No.776187

真・恋姫†無双 ~夏氏春秋伝~ 第七十三話

ムカミさん

第七十三話の投稿です。


今回、書きたいところまで書こうとしていたら、なんと……分量2.5倍ですw
お得ですねw

2015-05-09 08:45:12 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:4274   閲覧ユーザー数:3304

時は少し戻って定軍山山中。

 

そこには仮設の小屋が建てられ、幾人もの人間が屯していた。

 

その中の一室に一際異彩を放つ人物が2人。

 

劉備が蜀を治め始めてよりその陣営に与している熟練の武将、黄忠と厳顔である。

 

既にして蜀の中枢を担う将となっている2人が、何故このような辺境にまで赴いているのか。

 

それは次の瞬間に齎された斥候からの報告と、それに続いた一連のやり取りから判明することとなる。

 

 

 

ギィ、と小さな音を立てて小屋に兵が1人入ってくる。

 

そこに将達の姿を認めるや、兵はキビキビと報告を始めた。

 

「目標の邑に敵部隊の接近を確認!敵将は夏侯淵、典韋の2名の模様!

 

 部隊規模は小さく、軍師らしき者も帯同していないようです!」

 

「そう。分かったわ、ご苦労様。下がっていいわよ」

 

「はっ!」

 

黄忠が兵を労い、下がらせる。

 

その兵が部屋を出ると、厳顔が黄忠に声を掛けた。

 

「これはまた、随分と大物を釣り上げられたもんじゃ。のう、紫苑?」

 

「ええ、そうね。雫ちゃん、もしかしてここまで想定済みだったのかしら?」

 

そう黄忠が話を向けた先にいたのはこれまた蜀統治開始よりの新参軍師、徐庶。

 

驚きや感心の色が声に滲む厳顔や黄忠とは違い、徐庶は淡々とした様子で答える。

 

「さすがに私でも誰が釣れるかまでは分かりませんでした。

 

 ですが、このくらいの時期に仕掛けた場合に出てくる将は大体予想がつきますから、ここで夏侯淵が出てくることも想定の範囲内です」

 

「へ?そうなんですか?あ、これ美味しいですぅ~!」

 

徐庶の隣で緊張感の欠片も見られない声を出したのはこの場にいる蜀幹部の最後にして4人目、姜維。

 

徐庶が作ったお菓子を頬張り、実に幸せそうな顔をしている。

 

心底徐庶のお菓子が好きなのだろうが、それでも緊張を解きすぎだと感じたのだろう、徐庶が姜維に苦言を呈する。

 

「だらしないですよ、杏。それに、文官であれば私が言った事の理由も考えてみなさい」

 

「は、はいっ!すみません、雫さんっ!えっとえっと……」

 

雫の苦言を受けて、背筋をピンと伸ばして一生懸命思考する姜維。

 

それでもなかなか答えに辿りつけない様子を見て、薄く微笑みながら黄忠が助け舟を出す。

 

「杏ちゃん、雫ちゃんの策が魏に齎す効果をよく考えてみて?

 

 それに対して、もし杏ちゃんが魏の文官だったらどう判断を下すかを考えてみると分かるかもしれないわ」

 

「雫さんの……?それって、魏の弱体化の噂を流して諸侯を焚き付けよう、って策ですよね?」

 

「ええ、そうよ」

 

「ええっと、それじゃあ……」

 

再び悩み始める姜維。

 

その間を利用して徐庶は軽く溜め息を吐くと、黄忠に向かって言った。

 

「紫苑さん、あまり軽々しく杏が策の内容を口に出すような誘導はしないようにしてください。こういった場所ではどこに間諜が潜んでいるか、分かったものではありません。

 

 杏のそういう素直なところは評価する点ではありますが、同時にまだ弱点でもあるのですから」

 

「あら、そうね。ごめんなさいね、雫ちゃん」

 

「あうぅ……ご、ごめんなさいぃ……」

 

柔らかい雰囲気のまま素直に謝る黄忠の言葉に、若干涙目になりながらの姜維の謝罪が続く。

 

徐庶はそれでも淡々とするべきことの指示を出す。

 

「いえ、紫苑さんも杏を気遣ってのことですから。ほら、杏は考えなさい」

 

「は、はいっ!」

 

一連の会話の中で出てきた、雫の策。

 

それはつい最近魏にて話し合われた内容がほとんどそのままなのであった。

 

魏の面々には知る由もないが、全ては徐庶が仕組み、その思惑通りに進んでいたこと。

 

しかし、こうなってくると当然、魏幹部の話し合いでも出てきた疑問が浮かんでくる。

 

それはこの場にまで出てきている者でも同じであるようで、厳顔が徐庶に対して問いかけた。

 

「のう、雫、そろそろ教えてくれんか?なぜこれだけの策を練っておいて魏を攻めんのじゃ?

 

 雫の思惑通り、魏の守りは薄くなったのじゃろう?」

 

「その理由は先程のものと同じですよ、桔梗さん。調度良いです。杏が答えたら一緒に説明致しましょう」

 

「ふ~む、雫がそう言うんじゃったらもう少しだけ待つとするかのう」

 

厳顔が納得を示し、場には姜維の小さな唸り声のみが残る。

 

少しの間その状態が保たれたが、やがて姜維が理解したのか笑顔と共に顔を上げた。

 

「あ、ああっ!?そうか!連続して攻められたらどんどん将を出してしまって許昌の守りは薄くなっていきます!

 

 だから単騎、或いは一部隊ですごく力のある将はギリギリまで許昌に残している!そういうことですよね?!」

 

「ええ、そうですね。では、杏。魏が許昌に残すのは誰だと思いますか?」

 

「えっと……北郷さ――ほ、北郷と呂布、でしょうか?」

 

「確かに、その2人は確実でしょう。それから私であれば加えて夏侯惇と夏侯淵、徐晃の中から1人か2人を残します」

 

「防衛に欲しい将は最低でも3、4人、ということかしら?」

 

「はい、その通りです、紫苑さん。勿論予想される攻め手の数が多すぎない場合の判断にはなりますが」

 

「な、なるほど~……それで夏侯淵は想定の範囲内だったのですね」

 

改めて感心したように声をあげる姜維。

 

見れば黄忠と厳顔もまた納得を示していた。

 

「なるほどのう。確かに北郷や呂布がおるとなれば、この程度の部隊で許昌を攻める気には普通はならんのう。

 

 じゃがな、雫。これもずっと聞いてみたかったのじゃが、桃香様に黙ってこのような策を為すのは何故じゃ?

 

 桃香様を通せば、それこそこの機会に許昌を攻め、或いはそのまま落とすことも出来たやも知れぬと言うに」

 

ここでの厳顔の疑問も尤もである。

 

徐庶は今回の策を独断で施行し、更にこの部隊にしても賊の調査の名目で駆り出してきている。

 

その中身を知っているのは部隊に加わった者のみ。

 

劉備の意向を無視しているとも軽く見ているとも取れるその徐庶の行動を不審に思っても仕方が無いだろう。

 

ただ、長く劉備に付き従っている諸葛亮や龐統が信頼を寄せ、本人も劉備への忠誠を真に誓っていることが周りにも分かっているためにこれまで問い詰められていなかっただけである。

 

が、それも尋ねる機会があれば尋ねずにはいられない。

 

一方、徐庶の方も特別隠し立てするつもりは無かったようで、厳顔の問いにあっさりと答え始めた。

 

「桔梗さんは朱里や雛里から聞いたことはありますか?桃香様が袁紹に追われ、魏の領地を抜けた時の詳しい話を」

 

「む?それは儂も聞いたことはあるが……それがどうしたんじゃ?」

 

「その際、朱里と雛里は北郷にとあることを暴露されています。董卓達の生存情報を黙っていたことです。

 

 朱里も雛里も良かれと思ってしたのでしょうが、お優しい桃香様はその真実に2通りの意味で随分と傷つかれたそうです。

 

