キッチンから大きな音が響き渡り、リビングにいたアイオロスは驚いて振り返った。慌ててそちらに向かうと、入り口付近まで飛んだスリッパに気づき、ついで床に横たわる白い裸足が目に飛び込んできた。
「サガ!……どうしたんだ!!?」
ピカピカに磨かれたキッチンの床に広がる長い髪。整った顔は白いというより真っ青で、瞼がしっかり閉じられてしまいピクリとも動かない。 薄く開かれた唇からかすかに呼吸が漏れている。
「サガ……サガ……しっかりしてくれ………」
聖域きっての英雄アイオロスも、最愛の妻の事になると赤子以下の非力な人間になってしまう。誰もいないのにキッチンをキョロキョロ見渡し、頭を抱えて倒れたままのサガを見下ろしていた。しかし、さすがにこのままにしておくわけにはいかない。この世で最も大切な宝物をキッチンの床に寝かせたままとはあまりにも無能すぎる。アイオロスはそっとサガを抱き上げ、心配で半泣きになりながら寝室に運び、ゆっくりベッドに寝かせた。
「誰か…!…い、医者!……あぁそうだ、あいつを呼ぼう!!」
アイオロスはリビングに走った。震える手で携帯のアドレスを探り、発信ボタンを押す。祈るような気持ちでアイオロスは相手が出るのを待った。
「透視する限りまあ大事には至らないですよ。しばらく眠らせてあげましょう。」
開いたブラウスを合わせ、ムウはそっとサガに毛布をかけた。診察中もサガは目を覚まさず、相変わらず血の気の失せた顔のままフカフカのベッドに身を沈めている。
「ありがとうムウ……お前がジャミールに帰ってなくて本当に良かった……」
椅子に項垂れたままアイオロスは力ない声で礼を言った。側には兄を心配するアイオリアが付き添っている。
アイオロスが電話をかけた時、ムウは教皇の間に新しく作られた談話室にいた。黄金聖闘士専用の部屋で、この日はムウの他にカミュ、デスマスク、アイオリア、アフロディーテもいた。アイオロスが呼び出したのはムウだけだったが、仲間の一大事に皆が黙っているはずがない。まして、その場所が蜜月を楽しんでいる夫婦の新居となれば、冷静沈着な黄金聖闘士といえども興味が沸いて当然だ。
家に着くなりデスマスクは寝室のソファに座り、開いていたワインとグラスを勝手に持ってきて飲んでいた。目の前に広がるエーゲ海をガラス越しに眺め、優雅な気分を味わっている。カミュはキッチンに一人入り、棚を開けて中を確認していた。
「で、原因は何だったんだい?」
アフロディーテは心配そうにサガの顔を覗き込み、彼の特徴的な前髪を撫でた。
「聞かなくてもわかる。どうせ寝る間も惜しんでイチャイチャしすぎたんだろ。」
「おやおや、それは可哀想に。」
デスマスクの即答に、アフロディーテはサガの髪を撫でながらクスリと笑った。ムウは腕組みをしながらアイオロスに向き直った。
「…と、私も言いたいところですがちょっと違うようですね。もともとサガは黄金聖闘士の中でも特に優れた身体を持っていたはず。しかし…ご覧なさい。今の彼はあまりにも痩せすぎです。」
そう言うと、ムウは寝室の壁に飾られた大きな額に視線を向けた。二人の結婚式の写真だが、聖域で行われた古代ギリシャのキトン姿ではない。幸せな二人は、その後フランスでも現代型の式を挙げている。写真のサガはウエストのしまった純白のウェディングドレスを身につけ、後頭部を一部優雅に結い上げた青銀の髪には、大小さまざまな星形のスワロフスキーの髪飾りをちりばめていた。かの有名な「某国の皇妃」さながらの容姿で、男女の性別を超えたその美貌は当日彼を見ることのできた者たち全員の度肝を抜いた。しかも、このドレスを着るためにサガは20キロ以上も体重を落とし、今もほとんどリバウンドしていない。
「黄金聖闘士ほどの小宇宙を持つようになると、脂肪の燃焼はかなり自由にコントロールできますが、彼はスレンダーに見せるために筋力まで落としている。食事をとっても必要以上に燃焼しているのでしょう。今は持ちこたえていますが、このまま同じ事を続けていたら体力も免疫力も落ちて、聖闘士どころか普通の人間以下の体力になってしまいますよ。」
