コタエヨ。
この問いに対して、俺は、他人に対して説得力を持ちうる答えを持っていない。
俺は……愚かだ。
鞍馬のように、世の物事を安易に判断せず、全てを緻密に分析し、理路整然とその精髄を極めて行く頭脳も無い、仙狸のように人生経験を幾重にも己の知恵の中に畳み込み、その厚みのある知性と理性を基に、静かに達観する事も出来ない。
右往左往し、思い惑うだけの、愚かな凡夫。
悔しさに、ぎゅっと手を握る。
……手?
自分に手がある事に、今気が付いたかのように、彼は改めて、自分の手を握った。
手か。
自分の掌に目を落とす。
「討伐お疲れさん、駆け付け三杯じゃねぇが、先ずは一杯やってくれ」
差し出した杯を綺麗に日焼けした紅葉御前の手が受け取り、ぐいと大きく傾ける。
喉がぐびりぐびりと旨そうに鳴る音に、男は嬉しそうに眼を細めた。
「ぷっはー、この一杯の為に生きてるってもんだよ、それにここで呑む酒の旨い事ったらないよ、なぁ童子切」
「全くですね、そろえたお酒が良いのもありますが」
こちらは、大杯に受けた酒の面(おもて)を揺らす事も無く、口にするすると含んだ童子切が淡く微笑む。
「気心の知れた人と呑む以上に楽しいお酒はありませんからねー」
この手で、気の合う友と酒を酌んだ。
「こりゃ、かなり凝ってるな。悪いな仙狸、面倒事を頼んじまって」
戦に必要な物資を調達する為の帳面を纏め終わり、手伝ってくれた仙狸の肩を揉む。
「口より手を動かしてくれんかの……ちと右……おお、そこじゃそこ、強めにたのむ」
「この位か?」
「そうじゃな、その調子で……しかし何じゃな、主に肩を揉んでもらうなど、式姫になって初めての経験じゃ」
ふにゃぁと力の抜けた声を仙狸が上げる。
「悪いな、この程度しか出来なくて」
「ふふ、なぁに、わっちの報酬はこれで十分じゃよ」
仙狸は眠る様に目を閉ざして、極楽極楽と呟いた。
この手で、感謝や親愛、そんな思いを伝えた。
振り下ろした刀が肉を裂く感触。
吹き上がる血と絶鳴。
倒れて動かなくなった妖を見ながら、俺はただ、荒くなった息を鎮める事だけしか出来なかった。
「震えておいでですか、主殿?」
荒い息を吐く俺に向かい、手の中の刀、蜥蜴丸が呟く。
臆病さを嘲るでも無く、挑発し鼓舞するでも無く。
ただ、俺の手から伝わる事実だけを伝えて来た。
「……ああ」
「恐怖、それとも武者震い?」
「……怖いな」
己が死ぬ事も、相手を殺す事も。
「妖の命ですよ」
妖、ヒトの敵、殺す事を世間から称賛される存在。
確かに目の前のこいつも、幾人もの人を食い殺した奴で……そいつを殺した事自体に悔いは無い。
無いけど。
「……何であっても、命を奪った事に変わりはねぇよ」
人は、いや、あらゆる命の営みは、全て取り返しのつかない事の繰り返しで出来ている事を、相手を斬殺したこの手の感触が、否応なくその事を俺に突き付ける。
「そう、そうですね」
刀の姿のままだったが。
「どうかしたか?」
「いえ、主殿らしいと思いましたので」
その時、蜥蜴丸が少し柔らかく微笑んだような気がした。
この手に刀を執り、皆と肩を並べ、生死を賭して戦った。
この手で、皆と畑を耕し、庭を丹精し、飯を作り、掃除をし、碁を打ち。
……そうして生きて来た。
ぎゅっと手を握る。
俺の手の中には……皆から預かった沢山のものが。
コタエヨ。
その声に、彼は顔を上げた。
「ああ、答えよう」
都市王の剣が、唸りを上げて床に倒れたままの夜摩天の上に振り下ろされる。
その絶望の中、動けぬ閻魔が、それでも何とか立とうと身をもがく。
領主は、何も見たくないと言うかのように、頭を抱えてうずくまる。
そして陰陽師は……ただ、祈っていた。
全ての力を絞り尽した人が、それでも及ばなかった時。
その足りない力を貸してくれと。
ただ祈り、そして願った。
ギンと、硬い石に刃が食い込む音が、静まり返った法廷内に響く。
夜摩天を両断し、法廷の床まで刃が食い込んだか。
顔を上げ、悲痛な目をそちらに向けた閻魔は、だが、そこに未だ床に倒れたままの夜摩天と、彼女の隣に振り下ろされ、石の床に食い込んだ都市王の刃を。
そしてその後ろ、あの三人の人間を守るかのように佇む、杖のようにも見える弓を構えたほっそりした人影を見た。
「流石に強いですね、私の一撃で剣を手放さないとは」
彼女は、ずっと隠していた、その理知的な美貌を、今は堂々と晒して、そこに立っていた。
「……なんで?」
この場所ではあり得ない存在を認めた閻魔が、茫然と呟く。
なんで貴女が。
夜摩天もまた、信じがたい物を見るような表情で彼女を……そして彼女が放った矢を見ていた。
緑の光を帯びた矢が都市王の剣を握る腕と、踏み込もうとした右脚を深くえぐり、更にもう一筋の矢は、夜摩天に振り下ろされた剣に突き立ち、その軌道をずらしていた。
一瞬の自失、だがそこから直ぐに立ち直り、夜摩天は叫ぶように声を上げた。
「駄目です……貴女がここに居ては!」
お忍びでの多少の情報交換程度なら兎も角、顔を晒し、紛争に介入するとは、それは天と冥府の間で取り決められた不可侵の協定に背く行為。
それに反しては、例え彼女ほどの神といえど、厳罰を下されるのは……。
その声を受けて、彼女は僅かに柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです、夜摩天さん」
涼やかなその顔と声を間違えようも無い。
キ……サマ。
その時、都市王の喉が、軋るような声を発した。
その喉の、本来の持ち主では無い存在が、無理やり吐きだす音。
「何です、都市王殿……いえ、彼の体を乗っ取った」
彼女の眼鏡の奥の瞳が、珍しく険しく鋭い色を帯びる。
「玉藻の前」
ナゼ、キサマが……。
呪詛に満ちた声が冥府の法廷に陰々と響く。
メイフデノイクサニ、キサマガ!アマツカミガ、カカワッテ、ヨイトオモウカァ?!
