斎藤指揮下の百二十名あまりが、白河方面へ向けて出発した。
会津の未来が懸かった戦がこれから始まろうとしている。敵の進軍を食い止めるために、味方は要所を抑えるべく動き出した。敵が到着する前に、会津へと至る街道を封鎖しなければならない。それぞれの顔には決死の覚悟が表れていた。肝心なときに、俺は動くことができない。
(頼むぞ、お前ら)
まだ足下の覚束ない俺がやるべきことと言えば、武運を祈ることと、せっせと湯治に通い続けることくらいだった。人の手を借りなくても杖だけで歩けるようにはなったものの、踏ん張りを入れると芯がまだ残っているかのように瑕が痛み出すのだからうざったい。それでも会津に着いたばかりの頃に較べたら、足の運びは段違いになめらかになってきている。
そんなときにじっとしていられないのが俺という人間なのだが、少しは歩けるようになったからといってただでさえ緊迫感漂う町中を物見遊山のように徘徊するわけにもいかず、かといって部屋にこもりきりなのも体が鈍くなりそうで、馬鹿のひとつ覚えのように湯治と宿の往復を繰り返す毎日を送っているのだった。
(おそらく、俺の人生で一番無意味な日々かもしれん)
「怪我をしたのだからおとなしく養生していてください」と島田なんかはほざいていたが、制限された生活が必要以上に焦燥感を煽り、苛立を生むということくらいわからないはずもない。その上俺が不満を言うのを見越して「気持ちはわかりますが、耐えることこそが肝要です」などと知ったような口を利きやがるから、なぜ俺はわざわざ会津にやってきたのかすらもうわからなくなっていた。
(それもこれも本を正せば容保候のためだ)
老公の疲れきった顔が目に浮かぶ。俺や斎藤たちを呼びつけては、その窶れ果てた顔にある底知れぬ悲哀を醸し出す双眸を柔和にゆるめるのだ。「頼りにしている」と。
おそらく老公だとて戦況が読めないわけではないだろう。既にこの戦が勝ち負けとかいう単純な話で帰結するものではなくなっている分、屈服を良しとしない俺たちが最後の砦ともいうべきこの会津を護り抜いてみたいと猛然に思うのも無理はなかった。
(戦いてぇ…戦いてぇよ)
そうやって俺が不機嫌になる理由を真琴はよくわかっているらしく、日に一度こうして頭の中を整理する時間をつくってくれるのだった。ありがたいことではあるが、たまには構ってやらないとかわいそうだ。
斎藤に転写させた周辺一帯の地図を睨んでいた俺だが、碁石をどけてそれを二つ折りに畳むと隅っこに正座している鉄之助に目を向けた。
「鉄。俺の世話はもういいから、清水屋で待機だ。」
「それはいけません。皆が出払っている今、土方副長を狙いにくる刺客がいないとも限りませんから、俺はお傍を離れるわけには参りません。」
「阿呆。温泉街だぞ。それに、お前の仕事は俺を見張ってることじゃねぇだろうが。」
相変わらず俺にべったりと張りついている鉄之助は、斎藤たちが出発してからというもの厠以外の場所にもれなくついて回るようになった。湯治の道中にもまるで使用人のごとくついてくるのだ。つい背中を流してくれなどと軽く言った日にゃあ、指図通りにしかねない従順ぶりだ。
そして、俺を敬愛するあまりか言動が行き過ぎているなと感じることが頻発し、鬱憤が溜まったような面をしきりに見かけるようになったのがここ最近の鉄之助だった。だから、近いうちに暴発するんだろうと俺は見ていたから、正面きって食ってかかってこようが別に驚きもしなかった。
「あの方をどうするおつもりなんですか?」
「おめぇには関係のないことだ。」
「お言葉ですが、快癒の後、土方副長が戦に出られたとして、待機組にああいう女がいると迷惑なんです。何もわかっていないくせに、あれこれと世話を焼きたがって、挙げ句にうろうろされたらたまりません。たいして役に立つわけでもないのに。俺や銀のほうがずっと隊の役に立っているではありませんか。」
薄々とこんな日が来るんだろうとは思っていたが、まさかこんなにも激しい抵抗に合うとは考えもしなかった。戦に女を連れ回すという過去の例を俺は知らないが、古から名だたる武士たちが戦の前に女を忌むべきものとして遠ざける理由が少しだけわかった気がする。
「そりゃ嫉妬だろう。」
「いくら土方先生であろうとも聞き捨てなりません! それは侮辱ではないですか! 俺は新選組隊士です! 先生方と最期まで共に闘うのは、生まれながらの男である俺たちのはずです!」
「みっともねぇぞ。市村。」
鉄之助の言い分に非は見当たらない。きちんと正当性を持っている。しかし、ここで折れてやるほど俺の覚悟が半端だったかというと、そうではない。おそらくそれをこいつも深く理解しているから、こうして憤然と立ち向かってくるのだろう。
「どうして庇い立てする必要がありますか? なぜ斎藤先生や沖田先生まであの女を当てにするんですか? ただの女郎あがりじゃないですか! 俺はちゃんと新選組隊士なのに! どうしてですか! 説明してください!」
最期のほうはほとんど悲鳴に近かったが、俺は鉄之助のそんな哀願よりもむしろ総司の名前が出てきたことの不思議に気をとられてしまう。
「待て。沖田先生、と言ったな。どうして沖田が出てくる。」
「どうしてって、俺が聞きたいです。どうしてあの方が沖田先生の下緒を持っているのか。まるで愚弄されている気分です。」
「総司の下緒を?」
「斎藤先生が別れ際に託されたのを、どうしてあの方が持っているのかなんて考えたくもありません!」
言いながら拳を強く握りしめた鉄之助は、たまらずといったように歯を食いしばって泣き出した。
どうやら俺は勘違いをしていたらしい。嫉妬なんていう生やさしい話ではなく、鉄之助は己の非力さを日々恨みながら、戦力として必要されないことに絶望しているようだった。真琴は女であるが故に働きを期待されることはないが、そういう存在が身近にあると非戦闘員の立場である身分の者は無意識に自分と比較してしまうのだろう。鉄之助にとって真琴の存在それ自体が、どこまでもつきまとう刃のように残忍だけなのかもしれない。
「わかった。始末をつけよう。」
鉄之助の反応を待つまでもなく、俺はすくと立ち上がり杖も持たずに足を引きずった。縋りついてくる様子もないので、とりあえず自力で階段を降りて真琴の居所を探すことにしたが、自分で言い出したことだというのに憂いが強まるばかりで気分は最悪だった。
俺の意思とはまったく別の抗えない流れが、既に出来上がってしまっているのかもしれない。
(近藤さんよ…)
(けじめってぇのは、こういうことか?)
