No.894736

白昼夢【前編】

扇寿堂さん

艶が〜る二次小説。
会津で湯治中の副長とある人の話です。

2017-02-24 10:54:17 投稿 / 全12ページ    総閲覧数:475   閲覧ユーザー数:475

宇都宮でやっちまった足の怪我は、なかなか思うように癒えてくれなかった。歩くたびに、鉛玉が貫通していくような錯覚に悩まされている。恐怖は感じないが、痛みは絶え間なく続くだけに本物だ。ぶち抜いたあの瞬間が生々しく蘇るように、頭の片隅ではその衝撃が生々しいほどに繰り返されていく。早くいえば、俺はもううんざりだった。

 

(近藤さんも、この痛みに毎度悩まされていたんだろうか…)

 

墨染で狙撃されて以来、あの人はまともに剣を揮うことができなくなってしまった。もう一度、近藤さんに虎徹を揮ってほしい。誰しもがそう願わずにはいられなかったんだろうが、とうとうそれが叶えられることはなかった。

 

(口惜しい)

 

そう思えるほど近藤さんの剣は、本人由来とも言うべき特有の味を持っていた。人柄ももちろんだが、あの人の剣はとてもわかりやすいせいか、人を惹きつけてやまない魅力があるのだ。

そのわかりやすさが、俺とは対極にあるのだなと常々思わせるのだった。いつだって計算ずくで、緻密な手法を好むこの俺とは大違いなのだ。

俺たちは剣に宿る生き方すら正反対と言えるほどだったが、条件だとか理屈なんかがくだらなく思えるくらい近藤さんの剣は好ましいものだった。剣も生き方もそりゃ他人に較べれば不器用で、時々やきもきさせられることもあったが、そういう近藤さんに大いなる可能性を感じたのはたぶん俺だけじゃないはずだ。

 

(あんたみたいな人は、この先どこを探したって出会う気がしねえさ)

 

「そうだろう? …大将…」

 

掠れて音になり損ねた声が、唇の端をほんの少しだけ震わせた。心は冷たくしぼんでいくのに、噎せかえる熱気で頭がぐらぐらしている。

自分を苛む痛みのすべてに抗う気力もなく、ただなすがままの日々に、俺はなぜ今日まで生かされてきたのかとまるで際限なく考えてしまうのだ。もちろん、答えなど出やしない。

 

(俺ァ、一体どうしたいんだろうな…)

(死に場所がほしいだなんて、口が裂けても言えねェけどよ)

(…ったく、憎まれっ子世に憚るとはよく言ったもんだぜ)

 

答えの代わりになるものがほしかった。

だが、いくら目をこすってみても、乾ききった視界が濡れて歪むということはない。

 

「畜生…」

 

力なく悪態をついたとき、視界を惑わす白煙の向こうに、人の影を見た気がした。

「…近藤、さん…?」

 

こんなところに近藤さんがいるわけがない。莫迦か。数日前に報されたことを忘れたのか。いい加減に諦めるんだ。

そうやって自分を諌めようと思うのに、心ははなから拒絶したように反対側を見ながら必死にもがき苦しんでいる。

 

「俺だよ。歳だよ。」

 

いるはずがないと頭では理解していながらも、ぼんやりとしたその影を気づかうように俺は穏便に囁いた。当然返事はなく辺りはしんと静まり返っていたが、人影のようなものは相変わらずそこに留まり続けている。こっちの呼びかけを意識しているようだ。

 

「悪かったと思ってる。あのとき、あんたが武士らしく終わりたいって言ったのを、俺は受け入れられなかった。なんたって、甲府城がいけねぇよ。俺はまだやれるって、図に乗っちまって…ましてや尻尾巻いて逃げるなんざ武士のすることじゃあねぇしよ。あんたに一花咲かせてやりてえって…俺だったら汚ぇ手使ってでも絶対何とかできるって、根拠もない自信があってさ…そいつがいけなかったんだよな……莫迦かよ…っ!」

 

頭の中で勝手に創り上げた幻でもよかった。もう一度、近藤さんに会いたい。そんな餓鬼みたいなわがままだった。あのときの非礼をどうしても詫びたかったのだ。

 

「…すまねぇ…近藤さん……頼むから…返事をしてくれよ…」

 

武士として在り続けたいと願うあの人の尊厳を傷つけた。自分の姑息さから逃れるために、贖罪のために思いついた身勝手な願い。そんなのは最初から叶えられるわけがない。

 

「…ごめんなさい…」

 

消え入りそうな弱々しい声が、白煙を通して聞こえてくる。俺のよく知る女の声だった。

 

「真琴、か…」

 

石を飲み込んだように、声がうまく震わなかった。

昏々と夢を見続けて、急に起こされたような戸惑い。そういうモヤモヤとした感じが、思考だけでなく心にまでまとわりついているかのようだ。

きっと真琴がこうして現れたのは、いい加減に現実を直視したらどうかと誰かが告げているせいだと思った。

もし仮にそうだとして、俺を責めるためにあの人が遣わしたのだとすれば、代わりに真琴の口から責められるのが道理のはずだ。

そう思うのなら素直に諌言を受け止めればいいだろうに、俺は自分の触れられたくない部分を自らさらしてしまったことに隠しきれない苛立ちを覚えていた。

 

「いつまでも出てこないから、心配になってしまって…」

 

自分から乗り込んでおいて、真琴は所在なげに立ち竦んでいた。そういう中途半端な気づかいが、かえって俺を苛立たせ苦しめるということをなぜ分からないのか。

 

「放っておけ。」

「そういうわけにはいきません。皆さんも心配されてますし…」

「聞こえなかったか? 放っておけと言った。」

 

真琴の躰は、射竦められたように固く動かなくなっていた。反論も持たず、ただ悲しみを映した眼で俺を見つめている。憐れむような眼差しが、毛羽立った俺の心をいっそう逆撫でるように容赦がない。鉛玉なんかよりも、澄んだ眼で見つめられることの方が何倍も痛かった。

