真恋姫無双 幻夢伝 第五章 1話 『桃色の嵐』
「え?今、なんて?」
少々ぶしつけに尋ねた詠に、穏は笑みを絶やさない。
汝南城の一室。曇天の空を見るだけでも寒くなりそうな冬の景色が窓から見える一方で、轟々と炎が灯る暖炉にいつもなら落ち着くのに、今の彼女の心臓の鼓動は早まっている。
穏は普段のゆっくりとした口調で、彼女に再び伝えた。
「ですから、李靖さんと孫権さまの婚儀を提案しに来たのですよぉ」
「それで、詠ちゃんはどうしたの?」
ところ変わって月の自室、月と詠はこの件について話し合っていた。彼女は憤然として答える。
「そのまま帰したわよ。あいつは寿春に巡察に行っているし」
「じゃあ、断ってはいないんだね」
「うっ。そうなんだよね。問題を先送りにしただけね」
はあ、と詠はため息をつく。そんな彼女に月は、すっかり慣れた手つきで入れたお茶を出し、朗らかに笑いかけた。
董卓軍が健全な頃には、一人で全てを背負っているというプレッシャーのために計算が狂いがちであった詠の頭脳は、アキラの元では十二分に発揮されていた。しかし時折、解決が困難な案件が生じると、こうして月に相談しに来るのだった。
そうは言っても別段、彼女に意見を求めているのではない。要は愚痴をはきに来たのだ。彼女はそれに相槌を打つだけである。ところが不思議なことに、ほんわかした笑みを浮かべる彼女に愚痴をこぼし終わると、いつも頭がすっきりとして良いアイデアが生まれるのだ。こうした彼女に頼ってくるのは詠だけでは無く、アキラたち汝南軍の武将も相談に来るのである。
しかし、この優れた能力を有している事に、月自身はまだ気付いていない。
話戻って、今日も愚痴をこぼしに来た詠は、お茶を貰って「ありがとう」と礼を言った。
「それで、どうするの?」
「それがね、どうも他の条件が分からないから」
「他の条件?」
「孫権がこっちに来るか、アキラがあっちに行くかってこと」
夫婦になるということは当然、一緒に生活することと同義である。その際、2人が汝南で生活するというなら、アキラたちに有利な同盟の形となる。しかし呉で生活するなら、みすみす君主を人質に取られた形になり、非常に不利な形となる。
「もちろん陸遜にそれを尋ねたのだけど、のらりくらりとかわされちゃったのよ」
「言えないということ?」
「そこが分からないのよね。判断のしようがないのよ」
ズズズとお茶を飲む詠に、月は不安そうに聞いてみる。
「ねえ、詠ちゃん」
「なに?」
「もしアキラさんがあっちに行っちゃったなら、私はお世話できるのかな」
小さな声で話す彼女の態度に、詠の表情がくもる。
「月。もしかして」
「ち、違うの!その、私は今の仕事が好きだから……」
「……ま、そういうことにしておくわ。楽しそうに見えるのは確かだし」
ともかく、と詠はふん切りがついたように結論を出した。
「この話をどうするかは、その条件がどうなるかということと、そもそもアキラが帰ってきてからになるわね」
「そうだね」
「それまでは月、この話は口外しないようにして「おい!詠!」
バンッと大きな音を立てて扉を開いたのは、血相を欠いた華雄だった。
「探したぞ」
「そんなに慌ててどうしたのよ」
「今、市場に行ったら」
彼女は息を継いで、一気にこう言った。
「アキラと孫権が結婚するという噂でもちきりなんだ!本当か?!」
「はあ?!」
その頃、呉では穏が、冥琳に任務達成を報告していた。
「ご苦労だった」
「はい!あっちは寒くて寒くて、大変だったんですよぉ」
「そう言うな。実際に外に出て噂をばらまいたのは、お前の部下だろうに」
この時代であっても、世間を味方に付けることは重要である。冥琳は汝南の民をお祝いムードにさせることで、この婚儀を進めやすくする狙いがあった。
