TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(4)

・眼鏡っ娘はどこへ行くのか

90年代以降の少女マンガでも、少数の古典的眼鏡っ娘マンガが描かれ、比較的少数の逆転眼鏡っ娘マンガが描かれ続けている。和田尚子『片道切符』シリーズ[図28]は、20世紀最後の眼鏡っ娘マンガとして後世まで語り継がれるべき傑作である。しかし、大勢としては眼鏡っ娘マンガは減りつつある。80年代前半をピークとして、減る一方である。もはや眼鏡が負の記号として機能しなくなっているということでもあり、それは慶賀すべき事態である。眼鏡だからといって容姿が劣るという描写をするマンガなど、ほとんどない。ただ、眼鏡っ娘の主人公も一緒に減っている。たいへん悲しい。

図31 あーーっ!うまいーー!!大家さんのビールは最高だァ!!
図30『翔んだカップル』(c)柳沢きみを

しかし一方、男性向けメディアで眼鏡っ娘は隆盛を迎えつつある。少年マンガの80年代は鳥山明『DR.スランプ』[図29]という名作眼鏡っ娘マンガで幕を開けたが、少年向メディアでは眼鏡っ娘はずっと不遇だったと言える。諸悪の根元は1977年から『週刊少年マガジン』で連載された柳沢きみお『翔んだカップル』[図30]だろう。おそらくこのマンガが「眼鏡を外したら美人」という愚かな観念を一般に流布させた。
図31 この秋『奇面組』新作を発表とか……
図31『ハイスクール奇面組』
(c)新沢基栄
そして、新沢基栄『ハイスクール奇面組』がその誤った観念を増幅させた。新沢は眼鏡を外したら美人というエピソードを1984年に描いて「3億年前のパターンをやってちまった」と書いている[図31]。なんてことはない。それは14年前に登場したパターンであり、少女マンガが12年前に克服したパターンである。敢えて言おう。「このエピソードのレベルはせいぜい起・承のランクだ!」

図33
図33『屈折リーベ』(c)西川魯介

しかし、80年代半ば以降、男性向メディアで眼鏡っ娘が露出し始める。1990年のGAINAX『電脳学園』は、ゲームメディアにおいて眼鏡っ娘の存在を意識させる点で非常に重要な役割を果たしているだろう。さすがにGAINAX、先見の明がある。90年代、男性向メディアにおける眼鏡っ娘の地位は向上し続けた。主に『少年キャプテン』で活躍した西川魯介[図32][図33]をはじめとし、眼鏡っ娘に対する限りない愛を感じさせる作家も多く登場している。男性に都合がいいストーリーを毎回描いている『BOYS BE』でも、「Report134 レンズの向こう側には」では、1970年代の逆転眼鏡っ娘マンガそのままの物語構成を示した。少女マンガのパロディかと思ったくらいだ。

また、ギャルゲーにおける眼鏡っ娘の隆盛も興味深い。90年代半ば以降は、ギャルゲー一作につき一人は必ず眼鏡っ娘が登場するようになってきた。これは有機体モデルによる解釈が可能である。登場キャラのうち誰か一人に特に強く肩入れするプレイヤーもたくさん存在する。もちろん眼鏡っ娘たちも圧倒的な支持を集めている。一方で、全キャラコンプリートが信条のプレイヤーもいる。これは、誰か特定のキャラだけを特別扱いするのではなく、ゲーム全体を有機体的に解釈して味わう態度なわけだ。いっぽう世紀末には、登場する女の子が全て眼鏡っ娘というゲームも登場した。これは、通俗的な有機体モデルへの挑戦として捉えられるだろう。

また、この眼鏡っ娘興隆の流れは、直感的には「子ども/おとな」コードの変質とも関わってくる。眼鏡っ娘をさかんに描いた森山塔が「ロリコン」という概念も同時に浮上させていることなどは、男性メディアにおける眼鏡を「子ども/おとな」コードの変質との関わりで検討する足がかりになるだろう。80年代前半にロリコンの全盛を現出した吾妻ひでおが眼鏡っ娘をほとんど描いていないことを考え併せると、森山塔の位置づけの重要性が改めてうかびあがる。

少女マンガが眼鏡っ娘を優遇した70年代、男性向メディアは眼鏡っ娘を冷遇した。「眼鏡を外したら美人になる」という誤った観念は、少女マンガではなく、少年マンガが流布した。しかし少女マンガが眼鏡っ娘を忘れかけている80年代後半以降、男性向メディアでは眼鏡っ娘が急浮上した。この捻れ自体がジェンダー論的に興味深い論点を含んでいると思われる。おそらく眼鏡が象徴する「主体性」というものが深く関わっているだろう。これは、男性の側に眼鏡っ娘を受け入れる条件がどう生じたかという問題であり、「子ども/おとな」コードの変容だけでなく、「女/男」コードの変容も視野に入れなければ解明できない問題だろう。