 以来、朱里も雛里も決して策の内容を桃香様に隠したくは無い、と」

 

「なるほどのう。朱里や雛里は真面目な奴らじゃから、それは確かに納得出来る。じゃが、それは主が隠れて策を取る理由にはなっとらんじゃろう?」

 

視線を鋭くする厳顔は、徐庶が話を煙にまこうとしたように感じたのか。

 

殺気までは込められていないものの威圧感は十分なそれを、しかし徐庶は平然と受け止めて誤解を正す。

 

「勿論、それが理由ではありません。ですが、間接的な理由にはなっていますよ。

 

 一番大きな理由は、桃香様の性格にあります」

 

「桃香様の性格、じゃと?」

 

「はい。桔梗さんも既に理解されているでしょうが、桃香様は非常にお優しいお方。

 

 例の件の際に北郷に諭されてここ最近は随分と考え方を変えられ始めておられるようですが、それでもこのような卑怯に属する手は承認なさらない可能性の方が高いでしょう。

 

 それに、我々蜀は今、南蛮平定の任の真っ最中です。それも魏が孫家に攻め込む動きを見せていたため、今が好機と見てのことです。

 

 ところが、魏に何があったのか、想定よりあまりにも早く揚州より引き上げてきました。このままでは蜀は亡国の危機に陥り兼ねません。

 

 防ぐためには、どのような手を使ってでもここで魏を足止めし、あわよくば戦力を削ることが肝要なのです」

 

「一度桃香様に進言し、却下されれば、それを水面下でこっそりと遂行することも難しい。けれど、そんな賭けに出るにはこの作戦は重要すぎる。

 

 だから雫ちゃんは敢えて初めから何も言わず、私達だけにそれを伝えた。そういうことでいいのね?」

 

「はい」

 

黄忠が簡潔に纏め、それに理解を示した厳顔が鋭い視線を引っ込める。

 

杏もコクコクと頷いており、徐庶の話に異議を唱える者はいなかった。

 

と、不意に杏が少し俯いて思案顔になる。

 

黄忠や厳顔からはその表情の変化はほとんど分からないだろうが、横にいる徐庶にはかろうじて分かった。

 

何を思案するのか、徐庶が問う。

 

「杏、どうかしたのですか?何か分からないことでもありましたか?」

 

「いえ、これはどうやって伝えるべきかな、と――――あっ!?な、何でもないですっ!すいませんっ!」

 

「安心していいですよ、杏。この件については全て私が桃香様に報告をします。

 

 先程も言いましたが、今回は最初から最後まで私の独断なのですから」

 

「あ……そ、そうなんですね。分かりました、お願いします、雫さん」

 

姜維は徐庶に答えてからホッと胸を撫で下ろす。

 

それを最後に誰からも疑問なりは出てこなくなる。

 

そろそろ良いか、とばかりに徐庶が締めの言葉を発した。

 

「恐らく明日、夏侯淵達と一戦交えることになるでしょう。ですが、これはあくまで現段階での私の予想に過ぎません。

 

 皆さん、気を抜かないようにしておいてください」

 

「ええ、分かったわ」  「おう、了解した」  「はい、分かりました!」

 

三者三様の返答でこの場はお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「賊はこの辺りに居を構えているはずだ!各自展開して探し出せ!」

 

定軍山に到着した秋蘭は声を張り上げて指示を出す。

 

流琉も含めた付帯全体はそれに素早く反応し、すぐに山狩りの様相を呈してくる。

 

このまますぐに賊の本拠地を発見して殲滅、そのまま流れるように退散出来るものだと、秋蘭は疑っていなかった。

 

ところが、探せども探せども、一向に賊の本拠地どころか賊単体の姿すら発見に至らない。

 

さすがに何かがおかしい。ようやくそう考え始めた秋蘭だったが、時すでに遅し。

 

気付けば部隊は賊捜索のために横に長く縦に薄く展開し、正面からの奇襲にあまりにも脆い状態だった。

 

ゾワリと悪寒が秋蘭の背筋に走る。

 

この状態はいけない。そう考え、指示を出そうとした時だった。

 

「これは……流琉!至急部隊の者を集めてく――――」

 

「てーーっっ!!」

 

秋蘭の声を遮るように、突如一つの声が山中に響く。

 

直後、横に伸び切った部隊に矢の雨が襲い掛かることとなった。

 

突然の事態に素早く対応出来た者は数えるほどでしかなく、そこいら中から悲鳴が重なる。

 

「くっ……!しまった……罠だったか……!皆の者!防御に専念しつつ、後退せよ!分断されぬよう抵抗しつつ、本隊に合流を果たせ!

 

 流琉!決して攻めようとは思うな!お前も今は防御に専念するんだ!」

 

「は、はいっ!分かりました!」

 

どうにかすぐに頭を切り替え、秋蘭は後退・合流の指示を飛ばす。

 

しかし、秋蘭自身もこの指示がどこまで為されるか判断が付かない。

 

敵方の奇襲には完全にこちらの裏を突かれてしまった。

 

どこからどこまでが計略なのかは分からないが、こうも見事に嵌まってしまったのだ、分断手順や退路潰しも存分に策が練られているだろう。

 

かつては黒衣隊を率いた経験もある自分が、警戒することなく罠にかかってしまった。

 

そのことに秋蘭は歯噛みする。

 

勿論秋蘭とて明確に油断していたわけではない。

 

だが、現黒衣隊を統括する桂花が言及しなかったことに対して疑いを持たないことは、ある種消極的な油断とも言えるだろう。

 

何であれ、事態は起こってしまった。

 

今はただ、どうにかして被害を抑えて抜け出す道を探る他無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「桔梗さんの部隊は正面中央へ斉射、紫苑さんの部隊は2班に別れて敵両翼中央寄りに一点集中射を。

 

 予定通り分断と撃破を同時に狙います。紫苑さん、桔梗さん。お二方は夏侯淵への道が開き次第、討ち取りに向かってください。

 

 本作戦の最終目標です」

 

一際声を張り上げているわけでもなく、しかし不思議とよく通る徐庶の声。

 

その指示を受けて黄忠は粛々と、厳顔は嬉々として部隊の兵に告げる。

 

「よし来た!行くぞ、お前たち!久々に血の滾る戦じゃ!」

 

「私たちも行きますよ!桃香様のこれからの為にも、ここで安易な失敗は出来ません!」

 

2つの部隊の兵達から放たれる矢の弾幕が魏軍に襲い掛かる。

 

将を見て分かる通り、今回の策を実行するに当たって徐庶は弓兵部隊を主体に構成していた。

 

山という地の利を活かして魏軍よりも高い位置に陣取っていた蜀軍は、その高さと弓という武器を活かして一方的に攻撃出来る。

 

木々が邪魔になるところもあるが、その辺りは徐庶が黄忠達と協力して予め絶妙な待機位置を探し出していた。

 

ここまでの展開は概ね徐庶の予想通り。

 

それでも徐庶はポーカーフェイスのまま笑みを漏らさない。

 

「杏、貴女は今のところは考えていなさい。自分ならばどう部隊を動かすか、戦局をどう読むのかを。

 

 それと、展開によっては貴女にも出てもらいますから、その心づもりだけは忘れないように」

 

「は、はいぃっ!分かりました!」

 

実戦の場こそ経験値の塊。その信条の下、徐庶は姜維を手早く育て上げんとする策をも同時進行を図る。

 

身近にいる存在ながら、そのスペックの高さに改めて羨望の眼差しをこっそりと向けている姜維なのであった。

 

 

 

「ぬぅ……雫の策は見事に的中しておったというに、粘りおるのう、夏侯淵」

 

「名実共に魏の重鎮で、その実力も確かなのよ?これくらいは当然出来るでしょう」

 

