんと昔から起きていた。
専属の医者をつけ、今まで経過を見ていたが、改善されなくとも悪化もしていなかったので、一先ず安心をしていたのだ。
しかし先日の、反董卓連合が終ってから、ここ洛陽に渡り、袁紹袁術戦を経た現在、見る間に体調が悪くなっているという事だ。
原因はわからない、以前は持病である頭痛が主な症状だったのだが、それはすでに華佗によって治療されている。
それでも華琳は、万全とは程遠い体調なのだ。
あの桂花が一刀に相談にくるあたり、いよいよもって事態は逼迫しているといえよう。
「……食事はちゃんと摂ってるよな?」
「一応は、だけど私達に気づかれないよう、ほんの少しずつだけど量を減らしていっているの。
もしかしたら、吐いているときもあるのかもしれないけど、私達はみたことはないわ。
なによりも睡眠が問題なのよ、袁紹袁術戦以来、ほとんどまともにお眠りになられていないのは間違いないわ」
「なんでわかる?」
「私と秋蘭が、華琳様への報告を兼ねてお部屋に向かうたびに、華琳様の起床時間を記しているの。
華琳様は悟られないようにと、私達が訪れるまで眠っていたというけれど……」
ここで桂花が涙ぐんだ。
泣くまいと必死に両目を擦る桂花に、一刀も腕を組んで俯いてしまう。
「秋蘭はなんていってる?」
「華琳様だから、心配いらないだろうって。
ご自分のことについても、厳しい方だから本当に無理ならば、必ず自分から言ってくれるって……でも秋蘭、内緒で主治医に色々頼んでるみたい」
「そうか……」
秋蘭も秋蘭で裏で手を回しているけど駄目、か。
華琳命の桂花に対してまで気をつかい、なんとか表ざたにならないようにしているのはわかるが、聞いている限りだと、近い将来バレるだろう。
「春蘭達は気づいてる?」
「様子がおかしいのはうすうすと……でも、あいつらにはっきり言えるわけないでしょ。
城が大騒ぎになるわ」
ごもっとも。
それで誰にもいえなく、一刀へと相談にきたというわけだ。
「あんたなら……ほら、華佗とかいるし、なんとかならないかなって……」
普段の桂花なら、絶対に言わないようなことをごにょごにょと言っている。
そんな桂花に対してとても可愛らしく感じるが、事態はそう簡単な話でもないのはよくわかった。
「華琳の体調……袁紹袁術戦辺りからなんだな?」
「え、ええ。
始めはそんなでもなかったけど、そのころ華琳様、1人で考えたいことがあるっていって、書庫で過去の報告書を洗いざらい点検していたみたいなの。
それからしばらく政務室にとじこもっちゃって……ようやく出てきた時は、お顔が病人みたいに真っ青だったわ、今にでも倒れてしまうんじゃないかと思うほどに。
次の日から何事もなかったように過ごしていらっしゃったけれど、あの辺りからだと思う」
桂花の言葉を聞いて、一刀は目頭を強く指で押さえた。
__そうか、あの頃か。
1つ大きな溜め息をつくと、すくっと立ち上がる。
「……わかった。
桂花は華琳があまり無茶をしないよう、これからも秋蘭と協力して様子を見ていてくれ。
どうしても駄目なら、悠と詠にも相談をしておいてくれ。
流琉にも頼んで食事の内容にも気をつけるようにと」
「あんたは?」
「俺はちょっと直接華琳と話をしてくる。
多分……それでなんかしら変化はあると思う」
一刀はクシャリと桂花の頭を撫でると、ジロリと桂花が睨んできた。
「調子に乗んじゃないわよ」
「こわ」
「………………頼んだわよ」
かすれるくらい小さな言葉だったが、部屋からでようとする一刀の背には確かに届いたのだった。
「ふぅ、これでこの事案は終わりね」
小さな息を吐いて、ギシッと音を立て背もたれに体を預けたのは華琳だ。
体がだるい、食欲もまるでない、そして眠くも無い、いや……眠るのが恐い。
外を見れば陽気な昼下がりだというのに、華琳の心には暗雲が立ち込めているかのようだった。
これではいけないと思うが、どうにもならない。
せめてやれることといえば、一心不乱に仕事をすることで気を紛らわせる事だけだと、自分に言い聞かせるように、また書簡へと向かおうとした。
