TINAMIX REVIEW
TINAMIX
ルネッサンス ジェネレーション<未来身体>

レクチャーPART2:ADDICTIONの三つの層

東浩紀氏(哲学者)が担当。議論は主に三つにわけて行われた。まず20世紀において支配的だった精神分析的なフェティシズム理論の整理。次にポストモダン化した70年代以降の文化状況とオタク系文化の関わり。それから90年代的な(新しい)フェティシズムの分析と、それを支える理論的骨子の提示。――これらは同時に本誌の関心領域でもあるため、少し長めに紹介しようと思う。

最初にフロイトの理論では、幼少期のトラウマ経験(去勢否認)によってフェティシズムの対象がただひとつだけ決まる。この経験は、母親にペニスがないことを確認したときに起こり、その直前に見た物にひとは固執するといわれる。俗に「足フェチ」「下着フェチ」といわれるのは、子供の視線はだいたい下半身に集中しているからだそうだ。

これだけでは「?」だが、実はフロイトの理論は20世紀中葉にジャック・ラカンによって高度に洗練された一種の哲学体系となる。ラカンの理論のなかでフェティシズムは、世界と自分の関係を支える。ひとは世界(心の外の認識不可能なもの)と自分(意識)を繋ぐための「フック」のようなものが必要だといわれるが、それがないとひとは独我論に陥るからだ。ラカンはそれを「対象a」と呼び、これがフェティシズムの対象である。

写真2

もし理論がその通りだとすれば、フェティシズムの対象はただひとつだけで、しかもそれは何であっても構わない、つまり偶然で決まるようなものだ。しかし、こうした前提に非常に強い疑いをいだいていると東氏はいう。フェティシズム、もしくは今回のテーマでいえばADDICTIONの対象はどれほど固定的なのか。むしろある種の訓練によって獲得されるフェティシズム、またある一時期までハマらなかった対象に、あるとき突然ハマるような現象もあるのではないか。

しかし、だからといってラカンの理論が間違っているというわけでもない。というのもポストモダン化のあらわれとして、日本ではひとつにオタク系文化があるが、ここで行われていた視覚的な過剰解釈(たとえば『うる星やつら』の作画監督によるデザインの違いを見抜いていく過程。岡田斗司夫『オタク学入門』を参照)の態度を、実はフロイト・ラカン的なフェティシズムの理論でも説明することができる――ポストモダン化された高度消費社会では、主体と世界の関係がますます希薄になり、そこで世界との関係性を回復するためにも、もう一度なんらかの「フック」が必要とされるというわけだ。初期のオタク的な過剰解釈も、こうした欲望から出てきたのではないか。

東氏は、90年代後半のオタク系文化では、これとは違った枠組みでオタクがものを見ているように感じるという。その際に提示された参照例があの「デジキャラット」こと「でじこ」だ。それは一方で、オタク的デザインが描いてきたガジェット(ネコ耳、メイド……)の、きわめてよいリミックスである。オリジナル作品よりも、既成作品のコピーやリミックスで制作する方向自体はいよいよ支配的なので、たしかにでじこはそこに織りこまれた引用の束を解読する欲望を誘うかもしれない。>>次頁

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