「ほう?紫苑にそこまで言わせるか。じゃが……さすがに儂も焦れったくなってきたのう」

 

分断出来そうで完全なそれにはなかなか至らず、敵本隊に関しても後退速度をある程度犠牲にしたその強固な守りが崩しきれない。

 

蜀の部隊が悉く弓兵にて構成されているが為、黄忠と厳顔はこうして会話を交わせる距離に未だいる。

 

しかし、裏を返せばそれはまだ夏侯淵への道をこじ開けることが出来ていないということでもあった。

 

厳顔が不敵な笑みと共に最後に放った言葉を聞き、黄忠は呆れ混じりの溜息とともに言う。

 

「はぁ……あまり熱くなりすぎちゃダメよ、桔梗?最終目標は夏侯淵を討ち取ることだけれど、最優先事項は全員の無事なのだから」

 

「おお、分かっておるわい。なぁに、桃香様を悲しませるようなことにはなりゃせんよ。

 

 少ぅしばかり儂の豪天砲を喰らわせてやろうと思っただけのことよ」

 

ニヤリと表現出来そうな笑みとともに厳顔は己の得物を軽く掲げて見せた。

 

その手に持つは、この大陸においてあまりにも珍しい形状の武器。

 

予備知識抜きにはそれが果たしてどのような武器で、どう使うのかさえ分からないだろう。

 

「確かにそれならば一気にいけるでしょうけれど……分かったわ。貴女の思うようにやればいいと思うわ、桔梗。

 

 ただし、無駄打ちだけはしないでちょうだいね。貴女のそれのために、資源を結構使っているのだから」

 

「それも分かっておるわ、安心せい!」

 

黄忠の忠告には短く答え、厳顔は得物を構える。

 

そして、その得物から――――知らぬ者は驚愕してしまうような攻撃が飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁぁ!?」

 

「なん――がっ……」

 

「っ!?どうした?!何があった?!」

 

秋蘭は突如部隊前方から聞こえてきた悲鳴に聞き返す。

 

後退は遅々として進んでいないが、それでも大盾で被害を抑えることに専念する決断を入れてからはよく耐えていたのだ。

 

それがその悲鳴と共に急に崩れだしたのだから、さしもの秋蘭も焦ってしまっても無理はない。

 

「な、何かが盾を貫通してきた模様!まともに受けた兵は耐えられず、周辺の兵も余波に巻き込まれて一部に穴が開きました!」

 

「何かだと?弓では無いことは確かなようだが…………仕方がない。全隊、防御専念を解き、全力で後退せよ!

 

 平野に降りて迎え撃つ!伝えられる限り伝えよ!」

 

『はっ!』

 

本隊の一部を大盾を用いて要塞然とし、その後ろから少しずつでも部隊を退かせようとする策を秋蘭は取っていた。

 

だが、敵の攻撃によってそれは思うように進んでいない。

 

そんな中でのこの決断。まるで詰将棋にて一手ずつ詰められていくように、着実に追い詰められていることが秋蘭には感じ取れていた。

 

奇襲を受けた当初は、まだどこぞで知恵を付けた賊にしてやられたのかと思っていた。

 

だが、必死に敵の攻撃を捌き続ける内に目に入ったある光景に、秋蘭は未だに希望的観測を捨てきれていなかったことを痛感した。

 

「黄忠……厳顔……一刀の報告にはどうあったか……」

 

木々の隙間からチラと見えた人影は、黒衣隊の情報でも挙げられていたその2人の特徴に一致していた。

 

弓の名手、黄忠。詳細不明の飛び道具使い、厳顔。蜀の将軍である。

 

有体に言って、最悪の状況だった。

 

遠距離攻撃手段を持つ相手に上手を取られている状況。

 

自身も弓使いであるが故に、その状態の危険度がアリアリと分かる。

 

しかも、である。

 

恐らく厳顔の”詳細不明の武器”とやらであろう、盾をも貫通して被害を与えてくる攻撃。

 

これでは安易に守りを固めているだけの選択は取れない、取ってはいけない。

 

更に言えば、この状況は何から何までが仕組まれたもの。

 

秋蘭たちが平地に逃げ出せばそのまま敵も追ってくる、など推測が楽観的に過ぎるだろう。

 

既にして半分分断されたような状態の兵達は恐らく生死に関わらずそのままリタイアとなる。兵数では明らかに不利。

 

将の数で対抗しようにもこちらは秋蘭と流琉の2人のみ。

 

対して敵側は分かっているだけで黄忠と厳顔、敵軍の動きを見るに軍師も最低1人は来ているのだろう。

 

まだ姿が見えていない将がいる可能性を考えれば、こちらまでも数で負けている。

 

戦力を考えても、相性の問題で流琉は不利と判定できると来れば……。

 

考える要素という要素全てで上回られ、次第に絶望感がヒタヒタと秋蘭の身を浸し始める。

 

「しゅ、秋蘭様、どうしましょう……?」

 

ふと隣から不安の色を滲ませた流琉の声が聞こえてきた。

 

その声を聞いて、秋蘭はハッとする。

 

(私が……上が戸惑えば、下が混乱するのは当然では無いか!せめて……せめて表には出さぬよう、気を付けて……)

 

長めに息を吐きながら秋蘭は自らを落ち着ける。

 

いつも通りの冷静さを。揺らいでなどいないと、虚勢を悟られぬように。

 

少し冷静さを取り戻した頭で秋蘭は考える。

 

どうすればこのような罠を張ってきた蜀軍を出し抜けるのか。いや、事ここに至って今更出し抜けは出来ないだろう。ならば裏をかくだけで良い。

 

正攻法での退却や離脱の方法では封殺されてしまうのだろう。

 

どこかに穴が無いか、秋蘭は頭を高速回転させて考える。

 

指揮を執っている者が誰なのかは分からないが、少なくとも常識を大きく外れた策を取っている、或いは用意している様子は無い。

 

であれば、その方向から仕掛けるべきだろう。

 

果たして自分の考えが敵の常識の枠を超えることが出来るかどうかは分からない。

 

だが、それでも行動を起こさなくてはならない。

 

「流琉、お前は先行して山を下り、部隊を纏めておいてくれ。なるべく山から離れ、部隊被害の拡大を防ぐんだ。

 

 ただ、下山途中に何があるか分からない。十分に気を付けろ、流琉」

 

「はっ、はいっ!!」

 

はっきりした返事を残して流琉が隣から抜け出す。

 

続いて秋蘭は周囲の兵に対して声を張り上げて指示を出した。

 

「本隊周辺の者に告ぐ!我らは牽制射撃を行いつつ後退する!今だけは命中率に拘るな!

 

 決死の覚悟で退却路を確保せよ!!」

 

『はっ!!』

 

秋蘭自ら殿を務め上げ、蜀軍の猛攻をいなさんとする選択。

 

退却組の先頭にも将を置き、待ち伏せにも対応させる。

 

これが吉と出るか凶と出るか。

 

正攻法より多少は可能性が高いはずだと信じ、流琉に、そして己の腕と判断に託すしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「春蘭!恋!聞いてくれ!」

 

「なんだ、一刀?!今は話すよりも急ぐべきだろう!!」

 

「……なに?」

 

それぞれの性格をそのまま表したような返答にも、一刀は微笑を溢す余裕すら無かった。

 

ただ矢継ぎ早に指示を出し始める。

 

「伝令兵もだ!いるか?!」

 

「ここに!」

 

「よし!今のうちに作戦を伝える!全ての指示を全兵に伝えろ!

 

 定軍山の麓まで半里の位置に着いたら事前に通達していた兵は俺について来い!春蘭と恋もこちらだ!

 

 それ以外の兵はそこで展開、待機!秋蘭達を追い詰めようとしている敵に対し、無言の圧力を加えるんだ!

 

 待機組のその後の行動に関しては既に待機組の暫定部隊長に指示を出している!