じっとしていてはいけない、1人でいてもいけない、考えてはいけない。
脅迫概念に攻め立てられるように、華琳の心は苛められていた。
それでも屈しないのは、彼女が彼女たる所以であるのだが、それですら華琳にとっては不安に感じざるを得なかったのだ。
駄目だ、考えてはいけない、考えてもいい答えは絶対にでない。
これは何があろうが、触れてはならない疑念なのだ。
何度も何度も念じて、洗脳するかのように、自分に言い聞かせていた。
コン、コン
”のっく”なる音がする。
最近では彼以外でものっくをするようになったが、この感覚は間違いないだろう。
華琳は一度手に取った書簡を下ろし、また背もたれに寄りかかった。
手鏡を取り出し、自分の顔を確認する。
__よし。
「いいわよ、入りなさい」
「よっ、仕事の邪魔じゃない?」
気さくに振る舞いながら、一刀が部屋に入ってくる。
苦笑しながら椅子に座る一刀に、華琳も余裕をもった笑みで返した。
「丁度一段落ついたところよ、お茶でも飲もうかしらね」
「そうか、じゃあ俺が淹れるよ」
「あら、貴方にできるのかしら?」
ふふんと鼻で笑う華琳に、よしっと気合を入れた一刀が湯のみに手を伸ばした。
「これでもだな、ひそかに勉強していたんだ。
吃驚すんじゃねえぞ?」
自信満々にお茶を淹れる一刀が、そっと華琳へと湯飲みを手渡した。
先生からの採点を待つ生徒のような心境で、一刀が座ると、優雅に湯飲みを唇へと運んだ華琳が、ほうっと溜め息を漏らした。
よし、大丈夫だと確信した一刀であったが、華琳の唇が開くと同時に深く項垂れた。
「ぬるいは仕方がないとして、しっかりと風味が出ていない、蒸し時間が甘いわ」
「っぐ! まだ駄目か」
「…………でも、悪くはないわね」
落ち込む一刀をからかうように笑って眺める華琳に、一刀も項垂れながら笑っている。
こんな他愛ないやり取りだが、この2人には丁度いい距離感だった。
そろそろ本題に入るかと姿勢を正した一刀は、華琳の目を見た。
よく見ると、彼女が化粧をしている。
以前も薄い化粧くらいはしていたが、今はもっと濃いようだ。
恐らく、顔色を誤魔化す為にしているのだろう。
「……華琳、調子はどうだ?」
「調子? ええ、すこぶるいいわよ。
魏に入る商人もどんどん増えているし、経済の建て直しも見込めているわ。
治安の方はまだまだだけど、向上も見えて”そうじゃない”……っ……」
「そうじゃない、だろ? 華琳」
矢継ぎ早に言葉を続けようとした華琳を遮った。
話を逸らすことを観念したのか、華琳も一刀から視線を外して軽く俯いた。
「桂花から?」
「ああ、心配してたよ。
水臭いじゃないか、調子が悪いなら言ってくれても”水臭いのはお互い様じゃなかったかしら?”…………」
お返しとばかりに、今度は華琳が一刀の言葉を遮る。
お互いに牽制し合う形になった2人は、視線を合わせずに沈黙を守った。
どちらからともなく、溜め息のような深い息が漏れる。
それでも何も言えずに、静寂という名の幕が政務室に張られていた。
「……心配するな」
一刀がねっとりと重く感じる口を開く。
その言葉に、思わず華琳が視線を上げた。
彼女の瞳は、さきほどのように自信に満ちた活気ある瞳ではなく、虚ろで、いつ壊れてもおかしくないような、危うげな光を宿している。
対して一刀は、揺ぎ無い意思を固め、華琳を支えるほどの力強い光を宿していた。
それがお互いにとっての答えだと、言っているかのようだった。
言葉は交わすことはないが、だからこそ伝わるものがある。
「……左慈と干吉はどうしたの?」
投降していた左慈と干吉の処遇に関しては、全て一刀に一任していた。
曹操らしくないかもしれないが、それが華琳らしさだった。
「まんまと逃げられちまったよ。
なんだか散々だったな、あれは。
人のこと罵倒だけして、はいさよならだとさ」
「そう、そうなの」
ようやく華琳が微笑むと、一刀も笑った。
「まったく、大馬鹿しかいないわね」
「おっしゃるとおりだ、それで華琳、体調の方なんだけど」
