新銀山町は小さな田舎町である。
駅周辺には学校や団地、薬局、大型スーパーにレンタルビデオ店、シネマコンプレックスが入った複合商業施設などがあり、買い物にはそれほど困らず在宅需要もそこそこあった。
秋と言うにはまだ暑い九月が終わり涼しくなり始める十月の青い空の下。町の駅前にて、人通りの少ない十字路の交差点にかつてこの町で生まれ育った二人の少女―須藤羽矢と雨宮リウが佇んでいた。羽矢は首を動かし辺りを見回すと、建物の外観が昔と変わっていないままであった事に感動していた。あの喫茶店も、あの古本屋も、あのメガネ屋も。何もかもが昔のままだった。
「……変わってない! 昔とおんなじまま! 本当に帰ってきたんだ……!」
羽矢は嬉しさのあまり、思わずバンザイと全身で喜びを表した。
「帰ってきた……帰ってきたんだよ、リウ!」
リウの方を振り返り、顔を見てみる。
「……やっぱ、昔と変わっちゃってるな」
その言葉と共に表れた表情はどこか影があった。心なしか、嬉しいというよりは複雑な心境のように見えた。
「どうしたの? 帰ってきたんだからもっと喜ぼうよ!」
「呑気だね、アンタ……あの施設に何日くらいいたと思ってるの?」
「何日って……」
リウの指摘により、羽矢の心臓はキュッと締まった。
あれ……? そういえば、何日いたんだろう。
そう、羽矢は今の今にいたるまで、あそこに何日間いたかを考えていなかった。いや、それを考えるのが怖くて無意識のうちに考えようとしていなかったのかもしれない。
まさか。
羽矢の頭をある可能性が光芒のようによぎる。
「やっと気づいたか。いや、気づきたくなかったんだろうね……」
「ま、まさか……そんな、小説とか映画とかマンガとかじゃないし……」
羽矢の額から脂汗がたらり、たらりと伝り落ちていく。
「あるんだよ、そういう事が。あたしらがそうだろう」
リウの目はキッと羽矢を睨み、声色も少し強ばった。
「いい、羽矢。思い出に浸るのはいいけど。これから私が言う事をしっかりと聞いて」
「な、何? 急に改まっちゃって……」
羽矢は普段のリウとは違う様子に少し戸惑った。
「今から言うのは、あんたにとって凄くショックな事だと思う。だけど、事実だから受け止めて欲しい。ショックになるだろうから今まで黙っていたけど、いつかバレるとも思ってた。いい? 今は……」
リウが重々しい口調で話をしようとしたその時だった。
「あれ? 須藤さん……?」
羽矢は見知らぬ女性に突然名前を呼びかけられ、彼女の方へと振り返った。
買い物の帰りなのか、スーパーのレジ袋を手に下げており、赤ちゃんの乗ったベビーカーを押していた。見た目はまだ若く二十代程のように思えた。
羽矢はその女性の顔をマジマジと見つめる。どことなく見覚えがあるように感じたが、やはり誰なのか見当がつかなかった。一体誰なんだろう、昔お世話になった先生か小さい頃に会った親戚だろうか。
「あの……すいませんが、どちら様でしょうか……?」
羽矢はその女性が誰なのか尋ねてみる。
女性は一瞬難しそうな顔をするが、直ぐに元に戻り、羽矢に向けて謝罪した。
「そ、そんなワケないですよね。すいません、人違いでした」
その女性が振り返った瞬間、羽矢の頭の中に平凡に暮らしていた頃の記憶が稲妻のように駆け巡り、瞬時に胸の鼓動が高鳴り止まらなくなった。
「あ、あの!」
まさか。そんなはずがない。違うはずだと言って。羽矢はそう思いながらも、彼女の名前を呼んだ。
「……もしかして、弓塚……さん?」
「え、確かに私の旧姓は弓塚ですけど……どうしてあなたがその事を知ってるの……?」
彼女はキョトンとした様子で驚いた。
旧姓?
