言われた事の意味が分からない。
そもそも、ターゲットに手をかけておきながら、どうして咄嗟に逃げたのか、自分で全く理解できなかったのだ。
逃げる。その単語を思いついた途端、なるほど、そのニュアンスがピタリと当てはまる。そう感じた。自分は確かにあの瞬間、逃げる選択をした。
何故だ?
アッシュの姿が、どうしてだか見えないという最大の好期なのに。
いや、正確にはアッシュの気配はとても強くなっていた。だが、その気配が幾つも感じられ、どれが本物か区別が付かないのだ。
それは、グレーが学校へ近づくために行った手段と、皮肉な事にほとんど同じだった。
アッシュが近くに居る事は間違いないのだが、何故か仕掛けてこない。護衛対象を放り出しているというとても不自然な状態だった。他の護衛がどれだけ場を離れようとも、おそらくアッシュだけはターゲットの近くに居るだろう。そう確信していたし、事実その通りのようだ。だから、グレーが除かなければならない最大の障害はアッシュであると考えていたし、その準備もしてきた。身体能力で劣るグレーの、その差を埋めるための武装だ。使う者にも寄るが、グレーが使用すれば一撃が必殺に等しい。そんな武器だ。だが、どうしてだがアッシュは姿を見せない。もちろん、そんな事は本来の目的からすれば取るに足らないことでは有るが。なんの考えがあって姿を見せないのかは分からないが、するべき事は1つ。いや、初めからグレーの目的は1つだけだった。ただ奪い去るだけ。それだけなのに。
どうして自分は逃げた?
ターゲットを確実に奪い去るチャンスだったのに。
「貴女は」
再び、葉月の声。
そこで我に帰る。それが一瞬だったとしても、忘我の淵にあった事は信じ難い事実だ。相対している人間にその気があれば、一撃入れられていてもおかしくない。
いや、違う。
眼の前の少女に、そんな戦闘能力は無いのだ。今、自分は明らかに動揺している。落ち着け。仮に落ち着いていたとすれば、『一撃入れられていた』などという無駄な思考をするはずが無い。
目標を速やかに確保する。そして逃走。それを実行に移す。速やかに。速やかに。速やかに。
「私の能力の本質を」
目標が何か言っている。
しかし、関係ない。耳を貸すな。
反応できない速度だ。己が全力で間合いを詰めれば、ターゲットには反応が出来ないはずだ。
グレーはその通り、葉月が反応できないであろう速度で葉月の懐に潜りこみ、そして…………。
「勘違いしているわ」
その言葉で、再び手を止めてしまった。僅かに伸ばした手は葉月に触れそうで、しかしギリギリの所で留まっている。
「…………どういう意味だ?」
その言葉は、腹の底から搾り出す様な労力が必要だった。ともすれば震えだしそうな声を、必死に押さえて言う。
「そのままの意味よ」
「お前の能力は………………人間の中にある未来への可能性を…………助長するものであると、聞いた」
「ええ、そうね」
「間違いであるはずが無い」
「残念だけど…………それは私が持っている能力の本質では無いわ」
「そんな馬鹿な事が…………有るか!」
それでは、何のために自分はここまでやって来た? 死の危険を犯してまで、ここまで来た意味が無い。
情報を掴み、期間を設けて、苛立ちに耐え、刃を突きつけられているかの様な追跡の恐怖に耐え、ほとんど死ぬであろう作戦を実行した意味は?
「お前……お前は私の存在している理由を…………」
始めはふとした疑問だった。
どうして人は生きているのだろう。小さな頃、まだ己の能力を自覚していない頃に抱いた疑問。まだ、本当になにも知らなかった頃。
どうして人は生きているの?