「ええ、察しの通り、すこぶるよくないわ。
私自身、こんなに足元がグラつくような心境なんて生まれて初めてで、正直とまどっているの」
観念したのか、正直に話した華琳は、繕うのもやめて疲れた表情を露にした。
彼女の病人然とした表情をみて、一刀も心が締め付けられるように苦しくなる。
「睡眠薬を華佗に頼むよ、この件は俺だと力になってはいけないからな」
「わかっているわ」
一刀は立ち上がると、そっと華琳の後ろへと回った。
「ごめんな、ほんとごめん」
優しく華琳の細い首に腕を撒きつけ、大切に頭を抱えるようにして謝る。
これしか出来ない自分の無力さが心底恨めしかった。
その無念さを察する華琳は、甘えるように一刀の腕に頭を寄せる。
もうお互いにわかっている、わかってしまった。
「私はわかっている。
そして貴方がこうして気づいてくれた、それが今とても嬉しいのよ」
心情を吐露する華琳を、強く抱きしめた。
「私は、これからどうすればいい?」
一刀に応じるように抱き返した華琳が、問うた。
「華琳は、華琳の思う道を進んでくれ。
なにが今までどうであれ、それでも俺達が来た道だ。
胸を張って、誇ろうじゃないか……最後は皆で笑えれば、それでいいんだ」
「そうね、貴方の言うとおりだわ。
ふふっ、情け無いわね、この覇王を目指した華琳ともあろうものが……
振り返らず、立ち止まらず、ずっと皆で歩いてきた道ですものね。
夢の涯など見えないし、これからも見えないでいたい」
「そうだ、涯はない。
俺が絶対に涯なんかにさせないし、ぶっ壊してみせる。
だから信じてくれよ、な?」
「ええ、必ず……ありがとう一刀。
私達の前に、貴方が現れてくれて」
「よせよ、これでもまだ事態についてけてないんだ。
どうして俺なんだかねぇ?」
「私は貴方だから良かったのよ。
だからこそ全幅の信頼をおけるし、命だって賭けられる。
きっと今からでも笑えるのだと、そう思うわ。
……魏の……いいえ、この大陸の者達全てを、どうかよろしくお願いします」
華琳の生涯において、最も素直な頼みごとだ。
一刀は華琳から離れると、自信満々に胸を片腕で数度叩く。
「任されましょう」
握った拳を突き出し、華琳もそれに応じた。
固く握られた拳で胸を叩き、お互いの拳をぶつける。
ゴン、と小さく重い音を立てた。
「……よし! じゃあちょっと気分転換でもしようか?」
「ええそうね、それがいいわ。
なんだか肩が凝ってしまったもの、桂花達にも心配をかけさせているみたいだし、皆で休むのも悪くないわ」
「お? いいノリだね」
「っていうわけだから、準備の方は頼んだわよ、桂花」
ガタッという気配とともに、扉の外で物音が鳴った。
2人は苦笑して扉を開けると、桂花が慌てて立ち上がるところだった。
「今日はもう仕事を打ち切るわ、城の者達にもそう伝えて頂戴。
何も祝う名目がないけれど、何も名目が無いからいいの。
皆でささやかな酒宴でもしましょう」
「は、はい! わかりました!」
恥ずかしそうに頬を赤くした桂花だが、華琳が自然な笑みを浮かべるのを見て、喜んで返事をした。
そのままトコトコという表現がぴったりな足取りで駆けて行った。
本当にささやかな酒宴であった。
城内の庭で、各々が席に座り、つまみになるようなものを持ち寄せて舌鼓を打つ。
互いの小さな杯にお酌をしあい、他愛のない話をしては盛り上がって、夜空へと吸い込まれていった。
その席で華琳は、自分は最近不眠症でひどく体調を崩していることを告白した。
皆は黙って華琳の言葉を聞いていたのだが、予想よりはるかに動揺は少なかった。
皆もどことなく感づいていたのかもしれない。
話しが終わり、王たる自分が情けないことではあるが、と付け加える華琳であったが、誰もがそんな事を思わなかった。
華琳の負担を減らそうと、ところどころで自然と話しあいがでる中で、一刀は1人離れて、まだ口をつけていない杯を片手に、木に寄りかかっていた。
皆の和からそっと離れ、この光景を眩しく思いながら、鋭い視線で微笑んでいる。
