人は己の存在を特別なものと考えて日々を過ごす。自分は違う。自分はそうで無いと言う人間も居るだろう。だが、それは間違いだ。例え、そう考えないように務めて生きている人間でも、四六時中そう在れるわけでは無いからだ。言われた瞬間に再認識し、そして気が付く。それまでは、明らかに己の存在を特別視している。
そして、だが、あるいはそれ故に、その存在の扱いは酷く刹那的で軽い。誰もがそれについて深く考えていないからだ。それが、己だけが特別であるという意識を持つ最大の欠点だった。誰もが、何時如何なる時にでも死を覚悟して生きているはずが無い、というのがほとんどそれを証明している。
そして、己を社会の歯車と見立てて、あるいは一個の部品と考えて無機的な感情で働き、有機的な結果を産み出す。
そこにセンチメンタルを求める事は否定しない。大なり小なり、人は誰もがセンチメンタリストであり、全知全能で無い人間であるために、何かのために働くという意識が無ければとても生きてはいけない。
だからこそ、己の存在を、床に僅か積もった塵の様に軽視する。あるいは、考える事を忘れる。そうなのだから、己こそが特別であると考えているに決まっているのに。
それはもちろん悪い事では無い。むしろそうであるべきだ。
だが、自分は違う。他の誰がそうであれ、自分だけは違う。
「この辺りがギリギリ、か」
グレーは住宅街の一角にある公園で足を止めた。
ターゲットが居る学校まで、距離にして一キロほど。
ここだ。
これ以上進むと、警戒網に引っかかる。隠しきれない獰猛な気配が、離れていても伝わってくる。
今グレーが立っている地点が、敵に気付かれ無いギリギリのラインだった。
無策で行けば確実に殺されるだろう。組織の人間を一人くらい道連れに出来るかもしれないが、それで終わりだ。
ターゲットの居場所や人物の特定を行えた事は大きな成果だった。しかし、己の能力の性質上、それが相手にも伝わってしまうのは大きな欠点だ。今や、ターゲットの周りには組織の腕利きが数人、警護に付いている。
「一国の大統領でも無いというのに、大層な事だ」
皮肉では無い。
ただ、単純な疑問。あるいは確信。
これまでのグレーの行動は、その場その場で巧妙に動いていただけで、そこに至るまでの過程はとても褒められたものでは無かった。
それも当然の事で、ターゲットに対する予備知識が皆無であり、にも関わらず行動を開始したのだから。いや、開始せざるを得なかったのだから。
それ故に、相手に警戒心を与え、『ターゲットの奪取』という目的には非常に困難な状況を作り出してしまうという結果を作った。
しかし、それは仕方が無い。未だ名も知らぬターゲットに関する情報が、全く手に入らなかったのだから。正に、行動を開始せざるを得なかったのであり、行動した結果から情報を得るしかなかったのである。
そうして判明したのは、住んでいる大体の地域と、その能力。もちろん、能力の詳細は不明であるが。
大した能力では無いという記載があった。初めに、ターゲットの事を知った文書での話だ。とても弱々しいものだと。しかし、その真実性は決して鵜呑みに出来るものでは無い。
仮に、ターゲットに高い戦闘能力があるならば、元々無謀だった今作戦はさらに分の悪いものになり、それは己の死の確立を大幅に上昇させる結果を生む。
グレーに懸念があったとするならば、この一点に集約される。
それは杞憂に終わったが。ターゲットの持つ戦闘能力が本当に大した事が無い事は、ほとんど確信できた。ターゲットの位置をある程度特定出来た事で、精度を高めた『負意識の具現化』を投入する事ができた。そして、それにターゲットは触れた。そこから、相手の身体能力が有る程度推測できたのだ。
ターゲットの身体能力をほとんど推測出来た事で、1つの考えが現実味を帯びた。
組織は突然現れ、騒動を起こしているグレーを探し出し、抹殺する。
初めは、組織がそうした目的のために、グレーが狙いをつけたターゲットを『餌に使う事』で罠に嵌め、抹殺を目論んでいるのかと、彼女は考えた。
何故ならば、自分が狙われているという情報がおそらく伝わっていながら、あるいは自分が狙われていると察するに十分な状況があったにも関わらず、ターゲットは決して引かなかったのだ。それどころか、むしろ積極的にグレーの能力を潰しにかかってきていた。
妙な話だ。ターゲットには戦闘能力がほとんど無いはずのに。
実のところ、組織がターゲットを餌にして己を釣るという手段を、グレーはある程度期待していた。それならば、ターゲットが現在地を変更する事が決して無いからだ。組織の完全保護下に置かれれば、もう手の出しようが無い。終りだ。
だが、ターゲット、あるいは組織はそうしなかった。
だから、組織はターゲットを使い、己の抹殺を図っていると考えた。
それ故に、ほとんど罠である確信があるからこそ、今まではそれに対する警戒心により、派手に動けなかったのだ。相手側が罠を貼る事を有る程度予測していて、また、それが事実であり、事態がグレーにとって都合の良い方向に動いているとは言っても、罠である事に違いは無い。その全容は不確かで不鮮明で、迂闊に飛び込めば、死ぬ事すら認識できずに死んでしまう事にもなりかねない。
しかし、その考えが氷解したのはつい先日の事だった。
廃工場での一戦。炎を操る能力者。グレーは彼と戦い、辛くも状況を脱出、敵の精神から情報を奪取する事に成功した。その情報はほとんど何の価値も無いものだったが。いや、情報と呼べるものをほとんど持っていなかった。
その事が逆に思考の抜け道を作り出した。
どうして、ほとんど何の情報も持っていなかったのか?