 

 展開後はその者の指示に従うように!いいな?!」

 

「はっ!伝達致します!!」

 

言うや否や、伝令兵は部隊中を駆け回り始める。

 

一方、春蘭と恋はまだ一刀を見つめていた。

 

「私たちはそれからどうするというのだ、一刀!」

 

春蘭のその台詞が2人が返事をまだしない理由そのものだった。

 

だが、一刀としては今はこれ以上は何も言う気がない。否、言うことが出来ないのだ。

 

「春蘭、落ち着いて聞いてくれ。今はまだ何も状況が分かっていない。

 

 そこに踏み込んで初めて取るべき行動が分かってくるだろう。

 

 つまり、俺たちのその後の動きはひどく流動的なものになる。そこで大切になるのが、あの”約束”だ。

 

 2人とも、覚えているよな?」

 

どちらも遅れずにコクリと頷く。

 

この場面で一刀の口から”約束”という言葉が飛び出すとすれば、それは出陣直後に交わした”必ず一刀の指示に従う”ということの他は無い。

 

ここまで来て今更駄々を捏ねられたら全てが台無しになっていただろう。

 

そうならなかったことに、一刀は内心でホッと胸を撫で下ろす。

 

「とにかく、だ。戦闘音が消えてないってことは、まだ秋蘭と流琉は無事だってことだ!

 

 ここからは何もかも一切合切抜くものや緩めるものなんて無い!

 

 絶対に2人を助け出すぞ!!」

 

「おう!!」  「……ん!」

 

正確に言えば、一刀の発言は必ずしも真実では無い。

 

だが今は、例え愚かだと言われようとも絶対にそうだと信じて進む。信じなければ何も始まらないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眼下に広がる敵軍の動きが変わる。きっかけは厳顔の攻撃か。

 

どちらも徐庶にとって想定していなかった動きではあるが、かと言って大きく外れるほどでも無い。

 

「伝令。桔梗さんにはそのまま敵軍正面への集中射をしてもらってください。

 

 紫苑さんには分断を狙った攻撃から両翼を撃破する攻撃に切り替えてもらってください。

 

 それと念のため杏にも伝令を。現状は予想の範疇、全ては予定通りに、と」

 

「はっ!」

 

徐庶の想定ではこれが最終局面。

 

そこまでに夏侯淵への道をこじ開けられれば最も楽ではあったのだが、やはりというべきか守りも堅かった。

 

それでも、敵がこうして完全な逃げに転じた今、狙うべき穴が生まれる。

 

徐庶は敵の出鼻を奇襲で挫き、その後は悉く敵軍の建て直しを邪魔するように攻撃を行った。奇襲を受けた時の定石を一つずつ丁寧に塞いだのだ。

 

破れかぶれだろうと何か考えがあろうと、敵はこれで色々と悩むことになるはずである。

 

そんな状態となっては、殿と先行離脱の両部隊どちらにも加わらずに指示のみに徹する選択はまず取らないだろう。

 

勿論、そのような行動を取られたとて、攻め落とすに少し余計な時間がかかるのみでしか無かったが。

 

逃げに転じて敵側が自ら部隊を2つに割った。

 

こうなれば、夏侯淵がどちらにいようともこれで終わりとなる。

 

離脱部隊にいるのならば戦闘中に裏から回らせた姜維の伏兵部隊が横合いから叩く。

 

配置は既に通達済み。そうでなくとも軍師としても育てている彼女であれば良い方法を見つけて実行するだろう。

 

こちらにそのまま残ったとて、厳顔と黄忠の2人がかりで攻めさせれば片は付く。

 

夏侯淵を討ち取るのも最早時間の問題。

 

そう考えていても徐庶の表情は一切変化を見せない。頭の中も平時そのまま。

 

あくまで冷静に、淡々と。熱くなれば、あるいは驕れば、判断を誤る。

 

軍師の職にあってそれだけは決してしてはいけない、とは徐庶が常から姜維に言い聞かせていることであった。

 

「誰かある」

 

「はっ、ここに」

 

「夏侯淵がどちらの部隊にいるか、至急確認してきてください」

 

「はっ!」

 

決して手は抜かない。

 

確認できることは全て確認し、集めた情報を基にして予め立てた策よりもより良い策を模索する。

 

プラスにもマイナスにも決して揺れ動かず、残酷なまでに勝利に向けて徹底するその姿勢は美しささえ垣間見えるほどのものであった。

 

 

 

 

 

「第一隊、第三隊はこちら側、第二隊、第四隊は向こう側で待機です!

 

 敵軍が降りてきたらまずは第一隊が、時間を空けて第二隊が当たってください!

 

 第三、第四隊はそれでも抜けられそうな時に同時に挟み込んで攻撃をします!

 

 なので、それに合わせて部隊を配置します!第一隊はこの場所で、第二隊以降は距離を取って伏せていてください!」

 

『はっ!』

 

徐庶が構えている本陣から離れた、黄忠と厳顔が戦闘を続けている前線よりも更に下方。そこに姜維はいた。

 

徐庶からの指示を守り、配置を兵に通達する。

 

待ち伏せからの痛烈な横撃。退却に意識の大半を向けているであろう敵には効果的な策だ。

 

一つ一つの部隊の人数はかなり少ないものとなってしまっているが、奇襲であればこの程度で十分だろう。

 

何より、敵部隊もそうそう多くの兵が一度には降りては来れないのだ。

 

姜維もそう思っており、策の内容をわざわざ変更する必要性を感じない。

 

多少の敵の警戒も、波状攻撃の形を取ることで完全に抑え込む予定である。

 

姜維がいくら考えても、徐庶の策に穴らしい穴を見つけることは出来ない。

 

「それでも……もしも夏侯淵さんが降りてきたら……

 

 嫌だなぁ……上手く出来るかなぁ……」

 

徐庶の策に穴を見つけられないからこそ、姜維の心中には不安ばかりが降り積もっていた。

 

尊敬する上の人から受けた指示はなんとしてもこなしたい。出来ればその過程にも拘っておきたい。

 

あの人は恐らく自分が上の人間だとは言わないのだろうが、姜維にしてみれば完全に自分が下の人間だと思っている。

 

何にしても、役に立ちたいという姜維の思いだけは疑いようもなく本物であった。

 

ウダウダ考えていてもどうしようもない。

 

姜維はそう考え、パンパンと両手で自らの頬を張って気合を入れ直すと兵達に向かって言った。

 

「このまま暫く待機です!敵軍が来たら、行動開始です!」

 

『はっ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆さん、こちらです!後ろの方が詰まらないよう、足下に注意しつつ速度は落とさないようにしてください!」

 

流琉の指示が伝言ゲームのように後ろの兵へ後ろの兵へと伝わっていく。

 

指示を出しながらも流琉は周囲を警戒する。

 

秋蘭が何かがあるかも知れない、と言ったのだ。流琉が最大の警戒を示すには十分だった。

 

だが、それでもどうしようもないことはある。

 

「今ですっ!」

 

突然真横方向から上がった声。

 

直後、一つの部隊が吶喊してきた。

 

「そんなっ!?くぅっ……み、皆さんはこのまま下ってください!

 

 ここは私が殿を務めま――――」

 

「お待ちを、典韋様!ここは我々が請け負います!

 

 典韋様は他の者を率いてここを抜けてください!」

 

「ですがっ…………いえ、分かりました!