華琳を中心にして広がる人の和を望み、静かに佇んでいた。
「なんであんた、こんなところで1人ニヤついてんのよ……気持ち悪い」
その指摘に思わず口元を引き締めて、後ろにいる人に気を配る。
すると桂花が、反対側から木に寄りかかるようにしていた。
「…………ありがと、本当に」
今日はずいぶんと、彼女達の珍しい一面が見えるものだと一刀は思った。
「俺は大したことしてないさ、華琳のことをよくみている桂花達のおかげだろう。
情けない話だが、俺は自分が手一杯で気がつけなかった」
「それでも、私達では華琳様をああすることは出来なかったわ」
一刀が再び視線を上げると、そこには華琳が笑いながら酒宴の真ん中にいる。
「本当に、数年前はこうなるなんて思わなかった。
あの眩しい笑顔が貴方のおかげなのだというなら、私は感謝をしなくちゃいけないのよ」
「おいおい、今日はどうしたんだ? 桂花らしくも……っ」
背後の気配が動き、ゆっくりと木をまわってきた。
いつもの桂花とは違う雰囲気に呑まれてしまう。
「座って」
「え?」
「座りなさい」
あくまで上目線だが、いつもの勢いがない。
しおらしく、ぶるぶると少し震えて俯く桂花は、一刀の横で服の裾を握りながら立っている。
桂花に言われた一刀は、大人しく木に背を預けるようにして座った。
地面に腰を落とし、視点の高さが逆転したので、一刀が覗きこむように桂花を見上げると、バッと隠すように顔を背けられた。
しかし一瞬早く、一刀が桂花の表情を捉えており、確かに彼女の頬が真赤だった。
黙った桂花はそのまま一刀の前まで移動すると、くるっと反転し背中をみせたまま、グイグイと足を押し付けてきた。
「え? え?」
よくわからずに戸惑うと、桂花がイラだった口調で短く言った。
「足、開きなさい」
恐る恐る一刀は足から力を抜いて開くと、その間に小さな体をおさめるように、桂花がちょこんと座った。
そして軽い背中を預けるように、一刀に寄りかかる。
桂花の猫耳フードが、一刀の顎下にすっぽりとおさまり、優しい金木犀の香りが、ふんわりとした髪からのぼった。
「今日だけだからね」
誰に対しての言い訳なのかわからないが、桂花はそういうと、一刀の腕をとって自分を抱きしめるように回させた。
あまりの事で面食らう一刀だったが、腕を掴む桂花の手も震えているので、妙に落ち着けた。
「……私ね」
「ん?」
「いいから、黙って聞いてなさいよ。
……私ね、ずっと羨ましかったの」
「羨ましかった?」
「そう、羨ましかった。
お酒が入るとね、春蘭がたまにだけど言ってたのよ、昔の華琳様の笑顔と今の華琳様の笑顔は違う、と遠い目をしながら。
幼少の頃の華琳様は純粋で、可愛らしく笑うお方だったけど、今は確固たる意思をもつ美しさと厳しさをもつ笑いなんだと。
私は今のお美しい華琳様の笑うお姿は知っているけれど、昔の華琳様のことはわからなかった。
それが、どうしようもなく悔しかったの……知っているのは、もう春蘭と秋蘭、麗羽くらいだけだものね」
悔しさをあらわすように、一刀の腕を掴んだ桂花の手が握られた。
「でも貴方達がきてから、華琳様の笑った顔の印象が大分和らいでいるの。
少しずつ、少しずつあんたに影響されたのかもね。
きっと今のあのお姿の中に、昔の華琳様もいるのよ」
桂花の独白を、一刀は静かに聞いていた。
「華琳様の笑顔ならば、私はどれでも大好きだし、尊敬しているけれど……でも何かを私以外の誰かに独占されるのは嫌だわ」
「なかなかどうして、独占欲が強い」
「そうよ、華琳様のためならば、私の全てを賭けるのと同時に、必要とされたいの。
それが荀文若の生き様なのよ」
「桂花らしいと思うよ」
「でもね、ほんの、ほんのちょっとだけど……」
言葉を区切った。
桂花の早まる鼓動と一刀の動揺する鼓動が、お互いへと伝えあう。
「ほんの少し、あんたにも私の気持ちを分けてあげる。
……でも、誤解したら殺すわよ?」
「どっちなんだ?」
「うっさいわね、男では一番にしてやるっつってるのよ。
光栄に、いい?