この眼から逃れたい。早く視線を外してくれないか。何なら罵倒してくれたって構わない。このまま置き去りにしてくれた方が、今の俺には気が楽なんだ。

しかし、ひたすら何かを願うように真琴はこっちを見続けていた。視線を外しても、目の端に真琴がいる。どうすれば消えてくれるのか。とうとう俺の口からは、こんな言葉が出ていた。

 

「出てってくれ。」

 

苛立まぎれに言い放った拒絶の言葉。それを口にした瞬間、不思議と苛立ちは引いていったが、それと引き換えに胸の中心がざわざわと不快なざわめきに包まれていった。気持ちが悪いだけのそのざわめきを吐き出すように、俺は深い溜息を洩らす。そして、真琴に向き直った。

真正面から見据えた真琴の眼には泪が滲んでいたが、本人は懸命に笑おうとして口の端を思いっきり引き攣らせていた。無理に笑おうとしてまで、自分が傷つくのも厭わずに俺を慈愛で包み込もうとする真琴。それなのに、俺は懐から真琴を放り出し、二度と潜り込めないように封じてしまったのだ。

「出しゃばりでした。浮かれてたんです。土方さんに、ついてきてもいいって言われたから。でも、やっぱり私じゃ役不足ですよね…」

 

泣きたいのを我慢するように気丈だった声が、やがて張り詰めた緊張を崩し、しゃくりあげるような調子に変わっていった。

女というのは泣きたいときに泣かせてやれる機会や場所をつくってやるだけで意外とあっさり落ち着くもんだが、真琴にこんな泣き顔をさせてしまう今はそれだけで自分の理知は危ういのだと知らされる。

 

(俺は、何をやってんだ…)

 

俺たちの間で育まれてきた信頼が、地を目がけて一気に加速していくような瞬間だった。

これ以上の傷を負えないからと言って、無垢なこいつを俺の人生から閉め出してしまえば、この先の苦しみから逃げられると本気で思っているのか。だとすれば、俺は相当頭がいかれてやがる。

 

(そいつはどうやったって違うだろう。本意じゃねぇ)

 

今さら真琴を見捨てられるはずもない。一度は惚れた女だ。今だって愛おしいと思う。だから、意図して傷つけようなんて欠片も思っちゃいない。ずっと隣にいてくれて感謝すらしている。

でも、このことだけはどうしても譲れねえんだ。俺と近藤さんのことには踏み込んでほしくない。いくら惚れていようが、この感情だけは他人と共有するつもりがないからだ。

 

(慰めなんて要らねえ)

 

惚れた女の胸へ飛び込めるだけの素直さがあれば、少しは俺も救われただろう。だが、こうも思う。女の胸で甘やかされれば、きっと俺は驚くほど手前を見失い、これまでに手前が判断を下してきたあらゆる責任から逃避することになるだろう、と。

それほどまでに俺の心は弱り、腐りかけていた。

 

「真琴…俺ァ、」

 

それでも天秤棒のように揺れる頭でなんとか口にして、啜り泣く声を止めようと手を塞ぎ当てる真琴を見ていたら、無性に弱音を吐いてしまいたくなった。

 

(俺の驕りで、近藤さんを無駄死にさせちまった)

 

心を突き上げるように溢れ出るその錘を吐き出してしまいそうになったが、俺はすぐに口ごもることになった。何故なら、今度は俺が拒絶される番だったからだ。

 

「もういいんです! 私、宿に戻ってますね?」

 

明るく振舞おうとしたのに失敗したらしく、調子の狂った声で真琴は言い、うまく誤魔化せない自分を恥じたのか背を丸めうつむいている。

濡れた石畳の上を素足で走り去る音がし、無情にもピシャリと閉まる引き戸の音が響くまで、俺は一言も言葉を発することができなかった。

 

(何やってんだ俺は…)

 

ひょっとすると俺は、大事な存在をもうひとつ失ったのかもしれない。

東山温泉は思わぬ人でごった返している。戦の将を失った幕府の抗戦派が、会津を頼るのは至極当然の結果だった。将軍のお膝元である江戸を中心に続々と詰めかけた猛者たちは、腰を落ち着ける場所を求めてここに集まってきているというわけだ。

知らない男たちに気安く肩を叩かれたり、激励の言葉をかけられたりと、俺の与り知らぬところで顔や名前が認知されており、少々どころか大いに居心地の悪い思いをするはめになってしまった。

 

「鬼の副長さん! 湯治はどうだったかね?」

「どうもこうもありませんよ。癒えるまでが退屈だ。」

 

連日と顔も名前も知らないような連中から一方的に声をかけられている俺は、初日こそ仏頂面を決めていたが、そのうち来る者の多さに忍耐切れを起こし、ついに根負けさせられて親しくせざるをえなくなった。

今日もまたそういうやりとりがあった後、やけに異彩を放つ男が誰彼構わず目についた男を睨んでいるのが見えた。そして、俺に気づくなり、食ってかかってきそうなほど大股で勢いよく近づいてくる。

 

「土方さん。真琴が泣きながら帰ってきましたよ。一体何があったんでしょうね。」

 

おおよそ知っているくせに、わざととぼけているなと俺は睨んだ。斎藤というこの男は密偵を長くやっていたせいか、本筋をはぐらかして他人から真実を暴くのが得意なのだ。

 

「お前が気を揉む必要なんざねえさ。それより、皆の様子はどうだ。」

「それをあんたが聞くんですかい?」

 

珍しく江戸弁が出たと思ったら俺のよく知る独特の目つきをして、斎藤は口の端を歪ませながら息を吹きこぼすようにわざとらしく嗤った。挑発的だったが、俺は取り合う気にもなれずに斎藤の眼を見返す。

 

「そりゃあもう沈んでますよ。局長を失ったというのは、大きい。喉笛は壊れ、目を潰されたのと同じことですからね。これからどうなるのかと徒歩に暮れてる奴も多い。」

 