という事は結婚? クラスメイトが? いや、親が離婚した可能性もある。でも、それにしては昔と比べて大人っぽくなっているような。
じゃあ、その赤ちゃんは……子供? でも、何で? そもそも一体いつ結婚していつ生まれたのか。
羽矢の頭をいくつもの思考が駆け巡り、ある説へと辿り着く。
「あ、あの!」羽矢は思わず彼女に質問をした。「い、今は何年なんですか!?」
「何年って……今は二〇一〇年だけど、それが?」
羽矢は彼女が言った事実に頭がついて来れず一瞬思考が止まった。
「にせん……じゅうねん……?」
直後に、意味を理解した時、絶望感が羽矢の心一帯を満たしてく。
二〇一〇年。
羽矢が事故に遭った時―二〇〇五年から五年の歳月が経過している。
「ご……ねん……」
五年も経てば世間は十分変わる。義務教育は半分以上が終わり、高校一年生は成人し、テレビなどの電化製品は代替わりするのに十分な時間であった。
「う……嘘……ですよね? 私をからかってるんですよね? 私と同い年のクラスメイトで成績は上の中、休み時間で他のみんなとよく駄弁ってたり勉強見てもらったりと面倒見が良かった弓塚さんが、け、けけ結婚なんて、ましてや今が二〇一〇年で私がこの間まで学校に来てた二〇〇五年からそれくらい経ってるなんて」
そんな、そんな浦島太郎みたいな出来事が。
「そんな事が……!!」
あるハズが無い。あるハズが無いんだ。
「貴方……何を言ってるの? なんで私の事を知っているの?」
弓塚さんと呼ばれた女性の顔色がみるみると青ざめていく。
「まさか……本当に須藤さん?」
「そ、そうだよ! 私だよ、弓塚さん! テニス部に所属してて選択科目に美術選んでて、数学が苦手でいつも赤点ギリギリで勉強見てもらってた須藤羽矢! 進路もどうするかまだ決めてなくて周りに色々と相談してみようかなと思ってて、弓塚さんにも話を聞こうと思ってたんだよ!」
「羽矢。もういい加減にしよう」リウは制止するが、羽矢は止めなかった。
「ほら、見てよこの顔! 私だよ! 須藤羽矢だよ! あの時から変わってないでしょ!? ここへやっとの思いで戻ってきたんだよ……」
「冗談はやめて!」弓塚さんは突然怒り出した。
「須藤さんはもう亡くなっているんですから……! きっとお知り合いがご家族の方なんでしょうけど、こんな不謹慎なからかい方をするのはやめて下さい!!」
そう言って、弓塚さんはその場から足早に去っていった。
「私……死んでる……?」
一連の事実を聞いた羽矢は固まった。
「私は……もう……いない……?」
「羽矢、落ち着け……」
羽矢はリウの手を払い除け、その場から逃げ出すかのように走り出した。
走りながら街の様子を見回していった。結果、街の様子は確かに変わっていた事を実感せざるを得なかった。
スーパーは見知ったものではなく、別の店になっていた。あの本屋が無い。あのお店はいったい何? あの日の前までは確かにあったはずなのに。あの喫茶店いつの間に出来たの? シネコンでは知らない映画をやっている。ゲームコーナーも知らないものばかりだ。見た事のないアニメのカードゲームもあった。
世の中に一体何があった。私があの施設にいる間、街は変わっていた。人も変わっていった。同年代の友人が同年代ではなくなっていた。
二〇一〇年。
二〇一〇年。
二〇一〇年。
その単語が羽矢の心身にひどく重く伸し掛かっていく。
(嘘! 嘘嘘嘘、嘘!! 引きこもってた訳でも、大怪我したわけでも無いのに、こんなのって……こんなのって……!!)
