湖上にはゆるく朝靄がかかり、依然衰えない残暑の日差しがわずかに和らぐ。
静かな一日の始まり。それはわたしにとって大切なひと時だった。
「おーい、だいちゃーん!」
静寂を切り裂くようにして飛び込んできたのはチルノちゃん。素敵な朝よりもっと大切なわたしの親友。
頬を上気させ、大きな瞳がきらきらと輝く。何か面白いものを見つけたに違いなかった。
チルノちゃんは荒い呼吸を整えてからわたしに向き合うと、すぐにまた口を開いた。
「あたい、グリモワールをしゅっぱんする!」
高々と宣言したチルノちゃんには申しわけないけれど、言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
「しゅっぱん……本を出すこと? グリモワールって魔法使いさんが持ってる本だっけ?」
出版とグリモワール――どちらの言葉もあまりにチルノちゃんと繋がりがなさすぎて困惑してしまう。
「そうだよ。魔理沙が出版したんだって。面白そうだからあたいもやるんだー」
出版ってそんなに簡単にできるのだろうか。そもそも妖精であるチルノちゃんはグリモワールを持っていないはずだし。
「どうやってやるの?」
わたしが尋ねるとチルノちゃんは少し悩んでから、
「わかんない。教えてだいちゃん」
そう言って、にかっと笑った。
* * *
チルノちゃんの役に立ちたかったけど、わたしはグリモワールのことをほとんど知らなかった。
けれども、それが理由でチルノちゃんの頼みを断ったりなんてしない。
わたしはまずグリモワールの理解を深めるために紅魔館の大図書館へ向かった。
大図書館の主であるパチュリーさんは魔法使いだし、そもそもチルノちゃんが読んだという魔理沙さんの本は、パチュリーさんが所有しているものだったらしい。
大図書館の奥で、パチュリーさんは眉間に皺をよせながら本にかじりついていた。
時折、ページをめくる手が止まり考え込む様子を見せる。実に話しかけづらい雰囲気だ。
それでも勇気を出して尋ねた。
「すいません、パチュリーさん。魔理沙さんが書いたという本を貸していただけませんか?」
反応がない。聞こえていないのだろうかと不安になった時、パチュリーさんは目の前の机に手を伸ばした。
本が無造作に積まれた机の上をまさぐる。その間も視線は本に落としたままだ。
そして、一冊の本を掴むと私に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
わたしは本を受け取った。声を聞きつけたのか、こあちゃんがやってきた。
「ごめんね。パチュリー様は今推理小説に夢中なの」
こあちゃんは顔の前で手を合わせた。
「いいの。読みたい本は貸してもらえたから」
「それならよかった。これからその本を読むんでしょう。ここで読んでいったら? 紅茶を入れるよ」
「ありがとう。こあちゃん」
わたしはこあちゃんの好意に甘えることにした。
図書館の一角に据えられた机について『グリモワール・オブ・マリサ』を開く。
序文を読みおえたところで、こあちゃんがトレーに白いポットとカップを載せてやってきた。
慣れた手つきで紅茶をカップに注ぐ。
「でも、なんで?」
カップを私に差し出しながらこあちゃんが言った。
「それ、だいちゃんが読んでどうするの?」
こあちゃんの視線は『グリモワール・オブ・マリサ』に向けられていた。
「えーとね。チルノちゃんがね。グリモワールを書きたいって言うからね。勉強しようと思って……」
「やっぱり――また、あの子に振り回されているのね」
こあちゃんの表情が険しくなった。
「振り回されてるなんて……。そんなんじゃないよ」
「いっつもチルノのわがままの犠牲になってるように見えるけど。今だって、本来だったらチルノ本人が読みに来るべきじゃないの」
「それは……」
わたしの反論を遮って、こあちゃんが続ける。
「まぁ、いいけど。わたしには関係ないしね」
こあちゃんは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、そっぽを向いてどこかへ行ってしまった。
後に残されたティーカップに口を付けると、甘い紅茶の香りがわたしを包んだ。こあちゃんの淹れる紅茶はいつだって優しい。
そんなこあちゃんの言った「犠牲」という言葉が酷く大げさに聞こえて頭に残った。
* * *