天寧寺に現れた近藤さんが、意味ありげに言い残したことがふと思い出された。結論を先延ばしにするなと諌められているような気分になり、猶予などとうに過ぎているのだということを嫌というほどに思い知らされる。
「道連れなんざするわけねぇだろうが。」
真琴が、俺を殺さずに生かしてくれる——。
そんな身勝手な希望が、罪悪感に縛られ続けた俺の唯一の慰めになっていた。
この刻限になるとだいたい廚にいることの多い真琴だが、今日に限ってその姿を見つけることができなかった。しかし、近くではっきりと声が聞こえ、時折笑い声が混じる。鈴の音を転がしたように、心が洗われる清々しい声だ。
「真琴。少しいいか?」
奥の間にいるらしいことがわかると、俺は襖越しに声をかけてみた。真琴がいる部屋は宿の夫婦の居室になっているとかで、たとえ俺でも迂闊に入っていくのは憚られた。やはり不躾な行動は控えたい。
呼びかけてからしばらくすると、真琴ではなく喜色を浮かべた女将が顔を出してきた。「どうぞお入りになって」というので躊躇いがちに室に入ると、俺はすぐさまぎょっとなって立ち竦んでしまった。
「真琴さん。そんなに恥ずかしがらずに、正面を見せてあげたら? あんまりきれいだから、土方様も言葉がないそうですよ。」
「待ってくれ。俺はそんなことは一言も…」
信じられない光景にたじろぐことしかできない俺を、ゆっくりと振り向いた真琴が恥じらいを含んだばつの悪そうな貌で見つめている。不用意なことを口走りそうになって俺は慌てて口を引き結んだが、すでに時遅し。気まずい空気が吹き溜まっている。それでも視線を捕えられたように外すことができず、俺は陶然となりそうな頭で真琴を凝視した。
背の光を反射する白い絹地が神々しく、体を覆う輪郭が実際の線よりもふくよかに見えた。視界のすべてをさらってしまいそうなほどに美しく、菩薩というのが舞い降りたのだとすれば、おそらくこういう感じなんだろうと思った。
「振袖や色打掛とはまた別なんですよ。」
「……」
女将の一言に引っかかりを覚えたが、だからと言って俺にどうしろというのだろう。今まさに故郷を戦地として戦いが始まろうとしているのに、座を整えるから仮祝言を挙げろとでも言いたいのだろうか。そうだとすれば、あまりに突拍子もなく強引だ。
家財道具をまとめ、すぐにでも逃げられるようにしておかなければ、いつ敵が侵入してくるかもわからないという窮地なのだ。晴れの日なんか悠長にやってられるわけがない。
(いかにもおめでたい奴の考えることだ)
常識的に考えれば、おそらくそれがもっともらしい答えなのだろう。
自分を夢想家だとは思わない。足の瑕を治し、一日でも早く復帰することが自分に課せられた務めなのだ。それなのに、ひとたび目に焼きついてしまった真琴の花嫁衣裳は、俺をとことん動揺させ理性すら狂わせるほどだった。
次々と浮かび上がる俺たちの未来像。それは甘やかな幸福に包まれ、現実との落差を容赦ない勢いで叩きつけてくるのだ。
(この先死ぬような男が、妻を娶ってどうするってんだ)
妻を欲しいと望んだことは、ただの一度もなかった。まだ江戸にいる頃に見合い話があり、その気がなかったにもかかわらず周りに唆されて許嫁という形に収まったことがあるが、上洛して数年も経ってしまえばその話も頓挫したに等しい。世間が決める型にはまりたくはなかったから正直それでほっとしているが、気をつけていても女と深い関係になりやすいがために、唐突に「この女と所帯を持ったらどうだろう」という考えに取り巻かれることも度々だ。それは、真琴にしたって例外ではない。
それが今、現実感を帯びているのだから、俺の当惑ぶりも相当のものだった。
(真琴が俺の女房に…?)
(今だって女房と変わらないじゃねぇか)
(わざわざ祝言を挙げる必要なんざあるのか?)
