上庸の地で未だに繰り広げられている戦闘。
その魏軍側から見た右翼の戦線で、今まさに二人の猛将が対峙していた。
魏の将・菖蒲こと徐晃と蜀の将・馬騰である。
多大な緊張感を孕んだ沈黙は、まず馬騰によって破られた。
「ん~?どうした?来ないのかい、徐晃?
あんたは先手必勝押せ押せな類だと聞いてたんだがねぇ」
「……いえ、もちろん仕掛けさせてもらいますよ」
口ではそう言うも、菖蒲の額には冷汗が浮かぶ。
ほとんど構えも取らず、力が入っているわけでも無く。
馬騰は一見すれば隙だらけに見える格好で菖蒲の目前に立っている。
ところが実際は菖蒲に馬騰の隙を見出すことは出来ていなかった。
「それよりも……その口ぶり。
私に先手を譲る、と?それほどに余裕振っているのですか」
どう仕掛けるべきか見当が付かず、菖蒲は会話で時間を作ろうとする。
「譲る?う~ん…………あぁ、確かにそうなっちまうかねぇ。
ちなみに、あたいのとこの兵どもにはここに近づくなと命令を出しておいてやった。
だから遠慮なく星――趙雲の奴とやり合ってた時みたいに全力を出しな!
ほら、ほら!」
菖蒲から見て、馬騰の言動は非常に妙なものだった。
意識の死角から突如現れて、しかし当の部隊責任者は得られた利を捨て、足を止めての一騎討ちを吹っかけてきたのだ。
しかもその上、菖蒲に先手を譲ろうとまでしてくる始末。
これは罠なのか。それはこの戦が始まる前から幾度も幾度も考えられてきたこと。そして遂に答えの出ぬまま開戦に踏み切らねばならなかった。
今、零はこの戦自体が罠だったと断定して動いていると見える。
つまり、この不自然な馬騰の一連の行動も、罠――――いや、それはどこかおかしい、と菖蒲は心中で否定する。
馬騰と菖蒲の間には覆し難いほどの差が依然として残っている。
それは今初めて対峙したとは言え、馬騰の方も分かっているだろう。
つまり、菖蒲を捻じ伏せるだけであれば、罠など弄さずただ一対一に近い状況を作り上げた上で戦えばいいだけなのだ。
これがもし関羽や張飛、あるいは先ほどまで鎬を削っていた趙雲辺りであれば、確実な勝利を引き寄せるために罠を仕掛けてきたかも知れない。
が、重ね重ね言うが、馬騰にとってそれは必要のないもの。
これでもし、馬騰があからさまに隙だらけであったとすれば、菖蒲もさして悩まなかったろう。
が、実際には自ら利を捨て、一騎討ちに引っ張り込み、不利を背負い込む真似までして、しかし一切の隙を見せない。
一体馬騰が何をしたいのか、その謎が菖蒲の前に壁の一つとして聳え立っていた。
実力に差があり、しかもその意図が読めない。
そんな相手を前にして、いくら先手必勝の型を持っていたとしても不用意に仕掛けることは菖蒲には出来ない。
「…………ん~、なんだかねぇ……
来ないってんならこっちから行くよ?」
「っ!」
沈黙の睨み合いに飽いたのか、馬騰がそんなことを言い出した。
これを聞き、菖蒲の脳が警鐘をガンガンと鳴らした。今の状況で先に仕掛けられたりなどされれば、それこそ絶体絶命になる、と。
故に、菖蒲は瞬時に決断する。
「はああぁあぁぁっ!!」
己の全速・全力を込めた一撃を叩きつけるような横薙ぎ。
但し、いつでも防御に入れるよう、腕の振りはコンパクトに。
遠心力と大斧自体の重量でもって最大の破壊力を生み出そうとする普段の菖蒲のスタイルとは全く違うもの。
しかし、これは別にぶっつけ本番のヤケクソで取った行動などでは無かった。
主に恋相手の時となるが、格上と当たった際のことを想定して行った仕合で、立ち回り方の研究を行っていたのだ。
いくら大技を磨いたとて、それが通じなければ意味が無い。
しかも、残念なことに、そういった類の技は無策で格上を相手にした際にはまず決まらない。
ならばどうするか。
答えは単純にして難しいもので、大技が決まると確信できる状況を作り上げなければならない、ということだ。
ここで注意せねばならないのは、状況を作り上げるまでは決して深手を負ってはいけないこと。
