No.674971

真・恋姫✝無双 ~夏氏春秋伝~ 第三十四話

ムカミさん

第三十四話の投稿です。


この話はもうちょっと後にしようと思っていたのですが…
ここで一区切り付けておかないとどうにもキャラが動かしづらくなっていることに気付き、このタイミングで入れることにしました。

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2014-03-30 23:30:45 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:9038   閲覧ユーザー数:6339

 

躊躇、困惑、そして懊悩。

 

およそ春蘭に似合わぬ言葉の筆頭郡である。

 

ところが、これらはこの日の春蘭をまさにそのまま表した言葉でもあった。

 

お互い忙しかったこともあり、久方ぶりに真正面から向かい合ったというのに、まともな話題一つ出すことも出来なかった。

 

「はぁ…」

 

思わずといった様子の溜息が漏れる。

 

既に寝静まったのか、隣の秋蘭の部屋からは物音は聞こえてこない。

 

窓の外にはいつの間にやら煌々と輝く月。

 

そんな美しい月に照らし出された春蘭の顔は、しかしまるで浮いていなかった。

 

いっそ秋蘭に相談するべきか、とも考えた。が、以前に同様のことで相談に乗ってもらい、答えまで貰っているのだ。

 

基本的にその時と悩みの内容自体は変わっていない。

 

当時は秋蘭の回答の本当の意味を理解していなかったものの、今の春蘭には本当の意味が理解出来ている。

 

そして、理解出来たからこそ何も行動することが出来ないのでもあった。

 

「『今まで通り』に接したい……そんな簡単なことが何故こんなにも難しいんだ…」

 

春蘭が悩んでいるこの『今まで通り』という言葉、実は相当にタチが悪い言葉である。

 

この類の悩みを持つ者は、そもそもがその『今まで』の中に捨て置けない何かがあることによってその状態から離れている。

 

ところが、その何かを取り除くのでなく、無視することで通そうとする考えがこの『今まで通り』。

 

悩む程までになってしまったものを今更無視することが出来るくらいであれば、初めからそのような悩みを持つことは無いだろう。

 

むしろ、考えまいとすれば余計に考えてしまうのだ。

 

つまりこの言葉はただのその場凌ぎの言い聞かせに過ぎないにも関わらず、考えれば考えるほどに『今まで』に戻れなくなってしまう悪魔の言葉。

 

華琳や秋蘭のような自制心が殊更に強い者達で無ければほとんど意味を為さないだろう。

 

「いや、やはり無理だ…ならばいっそ…!」

 

もっとも、春蘭はそのようなややこしい思考など行っていない。

 

ただ直感的に、本能に忠実に、そしてそれが春蘭にとって正解であることがこれまでの春蘭の人生である。

 

そして今回、その本能が示した答えは…

 

「……よ、よし!明日だ。明日に言ってしまおう…」

 

『今まで』の関係を捨て、『これから』の関係に賭ける、というものだった。

 

方針が決まると、途端に春蘭は糸が切れたかのようにすぐさま寝息をたて始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほぼ同時刻、陳留の側の森、その中程に口を開ける空間に一刀の姿があった。

 

その前には黒い影が数十。

 

皆が皆気配が薄く、そうと知っていなければまるで幽霊の集会でも開かれているかと見紛う程である。

 

そして今、この集団をえも言われぬ雰囲気が包んでいた。

 

「朝、来れなかった者はいるか?」

 

唐突に一刀が切り出す。

 

しかし、誰も驚いた様子が無い。最早慣れたもの、ここでは意識的に口数を少なくしているが故にこんなことは日常茶飯事なのであった。

 

返答も普段から身振りで済ませ、わざわざ口から音を発することも無い。

 

誰一人挙手する者がいないことを確認した上で一刀は本題だ、とばかりに真面目な雰囲気を作って告げた。

 

「例の部隊、こちらとは違い全力で生き残りにかかる。幾人か想像がついている者もいるだろう、構成員は主に月、元董卓軍だ」

 

通常であればここで抑えきれない動揺が沸き起こるのだろう。

 

だが流石は魏が密やかに誇る諜報部隊、想像の及んでいなかった者が多少身動ぎした程度で実に静かなものである。

 

「しかし、これまで根気強く付き合ってきてくれたお前達には選択肢を示したい。皆、今選べ。

 