困り果てて黙殺を決め込んだ俺は、真琴が間違った期待を抱かないようにとの念を込めてひたすら揺れる瞳を凝視した。すると、真琴は諦めたようにかすかな嘆息をこぼし、俺ではなく女将のほうへと向き直る。
「女将さん。ありがとうございました。今日のことは大切な思い出にしますね。」
純白の打掛に指を這わせながら、真琴は自嘲的に唇を歪ませていた。本人はいつものように笑っているらしいが、その笑い方は見ていて痛々しい。
今こそ気の利いた科白を出せと言わんばかりに女将は批難めいた視線を寄越してくるが、俺にはもうどうすることもできなかった。この場合、言葉は余計だと思うからだ。
きれいだとか、似合っているとか。そんなありきたりな言葉をかけたからと言って、一体何になるというのだ。未来を簡単に思い描ける二人だったなら、とうの昔に夫婦となっているはずだからだ。
明日をも知れぬ我が身なればと祝言を挙げる男女はいるだろうが、そんなのは互いにとって何の慰めにもならないだろう。死ぬまで自分を傷つける刺を自ら選んで飲み込むようなものだからだ。ただ残酷なだけじゃないか。そう思うから、俺は不必要な前進を拒んできたのだ。
だが、それは本当に正しいのだろうか。
いや、本当にそれで後悔しないだろうか。
自分に言い聞かせていることが、実は単なる言い逃れだったとしたらどうだろう。本当は、自分の判断なんて当てにならないのかもしれない。心の奥底では、まったく逆のことを望んでいるかもしれないからだ。
(俺は一体どうしちまったんだ)
もはや自分が何を望んでいるのかもわからなくなっていた。
近藤さんや鉄之助の望むようにこのままこいつと別れたとしたら、俺はいいとしても真琴は先に進むことができるだろうか。いや、俺だって十分に危うい。戦で死ぬだろうことはわかっていたとしても、待ち受ける死を
(そんなのは自分じゃない)
そもそも俺は、自ら死を望むような男ではなかったはずだ。戦で本懐を遂げられるなら死ぬのも本望だが、少なくとも死ぬ間際に後悔だけはしたくないという思いはあの頃から変わっていない。だからこそ、己に忠実に生きてきたのではなかったのか。それを残り少ない時間の中で今さら違えるなど、犠牲を強要し代償を求めて傷つけてきた者たちへの冒涜になるのではないか。それは、自分に対する裏切り行為ではないだろうか。
「土方さん。着替えるので部屋で待っていてもらってもいいですか? そんなに時間はかからないと思いますから。」
「その必要はない。」
「土方様!」
衣桁の前で打掛を脱ごうとする真琴を押しとどめると、すかさず女将が鋭い調子で口を差し挟んで来た。咄嗟の声に弾かれびくりと肩をふるわせた真琴は、不安を募らせたような瞳で俺の出方を窺っている。
「案ずるな。女将が心配しているようなことにはならないさ。真琴と大事な話があるんでな。悪いが席を外していただきたい。」
「…承知致しました。何かあればお声をかけてくださいまし。」
ややあってから引き退がるように身を引いた女将は、含みのある視線を投げつけながら言外に強く訴えていた。
真琴を傷つけるようなことがあれば、そのときは容赦しない、と。
使い込まれた調度品に囲まれて、俺たちは適度な距離を保ったまま向かい合っている。生活感が見てとれる室内は、それだけで居心地が悪かった。他人の匂いがして落ち着かない。
「土方さん、ごめんなさい。」
「なぜ謝る。」
「だって…こんな…」
「時と場所を選べなかったことが、か?」
たどたどしく言いながら語尾でつまずき、自分の思いを何とか言い表そうとして真琴は苦しげな息をついた。ところが、自分の訴えようとしていることが単なる言い訳でしかないのだと途中で気づいたらしく、それ以上は何も言えなくなり途端に俯いてしまう。こういうわかりやすい素直さが俺には愛らしく思え、こうして責める気さえも奪われてしまうのだ。
それに、そもそもの発端が真琴にあるとも思えなかった。確かに予想外の展開で驚きはしたが、真琴が打算的ではないことくらい十分理解しているつもりだ。
(どうせ気のいい真琴のことだ)
(女将に唆されちまったんだろう)
俺たちを見てもやっとするのは、何も近藤さんだけではないらしい。とはいえ、周囲が事を急がせようとあの手この手で攻めてくるのも正直困りものだ。
「怒られて当然のことをしました…本当にごめんなさい…」
さて。どうやって宥めるべきか。思案を巡らせていた俺の視線が考えを手繰らせるよりも先にあるものに引きつけられ、それまで組み立てていたことが頭の中で崩れかけ、すっぽり抜け落ちてしまった。
「妙だな。」
その不可解さが思わず声に出てしまい、無意識というもう一人の見えない自分に支配された俺は、白い衣裳の中央へと手を伸ばさずにはいられなかった。
筥迫や扇を欠いているのにも関わらず、なぜかきっちりと胸もとに仕舞い込まれた懐剣。女将が体裁を整えるために間に合わせで用意したにしては、ずいぶんと値が張りそうな代物だった。
蝋鞘に金扇と紅白梅がちりばめられたそれは、真琴の所持品にしてはどこか不釣り合いで異質なもののように思えてくるのだ。付き合いは周りが思っているほど長くないにせよ、この俺が一度も目にしたことがないというのも変な話ではないだろうか。
俺の頭の中に、ある一つの仮説が浮かび上がってくる。
「誰から譲り受けた?」
「秋斉さんが餞別にと持たせてくれたものです。」
真琴は一瞬驚いたように睫毛をしばたたいていたが、すぐに感心したような貌つきになり懐剣を手にした経緯をするすると説明し始めた。
「武家のたしなみだからとっておきなさいと言われたんですが、なんか高そうだし刃物を持ち歩くのもなんだか怖くて。だから、ずっと仕舞っておいたんですけど、女将さんから着付を教わりながら、秋斉さんから戴いた餞別のことを思い出して。それで、せっかくだからちょっと差してみたんです。」
