「ッ…………!」
悪態を付こうとして、しかし言葉が出ない。
一瞬、意識が消失した。そこを狙われた。もちろん、意識が本当に消失してしまっていたわけでは無い。だが、一瞬、何もかもを投げ出しても構わないような、そんな絶望を味わったのは確かだ。
横合いからの、凄まじいまでの衝撃。その衝撃で、今度は本当に意識が飛んだ。だが一瞬だ。それもまた、あるいは視界がブラックアウトしただけかもしれなかった。とにかく、何が本当なのかが分からなくなるほどの衝撃だった。
意識は瞬時に回復して、自分の体が吹き飛ばされている事を自覚したのは、2度目の衝撃があったからだ。
目標の少女と対峙していた場所が、4棟有る校舎棟の一番端。学校敷地内の一番奥。仮にそれをD棟としておく。衝撃で吹き飛ばされた方向は、C棟の方向に向かってだった。
それぞれの棟の屋上には頑丈な鉄柵が設けられており、誤って落ちてしまわないように、十分な強度と十分な高さで囲まれている。
つまり、吹き飛ばされて意識を失ったグレーは、その鉄柵を突き破った衝撃で再び意識を取り戻したのだ。
未だ高速で飛ばされる、自由の利かない体性で状況判断を試みる。
結論はすぐに出た。
最悪だ。
そして、すぐに望みの薄い策を打った。
結論を出すと同時に、C棟最初の鉄柵にぶち当たる。
衝撃が全身を貫く。痛みは感じ無い。最初の衝撃で体が痺れてしまっているし、感じたしてもシャットアウトしている。
ここで止まれば、下に落ちる事になる。この高さでは死なない。むしろここで落ちてくれたほうがまだ良いかもしれない。だが、そのささやかな願いは叶えられる事無く、グレーの体は鉄柵を軽々と突き破った。引きちぎられた鉄柵は、それぞれが紙切れの様に宙を舞い、しかし高速で回転して屋上の床に突き刺さった。
さらに、C棟2枚目の鉄柵も破り、B棟1枚目の鉄柵を破り…………。
今の自分の姿は発泡スチロールの壁に、大砲によって打ち出された人形の様に見えるだろう。
そんなどうでも良いことが頭に浮かび、B棟屋上の地面に背中から激突する。4枚の鉄柵をぶち破り、さすがに勢いが減じられてきたのだろう。
だが、もちろんそこで止まる事は無く、グレーの体は地面に激突した衝撃でバウンドし、
回転しながらB棟2枚目の鉄柵に背中から受け止められた。
その鉄柵は突き破る事無く、しかしほとんど破壊状態。グレーの衝突地点を中心に大きく陥没した形で、仮に鉄柵が消失すればそのまま地上へと落下するであろう程だった。
激突時の衝撃が、B棟鉄柵の全てを揺らしていた。ありえない程に大量の埃が舞い上がり、視界が覆われる。
「ぐ…………う……ぅ………………」
まだ全身が痺れている。
その中で、グレーは己の体を確かめる。
衝撃を感じたのは左側から。左腕はどうなっている? 視線をやり、確かめる。
左腕は元々、肘の辺りから開放骨折していた。だが、そんな元々の怪我など感じさせない程に、今の状態は酷い。左腕は衝撃を受けた上腕を中心に、グレーを支えている鉄柵の様に陥没し、内側からは骨が露出して脇腹に刺さっていた。左腕と脇腹が刺さった骨でくっついている。左腕は、もうどんな事をしても使い物にならないだろうし、そもそも腕としての原型を留めている様には視えなかった。
震える右腕で、それを無理やり引き抜く。血がドロリと出てきたが、そんな事を気にしていられる状況でも無い。
脇腹も劣らず酷い状態だ。
きっと右脇腹の肋骨は全て折れている上に、何本かは内蔵に刺さっているかもしれない。心臓が傷ついていないらしい事が信じ難いほどの奇跡だった。
頭が熱い。どうやら鉄柵を突き破っている最中に負傷したらしい。視界の半分が流れた血で隠れてしまう。辛うじて動く右腕で血を拭う。良かったのか、悪かったのか、頭が陥没したわけでは無さそうだった。
グレーは、おぼつかない足取りで陥没した鉄柵から抜け出し、抜け出した所で、膝を付く。力が入らない。だが、こんな所でゆっくりしているわけにもいかない。
一瞬の油断で全てを持っていかれてしまった。
油断………………。そう、油断だ。
何時の間にか、相手に主導権を握られていた。あんな小娘に何が出来ると、高を括っていた自分が、確かに存在したのだろう。馬鹿な。厳重な警備からして、何かがあるのかもしれないという可能性は予想出来ていたのに。らしくなく熱くなって自分を見失っていた。
