今は何時頃だろうか。先ほどまで…………あの奇妙な図書館に迷い込むまで、朝だった事は間違いが無い。
では、果たしてあの場所でどれほどの時を過ごしたのだろうか。結構な時間、話をしていたような気もするが、そうでも無い様な気がする。時間の感覚が酷く曖昧で、しかし身体は世界の感覚に同調している。とても気持ちが悪かった。
リコは、先ほどまで扉があったはずの場所に背を預けて、ゆっくりと腰を降ろした。いや。ずり落ろしていった、という方が表現としては正確かもしれない。少なくとも、意識的に腰を降ろそうとはしていなかったから。
身体が脱力しているを自覚する。
気分が悪いのは、時間間隔の喪失だけが原因では無いだろう。
先ほどまでは、妙に冷静な気分だった。しかし、現実に引き戻されて、別の意味で冷静になってきた。詰まり、事の重大さが心に染み渡ってきた。
鏡を見れば、蒼白になった自分の顔が拝めるかもしれない。手近に鏡が無いのが非常に残念だ…………と、冗談めかして心を誤魔化す。
「ああ…………最悪ね」
右手に持った本が、ずっしりと存在感を主張してくる。
これは現実の証明であった。
現実的では無い現実の証明だった。
先ほどの出来事が夢では無いという証明。
ネクロノミコンという少女が実在する事の証明。
そして…………リコが近日中に死亡するかもしれないという証明。
気分が悪くて吐きそうだった。
せめてもの救いは、この吐き気では決して死なないだろうという事だった。
その考えに自嘲して、リコは立ち上がると、足元がおぼつかない中、廊下を歩き始めた。
濃密な空気の塊が行く手を遮っている。海の中で、四肢を捕らわれながら進んでいるようだった。呼吸が出来る事は、この際どれほどの意味があるだろうか。
「ほんと…………最悪」
抱えた本が、僅かに震えた気がした。
乾いた破裂音。リボン。紙吹雪。
そして、唖然とするビーチェ。
そのショックと、身体に纏わり付いたゴミを吹き飛ばさん勢いで、
「な、なななななななな何するのよ、使用人の分際で!」
と、ビーチェは叫んだ。
その小さな少女の頭を、久遠は「てい」、と叩いた。正確にはチョップだったが、この際そんな事はどうでも良いのだ。
「う…………うぅ」
頭を抱えてプルプルとするビーチェの姿は、非常に保護欲を訴えかける。生まれたての子犬は、ちょうどこんな感じだろう。
「申し訳ございません。ですが、これは罰でございます」
「ば、罰? 使用人に使用人って言って、何が悪いのよ!」
顔を上げて、懸命に食いついてくるビーチェ。負けん気が強いらしい。
「その事ではありません。立ち入り禁止区域に侵入した事を申しております」
「で、でも、さっき、母さまには言わないって…………」
ふるふると弱々しい声を発して、眼の端に涙を浮かべている。
久遠は先ほど同様、その肩に触れて、優しく告げた。
「確かに申しました。ですが、許したとは申しておりません」
同時に、軽くデコピンを放つ。
「くぅぅぅぅぅ…………」
今度は額を押さえてうずくまるビーチェ。
「罰は2倍にして返すのでございます。由緒正しき、花刻の家訓です。エリーお嬢様もこうして躾いたしました」
ひとしきり悶えた後、ビーチェは顔を上げた。額は少し赤くなっていた。
「エリーお嬢様…………? エリーザお姉様の事なの?」
「作用でございます」
久遠はゆっくりと頷いた。自らが使えるお嬢様を誇るかのように。
「お屋敷のメイド長であると共に、エリーお嬢様のお世話もさせていただいております」
「ふーん…………」
何かを考えるように、足元の芝生をガシガシと削るビーチェ。その動きにあわせて、ワンピースが僅かに揺れる。
良く視れば、手首にはストラップが巻かれていた。何故そんな所に巻いているのかは分からないが。
デフォルメされた熊のストラップは、材質的にヌイグルミと同じ様なものらしい。ふわふわとした毛糸が付いた布地で作られている。
