コンフリクト。
人と人とは対立し、衝突する。不可避であり、運命であり、そして本能。路地裏の喧嘩から国家間同士の戦争まで、混沌の淵に立つ者同士の落とし合いだ。
衝突とはそういうもので、一方がそうで無い場合は決して両者がそうなる事は有り得ない。一方にしか対立の意思が無いならば、その結果がどうあれ、物理的な衝突はどうあれ、同じ舞台に立っていないという意味で、精神的な意味での衝突は起こり得ないのである。
「なら、私はどうなのかしら」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届く事無く消える。
そこは、グラウンドが見渡せる場所。グラウンドはとても広かった。県内でもグラウンドの設備が整っている方らしく、敷地面積もその分大きく取られているのだった。野球部専用のグラウンドと、他の部活が使用したり、体育の授業で使用する通常のグラウンドが併合されているので、余計に広く見える。
とにかく、その広いグラウンドを見渡せる場所に設置されたベンチに、葉月は腰を下ろしていた。ベンチは木で創られており、昔の卒業生による寄贈だという。何時の時代のものなのか、シールが貼られているが、年代の部分とその他いくつかの文字はかすれきっており、ほとんど見えなくなっている。
天気の良い放課後。空は青きに徹し、雲の欠片すら見当たらない蒼穹が頭上に広がっていた。少し肌寒い空気は、暖かい光によって心地良さを実感させた。
グラウンドではそんな素晴らしい空気の元、運動部が精を出していた。遠くの野球グラウンドからは、時折り、とても小さい金属音が。
ベンチのすぐ前には、人間一人分の段差が階段状に造られている。その段差のすぐ側を駆け抜ける陸上部の駆け音。雑談。スタータ信号の乾いた音。グラウンドの真ん中、陸上部が使用しないスペースはサッカー部の領域。声や音はここまで届かないが、確かな躍動感が見て取れる。さらには、ハンドボール部、あるいはテニスコートには当然の様にテニス部。。
様々な部活動と、とても多くの人間がそこに在った。とても、とても平和なパノラマがそこに在った。
だが。
「私は、彼女と対立しているのかしら」
この学校は今や、平和とは程遠い空間へと変貌していた。誰もが気付いていないだけだ。それ故に一応の平和が保たれているに過ぎない。知らないが故にこそ保たれる平和というのもあるのだ。
そして、その平和を維持しようと影で奮闘している人間の事も、誰も知りはし無い。
もちろん、そうした仮初めの平和が許容されるのは、護る側の人間が対立勢力と拮抗状態、あるいは見事に勝利した場合の話だ。
「衝突、か………………」
葉月が呟いた言葉は、再び誰にも届く事無く宙に消えるかと思われたが…………。
「何の話だ?」
「気配を隠して後ろに立つのは止めて頂戴、アッシュ」
「すまない。つい、癖でな」
言葉とは裏腹に、態度として謝罪の気持ちが見えない。元々、感情的になる事が少ない男なのだ。その内心は計り知れるものではない。
面白い癖もあったものだ。そう皮肉でも言ってやろうかと考えたが、考えるだけで止める。それは彼が生き残るために必要なスキルであったに違いなく、それを口に出して否定する事は冗談でもするべきでは無い。
変わりに少し睨んでやった。だが、そんなものが利くはずも無い。当然、分かっていてやったのだが。
アッシュは、葉月が視ている方に眼を向けて、その眼を細めた。葉月に視得ていないものが見得でもしていない限り、映っているのはグラウンドだろう。
「良いな、青春というのは」
部活動に精を出す少年少女を視て、そんな事を言い出したアッシュを、
「あら、羨ましいの?」
意外そうに葉月が聞いた。その様な感情…………というか、羨望を持っているとは、何とも予想していなかった。
「いや、羨ましくは無い」
だが、アッシュはそれを否定した。
「昔の俺なら、羨ましかったのだろうがな」
「昔って?」
「俺が君らくらいの年齢だった時だ。俺はその時、シチリアでとある魔術現象を追っていた…………」
「ゾッとしない青春ね」
「全くだ」
そう語るアッシュには、大きな感情の乱れを視る事はできなかった。だが、過去を思い出しているかの様な空気を感じた。
話を変えようとばかりに、アッシュは首を振って、
「後悔しているのか?」
「私はどんな事にも後悔なんてしないわ」
