ある所に、ドラゴンの子供がいました。西の山よりも小さくて人間よりも大きい、子供のドラゴンです。子ドラゴンには、パパとママがいませんでした。
けれど、世の中にはパパとママという生き物がいて、小さな子供を優しく愛してくれるということは、知っていました。なぜなら森の動物達が、パパママと小さな子供達で、春のうららな陽の中を、睦まじく過ごしているのを見たからです。
子ドラゴンは、パパとママが欲しいと思いました。
たぶんパパとママは、ボクより大きいはず。子ドラゴンはそう考え、辺りを見回します。そこは、深い森の中。子ドラゴンより大きな生き物はいませんでした。
子ドラゴンは空を見上げます。パパとママはボクよりもっと大きな翼を持っていて、空を飛んでいるかもと思ったのです。けれど空を飛ぶ影は、地上の坊やを覆い隠すほど大きくはありませんでした。
子ドラゴンは森を出て、生まれて初めての旅に出ることにしました。西の山に背を向けて、短い足で歩きます。やがて、目の前に小高い影を見つけます。
こんもりとしたふくらみの上に、ちょこんと何かが突き出していました。それは丁度、ころんとした体に首がちょっぴり突き出している、子ドラゴンの形に似ているようでもあります。
子ドラゴンは生まれて初めて、早歩きをしました。あれはママでしょうか? それともパパでしょうか?
それは、分厚い壁と町に囲まれた小高い丘に立つ、お城だったのです。ニョッキリお首に見えたのは、お城の殿様ご自慢の、高くて太い塔だったのです。
パパママを恋しがってヨチヨチ走る子ドラゴンを見て、塔の見張りは飛び上がりました。急いで、大きな鐘をゴロンゴロンと鳴らします。町の門が全て閉じられ、殿様は震えながら馬に乗り、騎士達は恋人に別れを告げました。
子ドラゴンの方は、途中でなんか違うかなと気づきはしたけれど、初めて見るパパママですから、そうすぐに決め付けるわけにもいきません。もっと近くに寄ってみよう、もしもあのニョッキリ硬そうな首がボクの方に伸びてきたら、あれはボクのパパかママなんだと、そう思います。
突然、子ドラゴンのまだ柔らかな首に、何かが刺さります。それは矢で、町の壁の上から射られたのでした。
矢は沢山、子ドラゴンを襲います。子ドラゴンはチクチク痛くて、立ち止まります。
殿様と騎士たちが門から出てきて、子ドラゴンからまだ大分離れた所に止まります。
「我こそは、ホットハーブ城の城主ホットハーブ伯爵なるぞ! そこの怪物、古より伝説のドラゴンと見た。我が剣を受けてみろぉぉ~~」
ヒゲの殿様はそう叫んで、馬にムチを当てました。けれど馬は、動きません。馬だって怖かったのです、子ドラゴンはとても大きいのですから。
子ドラゴンはつぶらな瞳でお城を見ます。こんな痛いことをするのが、パパやママのはずがありません。馬の上で、決して届きはしない剣を振り回す殿様を置いて、子ドラゴンはきびすを返しました。
「殿様が怪物を追い払ったぞ~~!」
背中に歓声を聞きながら、子ドラゴンはトボトボと歩きます。矢は、深くは刺さっていないけれど、まだ柔らかい子ドラゴンをチクチクといじめました。
もしもパパやママがいれば、子ドラゴンをペロペロ舐めて、手当てしてくれるだろうに。一人ぼっちの子ドラゴンは、まだ冷たい春の風がヒュオッと傷を舐めるだけです。
子ドラゴンは頑張って、森の入り口まで戻りました。
パパはどこ? ママはどこ?