魔理沙さんが書いた本――『グリモワール・オブ・マリサ』をあとがきまでしっかり読んだわたしは湖に戻ってきた。
チルノちゃんが湖の岸辺で手を振っている。
「おーい、だいちゃーん! こっちー」
「チルノちゃーん」
わたしは嬉しくて速度を上げた。オーバースピードで突っ込んでいったわたしの手をチルノちゃんが掴む。
チルノちゃんを支点にわたしはくるくる回りにながら着地を決めた。
「「いえー」」
二人でハイタッチ。なんだかおかしくて笑いあった。
「じゃーん」と言いながらチルノちゃんが足元を指差す。紙の束と色鉛筆が用意されていた。
「けーねに借りてきたんだー」
「わたしもグリモワールについて調べてきたよ」
「バッチリじゃん」
執筆の準備は整った。私たちは手頃な岩場に腰を落ち着ける。
「弾幕の絵を描いて、その横に感想や解説を書くの」
わたしは『グリモワール・オブ・マリサ』の内容を手短に説明する。
「楽勝ね」
早速取り掛かることにした。まずはチルノちゃん自身のスペルについて書くことにする。
①氷符「アイシクルフォール」
チルノちゃんが四角い枠の中に色鉛筆で絵を描いていく。
カラフルな高密度の弾幕に「こんなのだったっけ?」と疑問を感じた。
けれども、使い手本人が書いているのだ。わたしの思い過ごしに違いなかった。
チルノちゃんの力作が仕上がったところで、わたしも鉛筆を手にした。続いて、スペルカードへのコメントを書く作業に移る。
<チルノのコメント>
『きょうりょくな こおりが すごい いきおいで とんでいく。あたると ちめいしょー。』
<大妖精のコメント>
『使い手の天使のように愛らしい容姿からは想像もできないような、鋭く尖った氷塊が敵を襲う。
同時に空気中に広がる無数の氷片が光を反射し、彼女の無垢な美しさをいっそう引き立てる。
それはさながら、スポットライトを浴びて舞うダンサーのよう。思わず見とれてしまい被弾する者も多いと聞く』
②雪符「ダイアモンド・ブリザード」
チルノちゃんが枠からはみ出さんばかりの極太レーザーを描いている。……さすがに、これは違うんじゃないかな。
いや、本気を出した時はこうなるのかも。
<チルノのコメント>
『すごく さむくて きけん。たすかりたくば チルノさまは さいきょーでしたと あやまれ』
<大妖精のコメント>
『荒れ狂う氷弾の嵐にもはや逃げ場はない。
どんな怪物の仕業かと使い手の姿を見れば、透き通るような白い肌と、ほっそりとした手足の少女。
彼女が吹雪の中を飛び跳ねる――その幻想的な姿に、攻撃された者は最期に見た光景がこれで良かったと感謝すらするという』
「だいちゃん。そろそろ別の誰かのスペルカードがいい」
「そうねぇ」
わたしはまだまだチルノちゃんのスペルカードについて書きたかった。
けれども、チルノちゃんの言うとおり、一人の弾幕だけでは本の目的からずれてしまうのも事実だ。
「でも、スペルカードを見せてくれる人なんているかなぁ」
スペルカードは戦いで相手を倒すために使うものだと聞いている。
『グリモワール・オブ・マリサ』も、異変を解決するための戦いの中で見たスペルカードを記録したものだった。
理由もなく披露してくれるような人は少ないかもしれない。
「あ、あいつなら見せてくれるかも」
チルノちゃんは突然飛び上がると、そのまま森の中へと入っていく。
わたしは慌てて紙と色鉛筆をかき集め、チルノちゃんの後を追いかけた。
* * *
チルノちゃんは森の奥深くへと向かっているようだった。
いきいきと茂る木々のおかげでひんやりと涼しかったが、その代わり空気は重たく湿っぽかった。
辺りを見回して何かを探している様子のチルノちゃん。目的のものを見つけたらしく、木々の隙間に飛び込んで行った。
わたしも後に続く。
「おーい、起きろー!」
草むらの中に女の子が倒れていた。
ぐったりと衰弱しているようで少し心配になったけど、チルノちゃんが揺するとゆっくり目蓋を上げた。
「なによぉ」
心底鬱陶しそうな声を上げながら起き上がったところで、私は彼女が誰なのか思い当たる。
レティ・ホワイトロックさん――寒気を操る冬の妖怪である。
「この忌々しい季節をあと少しで乗り越えられるんだから。静かにしててよ」
レティさんは機嫌が悪そうだった。冬の妖怪にとって今年の残暑は耐えがたいものに違いなかった。
「レティ、見せてよ~、スペルカード」