 この部隊に残る”礎たる死”か、部隊を移る”価値ある生”か。

 

 勿論、部隊を移ったとて決して責めるようなことはしない。むしろ通常の判断力を持ち合わせていればそちらを選ぶだろうさ」

 

ひと呼吸置き、一刀は全体を見回す。そして決断を迫った。

 

「守秘義務以外は一切制約は設けない。移りたい者は言ってくれ」

 

いくら精鋭として鍛えられた黒衣隊にいるとは言っても所詮は人の子。死に恐怖を抱いていることは変わらない。

 

入隊当初こそ隊に殉ずる気概があれども、やがて死の恐怖に圧倒されてしまった者もいるものだと考えていた。

 

ところが、いざ一刀にこう問われても進み出てくる者はいない。

 

予想外の出来事に一刀は僅かに困惑してしまう。

 

そこに黒衣隊最古参の一人が声を上げた。

 

「隊長は我々を見縊っておられませんか?」

 

「…どういうことだ?」

 

勿論そんなことは考えてなどいない。が、一刀の何かしらからそう感じたからこその発言だろう。

 

ここで安易な否定はよろしくない。

 

隊員は一歩前へ出ると真っ直ぐに一刀を見据えて話す。

 

「我々とて腐っても黒衣隊、夏候のため、魏のために我等が命を礎とする覚悟はとうに出来ています」

 

「それは勿論分かっているさ。だが、この部隊はどこよりも死からの距離が近いこと、理解しているだろう?」

 

「元より我等は兵士。どの部隊であろうと死ぬ時は死ぬ者です。

 

 なればこそ、死に場所は自ら選びましょう!」

 

「……黄巾の折の強襲は皆覚えているな?今後はあれ以上の厳しい条件下での奇襲をかけることもあるだろう。

 

 しかも、だ。もし失敗でもしようものなら、最悪魏とは無関係に扱い、骨も拾えぬやもしれんぞ」

 

「それもまた兵士の宿命。甘んじて受け入れましょう」

 

事実とは言え、明確な一刀の脅しにも全く怯まない。最古参であるが故の落ち着きなのだろうか。

 

だが、これは一刀にとっては嬉しい誤算であった。

 

実を言えば一刀は今日、黒衣隊は10人からいなくなるものと想定していたのだ。

 

ところが蓋を開けてみれば離隊者はなんと0。

 

元々この部隊に合うような資質を持つものだけを集めているとはいえ、これほど完璧に馴染むとは思っていなかった。

 

それだけに完全にといっていいほど、この事態は想定外であった。

 

何もいうことが出来ずに一刀が固まっていると別の隊士から声が上がる。

 

「隊長、貴方は自らを死地に追い込んだ癖に我々には逃げろと仰るのですか?そんな意見、クソくらえです!

 

 礎たる死?上等です!我々は夏侯家に大恩があります。この命を賭けることでそれに報いることが出来るのであれば、それこそ万々歳というもの。

 

 その覚悟無きまま続けていられる程、貴方が率いるこの隊は甘くはありませんでしょう?」

 

雷に打たれたような衝撃が走る。

 

はっきり言ってしまうと、一刀は今まで黒衣隊を率いていながらも、独善的な考えを押し付けているだけなのでは無いか、と幾度も考えていた。

 

だが今、決して独善的なものとは言い切れないのだと保証された。

 

ほとんど一刀が私的に作り上げたような隊であっても尚、一刀に従ってくれるというのだ。

 

思わず目頭が熱くなる。が、グッと堪えると、一堂を見回してから宣言した。

 

「お前達の覚悟、嬉しく思う。ならば、これからもまた、数多の任務を振っていくだろう。

 

 重ねて言うが、我が隊は望んで覇道の礎となる。当然、死に最も近い。

 

 だからこそ…死してなお、勝利の栄冠に輝かんことを!」

 

キュッと空気が引き締まる。

 

皆、覚悟を新たに新国家『魏』に身を捧げることを心に誓った。

 

 

 

程なく一団は解散、森は再び静寂に包まれる。

 

そこに数十からなる集団がいたとは到底信じられないほどの空間。

 

一部下草が倒れている以外の変化などありはしなかった。

 

その痕跡も1刻の後、そこを通る1人の人物によってかき消されてしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。

 