置屋の主人が真琴をことのほか可愛がっていたことは、俺でなくても身近な者たちはよく知っている。餞別としてこいつを手渡されたというのが嘘ではないにせよ、抱え女郎に与える餞別にしては拵えが上等ではないだろうか。おそらく、大なり小なり含むところがあるのだ。
(それにしても、金扇に梅かよ)
(わかりやすくて気に入らねぇな)
(あの男、やはり裏の顔を持ってやがったか…)
今さら正体がどうのこうのと詮索するつもりはない。どうせ二度と遭うこともないだろうし、京の生活を捨ててまで真琴が選んだのはこの俺なんだから、いっそ忘却の彼方へ追いやるべきなのだ。それなのに、やることなすことをくまなく見張られているような気がして、喉の奥に引っかかった魚の骨のごときしつこさを感じるのは何故だろう。それはまるで、藍屋の意思がこの懐剣に宿っているかのように、近藤さんや女将だけでなく藍屋までもが俺を名指しし、難癖をつけているような最悪の気分になるのだった。
「少しいいか?」
了承を得る意思など最初からなく、俺はすばやく鞘を払い、そうするのが当然というように抜き身を指腹に当てがいながら肉を裂いていった。朱線が滲み、わずかばかりの鮮血に満足した俺は、驚きで固まる真琴を半ば強引にして抱き寄せる。
「ひっ、土方さん!? どうして小指なんか切ったんですか?」
「少し黙ってくれないか。気が散る。」
自分の体温で血が乾いてしまう前に、真琴の唇をその朱でなぞった。少しいびつになってしまったが、一見すると紅を引いたのと遜色はない。
小指は操を立てる意味で使われるが、それにこだわるのはどちらかというと女のほうだ。里では小指を切り相手に贈るという迷信もあれば、商売柄目立たないよう黒子を刺れる女もいるらしい。
まだ京にいる時分に成り行きでそんな話題に花咲いたことがあったが、真琴はそれを「赤い糸」だと言い、年頃の娘によく見られる陶然とした表情を浮かべていた。
それが俺の記憶の中では際立って印象的だったが、当の本人はとっくに忘れているらしく、血なびられたことの抵抗感からか不自然な口の開き方をして眉を八の字に下げている。
「俺の血はそんなにばっちぃか。」
「ち、ちがっ! …う、」
「頭がおかしくなっちまったと思うか?」
「そうは思いませんけど…でもなんで?」
「誓いだよ。俺がお前だけのもんだっていう証だ。悪いか?」
「悪くない! ちっとも悪くありません! むしろうれしいっていうか…ううん。泣いちゃう…」
見る間に泪が溜まりこらえきれなくなった真琴は、俺の胸に顔を突っ込んで泣き出してしまった。今まで溜め込んでいたものをすべてを吐き出すように、その泣き声はあどけない童女のように頼りない。
(泣かれても、けじめはけじめだ)
そのまま真琴の気の済むまで付き合い、俺は幼子をあやすように背中をさすり続けたのだった。
その日の晩。
俺の寝所だろうが真琴のだろうが今までと同じ部屋だから大差はないが、とにかく俺は人払いをさせて真琴を呼びつけた。
問題の鉄之助は風が抜けるよう忽然と消えており、指示通り清水屋へ戻ったであろうことが窺えた。斎藤や島田たちも不在だから、宿の中は閑散とし闇を抱くようしじまが佇んでいる。
「急に改まってというか…その…なんだか緊張しちゃいますね。」
「お前は緊張するとよく喋るからわかりやすい。」
「あはは。さっそく弱点を見破られてる。」
「そんなのはお互い様だろう。俺はたまに心を決めかねちまうときがあるよ。」
(お前に見つめられると弱いんだ)
(こうだと頑なに決めた心も溶かされちまう)
真琴に出会うまでの俺は、自分の主義主張に微塵の疑いも抱くことなく生きてきた。決断の一歩手前で揺らぐ奴をたまに見かけるが、そいつは覚悟が足りないか意志が薄弱ということになる。もっと最悪なのは、手前で決めたことを後になって覆す奴だ。そういう手合いは、元来軽薄な無責任野郎で間違いない。
真琴を前にした今の俺は、果たしてどっちだろう。
「それじゃあ私、悪い子みたいじゃないですか。土方さんのやりたいことを邪魔したり、土方さんを弱らせてるってことですよね?」
「女に惚れるってのは、つまりそういうもんだ。」
初夜の儀式さながらに向かい合う真琴の手をとり、恥じらいと緊張で戸惑う躯をやさしく導いた。何をされるのかとおっかなびっくりの真琴をひっくり返し、膝の上に座らせる。
言葉では多くを語らない俺も、その欠損を埋めるかのように躯だけは雄弁だ。
腕の中に閉じ込めて、真琴のうなじを可愛がる。最初はくすぐったさに身をよじっていた真琴も、やがて抵抗するのをやめて俺の動作に身を委ねるようになった。湯上がりのほのかな甘さが鼻腔をつく。
「ねぇ、土方さん。」
「なんだ。」
「私ってそばにいてもいいんですよね? 土方さんについて行ってもいいんですよね? 約束、ですよね?」
いつになく甘やかす俺の態度は、気負いすぎたらしくどうも饒舌になっていたようだ。それを敏感に察知したであろう真琴は、言葉を変えながら重ね々々に念を押す。胸の前で組んだ俺の手に自分のそれを重ねながら、問う声は切実だった。
俺はうなじと戯れていた唇を離し、重たすぎて開きがたい口を開く。
「…そのことなんだが、」
難渋の末に言いかけて、真琴はそれを断ち切るように俺の腕を振り払う。
「いやです。それ以上はいやです。約束を破るなら聞きたくない。」
頭の中に散らかっていた考えは、いつもより低く冷めた声音に一掃された。
もうごまかしは利かない。
(俺ァ一体どうしたらいいんだ)
どうしたらいいかではない。どうしたいか、なのだ。
しかし、そんな単純なことすら自分の頭で導き出せないほど、俺の理性は混乱を極めていた。
(真琴に戦は関係ない)
(ましてや、未来からきたこいつに俺たちの戦は関係ないだろうが)
武人が戦の最中に女を連れ回すのは御法度だ。それをしっかりと脳裏に刻み込んだ上で、真琴の言い分に「諾」と頷いたのには理由がある。
その理由に薄々勘づいていたのは何も近藤さんだけではなく、真琴もその一人だったということだ。
「歳が女と関わると、必ずと言っていいほど一悶着あるんだよなぁ。」