ぽつりと、瞳から涙の雫が零れます。大きな雫が茂みの中に落ちた時。
「うわぁっ」
声がして、生き物が飛び跳ねました。子ドラゴンはびっくりして、尻餅をつきます。
茂みの中で立ち上がったのは、一人の青年でした。彼は子ドラゴンを見上げると、ぶるっと震えましたが……胸の前に手を置いて、深呼吸を一回。
「いいさ、喰えよ。怪物も、腹が減るもんな」
と、そんなことを言ったのです。子ドラゴンは首を傾げます。子ドラゴンは目の前の、ドロで汚れたちょっとかたそうな青年を、食べたいとは思いませんでした。そんなことより、チクチク体が痛いし、ドシンとついたお尻が痛いし……。
次々あふれる涙のせいで、その青年の姿はかすんで見えます。
「怪物も泣くんだな。よく見りゃ、怪我してるじゃないか」
青年は近くに寄ってきて、子ドラゴンの体から矢を抜きます。
「ぴきゃう」
「痛いか? ヒドイもんだな、こんなに沢山」
青年は子ドラゴンのまだ柔らかな肌を、優しく撫ぜてくれました。これは、もしかして?
「ママァ……」
青年はびっくりしたように、目を見開きます。
「しゃべれるのか? 違う違う。オレはお前の母さんじゃないよ」
しょんぼりと、子ドラゴンは新しい涙の雫を落とします。
「そっか。お前は迷子なんだな。……つまり、まだ赤ん坊ってことか」
青年はさみしげに笑いました。そしてまた、傷ついた体を優しく撫ぜてくれました。
ママじゃないけど優しくしてくれる青年を、子ドラゴンはじっと見下ろします。よく見れば、ちっちゃな顔にはアザが。ボサボサの前髪の下にはスリ傷が。ぺろりと、子ドラゴンは青年の顔を舐めました。
「味見か?」
青年は、今度は声をたてて笑いました。そんな訳で、一人ぼっちだった子ドラゴンは、生まれて最初の友達を見つけたのでした。
「オレは行く所がないから、お前と一緒に母さんを探してやるよ」
彼の名はバンスといいました。彼は子ドラゴンに、ロンという名前をくれました。
「なあ、ロン。お前が最後に母さんと一緒だったのは、どこだ?」
どこだったでしょうか。子ドラゴンは首を傾げました。
「参ったなぁ。それがわからなけりゃ、探しようが無いじゃないか」
西の山から風が吹きます。バンスは首をすくめました。
「この冬は、どこをねぐらにしてたんだ?」
「フユ?」
「知らないのか? 今よりもっと寒い季節だ」
子ドラゴンは冬を思い出そうとしました。けれど思い出せるのは、森の中と、あのニセモノのママだけ。
そこで二人は、森にある、子ドラゴンの一番古い思い出の場所に向かいました。そこは西の山がよく見える、少し開けた地面でした。地面にはぽっかり穴があいていて、その大きさは丁度、子ドラゴンがすっぽり入れるくらいでした。
穴の底や盛り上がった土の周りに散らばった、カタくて分厚いものを見て、バンスは納得顔になります。
「お前は卵のままここに埋まってて、少し前にかえったばかりなんだな」
それから彼は、地面と子ドラゴンの足の裏を見比べます。
「お前の足跡ばっかりで、親は見に来てもいない。お前の親は、子育てをしないのかもな」
ぽそりと聞こえたその言葉の意味は、なんなのでしょう。
「母さんがいなくても、お前はそんなデカイ体なんだから、きっとやっていけるさ」
ほろりと涙を零す子ドラゴンを見て、バンスはタメ息を付きました。
「そんなに会いたいなら、探すだけ探してみるといい。オレは行く所がないから、いくらでも付き合ってやるよ」
そんな訳で子ドラゴンは、人生二度目の旅にでることになったのでした。
その日の太陽はもう西の山に引っかかっていたので、二人は穴の横で休みます。
子ドラゴンは丸くとぐろを巻き、尻尾と首のすき間に青年を入れてあげます。バンスの静かな息遣いとぬくもりが、まだ柔らかな肌に伝わってきます。子ドラゴンはなんだか幸せな気持ちで、この友達が大好きになったのでした。