 

 皆さん、行きますっ!!」

 

その兵はやけになって言ったわけではない。

 

既に周囲の兵幾人かと共に足を止めて防御を固めている。

 

この状況で殿を務めるということの意味は分かっているはずなのだが、それでもその言葉と瞳には強い意志が宿っていることが流琉にも分かった。

 

故に、流琉も比較的素直にその場を任せ切ったのであった。

 

流琉は知る由も無いが、ここで先陣を切ったのが退却部隊に一人だけ、流琉のサポートを目的として入っていた黒衣隊員である。

 

こういった時のために一刀が触りだけでも、と教えていた扇動術。

 

流琉を慕っているだろう親衛隊からの出向兵を狙ってそれを行使し、この場を組み立てたのだった。

 

この壁がいつまで持つかは分からない。兎にも角にも、今のうちに一気に山を抜けてしまわなければ。

 

そう焦り始めた流琉に、さらに追い打ちが掛けられる。

 

「第二隊!」

 

またもや声と共に反対側から先ほどと同等の敵兵が現れる。

 

咄嗟にそちらへと向かおうとした流琉は、再び異なる兵に止められた。

 

「典韋様、ここは私共が行きます!どうか……ご無事で!」

 

先ほどの隊員の扇動で既に心を動かされていた兵が幾人か。

 

流琉に声を掛けると決意が鈍らない内に、と駆け出していた。

 

「くっ……こ、このまま下ります!一刻でも早く!」

 

悲痛な覚悟を持って飛び出した兵の心意気を無駄には出来ない。

 

だからこそ、流琉は前に進む選択をするしかない。

 

そこに、絶望を告げる光景が展開された。

 

「止めます!第三隊!第四隊!」

 

左右の両斜め前方から、先の二回に倍する敵兵がゾロゾロと。

 

真ん中は空いているものの、そんなところを通ればたちまち串刺しにされてしまうだろう。

 

「……私が食い止めます。皆さんは隙を見て、逃げてください」

 

流琉が前に出つつ、言う。

 

ここが最終ラインだと、空気が告げていた。

 

何より、先ほどから声だけが聞こえていた何者かが、ようやく姿を現したのだ。

 

ザシッと軽い音を立てて木の上から着地した少女。

 

薄橙の髪を後方に流し、長い槍を構えて立つその姿からでも他の一般兵とは違うことが見て取れる。

 

「貴女は典韋さんの方ですね?申し訳ありませんが、ここは通しません!行きますっ!」

 

「っ!皆さん、応戦を!但し、可能であれば離脱を最優先です!」

 

このように切羽詰った状況に流琉は陥ったことは無い。

 

自らの指示がそれでよいのか、判断は付かない。

 

そもそも、山を下るルート選択からして間違っていたのではないだろうか。

 

グルグルと自らの至らぬ点を思い描いてしまう。

 

兵も皆応戦態勢に入るも、絶対的な数の差がこの状況ではあまりに大きかった。

 

よく耐え、隙を見て抜け出そうとしても、物量で道を塞がれてはどうしようも無い。

 

耐えきれなくなった兵が一人、また一人と討ち取られていく。

 

流琉も敵兵をいなしながらどうにか手を探す。が、何も思いつくことがない。

 

そして無意識の内にポツリと。流琉の口から言葉が零れていた。

 

「兄様……」

 

同時、遥か前方から戦場の怒号すら薄れさせるような大きな音が響き渡る。

 

それは流琉の呟き声を掻き消すに十分なものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「衝軛を組め!先頭は俺が行く!敵軍を発見次第攻撃、殲滅せよ!」

 

『はっ!』

 

定軍山の麓に到達した一刀が馬から降りつつ指示を出す。

 

春蘭、恋を始め全兵素早く下馬すると迷いなどない足つきで陣を組みながら一刀に続いて山中へと侵入していく。

 

鬱蒼とまではいかないまでも、ここ定軍山に生えている草木は多かった。

 

視界は悪めで、音の伝わりも悪い。足下もそれほど良好とは言えない。

 

だが、こちらの部隊の者にはそんなことなど然したる困難でも無い。

 

春蘭と恋は言わずもがな、残る兵達もこちら側の部隊は全て黒衣隊員で構成しているのだから。

 

どこかから微かに聞こえてくる戦場音。

 

それに必死に耳を傾け、そこに至らんと進路を細かく変えつつ、踏破していく。

 

「……一刀、近い」

 

「何!?分かるのか、恋!?それは秋蘭なのか?!」

 

「……ん。多分、あっちの方。秋蘭かは、分からない」

 

恋が短く伝えてきた言葉に春蘭が大きく反応を示す。

 

普段無口な恋が自らこう言ったということは、それだけ彼女の中で確信か或いはそれに近い何かがあるのだろう。

 

確認のため数秒恋の目を見つめ返してから一刀は決断を下す。

 

「よし!進路を修正する!戦場は近いぞ!

 

 会敵したら敵味方を瞬時に判断、味方に加勢せよ!!」

 

『応っ!』

 

ピシッと揃った返答が短く空気を震わせる。

 

皆が前方に意識を集中し、会敵の瞬間に備えんとしていた。

 

とその時、背後から轟音が3発。花火の破裂音である。

 

「なっ、なんだっ!?」

 

「春蘭、これは問題無いっ!指示通り、待機部隊が敵の目を引き付ける策を取っただけだ!」

 

一刀は前進速度を落とさぬよう、焦る春蘭を宥める。

 

その間に背後に振り向いた恋が小首を傾げながら不思議そうに呟いた。

 

「……菖蒲?」

 

「おい、恋、何を言っ――菖蒲?!来ていたのか?!」

 

釣られて振り向いた春蘭も驚きの声を上げる。

 

2人の視線の先には分離した待機部隊。そしてその中央には、いつの間にか”徐”の旗印が高々と掲げられていた。

 

前日どころか部隊分離のその瞬間にもそこにはいなかった菖蒲がどうしてここにいるのか。

 

それは驚いてしまうだろう。しかし、一刀は至って冷静に事実を告げる。

 

「この場であまり大きな声では言えないが、あれはブラフ、はったりだ。

 

 予備の旗をちょっと借りて来ただけで、菖蒲はあそこにいない。

 

 短時間騙せればいい。その間に秋蘭と流琉を連れて撤退出来れば俺たちの勝ちなんだから」

 

「そ、そうなのか……」

 

春蘭が見つめている間も、待機部隊は威圧を掛けんと部隊を展開していく。

 

淀みなく陣形を形作っていくその様は遠目に見ればそこに将が実はいないとは分からないほどであった。

 

「とにかく今は――――っ!!見えたっ!!」

 

一刀のその言葉は他のどんな言葉よりも春蘭の意識を引き戻す力があったろう。

 

グリンと音が出そうなほど勢いよく正面に向き直った春蘭は、速度を落とさずに前方を睨み据え、言った。

 

「あれは……流琉かっ!秋蘭はいないのかっ!?」

 

「見たところいないようだが……手早く流琉を助け出し、秋蘭の捜索に向かおう!

 

 背後は取れていないが、ほとんど横撃の位置は取れている!このまま行くぞっ!!」

 

『おおぉぉおおぉっ!!』

 

鬨の声を上げ、速度をそのままに吶喊する一刀達。

 

その巨大な声の塊は前方の敵味方問わず肩を竦ませるほどの勢いを持っていた。

 

「っ!!に、兄様っ!!」

 

こちらを視認した流琉が喜びを湛え切れないといったような声を上げる。

 

「て、敵ですかっ!?何故っ!?それならばあの部隊は一体……!?」

 

流琉が相対する部隊の指揮官となる位置取りにいた少女が叫びも上げる。

 

こちらは混乱を隠しきれていないように感じる声であった。

 

敵の混乱乗じて一気に優勢を作り上げるべき。

 

そう考えた一刀は戦力の増大を図りにかかる。

 

「春蘭、恋!このまま前方の敵を突き破って流琉に合流してくれ!他の者も付いていけ!」

 

「おう、任せろ!」  「……ん!」

 

見たところ、敵軍に将らしき者は先の少女一人。

 

であれば、一刀がそこを抑えにかかるのが有効。

 

春蘭達の突破の混乱に合わせ、一刀はいつの間にか少女の正面にまで移動していた。

 

「その姿、姜維さん、だな」

 

「あ……あぁ……」

 

姜維は一刀を指さし、母音を口から小さく漏らす。

 