(そうかい。そりゃ悪かったな)
「だから、俺はおめぇの尻拭いをしなけりゃなんねぇのさ。そいつが変わらず俺の役目ってわけだ。」
(尻拭いなんて言葉を本気で信じるほど、男が廃れたわけでもあるめぇ)
そう強がってはみたものの、俺は真琴を手放すという現実としての意味に心が竦んでどうしようもなく寒くなってしまった。真琴がいたからこそ、血は凍てることなく人並みのあたたかさを俺にもたらしたのだろう。
揺るぎない決意を尊重し、わかりきった破滅をともに選ぶのか。それとも、命を未来へとつなげるために、一切の未練を断つのか。
どちらを選んだとしても、散り際に思い出されるのはきっと懺悔の思いなのだろう。
『もし死ぬようなことになったら、その瞬間にも悔いの一片も残さないで潔く散る。つまり、俺は後悔を残さないためにも自分の望みどおりに生きる。欲望に忠実に生きてりゃ人の道に外れることもあるだろうな。だが、そうなったとしても俺はそれを止めるつもりはない。他の連中の気に入らないことであっても、俺は正しく俺を貫く。言いたいことはそれだ。』
生意気にもこれだけのことを豪語しておきながら、未だ生き存える俺が背負い続けているのは身を潰さんばかりの後悔の山。近藤さんにしろ山南にしろ、自分の不実さを呪わない日はない。
「歳。目の前をよく見てみろ。」
頭上から声がした。頭の中にこもるようなささやきではなく、しっかりと鼓膜を通して感じられる耳慣れた声。
信じられない思いで上を仰ぎ見ると、見慣れない風景の中に近藤さんが立っていた。
何が起こったのかと辺りを窺い見るも、肝心な真琴の姿は見当たらない。つい先刻まで宿の一室で向かい合っていたはずだ。
まばたきひとつあるかないかのうちに忽然と知らない土地が現れて、どういう絡繰りなのか自分がそこに着の身着のまま座り込んでいた。尻が妙に冷たいなと思えば、その下は紛れもないただの土。
「勇さん。こりゃ一体どういうことだ。」
「いいから。よく見てろよ。」
そうやって言葉を遮られた途端に後ろから土を蹴る蹄の音が聞こえ始め、どっどっどっと速度を上げて大きな塊が風を巻いて近づいてくるのを感じた。
身の危険を感じた俺はすぐさま振り向き一刀に薙ぎ払おうとするが、愛刀兼定は宿の刀架にかけたまま手もとにはなく、血迷っている間にも駿馬はすぐそこまで迫っており、逃げ後れた俺をすり抜けその先の関門を果敢に突破していった。
関門には槍や鉄砲を構えた敵が待ち構えていたが、馬上の男は怖いもの知らずなのか単身でそれらを躱していく。注意深く見守っていると、その手に握られているそれは先刻自分が手にとろうとしたものによく似ている気がした。
それにしても、何かが妙だ。あの男の身に纏った洋装は、新選組が新たな様式に合わせ新調したものに酷似している。
「そもそもあの洋装は、俺たちの…?」
「もっとよく見てみろ。あの男に心当たりはねぇか?」
そう促されて勇猛果敢に挑みかかる男を注視すると、なんとそれは俺自身だった。
「ちょっと待ってくれ! 俺はここにいるだろうが! あっちの俺は一体どうなってやがんだ!?」
「そう慌てなさんな。あれはな、未来のお前だよ。」
「未来だって!? 本当かよ! …だとすると、ここは…」
「蝦夷だとよ。どうだ。驚いただろう?」
「蝦夷、だって?」
それを聞かされた俺は、まっさきに真琴のことを思い出していた。
京にいた頃の話だ。唐突に「蝦夷に興味があるのか?」というようなことを聞かれたことがある。そのときはあまりに突拍子もない質問だったため、謎かけか何かを試されているのかと思い、あまり深く考えることはせずにやり過ごしてしまったのだが、もし俺が近い将来に蝦夷を目指すのであれば、真琴はあらかじめ俺の未来を知っていたことになるだろう。近藤さんから与えられた目の前の光景から察するに、俺の辿るべき道を真琴は案じてくれていたのかもしれない。
「そういやぁ、真琴に尋ねられたことがあったな。あれはそういう意味だったのか。」
時間が経ってから判ることが多くある。真琴が当時抱えていたであろうもどかしさを俺はようやく理解できるようになったのかもしれない。
一生懸命でたどたどしく拙い言葉の数々は、今この胸の中にあたたかさを伴い流れ込むように拡がっていく。
近藤さんの幻から解放されたら、この件を掘り起こして尋ねてみようかという気になった。
「真琴ならすぐそこにいるぞ。」
「は? そりゃ一体どういう…」
そんな偶然があるものか。
俺は信じがたい思いを抱えながら、取り乱す寸前のように四方八方を見回した。
「土方さん!」
すると、俺の名を叫ぶ切羽詰まった真琴の声が聞こえてくるではないか。
声のもとを辿ってみると、さっき馬が駆けてきた方角から真琴が泣きじゃくりながら駆けてくる様子が見えるのだが、これは一体——
「土方さん! 土方さん!」
「真琴?」
どこから現れたのか。どの辺りから走ってきたのかは定かではないが、今にもまろびそうになる危なっかしい足どりで懸命に追いすがろうとしていた。
それはまるで最悪の結末を予見したかのようにがむしゃらだ。
「土方さん! だめ! 死んじゃいや!!」
(死ぬ?)
(ついに俺が死ぬのか?)
真琴は、俺の死を阻むために飛び出してきたのだろう。だがしかし、そうしたことで自分が無傷でいられるという保証はない。真琴が駆け抜けようとしている関門は、銃を構える敵勢が今か今かと待ち構えているのだ。
「阿呆! どうしてこんなところにいるんだ! 死にてぇのか!!」
追いつかず伸ばした指の隙間に、連射式の西洋銃を構えた敵の姿がおぼろげに映る。関門の奥では硝煙が舞い上がり、それを海からの風がすくい上げて渦になり辺りは灰色の世界に包まれていった。視界が悪い。ほんの一瞬が命とりになる。
「真琴—————!!!」
全身が粟立つのと同時に、空気が震えた。そこまでは良かったが、何かがおかしい。叫んですぐに、それは判明した。
(声が…?)
