No.86743

不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常 『雨の日のコンチェルト8』

バグさん

世の中の不公平は誰にでも訪れる。それ故にそれは公平にもなりうる。
だが、どうにもならない不公平もまた、存在する。
ヤカは、そんな不公平に苦しんだ。

2009-07-27 23:09:44 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:498   閲覧ユーザー数:472

世界には不公平な事が多すぎる。

「これは、良くない。ああ…………」

 親代わりである医者の声を聞きながら、考えていた。

彼女には1つの理想があった。

現実を打破してくれる様な、あるいは超現実的にふざけた方法でも良い。ただ、病状が改善して、この世界を走り回りたかった。

それだけの理想。

だが…………捨てられた猫は無価値なのだろうか?

昔の話だ。子供の頃の話だ。まだ、自分の不幸に気が付いていなかった頃の話だ。

病院の帰り道。車で。少女は後部座席の窓から外を眺めていた。体は何時も気だるかった。だから、気を紛らわせる術を学ぶしかなかった。車の中では、無心で外を眺めているのが一番良い。

その場所が何処だったか、など彼女は覚えていない。子供に頃の記憶など、実に曖昧なもので、創造が介入する余地は十分あり、故に捏造もまた起こりうる。無意識のうちに。

だが、その事だけは覚えている。記憶の中に、深く刻み込まれて消えることが無い。恐怖によって、あるいは刻み込まれたのかもしれない。もっと、別の感情だったかもしれない。

窓の外に視得たもの。アレは、なんだ。

そうだ。

アレは、そうだ。

車の中から、外へと向けられた視線。

流れる景色。

ビルとビルの間。薄暗さが目立つ細い路地。

放置された青いゴミ箱。

その下。

子猫が。

アレは…………

死だ。

細い路地の、ゴミ箱の下に捨てられた子猫。

それを視てしまった。車は高速でその光景を置き去りにしたが、シャッターを押したように、それは眼に焼きついた。

その光景をずっと覚えていて、忘れていても、ふとした拍子に思い出して、心を陰鬱にさせる。

だから、彼女は考える。

捨てられた猫は無価値なのだろうか。

捨てられた猫はゴミ同然なのだろうか。

これは断言してもいいが、子猫が死んでから、数日は経っていた。しかし、子猫が墓に埋葬される事は無く、放置されている。そもそも、誰が丁寧に埋葬するというのだろうか。いらないから捨てられたというのに。

死因はなんだ? 餓死だろうか。あるいは心無い誰かに殺されてしまったのか。

そして、それなら。子猫は現実に対して足掻いたのだろうか。足掻いたのだろう。生物というのは、本来そういう風に出来ているのだから。

だから、両親が死んだ時、あるいはその後の出来事で、彼女は足掻くことを決心した。

彼女には1つの理想があった。

ただ、走り回りたい。元気でありたい。それだけの理想。

だが、彼女は現実に支配され、支配はその性質上、理想に転化される。そして、理想には理想で有るが故に限界が存在するのだ。元々、限界を超越するための理想であったのに、それは本質に限界を抱えてしまっているのだ。故に理想と呼ばれるのだろうが。

彼女がそれに気が付いた時、理想は現実に喰われ、あるいは抱いていた元の形に収まった。つまり、なにも変わりはしなかった。

子猫は足掻いただろう。しかし、現実は理想に対して厳しい。理想は全くの無意味だった。では、どうするべきなのだろうか。

そう考えた時、心の水面に、一石が投じられた。それによって生じた小さな波紋は、やがて彼女のの世界に対する視線を変化させる事となった。

少なくとも、捨てられた猫が無価値で有る事を、認めるわけにはいかない。

「ああ、何てことだ。何で…………ああ、くそ、何で…………」

 だから、先生。私は諦めて無いから。

そんな顔をしないで、先生。

「…………たい…………」

耳元で囁かれた声に、ヤカは足を止めた。

背中には華実を背負っている。血を吐いたのには驚いた。そして、その後気絶したのにはもっと驚いた。正直、硬直してどうすればいいか分からなかった。やはり、出来ることなど何もないのだと、痛感した。

だが、それでも前に進まなくてはならない。何も出来ないならば、出来ないなりに進まなければならない。それ以外に、物事を決着させる術を、恐らく人間は知らない。だから、どんな状態でも、どんな場合でも…………どんな過酷な状況でも、足は前に向いていなければならない。友人が危機に瀕しているならば尚更だ。それが力となると、ヤカは信じていた。

「う……あぁ…………」

「……………………」

 呻き声を上げて、身を捩った。押し付けられた胸から伝わる拍動は、恐ろしく不規則だ。医療知識の無いただの中学生にも、それが激しく異常である事が判るほどに、それだけで背筋を冷たくさせた。

「ああ、もぅ」

 頭を抱えたくなるが、華実を背負っているので、それが出来ない。いや、抱えるのはやめにしよう。これ以上何かを抱えると、きっと重みに耐えかねこっちが参ってしまう。例え、それが自分から出たものだとしても。