そして推測とも確信とも取れる発言が飛び出た。

 

「日に輝く白き衣……ということは……ほ、北郷一刀……」

 

「二つ名でもつけられたか?そんなものは長くなくとも最初で分かれば四文字でいい。

 

 暴力飛び交う戦場では要らないものだがな。後ろから襲われる危険も増えてしまう。

 

 概して会議にのみ使うものだろう。

 

 いやいや、こんな時に何言ってんだか……」

 

一刀はフルフルと頭を振る。

 

と、一刀の言葉が途切れた隙間に姜維が話を滑り込ませてきた。

 

「ど、どうして貴方がここに?」

 

「天の知識故、とだけ言っておこう。さて、単刀直入に言おうか。

 

 姜維、退け」

 

「そんなことを言われて、直に退くと思いますか?!」

 

「ま、だろうな。だから、退きたくなる情報を追加してやる。

 

 さっきそっちの部隊を突き破っていった2人、誰だと思う?」

 

「は?」

 

訳が分からないと言いたげな表情の姜維に、一刀は意地の悪い笑みを満面に浮かべてゆっくりと言ってやった。

 

「黒髪の娘が夏候惇、そして赤髪の娘が呂布、だ」

 

「はぁっ!?」

 

姜維の目が驚愕に見開かれる。

 

そして次の瞬間には行動を起こしていた。

 

「皆さん、退きますっ!!前指示通りの道順で退いてくださいっ!!」

 

「うん、懸命な判断だ。春蘭!恋!追わなくていい!今は他にやるべきことがある!」

 

一刀はこっそりと姜維を評価していた。

 

しっかりと己の役目をこなしているようで、たった一人でこの場を任せられたということはそれだけ信頼もあるのだろう。

 

判断力も良い。一刀と春蘭、恋を相手取るくらいなら戦況が完全に覆らない内に退いてしまう。

 

一連の動きに不自然なものは無かった。この撤退が二重三重の罠になっているということは無いだろう。

 

潮が引くようにあっという間に蜀軍が引き上げると、そこには疲弊の激しい2つの魏軍の部隊だけが残った。

 

「あ、ありがとうございます、兄様!!もうダメかと思いました……おかげで助かりました!」

 

「流琉、無事で良かった。あとは秋蘭だが……どこにいるか分かるか?」

 

「は、はい!分かります!案内します、兄様、春蘭様、恋さん!」

 

「ああ、頼む!流琉の部隊の者はこのまま下山せよ!

 

 下に待機している部隊がある!彼らに合流し、休め!よくやってくれた!

 

 救援部隊!このまま次は夏侯淵将軍の救出に向かう!死ぬ気で駆けろ!!」

 

『はっ!!』

 

疲労は既にピークを越えている。だが、返事に力強さは失われていない。

 

流琉を先頭に加え、部隊は再び足に鞭打って走り始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しょ、将軍!矢が……尽きました……」

 

「くっ……!まだ矢の残数に余裕のある者はいるか?!」

 

「申し訳ありません!既に矢が尽きかけています!」

 

「こ、こちらもあと僅かです!」

 

方々から上がる最悪の状況を知らせる答え。

 

連れてきていたのが秋蘭の部隊ばかりであったならばもう少し矢に余裕もあっただろう。

 

だが、今回に限っては混成部隊。用意していた矢の数もそこまで多くは無かった。

 

しかも、黄忠とその部隊に両翼の兵をじわじわ削られ、その度に回収できない死に矢が増えて行っていた。

 

それが積もり積もって現状へとつながっている。

 

敵はどちらもが飛び道具使い故、決して距離を詰めてこようとはしない。

 

矢が尽きれば為す術がほとんどなくなってしまう。

 

こうなってしまっては、最早一か八かの苦肉の策に出るしかない。

 

「矢の尽きた者は全力で退け!されど、決して敵に背は向けるな!

 

 背を向ければ的でしか無いぞ!剣なり槍なりを所持している者は可能な限り矢を撃ち落しながら退け!」

 

それが出来れば苦労しない。この日何度目かも忘れた同じ突っ込みを自らに入れつつも、それしか出せる指示が無い。

 

どれだけ歯を喰いしばって耐えても、ジリ貧にしかならない今の状況は絶望を覚えるほどであった。

 

 

 

それでもジッと我慢しながら耐えていれば、当然の如く矢の尽きた者が一人、また一人と増えていく。

 

やがてそれが一定数に達し、防衛ラインに残る兵が疎らになった頃、敵軍に大きな動きがあった。

 

「将軍!敵軍から2人、突っ込んできます!黄忠と厳顔です!!」

 

「私が抑える!一刻も早く他の兵を退かせろ!」

 

指示するや、秋蘭もまた前に出る。

 

そのまますぐに黄忠、厳顔と相対することになった。

 

「あらあら、出てきてくれたのね。ならば、初めからこうしておいた方が良かったかしら?」

 

「それはそれで危なかろう、紫苑。こやつらも矢が尽きてきたからこそこのような行動に出ておるんじゃろうしな」

 

「それもそうね」

 

戦場にいて、暢気に雑談を交わす。それは油断だろか。否、2人のこれは余裕の表れであった。

 

その証拠に、2人の視線は一瞬たりとも秋蘭から切れていない。体から発せられている緊張感も肌がピリピリするほどだ。

 

秋蘭が一定の距離を保ったまま足を止めると、黄忠が話しかけた。

 

「さて、貴女が夏侯淵ね。恨みは無いけれど、悪いわね、我らが夢のため、ここで果ててもらうわ」

 

「黄忠、か。随分と好き勝手やってくれたものだが……これ以上は思い通りにさせん!」

 

秋蘭は弾けるようにバックステップを取ると、温存しておいた矢を番えて一息に3射放つ。

 

だが、いずれの矢もほとんど同時に動いていた黄忠の矢によって撃ち落されてしまった。

 

いや、それだけではない。3本目の矢同士が弾けた後、同軌道に沿って更にもう一本の矢が秋蘭目掛けて飛来してきた。

 

「ちっ!」

 

咄嗟に上半身を捻って矢を外す。

 

それと同時に理解した。

 

黄忠は秋蘭よりも同時間で射てる矢の数が多い。そして命中精度も高い。

 

矢の残数も少ない現状でそういったスキルですらも劣るとなると、より一層絶望を掻き立てる。

 

だが、例えそうであっても無意味に命を捨てることは決してしない。

 

それは敬愛し、自らの全てを捧げた華琳を、そして共に夢を見、苦楽を共にした春蘭や一刀を、裏切ることになるのだから。

 

 

 

最初の攻防以降、秋蘭は防戦一方となっていた。

 

スキル面では互いにまだ出していないものもあり、全面的に劣っているとは思っていない。

 

だが、残る矢の本数だけは物理的な問題故どうしようもなかった。

 

何より、今は黄忠と死合っているが、ここを突破してもその後に厳顔が待ち構えているのだ。

 

部隊として奇襲を仕掛けてはきても、一騎討ちには武人として厳格なようで、厳顔は腕を組んで死合の様子を眺めている。

 

問答無用の二人掛かりで来られなかったことは不幸中の幸いだと思うことにしていた。

 

出来る限り少ない本数で黄忠を倒す。それが今の秋蘭にとっての至上命題。

 

狙うは確実な隙を見つけての一点集中射。なのだが。

 

「くっ……!」

 

ひたすら黄忠の矢を避け、或いは餓狼爪で弾き、それでも黄忠に決定的な隙を見出すことが出来なかった。

 

そしてなにより攻撃を受け続けているのみの状態は想像以上に精神力と体力を消耗するものだった。

 

「これはなかなか、厳しいものがある、な……

 

 一刀はいつも、こんな戦い方をして、いたのか……はは、やはりさすがだなぁ」

 

果たして秋蘭は気付いているだろうか。既に秋蘭は限界に近い状態であった。

 