母親に聞いてみた。父親に聞いてみた。キンダーガーデンの幼児教育者に聞いてみた。田舎町だった。幼い頃のグレーが、質問できる大人は、実はそれなりに多かった。田舎には独自の連帯感の様なものがある。だが、如何せん数が少なかったため、念のため、友達にも聞いてみた。
だが、帰ってくる答えは、今ひとつ要領を得ない抽象的な答えだった。友達に到っては、そもそも質問の意味すら理解出来ていない節があった。無理も無い。今にして思えば、酷い質問だ。そもそも、そんなものに答えなど無いのだし、そんな年齢の子供が持つ疑問としては相応しくない。
それは誰もが一度は持ってしまう疑問だろう。ほとんどが十代半ばで陥るであろう、ノド元を過ぎれば考慮にも値しない様な疑問。グレーの場合、その疑問を抱いたのが5歳頃だっただけのこと。自己同一性に障害を持っていたかと言われれば、ハッキリとノーであった。
だが、ある日。
両親が発狂した。
訳も分からず、恐ろしく。泣きながら隣人に助けを求めた。その隣人も発狂した。連絡を受けて到着した警察官も発狂した。
それは能力の暴走だった。
グレーの中に元来あった能力が、ある日突然開花したのだ。しかしそれは、とても美しいと呼べる花では無かった。人の精神を揺さぶり破壊する、醜悪な力の発露だった。能力の本質そのものはそうで無くとも、少なくとも現象はそうだった。
人々は程なくして気付いた。グレーの中にある、恐ろしいものに。
それ故に隔離された。実はその時点では、すでに異能力の暴走は収まっていたのだが、そんな事に普通の人間は気付かない。
幼き頃のグレーが、悪魔付きの子として恐れられるのも、また時間の問題だった。
隔離という手段は、それを如実に表していた。法の元で裁く事など出来るはずも無く、かといって私刑に処す事など出来るはずも無い。何より、殺せば何らかのしっぺ返しが有るのでは無いかと、彼等は本気で信じていた。
暗い部屋の中で、囚人同然の扱いを受けたあの恐怖は未だに忘れ難い。
思い返すと、警察や良識ある病院関係者ならば、もっと別の隔離方法を思いついたのだろう。しかし、そんな人間は存在しなかった。『田舎』であるという条件が悪い方向に働き、最初からそんな事件が無かったかの様にもみ消された。
そして、数ヶ月たった頃、組織の人間がグレーを迎えに来た。
それは地獄からの脱出に等しかった。5歳の少女が両親と切り離され、誰も頼るものの無い、物質的にも精神的にも恐ろしく暗い部屋の中へと閉じ込められる。それが地獄で無いならばなんだと言えるだろうか。
組織での過酷な訓練、能力の制御。任務における生と死の実感。そして、任務としての殺人。その組織もまた、地獄の様な場所だった。だが、グレーにとっては、あの暗闇こそが底辺であり、やはり地獄であった。その組織は、普通の感覚からすれば地獄の様な境遇を強いてきたが、グレーにとってはやはりいくらもマシだったのだ。だから、牢獄生活の中で感情を失いかけていたグレーだが、組織での暮らしは彼女を徐々に回復へと向かわせた。
しかし、狂っていた。
彼女の中の、ある一つの部分は狂ったまま、決して癒える事は無かった。いや、癒えるという表現には語弊があるかもしれない。そもそも、それは決して壊れてなどいなかったのだから。あの日、己の能力が暴走した瞬間に芽生えた感覚。狂い。その狂いとは、すなわち『存在の意味』に対する渇望。
気付いてしまったのだ。
あの日、両親が、隣人が、警官が発狂したその時。彼らの精神を漏らす事無く包み込み覗き込み破壊しつくしたその先に見えた感覚。
グレーは確かにその時、満足感に浸っていた。
それは所謂、狂人や変人に類するものの精神構造を踏襲するというものでは無かった。グレーはむしろ、冷静にその狂いに対して分析していた。
人間の精神を破壊した時、人々を未来へと繋ぎとめている可能性を破壊した時に得られる高揚感はなんだろうかと。
その高揚感に溺れる事無く、グレーは考えた。
そしてたどり着いた結論。
人間の、その精神の奥底に秘められている可能性、本質こそが、その人間が存在する事を許しているのでは無いかと。それは自分もきっと例外ではない。
だが、グレーと言えども、自分自身の精神を知る事は出来ない。つまり、己の本質を知る事が出来ない。
ではどうすれば良いか?