ビーチェの動きに合わせて、そのストラップもまた、揺れている。
やがて、ビーチェは言った。
「…………会おうかな」
「は?」
突然、ビーチェの口から出た言葉に、一瞬意味を掴みかねた。
「エリーザお姉さまに会ってみたい」
「はあ……………………」
意外な言葉に、久遠は少し驚いた。
エリーとビーチェの2人は従兄妹であるのだが、ここ数年会っては居ない。いや、もしかしたら1度会ったきりかもしれない。単純にエリーとビーチェの両親で、数年間日程があわなかったからであろうが、その数年間は子供にとってとても大きい。少なくとも、以前会った記憶が限りなく薄れてしまう程には。そんなビーチェであるから、エリーに会いたいと思う気持ちはおかしく無い。
故に、久遠が驚いたのはもっと別の理由にあった。
眼の前の少女が、積極的に誰かと関係を持ちたいと思う様には見えなかったからだ。
だが、それは、
(詰まる所、私がビーチェ様とエリーお嬢様を重ね合わせているから)
そういう考えが出てしまったのだろう。
やはり、どれだけ雰囲気が似ていようと、2人は全くの別人であるという事だ。当然の事だが。
「で? 良いの? 良くないの?」
ハッキリしろ、と急かした。こういう所はとても良く似ているのだが。
「ビーチェ様が会いたいと仰られるのなら、私が反対するわけには参りません…………と、申し上げたい所ですが」
「?」
「本日、エリーお嬢様はご友人と過ごされる予定でございます。故に、本日お会いする事は難しいかと」
「なによ、それ」
頭を下げ久遠に、ややトゲのある声が飛んでくる。
「時間くらい、いくらでも作れるでしょ? ちょっと会うだけよ。それでも駄目なの?」
「ええ。申し訳ございません。…………率直に申し上げますと、ご友人との時間を潰してまでビーチェ様と会うというお時間が、果たしてお嬢様にとって有益であるかどうか危惧しております」
久遠の言葉は、子供に投げるにしてはやや重たいボールだった。
「…………それって、私よりエリーザお姉さまの方が大事ってこと?」
だが、ビーチェは冷静にそのボールを投げ返してきた。そのボールの重さは、きっと同等だ。
そして、ビーチェの聡明さに、エリーと似た部分を再度発見して、久遠は微笑んだ。
「左様でございます」
「ふーん…………。そうなんだ」
ぷいっ、とそっぽを向くビーチェ。機嫌を損ねただろうか、と心配する事はしない。もとより、それを覚悟で拒否したのだから。
だが、予想に反してそうでも無かったようだ。
クルリと振り返ったビーチェの顔は、少し笑っていたから。
「じゃあ、明日は?」
「明日…………でございますか?」
その反応に、やはり少し驚いた。なんというか、やや掴み所が無い。こういう場合、もっと怒りを向けられて然るべきでは無いだろか。久遠が考えているより、もっと我慢強い性格なのかもしれない。
久遠は、エリーの明日の予定を考える。エリーの予定は、もちろん基本的にエリーが立てるが、久遠は何故かその全てを把握している。何故か。
「そうですね、明日は学校から帰宅してからの時間が空いております。私が取りついでおきましょう」
「ほんとう?」
きょろ、と首を傾げて聞いてくる。
「もちろんでございます」
一礼して、そう答える。嘘を付く理由など無いし、そもそもビーチェに対して不利益を産む嘘など付かないだろう。そう、久遠は会って間もないこの少女を、とても好きになっていた。主従の関係以前に、もっと先に立つ感情。それが久遠の中に芽生えていた。
「じゃあ、今日は帰る」
「では、送りましょう」
「うん」
歩き出したビーチェの傍らに、そっと寄り添う。
すると、ビーチェが久遠の手を握ってきた。優しく握り返して、歩調を揃える。
握られた手が柔らかくて、久遠はなんだか落ち着かない気分になってきた。
