TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき 〜恋愛少女マンガの思想と構造(2)
はいぼく

・恋愛行為論

「告白」の障害が眼鏡だとすれば、障害を取り除くことはすなわち眼鏡を外すことを意味する。「眼鏡を外したら美人になる」という見解は、「障害を取り除いたら告白に成功する」という言葉に一般化することができる。たしかに、眼鏡っ娘を扱った少女マンガの中には、「眼鏡を外して告白に成功する」という物語を描いたものがある。これを行為論にしたがって図示したのが図1である。(注1)

図1/図2

縦軸は愛の状態である。前回述べたように、愛の状態は「告白」によって二項対立的に分解される。すなわち、告白に成功して「愛の獲得」された状態と、告白に失敗あるいは未だ告白していないために「愛の剥奪」された状態である。横軸は眼鏡の状態である。眼鏡はかけているかかけていないか、2つに1つである。言うまでもなく、眼鏡を半分だけかけているという中途半端な状況など存在しない。

愛の状態は「告白」によってデジタル的に二項分解され、眼鏡の状態は有るか無いかで二項分解される。愛の状態と眼鏡の状態を掛け合わせると図1のような2×2のマトリクスができる。そして眼鏡を障害だと考えた場合、「眼鏡という障害があったら告白に失敗する可能性が高い」し「眼鏡という障害を除去したら告白に成功する可能性が高い」わけだが、この予測を図1に期待値の不等号(x>w、y<z)として表してある。

ここでまずは、通俗的な眼鏡っ娘理解を示しておこう。たとえば、ある一群の眼鏡っ娘マンガは、主人公を初期状態として図1のzの位置に置く。すなわち、「メガネ有/愛の剥奪」の状態である。障害としての眼鏡があるのだから、告白には失敗し、愛が剥奪されているわけだ。しかし、彼女は眼鏡を外す。つまり、障害を除去する。そして告白に成功し、愛を獲得する。つまり、主人公はxの状態に移行する。xとは要するに「メガネ無/愛の獲得」状態だ。これでハッピーエンド。この物語の流れを、「z→x」という式で記述することにしよう。一般に、こういう物語を指して「眼鏡を外したら美人になる」と言っている。

さて、ちょっと考えればこの「z→x」という式が成立しにくいことに気がつくだろう。「眼鏡があったら告白に失敗する」という予測があるのだから、主人公がいつまでも眼鏡をかけているのは不自然である。眼鏡は脱着可能なのだ。つまり、初期状態がzということに説得力がないわけである。

・古典的眼鏡っ娘2類型

眼鏡を外すとx状態になれる(愛を獲得できる)という予測があるのに、なぜいつまでも眼鏡をかけ続けるのか。その疑問を封鎖する様式は2種類ある。

(1)主人公が愛の状態を分節化していない


図3『ブルージンのあいつ』(c)菊川近子

図4『思いちがいのラブレター』(c)横田幸子

主人公が恋愛にまったく興味がなく、「愛の獲得」の状態に価値を見出さないとき、彼女にとっては眼鏡が有るか無いかなどまったく問題にならない。そもそも主人公の中には図1の構図が成立しておらず、自分がzの状態にいる自覚がないわけだ。しかし、いったん恋愛に目覚めると、図1の構図を認識し、たちまちz状態に置かれている自分の立場を理解する。そうなれば、すぐに障害である眼鏡を外すことになるだろう。

この種の眼鏡っ娘を「ガリベン眼鏡っ娘」と定義する。恋愛に無関心だった主人公が恋愛に目覚め、眼鏡を外すという物語である。具体的な作品としては、菊川近子『ブルージンのあいつ』[図3]、横田幸子『思いちがいのラブレター』[図4]、伊予田成子『奥さま出番です!』[図5]、伊藤かこ『姫に捧げるフェアリー・テール』[図6]、椎名あゆみ『魔法をかけて』[図7]などがある。


図5『奥さま出番です!』(c)伊予田成子

図6『姫に捧げるフェアリー・テール』(c)伊藤かこ
図7『魔法をかけて』(c)椎名あゆみ

(2)主人公がいじけている。


図8『ミセスロビンソンのおじょうさん』(c)大和和紀

図9『甘い恋のビンづめ』(c)別府ちづ子

図10『ワンサイド・ラブ』(c)たらさわみち

主人公は図1のような予測をせず、図2のような予測をする。すなわち、「眼鏡をかけていたら告白に失敗するだろう、そして、眼鏡を外したとしても告白に失敗するだろう」という予測である。要するに、自信がないのだ。しかし実際には少女は眼鏡を外すと美人だった。「眼鏡を外しても告白に失敗するだろう」というのは、単なる思い込みだったというわけだ。少女はそれを理解すると、速やかに図1の認識枠組へ移行する。要するに、あっという間に眼鏡を外すわけだ。この種の眼鏡っ娘を「醜いアヒルの眼鏡っ娘」と定義する。具体的な作品としては大和和紀『ミセスロビンソンのおじょうさん』[図8]、別府ちづ子『甘い恋のビンづめ』[図9]、たらさわみち『ワンサイド・ラブ』[図10]などがある。

この2つの様式を「古典的眼鏡っ娘」と呼ぶ。ここで注意しておくべきことは、古典的眼鏡っ娘マンガでは、読者は一貫して図1の認識枠組に依拠していることである。というより、どちらの様式もまずは読者を図1に依拠させておいて、しかる後に主人公が図1の認識に至っていないことを初期設定として描く。(1)や(2)の様式は、読者の依拠する認識枠組と物語の主人公の認識との落差を、物語を成立させる戦術として採用しているわけだ。要するに、読者は「眼鏡を外したら告白に成功するのになあ」と思っているのに、主人公はそうは思っていないということである。この読者と主人公の間のやきもきとした落差を埋めていくことが物語になる。眼鏡を外す瞬間は主人公の認識枠組みが読者の認識枠組みと一致する瞬間であり、これがカタルシスとなる。>>次頁

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注1:
宮台真司『権力の予期理論』勁草書房を参照。宮台は昔は社会学理論でも優れた仕事をおこなっていた。眼鏡っ娘を理解するためには、サブカル系の著作より『権力の予期理論』のような理論的仕事のほうが有益である。

『ブルージンのあいつ』
(c)菊川近子/『週刊マーガレット』1972年25〜28号。

『思いちがいのラブレター』
(c)横田幸子/『別冊少女フレンド』1974年9月号増刊。「恋、恋って……そんなにすてきなことなの/数学の公式を暗記したりとくことよりも」というセリフは、ガリベン眼鏡っ娘マンガに典型的な価値の転換の瞬間を示している。

『奥さま出番です!』
(c)伊予田成子/『週刊マーガレット』1975年8〜14号。

『姫に捧げるフェアリー・テール』
(c)伊藤かこ/『プリンセス』1985年。眼鏡のほうがかわいいと思うんだが。

『魔法をかけて』
(c)椎名あゆみ/『りぼん』1988年9月号。眼鏡のほうがかわいいと思うけど。

『ミセスロビンソンのおじょうさん』
(c)大和和紀/『別冊フレンド』1971年3月号。宮台の「眼鏡とれば美人。これがわたし?」という引用は、このあたりが出典だと思われる。宮台はこれを60年代のマンガとして説明しているが、実際は70年代的なものである。

『甘い恋のビンづめ』
別府ちづ子/『なかよし』1974年2月号。

『ワンサイド・ラブ』
たらさわみち/『週刊少女コミック』1979年9月30日号増刊。

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