もしもそこに失敗してしまえば、取れる手段が狭くなり、おまけにすぐ近くにタイムリミットまで出来てしまう。
かつて、一刀は恋との戦闘の中でその状況に追い込まれ、一か八かの賭けに敗れてしまった、と皆に話していた。
命があったのは様々な面で運が良かったからで、何かが一つでも違っていれば一刀は虎牢関で命を落としていただろう。
戦闘では常に冷静に。それが経験を通じて一刀が皆の胆に命じておきたいことだった。
余談だが、これを話した時、一刀自身は突発的な行動も良く起こしているので反面教師にするように、とも言っていた。のだが。
多くの者はむしろ見習おうとしていることを一刀は知らない。
まあ、今はそんなことはほとんど関係無いわけで。
菖蒲は自らのこの攻撃の後、どうなっていくかを自分なりに考えながら、最良と思える方向へと誘導していかねばならない。
まずは初手。菖蒲の攻撃を馬騰は真正面から受け止めた。
地に付けた足は小揺るぎもせず、菖蒲の一撃は余裕を持って止められていた。
「せぁっ!!やあぁっ!!」
それでも菖蒲は怯むことは無い。想定の範囲内だったのだ。
「おっ?おっ!ふむ、なかなか!
ほら、もっと来な!」
「くっ……!はあぁぁっっ!!」
傍目から見れば馬騰は戟を振るっただけに見える。
ところが、実際にそれを受けている菖蒲からしてみれば、一撃一撃が重すぎて洒落になっていなかった。
(速く……!もっと、もっと速くっっ!!)
馬騰にまともな体勢を取らせる時間を作ってはいけない。そう、菖蒲の本能が告げて来る。
菖蒲はそれに従って流れを途切れさせぬように際限無く連続で攻撃を見舞う。
菖蒲の脳裏には一刀の、そして直前まで戦っていた趙雲の、それぞれの持ち味を活かした滑らかな連続攻撃が鮮明に映し出されている。
自分だけの綺麗な連続攻撃の筋道。これを確立している二人は強い。
脳裏に展開した映像から毎秒ごとにヒントを得て、それを自身の武に組み込んですぐに形として出して馬騰にぶつける。
馬騰も菖蒲がここまでやると思っていなかったのか、徐々に防戦の度合が強くなってきていた。
今、菖蒲はスポーツ選手で言うところのゾーンのような状態になっている。
思考の超加速という見方をすれば一種の走馬燈とすら言えるかも知れない。
それだけに、怖い。
この後、その異様な集中が途切れるか薄れるかしてしまった時、果たして――――
「それじゃあ、凪!左翼は頼んだぞ!」
「はっ!お任せください!」
伝令が持ち帰った零の指示にもあった通り、左右の翼に部隊を振り分けて送り込むことになった一刀たちの増援部隊。
そこから一刀は凪と別れて右翼へと向かう。
「いくつか伝えた注意点を忘れるなよ!
敵に当てた後も足を止めるな!それと、趙雲にはなるべくして近づくな!
敵左翼が下がったと見ればすぐに菖蒲の部隊を連れて退け!いいな?!」
『はっ!!』
この部隊の兵の多くは黒衣隊から連れて来ている。
そのため、一刀は己の指揮から離れた兵たちが、それでも指示を全うしてくれることに疑念を抱いていなかった。
一刀の率いる部隊は魏の本陣背後から展開された陣形に沿うようにして右翼へと向かっていく。
その途上で妙な違和感を抱いた。
「なんだ……?妙に敵軍に騎兵が多い気が……
馬鉄の部隊があるとは聞いているが、一撃離脱の姿勢を貫いていると聞くし……
ここに来てスタイルを変えたのか?それとも…………いや、それ以上に周囲の動きが……」
違和の原因は複数に渡っているようで、すぐにはそれを掴めない。が、どうにも気になって仕方が無い。
伝令を通して零から聞いた断片的な情報だけでは、やはり厳しいものがあった。
その一方で、どうにも妙な胸騒ぎが収まらない。比例して、焦燥感も募っていく。
そんな状態にあった部隊に、遅れて魏本陣から追加の伝令が飛ばされてきた。
右翼へとひた走りながらその報告を聞いてみれば――
「お伝えします!右翼の状況に変化あり!
