No.141722

気まずい紅魔館

春野岬さん

紅魔館のちょっと気まずい一日。

2010-05-08 11:54:38 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1227   閲覧ユーザー数:1194

1:姉妹と童話

 

 レミリアは咲夜を連れて、まだ日の昇らぬうちに博麗神社の鳥居を潜った。

 そのまま霊夢の寝室へ直行し、ためらうことなく襖を開け放つ。

 

「私が来たわよ! 霊夢」

 

 レミリアの声に霊夢は目を覚ました。体を起こし、ぼんやりとした表情で辺りを見回す。

 

「なによぉ、まだ夜じゃない」

 

 そんな抗議を気にすることなく、

 

「受け取りなさい」

 

 レミリアは綺麗に包装された小箱を霊夢に差し出した。

 咲夜に手伝ってもらいながら、徹夜で作ったチョコレートだ。

 反射的に受け取ったものの、霊夢は状況を掴めていないように見える。

 それでも、そんなキョトンとした霊夢の表情に満足したレミリアは、咲夜に呼びかけた。

 

「帰るわよ」

「かしこまりました」

 

 滞在時間三分。レミリアたちは来た道を引き返す。夜空が白み始めていた。

 まだこれくらいなら何ともないが、咲夜が気を遣って日傘を広げた。

 

「宜しかったのですか?」

「何が?」

 

 質問を質問で返されて咲夜がうろたえる。

 

「あ、いや、お嬢様はチョコを渡したのですから、その返事は気にならないのかと……」

「霊夢が私を好きか嫌いかってことかしら?」

「まぁ、シンプルに言えばそういうことですね」

 

 レミリアは咲夜を見上げて笑いかける。

 

「いいのよ。霊夢は私のことを好きに決まってるわ。もし万が一好きじゃなかったとしても、これから好きにさせるだけだし」

「はぁ」

 

 咲夜は理解できないといった様子だ。

 

「それにしてもさっきの霊夢の顔、最高だったわね」

 

 ――バレンタインデーの朝のことだった。

 

 * * *

 

 窓から差し込む光がカーテンを透かしていた。屋外の日差しの強さが容易に想像できる。

 ――やはり夜明け前に出かけておいて良かった。私の判断は正解だったわね。

 本当は出来上がったチョコを見ていたら、早く霊夢に渡したくて堪えられなかっただけだ。

 

 日差しが強いのは困るが、暖かくなるのは素直に嬉しい。

 この陽気ならパラソルを差して、バルコニーでお茶会なんていうのも素敵かもしれない。

 レミリアは一度思いついた遊びは実行せずにはいられない性分なので、早くも咲夜に命じて準備をさせようかと考え始めていた。

 その時、部屋の外で足音が聞こえたかと思うと、遠慮がちなノックと共に扉が開いた。

 

「おねえさま」

 

 ひょっこりとフランドールが姿を見せた。

 扉の後ろから頭だけ出して不安げな表情でこちらを窺っている。

 

「フラン、どうしたの?」

 

 レミリアが尋ねると、フランドールはもじもじとしてすぐには答えなかった。

 やがて意を決したように口を開く。

 

「本を読んでほしいの」

 

 見るとフランドールは大きくて薄い絵本を抱えている。

 

「……そう」

 

 正直言って気が乗らなかった。レミリアはフランドールが苦手だった。

 運命を操る力を使って長年地下室に幽閉してきたことへの負い目があった。

 今さら、どのような顔をして彼女と接すれば良いのか分からない。

 

 フランドールは反抗的な態度をとることも多いが、ある意味でレミリアとしてはそちらの方が安心する。

 フランドールを閉じ込めたことを正当化できる上に、彼女の行動をたしなめ、時には力で押さえつけることで姉の威厳も保てるからだ。

 

 困ってしまうのは、今のように擦り寄ってくる猫のような態度の時のフランドールだ。

 レミリアは、姉が妹に優しくする「やり方」を知らなかった。

 フランドールのことを考えると途端に自信がなくなる自分がいた。認めたくはないが、それは怯えに近い。

 普段、味わうことのない感情にレミリアは耐えがたい不安を覚える。

 

「咲夜、来なさい」

 

 だから、咲夜に押しつけることにした。

 咲夜は紅魔館のどこにいてもレミリアの声を聞きつけ、瞬時に現れる完璧で瀟洒な従者だ。

 

「……あら、咲夜?」

 

 待ってみても、なぜか咲夜の現れる気配はなかった。フランドールの視線をじりじりと感じる。

 咲夜がいないのならパチュリーに――なんて言える雰囲気ではない。心の中でため息を吐いてから、覚悟を決めた。

 