羽矢はその後も駅の周辺を歩き回った。数十分に渡り東口と西口を何度も往復し、風景や内装、外観を隅々まで見渡していた。
何度見ても。何度見ても。
二〇一〇年。
この単語が辺りに必ずと行っていいほどあった。
どうして。なんで。今は二〇一〇年なの。
自分は昔のままなのに。なんで、なんで、なんで。
羽矢は自分が昔のまま取り残されていた事を思い知らされた。思い知るしかなかった。
「……これが事実だよ」
リウが羽矢へと向けて言った。
「見た目はあの時から全然変わっちゃいないが、現実は違う。しっかりと時間が経っている。私たちはあいつらのせいであの時のまま取り残された。人並み外れた能力付きというおまけも貰ってね」
その口からは淡々と、かつ重く事実を述べていた。
「……じゃあ、教えてよ」
羽矢はリウへ詰め寄った。その様子からは怒りが溢れ出ていた。
「なんで言ってくれなかったの? なんで騙してたの!?」
「騙してたつもりなんてないよ。ショックを受けないように黙ってただけさね」
「同じ事でしょ!!」
羽矢は感情に任せるまま、リウの胸倉を掴んだ。
「なんで…なんで言わなかったのよ!! こんな……こんな事って……私、五年も眠っていたなんて……!!」
困惑の激しい羽矢に向けてリウは自嘲するかのように言葉を続けて述べた。
「……あんたなんてまだマシな方だよ。あたしなんて十年もあそこにいた事になるんだからな」
「十……年……?」
「そりゃ驚くよ。実年齢二十八歳のオバチャンがあんたと同じ小娘の姿のままなんだから」
二十八歳……? 見た目はどうみても同じくらいにしか見えない。更なるショックのせいか、羽矢は両手をリウの胸から離し、地面にへたり込んだ。。
「嘘……でしょ? ねぇ、私をからかってるんでしょ……ドッキリなんでしょ……?」
「傷口が瞬く間に塞がっちゃう身体なら、見た目がぜんっぜん老けてないのはよくある事でしょーよ」
「わ……私……二つか三つくらい上だと……」
「確かにあんたより年上だとは言った。でも高校生でもないとも言ったでしょ」
「で、でも! あり得ないよ、こんなんの……完全に漫画だよ……」
「そう、漫画だよ」
直後、リウは顎を引き、顔の笑みを消して淡々と言った。
「でも、現実なんだ。これからどうするかは……お互いに考えようか」
そう言ってリウは羽矢の肩をポンと叩いた後、彼女の元から離れようとする。
「ちょ、ちょっと……どこへ行くつもり……?」
「私は家族のとこへ行くから、あんたも行ってきな。会いたくないと思うのならそれでいい。このままどこかへ去るなり私についていくなり好きにすればいいよ。アタシに止める権利なんて無いし、ここからどうするかを決めるのはあんた自身だ」
リウの表情が柔和な、そしてどこか寂しそうなものへとなる。
「……私は会った方がいいと思うけどね。あんたはまだ五年だ……気休めだろうけど、まだ十分にやり直せるさ、たぶん」
それを言い残した後、リウは静かな足取りでこの場を去っていった。
羽矢はリウを追う事も呼び止める事もせず、ただその場にへたり込んだ。
時刻が十二時を回った頃、リウは駅前に位置する集合団地を前にして突っ立っていた。
全八階建てで四階五十二号室。そこが生まれ育った家であり家族がいるはずの部屋だった。
リウは家族とどう再会するかで悩んでいた。
どうやって会う? なんて顔をする? 普通にインターホンを押して「ただいま」とでも言うべきだろうか。それとも「恥ずかしながら帰ってまいりました」と大昔の流行語を交えながらおどけて見せるべきか。はたまた「私は生きてます」と涙ながらに感動の再会か。「残念だったなぁトリックだよ」 と、有名なアクション映画の復活ネタでも言っておどけてみせるか。むしろ怒らせてしまうか。
違う。どれも全然違う。
よく考えてみれば、今もあそこに家族がいるのだろうか。