暗くなっていく中で、バンスが言います。
「腹が減ったな。死んじまいそうに、腹が減った」
太陽は山の向こうにするりと消えました。
「なんか、食うものをかっぱらってくりゃ良かったのに。オレっていつでも、上手くいかないんだな」
子ドラゴンは切なげな声に向かって、舌を伸ばします。ペロンと舐めてみせると、バンスは笑いました。とっても哀しげに、笑ったのでした。
二人が真っ暗闇の中でじっとしていると、ガサガサという音が聞こえてきます。森の獣でしょうか。いくつもの息遣いが枝葉を折り、こちらに近づいてくるようでした。
「ぎゃあ。よせ、あっち行け」
闇から声がします。子ドラゴンは首をもたげました。
「うわあ、助けて、助けて」
何が起こっているのか、子ドラゴンにはよく見えませんでした。ただ、いくつもの生き物が動いていることだけが、わかります。
「お前、そこにいるんじゃろ、助けてくれぇ」
子ドラゴンはオロオロと口を開けます。ドクンと体の中が熱く震え、子ドラゴンは生まれて初めて口から炎を吹きました。周囲は一瞬明るく照らし出されます。そこには鋭い牙の生えた狼が沢山いました。狼たちは炎を浴びて、森の木々の闇の中に逃げて行きます。
しわがれた声が、再び訪れた闇の中で言います。
「ヒィ、助かった。もう一度、今度はちっこい火をおくれ」
子ドラゴンは喉を不器用に震わせます。口の中から放たれたのは、さっきよりも大きな炎でした。
「わふう、あちい、あちぃわい! 旧友を殺す気かい!!」
怒った声がして、子ドラゴンの炎の欠片が大きなタイマツに移ります。残りは闇に混ざり、消えてしまいました。
タイマツを持っているのは、小柄なおじいさんでした。おじいさんは子ドラゴンを見ると、怒って釣りあがっていた眉毛を八の字にします。
子ドラゴンの首の脇で、バンスが身じろぎをしました。
「じいさん、だれだ? こいつの旧友って言ってたよな」
おじいさんは首を傾げます。
「旧友がいると思ったんじゃが。どうも、違ったようじゃわい」
「じいさんは、こんな怪物に知り合いがいるのか?」
「まぁな」
子ドラゴンはおじいさんの、タイマツを持っていない方の手を見ました。そこには、ひどい傷がありました。
「あいつらにやられたのか?」
バンスも気がついたようです。
「血を止めねぇと、ヨボヨボの体がもっとちっこくなっちまう」
汚れたマントの中でモゾモゾと手を動かし、バンスはボロ布を取り出しました。
「なんじゃい、そりゃ」
「昔、シャツだったもの」
「そんなバッチィもんで、どうしようってんじゃ」
バンスはおじいさんの手を取ります。
「なあ、ロン。ちょっと舐めて、汚れを取ってやれよ」
子ドラゴンは舌を出して、おじいさんの傷をなめてあげます。そしてバンスが、血のぬぐわれた傷口の上に、ボロ布をきゅっと巻きました。
「ちゃんと洗ってあるから、汚くなんかないさ」
おじいさんは、ちょっと鼻を鳴らしました。
「身なりによらず、清潔で親切な若者じゃ。どれ、礼がてら何ぞ願いを一つ叶えてやろう」
「昔話の妖精みたいなこと言うじゃないか」
「昔話をなめるなよ、若人よ」
笑い顔のまま、バンスは腕組みをします。
「そうだなぁ。怪物が本当にいるくらいだから、じーさんが妖精でも悪いってこたないよな。ならさ、ロンの母さんを探してもらおう。な、ロン。妖精だったらきっと、魔法を使ってすぐに探し出してくれるさ」
それを聞いて子ドラゴンは、喜びました。すぐにママに会えるのです。
「じいさん、頼んだよ」
するとおじいさんは、あごヒゲをかきました。
「わしは、若人の願いをたずねたんじゃ。その赤ん坊はさっき炎で助けてくれたから、また別に願いをきこうと思ってのう」