「貸しなさい」

 

 レミリアは本を受け取るとベッドに腰かけた。フランドールが歪な羽をぱたぱたと動かしながらやってきて隣に座る。

 ――嬉しそうにしちゃって。

 レミリアは本を開いた。タイトルは『百万回生きた巫女(著:稗田阿求)』というらしい。

 

「あるところに百万回生きた巫女がいました……」

 

 読み始める。普段、声を出して本を読むことがないので少し気恥ずかしかった。

 

 不思議な話だった。

 

 主人公である巫女は、妖怪を退治する宿命を負っていた。

 やがて妖怪との戦いの中で命を落としてしまうが、別の場所、別の時代に生まれ変わり、再び死闘に身を投じる。

 そしてまた、死ねばどこか知らないところで生まれることになり、それが幾度となく繰り返される。

 

 フランドールは熱心に耳を傾けていた。その様子にレミリアは満足する。

 ――なるほど。姉らしい妹への接し方というのはこういうことなのかもしれない。

 読み聞かせにも慣れてきた。レミリアは感情を込めながら読み進める。

 

 巫女はまた生まれ変わり妖怪退治の殺伐とした日々を送る。

 ところが、ある時巫女は一匹の妖怪に出会い、戦いの中で愛情に近い思いを抱くことになる。

 やがて巫女と妖怪は戦うことをやめて、二人で暮らし始める。人間である巫女は、幸せな生活の中で歳をとり寿命を迎える。

 妖怪は巫女のために墓を立てる。巫女はもう生き返らなかった。

 

 話はそこで終わっていた。絵本の最後のページにぽたりと水の粒が落ちた。

 ――なによこれ。反則じゃない。

 子供の絵本と思って甘く見ていた。物語に感情移入し過ぎてしまったレミリアは涙が止まらなかった。

 本を読んで泣くなんて初めてだった。そして、まずいことに泣くところを一番見られたくない相手が隣にいる。

 

 何を思ったのかフランドールがレミリアの頭を撫で始めた。

 これでは、姉としての威厳などあったものではない。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。

 もう消えてしまいたかった。

 フランドールはスカートのポケットをまさぐり、おずおずと小さな包みを差し出した。

 

「お姉さま、本を読んでくれてありがとう」

 

 仄かに甘い香りがした。レミリアは気付く。「本を読んでほしい」のは口実だったのだ。

 それも気付けずに何を号泣しているんだろう。再び恥ずかしさが襲ってくる。

 そして、フランドールにチョコを用意していない自分が許せなかった。

 

「……ありがとう」

 

 レミリアは掠れた声を出すことしかできなかった。

 

2:穏やかな午後の難題

 

 こんなに心地の良い門柱は久しぶりだ。紅美鈴はいつものように門柱にもたれながら、そう思っていた。

 美鈴は背中から伝わってくる門柱の温度で、季節の変化を感じるのだ。門番ならではのささやかな特技である。

 風は相変わらず冷たいが、太陽の優しい光が寒さを和らげている。冬の気まぐれのような暖かい午後だった。

 

 こんな陽気の日には、白黒の魔法使いあたりが盗みにやってきそうだ。

 本当は警戒を強化するべきなのだろうが、せっかくの穏やかな時間をふいにしたくなくて美鈴は気にしないことにした。

 こんなに気持ちの良い日なのだ。油断くらいする。そんな都合の良い言い訳を考えて目を閉じた。

 

 目を覚ますと三時を回ったところだった。時計はないが日の位置で大体の時間はわかる。これも門番の特技のひとつだ。

 少し空腹だった。咲夜におやつを貰わなければならない。

 レミリアのために作った菓子の残りものを分けてもらうのが美鈴の日課なのだ。

 美鈴は門をガラ空きにして調理場へと向かった。

 

 調理場に入っていくと、椅子に座った咲夜の後ろ姿が見えた。

 机の上に両腕を重ね、頭を載せている。

 調理場は甘い香りに満ちていた。美鈴の期待は高まるばかりだ。

 

「咲夜さ……」

 

 咲夜の向かいに回りながら声をかけようとした美鈴は、そこで言葉を飲み込んだ。

 穏やかな表情で目を閉じている。

 

 咲夜は寝ていた。

 

 さっきまで美鈴がしていた「居眠り」というやつだ。

 ――こんなに気持ちの良い日なのだ。油断くらいする。

 しかし、同じ居眠りでも美鈴と咲夜では重みが違う。居眠りをしたのが美鈴で発見したのが咲夜であれば、

 

「何やってるのよ、このダメ門番!」

 

