No.1163915

ガレオン船ビクトリア号

新人さん

地中海の辺りから低緯度の貿易風に乗り、素直に西へ進むとコロンブスのように北米に着く。そこから高緯度の偏西風を利用すればヨーロッパへ帰ることができる。しかし世界一周を目指したフェルディナンド・マゼランは、もっと低緯度のアフリカや南米の方に向けて南西に進路を取った。その結果 太平洋に抜ける航路を発見したが、自身は世界一周をすることが出来なかった。なぜならフィリピンで殺されてしまったからだ。  マゼランの母国ポルトガルでは、覇権争いをしている相手のスペイン船団をマゼランが指揮することをよく思っていなかった。ポルトガルの駐スペイン大使は航海を止めさせようとして ずいぶん航海を妨害したそうだ。だがマゼランの艦隊はスペイン王の命令通りに、1519年8月に5隻の船団でセビリアを出発した。12月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。そこからさらに南アメリカ大陸を南下して行き、1520年10月に太平洋へ抜ける海峡を発見した。夏でも真冬の東京と同じくらいの寒さのここは、後にマゼラン海峡と呼ばれる。難所を通過して11月28日にようやく太平洋に到達している。狭く複雑に入り組んだ海峡を慎重に探りながら進んだことと、勝手に帰国した1隻を はぐれたと勘違いして、その船を待ち続けたのが遅れた原因だ。そこから北上して暖かくなってから進路を西に向けている。餓死寸前だった3隻の艦隊がグアム島にたどり着くのは1521年3月だ。上陸の準備をしていた艦隊を島民の小船が多数取り巻き、忍び込んできては手当たり次第に装備品を盗んでいったという。立腹したマゼランは兵を上陸させ島民を殺害し50軒ほど家屋を焼き払った。そしてグアム島をラドローネス諸島( 泥棒諸島)と呼んだそうだ。その1週間後『1521年3月16日にマゼランはフィリピン諸島に到達した』。マゼラン達にとっての極東の国は日本ではなく、フィリピンだったのだ。もし日本が偏西風の通り道ではなく貿易風のルート上だったら、室町時代にマゼランがやって来て大砲を撃ったかも知れない。フィリピン人のことを、マゼラン達は「ものの道理が分かる人」と評価していたそうだ。フィリピン人を御し易い人々だと見下したのかも知れない。レイテ島付近で出会ったフィリピン人にマゼランの奴隷のマレー人エンリケが話しかけてみると通じたので、この地が東南アジアだとわかったようだ。この後、レイテ島沖のリマサワ島の王コランプに出会うが、コランプはマレー語なら通訳を介して会話が可能だった。マゼランとコランプは物資を贈りあい、フィリピンで最初の十字架を立ててミサをあげている。善良なフィリピン人を傲慢なキリスト教徒にしたのは、マゼラン一行だったのだ。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介した。4月にセブ島へ上陸したマゼランは布教を始めて500人にキリスト教の洗礼を受けさせ、セブ島周辺の王たちにもキリスト教を強要した。セブ島に3週間滞在中のマゼランは強硬にも大砲等の武力をちらつかせて布教した。改宗と服従を強要するために町を焼き払うことまでしている。マゼランは反抗的なラプ=ラプ王を従わせようと60名の兵を率いてマクタン島に乗り込んだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知し、1500人の軍勢を配置していた。マゼランは圧倒的多数の敵を前にしたにもかかわらず、戦闘に突入してマゼランも戦死した。マゼランは英雄などではなく平和を乱す悪魔に思える。ポルトガル人やスペイン人は世界中にウィルスとキリスト教を撒き散らしたのだ。布教などしないで交易をするだけならば、バイキング達のように平和的な関係でいられたはずなのに残念だ。やはりキリスト教は争いの元なのだろう。マゼランの死後、後継の指揮官を含め艦隊幹部の多数がセブ王に殺されて、大幅に人員が減ってしまい、艦隊は1隻を破棄した。残る2隻で1521年11月にモルッカ諸島(インドネシア東部)にたどり着く。すでに交易のあるモルッカ諸島では、香辛料を直接取引するとばく大な富を得られるので、大量の香辛料を積むが、積みすぎて1隻が浸水してしまう。残りの1隻で60人が出発したが、ポルトガルの勢力圏なので途中の港に立ち寄ることができず、壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながら1522年9月6日、ビクトリア号はスペインに帰国した。帰国時の乗組員は21名だが、3人は途中参加のマレー人だから、出発時いた約270名の乗組員は 約3年後の世界周航達成時は18人だけだったという。

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