斎藤の言う表現は、今の俺の現状を見事に描き出していた。あえて「耳」を外したのにも理由があると思う。いまだに近藤さんの死を受け入れられない俺が、誤報だったと覆る日の到来を心待ちにし、どんな些細な情報も逃すまいと神経を擦り減らしていることに気づいているからだろう。

まったく嫌味な男だと思うが、こいつなりに俺を心配しての言動だということはよくわかっている。人混みの嫌いな斎藤が、この賑わいの中で俺の帰りを待つなんてことほど煩わしいことはないはずだからだ。

 

「…謝るさ。謝ればいいんだろう?」

「分かっているなら、とっととやっちまえってんですよ。いじけてる暇なんてないでしょうに。」

「察してくれ。これでも十分堪えてんだ。」

 

地に足をつけて立っているつもりが、やはり見る奴が見ればぐらついて見えるらしい。そのせいで、俺の欠損を斎藤が補うはめになっているのだ。

 

「これ以上、俺には甘えないでください。こういう役割は、性に合わない。」

「ああ。わかってる。」

 

面倒を押しつけるなと言う割に、斎藤は妙に機嫌のよさそうな顔をして宿に引き返していった。

「あんれまぁ。噂をすれば土方様。お戻りになったんですね。」

「噂? どんな話をしていたんです。」

「あはは。あれいやだ。噂っていうほどのもんでもないんですけどねぇ。」

 

一足先に宿へ入っていった斎藤を追うようにして暖簾をくぐり土間に入ったのはいいが、そこで世間話に花を咲かせていたと言わんばかりの女将が「あっ」と声を引っ込めて俺に驚いていた。

俺たちが世話になっている宿の夫婦は、京であれだけ悪名を轟かせたというのに俺たちを同郷者のように労い、頼んでもいないのにあれこれと世話を焼いてくれているのだ。彼らの厚意に感謝の思いが尽きることはないが、たまに世話が行きすぎることもあり戸惑ったりもしている。

 

「土方様が帰ってこられるよりずっと前に、真琴さんが帰ってきましてね。てっきり迎えにいって二人仲良く帰ってくるとばっかり思っていたもんですから…」

「そのことか。すまないな。余計な気をつかわせたようだ。」

 

なんてことないようにその話題を退けようとすると、女将は疑心暗鬼の目を細めながら納得していないというような顔になった。女のこういうところは厄介だと思う。男であれば言葉にできないこちらの弱みを斟酌してくれる場合が多く、会話の引き際を心得ているものだ。

しかし、女は違う。より真相へと近づくために、あの手この手を使って追いつめるのだ。

 

「こんな時代ですから、言いたいことは言い合ってきれいさっぱりにしたほうがいいですよ。後々まで引きずるようなことになると、真琴さんにとっても気の毒ですからね。」

「わかってるさ。忠告はありがたく頂戴しておこう。」

「いやですよ。忠告ってほどでもないでしょうに。早く元の鞘にお戻りくださいましね。」

 

俺たちも十分よくしてもらっているが、その中でも真琴はとりわけ女将に気に入られかわいがられていた。宿の夫婦には何人か子どもがいるようだが、娘たちはすでに嫁いでしまい親元から離れてしまったのだと聞いている。おそらく女将は、真琴を見ていると手放した娘たちのことを思い出すのだろう。

女将が自分に対して娘を重ね合わせているであろうことに気づいた真琴は、さも自分の身内のように心を許し、俺の知らぬ間に彼らと打ち解けて親密に接するようになっていた。

 

「女将はあいつの味方ってわけだな。」

 

階段を上がろうとして軸足に踏ん張りを入れたとき、先に立ち回っていた女将が肩を貸そうとして腕をとった。俺はそれをやんわりとした手の動きで制し、昨日から宿に入り座敷で俺の帰りを待っているであろう鉄之助を呼んだ。

女将は特に気を悪くした様子もなく、勢い余って階段から転げ落ちそうになる鉄之助を見て目尻をゆるめている。

 

「傷ついた女子の気持ちを察してやれるのは、同じく女として生まれた私らだけですからね。」

「違いねぇ。」

 

何を話しているのかと最初は聞き耳を立てていた鉄之助だったが、女子と聞いた途端にすぐさま興味が削がれたらしい。どうやら鉄之助は真琴に関して知ろうという気が起きないばかりか、他の連中のように俺たちがいかに人目を忍んで乳繰り合ってるのかという下世話な妄想すらかき立てられることがないらしい。

だから、俺はこうして鉄之助を呼んだのだ。

「土方副長。部屋に戻ったら繃帯を替えてください。今日はそのお役目、私にいただけないでしょうか。いいえ、私がやりますよ。」

 

伏見や甲府での敗退から会津までともに逃れてきた鉄之助は、次々と隊員が死んでいく様を目の当たりにしたせいか、次第に俺の身の回りの世話に固執するようになっていった。時には真琴を煙たがり、副長付きという自尊心からか我先にというような行動が目立つようになってしまった。おそらくこれも俺の未熟さが原因なんだろう。判断の誤りだと言ってもいい。連れてくるべきではなかったのだ。

 

「そうか。助かるよ。」

 

あまり自由の利かない片足をひきずりながら、鉄之助に支えられてようやく階段を上りきる。足の負担を軽減するという口実のもとあてがわれた真正面の部屋に入ると、いつもはいるはずの真琴の姿が見当たらなかった。女将の話によれば、俺が到着するよりもずっと前に宿へ入っているはずだ。

 

(避けられてるな)

 

そういう仕打ちを受けるのも当然のことをしたという自覚があっても、俺は真琴という女の情のもろさを当てにしていた。それに加え、見た目よりもずっと図太い女だと信じて疑わなかった。しかし、今回ばかりはそうもいかないのかもしれない。

畳の上で杖を突っ立てたまま動かない俺を見て、何を勘違いしたのやら鉄之助は慌てたように座布団を抱え、足先へと丁寧に据え置いた。座布団はもともと平らだが、皺が寄っていないか、綿が波打っていないかと表面を神経質に整えているのがおかしい。

 