その結果がこれだ。重傷という言葉がピタリと当てはまる状態。いや、それよりも悪い。何にせよ、放っておけば死は免れないだろうし、ショック死しなかった事もまた、奇跡だった。
もちろん、放って置かれる事など万が一にも有りはしないが。
その現実を裏付けるかのように、死神が眼の前に降り立った。
アッシュだ。
「ああ…………久しぶりだね、アッシュ。君と別れて以来、私は君以外の男に抱かれた事は無かったよ」
「お前はどちらでもいけるだろう」
「ああ、残念だが、全く…………その通りだっ」
言うが早いか、左腕を下にして、思い切り倒れこむ。
同時に、恐ろしい破壊力を持った灰色の銃弾が十数発、鉄柵を安々と破壊する。
さらに、頭上から人間大の灰色の塊が、ハンマーの様に地面を叩き付けた。
体を捻り、僅かに数センチの差でそれを避けながら体を起こそうとする。まだこれだけ体が動くのが不思議だった。だが、グレーの努力はあっさりと消失する。
体を起こそうとして膝を付いたところで、何時の間にか眼の前に立っていたアッシュに腹を蹴られ、再び鉄柵に身を預けてしまう。
そして首の下、鎖骨の中心を足で踏みつけてくる。
「が…………っ」
咳になりきれない呼気が口から漏れる。同時に、吐血の衝動が沸きあがり、胃まで流れ込んできていただろう血液が一気に噴出した。アッシュの攻撃を避けた時に、内蔵をより酷く傷つけたのだろう。
これではもう動けない。完全に動けなくしてから止めを刺そうというのだろう。
事実、アッシュの力の高まりを感じた。
だが、そうはさせない。
グレーは動く右腕を一閃させた。攻撃だ。
あっさりと避けられてしまったが、それでも離れてくれた事は有り難い。
「その状態でもまだ抵抗してくるとは、しぶとい奴だ」
「まだ…………死ねない…………のでね」
「…………お前は何時もそうだな」
アッシュは呆れたように言った。表情は動いていないが、声の微妙な調子で分かる。
「俺とお前はまるで反対の思考を持っていた。俺はさっさと死んでしまいたいのに、何時も命を後生大事に抱え、お前は存在理由を求めながら、命を手放しているとしか思えない行動を平気でする」
アッシュは煙草を取り出して、火をつける。残念な事に、まるで油断などしてくれていないが。こちらが少しでも動けば、即座に攻撃に移るだろう。
「今回の事にしてもそうだ。明らかにお前の能力の範疇を超えている」
己の存在理由を求めてきているのに、命を簡単に放り出している事を言っているのだろう。言い返す言葉も無い。言い返す理由など無いが。そもそも、言っても理解などできないだろう。
「…………まだ諦めていない眼をしているな。だが…………」
カン、カン、と乾いた音が5つ、何かが鉄柵に当たった音が耳に届く。
その光景は予想できたものだった。だが、予想以上に押しつぶされてしまいそうな威圧があった。
アッシュの攻撃から意識を取り戻した直後、足止めさせていた4人の異能力者がこちらに向かってくるのを確認していたからだ。
グレーを取り囲むようにして、鉄柵の上に5人の人間が立っていた。視たことのある顔も2、3人居た。
「この包囲網から、どうやって逃げ切るつもりだ?」
アッシュの無慈悲な声。
それが別れの言葉であるかのように、アッシュの圧力が増していく。止めを刺すつもりだ。どの様に逃げようとも、今のグレーには逃げ切れない方法で。
こんな瀕死の人間を眼の前にして、異常な好待遇だ。感極まって涙が出てしまいそうだと、口内に溜まった血液を吐き出す。
グレーは僅かに体を動かして、膝を付いた。
(………………頼む)
念じる。
少しで良いから、全力で走らせてくれ。
己の体に念じる。
逃げ切れる確立はとても小さい。そもそも、治療の場所など知らない。逃げ切れたとしても、死んでしまうかもしれない。これほど重傷だと、自分以外の誰かに傷の手当てをしてもらうしか無い。だが、その心当たりが無いのだ。普通の病院には組織の人間が必ず何人か紛れ込んでいるだろうし、普通で無い病院の場所など、組織は承知の上だろう。
だから、この状況で必死になる事は結局無駄かもしれない。
だがそれでも、まだ諦めたくはなかった。
だから………………。
荒い息を付きながら、震える全身を必死で押さえつけ、グレーは左手に一本のナイフを手にした。
包囲している全員に、緊張が走る。ただ一人を除いて。
次の瞬間、包囲している全員が眼を見開いた。
グレーはそのナイフを自分のノドに付き立てたのだ。