声が響かない。俺の声が、真琴には届かない。何故だろう。
伸びきった指先をゆっくりと手繰り寄せ、やがてそれは胸の前に収められ拳となって顫動する。
(ただ見ていることしかできねぇってのかよ)
決して交わることのない世界の入口には、見えない境界線のようなものが敷かれているらしい。俺と真琴を隔てているものは、どうしようもなく遠かった。どれだけ近づいても絶対に埋めることのできない時間という空白が、俺をただの傍観者に仕立て上げているかのように。
そもそも俺をここに連れてきた張本人は、一体どういうつもりでいるのだろうか。つい責めるような眼で睨んでしまうが、当の本人はまるで部外者とでも言いたげに平然とした表情を崩さない。
(これが、俺たちの未来だってぇのか?)
(真琴まで、この戦の犠牲になるっていうのか?)
どうやっても未来への入口を突破できない俺は、泣き咽び追いかけてまで俺を助けようとした真琴を見殺しにしてしまったのだろうか。可哀想な真琴を見放すことができなかった俺が、真琴を道連れにすることを認めてしまったということだろうか。
(嘘だろう…?)
(まさか、これが現実だなんて言わねぇよな?)
ぱんぱんと隙間なく弾の雨が降り注ぐ。硝煙がもくもくと渦を巻いて立ち上がり、たちまち現れた灰色の世界が俺たちの視界をあっという間に塗り替えていった。銃の音以外は何も聞こえてこない。俺の膝下はがたがたとみっともなく震えていた。
やがて仕掛けてくる敵の弾数が徐々に減っていき、息を殺して見つめているうちに何も聞こえなくなっていた。
全身から何かとてつもない感情が噴き上げてくるが、四肢は皮肉にも脱力し、立っていることさえ難しくなり俺はその場に膝を崩してしまう。
「…何故…これを…?」
俺の内側に唯一残っていたのは、声を振り絞るだけのわずかな力のみだった。それなのに隣の男は、惨劇の一部始終を一寸でも洩らすまいと見続けている。
なんて残酷なのだろう。
失望に似たうつろな気分とともに許しがたいという憤りを覚えたが、それを向ける矛先が近藤さんであっていいはずがない。この人はただ起こるべくして起こる未来を知らせようとしているだけなのだ。
(俺はまた判断を誤ったのだろうか)
たいていは情に流されて判断を誤るのが人間だ。人間のそういう弱さをわかっていたから、俺は馴れ合いを疎み孤独を愛した。だが、俺も所詮弱いだけの人間だったということだろうか。情に溺れてしまったんだろうか。
「歳。安心しろ。お前は後悔なんかしていない。」
その声に導かれ、無骨な指先の差し示す方向をぼんやりと眺めていると、撤退する味方の肩に担がれた俺の姿を見つけることができた。その傍らには、相変わらず泣きじゃくる真琴の姿がある。ひっきりなしに名前を呼び、敵味方入り乱れる怒号の中を懸命に並走する真琴の姿だ。
「土方さんもう少しの辛抱ですよ! 私が死なせたりしません! 絶対に助けてみせます! だから、諦めないでください! お願いですから、生き抜くことを諦めないで!」
茫然と見つめる俺の眼前をくったりと脱力した未来の俺が行き過ぎる。俺を担ぎながら撤退する隊士の腕には、撃たれたばかりの生々しい血がまとわりついていた。おそらく俺のものだろう。真琴の袷にも血を吸い込んだ跡が残っている。
(あの状態で助かるんだろうか?)
宇都宮でも銃創をこしらえたばかりの俺は、まるで他人事のようにぼんやりとそんなことを思った。撃たれた場所にもよるだろうが、胴をやられたとあれば助からない可能性も出てくる。それで死んだのなら俺の命運も尽きたということになるだろうが、思いがけず手前の死に際を覗いてしまったことにより顔がぎこちなく引きつっているのがわかった。
同意を求めるかのように近藤さんを見ると、「心配するな」との一言とともになんとも誇らしげな表情をされてしまった。つまり、寸でのところで助かるということだろうか。
「余計なこと言っちまったと思ってな。すまん、歳。」
「そのために、わざわざこれを…?」
「それもあるが、真琴がどういう理由で未来からきたのか…お前、知ってたか?」
突然発せられた「未来」という響きに、俺はどうしようもなく目を見瞠った。知り得るはずもないそれを、どうして知っているのだろうか。真琴が近藤さんに打ち明けたとはどうあっても考えにくい。ならば、近藤さんがそれを知る手立てを持っていたということになるが、おそらく生きている間に得たものではないことを俺は培ってきた知識の中に探り当てていた。
死者には何もかもがお見通しなのだ。
「近藤さんの口からそれを聞かされたことにそもそも驚いているが、もしかして知ってるのか? 俺はまだよく知らないってぇのに。」
「よし。教えておいてやろう。真琴はな、」
そこまで言いかけた近藤さんの笑みに愉悦が混じる。俺はそれにまんまと引っかかり、難しい顔で腕組みをした。続きが気になって仕方がないというのに、冷めた目を向ける俺の態度は実に横柄だ。
「真琴は?」
「やっぱりやめた。手前で考えてみろよ。」
「はぁ? なんだよそりゃ。」
俺の聞く態度がいかにも不遜だったのを見咎めたのか、近藤さんは種明かしを始めようとして不意に興が乗らなくなったらしい。肩をすくめながら、意地の悪そうな笑みを浮かべている。興味を引きつけておいて、その言い草はない。
「じゃあな。俺はもう往く。またな、歳。」
俺を翻弄した満足感からか、近藤さんは蜃気楼が揺らめくがごとく一瞬でいなくなっていた。
呆気にとられた俺が次に目にしたのは、ゆらゆらと潤みきった瞳。そこは紛れもなく滞在する宿の一室だった。