「お前の欲しかった本を用意しておいたぞ。部屋にあるはずだ」
「ありがとうございますぅ!」
満面の笑みに跳ねるような足取りで穏は、部屋を出て行こうとした。だが彼女はちょっと振り返って、「あの」と冥琳に尋ねた。
「蓮華さまにはいつお伝えするのですか?」
「……はあ?」
「私、蓮華さまと一緒にお仕事しているのですけど、何にも話に上がらないので、もしかして知らないのかなぁと」
冥琳の脳裏にふざけた表情の雪蓮が浮かんだ。
(蓮華に伝えるのは自分がやると言っていたが、まさか……)
明白に険しくなった冥琳の顔つきを見て、穏は「あわわ」とつぶやいて急いで部屋を出て行く。一人になった冥琳は彼女の顔を思い浮かべながら叫んだ。
「あの、大馬鹿者め!!」
汝南を訪れた桂花が面会したのは、疲れ果てた姿の詠だった。
「大丈夫ですか?」
「気にしなくて、いいので」
そうは言っても、という顔で気を使われる詠は、実際のところ本当に疲れていた。
町に広がった噂を聞いたのは、華雄だけではない。ほどなくして凪たちも詠に詰め寄ってきた。
『隊長、結婚するんやて?!』
『こんなの、うそなの!』
『そんな……隊長が…隊長が…』
異口同音に批判された詠は、その収拾に苦労していた。特に凪は気落ちして、部屋に籠りがちになり、詠は何度も部屋を訪ねて、ことの事情を説明する必要があった。その他にも、噂を聞いた武将や有力者たちが詠の元に真相を尋ねに訪れるなどと、全く休む暇がない。
(なんでボクがこんなことを!)
と苛立つ気持ちは、日々積もっていくばかり。
彼女にとって幸いだったのは、この場に霞がいないことである。恋や音々音と一緒に盧江にいる彼女が、もしここにいたなら、もっと事態は混乱していただろう。
それでも、現在の対応に苦労していた詠は、幾度もアキラに戻って来るようにと手紙を出している。しかし一向に返事は来ない。それが余計に彼女を憤慨させていた。
それが桂花の目の前にいる彼女の現状である。そんなこと、他国の者に言えるはずもない。
「色々と、あったものですから……とにかくお気になさらず」
「はあ」
心配ではあるが、自分の仕事を果たさなければならない。桂花は持ってきた立派な箱の中から文を取り出した。
「曹操さまのお手紙です。どうぞ」
手渡された詠は、桂花に聞く。
「この手紙の内容をお聞きしてもよろしいですか?」
「いや、それが……私、知らないのです」
「えっと、では他にご用件は?」
「実はそれを渡すようにとしか言われていません。まったく、何で私が……」
ぶつくさと桂花は文句を口走る。確かに軍師の一人である彼女が、これだけの用件で来る理由はよく分からない。これでは単なる使い走りではないか。
「現在、こちらの主君は寿春に赴いております。その間、ボクがここの行政を司っています。急いで連絡いたしますが、その前にこの内容を確認しても良いですか?」
「なるほど……分かりました。構いません」
詠は早速、文を開いて読み進める。ところが、ざっと目を通したところで、彼女は思わず大きなため息をついた。
その様子に、たまらず桂花が心配する。
「あの?何か?」
「ふぅ……確認してもらってもいい?」
「は、はい」
敬語を使うことも止めて、眉間に大きな皺を作った詠に、文を手渡される。目を通す。
「えっ?えっ?」
その途端、桂花の身体がガタガタと震えだした。
「か、華琳さまが!李靖と!け、け、結婚!?!」
そう叫ぶと、桂花は椅子ごと後ろにひっくり返った。慌てて駆け寄る詠が見たのは、泡を吹いて、白目をむき、見事に気絶していた桂花の姿だった。
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新章スタートです。とんでもない幕開けになります。