 叱責とナイフの弾幕。お決まりのパターンで話は終わりだ。

 しかし、これが逆ならどうなるか。

 

「咲夜さん見ちゃいましたよ。居眠りしてましたね。これでは私のことを注意できませんねぇ。むふふ」

 

 咲夜の弱みを握って立場を逆転できるかもしれない。

 だが、完璧で瀟洒なメイドである咲夜のプライドを傷つけることになるだろう。

 そんなことはしたくなかった。それに逆転した立場なんて居心地が悪すぎる。

 

 だから、美鈴は速やかにこの場を立ち去ろうと考えた。見なかったことするのだ。

 忍び足で調理場を出ようとした時、咲夜の背中に目がいった。

 いくら冬にしては暖かい日だといっても、寒いことに変わりはない。

 このままにしておくと咲夜は風邪を引くかもしれない。

 

 美鈴はリビングへ向かった。ソファに掛っていた毛布を持って引き返す。

 もう一度調理場に入ると、毛布を広げて咲夜に近づく。

 呼吸を止める。気を操って、気配を消す。そろりそろりと静かに毛布を掛ける。

 その甲斐あって咲夜は身じろぎ一つしなかった。

 

 任務完了、今度こそ立ち去ろう。しかし、そこで美鈴に妙な欲望が湧いてしまった。

 

 ――もう一度、咲夜さんの寝顔が見たい。

 

 自分でも何を求めているのかわからないまま、咲夜の正面に移動する。じっと咲夜の顔を眺める。

 幼い子供のような無防備な寝顔だった。白く滑らかな肌、長い睫毛、柔らかそうな唇。

 一言でいえば――可愛い!

 これは見ないと損だ。美鈴は自分の置かれている状況も忘れてうっとりと見つめる。

 だが、その熱い視線がいけなかったのか咲夜の目が開いた。

 ばっちり目が合った。

 

「あ、その、」

 

 美鈴が言い訳を探しているうちに、咲夜は状況を理解したらしい。

 

「……か、考え事をしてたの。何か用かしら?」

 

 冷静さを装っているものの動揺しているのが丸わかりだった。

 その様子を見て美鈴もうろたえてしまう。

 

「かっ、可愛いなと思って」

 

 変なことを口走ってしまった。それは咲夜のことを小馬鹿にしているように聞こえたのかもしれない。

 咲夜は耳まで真っ赤になった。

 

「なによっ」

 

 悔しそうな声を上げる。険しい顔を作っているが、先ほどの寝顔を見たばかりの美鈴には怖いと思えなかった。

 とりあえず謝っておこうと口を開きかけた時、目の前から咲夜の姿が消えた。

 椅子に毛布がばさりと落ちる。時を止めて逃げたらしい。

 

 ――あぁ、次会う時にどうやって声をかけよう。

 

 最早、おやつのことなどすっかり忘れていた美鈴だったが、机の上に残された小さな箱に目がいった。

 今まで目に入らなかったのは、咲夜が頭を載せていた両腕で作った輪の中にあったからだろう。

 箱に掛けられたリボンにカードが挟まっていた。何気なく見ると『美鈴へ』と書かれていた。

 先ほどから気になっていた甘い香りと結び付く。今さら気付いた。今日はバレンタインデーか。

 この箱の中身はおそらくチョコレート。そして、添えられたカードには美鈴の名前。

 つまり、咲夜は美鈴にチョコを贈るつもりだったことになる。

 

 ――咲夜さんが私にチョコを!?

 

 鼓動が速くなるのがわかった。感動と喜びと緊張が同時に襲ってくる。

 しかし、このチョコをどうするべきなのかわからなかった。

 勝手に持っていくのはまずい気がする。かといって、持っていかなかったら受け取りを拒否したと思われはしないだろうか。

 

 答えの出ない問題が多すぎて頭が沸騰してしまいそうな美鈴だった。

 

3:悪魔的な方法

 

 そろそろ帰ってくる頃かな。

 

 そう思っていたら案の定、大図書館の重たい扉が開く音がした。

 本来、小悪魔は主人を出迎えるべきであったが、今日はあえてやめておいた。

 パチュリーは緩慢な足取りで本棚の間を抜けると、定位置である革張りの椅子に体を沈めた。

 蔵書の整理をしているフリをしながら様子を窺っていた小悪魔は、パチュリーが長方形の包みを、机の脇に置いたのを見逃さなかった。

 

 ――あーらら、やっぱり渡せなかったか。

 

 箱の中身は知っている。

 昨晩、パチュリーが魔法を使ってチョコレートを精製しているところを見ていた。

 