太陽が東に顔を出してから1刻足らず。

 

そんな時間にも関わらず、調練場では一刀が瞑想をしている。

 

既に指定席となっている膝の上にはセキトがじっと丸くなっていた。

 

鳥たちもまた起き始め、チチチと囀る。

 

更に耳を澄ませば風にそよぐ葉擦れの音まで聞こえてくる。

 

そんな穏やかな静寂に包まれた調練場に砂利を踏みしめる音が響く。

 

セキトが音に反応して耳を立てる一方で一刀は身動ぎ一つせず瞑想の姿勢を崩さない。

 

調練場に入ってきた者は一刀に声を掛けようとするも、その様子を見ると黙ったまま歩みを進める。

 

彼我の距離が2mを切った頃、一刀が目を閉じたまま突然声を発した。

 

「春蘭か。どうかしたのか?」

 

「っ!分かっていたのか、一刀」

 

「まあね。春蘭の気配は分かりやすいから」

 

ゆっくりと瞼を上げた一刀は、今日の鍛錬は終わりだとばかりに腰を上げる。

 

寸前に飛び降りたセキトは鼻をピスピス鳴らしながら2人を見上げていた。

 

セキトの頭を軽く撫でてやってから一刀は春蘭と向き合う。

 

「春蘭も鍛錬?」

 

「いや、違うぞ。実はだな…今日は一刀に言いたいことがあってここに来たんだ」

 

「言いたいこと?」

 

「ああ」

 

そう言った後、少し黙り込み俯いてしまう。

 

だがそれも僅かな時間、直に覚悟を決めたようにバッと顔を上げ、勢いに任せて声を出した。

 

「一刀!わ、私は…私はお前が好きだ!」

 

「うん。もちろん、俺も春蘭のことは好きだよ?でも、何でいきなり…」

 

「ち、違うぞ、一刀!お前は勘違いしている!」

 

「え?……あ~、もしかして、あっちの意味なのかな?」

 

伝わるかどうか、疑問に思うも表現を濁してしまう。

 

果たしてそれは伝わり、春蘭は一つ頷くと顔を赤らめて俯いてしまった。

 

「そっか…」

 

一言だけ発し、一刀もまた黙り込む。

 

どう返したものか、悩んでしまう。

 

思考の海に落ち、目線が自然と下がる。

 

ふと視界にセキトが入った。

 

セキトは重くなった空気に不安を感じたのか、細い声を漏らしている。

 

その様子はセキトよりも大きいだろう、春蘭の不安を推し量るに十分であった。

 

(そうか…考えるためとは言え、黙ってしまえばそれはただ不安を増長させる効果しかないよな…よし!)

 

ならば、と一刀は話しながら考える方向にシフトし、落ちた視線を再び春蘭に向け直す。

 

春蘭は依然として俯き気味ではあったが、その目はチラチラと一刀を伺っていた。

 

そして一刀が視線を上げたことを察すると、春蘭もまたおずおずとながら視線を上げる。

 

一呼吸おいて心を落ち着かせてから一刀は答えを紡ぎ出した。

 

「春蘭、君が好意を寄せてくれていることは素直に嬉しいよ。俺も…俺も春蘭のことが好きだから…」

 

「っ!な、ならば!」

 

「だけど。だからこそ余計に、春蘭の告白を受け入れることは出来ない」

 

華やぎかけた春蘭の表情が急速に萎んでしまう。

 

いつも快活な春蘭。そんな彼女が好きである一刀には、その表情は思わず目を背けてしまいたくなるものだった。

 

だが、こうなってしまうだろうことは答える前に十分予想できた。

 

自身が意志を持って引き起こした事態から目を背けるようなことなどあってはならない。

 

グッと堪えて一刀はさらに言葉を紡ぐ。

 

「春蘭、俺には”天の御遣い”のことのように、まだまだ春蘭に内緒にしていることがたくさんある。それこそ数えきれないくらいに。

 

 そして…その中にはいつ死んでもおかしく無いものもあるんだ」

 

もちろん一刀自身そう簡単に死ぬつもりなど無い。が、死とはいつの世も理不尽なもの、一瞬の不注意から英傑があっさりと命を落とすこともザラなのだ。

 

加えて、一刀はこう考えている。

 

自分の手は血に塗れ、体は怨念に塗れている、と。

 

