TINAMIX REVIEW
TINAMIX
偽・花輪和一論(前編)

増殖する分身少女の謎

さて、「丸顔・二重・どんぐり眼」の少女に戻ろう。なぜ花輪は自分の分身を、「丸顔・二重・どんぐり眼」の少女として描かなければならなかったのか、である。実はこの少女、花輪が江戸期から平安朝に作品の舞台を移すのと同じころに登場し、次第にその登場の回数を増やしていったという経緯がある。江戸・昭和を舞台にした初期作品集「月ノ光」の段階では、一連の花輪マンガの暴力の犠牲となるのは、決まって次に掲げるような「面長・切れ長眼」の女性である。

「面長・切れ長眼」の女性
「月の光」 (c)花輪和一 青林堂

ここまでやるか、ふつう(笑)。

ま、それはさておき。この高畠華宵の画風を思わせる「面長・切れ長眼」の初期女性キャラクターから脱却し、「丸顔・二重・どんぐり眼」の少女を花輪が描き出すのは、「鵺」所収の短編を執筆しだした80年頃である。80年代半ばの「朱雀門」では、「丸顔・二重・どんぐり眼」は過半数の作品に登場、そして最新作の「ニッポン昔話」では、なんと全作品に登場するに至っている。この少女は花輪作品の中で次第に増殖を遂げているのだ。

先に俺はこの少女が、「幼少期に虐待を受けた花輪の分身ではないか」と書いた。問題は、なぜその少女が「丸顔・二重・どんぐり眼」でなければならないか、という点だ。この点を考えるにあたって、この少女が登場しだした最初期の短編、「お力所」(「鵺」所収)を振り返っておこう。

この作品の舞台となるのは、歴史上名高い「平将門の乱」の時代である。「平将門の乱」はご存知の通り、下総を所領とする豪族であった平将門が、関東地方一帯を占拠して「新皇」と名乗った内乱事件である。言うまでもなく将門は天皇方から見れば「逆賊」であって、戦前の皇国史観では悪玉中の悪玉とされていた。だが花輪はこの乱について、全く逆の見地から描こうとする。つまり、京都の圧政に苦しむ関東の民衆蜂起のリーダーとして、将門を捉えようとするのである。

平将門
「鵺─新今昔物語」から「お力所」より
(c)花輪和一 双葉社

少女に刻まれた縄文性

結局この反乱は、京都方と結んだ豪族の藤原秀郷によって鎮圧されてしまう。「お力所」で描かれるのは、この「戦後」の混乱期にあった関東地方のようすだ。平将門の乱を鎮圧して以降の藤原勢は、第二次大戦後の進駐軍よろしく、各地で強姦や略奪行為を働いて、庶民を拉致して京都に売り飛ばしている。ここで注目したいのは、こうした虐待に会う旧将門領の領民たちが、まるで縄文時代さながらの生活を守る「半縄文人」として描かれていることだ。曲玉を身につけ、縄文式土器を使い、竪穴式住居に住んで呪術を使うこれら「半縄文人」たちは、生活様式だけでなく、顔立ちなどの人種的特徴も、京都方とは大きく異なる人々として描かれている。

半縄文人
「鵺─新今昔物語」から
「お力所」より
(c)花輪和一 双葉社

つまり、花輪作品に頻繁に登場する少女たちの特徴……「丸顔・二重・どんぐり眼」は、縄文人およびその末裔である「蝦夷(えみし)」特有の顔立ちなのである。

俺は考古学にはとんと疎いので、「丸顔・二重・どんぐり眼」が実際に縄文人特有の人種的特徴であるのかどうか、よく知らない。また素人考えではあるが、こうした「半縄文人」が10世紀後半の関東地方にいた可能性も極めて低いと思う。だが、ここで問題なのはそうした史実そのものではない。縄文人の特徴と花輪が考えている「丸顔・二重・どんぐり眼」という特徴を、花輪が自分の分身に付与した、という事実なのだ。

なぜ花輪は、自らの分身である少女の顔立ちに、縄文人特有の特徴を帯びさせたのだろうか。花輪和一にとっての「縄文」とは、一体何を意味するのだろうか。

ふりかえれば、花輪作品には数多くの「縄文的」な要素がたびたび登場している。花輪の「少女」と「縄文性」の謎。この謎を解くためには、花輪作品の随所に登場する「縄文的」な要素とその描かれ方について、再度詳しく検討しなくてはならない。次節以降では、その作業にとりかかってみよう。>>次頁

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高畠華宵
挿絵画家、本名は幸吉(1888~1966)。「講談倶楽部」、「少年倶楽部」などを舞台にして、緻密なタッチで独特の少年・少女像を描き出す。少年向けのものだけにそのシチュエーションは健全極まりないものばかりなのだが、どこかホモセクシュアル的なエロティシズムがある。昭和初期に売り出された「華宵便箋」は爆発的ヒット商品となった。また、衣装や風俗の時代考証も正確無比で、古代から現代までの服装を褶の一つまで描きわける知識と画力があった。

美少年図鑑
「美少年図鑑」
(c)高畠華宵

極めて低い
古代の関東以西に居住していた「蝦夷」は異民族と見なされ、次第に北へ北へと追いつめられていく。この後退戦の結果、蝦夷たちは7世紀頃までには、いまの新潟の辺りにまで追いやられていた。そんなわけでこの設定、俺にはちょっと無理があると思われる。

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