近藤さんに蝦夷へと連れ去られている間、俺はその空白をどのようにして乗り切ったのだろうか。言うなれば意識は空ということになるだろうし、そういう状態がしばらく続いたときに居合わせた相手がどう感じるかはこの俺でも容易に想像ができた。
(ごまかしなんてそう利くもんじゃねぇだろうし)
ここは変に取り繕ったりせずに真実を告げるべきだと判断したが、順を追って説明しようにも何を軸にすればいいのかがわからない。第一、俺が未来を見てきたなんぞと言えば、真琴は仰天するに違いなかった。
これは難渋するぞと思いながら、つい苦し紛れに出た言葉がまずかったらしい。
「すまなかった。」
見瞠いた瞬間にきらりとそれはこぼれ、やわらかそうな頬を一筋に濡らした。一瞬のその出来事はあまりにも可憐で、俺の心を波立たせていく。
目元を拭おうとして思わず差し伸べた指先を、真琴は嫌がるようにして振り払った。
「謝ってほしくない。責任を果たせないから謝るなんて、土方さんらしくないです!」
次々と溢れては落ちる泪。赤く充血した目が、責め立てるかのように俺を睨んでいた。細い指を握りしめた手の甲が、さまざまな感情を抱えながら震えている。
「今のはそういう意味じゃない。」
「じゃあ、どういう意味なんですか!? 全然わかんない!」
冷静さを欠いた真琴の声は、今までに聞いたこともないような耳障りなものだった。
感情的になった女を宥めるのは、何よりも根気がいる。いつも俺はそれを厭がった。自分から仕掛けておいて、いざそうなったら面倒だからと放棄してしまうのだ。そうして毎度こじらせてきたのが石田村の歳であり、その尻拭いをさせられてきたのが近藤さんだった。
「近藤さんが訪ねてきたよ。」
「え?」
「お前が未来からきた理由を知っているとほざいてやがった。」
「近藤さんが?」
真意を確かめようと目をしばたたいているうちに、真琴の泪は自然と止まっていた。完全に俺の話に引き込まれているようだ。
「ああ。蝦夷にいる俺の未来を見せられた。」
「…未来? 未来を見たんですか!?」
「ああ。変な感じだったな。もしかして、お前もこんな気分だったのかって、ようやく知れた気がしたよ。だから、俺に話してくれた奇妙な道具のことやら、お前の考えたお伽噺も全部が真実だったんだとわかった。お前は、俺が考えるよりもずっと遠くの果てしない場所からやってきたんだ。今日までよく頑張ってきたな。」
褒めるのは決して得意ではなかったが、真琴が今日までどれほどの苦労を強いられてきたかを思うと、その努力を犒ってやらないわけにはいかなかった。慣れない環境を日々耐え忍び、この俺を慕うあまり、こんな危険な場所までついてきてくれたこと。砲煙弾雨の中をもろともせず、身を挺してまで俺を護ろうとしたこと。光柱のようにまっすぐで、炎のように熱く烈しい。こんな愛し方があるのを俺は知らなかった。こんな無茶苦茶な女には初めて出会う。だからこそ俺は、真琴が傷ひとつなく清らかなままで生きてほしいと願ってしまったのだ。
「俺なんかに出会っちまったばっかりに、こんなところまで連れ回されてな。本来なら、戦とは無縁だろう。逃げたいと思うのが当然だ。」
「逃げません。土方さんを捨てて、逃げたりしません。」
「知ってるよ。そんなのはもうとっくに知ってるさ。」
真琴の決意が、微塵も揺らぐことなく堅固なことくらいわかっていた。だが、それと同じくらい俺が真琴を生かしたいと思う気持ちも譲れないほど強固なものだった。それらがぶつかり合えば、必然的にどちらかが折れることは明白だ。
「なぁ。これは俺が考えた空想の話だと思って聞いてくれりゃあいい。」
そんなふうに前置きをした俺は、頭の中にある情景をつらつらと語り始めた。
「年頃の娘がいた。どういう絡繰りかは知らねえが、その娘は住み慣れた故郷を閉め出され、まったく見に憶えのない土地に放り出されちまった。見たこともない町並み。往来の人々が口にする言葉もどこか耳慣れなず、娘は辺りをきょろきょろと見回すばかり。ただひとつ安心できるのは、幼馴染みが隣にいたことだ。だが、その幼馴染みとも一時縁が切れちまう。何故なら、悪名高い壬生浪士組に取り囲まれちまったんだからな。野次馬のどさくさに紛れて逃げようとするが、娘は逃げ切れずに壬生の屯所に引っ立てられちまった。そうして詮議にかけられるが、何の因果かあの慶喜公の預かりで難を逃れた。まったく運のいい奴だよ。」
慶喜公が贔屓にしている置屋に預けられた真琴は、そこで一から芸事を身につけて振袖新造となったが、俺たちとの接点は予想以上に多かった。というより、芹沢闇討ちの一件こそが接近する大きなきっかけになったのは言うまでもない。
「仕事や環境にも慣れ始めた娘は心にゆとりができ始めたのか、あるときこんなことを考えるようになった。何故こんなところにやってきたのか。今まで生きてきた十数年間の中で、これだけははっきりしていることがある。それは、物事に意味のないことなんてない。つまり、物事には少なからず何か意味が隠されている。原因があって結果に繋がるような、一本の確かな道。そのことに娘は勘づいてしまった。そうなりゃ、手前の置かれているこの状況に何が何でも意味を見つけたい。そう思うのが筋ってもんだろ。」
いくら抜けているからといっても、真琴ならそういう疑問に行き当たったはずだ。自分なりに筋道を立てて考えたに違いない。そこで答えが出たのかは俺にもわからないが、もし答えが見つからなかったとすれば、この時代に自ら意味を持たせたいと思うのが自然の発想ではないだろうか。