集中力も落ち始め、僅かずつではあるが、黄忠の攻撃への反応が遅れ始めている。

 

それは徐々に無視し得ないものとなってきて……

 

「痛っ!」

 

ついには黄忠の攻撃を完全には避けきれなくなり始めた。

 

掠る程度で済ませているとはいえ、それでも傷が一つ増え、二つ増え。

 

瞬く間に両手で足りないほどの数の傷を負わされてしまう。

 

こんな状態であれば、やがて”その時”はやってくるもので。

 

「ぁぐっ!?」

 

とうとう掠るどころか、まともに矢を食らってしまった。それも、腿に。

 

ズシャッと音を立てて秋蘭は膝を突いてしまった。

 

「よく耐えたけれど……これで終わりよっ!」

 

黄忠が放った一矢は秋蘭の胸を目掛けて真っ直ぐに飛んでくる。

 

(あぁ……ここまでか。すまない、姉者、一刀。すみません、華琳様……)

 

体勢的に最早逃げること能わぬ攻撃に秋蘭は覚悟し、目を瞑って心中で短く謝罪する。

 

そして、自らを黄泉へと導く死神をその身に――――受けなかった。

 

矢が伝えるはずの衝撃がいつまでも来ないことを不審に思い、何があったのかと秋蘭が目を開けると。

 

「夏侯淵様……ご、ご無事、で何より……」

 

いつの間に現れたのか、秋蘭の前で両手を広げて仁王立ちした兵がいた。

 

その体には当然の如く矢が突き立っている。黄忠から放たれ、秋蘭の命を狩るはずだった矢が。

 

予想外の出来事に目を見開く秋蘭だったが、首だけ振り返ったその兵の顔を見て全てを察した。

 

「ぐっ……はは、やっぱり隊長は、す、すごいですね……

 

 覚悟は決めて、いたはずでしたが、い、いざとなって僅かに、躊躇してしまった結果、こ、こんな無様を晒して、しまいました」

 

その兵は秋蘭の部隊の者。そして。増員された黒衣隊の新規隊員でもあった。

 

当たり所が悪かったのか、既にかなり苦しそうな様子のその兵は、しかし気丈に振る舞う。

 

「夏侯淵様、少しお休みください。私が時間を稼ぎます。ですから……必ず勝って、生き残ってください」

 

「お、おい!」

 

思わず呼び止めようとしてしまう秋蘭。それでも兵はそれ以上は何も言わない。

 

代わりに黄忠達に向かって叫んだ。

 

「貴様、蜀の将軍だな!?貴様を討ち取り、我が出世の礎とさせてもらう!」

 

「突然飛び込んできたことには驚いたけれど、あなたのような一般兵に用は無いわ。

 

 そこをどきなさい。さもないと……」

 

殺気を放ち、黄忠は威圧する。

 

だが、兵はもうたじろぎもしない。

 

無駄なことだが、戦闘は避け得ないか、と諦めて溜息を吐いた黄忠に横合いから厳顔が声を掛けた。

 

「そやつは儂がやろうか、紫苑?」

 

「いいえ、桔梗、大丈夫よ。あまり時間は無いけれど、どちらもすぐに終わらせるわ」

 

そう言った黄忠の視線の先には兵のみならず、ようやく餓狼爪に寄りかかりながら立ち上がった秋蘭も含まれている。

 

兵もその視線の意味に気付き、させじと前に飛び出した。

 

「覚悟ぉっ!!」

 

「疾っ!」

 

その手に剣しか持っていない兵は遮二無二前進を図る。

 

それに対し黄忠は一息4射、秋蘭との攻防でも幾度も見せた本気の射撃だった。

 

これだけ射たれれば、兵の方は足を止めて防ぐことに専念せねばならない。

 

黒衣隊の地獄のような訓練で各種技術が格段にアップしている隊員。

 

平時の状態であれば、例え黄忠相手にもそこそこ保つことは出来ただろう。

 

だが、今回は――――

 

「ぅ……か、はっ……」

 

既に受けていた矢傷が痛かった。ものの10分と保たず、次々にその身に矢を受け、倒れ伏す。

 

そして、再び秋蘭は黄忠と対峙することとなっていた。

 

「ふぅ。随分と手間取ってしまったけれども、ようやく終われそうね」

 

「ふっ……そう簡単にいくとは思わないことだな」

 

秋蘭の言葉は黄忠にとって負け惜しみにしか聞こえなかっただろう。

 

言った本人ですら半分以上そう思ってしまっているのだから、それは仕方のないこと。

 

それでも、あれだけの気持ちをぶつけられては、改めて奮起せざるを得ない。

 

矢を受けた足はズキズキと痛む。疲労に蝕まれた心臓はバクバクと鼓動し、肩は図らずも上下する。

 

最早、満身創痍。

 

しかし、秋蘭の顔には不敵な笑みが貼り付いていた。

 

「せめて、黄忠、貴様だけは道連れにするとしよう」

 

言うや否や、秋蘭はキッと視線を鋭くし、後先考えない全力の斉射を始める。

 

己の今持つ技術を全て費やし、黄忠を仕留めにかかる。

 

だが、手傷どころか疲労の色すらまだまだ薄い黄忠はそれらの攻撃を難なくいなしていた。

 

勝ち筋の見えないまま、秋蘭の矢の本数だけが減っていく。

 

「疾っ!」

 

黄忠が気合と共に放った数本の矢。それが再び秋蘭を捉えた。

 

「ぐっ……!」

 

半身の捻りが足りず、避け損なった矢が左腕に。

 

餓狼爪を握る手に力が入らなくなってくる。

 

「今度こそ、終わりよっ!!」

 

再びの黄忠の斉射。

 

秋蘭はそれを大きくサイドステップを取って避けようとした。

 

「させる――ぁぐっ……!」

 

力強く地を蹴ろうとした足に激痛が走る。

 

傷を負った足ではその体を支えることが精一杯だったのだ。

 

足から力が抜け、あえなく地に倒れてしまう。

 

ふと見れば、目前にまで迫る矢。

 

(足でも手でもいい!動け!動いてくれ!!)

 

「っ、ぁぁああああぁぁぁっっ!!」

 

秋蘭にしては珍しい、叫び声。だったのだが。

 

それも虚しく、僅かに手が動こうとしただけで、力が入りきらない。

 

今度こそ終わりか。再びの覚悟を、今度は目を開いて受け入れようとした、その瞬間だった。

 

「つああぁぁっっ!!」

 

「でぇぇりゃああぁぁぁっっ!!」

 

秋蘭の背後から2つの影が、叫び声と共に躍り出た。

 

その2人は秋蘭に迫る黄忠の矢を弾き。グリッと振り向いて叫んだ。

 

「大丈夫か、秋蘭?!」 「無事か?!」

 

「あ、姉者……一刀……」

 

理解の及ばない事態に秋蘭は呆然としてしまう。

 

黄忠達の対処にいっぱいいっぱいで花火による増援の知らせに気付かなかったからであった。

 

「秋蘭様!」

 

「る、流琉?何故ここに?」

 

「下はもう大丈夫です!ご安心ください!」

 

流琉は一刀達の背に隠れつつ秋蘭に肩を貸して退がり始める。

 

同時に秋蘭の全身の傷を確認し、一刀に向かって首肯を一つ返した。

 

「……負傷してはいるが、命に別状はなさそうか。良かった、安心したよ……」

 

一刀にかけられた優しい声音で、秋蘭にもようやく現実感が戻ってきた。

 

まだ戦場にいるにも関わらず、思わず表情を緩めそうになった時、前方から冷やかな声が響く。

 

「その輝くような衣……そう、あなたが北郷なのね?どうして――」

 

「まあ、待て、紫苑。こやつの目的など何度聞こうと同じ答えしか返ってこんだろうよ。

 