図34
図33『キャラメル・オーガスト』(c)田渕由美子

だが今は、眼鏡っ娘の人気が急上昇しているという事実を指摘しておくだけで充分だろう。70年代以降、不幸な偏見に貶められてきた眼鏡っ娘が、いま、ようやく広く認知されつつあるのだ。眼鏡っ娘少女マンガの旗手だった田渕由美子も、15年の沈黙を破って1998年にとうとう復活した。眼鏡に円い光を描き入れるお馴染みの手法も健在である[図34]。眼鏡っ娘の未来は明るい。

80年代以降のポスト・モダン状況、大衆社会状況の矛盾が認知されつつある今、眼鏡っ娘が新たな脚光を浴びつつあるということは、何かしらの大きな意味を持っている。眼鏡っ娘は常に社会状況を反映してきたからだ。眼鏡っ娘を理解することは社会を理解することであり、社会を理解するということは眼鏡っ娘を理解するということである。眼鏡っ娘のことを説明できない理論は、すべてクソである。そして21世紀の社会も、きっと眼鏡っ娘がリードしていく。眼鏡っ娘たちは常に社会の矛盾と共に、理想や希望を一身に体現してきた。つまり、眼鏡っ娘は偉いのだ。だから我々は、眼鏡っ娘から目を離すことができない。きっとこれからも、魅力的な眼鏡っ娘たちにたくさん会えるだろう。

最後になりましたが、貴重なマンガを貸して下さった京さん、サトーさん。有益な意見を聞かせて下さった島本さん、ヒゲ眼鏡のタカさん、繭子さん、マリさん、GCMLの方々。いつも勇気を与えてくれる眼鏡者の同志のみなさん。TINAMIXに書く機会を与えてくれた東さん、砂さん、TINAMIX編集部のみなさん。それから散漫になりがちな私の文章につき合って下さった方々。ほんとうにありがとうございました。そして、眼鏡っ娘のみなさんに乾杯!◆

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図28
図28『片道切符』
(c)和田尚子
図29
図28『DR.スランプ』
(c)鳥山明

「眼鏡を外したら美人」という愚かな観念を一般に流布させた。
柳沢は、『翔んだカップル』以前の1976年に『ぼくちゃん先生』というマンガで優等生眼鏡っ娘をヒロインにしている。眼鏡に対する負の描写は一切ない。また1979年頃の『オフロード』でも優等生眼鏡ヒロインを描いている。1973年から『週刊少年ジャンプ』に掲載された『女だらけ』の主人公の一人である野崎二子は、眼鏡を取ると点目になってしまうという設定だった。1983年から『週刊少年チャンピオン』に連載された『SEWING』では眼鏡っ娘をヒロインとし、眼鏡に対する理解を示している。本質的には眼鏡っ娘に厳しい作家ではない。返す返すも『翔んだカップル』の愚挙が悔やまれてならない。

図32
図32『屈折リーベ』
(c)西川魯介

西川魯介
代表作『屈折リーベ』は中世スコラ学以来の実在論と唯名論との対立を主題化した作品である。「眼鏡っ娘」は普遍的概念なのか、それとも存在するのは個々の眼鏡をかけた女性だけであって抽象的な「眼鏡っ娘」は幻想に過ぎないのか…。これはクリプキの固有名論も想起させる問題であり、大澤真幸『恋愛の不可能性』(春秋社、1998年)も同様の言語哲学的議論から「恋愛の不可能性」を説いた。しかし西川は、自らの実存を賭けて「眼鏡っ娘を愛することは可能か?」と問うたのである。驚愕だ。しかし、この眼鏡史上に特筆されるべき傑作が、なかなか単行本にならない。たいへん、勿体ない。

「Report134 レンズの向こう側には」
『週刊少年マガジン』1994年24号。

ゲーム全体を有機体的に解釈して味わう態度
ちなみに私は、眼鏡っ娘でクリアしたら、それ以上ゲームはやらない。

通俗的な有機体モデルへの挑戦として捉えられる
眼鏡っ娘がまったく出てこない『ときメモ2』も通俗的な有機体モデルへの挑戦と把握できるかもしれないが、単にキャラクターバランスを失しているだけのように見える。眼鏡っ娘を無視するのが愚の骨頂であることは言うまでもない。

眼鏡っ娘をほとんど描いていない
吾妻ひでおの眼鏡っ娘は、新井素子くらいだろう。

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