それは一種現代的な考えであってこの時代にマッチしたものではないのであろうが、一刀はその現代で長年自分を培ってきた。

 

深く根ざした倫理観はちょっとやそっとで覆るようなものではない。

 

言ってしまえば、今一刀がこうして普通でいるように見えるのは、偏に恩返しの為、と自身に言い聞かせ続けているからであった。

 

そうでもしなければ、初めて賊を斬ったあの日、罪悪感に押しつぶされてしまっていたかもしれない。

 

そして、その一刀の心深くに根ざした倫理観は未だに覆ってはいない。

 

そのため、今の一刀は誰を受け入れることも出来ない、と考えていたのである。

 

「だが…だが!私も将だぞ?いつ死ぬか分からないのは私も同じだ!それでも、なのか…?」

 

見るからに落ち込む春蘭。

 

チクチクと一刀の罪悪感が刺激される。やはりと言うべきか、少なからず一刀の心は揺れてしまう。

 

しかし、既に決めたこと、一刀は心の揺れを悟られないように気を張って最終的な答えを出す。

 

「今の俺には例え春蘭であっても受け入れることは出来ない。

 

 けれども、俺が春蘭を好きであることもまた、事実だ。だから…」

 

言葉を切り、一歩踏み込む。

 

流れが読めず頭上に疑問符を浮かべる春蘭であったが、直後、硬直してしまう。

 

「これが、今の俺に出来る精一杯だ。これで、勘弁してくれ」

 

一刀は想いを込めてギュッと春蘭を抱きしめる。

 

不器用で、しかし真剣な一刀の想い。

 

それが伝わったのか、徐々に春蘭が再起を果たし、その手が緩々と一刀の背に回る。

 

春蘭は一刀の胸に額を預けると、目を瞑ってしまった。

 

場を包むのは鳥の声に風の音。

 

そのまま何分経ったのか、しばらくするとどちらからともなく離れて向き合う。

 

「……ごめんな、春蘭」

 

短く謝り、調練場を後にしようとする一刀。

 

春蘭は思わずその背を止めてしまう。

 

「一刀!…お前は、私を嫌っているわけでは無いんだよな?」

 

「ああ」

 

「そうか…すまないな、それだけだ」

 

「…うん」

 

再び歩き出す一刀。セキトもまたその後を追っていく。

 

すぐに2つの影は調練場から姿を消した。

 

「……私は、そう簡単には諦めないからな…」

 

ボソリと呟く春蘭。

 

それは自身への決意表明でもあるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……一刀、辛い?」

 

「…恋、か」

 

調練場の出口、そのすぐ側に恋がいた。

 

出てきた一刀の横に並ぶと、その顔を見るやの突然の問い。

 

春蘭との会話が聞こえていたとは思えない。

 

となれば、やはり表情を読まれたのだろう。

 

「そんなことは……いや、恋には隠せないよなぁ。うん、正直に言えば、今ちょっと辛いよ」

 

初めは誤魔化そうとするも、ジッと見つめてくる恋の瞳からは逃れられないと悟る。

 

「……一刀は、それでいいの?」

 

「…こればっかりは、俺自身の心の問題なんだ。気遣ってくれるのは嬉しいけど、さ」

 

「……ん」

 

元々口数の多くない恋のこと、それ以上の詮索をしてこないのは一刀にとってありがたいことだった。

 

「そう言えば、今日は早いね、恋」

 

「?……もうお日様、出てる」

 

「あ、ああ、そうだな」

 

一応話題を変えようとちょっとした質問を投げた一刀だったが、中々ワイルドな返答に驚いた。

 

その返答はまるで太陽さえ出ていれば起きるのは当然、とでも言っているようであったのだから。

 

「……どこ行くの?」

 

不意に恋が問いかけてくる。

 

それを受けて少々考え込むと、一刀は恋に答えた。

 

「朝の仕事、って言いたいところだけど、恋、お腹空いただろ?