至上最高の栄誉に思いなさい、一生の恩に着なさいよね」
「ははっ、了解。
恐悦至極でございます」
「ふん、ちゃんと身の程を弁えているようね。
それじゃあ……ちょっとの間だけ」
ぎゅっと一刀の腕をつかみ、強く抱き寄せてくる。
「このままでいてあげるわ」
そういわれたので、一刀は桂花の頭にそっと顎を乗せた。
小柄な体は一刀にすっぽりと抱きかかえられ、体全体を包みこむ温かい安心感がじんわりと広がる。
自分でも気づかず、桂花はほうっと安堵の息を吐いた。
男嫌いで、父親でさえ毛嫌いしていた彼女だが、父性とはこのような頼もしさなのではないかと初めて感じていた。
まだ断然男嫌いだし、華琳様至上主義だし、一刀と恋人同士というわけでもない。
他の女性みたいに積極的には到底なれないし、やはり明日にでも廊下ではち合えば、口汚く彼を罵ってしまうに違いない。
機会があれば華琳様から少しでも遠ざけたいし、落とし穴に突き落として見下ろしたい。
だがそれでも、こうまで自分から気にかかるという事は……やはりそういう事なのかもしれない。
わずか一歩ずつでも近づけるなら、近づきたいと思えるのが、きっと大切な一歩だと思った。
一刀も何も言わずに、そっと寄り添っているのだから、満更でもないのだろう。
そんなものは当たり前だという高潔な自負。
一方で、彼は気をつかっているだけで、実は私を嫌がっているのではないかと揺らぐ不安。
桂花の中で2つの想いが交錯していた。
黙って互いの体温を感じている2人だったが、当然、いつまでもそのままでいれるはずがない。
カシャ
また嫌~な、乾いた音が響いた。
すでになんの音だか理解している一刀は知らんぷりをしていたが、桂花が腕の中で動揺していた。
「ちょ、ちょっと!? 真桜! 貴方!」
ジタバタと慌てて反射的に腕の中から這い出ようとする桂花。
今日くらいは抱きしめたって罰は当たらないだろうと、一刀は離さない。
「”すきゃんだる”や、これは”特大すきゃんだる”や! しっかりとすっぱぬかせて頂きましたでぇ?」
うっしっしと悪く笑い、真桜が皆へと駆けだしていく後ろ姿。
「あ! 桂花ちゃんと兄ちゃんが、いちゃいちゃしてる!」
そして真桜が人の和へ辿りつくよりも早く、季衣の声も上がった。
これはいよいよ見られては堪らないと、一所懸命に抜け出そうとする桂花だが、魏軍の北郷一刀といえば、技を極めた男の名だ。
綺麗に極まった抱きしめは、彼女に痛みを与えはしない。
しかし桂花の抵抗する力は分散され逃がされてしまい、到底腕の中から逃れられない。
「ちょ?! こら離して! 強姦される~!」
「おいおい、それはつれないんじゃないか?」
「やっぱりあんたは敵よ! 敵しかありえないわ! 穢れるでしょう!」
「さっきは自分から望んだじゃない。
それとも魏軍の軍師さんは、自分の発言に責任をもたないのか?」
「何よ! それは?!」
「”このままでいてあげる”って言ったろ?」
「~~っ! その前に”ちょっとの間だけ”っつったでしょ! は~な~せ~!」
「おお、おお、すげー皆に見られてら」
「はっ?! いや~~! 違うんです華琳様! これは違うんです!」
「あら、何がどう違うのかしら? ずいぶんと仲がいいのねぇ」
クスクスと微笑む華琳は綺麗で凛として、そして優しさと穏やかさを併せもっていた。
__ああ、なんてお美しいの! あの笑顔を見れる私はなんて幸せ……その理由がこんなんじゃなければ!!!
内心で幸福感と羞恥心で振り子のように揺れまくる桂花が、突如体が浮き上がる感覚に襲われた。