趙雲は下がり、少しの間隙の後、馬騰が右翼戦線へ参戦!
現在右翼は敵騎兵との数の差と練度の差により苦戦中とのことです!」
「っ!!皆の者!俺は先行して敵将に当たる!
お前たちは事前の策通り足並みを揃えて敵軍を攪乱せよ!零から追加の指示があればそちらに従え!
ただし、要注意は趙雲の部隊では無く、馬騰の部隊に変更だ!
敵はこちらと同じ騎兵!但し、練度は向こうが上だと思え!
だから、気持ちで負けるな!押されても食らい付け!敵の騎兵の足さえ止めてしまえば、それがきっと勝利へと繋がる!いいな?!」
『応っっ!!』
「良い返事だ!健闘を祈る!!
先に行く!
アル、すまんっ!!あと少し、頑張ってくれ!!」
胸騒ぎが嫌な方向に当たっていた。それを伝令の言葉から理解して取った時、一刀は既に行動を起こしていた。
部隊の兵に伝えることを伝えると、すぐに単身右翼最前線へと向かって行った。
魏で一二を争う駿馬たるアルは、その姿を瞬く間に部隊の騎兵から離して行ったのであった。
「はぁ……はぁ……くっ……!!やあぁぁっ!!」
馬騰と一騎討ちを始めてからまだほんの四半刻と経っていない。
にも関わらず、既に菖蒲は肩で息をするほどに消耗してしまっていた。
それでも手を止めない。緩めない。手を止めたり緩めた瞬間から、きっと馬騰の一方的な攻勢劇となってしまうだろうから。
「っとと。ふむ。そろそろ疲れが見えてきたねぇ」
馬騰の方はまだまだ余裕がある。
これほどに二人の間に差が生じてしまっているのは、何も単純な実力の差だけでは無かった。
馬騰は飽くまでいつも通りなのに対して、菖蒲は”ゾーン”により脳を酷使し続けている状態と言える。
これでは単純な体力消費だけでは済まない。菖蒲は普段の五割増しかそれ以上の速度で体力を削られていた。
しかも、恐ろしいことに。
そんな万全以上の状態の菖蒲相手に、馬騰の方はまだ余力を残している様子。
ただでさえ菖蒲は今の状態が途切れてしまうと危険であると言うのに、もしも馬騰が何等かの理由でリミッターを外して来れば――
それは菖蒲も考えただろうこと。そして、時間が経過し、菖蒲の疲労が溜まるほどに重く圧し掛かってくるもの。
「まだっ、まだぁっっ!!」
菖蒲は叫び、気合と根性で連撃を止めさせない。
まだ自分はやれる。馬騰を押さえ、零たちの撤退の時間を稼ぐ。
そんなことを考え出した矢先の出来事だった。
「よっと。ふぅむ…………はっ!!」
菖蒲の連撃の隙間に、馬騰が瞬時に力を溜め、そしてたった一撃だけ、菖蒲の攻撃に合わせて強く戟を叩きつけた。
「ぐっ……!くぅぅ…………」
ただそれだけで、菖蒲は手元から腕まで痺れてしまい、刹那の隙が生じる。
そこに付け込まれる――――かと思いきや、馬騰はここで大きく距離を取っただけだった。むしろ、仕切り直しのような雰囲気を醸し出していた。
しかし、菖蒲はこの状況を最悪だと考える。
ずっと危惧していた”馬騰が万全を整える時間”を与えてしまったからのだから。
「さて――」
「っ!」
馬騰のほんの短い一言にも過剰に反応してしまう菖蒲。
それは先程まで功を奏していた異常な集中力がブレて、悪い方向へと向かい始めている証左でもあった。
「さすがにもう時間が無いかねぇ。
ちょいと味見のつもりが、ついつい随分とがっつりいっちまったよ。
こっちの目的は既に達しているし、あたい自身の目的も本当は終えているんだが――――」
「っ!?あ、あぁ……」
軽く言葉を区切り、改めて構えを取る馬騰。その体中から悍ましいまでの闘気が発せられ始めた。
直にこれをぶつけられた菖蒲は感じていた以上の実力差を悟ってしまい、心が萎えかけてしまう。