その問いに、葉月は即答した。迷いの無い強い言葉である。そう、如月葉月という人間は、何に対しても常に対等以上なのだ。だから後悔などするはずが無い。
「なら、どうして憂鬱そうな顔をしている」
「憂鬱…………? そう、私はそんな顔をしていたのね」
そうした表情をしていた事自体は否定しない。自分では確認の仕様が無いし、そもそもそういう気分にある事は決して間違いでは無いと考えたからだ。指摘されて初めて自分の事に気が付く、という事は良くある事だ。
「そうだ。私でも分かるほどに、お前は憂鬱な気を纏っていた。早峰クルミが見たら、またいらぬ心配をかけるのでは無いか?」
「そうね…………気をつけるわ」
何よりも大切な親友の名を出されて、葉月は、これは彼女にはとても珍しいことだが、反省した。それは彼女が傍若無人であるとか、そうした意味では無い。そもそも、何かを反省するほど彼女は間違えないし、人と深く関わらないのだった。
「彼女は、私の敵なのかしら?」
呟いた言葉に、アッシュは眉を顰めた。
「おかしな事を言う。グレーは間違いなくお前を狙っている。それならば、彼女がお前の敵で無いはずが無いだろう」
アッシュの言う通りだった。間違いなくグレーは敵だ。
だが。
「ならば何故、彼女は私を狙うというの」
「確かな事は言えないな」
「一番、可能性が高いのは?」
「おそらく、お前の能力に期待しての事だろうが………………それくらい、お前はすでに知っているはずだが?」
「そうね。馬鹿な事を聞いたわ」
言って、葉月は眼を閉じた。
心地良い空気が鼻腔を通り、冷たい風はその冷たさ以上に体温を下げた。それは、この学校に蔓延している、ある特殊な力のせいだ。
確かに、葉月はグレーの目的について、おおよその見当は付いていた。
対外的な…………つまり、外部へ流れてしまった己の、如月葉月という人間が持つ特殊能力…………もちろん、その情報は核心を付いていなかったが。そして、アッシュから聞いたグレーの生きた軌跡。その人生観を考慮すれば、十分に導き出される解答だった。
詰まる所、グレーは己の人生観を同等に語れる人間を捜し求めているのだ。つまり、ほとんど同じ性質を持つ能力者を。それが如月葉月という人間であり、それ故に葉月は狙われるのだった。
だが、それでは意味が無いのだ。無理も無い。グレーは理解していないに違いない。
とにかく、グレーは己の存在意義のためこの戦いを始めたのだ。たったそれだけのために。だが、それがグレーにとっては重要なのだろう。
捕らえられれば、必ず無事では済まない。おそらく、意識の全てを根こそぎ千切り取られる様な真似をされるに違いない。何故なら、葉月が捕まったとしても、グレーの思惑は外れるに違いないし、しかしそれ故に好奇心が勝るに違い無いのだから。
「葉月」
「なに?」
「今からでも遅くない。ここを離れろ」
アッシュの無機質な言葉に込められた感情は、一体どの様なものだったか。それは計り知れない。しかし、それが決して不快なもので無い事は確かだ。それが全てでは無いにしろ、葉月の身の安全を考えての事だと分かっている。
分かっているのだが。
「私はどんな事にも後悔しないと言ったでしょう?」
この学校から離れたくない理由があるのだ。 それはただ一つの単純な理由。
如月葉月という人間と、ただ仲良くしてくれる一人の人間のために、ここから離れるわけにはいかないのだ。…………いや、ただ離れたくないのだ。
眼を開いて、深呼吸を一つ。
とても澄んだ、良い空気だった。
その空気のあまりの清浄さに、含まれた異質な空気が浮き彫りになってしまっている。
この学校は今や、平和な日常とはかけ離れた、グレーの能力が蔓延する危険地帯へと変貌していた。
誰もが、その平和の裏に潜む危険に気付いていない。
誰もが、その戦いに気付いていない。
「嫌な空気だわ…………」
呟いて、立ち上がる。
悪意の無い、しかしほとんどそれと大差の無い、純粋な一つの思いで放たれた能力。その思いを、人は好奇心と呼んだ。
私は、彼女と対立しているのかしら?
再び、その疑問を己に問いかける。
だが、その答えはすでに出ていた。とても単純な事だ。
それ故に、己が負けるはずが無いと葉月は考えていた。
すでに、力の波動から、葉月の場所は特定されているはずだ。
それでも、負けるはずが無いのだ。
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