ナイフはノドに突き刺さり、反対側の首からその刃先を露出させ、同時に大量の血液が噴出、グレーの体がゆっくりと倒れていく…………ように見えただろう。
だが、実際は。
「光恵!」
アッシュの声に頼らず、それがグレーの精神支配によるものだと、すぐに全員が気付いた。
だが、それにも関わらず、グレーは包囲網を簡単に通り抜ける事が出来た。
形梨光恵。
グレーが校門前で打ち倒し、精神支配にかけた少女。
こちらに向かっていた異能力者は4人。鉄柵の上に立ったのは、5人。
アッシュの攻撃で吹き飛ばされた直後、己の元に4人の異能力者が集結していることに気付いたグレーは、光恵をこちらに呼び出していた。
先ほど、全員が一瞬後のグレーの死をイメージしていた事だろう。そうした相手に、死のイメージを見せ付ける事は実に容易い。それに乗じて、逃げ出すための一歩を踏み出す。だが、それだけではこの体が正常であってもこの包囲網を突破する事は出来ないだろう。どの方向へ向かっても、一瞬で叩き潰される。
だが、ここで形梨光恵というファクターが入り込む事で、その可能性が格段に上がる。
なにせ、他のメンバーは形梨光恵が正常であると思い込んでおり、つまりは包囲網が鉄壁であると確信しているからだった。だが、形梨光恵は正常では無く、グレーの精神支配下にあった。それは、通り過ぎるグレーを見逃すという行為の成立を意味する。
だが、それ以上の行為は不可能だ。つまり、形梨光恵をさらなる妨害要員として利用する事が不可能であるという事だ。これからは、走るという行為に没頭しなければならない。
軋み、痛みきった体を叱咤し、血を撒き散らしながら、グレーは逃げ出した。
そして………………。
もう、意識が怪しい。
視界が暗い。それに、とても寒いのだ。
視界が暗いのは今が夜だからだろうか? そうだとしたらよくそこまで逃げることが出来たものだ。よく、体が持ったものだ。出血が少なかった事が救いだったのかもしれない。それでも、ほとんど致死量の血液を失っただろうが。
ここは、何処だろうか? 何処かの路地だろうか?
建物と建物の隙間の、通路らしき場所だ。
「はは…………」
自分が選んで逃げた場所が理解できていないとは、つくづく限界が近いらしい。
どうやらここまでの様だ。
「…………………………」
死ぬ、か。
もっと恐ろしく悲しいものだと思っていた。
だが、実際はどうだろう。今、自分の中にある想いはそんなものとは無縁のものだった。
それは、己の愚かさを恨むもの。
ターゲットの言葉が忘れられない。
『同じ土俵には立っていなかったのよ』
全くその通りだった。
彼女の本質に触れた瞬間、自分は我を忘れるほどの衝撃を受けた。
彼女の能力は、情報で知り得た様なものでは無かった。そんなレベルのものでは無かったのだ。
あれは…………そう、世界を変えてしまえる様な、そんな圧倒的な力。自分が感じていた彼女の能力など、それが漏れ出したごく僅かな部分でしか無かったのだろう。
しかし、同じ土俵に立っていないとは、能力の差によるものでは無い。詰まる所、心構えの問題だ。
グレーは己の心中に、あの少女を軽視する部分があった事を否定しきれないでいた。自分と似た能力ではあるが、大した能力では無いと。それは、あの少女の本質に触れたとき、茫然自失してしまった事が証明している。彼女と対峙する覚悟が足りなかったのだ。
それでは、同じ土俵に立っているとは言えない。
ふと、僅かな気配を感じてそちらを振り向く。
「良く、ここまで逃げ延びたな」
アッシュだった。
「……あの…………少女……の名は?」
グレーは、掠れる声で言った。どうでも良いことだが、どうしても知りたい事でもある。自分を殺した人間の名前くらい知っておきたい。あの、夢幻の戯言すら無限の可能性に変えてしまうであろう少女の名を。
「…………如月葉月という」
アッシュも、どう見ても助かりそうの無いグレーを見て、答えた。グレーの気持ちに答えたのではなく、情報を与えてもすぐに死んでしまうだろうから、という事だろう。
グレーにもアッシュのその気持ちは伝わり、少しだけ腹が立った。
だから、少しだけ意地悪をしてみたくなった。
「アッシュ…………お前…………は………………奇跡を、信じる…………か?」
その問いに、アッシュは…………。
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とりあえずこれで過去の話は終了です。あと、ちょいと出てきますけど、大体は終わりました。