「鉄。真琴がどこにいるか知らねぇか?」

「あの人は、斎藤先生の室にいらっしゃるんじゃないでしょうか? 自分もよくは知りません。ただ先ほどお見かけしたときは、何やら斎藤先生と声を潜めてお話ししていらっしゃいましたから、きっと人に聞かれたくない話だったんでしょう。」

 

相変わらず意地が悪そうに言う鉄之助を前に、俺はもう苦笑するよりほかなかった。女将は真琴の味方だと言い切ったが、鉄之助は完全に俺が正義であると盲信しきっている様子だ。

 

「そうか。だったら仕方がねぇ。ところで、繃帯替えるんだったよな?」

 

伏見で敗れ、逃げるような格好で大阪から北へ向かい、甲府にいたっては仕掛ける前から敗退を強いられた俺たちは、わずかながらの兵糧と必要最小限の武具だけを携えて会津へとやってきた。金子はおろか惜しいと思われた品々も手放し、泥や煤にまみれた落ち武者のごとき体で、だ。

法度であれだけ厳格にとり締まっていたというのに、甲府では脱走が相次ぎ、永倉や原田の分離を経て隊士の数は悲しいほどに激減してしまった。一度は落城させた宇都宮が激戦だったせいか病人ばかりが目立ち、自分の脚でしっかり歩ける者がそいつらを会津まで支えながら運んでいかなければならず、道中で仕掛けられた際に主力となる者はほとんど残ってはいなかった。戸板で担がれている奴らを励ましながらなんとか辿り着けたのはいいが、いくら口で励ましていても本音を言えば仲間を気づかうだけの余裕もなく、誰しもが皆、手前のことしか考えられないほど切迫した状況だった。

陰惨とした日々の連続だったにも関わらず、真琴だけは傷ついた男たちを守ろうと懸命に立ち回っていたのを俺は知っている。動ける者が病人の世話に手を煩わせることがないようにと、真琴はその役割を一手に担っていたのだ。繃帯や薬品の確保にいつも目を光らせている奴がいたおかげで、病人の世話がいい加減にならずに済んだのは良かったと思う。

怪我人を手当するための一式は松本先生から譲ってもらい、頑丈そうな長櫃に菰をかぶせて何重にも縄で括りながら守ってきたのだった。特に消毒液や液体の入った硝子の薬品などは、戦時下において言うまでもなく貴重だ。しかし、薬品と同じく兵糧も馬鹿にはできなかった。動ける奴らにとっては俄然食いもののほうが大事だったが、多くの怪我人や病人を前に飢えなど感じている余裕すら与えられなかったのは敗者の悲しいさだめなのかもしれない。

 

「よろしければこのまま繃帯を替えますが。濡れたままだと不衛生ですから。」

「すまねぇが、そいつを片付ける前に真琴の様子を見てきちゃくれねぇか?」

 

あんなふうに突き放しておきながらも俺は、二人の様子が気になって仕方がなかった。

鉄之助の読みが本当だったとすれば、これから戦場で陣頭指揮を執る斎藤が密室で何を語るかなど明白だ。

 

「土方副長の頼みとあらば…そうですね…はい。」

 

明らかに不服そうな鉄之助は渋々と頷きながら立ち上がり、部屋を出ていった。

束の間とはいえ一人きりになった俺は、誰にも見張られていないことがこんなに快適なのかと思う反面、心の中身がするりと抜け落ちたかのようにうつろな気分になった。

いつもは隣にいるはずの真琴がいない。それだけで心が寒いんだってことを俺は自覚している。でも、本当はそんなものでは済まないのだ。

がたがたと震えそうな心に、血が通わなくなってしまったのだから。文字通り死んだのかもしれないと思った。

俺そのものが完全ではなくなってしまった気がする。

(やはり俺は…)

 

戦って死ぬ。勝って生きられればそれに越したことはないが、そんなことは万にひとつもありはしない。ただし、負けて生きるのだけはご免だ。それだけは天と地がひっくり返っても俺は認めない。

 

(だったら、このままのほうがいいのかもな)

 

一体いつからそこまで割り切れなくなってしまったんだろうか。いつかは離れなければならなくなる。というよりはむしろ、俺は真琴を置いて先に死ぬだろう。武具をとり戦う男にとってそれは避けられない結末だ。

 

(やはり、あれは間違いだった)

 

今生の別れを告げるために藍屋を訪れたあの日——。

二言はないと言い切った真琴の眸を見て、俺はその覚悟に面食らい、他人に対して珍しく感嘆したのを思い出す。あの場でとり交わされた約束は、別にほだされたわけでも丸め込まれたわけでもなく、お互い合意の上での決定だったことは認めよう。だが、今はその判断を心底呪いたくなる自分がいるのだ。

あの瞬間にすっぱりと別れてさえいれば、美しい思い出を頼りに自分は潔く終われたかもしれない。

 

「市村、入ります。」

 

トントンと指の関節を畳に打ちつけているうちに、偵察を終えたらしい鉄之助が部屋に戻ってきた。報告を待つまでもなく、鉄之助は場を譲り渡すようにして半身を開く。またしても不貞腐れたように口をへの字に曲げ、背後に立つ人影が表に出るのをじっと耐えて見つめていた。

 

「斎藤さんが…出陣されるそうです。」

 

真琴が現れたのを見届けると、俺は後ろめたさからか視線を外してしまった。それがますます真琴を傷つけることになるとわかっていながら、際限なく慈悲の滲み出る瞳を直視することができなかった。そのせいで、返事も自然とぶっきらぼうになってしまう。

 

「わかった。」

「……」

 

真琴はそれ以上何も言わず、代わりに俺の口からも何か言えればよかったのだろうが、会話を続けるためのきっかけが何ら持てなかったのだから仕方がない。この場に鉄之助がいることも都合が悪いと思った。