今すぐに上がってみて、扉の表札を見れば知らない人の名前になっていて、それでも諦めきれなくて扉を開けるとそこにはやっぱり知らない人がいて怪しく思われて「あなただあれ」と言われるのがオチ。
そうでないとしても、実際に会った後どうするかも考えなくてはならなかった。
見た目は昔のまんま何一つ変わってなくて、そうなったのも変な組織に拉致されて身体を弄られまくったせいで、おかげで怪力とか変身とか変な能力も持たされた……それらを洗いざらい全て白状するべきか? そんな事出来るか。信じられるかどうかすらも微妙だぞ。
そもそも私の家族をこれ以上あの組織絡みの出来事に巻き込ませたくない。
そういった事を何度も考えては頭を振りかぶり、会おうとするも足が動かず、結局その場を動かないまま時間だけが瞬く間に過ぎていった。
自分がいざとなるとヘタレになってしまう事を今になって実感する。
何やってるんだアタシは。動けよ。このために逃げ出してきてここまでやってきたんだろう。
インターホンを押して「ただいまー」と言えばいい。何が起きたのかはゆっくり話せばいい。焦る必要なんて無い。それからの事や他の事も後で考えればいい。ただそれだけの事を何故出来ないのか。それをやる勇気がいざという時に出ないからだ。
学校の宿題をやろうとしてなかなか集中できず部屋の掃除を始めてしまうのと似たようなものかもしれない。自分にだってこういう事が何度か経験がある。まったく、面倒くさがりといえばいいのか、いざという時に逃げ出したくなる臆病者とでも言えばいいのか……。
そんな事を延々と考えて日が沈み始めてきた頃、ようやくリウは会って話をする事を決めた。
そんなに難しいことじゃない。このままこうしている訳にもいかない。
歩けば歩くほど、胸の高鳴りが大きくなっていった。
エレベーターで四階まで行き、五十二号室へと足を伸ばす。
扉の前まで行き、表札を確認。『雨宮』の二文字がある。異常なし。
いる。アタシの家族は今もここに居る。
指が動かない。胸の鼓動が大きくなる。バク、バク、バク、バク。
胸が苦しくなる。息も上がってくる。なんでアタシはこんなに緊張してるんだ?
脂汗がじとり、じとりと一滴ずつ落ちていく。
押せ、押せ、押せ、押せ。
ただ、押せばいい。押すだけなんだ。
震える指をじりじりとインターホンに近づける。まだ緊張が解けない。震えが止まらない。
そのまま押そうとした瞬間、隣の部屋のドアが開き住人と思わしきおばさんが訪ねてきた。
「あら……? あの、もしかしてそこの家の方のお知り合いですか?」
「え? え、ええ。そんなものです」
「そこの方たち、少し前にみんな引っ越しましたよ。確か一月ほど前だったわね。入れ違いだなんて残念でしたねぇ……」
リウの胸にキュッと締められたような感触があった。
「え……そ、そうなんですか。名札が付いたままだったからまだいるのかと思いまして」
「あら、本当ね。他に住む人がまだいないし、管理人さん取るの忘れてたのかしら……」
やはり―か。知ってたよ。世の中甘くないよね。
リウは寂しさと同時にホッとした安堵感をも感じていた。
「そういえば、ここに居ると亡くなった娘さんの事を何度も思い出して、その度に辛くなるって雨宮さん言ってたわね……」
ああ、やはり私は死んだ人間扱いか……でも、私の家族は私を今でも愛してくれていたんだね。
「もう少し早く来てれば会えたかもしれませんねぇ……でも、貴方どういう関係だったんです?」
「え、ええとその……大したことじゃないんですけど、昔に仲良くしてもらってたんです。それでお礼のつもりで久しぶりに顔を見ようと思いまして。急にここへ来たのも、驚かせようと思いまして。でもいないんじゃ仕方ないですね。お騒がせしました」
