青空を仰ぐ(Open The Sky)
「人を殺した」
と、言ったのは、もう何年も前のこと。男は人を過失的に殺めてしまった。
この世界にはやってはいけない禁忌というものがある。殺人や強盗、強姦や自殺など同属同士だけで適用される禁忌はいくつもある。
男は、その社会の禁忌に触れた。自ら望んでその禁忌に触れ、法の裁きを受けることになってしまった。
少年時代のことである。気の弱かった男はその事件で大きくメディアに取り上げられ、かなりの話題となった。
「なぜ、気の弱い彼が?」「若者の危機管理意識の甘さ」「若者による残忍な事件の増加」など、 散々取り上げられて、男は叩かれた。
男の下には幾つもの誹謗中傷の手紙や電話がたくさん押し寄せられた。
幸運にも法の裁きを受ける段に当たって、男に情状酌量が認められた。
殺めたのは、友人だった。学校の友達を偶発的に殺めてしまったのだ。裁判では偶発的かが焦点になったが、それでも男の反省と偶然性が認められ、男は刑に身を寄せることになった。
だが、世間やその亡くなった友人たちの周りでは、男のその刑の重さに納得がいかず、いろいろなメディア等で男の残忍さを煽った。
それも仕方ないと、男は思った。ただ、そのあまりにも冷たい世間の敵対心に、一瞬人間を疑ったこともある。
男に面会する人はいなかった。家族も友人も。笑い女を除いては誰一人も。
笑い女、と呼ばれる女は男の同級生で、よく学生時代には一緒にいた。恋人でも親友でもない、極端に言ってもその女とは「微妙な関係」という言葉に集約する。いつも大声でケタケタ笑う姿からよく笑い女と名づけられる人は多いが、彼女はそれとは違い、笑顔が綺麗だからという意味で名づけられた。その笑顔に何人もが魅了され、人気があったのも事実だった。
そして女はどんなに男が世間で中傷の的になっていた時でも、構わず面会し、他愛も無い話をして、勇気付けようとしていた。ただ、それがバレバレだったのだが。もちろん、その理由も男には分からなかった。本当に微妙な関係なのである。
出所する前の前日にも女は来て、おめでとう、と言ってくれたことを覚えている。
そして男は今日刑期を終え出所した。
2
「誰か、助けて」
と、男はヒロインぽい言葉を呟いた。もちろん、誰もそれを耳にすることがないから言ったのだが、後ろでカツリ、と音がしたときは、驚いて何かを確認する前に飛び退いてしまった。
「探したよ」見たことのある女だった。
女の服には泥や、草の汁が付いていて所々汚れている。
「………」
男は答えない。
この場所は、近寄らずの丘と呼ばれていて、人が住む町から離れた場所にある。ここにくるまでには鬱蒼と茂った草むらや小川を越えなければならず、地元の人でもめったにこの場所には立ち入らない。
カツカツとヒールの音を鳴らせて女は近付いてきた。
「迎えに行ったのに、どうして…」
男の顔をのぞきこもうと、女の顔が男の視界に入ったが、業と男は顔を反らして顔を見せないようにした。
「何かあったの?」
はっと、男の顔が驚き、すぐに元の顔に戻った。
女はそれを見逃さず、男の肩を強くつかみ、男の顔を向き直させた。
「言って」
真剣な目つきに、男は思わず隠していたものを出してしまった。
それを奪い取るように、男から隠していた手紙をとりあげ、女は読み始めた。
そこにはこう書かれていた。
「おまえになにもできない。おまえはひとのめいわくをかけるだけだ。いきていてもむだだ。これからふくしゅうしてやる。おまえをずっとずっとゆるさない」
とまるで脅迫文のように新聞記事、雑誌の切り抜きを貼り付けて書いてあった。
「何これ?」
「脅迫状…」
女にとってどうやら冗談だとおもったらしく、いきなり女が持っていたバッグを男に投げつけようと腕をフルスイングしようとしていた。だが、男の顔を見て、その手が止まった。
「本当に思ってるの? やり直せないって」
「上を向いて前を見て生きていけないと思ってるの?」
こくり、と男が顔を背けながら頷きながら言った。
「無理なのかな、僕には」(もういちどやり直すことは)
確かに一拍の間があった。その一拍後に男の鼓膜が破れそうになった。
「出来るったら! 無理なんて言うな!」
びりびりと、男にとって枷となっていた手紙を破り捨て、女は声を荒げた。
破れた紙が風に乗ってひらひらを舞い上がって草原のどこかに散らばっていく。
いとも簡単に男の悩みを吹き飛ばした姿を見て、男は茫然としてしまった。
その女の自信がまるで絶対出来ると男に訴えかけているように見えた。
「上を向いて生きていく、なんてそんなの出来ないよ…」