どうにかしろといったように鉄之助を見ると、奴は何を勘違いしたのか「お見送り致しますか?」などと言い、床の間の隅に立てかけてあった杖を差し出そうとしている。

すると、真琴は自分の役目を奪われたとでも思ったのか、気力を萎えさせたように肩を落とし無言で出ていこうとしていた。目を伏せた横顔があまりに可憐で、俺はこのまま放っておいていいものかと咄嗟に悩んだ。そうして悩んでいるさなかも鉄之助は願わくば俺の視界に真琴が入り込まないように、入り込む隙がなくなるようにと面前までぐいぐい迫ってくるのだった。

 

「真琴。」

 

鉄之助の肩越しに意を決して声をかけると、振り返った可憐なままの貌に切迫感の混じる期待が見てとれた。俺は、真琴をここまで追いつめていたらしい。

 

「繃帯、いつ替えてくれんだよ。」

 

振り返ったその瞳が、かすかな希望とともに潤んでいるのが見える。頬を撫でてやりたい衝動をぐっとこらえ、相変わらずそっけないふうを装いながら俺は言った。

 

「新しいのに替えてもらわねぇと、指が腐っちまうかもしれねぇよ。」

 

鉄之助の眉間に深い皺が刻まれていくのが見えたが、俺は一切態度を変えるつもりはなかった。

戦に次ぐ戦という日常では、ただでさえ居場所を見つけるのが難しい。戦えないというだけで、ましてや女というだけで周囲の見る目は冷ややかになる。俺の女と知れればそれだけで危うく、内外を問わずに迫害されるであろうことは常に頭の片隅に入れておくべきことだった。だからこそ俺は手元に置き、役割を与えながら守ってきたのではないか。それを剥奪し放置するようなことになれば、この戦乱の中で真琴の拠り所はなくなってしまう。どんなに意地を張ろうが、それを振りかざすだけでは到底生きてはいけない世の中だ。

 

(一度は許したんだ)

 

だったら、どんな結末になろうが最後まで面倒を見てやるべきではないのか。今さら感情を塞き止めたとしても、現実に進んでしまったことは引き返せない。傷だらけになり悶え苦しもうが、それはもう止められないのだ。そういう生き方を覚悟し、二人で選んでしまったのだから。

 

「お見送りが済んだら、替えましょうか。」

 

それは、信頼をとり戻したかのように穏やかな声だった。

明くる日のこと。

俺は、東山温泉を北へ向かい天寧寺を訪れていた。ここへ来るのはこれで二度目だ。

本堂の裏手に弔い客のための小道が延びており、傾斜をしばらくのぼったところにあの人の墓があった。

 

「貫天院殿純忠誠義大居士」とは、会津候より賜った近藤勇の戒名だ。

本丸御殿に呼ばれ最初にこれを見たときには、さすがの俺も会津候の御前とは言え声を殺すことさえままならず、頬を伝い流れるものを止められなかった。

あれ以来、俺はここに来ることを躊躇っていた。いや、むしろ二度と来るまいと固く心に誓ったくらいだ。それは、単に事実から目を背けていたにすぎない。

それが今はどうだろう。真正面から向かい合い、既に亡き近藤勇と対面している。なぜ来る気になったかというと、真琴の存在に背中を押され吹っ切れたからだろう。そして、自分の果たすべき責任というものをようやく気持ちの上でも受け止めることができ、それを自認する気になったからだ。自分は誰よりも正面きって戦っているつもりだったが、その実、ただ逃げていたにすぎないのだと今さらながら悟ったのだった。

 

「勇さん。俺だ。」

 

紋が刳りぬいてある真新しい墓石の前でしゃがみ込むと、透明度の高い朝の陽が蒼々とした葉叢の隙間をかいくぐり石を照らしていた。空気は澄んでいて、鳥のさえずりのみが静寂のうちに遊んでいる。人の気配はなく、静けさが心をひたひたと覆っていく。そんな場所だった。

 

「あのときは副長としてけじめをつけるために参じたが、今日は石田村の歳として弔いに来たぜ。」

 

宿の台所から拝借してきた茶碗を墓前に置き、会津の地酒をとぷとぷと注ぐ。そこでふと、「近藤さんは下戸だったよな」と思い直し、自分こそ酒を好まないくせに近藤さんから盃を貰うかのようにして一杯やろうとしているのが何だかおかしかった。

 

「ま、強制はしないから、せめて盃だけでも受けてくれよ。」

 

笑いを口に含みながら自分でも茶碗の酒を舐めていると、さあっと葉末が踊り小枝が揺れはじめたのがわかった。少しだけ風が出てきたようだ。ここでうだうだと時間を潰しそうな自分に気づき、だとしてもせっかく来たのだからと思いとどまって、心ゆくまで思いに耽るつもりだった。

 

「斎藤に指揮を預けたよ。俺ァ恥ずかしながら、宇都宮でこのざまさ。どこまで食い止められるかはわからねぇが、会津に恩義は感じてるし、俺たちは戦うことでしか報国の志を示すことができないからな。だったら、敗けようが戦うだけだ。わかりやすくていいじゃねえかよ。」

 

敗けると知っていながら戦うことに、怯えはない。しかし、全霊を懸けて己の戦う意味を証明してみせたところで、つきまとう虚無感が消えるはずもなかった。

命の限り戦い、己の体躯をほとばしる血を見て、死ぬ。最期まで譲らない俺たちが貫いた赤誠を、ようやく死の瞬間に感じとることができる。そう信じて疑わなかった。

でも、違った。少なくとも「今」は違う。

 

(腹は斬りたかねぇが・・・)

 

餓鬼の時分は死ぬことが恐ろしかった。死んでやるもんかとも思った。

敦盛の「人間五十年」とかいうくだりを聞き知った俺は、たとえ無責任だと罵られようが、己の欲望に忠実に生きることこそ正しい往生の道だと思うようになった。そのおかげで近藤さんとも知り合えたし、剣の技を磨くこともできたのだ。

試衛館一同で上洛が本決まりになった日の晩、俺は近藤さんとこんなやりとりをしている。

 

「勇さん。これから俺が話すことは、ただの世間話だ。要するに他愛ない話ってやつさ。」

 