わけがわからない。
背中とひざ裏に体重がかかり、視線がはるか夜空を向く。
「おお~~~! 隊長やりおるなぁ!」
「ひゅ~ひゅ~なの~~!!!」
沙和と真桜が囃し立て、他の者達も何故か再度の乾杯をしている。
状況から1人取り残されている桂花だが、目の前をみると一刀の顔があった。
「え? あ? あああ?」
なんとも間抜けな声が漏れ、桂花の体温がみるみると上がっていく。
__一刀に、お姫様だっこを……
もう精神の限界だった。
騒ぎ立てていた桂花の威勢が目に見えるほど収縮し、そのまま一刀が歩き出す。
揺れが伝わらないようにと、気をつけてくれているのがわかる。
そのまま一刀は微笑みながら杯に口をつけている華琳の隣まで歩くと、そっと桂花を降ろした。
「”私”の桂花よ?
よもや忘れてはいないでしょうね」
皮肉気に笑う華琳に対し、一刀も応じた。
「ええ、もちろんですとも。
ですからこのように、彼女にとって一番相応しい席に、丁重にご案内させて頂いた次第でありまして」
「わかっているならよろしい」
とうの桂花はいつもの勢いをあっという間に取り戻して、華琳に縋りつきながら、違うんです、違うんですと言い訳を連呼している。
「わ~っはははははは! 桂花が! あの桂花がついにか!!!」
どこぞの脳筋が、底が抜けたみたいに馬鹿笑いをしている。
それにつられて皆も笑っていた。
ささやかな酒宴であったが、誰もが盛大に笑っていたのだった。
「ふう、やっぱりお酒はどうにも弱い。
体質に合わないのかな」
酒宴が終わり、一刀が酒を抜くために夜の庭を散歩していた。
天に煌く月明りが足元までもを照らし、どこまでも憎らしい。
ザッ
「…………貂蝉か」
「あったりーん、流石は愛しのご主人様ん、やっぱり私達は愛で結ばれ……」
「そんなもんはねえ。
それより?」
「蜀と呉が動き出したわん」
「……そうか。
これで1つの懸念が解消したな。
この変化が、そのまま法則にまで成ってくれるといいんだけど」
「ええ。
蜀の劉備さん達は益州を目指し始めたわん。
呉はとりあえずこちら側への足がかりとして、劉繇さんを攻め落とすみたいねん。
廬江を超えて寿春を目指しているわん、その後もしかしたら荊州の劉表さんまでもを目指すかもねん」
「そこまでいけば、大陸が5つに割れる、か。
でもそれはあくまで、国という単位をただ数字化した場合だな。
魏だけが各国の郡を抜いた上に、さらに3回りくらい大きい。
だから他の地方を全て巻き込まないと……」
「全部をねん……大陸中を……」
隠れて姿を現さない貂蝉だが、声が沈んでいるのがわかる。
「臆するなよ貂蝉。
俺達は大陸中の全てに火をつけなくちゃいけない、火消しは仲間達が絶対にしてくれるさ」
「そうはいうけどねん、賭けの要素が大きすぎるわよん。
行き当たりばったりなんてもんじゃないわ」
「今ある手の内じゃあ、これ以上の勝算がつかない、だから……これで勝負にでるしかないんだよ」
しばし、お互いに沈黙が流れた。
一刀は天に燦然と輝く月を見上げた。
はっきりと、彼の視線には怒りと憎しみが込められていた。
「ご主人様ん、そんなにひどい顔なんてしたら駄目よん。
彼女達が見たら悲しんじゃうわん」
「……すまない」
「ふぅ、それじゃあ引き続き連中の動向を探るのを続けるわん。
華佗ちゃんや彼女にもこのまま続けるように”あ”……どうしたのん?」
「睡眠薬」
「睡眠薬ん? 何に使うのん?」
「華琳が不眠症だ、袁紹袁術戦から」
「……そう、なのん」
「だからいったろ?