「もうちょっとだけ、遊ぼうじゃないか。なあ、徐晃?」
「くっ……!」
萎えかけた心を必死に繋ぎ止め、菖蒲は自らを奮い立たせる。
この際、最早ほんの少しの甘い考えさえも捨て去ることにした。
つまり、馬騰を押さえ、あわよくば隙を見つけて、或いは隙を作り出し、右翼部隊ごと逃走を図る、と。そんな希望は捨て去る。
親友を守って討たれるならば、死に花としては十分過ぎる。そう考えると、こんな場面にも関わらず不思議と菖蒲の心は落ち着いていくのだった。
「ふぅ……そう簡単には行かせませんよ、馬騰さん?」
「ほぅ……良い表情になったね。
こりゃ、さっきまでよりも楽しめそうだ、ねっ!!」
馬騰の台詞が終わると同時に菖蒲vs馬騰の第2ラウンドが始まる。
「そらそら!もっと行くよ!」
「…………」
さっきまでとは打って変わり、菖蒲は気合の声を上げるでもなく淡々と馬騰の攻撃を捌きにかかる。
その捌き方もまた先ほどまでから様変わりしていた。
得物をぶつけあっての力による弾き技では無く、大斧のエッジを用いて受け流すように。
それは大陸の将には珍しい、防御の型。
但し、菖蒲はこれを元々身に着けていたわけでは無い。
ただただ、菖蒲にとって幸いなことが二点、あっただけである。
一つ、一刀や梅、斗詩と言った防御を得意とする将が身近にいたこと。
一つ、その三人と数え切れぬほど得物をぶつけあって来たこと。
それらの経験は長い年月を経て菖蒲の中に相当な情報量として蓄えられていた。
今、菖蒲はその蓄えの中から己に出来そうな範囲で選び取り、付け焼刃の防御の型を展開しているのである。
「おいおいおい!急にどうしたんだい?!
防戦一方じゃないか?!」
馬騰が煽る。もっと打って来い。攻撃して来いと菖蒲に告げて来る。
それでも菖蒲は自ら攻めに転じることはしなかった。
まだ辛うじて持続出来ている異常な集中力。これを全て付け焼刃の防御の型に費やす。
そこまでをしてようやく馬騰の攻撃を凌げている状況だからだ。
しかし、それは裏を返せば、菖蒲は攻撃をすることが出来ないということ。
つまり、これは菖蒲の遠回しな敗北宣言でもあったのである。
ただ単に敗北を認めるのではなく、転んでもただでは起きない精神で最大限馬騰の足留めを行う。
それが、菖蒲が”覚悟”を決めて起こした行動であった。
馬騰は景気よく攻撃を繰り出し続けている。
菖蒲は初めの余裕は既にして吹き飛び、今や歯を喰いしばって、それでも着実に馬騰の攻撃を捌き続ける。
幾十合と武器を交えた後、馬騰はスッと真顔に戻った。否、戦を楽しむ表情から真剣な表情に一瞬で変貌を遂げたのだ。
「徐晃。まさかとは思ったけど、やっぱりあんたの狙いはあたいの足留めってことで間違いなさそうだね。
それも、あんた自身は退くつもりがないみたいだが……それは”そういうこと”だと捉えていいんだね?」
「…………」
いくら礼儀正しい菖蒲でもこの問い掛けには口を閉ざす。
「見上げた精神力だね。そうまでして生かしたい奴がいるってことだ」
「……だったら、何だと言うのですか?」
まさか零を狙いに行くつもりか。
そう考え、菖蒲は仕掛けてくるかもしれない馬騰の離脱に警戒する。が。
「いや、今の若い連中はもうちょいと”青い”もんだとばかり思ってたんでね。
あんた、凄い奴だね。この馬寿成が認めてやろうじゃないか。
あんたが特別成熟してるのかい?それとも、魏の連中は皆?」
「……?」
突然語り出した内容からは狙いが読めない。
何を仕掛けて来る。それとも惑わしてくるのか。
混乱しかけた菖蒲だったが、次の馬騰の言葉で対応はただ一つに絞られた。