「なら、それはそれできけばいい」
バンスは子ドラゴンの前足を、優しく撫ぜてくれました。
「しかしのう。あんたはそんなみっともない身なりなんじゃから、宝石やら金やら、欲しいもんもあるじゃろう? 会いたい人もおるじゃろう?」
おじいさんは優しくたずねましたが、バンスは首を振ります。
「何も無いし、誰もいない」
タイマツの炎にゆらゆらと照らされるバンスの顔は、笑っているけれどやっぱり、寂しげに見えました。
「仕方ないのう。なら、赤ん坊の親を探すことで、あんたに礼をするとするか」
子ドラゴンはバンスの願いが嬉しくもあり、またなぜか寂しさも感じます。
バンスは地面の穴を指しました。
「ロンは、ちょっと前にここで生まれたんだと思う」
おじいさんはあごひげをなぜながら頷きました。
「実はわしは、ここで友人と待ち合わせをしておったんじゃ。古い古い友で、家族ぐるみの付き合いなんじゃが、つい百年程前にめでたく子供が出来てな」
地面のある硬い欠片を足でけっとばし、おじさんは続けます。
「可愛い卵がかえったら、美味しくて幸せになれるパンを焼いてくれと、頼まれたのじゃ」
「百年前に?」
バンスは目を丸くします。おじいさんは笑いました。
「たかが百年じゃ。まあそんなわけで、道具一式を持って約束の場所に来たわけじゃ。この赤ん坊は友人の子供だと思うんじゃが……さて、孵化まで見守っておるはずの親はおらんとすると、何かあったのかもしれん」
「百年も待ってられなくて、どっか行っちまったんじゃないのか?」
「いや、たかが百年、生まれてくる赤ん坊のこと考えているうちにさっと過ぎてしまう。何か手違いがあったのかも知れん」
おじいさんがぱちりと指を鳴らすと、大きなかまどと石のテーブルが現れました。
「とりあえずは、赤ん坊のために幸せのパンを焼くとしよう。その匂いに誘われて、母親がひょっこり戻ってくるかもしれん」
「その腕で?」
バンスが小さな声で言います。そういえばおじいさんは、手に怪我をしているのでした。
「もし良かったら、オレがパンをこねてやってもいいよ」
かわって腕まくりをするバンスに、おじいさんは驚きます。
「確かに力はありそうじゃが、できるのか?」
「これでもパン屋の弟子だったんだ」
「しかし、人間に妖精のパンが焼けるかな?」
パチリと指を鳴らすおじいさん。テーブルの上に材料が並びます。
バンスは材料を混ぜ合わせ、こね始めました。おじいさんは子ドラゴンの尻尾に座って高みの見物です。
「ほれほれ、腰が入っておらん。それになんじゃ、辛気臭い顔して。幸せのパンを焼くんじゃから、幸せを込めなさい」
ぎゅうぎゅうバシンバシンとバンスはパン種を叩きます。
バンスは小さく呟きます。子ドラゴンの為の幸せのパン。ロンの為の幸せのパン。お母さんに会えますように、ずっとずっと一緒にいられますように。
つるりと、涙がバンスの頬を流れます。子ドラゴンはその涙を舐めました。
朝日がぐんぐん空を駆け上がる頃。バンスはやっと手を休めます。後は種を寝かせて膨らませ、焼くだけです。
お腹をすかせた子ドラゴンとバンスは、すやすやと昼寝をします。
ふと、子ドラゴンが目蓋をあけると、おじいさんが小さな木の棒を振り回しているのが見えました。朝の綺麗な光が、棒の先にぶつかってキラキラと零れ落ちます。その欠片はパン種に降り注ぎ、パン種は優しく輝きました。
「これは妖精の魔法じゃ」
しぃっと、おじいさんは口に指を当てて笑います。
それからバンスが起こされました。バンスはパン種を千切って丸めていきます。どんなに千切っても、パン種は無くなりません。
「なあ、ロン。見てみろよ、お前そっくりの形にしたよ」