今までずっと下を向いて、前を向くことすら難しくて出来なかった。他人からは手を差しのべられたこともない。見て見ぬ振りされていたと男は思い続けている。そしてまたどん底に陥れられた 今、上を向けと言われてもそう簡単にできるはずがない。
男はそのまま、諦めたように下を向いた。その表情はもう一度立ち上がっても無理だと思っているような落ち込んだ顔だった。女も何か言いたそうにしていたが言い出すことはなかった。
二人はそこで黙ってしまった。
さぁーっと風の音が男の耳を擽る。
「見て」
視線を下から彼女に向けると、彼女は突如人差し指を立てて、自分の顔を必死そうに指差している。
「見て。私を見て」
「?」
笑っている。彼女が笑って男を見つめてくれていた。
その笑顔は、すべての不安を打ち消すかのように、優しい微笑だった。
何のために彼女が自分を指差すのか分からなかったが、その笑顔を見て男の顔が少しほっとしたように頬が緩んだ。
「見て」
もう一度言った。
立てたままの人差し指を今度は空高く、上を指す。
「なに?」
「ほら、見て! 綺麗だよ、空っ」
見ない。男は見なかった。
「見てってば!」
彼女が焦りながら空を指す。あまりにもその訴えかけている姿が可愛かったので、男は渋々視線を上に向けた。
空を仰ぐと、海が広がっていた。形容するなら青い海。実際は青だけを色が反射しているからそう見えるだけだったが、その空はどこまでも広がる海のように見えた。
しかし男には、ただ絵の具の青をぶちまけたように、上に青色が広がっているようにしか見えない。
「だから?」
「綺麗でしょ!!」
視線を彼女のほうへと視線を落とすと、子供のような笑顔で笑っている。その姿に男は一瞬息を呑んだ。
確かに空は綺麗だと思ったが、男にはそれよりも………目を奪われたものがあった。
彼女の笑顔のほうが、空より何倍も綺麗だった。
無邪気に笑っているその姿は天使みたいに生命が溢れているような感じがした。しかもその背中から翼が生えているように錯覚し、その美しさに一瞬言葉を失ってしまった。
(ちくしょう、ホントに綺麗だ)
男は青海原をもう一度眺め返す。
心地よい風が身を洗う。空には鳥もいないが、その吸い込まれそうな青にあれほど揺らいでいた心が少し落ち着いてきていた。ただの青がそれだけで違う青に見えていた。あまりの壮大な雲ひとつない青空に自分の悩みがどれだけ小さいものかを見せ付けられている感じがした。
「ね? 簡単でしょ?」
突然の一言に、男は視線を空から彼女に移した。
笑っている。いつもと変わらずに、見ているだけで人を幸せにしてしまうような笑顔で。
「何がだよ?」
「上を向いて生きていくなんて、簡単だよ。だって、自分で空を仰げばいいんだよ!」
胸を打つ言葉だった。
その一言に、男は二の句を継げず黙ってしまった。
何故女は「上を向いて生きていける」と言ったのだろう、何故女は自分の顔を指差して「見て」と言ったのだろう、何故女は空を指して「綺麗」と言ったのだろう。それは全て男のためだったのだ。上を向かせるために、自分で周りの世界をはっきりと見させるために。
彼女はこんな回りくどい事までして。
「………どうしたの?」
女が近付いてきて、黙ったままの男の顔を覗こうとする。
人から見れば、それはただの戯言にも聞こえる言い訳のような言葉かもしれない。でも、その一言は温かみに満ち溢れていて、確かにそうだと思わせてくれる。女のやさしさがッ信じさせてくれる。あとはその言葉を男が信じられるかどうかだけ。
「…ッ」男は心の中で優しくバカやろう、と呟いた。
「ほら、上を向くって言ったでしょ? そんなに下を向いてちゃ、空は見えないよ? 自分の足元ばかり見てても、周りの景色は見えないよ。足元を見るときは、本当に自分がここにいるか確かめるときだけだよ。だから今は顔を上げて? 顔を上げれば……」
「私もいる。空もある。見えないものが沢山見えるようになるよ。一人じゃないよ」
たぶん、いつも通り笑顔でそう言っているのだろう。男には彼女の表情を確かめる事は出来なかったが、間違いない。
男は顔を上げることができなかった。女の言葉が、ほう、と心にあった冷たい部分に染み渡り、脆い部分がもう悲鳴を上げて体中を駆け巡る。
「だから泣かないで。笑ってよ」
「無理だよ、無理だよ、無理だよぉッ!……」
男はその顔をクシャクシャにして、泣いていた。今まで我慢していた思いとその温かみを受け止めることが出来なくなって、嗚咽している。
青空がそんな姿を見て、どう思うのだろうか? その下で生きている男の無様なその姿を見て、笑うのだろうか?