 意気込んで出かけた結果がこれである。

 パチュリーが外出することは滅多になく、常人に比べて何倍もの大きな意味を持つことも忘れてはならない。

 魔理沙が不在で会えなかったか、それとも、勇気が出なくて渡せなかったのか。

 それくらいならまだ良いが、下手をするとアリスや霊夢あたりといちゃいちゃしているところに出くわした――なんてケースも考えられる。

 

 小悪魔は事前に約束を取り付けておくように勧めたのだが、パチュリーは恥ずかしがってそれをしなかった。

 パチュリーは決定的に勘違いをしているのだ。

 パチュリーは交友関係も少なく(はっきり言って)暇だが、魔理沙は引く手あまたで幻想郷中を飛び回っている。

 魔理沙がアポなしで大図書館を訪れるからと言って、同じようにパチュリーが突然訪ねてもダメなのだ。

 

 ――どうしようもない人ね。

 

 ついに机に突っ伏してしまった主人の様子を見て、小悪魔はため息をついた。

 毎年のことだから慣れてはいるものの、やっぱり見ちゃいられない。

 今日から数日間、この陰気な空気の中で過ごさなければならないと思うと気が滅入った。

 実のところ、一番の被害者は私の方だと小悪魔は思っていた。

 

 ポケットの上から四角い箱の感触を確かめる。

 

「こっちも渡せる雰囲気じゃないか……」

 

 小悪魔は小さく呟いて、図書館を後にした。

 

 * * *

 

 小悪魔は紅魔館の厨房で、紅茶を入れるために湯を沸かしていた。

 

 やかんが音を立てるまでまだ時間がある。小悪魔はポケットから箱を取り出した。

 ためらうことなく、無造作に箱の包装を破く。

 リボンの間に挟んでおいた『パチュリー様へ』と記したカードも丸めて捨てた。

 そして、小さなボウルに箱の中身を移す。甘い香りが厨房に広がった。

 

 あとは紅茶の準備だけだった。

 

 * * *

 

「お帰りなさい。お疲れでしょうから紅茶を御用意しました」

 

 パチュリーは机に伏せた頭を九十度横回転させてこちらを見る。

 じっとこちらを見るだけで、何も言わないので気味が悪い。

 小悪魔は気にせずパチュリーの机の上に、てきぱきとティーセットを並べた。

 カップに紅茶を注ぎながら言う。

 

「お菓子にチョコレートも用意しましたよ」

 

 机の上に置かれたボウルを、パチュリーは害虫でも見るような目つきで、

 

「いらない」

 

 言い捨てた。

 

「あら、チョコレートお嫌いでしたっけ? 私は大好きなんですよー」

 

 それでも小悪魔は動じない。

 

「本当はこれだけじゃ物足りないんです。だから――それ、もらってもいいですか?」

「えっ、ちょ、ちょっと……」

 

 うろたえるパチュリーを無視して、机の脇にあった包みを解いてしまう。

 こんなものを机の上に置いておいても、眺めて憂鬱なため息を吐くくらいしか使い道はない。

 先ほどと同じように、中身をボウルに放り込んだ。

 

「何するのよ!」

 

 パチュリーが声を荒げて抗議する。

 

「チョコ、お嫌いなんでしょう。それとも、誰かに贈る予定がおありでしたか?」

 

 小悪魔がぴしゃりと言うとパチュリーは黙ってしまった。

 涙目のパチュリーから視線を逸らしてチョコを摘まむと、口の中に放り込んだ。

 

「あー、ちょっと苦すぎますねぇ。渡さなくて正解かもしれませんよ」

 

 小悪魔はわざと毒づいてみせる。本当はなかなかの味だと思っていた。

 

「むきゅー……」

 

 パチュリーが悔しそうに唸った。その子供みたいな反応を冷やかな目で見つめる。

 

 ――本当にどうしようもない人だわ。

 

 次から次へ容赦なくパチュリーのチョコレートを口へと運ぶ。

 こうして小悪魔は、今年も自分のものではないチョコレートをたっぷりと味わうことができた。

 詰め込みすぎてちょっと涙が出た。

 

エピローグ:気まずい紅魔館

 

 食卓には紅魔館の住人たちが揃っていた。咲夜が用意した食事を前に席に着いている。

 感謝の祈りを捧げて、各々がおもむろに食べ始める。

 

 会話がない――。

 

 食器が触れ合う音だけが響いていた。

 普段であれば、美鈴がくだらないことを話し始めて、フランドールがキャッキャッしながらそれに乗っかる。

 咲夜が美鈴をたしなめている間に、パチュリーが蘊蓄を披露しだしたりする。パチュリーの暴走を止めるのは小悪魔の役目。

 いよいよ混沌としてきたところを、最後にまとめるのはもちろんレミリアだ。

 