バンスは、ぺっちゃりと丸いパン種を指差します。
「どんな風に焼けるかな」
子ドラゴンはかまどに火を入れます。やがて、ふんわり良い香りが漂うと、動物たちが集まってきました。
「よしよしよし、そろそろいいぞ」
かまどの蓋が開かれて、出てきたのはちょっとふとっちょで可愛い、赤ちゃんドラゴンの形のパン。ふわふわでほんのり甘い、極上のパンでした。
子ドラゴンはパンを食べました。バンスもパンを食べます。動物たちにも分けてあげて、皆ほんのり幸せな気持ちになりました。けれど、ママドラゴンは現れません。
「どこか遠くにいて、匂いが届かないかもしれない」
バンスはそう慰めて、パン焼きの道具一式を持って旅に出ようと言い出しました。それで子ドラゴンは、人生三度目の旅立ちを決めたのでした。
おじいさんと別れた子ドラゴンとバンスは、立ち止まってはパンを焼き、そしてまた旅を続けます。旅人や山の魔女が、パンを求めてやってきました。
美味しい匂いが噂になって、遠くの国の王様に呼ばれることもありました。
子ドラゴンを見て初めは驚いた人間たちも、パンの美味しい匂いには勝てません。そして甘くて優しいパンを一度味わうと、皆が皆、子ドラゴンが大好きになるのでした。
けれど子ドラゴンは寂しくて仕方ありませんでした。パパママはどこにいるのでしょう? どうしたら会えるのでしょう?
そうこうしている内に一年が過ぎました。パンを売っていくばくかのお金を手に入れたバンスは、今ではすっかり身なりを整え、清潔なパン屋になりました。
ふと通りがかった町の外でパンを売っていると、大柄な男たちがやってきます。
「見習いパン職人のバンスじゃないか。こんな所で勝手にパンを売って、どういうつもりだ」
「修行が嫌で逃げ出したくせに、パン屋を名乗るとはいい度胸だ」
すごんでくる男たちに、バンスは俯きました。
男たちはバンスの持っていたパン種を奪い取ると、地面に叩きつけて踏みつけます。泥まみれになったパン種は、もう使い物になりません。次に男たちは、バンスに殴りかかります。子ドラゴンはバンスを守りたくて、ぱっくりと口を開けました。いつもかまどに吹いているように、男たちに火を吹こうと思ったのです。けれど、バンスが言います。
「よせよ、ロン。そんなことしたら、折角お前を大好きになってくれた人たちが、二度とお前と遊んでくれないぞ」
哀しい気持ちで、子ドラゴンは口を閉じました。大粒の涙を零しながら首を横にゆすぶると、涙は雨のように男たちに降り注ぎます。
「わ、なんだこりゃ! くそう、化け物め!」
男たちは涙の雨のしょっぱさがたまらなかったのか、町へ逃げ帰っていきました。
子ドラゴンとバンスは、泥だらけのパン種にがっくりと肩を落とします。パンを焼いていればいつかはママに会えると思ったのに、かすかな希望がなくなってしまったのです。
とそこに、あのおじいさんが現れました。
「よう、二人とも。バンス、お前はすっかりパンを焼くのが板についたようだな」
「肝心のパン種がなくなっちまったよ」
おじいさんは笑います。
「赤ん坊の母親が見つかったぞ。なんのことは無い、腹が減ってちょっと目を離したすきに卵が孵化したんじゃ。ほんの少しあの場で辛抱しとれば、はぐれることもなかったのに」
空から大きなドラゴンが降りてきました。長いお首に、大きな翼。
子ドラゴンはママに飛びつきます。ママは優しく、子ドラゴンの体を舐めてくれました。
「良かったな」
とバンス。
「これでお別れだ。幸せになれよ」
会いたかったママとやっと一緒にいられるのに、子ドラゴンはバンスの後姿がどんどん小さくなっていくのを見ると、哀しくなりました。ほろほろと涙を零していると、おじいさんが言います。
「炎でわしを助けてくれた礼をしてやるから、言いなさい」