サガが病気に……そう思っただけで、アイオロスはショックでうなだれたまま顔を上げられなくなってしまった。彼の髪や顔から黄金の汗がぽたぽたと膝の上に落ちていく。その量はみるみるうちに増えていき、床にも金色の水たまりが出来ていた。その様子にデスマスクは身を乗り出して声を上げた。
「すげえ、聖闘士が溶けるとこ初めて見た!」
「ダイエットで倒れるなんて女子みたいだね。ところで、カノンに知らせた方がいいんじゃないのか? サガの容態、あまりいいように見えないし……」
「やめてくれ!!!」
アフロディーテの言葉に、アイオロスは弾かれたように叫んだ。急な大声に皆きょとんとした顔で彼を見返した。
「頼む……カノンだけはやめてくれ……こんな事知られたら、アイツに殺される…」
仲間たちは知らないが、実のところサガとの結婚で最も難関だったのは弟カノンを説き伏せる事だったのだ。サガを絶対幸せにするから……と、彼を納得させるのに実に1ヶ月間もかかったのだ。その努力が一瞬で無になってしまう。それどころか、せっかく復活したこの命も相当危険な事になるだろう。そう思っただけで、アイオロスは青くなった自分の顔を両手で覆った。
「でもよぉ、兄貴の一大事じゃねえか。黙ってると………ん?なんだこりゃ。」
デスマスクは喋りながらテーブルの上にあった薔薇型のボンボニエールの蓋を開け、中身を摘まむと不思議そう眺めた。その様子をじっと見ていたカミュが口を開いた。
「コンペイトゥ。」
「何だって?」
「コンペイトゥ。もとはポルトガル菓子のコンフェイト。それは日本製だ。」
「へえ……そうかい。さすがフランス人は菓子に詳しいな。」
一瞬にして部屋の空気を鎮めるカミュの声に、デスマスクは金平糖を口に投げ入れると大人しくまたワインを飲み始めた。そういえば、この家に来てからカミュは無言のままキッチンの棚をあちこち開け何かを調べているようだった。カミュはしばらくベッドの上のサガを眺めていたが、急にアイオロスに声をかけた。
「貴方がた夫婦は甘いものは大丈夫そうだな。」
「ああ…食べるよ。普通に。サガも身体を気にして遠慮している感じはなかったけどな……」
「買ってきたばかりのブリオッシュがあった。ラム酒もレーズンもある。生クリームも冷蔵庫で見つけた。実に料理好きないい奥さんだ。」
そう言いながら、カミュはクローゼットから新しいエプロンを取り出し、アイオロスにはサガがさっきまで着けていたエプロンを渡した。
「何をするんだ?」
「甘いもので彼に精をつけるのだ。」
「今から作るのか??」
「手作りだから良いのだ。」
もちろん、アイオロスに料理の腕前など皆無である。困惑しているとカミュの氷のような鋭い視線がアイオロスを見下ろしていた。彼独特の有無を言わせぬ冷たく美しい瞳に、アイオロスは慌てて椅子から立ち上がり、急いでエプロンをつけた。
「妻の病は、夫の愛で治すのだ。」
そういうと、皆が唖然としているのをよそにカミュはアイオロスの腕を掴んでキッチンに引きずっていった。
窓から流れてくるそよ風を感じ、サガはふと目を覚ました。部屋が薄暗く少しオレンジがかっている。夕方か……そう思った瞬間急いで起き上がろうとしたが、すぐに優しい手が添えられた。
「サガ……大丈夫か?」
「アイオロス……」
目の前にいる最愛の人。言葉を交わさなくても、視線を交わすだけですぐに幸せな気持ちになる。アイオロスの温かい手がサガの頬に触れ、その手のひらに自分のを重ねてサガはしばらく瞳を閉じていた。サガの素直で可愛い仕草に、アイオロスは安心して彼の額にキスをした。
「喉が乾いた……水が欲しい。」
「わかった、すぐ持ってくるよ。」
アイオロスはもう一度額にキスして、すぐにキッチンに取りにいった。再び寝室に姿を現したときには、水差しの他に菓子皿も一緒にトレーに乗せていた。皿に並ぶ可愛らしいケーキにサガは笑顔を見せた。
「サバランだ……買ってきたのか?」
「カミュと一緒に作ったんだよ。あいつ本当に菓子が上手でな。ブリオッシュ全部使っちゃった。お見舞いにきた仲間も土産に持っていったよ。」
「そうか……心配かけてすまなかった……」
「いいって、気にするな。ところで美味そうだろ。ちょっと食べてみるか?」
コップの水を少し飲むと、サガはアイオロスが差し出すフォークに口を開けた。しっとりとしたラム酒シロップ漬けの生地が口いっぱいに広がり、その濃厚な風味に思わずうっとりとする。まさに大人のケーキだ。ちょうど甘いものを欲していたサガは、もっともっとと口を開けてアイオロスを喜ばせた。