「貴女に文句を言われる筋合いは寸毫もありませんが……」
ふ、とため息とも憫笑ともつかない吐息の後に、彼女は微苦笑を浮かべた。
「仰る通り、天津神が冥界の事に関与する事は、本来禁じられているのは間違いないですね」
地上の世界に多少の介入をする程度は、口実一つでどうとでもなろうが、ここは冥王達の治める、世界の命と魂の循環活動たる、輪廻を司る厳正なる別世界。
いかに正しき理由からであろうが、他界の神からの干渉は、衝突と破局をもたらしかねない。
故に、かつて生じた軋轢の後に、互いに干渉しあわない事を約定した。
それを破る存在に対しては、厳しい罰が下される。
だけど。
くすっと、本当に珍しく、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それは神霊たる私の話でしょう?」
ナンジャト?
そう……神霊の私には、何も出来ないが。
「ここに居る私は、天津神の一柱ではありません」
その眼鏡越しの鋭い目を若干優しくしながら、倒れ伏し、動けない陰陽師に向ける。
「今、ここに立つ私は、この方の術が結んだ仮初の姿」
「……わ、たし……が?」
上げた焦点を結ばぬ目に、ぼんやりと優しげな顔が映る。
君を私が呼んだと?
「ええ、そうです」
その繊手が、陰陽師の右手を指し示す。
「我が力の一部を象徴する種子に、貴方は力を与え、そして、冥府と現世への道を開き、助けを強く願った」
九字の最後の種子、知恵を司る菩薩、文殊。
式姫の庭の主、彼の体に書き付けた、その種子の上に置いたまま、もう動かす事も出来なかった、私の右手。
これを依代に……では、まさか、貴女は。
この仏を化身に持つ。
「その願いに私は応え、その種子を依代としてここに顕現しました」
そして、彼女は主と認めた存在に、自らの尊き名を告げた。
「我が名は、式姫、思兼(おもいかね)」
それを聞いた陰陽師の頬を涙が濡らす。
貴女は、私を認めてくれたのか。
「冥府と現世を貫いて届いた、強き願いの籠もった召喚に応じ、分霊をここに顕しました」
私はやっと、この生を通じて渇仰し続けていた……。
「ご命令を、我が主よ」
式姫と共にある陰陽師に、なれたというのか。
滂沱と溢れる涙をそのままに、陰陽師は思兼を見上げ、口を開いた。
「私は、この人達を助けたい」
私の魂を救ってくれた、そして今、式姫と共に在れた……その僥倖をくれた恩人たちを助けるために。
「だから頼む、私と共に、戦ってくれ」
命令をするのではない、縋るのでも無い。
共に歩む相手として、君に願う。
この動かぬ身で、こんな願いは滑稽に聞こえるかもしれないが。
だけど頼む、せめてこの魂だけは、君たち式姫と共に戦わせてくれ。
あの男のように。
その目を、全てを見通すと言われた神の瞳が受け止めた。
陰陽師としての栄達に挫折し、権謀と野心の濁流の中に身を投じ、裏切りと殺戮に満ちた生を終え、その果てに、式姫の庭の主と冥王の魂に触れ、貴方が最後に辿り付いた境地。
その覚悟、その魂、確かに見せて頂きました。
「承知しました」
思兼の放った矢を抜き放ち、その傷が癒えた都市王が、咆哮と共に、降って湧いたように現れた強敵に殺気を向けた。
右手には愛用の剣を、そして、背中から生えた別の手に、夜摩天の斧を拾い上げた彼が、凄まじい勢いで思兼に迫る。
それをちらりと見てから、思兼は静かに頷き、得物を構えた。
「共に戦いましょう」
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/986786
数少ない式姫眼鏡のもう一人思兼様、ついに登場。
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