子ドラゴンは頷きました。そして、人生で四度目の旅に出る決意をしたのです。
子ドラゴンはパンを焼きました。尻尾でパン種をこねて、かまどの火はふうっと吹いた炎の息です。沢山沢山練習をして一人前にパンが焼けるようになった頃には、五年の月日が流れていました。
子ドラゴンは背中にかまどと道具を背負って、旅をしました。沢山の人が子ドラゴンのパンを食べに来ます。最初は大きな体を怖がりましたが、美味しそうな甘い匂いには敵わなくて、小さなコインをもって買いにやってくるのです。
いくつの国を回ったでしょう。子ドラゴンのパン屋がすっかり有名になった頃、大きな町にやってきました。
子ドラゴンは城門の中に通されて、広場でパンを焼きます。町中がパンの匂いで満ち満ちて、皆が幸せな顔になった頃。広場の端っこに、一人だけ幸せでない人を見つけました。
ボロボロの服を着て、裸足のまま寝ている男。ヒゲがぼうぼうだけれど、それはバンスでした。病気なのでしょうか、ゴミ捨て場の脇に寝そべったまま、バンスは動きませんでした。
子ドラゴンはバンスにそっと顔を近寄せて、その頬を舐めます。バンスは少し目を開けて「久しぶりだな」と言いました。
子ドラゴンはバンスの欲しいものを聞きました。パンを焼いている時のバンスは楽しそうだったから、パン種をあげようかとききます。お金を持っている時のバンスは綺麗な格好をしていたから、稼いだお金を全部あげようかとききます。けれどバンスは、何も欲しくないと言いました。
子ドラゴンはバンスの欲しいものをあげたかったのです。おじいさんに、それを叶えてもらおうと思っていたのです。
もう一度一緒に旅をしようと言っても、バンスは首を縦に振ってはくれませんでした。そして、折角お母さんが見つかったのに離れてしまうなんて、お前はバカだと怒るのです。
怒られた子ドラゴンはしょんぼりして、町のはずれの小さな広場にやってきました。そこは小さな教会の前で、僅かばかりの水の流れる、噴水がありました。
子ドラゴンはそこに道具を広げて、パンをこね始めました。バンスに嫌われてしまったけれど、最後に幸せのパンを食べて欲しかったのです。
泣きながら、子ドラゴンはパンをこねます。バンスの為の幸せのパン。バンスが欲しい物を手に入れますように。バンスが笑ってくれますように。
一生懸命パンをこねて、かまどで焼きます。甘い香りがふわふわと漂い始めると、教会の扉がゆっくりと開き、杖を突いた男の子が近づいてきました。
「何をしてるの? いい匂い」
ふっくら丸いパンが焼きあがります。男の子はそれを頬張って、「美味しいね」と笑いました。
パンを持って、子ドラゴンはバンスの所に戻ります。そして、つっかえながら言います。バンスは最初の友達だから、一緒にいたいのだと。哀しい顔をしないで、幸せな顔になってほしくて、バンスの為のパンを焼いたのだと。
丸いパンを見て、バンスは言いました。
「オレのパンの方が見栄えがいい」
それは仕方の無いこと。子ドラゴンは尻尾でパンを丸めているのだから。
そこへ、さっきの杖をついた子がやってきました。後ろに、その子と同じ位みすぼらしい子供たちが続いています。
「さっきの美味しいパン、皆にも食べさせてあげて」
欠けた硬貨を渡されて、子ドラゴンはパンを分けてあげました。ふかふかパンをかじりながら、子供たちはこんなに美味しいパンを食べたのは初めてだと、笑うのです。
「ボク聞いたことがあるよ。ドラゴンの形のパンを焼く、ドラゴンのパン屋がいるって。二人がそうなんでしょう?」
あの可愛いパンは、バンスにしか作れません。子ドラゴンはバンスを振り返りました。
バンスは子ドラゴンのパンを、寂しそうにかじって、言いました。