「お前、体重を戻した方がいいよ。このままだと本当に病気になっちゃうぞ。」
「でも……」
「元気になってほしいんだ。頼む。それに以前のお前みたいな感じ、結構好きなんだよなぁ。柔らかくて張りがあって。ダイエットなんかしなくてもお前は本当に綺麗だよ。」
照れながらそう言うアイオロスに、サガは安堵を覚えた。食欲に弾みがついたサガは次々と運ばれてくるサバランを嬉しそうに食べた。
2つ目を食べ終えたところで、サガは深く息をついた。
「なんだか……熱くなってきた……」
見ると、サガの額にうっすらと汗が浮かんでいる。アイオロスは笑って額を手のひらで拭ったが、その熱さに少し異様な感じがした。
「あれ?…お前、熱があるんじゃないか?」
「アイオロス……熱い…まるで焼けるようだ……」
サガの頬が上気し目元が桃色に染まっている。呼吸も浅く細かくなり、あまりに熱そうなのでブラウスの前を全開させると、いつもは白い肌が真っ赤になっていた。途端に「別の想像」に走ったアイオロスは、サガに聞こえそうなくらい大きな音で喉を鳴らした。
「だ、大丈夫かお前……」
「すごく熱い……アイオロスお願い……タオル濡らしてきて……」
慌てて今度はタオルを取りに走った。アイオロスが戻ってくる間に、サガは相当我慢できなかったのかすでにブラウスを脱いで半裸の状態になっていた。たっぷり冷水を含ませてしぼったタオルでサガの胸元を拭くと、熱い肌との温度差に感じ入った彼はびっくりするくらい高く悩ましい声を発した。アイオロスを見つめるサガの瞳が恐ろしく扇情的に潤んでいる。濡れた唇からラム酒の甘く芳醇な吐息が漏れ、その様子は、妄想に取り憑かれたアイオロスには「呼吸が苦しそうというより待ちきれない様子」にしか見えなくなっていた。差し出されるサガの手を取り、アイオロスは夢中でちゅっちゅっと口づけた。爪まで桃色に染まっている。
「困ったな……どうしようかな……サガ……私はどうしたらいい?……」
息が上がってきて、自分でも何を言ってるのかよくわからない。しかし、これ以上はとても我慢できない。アイオロスはサガに乗り上げるときつく抱きしめ、甘さを味わうように深く口づけた。角度を変えて何度も何度も。サガもまたアイオロスの背中に両腕をまわし、彼を絶対に放さないと言わんばかりに足まで彼の身体に巻き付けた。その後は衣擦れと二人分の呼吸音だけが部屋に響き、彼らから発するハート型の強烈な幸せ小宇宙が屋敷を覆っていった。
「へえ、そんな事があったんだ。大変だったな。」
任務から帰ったミロに今日の出来事を話していたカミュは、冷蔵庫からお手製のサバランが乗った皿を取り出した。ラップを外すとその一つを手に取り、切れ長のクールな瞳で見つめている。やがて口元に笑みを浮かべた。
「彼の妻はだいぶ弱っていた。だから……薬を多めに入れておいた。」
「薬?……酒のことか?」
カミュは答える代わりにサバランを一口かじり、ニヤリと笑った。
「悪い子だな、お前は。自分だってそんなに飲めないくせに。」
ミロを見つめながら指先でくるくるとサバランを回していたカミュは、突然テーブルに乗り上げて座ると、ミロの口元に自分がかじったサバランを持っていった。 そんなカミュの行為にミロは不敵な笑みを浮かべて応える。ゆっくりとカミュの手を掴み、視線を合わせながら彼がかじった部分のサバランに口づけた。
「………サガのウエディングドレス、綺麗だったな……」
「ああ、フランスで挙式したときのだろ?」
「私はいつになったら着させてもらえるのかな……」
ラム酒に酔ったのか、カミュはうっとりとした声で呟く。視線を外すことなくミロは差し出されたサバランを食べ終えると、カミュの指先についた生クリームを舐めとった。
その夜、二組のカップルが甘く芳醇な愛を交わし、4人の放つ虹色の小宇宙は聖域を超えてギリシャの空を美しく彩った。
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「春の唄」の続きですが、単独でも大丈夫です。王道なロスサガです。人生初のミロ×カミュ要素も入れてみました。