リウはおばさんに一礼した後、急ぎ足で団地を去っていった。
頭の中はぐるぐると混濁したような状態で胸の大きな鼓動も止まらなかった。
当然だ。
十年も経っているんだ。こうなる事も覚悟していた。
仮に会えたとしても、死んだと思われてるようじゃ、まずアタシ本人と思われないだろう。怪しげな宗教の勧誘やら押し売りやらと思われて警察を呼ばれるのが自然だ。
それにもし無事に会えたとしても、今更会って何になる? その答えはもうとっくに出てるだろう? そもそも身に起きた事を全部言ったところで信じてもらえるかもわからない。まず信じてもらえないだろうけど。
これはむしろ、会わなくて正解だったかもなハハハ。
リウは現状を受け入れるために、必死で自分を納得しようとした。
それでも。
怒りと悔しさと悲しさがドロドロと溶け混ざり合い、心の奥底からこみ上げてくるのが止まらなかった。
公衆トイレへ籠り、壁に拳を大きな跡が残る程に何度も撃ち突いた。何度も何度も何度も何度も撃ち突いた。しかし、心は晴れなかった。
歯を強く食いしばった顔からは内に秘めていた感情がにじみ出ており、いくつもの大粒の涙がリウの頬を流れ落ちていった。
「良いわけ……無いだろうが!! クッソォォォォオオオオオオオオ!!」
その後、リウは当てもなく街を何時間も彷徨い続けた。
行くべき場所はもう行った。
だが、他に何処へ行けばいい? 友人の家? 十年も経っていて未だにこの街にいるかも解らないのに?
答えを見い出せないまま、街中を巡り歩いた。
本屋で立ち読みをする。何も満たされない。
ゲームセンターで暇を潰す。小銭は直ぐに無くなる。
図書館で本を読む。静かな雰囲気に耐えられない。
リウの心にはイライラとした感情よりも倦怠感に近い虚無感が強く漂っていた。
「……もう、潮時かな」
旅にでも出ようかな。このまま一人でどこか遠くの知らない所へ行こう。
金は無いし土地勘も無い。何より道具を何一つ持っていない。だけどまぁ、何とかなるか。
所詮、自分は『死んだ人間』だ。あの時からそれは変わっていなかったんだ。死人は死人らしく外を徘徊して迷惑にならないように細々と動き回るか……。
もっと早くこんな可能性もある事に気付くべきだった……いや、考えていたけど認めたくなかったんだなきっと。必死で生まれた街へ帰ろうとして、結局何も得られませんでしたって、とんだ茶番だ。二流劇だ。バッドエンドどころかゲームオーバーだ。最低、最低、何もかもが最低で惨め。
考えれば考えるほど、その虚無が満たされる事は無かった。
「……ハァ。なんだったんだろうねぇ、ホンット」
リウがおぼつかない足取りで駅へと向かおうとしたその時だった。
ごく近くで何かが弾けたような大きな音が聞こえた。腹には何か異物感と熱を感じる。
手で触れてみると、ヌルッとした感触があった。それは生暖かく、鮮やかな赤と暗い色をしていて、どことなく鉄棒のような香りがあった。
血だ。自分の腹から大量の血が漏れ出ていた。そして、血が流れ出た箇所からは……手が突き出ている。
それは程なくして抜かれ、さらに血が傷口から大きく溢れ出ていった。
後ろを振り向くと、あの時逃げ出した『燕』の姿があった。
ザマァミロ復讐してやったぜケケケとでも言いたそうな悪感情に満ちたしたり顔をしていた。
それを見てもリウの感情には怒りは湧いてこなかった。むしろ無常感の方が強まっていた。
ああ。
なんだ。
私のレーダー、ポンコツだっただけか。
「あー……油断したわ……本当ダメダメだわ……何もかも……」
リウの口から大量の血液がさらに吐き出され、辺りは血で染まっていった。
日が沈み辺りが淡いオレンジ色に染まった頃、羽矢は自分の家へと帰っていた。
街から離れた住宅街にある古びた一軒家。そこにあの日まで羽矢は父親と二人で暮らしていた。
