TINAMIX REVIEW
TINAMIX

相沢恵の 他人事じゃない!

ギャルゲーにおける今年最大の話題作といってよい『君が望む永遠』(アージュ/2001)に何かしらの価値があるとしたら、僕はまず『WHITE ALBUM』問題をきちんと解決したという一点を指摘するだろう。しかしながら、『WHITE ALBUM』問題とはいったい全体何か。さしあたってそれから説明しよう。

■『WHITE ALBUM』問題

WHITE ALBUM
『WHITE ALBUM』(Leaf/1998)

『WHITE ALBUM』(Leaf/1998)は主人公に恋人がいる状態からスタートする。制作者によれば、これは当初、浮気のプロセスを楽しむことが狙いだったという。しかし実際のゲームプレイにおいて、システムは、並列分岐した複数のヒロインシナリオのなかで初期設定(恋人)と最終結果(ヒロイン)が衝突することを描いた。つまり重点は、プロセスよりむしろクライマックスにおかれるというわけだ。

したがって物語的水準で『WHITE ALBUM』が受ける評価は、当然こうした衝突が与える痛み、恋人である森川由綺を振る痛みへと向かい、知りうるかぎり、それは概ね成功していたように思える。だが僕はそこからこぼれおちてしまった。理由は三つ考えられる。

一番身も蓋もない理由からいうと、僕は由綺よりもライバル役の緒方理奈の方が好きなのだ。なぜか。それは、物語的水準より以前に、僕個人にとっての萌え要素の優劣で決定されている。すなわち、

「理奈はつり目でアスカみたいな髪型、それでいて性格は良心的と来てる、これはイイ!――他方で由綺は……優しくて健気だけど、何だかパッとしませんぜ?」(図1)

理奈由綺
図1:理奈と由綺 『WHITE ALBUM』(Leaf/1998)より

といった認知をされてしまえばそれまで、というレベルの問題だ。これはマルチヒロイン形式の冷酷な側面である。由綺と理奈がくりひろげる壮絶なビンタ合戦も、それゆえ僕には理奈の独壇場としか映らない。客観をよそおわないかぎり、プレイヤーとは意外とそういうものだ。

第二に、僕は多角的な恋愛関係それ自体には関心がない。また自分の恋愛経験を参照しつつ、「三角関係で悩んだときのことを思い出してわんわん泣いてしまいました!」という態度で物語を読むこともなかった。これではフィクションは、とりあえず他人事である。おそらく「恋愛の修羅場」的事態に関心や経験のあるプレイヤーは、『WHITE ALBUM』を、由綺との別れを、痛みとして感じることができたのかもしれない。だが、そこでゲームプレイの価値は、あくまでも個人的な関心や経験のレベルに委ねられてしまう。

このとき必要となるのは、以上のようなレベルを超えるための、ジャンプ=飛躍である。すなわち僕の考えでは、プレイヤーに痛みを感じさせたいのなら、主人公である藤井冬弥が由綺とのあいだに積み重ねたはずのエピソードを描き、由綺を振る冬弥と、由綺を振るプレイヤーのレベルを一致させるための配慮が求められていた。『WHITE ALBUM』にはこうした配慮が決定的に欠けている。(*1)

さらにこう説明できるだろう。ギャルゲーというジャンル規則における恋人は、設定として予め存在するのではなく、私=プレイヤーといかなる経験のもとにおかれてきたかという来歴によって、恋人として「起こる」のである。いわゆるギャルゲーの日常性とは、この経験のプロセスを描くもののことだ。そして当然のことながら、こうした経験、すなわちギャルゲーに特有の時間性を経ていない存在を、僕たちは恋人だと認知することはできないのかもしれない。(*2)

そのような恋人を無自覚的に設定してしまうこと。それによって肝腎のドラマが、しばしば制作者が意図したようには読まれない、あまりにもギャルゲー的な悲劇を、僕はとりあえず『WHITE ALBUM』問題と呼んでいる。 >>次頁

(*1)同様の指摘は、以前「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」で試みていたが、企画者が不在だったこともあり詳しいコメントは得られなかった。
(*2)「恋人」をひとつの要素として見た場合、おそらく「妹」や「幼なじみ」よりも甚だ曖昧かつ多様であり、そもそも内面化過程を経ずに定義すること自体難しく、したがって萌え要素となるにはあまりにも脆弱であることが最大の理由ではないだろうか。
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