これだけ釘を刺しておいても、俺とサシで話すときの近藤さんは妙に身構えていたりする。またしても女がらみの厄介ごとを持ち込まれたのでは敵わないなどと思っているらしい。

しかし、残念ながら今回はそういう話ではなかった。

「そんなに怖い顔して一体何を話そうってんだよ。俺まで堅くなっちまうだろう。」

「なあに。くだらねぇことさ。」

「で、そのくだらねぇって話は?」

「俺と総司と勇さん。先にくたばるのは誰かってことさ。」

 

歯に衣着せぬといった物言いをすると、細く切れ上がった眼を見瞠きながらも近藤さんはうろたえるそぶりもなくこう言った。

 

「縁起でもねぇこと言うなよ。俺ァ死ぬつもりなんざはなっからねえわ。瓊子だってまだ小せぇんだぜ。公方様を警護したら江戸に戻る。それだけのことだ。違うか?」

「だから、単なる世間話だと言ったろうが。俺は、万が一ってことを考えて言ったまでだよ。」

「うむ…そうは言ってもだな、誰が先に死ぬかなんてのを占うなんざ、悪趣味もいいとこじゃねぇかよ。しかも、気心知れた俺たち三人だろう? 言えるわけがねぇだろうが。言えるわけが。」

 

近藤さんなら答えをはぐらかすだろうことくらい見越している。要するに、俺が自分の目論見を白状したかっただけなのだ。

 

「じゃあ俺が言う。真っ先に死ぬのは俺だな。」

「はぁ? そりゃ一体どうしてだよ。」

「そんなのは決まってんだろう。女に恨みを買いやすいからな。」

「歳…お前、不逞浪士と殺り合うんでなく、妓に殺されるって言いてぇのか?」

「勇さんは、俺が不逞浪士と斬り合って失敗ると思ってんだな?」

「おい! 俺はひとこともそんなことは言ってないぞ! 話をすりかえるなよ。ったく、お前は相変わらずだな。一体何が言いてぇのかさっぱりだ。」

「何が言いたいかって? そりゃ簡単なことさ。」

 

そこでいったん言葉を切ると、とっておきの秘策でも告げるみたいに俺は口角をくいっと上げた。近藤さんは俺の話に引き込まれるようにして、でかい図体をじりじりと寄せてくる。

 

「もし死ぬようなことになったら、その瞬間にも悔いの一片も残さないで潔く散る。つまり、俺は後悔を残さないためにも自分の望みどおりに生きる。欲望に忠実に生きてりゃ人の道に外れることもあるだろうな。だが、そうなったとしても俺はそれを止めるつもりはない。他の連中の気に入らないことであっても、俺は正しく俺を貫く。言いたいことはそれだ。」

 

一方的にそれを聞かされた近藤さんは、呆れもせずただ黙って考え込むような仕草をした。思うところはあるようだが、それを言葉に出すのをためらっているのか、それともうまく言葉にできないのか、とにかく悶々としている。

 

「……。」

「言葉もないか。」

「いや…違うんだ。そこまでの気構えを俺は持っていたかと思うと、何とも情けねぇ話じゃねえかよ。俺ァ、浮かれてたんだな。歳がいてくれて本当に助かるよ。」

「礼を言われるなんざ、思ってもみなかったがな。俺ァてっきり説教されるんじゃねぇかと思ったよ。」

「いや、おめぇらしくていいんじゃねえのか? 俺は死ぬことなんざ考えたこともねえわ。もしかすると、今回ばかりは考えなきゃいけねえのかもな。」

「ああ。魔物が棲んでるって話だ。万に一つってこともありうるだろうよ。過激攘夷の不逞浪士どもが増えてくりゃ、おのずと徳川が矢面に立たされるだろうからな。」

「だとしたら、戦だな。」

「戦国の再来さ。理心流がものを言う時代の到来だ。」

 

戦の話になれば、俺たちはもう止められなかった。現実にそうなるかどうかもわからないのに、ひとたび話し出せば血が滾って仕方がないのだ。

剣術を習うものは、真剣を揮うことに憧れる。憧れが好奇心から欲望に変わると、巷を騒がせる辻斬りになってしまう。だが、憧れを持て余している者たちに戦場が用意されるのなら、我が意を得たりと存分に発揮することができる。俺たちのように一撃必殺のような殺し合いの剣法を流派とする者たちには、まさしく翹望叶ったりと言えるわけだ。

 

「願わくば、散り際も共にありたいものだな。」

「ああ。俺たちにも戦場が用意されるような事態になれば、俺は勇さんと共に戦って、男として潔く散りたいと思う。」

「俺もそう願うよ。」

 

背中を預けながら共に戦い、死ぬのなら戦場でと誓い合った俺たちは、互いに切望したその願いを果たすことができなかった。

流山さえ切り抜けられていれば、近藤さんも死に場所くらい選べたかもしれないのだ。

 

(いや、違う)

(そうじゃねぇよな)

 

男として死に場所を選べないのだとしたら、武士として、隊の頭として、けじめをつけるべく切腹を望むのは当然の決断だろう。そんなことは俺にだってわかっていた。しかし、それをわかっていながらもあの人の意志をむりやり捩じ曲げてしまったのは、たった一人分の意地と欲望を俺自身が御しきれなくなっていたせいだ。

諦めるのにはまだ早い。もっと徹底的に抗い、敵に痛手を負わせるまでは気が済まない俺は、近藤さんの心中を推して図ることをせず目を逸らしていたのだから。そして、敵の恨みつらみを一手に引き受けて責を追う意思を固めた近藤さんに対し、阿修羅のごとき要求を突きつけてしまったのだ。

「勇さん。すまない。驕りすぎたよ。その前に、武士として腹を斬ることに反対して後悔してる。後悔、なんてぇのを口にすると、どうしてか手前を斬り刻みたくなるもんだな。俺は自分を赦せねぇよ。」

 