こんな時、思い浮かべるのは友人の顔。飛び切り親しい友人の顔。

「何とかしてよぉ、リコ」

 1人では、辛すぎる。リコが居るだけで、いくらでも頑張れるのだ。でも、今は居ない。

流れそうになる涙は、気力で堰き止められた。まだなんとか大丈夫だ。

私が泣く前に来て。そんな事を思いながら、不安定な足場を前に進む。

「…………リコさんって、頼りになるのね」

「あ、あぁ、起きてたのかぃ。てっきり…………」

 とても恥かしい所を見られた様で、頬に朱がかかる。

「てっきり、まだ寝てるものかとぉ」

「上手く、話せなくて。心臓が、言う事を聞いてくれないから」

 一拍ずつ間を開けて言葉を紡ぐ華実。確かに、その様子は喋りづらそうだった。

「あんまり喋らない方が、良いよぅ?」

「聞いて、欲しい事が、あるから」

 だから喋るのを止めない。そう言いたいのだろう。

「気持ちは分かるけど、駄目だよぅ? 私が風邪引いた時、リコなんて、お見舞いに来てる癖に、私の口にガムテープ貼るくらいだもん。五月蝿いって」

「それは、ヤカさんらしい、わね」

 咳き込んで、ヤカの肩に顎を乗せてきた。その口からは血が流れていた。唇を切っただけならば良いのだが、この血は体の中から来たものだ。

「だから、喋るのは駄目だよん」

「今、聞いて欲しい、な」

「…………むぅ」

 思いのほか軽い華実。しかし、人一人分の重さというのは馬鹿にならない。相手が力を補助してくれたなら別なのだろうが…………今、華実は脱力の極みにあった。

意識があれば、有る程度の筋力を感じるはずだ。だが、今の華実からはそれを全く感じなかった。力が入らないのだろう。手を離せば、きっと、成すすべなく地面に崩れ落ちる。出来れば、もう少し眠っていて欲しかった。

だが。

「いいよぅ、聞きたいな、華実の話」

 止められない。止められない気がする。華実が話し出すのを、止められない気がする。

だから、要らぬ問答で体力を消耗するより、早く言いたい事を言ってもらって休んでもらおう。そう思った。

「ん…………?」

 華実の話を聞く気構えを整えた所で、ヤカは思わず足を止めた。

視界の端、かなり遠くの場所に、人の姿を視た気がしたからだ。

学校の生徒では無い。近くに住む住人とも思えない。視たことも無い服を着ていたからだ。

とはいえ、一瞬のことだったので、それが本当に人だったのかどうかは判らない。木を視る角度で、それが人の姿に視得てしまう事もあるだろう。ロールシャッハテストは実に良く出来たテストだと思う。

「どう、したの?」

「いゃ…………」

首を傾げて、再び歩き出す。

きっと、気のせいだ。そう思って、先を急ぐ。ここまでかなり歩いてきた。もう少しだ。

「あのね」

「うん」

 華実は、静かに話し出した。

「今年の、3月ね。両親が死んだの」

「え………………」

 息が止まったかのような衝撃に襲われる。

なんだ、それは。あまりにも常識の枠外の告白に、ヤカの頭はやや混乱した。

「私ね、あんまり悲しく、無かった」

 嘘を付いている? あるいは錯乱している? そのどちらも違うだろう、とヤカの直感が訴えた。

今年の3月。

華実の変化を感じたのは、新学期が始まってからだ。彼女の内面を変えるほどの衝撃に、程よく釣りあってしまう出来事だ。

だが、疑問は当然ある。華実の変化は、確実に良い方向に向いている様に見えた。喪に服している人間にしては、明るすぎる様にも見えた。事実、自称彼女の友人達は、その変化に気付いた様子も見せなかったでは無いか。それは内面的にはもちろん、外面的にも気落ちを感じさせなかったという証左に他ならない。

 ヤカはそこで気が付いた。

悲しくなかったと華実は言った。それが本当ならば、彼女に起こった変化はそれが理由では無いという事になる。

「それでね、私、私…………」

華実は、軽い調子で言葉を進めた。軽いのは内容でも、気分でも無い、紡がれた言葉、その声があまりにも軽いのだ。精気が篭っていない、という方が正しいかもしれない。

「私……………………」

「…………………………」

華実は核心を述べた。

その言葉に、ヤカは今度こそ言葉を出せなくなった。

馬鹿らしい。あまりにも馬鹿らしい。なんて不条理で不公平な事だろうか。なんと馬鹿らしい世界なのだろうか。

世界の全ては公平に程遠い。それを摂理とも呼ぶ。真理とも言うかもしれない。だからこそ、人は公平を夢想するのだ。当然の不公平を受け止めるには、人の心は狭量すぎる。

だからこそ思うのだ。

 なんと、なんと哀れな事か。

「君は、そう…………悪化している。君の病気は悪化している! 何故だ? 何故ここに来て? 病状は落ち着いていた。このまま完治する見込みもあった! だが、何故ここに来て…………」

両親が死んでから少し経って。

彼女は宣告された。

自分で歩く事が出来るのは、あと少しだと宣告された。

食事を食べられるのはあと少しだけだと宣告された。

病院のベッドで一生を過ごす事になるだろうと宣告された。

…………この世の不公平を宣告された。

世界には不公平な事が多すぎる。


 
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