でも、それとは裏腹に空は大きく広がっているようにも見える。罪を犯した者も全て赦すかのように。
男は黙ったまま、空を仰ぐのをやめて下を向き、一言。
「死にたいんだ。もう、耐えられないんだ…」
言ってしまった、と気付いてすぐに視線を女に向ける。女は、真剣な目つきで男を見つめていた。
その青空によってほぐされた心が口を滑らせてしまったのだ。言った後で、後悔の念が押し寄せてきた。
「本当にそう思っているの?」
女の冗談では済まされないほどの真剣な思いが発話の高低に顕れていた。
その質問に男は答えようとしたが、なぜか喉が詰まったように声が上手く出ず、静かに頷いて答え返した。
「だから、逃げたのね」
その通りだった。だから男はここに来た。出所してすぐに、女の迎えから逃げて、死ぬための遺書を胸ポケットに忍ばせて。
「やり直せないと思っているの?」
「これからどんな生き方をしても、もう拭えない。みんな絶対に認めないんだ。辛いんだ!生きていても…」
「そのまま堕ちるつもり? 人はどこまでもずっと闇の奥深くまで落ちることは出来るよ。だれも気付かぬうちに、気付かないふりをしているうちに堕ちていく。でもね、誰にでも立ち上がる権利があって、どんなに堕ちても絶対に光があるから」
男は無意識のうちに拳を固く握りしめている。
女は男のことを分かっていない。罪を犯した者のことなんて犯した人にしかわからないのだ。それを簡単に光があると断言しても、説得力はない。
誰にも必要としていない。いなくなっても誰にも迷惑をかけるわけでもなく、心配されることもないと思っている。世界は男のことなど見ていない。だから、ここにいなくてもいい、と男はそう思っていた。
分かってたまるか、と男が声を荒げようと女を睨んだとき、女がぽそりと呟いた。
「………よ」
聞こえないぐらい、か細い声だった。女の笑っている顔からは、想像もできないほど力の無い声だった。
「私はあなたがいなかったら、さみしいよ」
もう一度、そう言った。
今度は本当に、男の腰が抜けた。
声を荒げようとして吸った空気も、無造作に振り回そうとしていた手も力が抜け、そのままずるずると地面に落ちた。
「……何で」
「生きて」
男の目から知らず知らずのうちに涙が流れていた。
「そんなんじゃ、そんなんじゃ! ……ッ」男は必死に最後に続く言葉を押し留めている。「死ねない」という言葉を。
「いいのよ、それで。だって、今日は再出発の門出なんだから」
笑顔で笑い女は言った。
真摯だった。
まだ大事な人がいる。これほど近くにいて、それでもずっと気付かなかった。支えてくれていたことも、励ましてくれていたことも、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
目に見えることが全てではないのだ。見えていないことでも、見ようとすればそれだけで景色は変わるのだ。
「きれいだな、そら」
男は言葉を詰まらせながら、無様に大地に腰を下ろしたまま空をもう一度仰いだ。
次々と流れる涙を女に見られたくないために、必死に我慢しようとして、鼻を啜りながら空を仰いだ。
青い空はずっとどこまでも青く透き通っている。本当はこの上の先は真っ暗闇の宇宙空間が広がっていて幾つもの星が輝いているなど誰も思いはしないだろう。それを地球は青空で隠しているのだ。まるで、人の心のように、自分の闇と光を見せないように。
まだこうやって思ってくれる人がいるなら、一緒に生きていけるのかもしれない。男を最後まで信じていてくれる人がいるなら。
「がんばれるかな…?」
一瞬遅れて「できるよ!」と女が強く頷いた。
「なあ……」
「ありがと、ずっとずっと傍に入れてくれてッ……」
女はその言葉に幸せそうに笑っているようだった。
END
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どんな罪を背負っても、人は前を向いて進んでいけるのか。
そしてそのとき誰か支えてくれる人がいるのか。
そのテーマをもって書き始めました。
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