 そんな紅魔館のお決まりパターンが、今夜に限って全く機能していない。

 起点となるはずの美鈴はちらちらと咲夜の顔色を窺っているし、咲夜は咲夜でつんと澄ましている。

 パチュリーはあからさまに元気がない。いつも通りに見える小悪魔も、静かに怒りを湛えているような気配があった。

 食事も全然進んでいない。普段と変わらないのはフランドールくらいだ。

 ――こんな陰鬱な晩餐なんて、暴れて滅茶苦茶にしてやろうか。

 そう憤るものの、レミリアも騒げるような気分ではなかった。

 

 結局、そのまま食事を終えた。

 この重たい雰囲気から逃れようと、誰もがすぐに自室に引き返すだろうと思っていたが、意外にも席を立つ者はいなかった。

 それぞれの間には探り合うような視線が飛び交っている。

 レミリア自身も、部屋に戻って一人でいたら本格的に落ち込んでしまうような気がして動けなかった。

 

 突然、咲夜が立ち上がり、椅子が音を立てる。

 

「月……、お月見しませんか?」

 

 誰も反対はしなかった。紅魔館の住人はみんな月が好きだ。気晴らしには持ってこいの提案だった。

 

* * *

 

 レミリアたちは紅魔館最上階のバルコニーに移動した。風が冷たい。

 昼間暖かかっただけに落差が少し辛かった。すでに雲一つない夜空を舞台に星々が瞬いていた。

 しかし、肝心のものが見当たらない。

 

「そういえば、今日は新月だったわね」

 

 今さらになってパチュリーが呟く。

 

「申しわけありません」

 

 咲夜がすまなそうに頭を下げている。彼女らしからぬミスだった。

 ――本当に今日はみんなダメダメねぇ。

 なんだか可笑しくなってしまった。

 

「いいのよ、咲夜。たとえ今夜、月が見えなくとも必ず満月はやってくるわ。だから、今は月のない夜空を楽しみましょう」

 

 レミリアが言うと重たい空気が少し和らいだように思えた。

 少しほっとして、隣にいるフランドールに声を掛ける。

 

「フラン、また部屋にいらっしゃい。本を読んであげるわ」

「おねえさま!」

 

 フランドールが嬉しそうに抱きついてきたので頭を撫でてやった。

 

 

 バルコニーの隅で、咲夜が美鈴に何かを押しつけていた。

 

「どうして置きっぱなしにするのよ」

「だって……貰っていいのかわからなかったので」

 

 美鈴がすまなそうに目を伏せる。

 

「これは口止め料だからね。あのことは黙っておきなさいよ!」

 

 咲夜が顔を紅潮させながら喚く。声を押し殺しているつもりのようだが丸聞こえだ。

 

「りょ、了解です……」

 

 怯む美鈴だったが、どこか嬉しそうだった。

 「あのこと」が何なのか気になったが、ここでは訊かないことにする。

 

 

 パチュリーはバルコニーに置かれた丸テーブルの席に着いて、空を見上げていた。

 小悪魔がそっと傍に立つ。

 

「パチュリー様、先ほどはごめんなさい」

 

 小悪魔は頭を下げた。それを見てパチュリーが微笑む。

 

「いいのよ。あなたの言う通り、行く宛のないものだったから」

 

 小悪魔は口を開きかけて一度ためらった。逡巡の後、再びパチュリーに話しかける。

 

「来年は渡せるといいですね」

「うん」

 

 二人は顔を見合わせて苦笑した。

 

 

 何だか良くわからないが、各自丸く収まったようだ。

 そういえば――と、昼間計画していたバルコニーのお茶会のことを思い出す。

 

「今夜はここで飲みたいわ」

 

 レミリアがみんなに向かって言うと、

 

「いいわね」

 

 珍しくパチュリーが一番に参加表明する。

 

「私も飲みたいです!」

「フランもー!」

 

 美鈴とフランドールが続く。

 

「私もお付き合いします」

 

 小悪魔が控えめに手を上げた。

 

「咲夜」

「かしこまりました」

 

 いちいち細かく命令する必要はない。

 レミリアがバルコニーの手摺りから離れ、テーブルの前へ移動する頃には、ワインの用意が整っていた。

 洗練された手つきで、咲夜が紅い液体をグラスに注ぐ。

 

 レミリアはグラスを持った五人の顔を見渡してから言った。

 

「乾杯」

 

 グラスの触れ合う小気味良い音が、かよわい紅魔館の住人たちを祝福した。

 


 
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