「つかぬ事をお聞きしますが、学校はどうされたのですか?」
ビーチェの年齢は正確に把握していないが、しかし義務教育は脱してはいまい。義務教育で無いからと言って学校をサボる事が正当化されるわけでは無いが、どちらにしても、明日もここに残るという事は学校へ行かないという事に等しい。
「………………」
久遠の言葉に、ビーチェは黙り込んでしまった。
失態を犯した事に、久遠は気がついた。
(私とした事が…………)
そもそも、他人の事情に深く入り込むべきでは無いのだ。向こう側から心の扉を開けて迎え入れてくれるなら別だが、こじ開けて覗き込もうとするのは失礼も甚だしい。
「…………父様と母様が悪いのよ」
握る手に、力が入った。
「あの人達、嘘をつくから嫌い」
静かに、そして吐き出すように言って、視線は下に向けられた。静かな声の中に込められた激情に、久遠は眼を細めた。
両親をあの人達呼ばわりするとは、一体どの様な精神がそうさせるのだろうか。
「でも、久遠は好き」
「は…………?」
「嘘をつきそうに無いから」
「…………私も買い被られたものでございますね」
確かに、先ほど『ビーチェに対して嘘は付かないだろう』とは考えたが、それが絶対的なものになるとは限らない。何処かで嘘を付いてしまうに違いないからだ。人間なら誰しも、日常のいくらかの部分で真実とは微妙に異なる事を咄嗟に口走ってしまう。誰もが絶対的な誠実という立場でいられるはずが無いのだ。
もちろん、ビーチェの指す『嘘』というのが、そうした広義的意味を内包するとは限らないだろうが。だが、それでも『嘘をつきそうにない』というのは明らかに買い被りである。
「それでもいいの」
ビーチェは久遠の手をさらに強く握り、微笑んだ。
「だって、さっき怒ってくれたんだもの」
久遠は理解した。
この少女は、愛情に飢えているのだ、と。
リコは、ゆっくりと花刻家の廊下を歩いていた。
未だ、一歩一歩、足取りが重い。
気分は悪い。
潤んだ瞳で視界が歪む。
とても孤独に思えた。世界で一人、あの異常な世界に取り残されたのでは、と不安になった。
その想いが足を重くし、不安な気分を悪くし、さらに孤独感を助長する。どうしようもない悪循環がここにあった。
誰か助けて、とリコは考える。
同時に、誰にも分かるはずのない問題だ、と切り捨てる考えも存在する。
だけど、出来るなら希望に向かいたい。
この不安を払拭してくれるなら、希望に縋りたいに決まっている。
「…………助けて」
だから、呟いた。助けて欲しいから呟いた。大声で叫ぶ気力は無かった。しかし、助けて欲しかった。だけど、誰かに助けてもらう事で、その誰かがこの事態に巻き込まれてしまう事はとても怖かった。
だが、リコはさらに呟いた。
愚劣だ。
しかし、不安なのだ。怖いのだ。呟く事でそれが払拭されるはずは無いが、しかしそうしないと不安で押しつぶされそうだ。
何時しか、リコの足は止まっていた。
視線は下を向き、頬には涙が伝っていた。
なんだか、もう押しつぶされそうだった。
だが。
「リコ」
何時の間にそこに立っていたのだろう。
ヤカが、優しく抱きしめてきた。リコは、驚きで声も無かった。
「何で泣いてるのか知らないけどさ」
リコは、その肩に体重を預けた。
「私が居れば大丈夫だよぅ?」
涙が、自然と引いて来るのが分かった。ヤカの服を、力強く握り締めた。不安が、少し無くなった気がした。ヤカの腕の中で、何度も頷いた。
………………この時、ヤカに頼ろうとしたその心を、リコは後悔する事になる。
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リコは自分の身にふりかかるかもしれない出来事に、心を打ちのめされる。そんなリコの前に、ヤカが現れる。
一方、久遠とビーチェは心の交流を図っていた。