「ところで、娘には心に決めた相手がいた。世の中がひっくり返るような大戦が始まろうってときに、よりにもよってその男は戦火の中に身を投じていった。娘には無事を祈ることしかできなかったが、ある日突然姿を見せた男が別離を切り出したことによって、娘の胸の内に確かな決意が芽生えたんだ。男が背中に背負うもの、戦う姿、生き様を目に焼きつけようと。」
ここまでが、今日まで傍で見て俺が感じてきた真琴の生き様だ。ややもすると想像や主観が多々混じっているかもしれないが、そこはまぁご愛嬌。
「そうして最果ての地、蝦夷まで辿り着いた娘は、ついに恐れていた場面に遭遇する。惚れた男が敵陣に向かって突っ込んでいく様をな。…とは言え、女が戦場に出てくること自体があり得ない話だ。だったら、何故その場に現れたのか。それはつまり、結末を予見していたからだ。そのことを知り得るのは自分だけ。事情があって、他人に打ち明けることができない。すると、自分が動かなけりゃ始まらねぇわけだ。そして、その行為に裏打ちされるものは、つまり、命を懸けるってことだろうな。」
敵が待ち構える関門に向かい、泣きながら駆けていった真琴の姿が今も胸を顫わせる。
もし見えている敵の数よりも、さらに多くの伏兵が潜んでいたとしたらどうだっただろうか。もしくは、俺たちを陽動するためにわざと関門で待ち構え、後ろから挟撃、あるいは横合いから囲い込み一気に叩くということも考えられない話ではなかった。とにかくあの瞬間は、ぞっとするほど命の危険を感じる状況だったのだ。一瞬が命奪りになるような状況に、真琴はひとりで現れたのだから肝を潰されたのも無理はない。
あの行動を目の当たりにしたからといって、さすがに闇雲に飛び込んでいったとは思わない。感情に押し流されるだけの浅はかな女ではないことを、この俺が数年をかけて見てきたからよくわかっている。自分がこれからしようとしていることを前にして恐怖を感じないはずはないが、それでも結末がどうであれ俺を救い出そうとして真琴はあんなふうにがむしゃらだった。
死ぬ覚悟だけでは、どうあっても切り抜けられないだろう。死を前にした人間は、手前の生き様にたいそうな価値をつけたがるものだ。
「女が戦場に出ていくってことは、死ぬこととほぼ同義だ。できることなんざ何もねえよ。非力だ。死ぬ覚悟を持たねえと、敵陣に斬りかかる男を止めようなんざ思わねえさ。当然、娘は自分が死ぬかもしれない可能性を考えた。そうするとどういうわけか、自分がここにいる意味が不思議と見えてきたような気がした。それはな……」
言いかけた俺の手を、感情が高ぶったような指先が搦めとる。興奮気味ににじり寄ってきた真琴は、俺の体に軽くのしかかっていた。確信に満ちた瞳が凛とした光に縁取られて、もう迷いなどとうに晴れたと言わんばかりに清々しさを放っている。
「どうして? どうして私の考えてることがわかったんですか? こっちに来てからずっと、どうして私はここに来ちゃったんだろうって、ずっと考えてたんです。でも、どうしても納得できる答えに辿り着けなくて。土方さんは、私が答えを出すよりも先にそのことをわかっちゃったんですか?」
「さあな。どうせうぬぼれだろう?」
「うぬぼれかどうかは、私が証明します。だから、私に内緒で蝦夷に行ったりなんかしないでください。」
「後悔はしねえと、あの人にも誓ったからな。」
少しばかり火照った躯に手を伸ばし、その熱を宥めるかのように俺は真琴を抱えて床に就く。
それ以来は会話らしいものがぴたりと止み、真琴は珍しく甘えるようにして俺にしがみついていた。
夜が明けきらぬ頃。
少しずつ空が白んできたのを見計らい、俺は寝所を抜け出した。
適当に仕度を整えて、まだ寝息を立てている真琴を見おろした。昨夜あんなことがあったというのに、俺を信じてすっかり安心しきっているようだ。
音を立てぬよう襖をそっと開け、慎重に階段を降りながら土間に据え置いてある雪駄に足を入れる。一歩ずつゆっくりと足を運んでいき、暖簾の外へと踏み出した。
山々を連ねる峰の合間に、早くも霞がかかっている。一句詠めるなと思いつつ、俺はその風景に見入っていた。
「理由、わかったみてえだな。」
通りすがりの行商人みたいにさらりと言い放ち、近藤さんはいつの間にやら俺の隣に立っていた。
「来ると思っていたよ。どうやら俺ァ、会津を見限るらしいな。それにしたって、蝦夷なんて想像もつかねえや。」
「俺も行ってみたかったねぇ。蝦夷。」
そう言って近藤さんは、目を細めながら顎をしきりにさすっている。
俺はさすがに呆れて、胡乱な目つきになった。
「でたらめを言ってやがる。やっぱり江戸が一番だ。もう二度と江戸から出るもんか、って言ってやがったのはどこのどいつだえ?」
「そうだなぁ。言ったかもしれねえな。だったら、ちゃっちゃと江戸へ帰るかな。」
「なぁに言ってやがんだよ。ついてくるんだろう? 蝦夷へ。」
鯉口を切る音が、小気味よい響きを持って耳を刺激する。
近藤さんはそれに呼応するかのように虎徹を握り、その刃を山際に迫る朝日に重ね合わせて閃光を放った。
互いの刃が共鳴し、かきんと鋼の音を立てながら朝の陽を受けて燦めく。
「やるか。歳。」
「やるよ。」
俺にはもう迷いなどなかった。
見知らぬ時代に転がり込んでまで、俺を救おうとした女がいる。
たったひとつの真実。それだけで十分なのだ。
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艶が〜る二次小説。
会津で湯治中の副長の話のつづきです。
若干のネタバレを含みますので、閲覧の際はご注意ください。(※著作権を侵害しないために、ゲーム中の台詞などは使用しておりません)