 それに、様子を見ているに隣はかの夏候惇じゃろう。こうなっては儂らの作戦は失敗したも同然じゃろうが……」

 

厳顔が得物をゆっくりと構える。そして。

 

「儂にとっては僥倖じゃっ!」

 

クワッと目を見開いて叫ぶと、得物から”何か”が発射される。

 

「は、はぁっ!?」

 

思わず素っ頓狂な声を上げてしまう一刀。

 

そのせいで初動が遅れてしまう。

 

が、しかし。一刀がそれで焦ることは無かった。いや、むしろその場から動こうともしない。

 

そんな一刀の様子を厳顔が訝しみかけたその時、一刀の前方に一閃が煌めき、その隣にはいつの間にか恋が立っていた。

 

「すまない、恋。助かった」

 

「……ん」

 

「ほぅ、やるのう!」

 

攻撃を防がれたというのにどこか嬉しそうな厳顔。

 

一刀はその手に持たれた武器をよく観察する。

 

先ほど撃ち出されたものは、どう見ても鉄杭。いや、そもそも”あの構造”から”撃ち出される”ことに驚いていた。

 

厳顔の手にある武器には巨大なリボルバーが備わっている。

 

引き金が見当たらない辺り、詳細な構造は全く想像が付かないものの、あれはまさに現代の”銃”に連なる武器にしか見えなかった。

 

敢えて言うならば、巨大なパイルバンカー。

 

まさに一刀が実現できるかどうかを思い描き、技術的困難の多さに計画を頓挫させた代物であった。

 

沸々と詳しく調べ上げたい衝動がこみ上げてくるが、後々に臍を噛むことになったとて今は何よりも最優先すべき事項が存在する。

 

「黄忠さん、厳顔さん。ここは退いてもらえませんか?」

 

「あら?それはこちらに利点はあるのかしら?」

 

「それも貴女であればよく分かっているのでは?」

 

「…………」

 

質問に質問で返され、試すつもりが試されたことが分かって少しムッとした表情を見せる黄忠。

 

だが、すぐに表情を戻すと話題を逸らす。

 

「そちらの2人は夏候惇に、呂布、かしら?愛紗ちゃんがお世話になったようね」

 

「はい、そうです。そして、そういうことです。

 

 この戦はここらで手打ち、痛み分けとしませんか?それとも、血みどろの泥死合でも演じたいですか?」

 

「それはちょっと御免こうむりたいわね」

 

やはり黄忠は話が通じる。一刀がそう確信した瞬間。

 

「儂は構わんぞ?強者との死合ほど心躍ることはないからのう!ほれっ、行くぞ――」

 

「と、止まってくださ~いっ!」

 

厳顔の後方から一人の少女が腰に飛びつく。

 

その衝撃で厳顔の得物は明後日の方向を向き、大きく外れていった。

 

「な、何をするんじゃ、杏!」

 

「て、撤退ですぅっ!撤退するから紫苑さんと桔梗さんを呼んで来い、と雫さんが!」

 

「ちっ、いいところじゃったのに」

 

この場に現れた途端に捲し立てる姜維。

 

厳顔はその伝言内容に渋々といった様子で同意を示していた。

 

「――というわけですので、北郷さん、その提案飲ませていただきます。

 

 それでは、またどこかの戦場で……」

 

さっさとその場を纏めて、黄忠は厳顔と姜維と共に退いていく。

 

約束を早速破棄してその背に襲い掛かる勇気など、黄忠が去り際に見せた冷たい眼光が持たせなかった。

 

撤退はしていった様子だが、まだ完全に安心は出来ない。

 

皆そう考え、しばらくはそのまま周囲に警戒を巡らせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありません、紫苑さん、桔梗さん。これほど早く敵の増援が来る可能性を考慮していませんでした。

 

 完全に私の準備不足です」

 

黄忠と厳顔が戻ってくるなり、徐庶が2人に頭を下げる。

 

しかし2人はすぐに徐庶に頭を上げさせた。

 

「仕方がないわ、雫ちゃん。あの動きはいくらなんでも早すぎるもの」

 

「て、天の知識で分かった、と言ってました……」

 

「杏、それは安易に信じてはいけませんよ。

 

 ……信じたくなる気持ちもわかりますけれどね」

 

ポツリと漏らす徐庶の言葉は誰にも聞こえないほど小さかった。

 

そしてふと気づいたように黄忠と厳顔に向かって尋ねる。

 

「それにしても、随分あっさりと退かれたのですね。

 

 特に桔梗さんは一騎討ちに奔るかと予想していたのですが」

 

「あ!そ、それは……」

 

グッと何かを堪えるように息を飲んでから、姜維が再び雫に頭を下げる。

 

「すいません、雫さん!!私の勝手な判断で紫苑さんと桔梗さんを引き留め、撤退の指示が出たと騙ってしまいました!

 

 お叱りはなんなりと!」

 

「そうでしたか。いえ、構いません。私も杏と同じ指示を出したでしょうから。

 

 むしろその結論に一人で至り、行動にまで移した行動力に賞賛を与えます」

 

「あ、ありがとうございますっ!」

 

徐庶の思いもよらなかった言葉に姜維は顔を輝かせる。

 

そして、さらに話を続けるように厳顔が思い出しながら言う。

 

「北郷に夏候惇に呂布、そして麓には徐晃までおったの。

 

 これ以上ない全力じゃろうが、それだけ魏にとって夏侯淵は重要じゃったというわけじゃな」

 

「はい。それだけに、仕留めきれなかったことが悔やまれます。

 

 典韋の方も追い込みはしたようですが……」

 

「す、すみません……交戦中に北郷達に乱入され、壊滅させられる前に逃げてしまいました」

 

「いいんですよ、杏。そちらも正解ですから」

 

徐庶に怒られなかったことに少し表情を明るくする姜維。

 

それとは正反対に徐庶は珍しく表情に感情が現れていた。

 

「それにしても、どうしましょう……勝手な行動を取った挙句、このような結果では桃香様に顔向けが……」

 

「あ、あの、雫さん、それでしたら私に一つ案が……」

 

おずおずと手を上げる姜維。

 

徐庶は視線で先を促した。

 

「この際、雫さんが吐いた嘘を本当にしてしまえばいいのではないでしょうか?」

 

「本当に、とは?」

 

「はい、実は2日ほど前に外に出ていた時に小耳に挟んだ話なんですけど――――」

 

元々の大きな目的はほとんど果たすことが出来たからか、成都へと戻る蜀陣営に暗さはほとんど無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………どうやら、もう大丈夫のようだな」

 

一刀の宣言が場の緊張を一気に解く。

 

皆詰めていた息を安堵と共に長々と吐き出していた。

 

「一刀、姉者、恋。本当にすまない、助かったよ」

 

「わ、私の方も、ありがとうございましたっ!」

 

「気にするな、秋蘭、流琉!なんたってお前達は私のたった一人のかわいい妹に大切な仲間なのだからな!」

 

「……無事なら、良かった」

 

秋蘭と流琉が改めて礼を述べ、春蘭と恋が受け答える。

 

それに一刀も笑みを浮かべて返そうとした。

 

「間に合って良かったよ……一時はどうなるかと思ったが……

 

 なんにしてもこれで――――ぐっ?!ぐあっ!?」

 

突如、胸を貫くような痛みが、断続的に走る。

 

「お、おい!どうしたんだ、一刀!?」

 

「に、兄様っ!?大丈夫ですかっ!?」

 

 

 

春蘭が、流琉が、心配する声がどこか遠い。

 

 

 

「……怪我、無い」

 

「掠った矢傷も無い!毒ということもなさそうだ!」

 

 

 

一刀の状態を必死に調べる恋と秋蘭の感触も自分の体ではないようで。

 

 

 

「ぐぅぅっ……!あっ……」

 

 

 

そのまま為す術もなく、一刀の意識は黒く沈んでいった。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
22
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択