TINAMIX REVIEW
TINAMIX

「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」レポート

■記号指向の文化

ポストモダン批評の立場から東浩紀氏は、ポルノグラフィックなマンガ表現、いわゆるエロマンガを支える「文化」の構造について、「記号指向」「キャラクター指向」という言葉をキーワードに発言を行った。

まず前提となる発言を要約しよう。――従来「文化」とは、日本文化、フランス文化といった大きな単位だった。しかし情報技術が発達し、複雑な消費社会があらわれたこの半世紀で、「文化」の概念は大きく変化した。すなわち国家が単一の文化をもつのではなく、そのなかに多数の多様な文化をかかえている、そのような小さな単位が「サブカルチャー」である。サブカルチャーは様々な性質の集団(民族集団、地域集団、社会階層……)を核に発展するが、社会の均質化が著しく進んだ戦後の日本では、サブカルチャーは主に世代集団ごとに発達した。――こうした整理を前提に、東氏は大きく二つのことを主張していた。

東浩紀

一つめはこうした文化を特徴づける「記号指向」もしくは「キャラクター指向」である。 たとえば、仮にあるキャラクターが少年や少女に「見える」としても、それは現実を写実したものではない。なぜなら彼らは、「現実指向」とは切り離され、いくつかの記号的要素を組みあわせて作られた虚構の存在だからだ。彼らのデザインには、同一のサブカルチャーに属していないと解読できない複雑な意図が隠されており、そこには現実から切り離された参照の枠組みが存在している。

したがって、キャラクターにむかう性的欲望は現実を脅かさない。なぜか。以上のような「記号指向」にそった性的欲望、すなわち「記号にもとづいたセクシュアリティ」は「現実にもとづいたセクシュアリティ」と分離しているからだ。両者は原理的に違うものである。エロマンガのような性的表現のなかに子供にみえるキャラクターがいたとしても、それは現実の「CSEC」を促進する効果はもたないだろう、と東氏は述べていた。

二つめはマンガ・アニメ・ゲームといったジャンルが現在の若い世代が参入するサブカルチャーにおいてきわめて重要であるということだ。東氏によれば、エロマンガは読者の性的満足を目的とした単なる消費財ではない。そこにはすぐれた作家がおり、表現の実践があり、繊細な問題意識がある――現在のサブカルチャーを背景とした芸術的実践の場だ。

こうした文化の内在的な構造の理解をせず、部分的にエロマンガだけを切り離して規制することは危険であり、十年後、二十年後の文化状況に大きな影響を与える。現実の「CSEC」と関連をもたない「記号指向」の表現を規制することは、日本では性産業の問題ではなく文化の問題、すなわち表現の自由と検閲の問題になってしまうだろう。日本の施政者は、「児童ポルノ規制」の国際的文脈と国内的文脈のこの差異について慎重であるべきだ、と東氏は述べていた。

■子供と性

フェミニズム的マンガ研究の立場から藤本由香里氏は、主に「現場における実際の運用」と「子供と性の問題」について示唆的な発言を行った。

前者について最も危惧されるのは、「絵やマンガ」の規制が拡大解釈を生み、それが自主規制など様々なかたちでマンガ文化にダメージを与えることだ。たとえばある少女マンガ編集者は藤本氏に対して、児童ポルノ法が改正され規制対象に「絵やマンガ」が含まれたときには、山岸涼子が「ダ・ヴィンチ」誌で連載中の『舞姫 テレプシコーラ』(メディアファクトリー)も規制の対象になるだろうと語ったという。

『舞姫』には、貧しい両親によって、まさに「CSEC」にさらされていた少女が登場する。むろんテーマはこうした性的搾取、チャイルドアビュース(児童虐待)それ自体への批判、あるいはそこからの回復にあることはまちがいない。しかし編集者氏の憶測が意味することは、そのような主題や性描写の作中におけるコンテクストは、おそらく無視されてしまうかもしれないということだ。

似たような事態は実際に起きている。藤本氏からも言及があったが、児童ポルノ法が施行された直後に起きた、紀伊国屋による自主回収問題である。成年マンガのみならず、『バガボンド』(講談社)や『ベルセルク』(白泉社)といったポルノグラフィが目的でない作品も、児童の性的描写があるとして回収されたのだ。紀伊国屋の過剰な自主規制については、児童ポルノ法が施行される直前に「見せしめのための摘発」をおそれて「疑わしき物は排除する」という基本方針を各店舗へ通達したファックスが伏線となっていたことは指摘しておく。

後者の視点は、女性へむけられた視点と重なる。児童ポルノ法が規定する「児童」の一部は、生物学的にはすでに性的な存在であり、当然のことながら「子供の性」という問題は避けられない。だが日本の社会は、ややこしい議論よりも、そうした問題自体の隠蔽を好む。藤本氏の主張は、子供の性描写を規制することが一種の情報規制につながり、子供を非性的な存在にとじこめ、かつて女性がそうであったような性的に無知で搾取しやすい状態にしてはならないということだ。また藤本氏は最後に、「日本の大人の男が海外で少女を買うのなぜか」「どうしたらこれをやめさせられるのか」――真にとりくむべきなのはこの問題ではないか、と述べていた。 >>次頁

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