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(自然であるアイオーンとは己(こ)であり、己神(こじん)である。(哲学の源流であるニーチェは神ではないが、己を確立している人間である)
己神6柱として「主とヴァーレット」の己神として自然にある。
ちなみに、自然とは(じねん)と読むが、(しぜん)と言う概念で間違いはない)
……かくして、ユダヤ人は自殺的指向(デカダンス)に陥り、意識性を少しずつ、政治的に自分達に有利にして行った。(流れが見られない「マカベア戦争」は民族的作話)
キリスト教徒は人間的に意識性を、イスラム教徒は神的に意識性を、自分達なりに、(第1章の「デカダンス」によって自分達の呼ぶ「神の意志」自分自身の病的な狂気によって)他人ながらに、(「デカダンス」は他人を自分の様に考える本質がある)「高めて行った」のである。(イスラム教徒についてはアッラーフと信者どもの『コーラン』の取り合いは『コーラン』内に痕跡があり、今も取り合っている様だ)
もちろん、彼らは自殺的指向(デカダンス)に陥っていない前提ならば、非常に勤勉な人達と言えたのである。(アッラーフを持ち続けているムハンマドは生ける神として(そう云う名目ではないが、)『コーラン』にデカダンスし続けている(物質的な一方的侵略(ルサンチマン)程である)
そもそも、一方的侵略(ルサンチマン)は非常に非人間的暴力によって行われるので、人間的な本能を余り良く持っていない(人間であるにも関わらずである、)これらの人達に取っては、つまりは内部の人間性を荒らす、これらの暴力は「善かった」のであった。
(それを彼らの内、キリスト教徒は「愛」と呼んで、福音記者マタイ、マルコ、ルカなどが取り上げた)
はっきり言って、まだほとんど起こっていない事なので、ここまで述べて来たものの、少し良く分からないかも知れないので、解説しよう。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教とは、中東に千年以上前にそれぞれ起こった「唯一神教」と言うものである。年代はユダヤ教が紀元前1000年以上、キリスト教が紀元100年前後、イスラム教が紀元600年前後、その位である。
ユダヤ教を信じるのがユダヤ人、キリスト教を信じるのがキリスト教徒、イスラム教を信じるのがイスラム教徒である。
共通しているのが、ユダヤ人もキリスト教徒もイスラム教徒も奴隷だったか、「神のしもべ(奴隷)」を名乗っていると言う事である。奴隷の考える事として共通するのが、「自分達を虐(いじ)めるあいつらになれないか?」というルサンチマン感情である。
これがデカダンス(自殺的指向)である。
自分達を虐めるのは、ツク相手であって、いくら頑張って反らそうとしても、自分で自分を虐(しいた)げる事になる。これが自殺的指向の名前になっている。実際の所、それを変えるには数世代、数十世代を経なければならなかったので、「…その内、相手も自分に媚(こ)びる様になるだろう…」と自分をだまし続けるしかなかった。これを「自分への欺き」と言い、ユダヤ人の律法では禁止されている。
己の神をも欺きつつ、自分すらも欺き、手に入れたのが今のイスラエルと言う国である。
その前にイスラエル王国、ユダ王国と言うものもあったが、「自分を虐げる者達」によって滅ぼされてしまった。だから、彼らは人間の様に見えて、人間足る精神は持っていない。(神でもないのだが)これがユダヤ人である。
キリスト教徒も結局、このデカダンスを用いて支配者になっている。ただ、支配者にツイただけであって、自分達が支配者になった訳ではなかったのである。
イスラム教徒は中東戦争を経て哲学の大切さを知り、デカダンスする人々として復活した。ニーチェ以前の西洋哲学書、『コーラン』、『ウパニシャッド』、『日月神示』などにツキ、私、滝口などを参考にして書き換えている様だ。「我々こそが聖霊であり、我々に逆らってはならない」と言う様なのだ。
……これらの暴力をこれからもゆるしていいのか?いや、そんな訳はないだろう。
自然の主、幻想の神クリスティー・スカーレットの名に恥じる様にするな。
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「デカダンス」についてのあらすじの様なものを書いて行く