「さて。もう時間が来ちまった。雫の方も予定通り行ってるみたいだしねぇ。
あたいもそろそろ戻らせてもらうとしようかね。だから――次で終わらせるとしようか」
ブワッと。馬騰の全身から更なる闘気が放出される。
思わず竦みそうになる体を必死に抑え込む菖蒲。
一体馬騰の底はどこにあるのか。これほど長く刃を交えたと言うのに、皆目見当が付かない。
ただ、自身の感覚と勘でしかないが、恐らく次の一撃は馬騰の本気のものではあるだろう。
ならば、せめてそれをもっと早くに引き出し、零に報告を上げておきたかった。そんな想いを抱く。
「ああ、そうだ。最後に一言だけ言っておこうか。
受け止めるか、それとも避けるか。今のうちに明確に決めておきな。
最後の一撃はさっきまでみたいな生っちょろいもんじゃないよ?」
「…………何故、助言のような真似を?」
菖蒲が思わず問い返したことにも大した反応は見せず、ただ薄く笑んで馬騰は答える。
「なに、簡単なことさね。
個人的にあんたが気に入った。だからあたいのやり方であんたを見極めてやる。
なもんだから、あんたに簡単に死なれちゃあ、あたいがつまんないのさ」
なんとも身勝手な、しかし妙に納得してしまう理由語り。
それはこの短い時間で菖蒲も馬騰の為人を朧気ながらも掴んでいたが故である。
「ご丁寧に、どうも……」
何となく、その台詞を口にするべきだと感じた。ただそれだけのこと。
それでも、この台詞が事実上、二人の間の会話の終了を意味していた。
二人の間に降りる沈黙の帳。
馬騰の挙動に集中するあまり、戦場の音が菖蒲の耳から遠ざかる。
菖蒲のやることは決まっている。
持てる力の全てを以て馬騰の攻撃を受け切る。何も変わらない。
馬騰は受けるか避けるか、と問うて来た。菖蒲にとってそれは愚問だ。自分の目も、得物も、武の型も。全てが”避ける”よりも”受ける”に適している。
さあ、こちらの準備は万端だ。いつでも仕掛けて来るがいい。
そんなことをチラリと思えば――――まるでそれに応じるかのように馬騰が動いた。
「ふっ」
一足で間合いを詰め、宣言通りの渾身の一撃。
あれだけの闘気を放っていながら、余計な力は皆無。発生も必要最小限。
それでも、そこに込められた威力は嫌と言うほどに分かった。
「ぐっ……うぅっ……!やあああぁぁぁぁっっ!!」
十分な心構えはしていた。衝突の瞬間から全力で行った。
にも関わらず、馬騰の戟の勢いが死なない。菖蒲の得物が押し返される。
全身の力を振り絞るべく、菖蒲は叫ぶ。声に乗せて押し留めようとする。が。
馬騰の言っていた通り、その一撃は生易しいものではなく――――
「っっ!ぁ…………」
ぶつかり合った二つの武器の間で留められていた力は、菖蒲の武器を高く跳ね飛ばす方向へと向いてしまった。
瞬間、菖蒲の目に映る世界から正常な時の流れが失われる。
酷くゆっくりと進む時間の中で、菖蒲は折り返された馬騰の戟が自らの胴へと喰らい付こうとしている様子を捉えていた。
(ここまで、ですね……すみません、零さん、華琳様、そして一刀さん。
後は、お願いします……)
最早、出来ることは何も無い。
獰猛に笑む馬騰の顔を最後に、菖蒲は静かに目を瞑る。その直後。
菖蒲は横っ腹に食い込んでくる鉄の冷たさを感じる。
瞬間、菖蒲は自らの身体が真後ろへと倒れていくのを感じるのだった。
「…………?これは一体、どういうことだ?」
右翼最前線へとアルを全力で走らせる傍ら、一刀は戦場全体を観察していた。
すると、自然と見えて来るものがある。
なんと、蜀の部隊が徐々に、しかし確実に、退き始めているのであった。