 

 この時間なら流琉ももう起きているだろうし、おいしい朝餉でも食べに行こう」

 

「ん!」

 

タイムラグ無し。しかも元気も良し。

 

特定の、といっても主に食事関係となるが、そんな状況下でのみ見られる恋の超速反応。

 

お手軽に見ようと思えば、空腹の恋に流琉の名前を出してやれば良い。

 

それ程までに恋は流琉の料理を気に入っているのだ。

 

待ちきれないとでも言うかのように、恋が先導する形で一刀達2人は食堂を目指し歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、兄様!おはようございます!恋さんも!」

 

「おはよう、流琉。朝御飯作ってもらえるかな?」

 

「はい!少し待っててくださいね」

 

顔を輝かせて厨房へと向かう流琉の背を眺めていると思わず微笑が漏れる。

 

隣では恋が餌を待つ飼い犬のようにきちんと座っていた。

 

どうでも良い情報だが、この時だけ恋は非常に姿勢が良い。

 

待つことおよそ10分、両手に皿を持って流琉が戻ってくる。

 

「お待たせしました!」

 

「いやいや、それ程待ってないから大丈夫だよ。な、恋?」

 

「はぐはぐはぐはぐ!」

 

「……な?」

 

「あはは、そうみたいですね」

 

既に先程の良い姿勢はどこへやら、皿が机に着地するやいなや間髪入れずに食べ始める恋。

 

一刀もまたいつものこと、と流している。

 

「さて、それじゃ。いただきます」

 

手を合わせて食前句を述べ、食べ始めようとする一刀におずおずと流琉が声を掛けた。

 

「あの、兄様。実は一昨日兄様が仰っていたものなんですが、恐らく仕上がったと思うんですけど…」

 

「お、それはいいことを聞いた!」

 

「で、ですけど、あの、本当にあれでいいんですか?」

 

「ん?何で?」

 

「え、えっと…」

 

言いにくいことなのか、流琉が言い淀む。

 

しかし、一刀は構わず”それ”を仕込んでおいた場所へと向かっていく。

 

やはり流琉も気になるのだろう、一刀の後について来た。

 

厨房と食料庫の間、そこに設置された樽の蓋を開く。

 

ふわっと…いや、人によってはむわっと、と表現したくなる、あの独特の匂いが解放される。

 

「おぉ~、これだよ、これ!」

 

「ほ、本当に出来てたんですね…」

 

流琉は笑みを浮かべているが、明らかに引き攣っていた。

 

一刀は樽に手を伸ばし、中に入っている藁の束を取り出す。

 

「よし、早速食べるか」

 

「え、えぇっ!?」

 

一刀の言葉に大袈裟に驚く流琉。

 

何故どうも驚くのか、と思うも、一刀はすぐにあることを思い出した。

 

「あ、そっか。やっぱり流琉もこの匂いはダメ?」

 

「え、えっと…に、兄様には申し訳無いですけど、その、腐っているんじゃないかと…」

 

やっぱりか、と苦笑する一刀。

 

取り敢えず準備を進めつつ、流琉に説明することにした。

 

「これはね、俺の元いた国の朝食定番メニューの一つに挙げられることもあるものなんだ。

 

 一応分類としては豆板醤とかと同じ、発酵食品の一つだね」

 

「そ、そうなんですか?でも、それにしては臭いがきつくありませんか?」

 

「ん~、そうだね。俺の国でも苦手な人はいたよ。

 

 でも、確かに匂いは凄いけど、慣れたら本当に美味しいものでもあるよ。実際、俺は大好きだしね。

 

 あ、醤油ないんだよな…豆醤で代用するか」

 

「…………」

 

匂いが苦手と言いつつも、料理人としてはやはり未知なる食品に興味があるのか、ジッと一刀の手元を見つめ続ける流琉。

 

恋もまた興味深そうに一刀の様子を見ていた。口を動かしながら。

 

ゴクンと喉を鳴らして口内の食べ物を飲み込むと恋が問う。

 

「……一刀、それ何?」

 

「これは『納豆』っていって、俺がいた国の食べ物だよ。恋も食べてみるか?」

 

「…ん」

 

さすが食に貪欲な恋、その匂いに僅かな躊躇を見せるも、直後には首を縦に振っていた。

 

「流琉もどう?」

 

「い、いえ!私はいいです!」

 

流れで流琉にも振るが、やはり匂いがネック、興味は持っても食べるには抵抗があるようだ。

 

一先ずもうひと束納豆を取ってきた一刀は、藁から器に納豆を移して恋に渡す。

 

「はい、恋。あ、ちょっと待って。まずはこう、混ぜるんだ」

 

