TINAMIX REVIEW
TINAMIX
偽・花輪和一論(後編)

祈りの機関車

「コロポックル」は、花輪のキャリアの中では珍しい現代物だ。北海道に住む少女が小人のコロポックルとともに、蒸気機関車のニセコに乗って北海道を旅する、というのがその粗筋である。旅をする先は実在の土地であることもあれば、時空の入り交じったとんでもない空間のこともある。夢のような現のような冒険譚は、幼年期の曖昧な記憶のようだ。

この作品でも例によって縄文顔の少女が主人公となって登場するが、彼女はもはや地主や貴族、継母の抑圧に苦しむことはない。北海道の自然の中で「人間のあるべき姿」を存分に楽しみ、ひたすらイノセントに旅を続けるのである。

思えばこの花輪和一という人は、流血醜悪阿鼻叫喚のスカトロ趣味に満ちあふれた初期作品から、いかに遠く祈りの旅を続けてきたことだろうか。北海道を旅する少女の姿は、もはや神々しくさえある。俺は仏の道などとはおよそ無縁の下衆な三十男に過ぎないが、そんな俺でさえこの書物を読み終えたときには、柄にもなくこの汚い胸を打たれ、マンガ喫茶の中でひとり手を合わせた。それほどこの書物は透明で、美しい。

このように心洗われる内容の「コロポックル」だが、なかでも俺が心打たれるのは、花輪が蒸気機関車に注ぐまなざしである。残念ながら俺はこの本を所有していないので、具体例を引きながら論じることができないが、その描写の緻密さには尋常ならざる崇高なものを感じてしまう。SLマニアにとってはべつだん特筆すべきものでもない水準の描写なのかもしれない。だが、花輪は機関車に対して不動明王を重ね合わせ、「ありがたい」と感じるとまで言い切る。この機械に対する特異な感受性は、一体どこから来るのだろうか。

確かに、機械を好んで取り上げる作家は多い。前回引き合いに出した諸星大二郎もそうだし、カフカ寺山修司もそうだ。だがその多くは機械に対して畏怖と驚嘆の入り交じった両義的なまなざしを向けている。対するに、この花輪の蒸気機関車に対する素直な礼賛は、一体何なのか。

俺が思うに、花輪には蒸気機関車が「労働の集積体」のように見えているのではないかと思う。鉄工所の作業員、鋳物メーカー、機械メーカー、そして運転手や車掌、線路の点検作業員など、さまざまな人々の労働の集積としての蒸気機関車。もし花輪にとっての労働が「祈り」であるなら、蒸気機関車は労働の集積体であると同時に、「祈り」の集積体でもある。火を吹き、煙を上げながら猛スピードで走ってくる「祈り」の集積体=蒸気機関車。このように考えてきたとき、蒸気機関車の姿が花輪にとって、不動明王の来迎図と重なって見える理由に思い至る。

縄文、機械、そして新たなる段階

打ち出の小槌の中
「御伽草子」から「桃太郎」より
(c)花輪和一 双葉社

思えば、花輪作品にはしばしば機械への愛着を思わせる描写が登場する。「月ノ光」の表題作に登場する、蒸気機関車そっくりの宇宙船や、戦艦の艦橋のような宇宙都市。「刑務所の中」で前後の流れとさしたる関係もなく登場する戦艦大和の細密画。「御伽草子」の「桃太郎」で、打ち出の小槌の中にぎっしり詰まっている奇妙な歯車の群れもそうだ。

また、たびたび登場する「縄文的異類」たちの乗り物も、時代物にはおよそ不釣り合いな、複雑な機構を持った機械として描かれている。逮捕・下獄のきっかけとなったモデルガンへの愛着も、こうした機械への愛着の延長上にあるのではないか。俺にはそんなふうに思える。

そして花輪作品におけるこれら機械は、「縄文」的な意匠とともに、往々にして救済者の記号となる。機械と縄文的意匠、この両者が合体して表現されている見事な例が、下記に示す「ニッポン昔話」の一コマである。

水底人
「ニッポン昔話」(c)花輪和一 小学館

ここに描かれているのは、主人公の少女を救済する水底人である。だが、その高度な機能を持つとおぼしき防護服は、縄文式の遮光器土偶そのままの意匠を備えている。ここには、労働=祈りの集積たるテクノロジーの粋を集めた防護服と、「自然人」の記号である縄文式の文様の、幸福な合体がある。花輪にとって複雑怪奇な機械のディテールは、究極の進化を遂げた縄文式文様にほかならないのである。

そしていま花輪は、「縄文」と「機械」というこれまでのスタイルを超え、あらたな段階に差し掛かろうとしている、と俺は思う。あらたな段階とは、どのようなものか? その答は、あえてここには記さない。自分で花輪の新作を手にとって、自分の目で確かめていただきたい。>>次頁

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諸星大二郎
彼の作品には有機体とも機械ともつかぬぶよぶよした「ソフトマシーン」が登場するが、そこには彼の機械に対する憧憬とフォビアの両方を見て取ることができる。集英社刊「失楽園」(ISBN4-420-13702-9)所収の「生物都市」などはこの典型であると言えよう。

ソフトマシーン
「失楽園」から「生物都市」より
(c)諸星大二郎 集英社

カフカ
「流刑地にて」(岩波文庫版「カフカ短篇集」所収、ISBN4-00-324383-8)を参照のこと。

寺山修司
寺山修司というと「東北のおどろおどろした辺境性を描いた人」、というイメージをお持ちの方が少なくないと思う。実際、映像作品は(実験映像を除いて)ほとんどがこの系列に属する。だが舞台作品では東北を題材とした見せ物小屋的な傾向は次第に影を潜め、うって代わってカフカやレイモン・ルーセル、デュシャンなどからの引用と思しき奇妙な機械の群れが舞台を占領するようになる。そしてこれと並行するかのように、劇の骨格もその抽象度を著しく高めていくのである。「奴卑訓」に登場する「聖主人のための機械」などはその典型だが、やはりここにも憧憬とフォビアの両義性がうかがえる。そこにあるのは労働の延長ではなく、その疎外体としての機械のイメージなのである。

蒸気機関車そっくり
「月ノ光」表題作より。説明不要。[拡大]

蒸気機関車そっくりの宇宙船
「月の光」より
(c)花輪和一 青林堂

「ニッポン昔話」
小学館刊。3600円。ISBN4-09-179351-7。限定五千部、著者肉筆イラスト・シリアルナンバー・篆書入り、四色ページ多用の超豪華本である。今ならまだ間に合う(かもしれない)ので書店へ直行すること。

ニッポン昔話
「ニッポン昔話」
(c)花輪和一 小学館
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