それでも、チルノちゃんは容赦なくレティさんに話しかける。能力が似ている者同士の気安さなのかもしれない。
「なんでよ。あなたと戦う理由なんて無いはずだけど」
「本を書くためにいるんだって!」
「はぁ、本?」
「本だよ、本。知らないの? 馬鹿なの?」
何だか話がややこしくなりそうだったので、わたしが間に入ってレティさんに説明する。
わたしの話を聞き終わるとレティさんは両手を上げてぐぐっと伸びをした。
「協力してもメリットがないわねぇ。……でもまぁ、この子がうるさいからひとつだけ見せてあげるわ」
「ありがとうございます!」
レティさんは気だるそうに構える。
「言っておくけど今の体調だとイージーが限界よ」
わたしたちもスペルカードをしっかり観察するために身を乗り出した。
* * *
スペルカードを見せてもらったわたしたちは、さっそく執筆に取り掛かった。
「どう? 書き終わった?」
レティさんが落ち着かない様子で辺りをうろついている。
「まぁ、こんな感じかな」
「わたしも書けました」
「どれどれ、見せてよ」
③冬符「フラワーウィザラウェイ -Easy-」
<チルノのコメント>
『あたいのぱくり』
<大妖精のコメント>
『何か白いのがたくさん出てました』
「ちょ、ちょっと! 適当すぎるでしょ、これは。前の二つとの温度差が激しすぎない?」
レティさんが「アイシクルフォール」と「ダイアモンドブリザード」の原稿を叩きながら喚く。
レティさんの言うことはもっともなんだけど……。わたしとチルノちゃんは顔を見合わせ、再びレティさんに向き直った。
「ごめんね。レティの弾幕、あたいと被ってるんだもん」
「ごめんなさい。わたしもチルノちゃんにしか興味がなくて……」
わたしは頭を下げた。
「そりゃ、雪と氷で構成されているのは同じだから雰囲気は似てるかもしれないけど、私のスペルカードはオリジナルよ。そもそも何で私があなたからパクらなきゃいけないのよ!」
息を荒げて捲し立てるレティさん。
「それと、あなたもしおらしい態度で凄いこと言うわね」
レティさんに指されて、わたしはもう一度頭を下げる。
「あーもう、どっと疲れたわ。寝る」
追い払うように手を振ってから、レティさんは再び森の奥へと潜っていった。何だか本当に申しわけがない。
「レティ、またなー」
チルノちゃんが大声を上げて見送った。
* * *
湖の畔まで戻ってきたわたしとチルノちゃんは、ぼんやりと白い紙の束を眺めていた。
書けたのはわずか三ページ。本にするにはもちろん足りない。
そして、わたしたちにはもうスペルカードを見せてくれるような知り合いはいなかった。
「どうしよう。だいちゃん」
「うーん、どうしよう」
「こうなったら、誰かをけしかけてスペルカードを使わせよっかな」
「やめた方がいいよ。そんな新聞記者みたいなこと。危ないよ」
無茶を言いだすチルノちゃんを慌てて制止する。
「ごめんね。わたしにスペルカードが使えたら良かったのにね」
わたしはため息混じりに言う。
「だいちゃんのせいじゃないって」
チルノちゃんが頭を撫でてくれる。ひんやりとして気持ちがよかった。
何か良い方法はないのか。わたしは額に手を当てて考え込む。チルノちゃんは黙って待っててくれていた。
そして、わたしの頭にひらめくものがあった。
「今までのじゃなくて、これからのスペルカードを書いたらどうかな。新しいスペルカードを想像して書くの。それならカッコいいのも可愛いのも、思いつくまま好きなだけ書けるよ」
チルノちゃんの表情が輝きが戻る。
「それいい! それやろうよ、だいちゃん!」
わたしたちは再び作業を再開した。
チルノちゃんがせっせと弾幕の絵を描いている。わたしは隣で色塗りを手伝いながら尋ねる。
「これの名前はどうする?」
「んーとねぇ、『マハブフダイン』かな」
「へぇー、良い名前だね。じゃあ、こっちは?」
「それは『ファイア・クラッシャー』だよ」
「え!?」
チルノちゃんは氷の妖精なのにいいのかな……。
ペースは順調で、気付くとすでに二十枚以上書き上げていた。
ふと何かを思いついた様子で、チルノちゃんが顔を上げる。
「そうだ。せっかくだからだいちゃんのスペルカードも作っちゃおうよ」
「わたしはいいよ。スペルカードなんて無理だし」
「そんなことない。だいちゃんならできるって!」
チルノちゃんはしきりに勧めてくれるけど、わたしには自信がなかった。