俺の友達は頼りになるってさ」
「ご主人様には敵わないわねん」
「気を抜かないようにと、伝えておいてくれ」
返事もなく、貂蝉の気配がかき消えた。
夜の中庭に1人残った一刀は、再び視線が月へと向いていた。
彼の視線は冷たくて鋭く、日本刀のような妖しい斬れ味があった。
しばらくして視線に篭った力を抜いた一刀は、肺にある空気を、大きく、深く、全てを吐きだした。
「……くそったれ」
すっかり酔いもさめた一刀は、そのまま中庭を後にした。
どうもamagasaです。
なにはともあれお久しぶりです。
生きてた生きてた。
いつも多大な応援ありがとうございます!
前回の拠点から、まぁずいぶんと時間が空きましたね。
その間も応援メッセージ、コメントを頂けておりまして、皆さん本当に有難うございました。
続きを期待しているとのお言葉、もう嬉しいったらありません、感激ですよ。
今回の拠点は、まぁ中甘でしょうか?
文量には差がありますが、ご了承ください。
アンケートダントツ1位に君臨した劉協、同着2位の悠さんタッグの拠点。
そして素直になれなさすぎる桂花の拠点でお送りしました。
いかがでしたでしょうか?
感想、コメント、応援メール、ご支援、全てお待ちしております!(批判でもOKです!)
作品や文章構成に対して、こうしたほうがいい、ああいうのはどうか? などの御意見も、お手数ですが送って頂ければとてもありがたいです、よろしくお願いします!(厳しくして頂いて結構です!)
まだまだ力不足で未熟な私では御座いますが、一生懸命改善出来るように努力しますので、是非によろしくお願いします!!!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「サンタさんは誰だ!」
メリークリマース!
この拠点は、いい子にしていた恋姫ファン、中でも季流√を応援してくれる皆に、サンタさんからの贈り物だよ!
12時丁度に投降しようかと、ちょっと思っちまったぜい!
なんつって、ごめんなさい、ごめんなさい。
調子こきました、ほんとネタなんで皆様怒らないで下さい、すいません。
でも皆さん、一人身だってハッピーでいきましょう、聖夜ですから!
生きてました。
俺は生きていました。
いやぁ、あまりに間が開きすぎて申し訳ないという気持ちを飛び越え、仕切り直しかと思ってしまうくらい。
とても反省しています。
ここで進捗状況をば一つ。
まーったりペースで進んでいる小生の書きペースですが、実は呉編は書き終わってます。(字数が多いので、4話分に纏め直す必要がありますが)
第三部も四分の一くらいは出来ています。
拠点よりも、そっちのが書いてる量が多かったかな。
更新できるよう拠点も頑張ります、うっす。
「アンケート第1位は、ダントツで劉協、マジでダントツ」
もっかい皆様に聞かせて頂きます。
何故に?