家の様子は昔のまま変わっていない。インターホンを押したり扉をノックしても中から誰かが出る気配は無かった。
「……当たり前か。平日だもん、仕事に行ってるよね」
羽矢はリウと別れた後、このままどこかへ消え去りたい気持ちでいっぱいだった。でも、そうしてしまったら自分が何のために施設から逃げ出してきてここまでやってきたのか解らなくなってしまうとも思った。結局、他に行く当ても無いため、羽矢はトボトボとした足取りで当初の予定通り自宅へ帰っていた。
しかし、羽矢もまた父親と対面するのをためらっていた。会いたいという気持ちは確かにあるのに気が進まなかった。五年間という半端に長いブランクのせいであろう。
「あんたはまだ五年だ……気休めだろうけど、まだ十分にやり直せるさ、たぶん」
先ほどのリウの言葉が頭を反芻《はんすう》する。
「たぶん、じゃないよ……無責任」羽矢はボソリと静かに愚痴をこぼした。
もしお父さんが私を追い出そうとしても、せめて顔だけでも目に焼き付けておこう。顔を見たらすぐに家を出よう。そして街からも出て……忘れよう。
羽矢は何度かそう思いながら、扉の前で座り父の帰りを待ち続けた。
日が沈みかけても待ち続けていたが、次第に胸が締め付けられるような感触に苛まれてきた。
心臓がバクバクする。胸が苦しい。脂汗も少し出てきた。
やっぱり会うのが怖い。帰ろう。顔を合わせちゃダメだ。私はもう死んでいる。きっとパニックになる。何でお前がそこにいるんだと言われるに決まってる。帰ろう。帰らなきゃ。どこへ? どこかへ。とにかく消えなきゃ。
「あの、家に何かご用ですか?」
そう思った矢先、帰宅中の父が眼鼻の先まで来てしまっていた。
「あ……」
羽矢は思わず間抜けな声を出した。久しぶりに見た父の顔は皺が深く刻み込まれていた。
「お前……」
羽矢を見た父の目元から雫が一滴流れ出す。
「お父……さん……」
羽矢は一歩を踏み出し、父の元へ駆け寄ろうとした。
その瞬間だった。
「えっ」
羽矢は呆気にとられ思わず間が抜けた声を漏らしてしまった。
あまりに軽やかな音と噴水のように空へと昇る鮮血と共に、父の首が身体から跳んでいったからだ。
首の無い身体は床へと倒れ、痙攣をしながら体液が辺りに一斉に流れ出た。別れた首は地面を転がり落ちていった。表情は先ほどのものと同じままだった。鉄のような匂いが辺りに充満し、それはむせ返るほどの重さと臭さであった。
崩れ落ちた父の身体の真後ろにはリウが倒したはずの『燕』―シノブの姿があった。
身体の至る箇所に傷と治療の痕があり、特に大きく裂かれたはずの左半身には大きめな包帯を不格好に巻いていた。斬られた左腕も健在だった。右腕から生えた翼には赤い血がベッタリと付いていた。それで首を斬った事は容易に想像できた。
「フッ…………」
シノブの口元が大きく歪み、開いていく。
「ハハハハ……ヒャーッハッハッハッハッハァ!!」
その歓喜と狂気の両方が含まれた笑い声が周囲へ木霊《こだま》していった。
羽矢はその笑いに耳を傾けず、ただただ目の前の光景を網膜に焼き付けてしまっていた。
目の前で―
お父さんが―
お父さんの
首が
跳ねて
飛んでった。
お父さんが―死んだ。
頭の中が白く、満たされ、弾けて、とろけるように混ざっていく。
嘘だ、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。こんなの絶対嘘だ。嘘に決まってる。
信じられない。信じたくない。夢であって欲しい。こんなのは現実なんかじゃない。
羽矢がそう願っても、目の前の悪夢のような光景は一向に変わらず、その事実に打ちのめされるしかなかった。
シノブの狂った笑い声はまだ木霊していた。
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