「じゃあさ。あたいとだいちゃんの合体スペルカードにしようよ。二人で攻撃するやつ」
「二人で? ……それならいいかな」
落ち着いている振りをしながら、本当は胸が高鳴っていた。
「ずっと前から考えてあるのが一つあるんだ」
チルノちゃん――わたしのスペルカードのことをそんなに真剣に考えててくれたんだ。
何だか今すぐにでも飛び回りたい気分だ。
「名前は『だいちゃんボンバー』って言うんだけど、」
わたしの名前を入れてくれているところに何だか愛情を感じる。
「だいちゃんが敵に向かって飛んで行って大爆発。相手は死ぬ!」
言いながら、ぐっと拳を握るチルノちゃん。
「ええっ、それって爆発した私はどうなるの?」
「さぁ?」
チルノちゃんは本気で分からないといった様子で首を傾げる。わたしが絶句していると、
「今度、一緒に練習しようね」
屈託のない笑顔でチルノちゃんが言った。
こうして、わたしたちはアイデアを出し合い、たくさんの架空のスペルカードを作り上げた。
いつの間にか、ページ数も十分な量になっていた。
製本はこあちゃんにお願いした。
「わたしは司書であって、本を作る仕事はしてないんだけど……」
こあちゃんはそう言っていたが、出来上がってきたものは紛れもなく立派な一冊の本で、わたしとチルノちゃんは手を取り合って喜んだ。
* * *
チルノちゃんはどこへ行くのにも『グリモワール・オブ・チルノ』と一緒だった。
そして、出会った人に誰彼構わず自分の書いた本を自慢した。
霊夢さんには呆れられ、魔理沙さんには軽くあしらわれ、ルーミアちゃんには「カッコいいのかー」と絶賛(?)された。
やがて幻想郷の住人に一通り見せおわり、チルノちゃん自身の興味も他のものへと移っていく。
「だいちゃんにあげる」
――『グリモワール・オブ・チルノ』はわたしのものとなった。
残念なことに、わたしは本を保管しておけるような場所を持っていなかったので、こあちゃんに頼んでこっそり図書館に置いてもらうことにした。
* * *
紙とインクのわずかな香りが鼻をくすぐる。ここにあるのは何百万もの人々が思いを託して書き綴った何百万もの本たち。
わたしは図書館を訪れていた。
「こんにちは。パチュリーさん」
「……」
館の主に挨拶したのだが返事はない。読んでいる本にすっかり入り込んでいるようで、こちらの声は聞こえていないのだ。
時折、文字を追うのをやめて視線を宙にさまよわせると、にや~と陶酔しきった笑みを浮かべる。ちょっと怖い。
「あー、また来てる」
こあちゃんが大量の本を抱えてやってきた。重ねられた本の山をパチュリーさんの机に載せる。
「ごめんね。パチュリー様は今恋愛小説に夢中なの」
「そ、そうなんだ。大変そうだね」
力仕事で疲れたのか、こあちゃんは自分で自分の肩を揉みながら、
「だいちゃん、またチルノのやつに振り回されてるんじゃないの?」
「そんなことないよ」
わたしは手を振って否定する。こあちゃんは探るような目つきで見つめてくる。
「ホントかなぁ。いい加減、あの子に尽くすのはやめときなさいよ」
こあちゃんがそう言った瞬間、すぐ近くで大きな音がした。
パチュリーさんが、机に積まれた本を倒してしまったらしい。それでも、パチュリーさんは全然気付いている様子がない。
「あーもう。何をやってるんですか!」
床に散乱した本を、こあちゃんが慌てて拾い集める。
そんなこあちゃんの様子を見て、わたしは手伝いもせずに笑ってしまった。
――こあちゃんも人のこと言えないよね。
図書館の奥。随分前から誰も触れていなさそうな本ばかりが並ぶ棚の最下段に『グリモワール・オブ・チルノ』は収められている。
すでに何度か訪れているので場所も覚えていた。
わたしはその魔法の本を取り出すと、わずかに積もった埃を払ってから開いた。
見たいのは「だいちゃんボンバー」の項目。大爆発する私のイラストに添えられた一文だ。
<チルノのコメント>
『だいちゃんがいてくれれば、いつもあたいはサイキョーだよ』
ちなみに未だ「だいちゃんボンバー」完成の目処は立っていない。
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「あたい、グリモワールをしゅっぱんする!」
魔理沙に影響されたチルノを大妖精は手伝うことにするが……。
ほのぼのコメディです。