右翼の方は、馬騰の部隊なのだろう、多くの騎兵がまだ魏の部隊に取り付いている様子が見て取れる。
しかし、左翼は既に一目で分かるほどに両軍の部隊が分かたれていた。
蜀の部隊が退けば、魏の部隊が追うことは無い。
それは零の指示がそのように飛んでいるのだから当然のことだ。
さらに両軍部隊の間を牽制するが如く馬鉄の騎馬部隊が駆け回っているとあらば、魏軍としては突っ込むわけにもいかない。
警戒を怠らないよにしながらもジリジリと下がり続けた左翼の部隊は、やがて援軍に走った凪の部隊とかち合う。
今だけは曲りなりにも騎馬部隊を率いる将となった凪もまた、蜀側の馬鉄のような立ち位置を魏側で取ることを選択する。
こうして左翼は問題もなく畳まれていく中、ネックとなるのはやはり右翼である。
機動力のある騎馬部隊、しかもあの馬騰の部隊に貼り付かれてしまったのでは退くに退けないのだ。
蜀軍全体が退いていく流れの中で、未だその気配を見せない馬騰の部隊に多少の疑問は抱く。
ただ、そこは馬騰の部隊が騎馬隊であることとその練度を考えれば、それほどおかしいこととも思えない。
それに、相手にどのような思惑があれ、事ここに至っては何を置いてもまずは馬騰を退けさせねばならない。
菖蒲の窮地を救う。当面考えることはそれだけで良い。
アルをひたすらに駆り、右翼の集団をスレスレに避けて戦線を目指す。
そこに菖蒲と馬騰はいるはずだ。
根拠はまるで無い。が、この状況で菖蒲が命の危機に陥るのだとすれば、それはきっと馬騰との対峙に他ならないだろう。
果たして、一刀のその連想は的中していた。
人馬入り乱れる右翼戦線のその奥に、目的の人物を見つける。
既に菖蒲は防戦一方になっている様子で――――
「まずいっ……!アル、あそこまで――――うぉっ!?」
最後にもうひと頑張りしてもらおうとしたところ、アルは嘶きと共に急停止してしまった。
一体どうしてしまったのか、とアルを横から覗き込んでみれば。
「そうか。怖ろしいんだな。
すまない、アル。せめて、ここらで待っていてくれ」
野生の本能でか、ここからですら分かる馬騰の闘気にアルの身体が竦んでしまったようであった。
アルをその場に残し、一刀は駆け出す。
近付いていく間にも、馬騰の仕掛ける攻撃に菖蒲はただただ防いでいるばかり。
やがて二人は一定の距離を取り――――
この雰囲気はあまりにもまずい。そう一刀は直感する。
その直感が正しいことを裏付けるかのように、馬騰の闘気が更に膨れ上がる。
まだ上があるのか、と愕然とするよりも、その様子から察せる激突の時の方に意識が向く。
(このままでは間に合わないかっ?!)
ほんの僅かな差。しかし、確実に届かない距離。
二人が動き出す瞬間、一刀はありったけの意志を込めて氣を集中した。
今回の出陣前に試して成功した、新たな氣の運用法。
その速度と、一刀が最も研鑚を積んだと言える雲耀の太刀を以て、二人の間に割り込もうとする。
しかし――――
一刀の頭は瞬時に理解した。理解、してしまった。
今、まさに目と鼻の先で弾かれた菖蒲の大斧。
そして、菖蒲の身体に向かって斬り返される馬騰の戟。
一刀の太刀が割り込むよりも早く、馬騰の戟は菖蒲に到達するだろう。
「くぅっ……!!」
認めたくない。認められない。
そんな思いが錯綜し、一刀は苦し紛れに思わず手を伸ばしてしまうのであった。
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第百十七話の投稿です。
菖蒲、巨星と対峙す。
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