いきなり食べようとする恋を制し、一刀は実演を兼ねて自身の納豆を混ぜる。

 

恋も素直に従い、一刀と同じように混ぜ始め、すぐに糸を引く納豆に興味深そうにする。

 

「そうそう。で、その糸が十分出たかな、って頃にこの醤をちょっと垂らして。

 

 で、最後にちょっと混ぜて、これで良し」

 

「ん…………」

 

「れ、恋さん?」

 

一刀の許可を得てパクッと納豆を頬張ると、恋は沈黙のまま咀嚼する。

 

その無言に何を思うか、流琉が心配そうに声を掛ける。

 

そのまま更に無言が続くかと思いきや、ぼそりと恋が呟いた。

 

「……これ、美味しい」

 

「えっ!?ほ、本当ですか!?」

 

「……ん。今まで食べたことない。でも、美味しい」

 

「だろ?」

 

ニヤリと笑みを浮かべる一刀。

 

一刀は一刀で器によそった白米に納豆をかけて掻っ込んでいた。

 

恋は目ざとくそれを見つけ、問い詰め、同様に納豆ご飯を作成して掻っ込む。

 

2人が余りにも美味しそうに食べる様子に、流琉の喉もゴクリと鳴ってしまう。

 

その瞬間、一刀の目がキラリと光った…ように流琉には感じられた。

 

「どうだ、流琉?やっぱり食べてみないか?」

 

「え、えっと…」

 

「……なっとう、美味しい」

 

「料理人たる者、新しい料理は是非とも食してみたいだろう?」

 

「うぅぅ……は、はい」

 

「よっしゃ!では早速もう1セット作成開始~」

 

もうどうにでもなれ!

 

この時ばかりはそんな心境だった、と後に流琉は語る。

 

 

 

数分後、騒ぎを聞きつけて現れた華琳が何やらハイテンションな3人に新たな食を極端に勧められたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう言えば、まだ言ってなかったかな。流琉、親衛隊長就任おめでとう」

 

「あ、ありがとうございます、兄様」

 

食後の穏やかなひと時、ふと思い出した一刀が流琉に祝辞を述べる。

 

師事する人物からの祝いの言葉に流琉は照れた。

 

一刀が今言った通り、先日の軍議にて華琳の親衛隊に大きな人事異動があった。

 

それが、季衣と流琉の親衛隊長就任、である。

 

始めこそ2人の年齢を理由に反対意見が出るかと思われた。

 

が、この人事に真っ先に賛同したのが一刀である。

 

そして示し合わせたかのように春蘭と菖蒲も賛同。

 

それは魏トップクラスの将3名がその実力にお墨付きを与えたということ。

 

これに異を唱えることが出来るのは現状華琳くらいであろうが、その華琳は非常に満足気な様子。

 

となれば障害は最早無いも同然。

 

その後はトントン拍子に話が進み、極短時間で2人の異動が決定したのであった。

 

「これからは今まで以上に大変だろうが、しっかり頑張れよ。流琉なら絶対に出来るからな」

 

「はいっ!」

 

激励を素直に受け止め、満面の笑みを浮かべる流琉。

 

妹のいない一刀ではあるが、実際にこんな妹がいればシスコンになってもおかしくは無いな、と内心で思っていた。

 

「さて…それじゃ、そろそろ行こうか、恋」

 

「……ん」

 

恋に声を掛けて一刀は腰を上げる。

 

ふと気になった流琉はその予定を尋ねていた。

 

「今日はどちらへ行かれるんですか、兄様?」

 

「ああ、新たな仲間に徹底教育を施しに行くんだよ。恋と霞、そして俺とでね」

 

「あの、でしたら…」

 

「ん?あぁ、いいよ。まずはあっちに集中するけど、手が空き次第稽古を付けてあげよう。何なら季衣も連れておいで」

 

「は、はい!ありがとうございます、兄様!」

 

「可愛い弟子の為なら何のその、ってね。それじゃ、行ってくる」

 

「か、可愛い……はっ!あ、はい!後で季衣を連れて伺います!」

 

流琉との会話を終えると、恋と連れ立って食堂を後にした。

 

特にこれといった会話は無い。

 

新たに増えることとなった弟子の訓練メニューを脳内で構成しつつ、一刀は次なる目的地へと歩を進めていくのであった。

 


 
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