己の存在の意味を推し量るには、より多くの人間の本質を知る必要が有る、と考えた。人の心を蹂躙しつくした時、満足感や高揚感に浸れるのは、存在の真理に一歩近づいたからに他ならないと考えた。己がこのような能力を持って生まれたのは、運命に他ならないと考えた。
それは、グレーが抱えていた、初めからあった疑問に、組織に属して裏の世界に生きるという、常に死と触れ合う環境が産んだ、病的な結論だった。
常識的に考えれば、そんな事が有るはずが無い。しかし、グレーにとってはそれが唯一絶対の真実へと昇華されてしまった。
…………どれだけ言葉で着飾ろうとも、グレーがそうする理由は単純なものだった。
詰まる所、グレーは知りたかったのだ。
自分は何故生きているのか、自分が何故存在しているのか、という事を。思春期ならば誰でも考えるであろう事を。
世界の全てがどれだけ疑わしかろうと、それを疑問に感じる自分の存在だけは絶対の真実であると、昔の哲学者は言った。
だが、果たして本当にそうか?
だから、ただそれだけのために、彼女はここまで来た。組織を抜け、制裁の恐怖に怯えながらも多くの人間を壊し続けてきた。
そして、ついに出合った。自分の狂いを止めてくれるかもしれない人間を。自分の疑問を晴らしてくれるかもしれないという人間を。
こう考えたのだ。
己と同じ様な能力を持った人間なら、その本質はより己に近いのでは無いか、と。これまで、多くの人間の精神を覗いてきた経験則から、人の本質はどれ一つとして同じものなど存在しないが、似通っているものは有ったのだ。
眼の前に立つこの少女こそ、正にそれ。自分の本質に最も近いかもしれない人間。
故に、グレーは手を伸ばした…………。
伸ばした手は、しっかりと目前の少女の肩を掴む。少女は、逃げる素振りすら見せなかった。
「お前が否定するならそれでも良い。お前の本質、私が見極める!」
言葉と共に圧倒的な力が放たれた。
グレーの手を中心に、恐ろしい量の力が溢れ出した。普段の様に、精神をじっくりと吟味する方法とは違う。常人ならば、触れただけでもその精神を破壊されかねない。
しかし、その力に直接さらされている少女は、涼やかなものだった。
「そこまで己の存在にこだわるのは、貴女の過去が関係しているのかしら? 貴女は自分に嘘を付いているだけよ。それが義務感であるかの様に、そうでなければ申し訳が立たないと思い込んでいるだけでは無いかしら?」
少女の言葉を耳にした瞬間。
ぞわりと粟立つような感覚。強制力。これがこの娘の力か?
「私は知りたいだけだ」
「だから、それが嘘だと言うのよ」
もう耳を貸すのは止めろ。
集中して、この娘を見定めろ。その精神の奥底にある、本質を見極めろ。そして己の存在理由を見出すのだ。
集中して本質に触れろ。
集中して。
集中……………………。
「…………………………!」
グレーの呼吸が一瞬止まった。それほどの衝撃を受けた。
眼前の娘の精神の奥底。その本質に触れた時。
その、あまりに圧倒的な娘の力に触れてしまった時。
予想外の衝撃。
眼前の娘の言葉が真実で有ると、一瞬で悟らざるを得なかった衝撃。
それがあまりに圧倒的な力であると知り、それに触れてしまった事で生まれた恐怖。
忘我の極み。
茫然自失。
それまで、アッシュの存在を十二分に警戒していたグレーが、全ての思考を停止し、思わず少女から手を放し、よろけて。
完全な隙が生まれる。
その瞬間。
グレーの体は、クレーン車の大鉄球の如き灰色の塊によって弾き飛ばされた。
「私と貴女は同じ土俵に立って居なかったのよ。そもそも、貴女は私の本当を何一つ知らなかったのだから。…………貴女と私は、敵にはなり得なかったのよ」
高速で飛ばされながら、グレーはその、本来なら聞こえるはずが無い声を聞いた気がした。
なんという事だ。
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グレーはそんなに悪いやつじゃ無いんですよ。