グレーを罠に嵌めるつもりなら、何の情報も持っていないことは、組織に属している以上、有り得ない事だ。炎の能力者は単独で行動していた。それ故に、情報の質はあまり期待しては居なかったのだが…………それにしても何も知らな過ぎた。
もちろん、炎の能力者と他数名の能力者が、単純にグレーを狩るための要員であり、そうした『狩る』班と『護衛する』班に分かれている可能性もあった。だが、それならばそれで、彼からは得られた情報はもう少しそちら方面に寄っていてもいいはずだ。
それ故に、ほとんど確信した。
ターゲットは、己の意思でその場を動かないのだ。決して、グレーを罠に嵌めるとかそういう事では無くて、ターゲット自身がその場を離れるつもりが無いために、そこで護衛するしか無いのだ。
それならば、ターゲットの周囲に居る人間は、彼あるいは彼女の警護役と考えて差し支えないだろう。もちろん、それで何が変わるわけでも無いのだが。
だが、判らない。ターゲットは平凡な能力者であり、グレー個人としては必要であるが、それ以外には無価値であるはずだ。何故、ただの異能力者にそれほどまで拘るのか? それが不思議だった。明らかに過剰な警護と言わざるを得ない。
己の意思でその場を動かないのなら、見殺しにすればいいのだ。私ならそうする、とグレーは思う。あるいは有無を言わさず力ずくで拘束するか。
それが出来ないだけの何かが、ターゲットには有るのだろうか?
いや、きっと有るのだろう。
そうでなければ、そこまで自由に出来る説明が付かない。自由とは即ち力だ。グレーが組織に居た頃には、彼女には組織に対しての自由が無かった。口答えは不穏分子として即処分されるからだ。
「…………まあ、考えていても仕方が無い。どうせこのままではジリ貧だ。位置も大体掴んでいる事だし」
言葉を切ると同時に、眼も閉じる。
精神を集中させ、能力を発動させる。
眼を閉じる事は、能力を発現する上で非常に有用な手段である。
五感の一つである視覚が失われる事で他の感覚が鋭敏になる。それは普通の人間には存在しない、異能力という第六感にも有効なのだった。
グレーを始め、多くの異能力者は訓練を積んでいるためそんな事をしなくても即座に精神の集中が可能であるのだが、能力を自覚し始めた頃の癖でついやってしまう。悪癖だと自覚しているが、どうも止められない。切迫した状況なら別なのだが。
グレーは自信の能力を発動させ、まず学校周辺に展開させていた負意識の具現化を解いた。
そして、即座に別の形で再構成する。
学校の四方、一キロ地点に集約された四体のそれは、人間の形をしているはずだった。
それも不完全な。
とても人間には見えない、しかし人間を連想させる形で具現化させた。
ただ具現化させただけでは無く、学校へ向かって歩かせる。
当然、大きな騒ぎが起こるはずだ。
正体不明の化物が4体だ。組織は事態の収集に乗り出さざるを得ない。
さらに、作り出した4体に収まり切らず、四散しようとしていた負意識を繋ぎとめ、能力を流し込む。これで、学校の周囲一キロはグレーの力の波動で満たされるはずだった。
つまり、気配的な意味で、目くらましの効果を得られる事になる。
「さて、私も行くか」
力の波動を極力抑えて、グレーは歩き出す。
今頃、学校で警備に当たっていた組織の人間は、事態の収拾に乗り出したはずだ。
そして、同時に気付くはずだ。これは明らかに誘いであり、本陣への敵襲であると。だが、それでも事態の収拾に乗り出さざるを得ない。どれだけ持つかは分からないが、それなりに時間は稼げるはずだ。
グレーの最大にして唯一の利点は、常に先手が打てる事だった。
ブロンドの外人という目立つ容姿でありながらも決して目立つ事無く、グレーは静かにターゲットへと直進し始めた。
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グレーのチラ裏です。