舐めるだけだったはずの盃をぐいっと口元へ押し込んで、飲み慣れない会津の酒を俺は煽る。そうしてまた盃の中を満たし、好きでもないそれを喉の奥へと押し込んだ。そうして体のあちこちがが熱くなり、首の裏を抜けていく風が心地いいと思った。吞兵衛がするようにぷはっと息を吐き、勢い余って洩れ出た口の端の酒を拭う。

ふと誰かの気配に気づき顔を上げてみると、陽の光を背に浴びて近藤さんが立っていた。それだけならまだよかったが、既に呆れ顔だ。

 

「莫迦だな歳は。やけ酒かよ。忘れたのか?」

「忘れちゃいねぇさ。気弱な人間のすることだろう? みっともねぇ。」

「それを今お前はやってるんだぞ? しかも、あろうことか俺の面前で。情けない限りだ。」

 

おそらく酔っているのだろうと思った。でなければ、こんなことは起こりえないのだから。

しかも、こんなに簡単に酔えるのなら、もっと早くに酒の助けを借りていればよかったとも思う。

 

「ああ情けないね。だが、俺だって人間だから、こんなときくらい情けなくなるのさ。俺は鬼じゃない。」

「ああ。人の子だ。だがな、俺はそいつを責めてるわけじゃねえんだ。」

 

そこで、ふと近藤さんの顔つきが変わったのがわかった。双眸から滲み出る悲憤に、心の臓が抉りとられるような痛みを覚える。近藤さんの感情が俺一人に向けられているかと思うと、激しい罪悪感から今すぐ塵と消えて無くなりたい衝動が駆け巡る。

 

「やっぱり責めてるんだな。」

「だから、そいつを責めてるわけじゃねえんだってばよ。言ってみりゃ単なる切り口だ。」

「切り口? 何が言いてぇんだかよくわからねぇが、化けて出てきたってことだけはわかるぜ。」

 

あれだけ近藤さんに会いたいと思っていたのに、いざ目の前に現れればこんなにも罪の意識に苛まれてしまう。肝心な詫びも入れられないまま、俺は生前の近藤さんとやりとりをするように容赦のない冗談を言ってしまった。

 

「はっはっは! 驚かねぇか。やはり歳はさすがだな。俺はこんなに苦労したってぇのに。」

「苦労? そりゃ一体どんな苦労だ。」

「まずは一旦江戸へ帰ってみたが、皆の姿が見当たらねぇもんでな。これはもしやと思って江戸を北上してみたんだが、いかんせん土地勘がねぇもんだからどっちが会津かもわかんねぇし、会津へ入ったら入ったで歳たちの居所がまるで掴めなかったんだよ。」

「言ってくれりゃあ迎えを寄越したってぇのに。駕籠つきでな。ついでに、局長付きの連中も近藤さんに返すぜ。」

「莫迦かおめぇは。どうやって迎えに来いって言うんだよ。胴は板橋の地べたに埋められちまったし、肝心の頭は三条河原で串刺しだぞ?」

 

それらは報告されたときから耳に入っていたことだが、いざ本人の口から聞かされると罪悪感という重さに耐えられなくなり吐き気をもよおした。それと同時に怒りさえ覚え、頭の中の血が迸る。

そんな俺の異変に気づき、近藤さんはすぐさま機転を利かせた。

 

「歳。落ち着けよ。死んじまった後で、今さらどうのこうのと突き合うつもりはねぇんだ。それよりも、俺はこれからのことを問いたい。おめぇ、一体どうするつもりなんだ?」

「そんなのは決まってる。勇さんを刑場に引っ張り出した奴を殺る。それだけじゃ済まねぇよな。会津候をここまで貶めた奴らを叩きのめす。俺は、仲間内からこれ以上の死人を出すつもりはない。局長としてはこれで納得か?」

 

俺が思うに、近藤さんは化けて出てまで新選組の行く末が気になるようだ。こんなふうに言うと角が立つから言葉にはしないが、まだ生きてる俺にしたって同じ思いだった。

日に日に人数が減り隊の様相が貧弱になろうとも、誠忠のもとに隊旗が掲げられる限りは皆を率いて戦うつもりだ。そんなのは江戸を出たときから何ら変わっちゃいないというのに、近藤さんはこの期に及んでそれを疑うというのだろうか。

「そうじゃねぇよ。俺は組のことを訊いたんでも、おめぇに恨み言を言わしたいわけでもねぇんだよ。つまりな、真琴のことだよ。」

「真琴?」

 

近藤さんが真琴のことを案じているなんて思いもしなかった。てっきり新選組と身内の行く末だけが気がかりなんだろうと踏んでいたからだ。

予想外のことに返す言葉がすぐには出てこなかった俺は、亡霊の割に姿形がはっきりとしている疲れきった顔に視線が吸い寄せられていく。

 

「このままどこまでも連れて歩くつもりなのか? どこかで線引きせんことには、けじめってもんがつけられねぇだろうが。」

 

なるほどなと思った。近藤さんは表情や態度にこそ出さなかったが、大阪を出るときから連れて歩くことに反対だったのかもしれない。だとすれば、俺はことごとく近藤さんの意思に背く行動ばかりしてきたことになる。

 

「近藤さんも人が悪いな。あれだけ物わかりのいい面してやがったくせに、肚では邪魔だと思ってたんだろう?」

「人聞きの悪いことを言うな。断じてそれはないぞ。あのときは、それがもっとも好ましい道だと思えたから賛成したんだ。だが、今は状況が変わっている。この先、女はますます危険だろう。」

 

近藤さんに指摘される前から、それは常に頭の片隅で理性が主張していたことだった。

会津の由緒正しい婦女子たちは、来るべきときがきたら潔く自害せよと申しつけられているらしい。老婆や童女のように一見無害に見えたとしても、長州のような守護職に恨みを持つ敵が攻め込んでくれば、武家の子女たちは悪意を持って陵辱の標的とされるからだ。