これはアンケートを集計しているときに、何度も思いました。
接戦ではなく、1位が10票、2位が7票という3票差があります。
対象が29人(閃華覗く)という数が多いこの状況の中で、3票差がついている順位はここだけなんですよね。
しかも1位から同着3位までに8人いて、内訳がこうです。
1位10票 劉協こと協
2位7票 華琳、司馬徽こと氷
3位6票 流琉、凪、風、張郃こと悠、徐晃こと菖蒲
このようになっております。
ベスト3にオリキャラがかなり入っている(ってかほとんど)というすげー嬉しい気持ちと、季衣がいないのぅ、なかつきほづみさんの恋姫総選挙でも季衣は25位と惨敗だったし、私の政見放送は届かなかったか……とちょっと悔しくもあるアンケートでした。
ご協力頂いた、30名以上の皆様方。
誠にありがとうございました!!!
これからも応援して頂けると有難いです。
「劉協」
彼女は幼女、ですので一刀のことを恋人というよりも、家族として幸せになっていもらいたいと思いました。
イチャイチャではなくてスイマセン。
でも、自分的にはこれでよかったと思ってます。
アンケート優勝者にしてはちと地味だったかもしれませんが……
こんな、まるで璃々ちゃんのような幼女が魏軍にいたっていいじゃない?
魏にだって、悠さんのようなボインな姐さんキャラが居たっていいじゃない?(郁さん談)
と思っている今日この頃なわけでして。
途中にあった回想シーンは、第10話”華の洛陽”第11話の”ゆびきり”、洛陽から脱出する時の第20話”地下で儚む想い達”第21話”その者の名は”辺りを見返して頂ければ、劉協がどのような心境であったかわかっていただけるかと。(まぁ、興味がなければ別にいいです)
最後の「ちょっと来てくれぬかの?」の続きの場面は第11話です、この拠点が一番わかりやすくなるのも多分11話となるでしょう。
彼女はとても頭がよく、ちゃんと皇帝のように振舞うことも出来ますよ、でもやっぱり年相応の子供の方が自然だと思う、よって元気一杯に育って欲しい。
美羽とは年齢が大分離れてますよ、これは当然です。
ただ背丈も精神年齢も同じくらいなだけなのです。
美羽はちゃんと18歳を超えています……そうだろう?
「悠さん」
郁さん、誠にありがとうございます。
はい、もう一度ページ右上に表示されている素晴らしい悠さんの絵をご覧ください。
すごいなぁって何度みても思います。
お世話になりっぱなしです、ほんと。
実際悠さんがいなければ、季流√できてないんじゃねって思ってます。
ちょっとした脆さが垣間見れた悠さんですが、どうでしたかね?
こういう秋蘭や霞のような、姉御肌な方が大好きなんです。
なのに無邪気な季衣のような子も大好きって、どんな広さのストライクゾーンがあんでしょうか。
いっそデッドボールに当たって、小生なんて文字通り死んでしまえばいいのに。
「桂花」
よくよく考えたら、華琳様の拠点って第二部の最後に入れたのがあったんだよなぁって思いました。
ふむ、じゃあどうしようかと思って、桂花の話に絡み合わせることで、誤魔化しをいれてみました。(別話に華琳様を考えるかもしれないですけど)
まぁ桂花さんって、なにをどうしても華琳様が関わりますからね。
ですので、こんな形はいかがでしたでしょうか。
正直自分は、弱った中でもあがく桂花の直向な姿が好きです。
彼女らしくない、かな? 惨敗? ……惜敗くらいにしてもよいかの?
お楽しみ頂けていれば幸いです。
「さて、どうすっかいな」
呉編は拠点シリーズの最後の方にいれる予定。
第三部もまだ四分の一くらいしかできていない。
拠点はあと2つくらいしか貯めがない。
ないない尽くしですな、はっはっはぁ。 こんちくしょうめい。
恋姫無双も、もうかなりの年月が経ちましたねぇ。
季流√もいつの間にか一年を軽く超えているし、早よせな。
とりあえず私は生きてます。
がんばりまっせ。
恋姫ファンをこれからも増やすためにな!
他の作者様も、可能な限り頑張ってください、お願いしまう。
更新を久しくしていなかった自分がいうのもなんですが、減ったなぁと感じるのはちと寂しいですから。
では、また。
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お久しぶりです。
他にいいようがないのが、困りましたね。
劉協と悠、桂花の拠点となっております。