くらやみからひかり
とまぁ偉そうに語ってきたものの、なにせ俺自身最初に断っているとおり、現在のところ俺は「偽」の花輪和一論を書く資格しか持ち合わせていない。ここで述べているのは、やがて誰かによって書かれるべき、真の「花輪和一論」のための大ざっぱな見取り図に過ぎないのである。
実際あらためて振り返ると、資料不足のためだけでなく、俺の能力不足のために語り切れていない部分も多い。例えば、花輪作品における「昆虫・脱皮」といったモチーフの扱われ方。これらのモチーフは非常にアンビバレントな描き方をされており、現在の俺にはとうてい語りきれる代物ではない。また、花輪作品においては「水」というモチーフも、極めて複雑かつ魅力的な性格を付与されている。今回ああでもないこうでもないと考えてみたが、結局挫折。見送ることになってしまった。さらに、今昔や宇治拾遺などの典拠となった古典作品との比較対照も、俺の古典に関する教養不足から見送ってしまっている。偽の偽たる所以である。
だがしかし、「偽」とはいえこれだけの分量を書けば、なにがしかの発見を伴うものである。最後にまとめとして、花輪和一作品の持つ現代的意義と展望を書いておきたい。
花輪和一は、血みどろの暴力的マンガを描く作家として、そのキャリアをスタートさせた。その後花輪は、幼少期に虐待を受けていた自分の分身である縄文顔の少女を登場させ、幾度となく虐待と救済の劇を描き出す。その過程で彼が発見したのが、自然人の象徴としての「縄文」、そして祈りの集積体としての「機械」という、二つの理想のかたちであった。そしてその二つの軸はいま、作品の中で幸福な融合を遂げ、さらに新たな「花輪哲学」の完成に向かって成熟しようとしている。
花輪和一は、幼児期の虐待経験から出発した作家ではあるけれども、その業を払い落とすことによって、独特の高みに達した作家であった。花輪和一は「家族の地獄」に直面しただけでなく、その闇を直視し、その闇の向こうに救済の光を見出した作家なのだ。

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「御伽草子」から「かぐや姫」より (c)花輪和一 双葉社
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一時期話題となった援助交際や、昨年マスコミを賑わせた少年犯罪を筆頭に、ひきこもりや児童虐待、解離性家族など、現代の家族はその多くが「地獄」に直面している。だが、こうした「家族の地獄」をくぐり抜け、ここまで輝かしい救済の光を描いた作品が、いまどれだけ見当たるだろうか。このこと一つとっても、いま花輪を読み、論じる価値はじゅうぶんにある。
心の風景と花輪マンガ
逆にもう一点強調しておきたいのは、花輪は最初からこうした高みに到達したのではなく、幾度も幾度も自らの手で暴力を描きなおすことでその業を払い、ゆっくりと独自の「花輪哲学」を育ててきたのだ、という点である。安直な暴力表現の規制を唱える人にこそ、花輪は読まれるべきだと俺は思う。それだけの力を、花輪作品とその歩みは持っている。
いま、コミックや文学、映画などで、さかんに暴力表現・性表現を巡る議論が闘わされている。先の「バトル・ロワイヤル」騒動などはその典型であろう。だが、こうした議論の多くが短兵急な自主規制論議であるか、無原則なアンチ規制論議であるように俺には思える。議論は往々にして原理原則論に走るか、全く逆に枝葉末節のテクニカルな議論に走りがちで、個別の作家の暴力表現・性表現に踏み込むことがない。こうした貧しい精神風土が、果たして豊かな表現を育むだろうか。
はじめの箇所で触れているとおり、現在花輪の単行本は、その多くが絶版になっている。だが、こうした現在の家族や表現を巡る状況と、花輪の辿った長い救済の道のりを考えたとき、これほどいま切実に読まれるべき作家も珍しい。はじめの方で俺は、「刑務所の中」ブームにあやかって再版を、と書いた。だが、あらためてその作品群を辿り直し、吟味するなかで、そうした皮相な「花輪現象」にあやかった再評価だけでなく、現代の心の風景ともっと深く斬り結んだ形での「花輪復活」があってもよいのではないか、と改めて思う。今後の議論の深まりに期待しつつ、ひとまず筆を置きたい。◆
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「昆虫・脱皮」
いずれのモチーフも比較的初期から見出されるが、その描き方は時を経るに連れて次第に変化している。先述した「ニッポン昔話」では、「縄文と機械」という二つの主題を止揚する新しい主題として、この「脱皮」という主題が浮上しつつあるように見える。うまく整理がついたらもう一度論じてみたいテーマである。
「水」
花輪和一の作品では、「縄文的なるもの」の延長として水が描かれる場合もあれば、全く逆に支配者の抑圧の道具として水が登場する場合もある。水の描かれ方は両義的であって、今の俺にはそれをうまく整理する能力がない。また、彼独特の粘性を帯びた水の描き方にもなんらかの意味があると思うのだが、これも今回俺はうまくすくい取ることができなかった。花輪における「水」は、まさに水のように俺の両手をすり抜けてしまう。

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(c)花輪和一
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