真琴は彼女らと違い元女郎だが、俺の女であることはもはや周知の事実になっている。俺は百姓の倅として生まれついたが、今や幕府歩兵奉行大鳥圭介の右腕として、それが望むとも望まざるとに関わらず参謀を務めるまでになった。新選組の副長としても十分恨みの種になってはいるが、あくまで抵抗を続ける幕軍の参謀ともなれば、捕えられた場合の真琴の命は助からないだろう。だったら、連れ回すことの意味をもう一度考え直すべきなのかもしれない。

 

「わかってる。それをここへ来てからずっと考えあぐねてるんだ。でも、ここで手放したら俺の流儀に反するような気がしてな。」

「流儀ねぇ。昔のおめぇにもそんな考えがあったら、俺はああいう苦労をせずに済んだかもしれねぇなぁ。」

「昔のことを蒸し返すなよ。」

 

上洛する以前の悪癖を持ち出され、弱みを握られたままの俺は情けない声で抗議した。過ぎ去ったこととはいえ、自分の所行が何とも言いしがたく恥ずかしい。

 

「とにかく、だ。傍目から見ていると、おめぇらは何かこう中途半端でよ。もやっとすんだよ。もやっと。とっとと何とかしろや。」

「勇さんはそうやって気軽に言うけどよ、俺ァそんな気分じゃねえよ。気分じゃねぇし、まさにこの同じ空の下で斎藤たちが戦ってるって思えば、不埒な考えなど起こりえないだろうが。」

 

至極まっとうな理由をつけたという自覚があっただけに、意味有りげににやりと笑う近藤さんを見て、俺は何かの罠にかかったのかと嫌な気分になった。

 

「歳って野郎は未だに助平なことを考えてやがる。」

「助平とはなんだ助平とは。男は所詮そんなもんだろうが。」

「少なくとも俺は違うね。惚れた女をそんなふうにいやらしい目で見たことはない。」

 

どの口が言いやがるとは思ったが、こんなくだらない応酬でも近藤さんが楽しそうに話すからうっかり批判の機会を失ってしまった。

 

「そんなにいやらしい目だったかよ。」

「まあな。しかし、それでこそ石田村の歳蔵って感じだ。なんやかんや言っても、俺はけっこう気に入ってるよ。今思い返してみても、歳の尻拭いは微笑ましい思い出だ。」

「そりゃ世話をかけたな。」

「そしてまた、俺はおめぇの尻拭いだ。」

 

今この瞬間にも徳川の行く末が懸かった東西戦が展開されているというのに、女の不始末をとり挙げられるとはなんと生ぬるい話をしているんだろうかとも思う。しかも、尻拭いとくれば、待っているのはただの修羅場だ。真琴にかぎってそんなことはありえないとは思うが、完全にないとは言いきれないのが苦しいところでもある。それに、俺をおたおたさせるためだけが目的でそんなことを近藤さんがでっちあげるわけがないし、単なる憶測でものを言っているようにも見えない。

勘弁しろとばかりに俺はこめかみをさすった。

 

「安心しろ。そういう意味で言ってんじゃねぇからよ。ま、すぐにでもわかるさ。俺の言わんとするところの意味がな。」

「もったいぶってないで話したらどうだ。」

「歳。すまねぇが、もう往く。疲れちまった。またな。」

 

突然別れを切り出した近藤さんは、背を向けて歩き出したかと思うと、蜃気楼のように揺らめいて瞬く間に消えていた。

無くなった場所を見つめながら、俺はしばらく地蔵のごとき有様だった。いくら酔っていたとはいえ、今まで当たり前にいた人が急に消えていなくなってしまう寂しさは、やはり身にこたえるものがある。

風穴が空いたように心が冷たく、その隙間を埋めるかのように残っている酒を呷ってしまえと企んだときだった。

「…た……ん? ひ…た……さ?」

 

 

「ん…」

 

「土方さん?」

 

着慣れない筒袖を遠慮がちに掴む指が見え、俺はまだ幻から抜けきれずに頭が混乱していた。もっと幻に浸っていたいというように、愛らしい瞳が俺を見上げる仕草すら煩わしく鬱陶しいと思ってしまう。

 

「誰だうるさい。」

「えっと…」

 

見知ったもの同士だというのに、面と向かって「誰だ」と言われたら二の句が継げないのは当たり前だ。互いに頭の中を疑問符で埋めた後、俺はようやく真琴が迎えにきたのだと知り現実感をとり戻した。

 

「…? っ、真琴、か。怒鳴ったりしてすまねぇ。」

「私のほうこそすみませんでした。何かに集中していたのを知っていたのに、急に声をかけたりして…」

「いや。いいんだ。用は済んだみてぇだからな。つっても、俺には何のことだか見当もつかねぇが。」

「???」

 

俺自身も要領を得ないことを言っている自覚はあったが、それを聞かされる真琴の顔も面白いくらいにぽかんとしていた。話の本筋すら見えてこないというのに、足りない情報から必死に推測しようとしている真琴がたまらなく愛らしい。

だが、近藤さんが化けて出てきたことは、俺の胸の中だけにしまっておこうと思った。

 

「わからねぇよな。俺にもわからねぇんだ。だから、この話は終いにしよう。」

「土方さんがそれでいいなら…でも、もし私でお役に立てることだったらなんでも話してくださいね。たぶん聞くことくらいしかできないかもしれないけど。」

「わかった。そのときはそうさせてもらう。だが、今は足が痛むんでな。早く宿に帰って落ち着きてぇんだ。肩、貸してもらえるか?」

「もちろんです。」

 

こうして自分から甘えることも弱音を吐くのも、これが初めてだったように思う。以前なら頼りない体に男の身を預けることを不安に思いもしたし、たとえ見てくれより頑丈だったとしても俺は素直に自分の弱さをさらけ出すことはできなかっただろう。

自然とそれができるようになったのは、おそらくつまらない意地もみっともない弱さもすべて見せて、俺という人間を隅々まで記憶した上で生きていてほしいと思うからだ。

 

(たとえ俺が死んでも、お前が俺を殺さずに生かしてくれる)

 

だから、もう答えは決まっていた。

真琴を生かそうと。

 


 
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