「お前とパン屋をやる気は無いから、早く母さんの所に帰れ」
もう、バンスは子ドラゴンを友達だと思っていないのでしょうか。しょんぼりした子ドラゴンを置いて、バンスは去っていきました。
杖をついた子供を教会に送っていくと、神父さんが出てきました。神父さんは言います。あなたのそのお友達なら、ずっと以前にこの教会に訪ねてきたことがありますよ、と。
見習いパン職人のバンスには弟がいたそうです。バンスが町で修行をしている間に、貧しい両親はその弟を人買いに売ってしまいました。それを知ったバンスは何もかも嫌になってしまい、親方の所を飛び出しました。沢山の町をめぐり、バンスは弟を探したのだと言います。この教会にやってきたのも、弟を探してのことだったのです。
「弟さんは旅芸人に買われてこの町にやってきたらしいのですが……」
神父さんは悲しげに首を振ります。
「丁度その頃この町で大火事があって、沢山の人が死にました。弟さんもたぶん、死んでしまったのでしょう。町の孤児たちを一人づつ見て回りましたが、そのうち、何もかも諦めて、ああして小銭を拾ってはお酒を飲んで、広場で寝ているのです」
子ドラゴンは急いで、おじいさんのところへ行きました。バンスが欲しいのは、弟なのです。死んでしまった弟が、バンスの一番欲しいものなのです。
おじいさんは子ドラゴンの願いに、首を振ります。その子が死んでしまったのなら、生き返らせるのは無理です。もしもどこかで生きているとしても、バンスはもう、それを探す気持ちも消えてしまって、ゴミの横で眠る道を選んだのだから。
「よく考えてご覧。どうしてバンスは、お前をママん所に帰らせたがったんだろう? バンスの願いはなんだったんだろうなぁ?」
子ドラゴンはしょんぼりと、おじいさんの家を後にしました。
それから何百年も経ち、子ドラゴンは相変わらず子供だけれど、赤ちゃんより大きくて、ママより小さなドラゴンになりました。
子ドラゴンは人間の町を見て回るのが好きでした。だからその日も、大陸にある小さな町を訪れます。
そこはパンの香りのする町で、皆が幸せそうに笑いあい、旅人も町の人も仲良しです。
その町には一軒のパン屋がありました。
町の人が子ドラゴンに教えてくれます。
このパン屋は、何百年も前からあるパン屋なのだと。昔、貧しい家の少年がパン屋の修行に旅立ちました。大人になって立派なパン職人になると、生まれた町に戻ってきてパン屋を始めたのです。それから代々、パンの焼き方が受け継がれ、国で知らぬ者は無い素晴らしいパン屋として、色々な人が買いに来るのです。
子ドラゴンはパン屋の窓を覗き込みます。沢山の、色々な形のパン。
小さな店の真ん中に、一際目立つパンが置いてあります。ふっくら可愛い赤ちゃんドラゴンと、長い首のママドラゴンが、きゅっと抱き合うそんんな形。二つの体が丸を作って、可愛いお目目は干したサクランボです。
小さな子供が小銭を持って、ドラゴンのパンを買っていきます。店の外ではお母さんが待っていて、可愛いパンに目を輝かせる坊やの手を、優しく取りました。
見る人皆が笑顔になって、食べる人皆が幸せになる、ドラゴンのパン。赤ちゃんドラゴンとママドラゴンがしっかり抱き合っているそのパンを見て、子ドラゴンはやっと、何百年も胸につかえていたものが落っこちたのでした。
大陸のどこかの町に、ドラゴンのパンを焼くパン屋があります。来る人皆が幸せになれる、甘くて美味しいパンを焼く店です。
その店は人間ばかりでなく、時折本物のドラゴンもやってきて、一緒にパンを食べるのだそうです。
おわり
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ドラゴンの赤ちゃんがお母さんに会いたくて、旅に出るお話。