「ん・・・ぁ・・・」
重たいまぶたを咲蘭はゆっくりと開ける。
瞳へと入ってくる光の眩しさに再びまぶたが閉じそうになるが、それをぐっと我慢する。
右目だけ辛うじてあけることができたが、左目だけがまだあきにくい。
仕方なく右目だけで辺りを見回すと、そこは真っ白な一室だった。
(まだあの場所にいるの?)
開きにくかった左目をゆっくりと開けつつ自分の両目で辺りを見回すと、自分は清潔そうなベットの上で寝かされていて、ベットの横の棚にはドラマなんかでよく見るフルーツの盛り合わせがカゴに盛られている。
「病院・・・」
自分の置かれている状況をいまいち理解できない。
なぜ自分はここにいるのか。
あの白い部屋は何だったんだろう・・・夢?
などと考えた瞬間、夢の内容が一気に頭の中へ入ってくるような感覚に襲われた。
その衝撃に一瞬だけ頭をクラッと揺らしてしまったが、すぐに立ち直る。
そして、全てを思い出す。
お兄ちゃんがいなくなったこと
聞いても誰も知らないこと
お母さんやお父さんまで知らなかった・・・いや、覚えてさえいなかったこと
まるで北郷一刀という人物がもとからいなかったようにふるまっていた。
自分も・・・お兄ちゃんの存在を少しの時間だけだったが・・・それでもわすれてしまっていたこと
そう考えた瞬間、咲蘭の両目から涙の粒があふれ出た。
兄のことを忘れてしまった自分が情けないという涙
兄のことを思い出すことができてうれしいという涙
兄がいまだに見つからず不安で仕方ないという涙
それらの意味を持つ涙が頬を伝ってベッドのシーツへとしみこんでいく。
咲蘭は自分に掛けられていた布団をハンカチ代わりにそれらの涙をぬぐっていると病室の扉が開く音が聞こえた。
「目が覚めましたか?」
清潔感のある白衣を着た細身の中年男性が咲蘭へと近づいていく。
涙を見られてはまずいと思い、咲蘭は急いで頬を伝う涙をぬぐう。
「なぜあなたがここにいるのか。思い出せますか?」
医者であろうその男はゆっくりと咲蘭に話しかける。
その返事をするのに少しの時間を要したが、咲蘭は首を左右へと2回振る。
「そうですか…」
医者は小さな声で“失礼します”といった後、咲蘭のおでこに触れ、そして右目の上瞼を少しだけ親指でクイッと上げる。
そうして簡単な触診が済んだ後
「特に異常はないようですが、少しここで入院してもらうことになりますよ」
「えっ・・・でも・・・学校・・・それにおにい・・・」
「身体の方が大事ですよ。あなたのお母さんと学校にも連絡が取れています。今はゆっくりと休んでくださいね。では、また後ほど訪ねさせていただきます」
お医者さんは咲蘭に向かって小さく頭を下げた後、ひとつしかない部屋の扉からゆっくりと音もなく出て言った。
「・・・・・・」
部屋の中は静寂に包まれる。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
先ほど医者が出て言った扉が勢いよくガラガラと大きい音を立てて開いたかと思うと、慌てた様子で病室へと入ってきた人物がいた。
「眼ぇ覚ましたんやってっ!!どっか痛いとこない?大丈夫?」
「及川さん…すいません。迷惑かけちゃいましたね…」
「いや~、でもびっくりしたで。いきなり気ぃ失うんやもん。もとから体どっか悪いん?」
及川はほっとひとつ息を吐き出した後、棚の前におかれていた椅子を引っ張り出して腰掛ける。
「いえ…、とくには…病院のベットなんて初めてです」
「そうなんや・・・」
及川は棚の上に盛られていたリンゴを右手にとって、手持無沙汰を解消するためにそれをポーン、ポーンと何度も中へと放り投げる
「あっ!そうや。咲蘭ちゃんのお母ちゃんとは連絡取れたってお医者さん言っとったわ。明日の朝には着くってさ」
「そうですか・・・。あの・・・及川さん」
「ん?どないしたんな?やっぱりどっか調子悪いんか?それともこのリンゴほしいの?剥いてもらおうか?看護婦さんに」
「いや…そうじゃなくて…。お・・・」
“お兄ちゃん”という言葉を発するのに、咲蘭はためらいを覚えていた。
もし及川に聞いて、“誰やそれ?”といわれようものなら、またあの頭痛に襲われるかもしれない。
しかし、咲蘭はそんな頭痛よりも怖かったのは・・・
「その・・・お・・・お兄ちゃんは・・・」
北郷一刀を知らないと言われることだった。
道端で出会った時に及川は確かに一刀の愛称である“かずっち”という言葉を口にした。
しかし、それは自分の気のせいで及川も一刀のことを覚えていなかったら・・・
「かずっちか?アイツ妹が倒れたちゅーのに何してんねんやろなっ!!連絡はつけへんし…」
「お・・・覚えてるんですか?お兄ちゃんのこと・・・」
「はっ?覚えてるってどゆこと?かずっちってあのかずっちやろ?北郷一刀、オレの悪友やん」
及川は心底不思議そうにしながらも咲蘭の質問に答える。
及川は覚えていた。
「よ、よか・・・った。覚えてる人・・・いた。私・・・どうしようって・・・」
自分以外にもお兄ちゃんの存在を覚えてる人がいた。
お兄ちゃんがこの世界に存在したと認めてくれる人がいた。
それを聞いた咲蘭の瞳からは再び涙がいっぱいに溢れ、そしてぼろぼろとこぼれ始める。
「えっ!!な、なにっ!!何で泣いてんのっ!!」
及川はその様子を見てひどく動揺してしまい、手に持っていたリンゴを床へとおとしてしまう。
そして座っていた椅子から勢いよく立ち上がりはしたものの、どうしていいか分からずオロオロし始める。
「よ・・・よかったよ・・・ひっく・・・ぇっ・・・」
「何がなんっ!」
泣く咲蘭と戸惑う及川
この両者が再び落ち着くまで結構な時間がかかってしまった。
1
咲蘭と及川が落ち着いた後、及川は咲蘭が気絶した後の話を、咲蘭は気絶する前までの話を話し始める。
咲蘭が気絶したのは昨日の夕方ごろで、その後及川が呼んだ救急車に運ばれ3時間はぐっすりと眠っていたそうだ。
呼んでも揺すっても反応がなかったこともあり、緊張が走っていたが精密検査の結果、特に異状なし
しかし、何もないのに人が気絶する訳もないのでさらなる精密検査を受けるために一週間は入院するとのことだった
なぜ救急隊員や医者が及川にこんなことを話したのか
それは咲蘭が気絶しながらも“お兄ちゃん…”とうわごとのように何度も繰り返しながら、及川の右手を握っていたため両者が『この男性がこの女性の兄』と勘違いしたためである。
及川からの話に咲蘭は顔と耳を真っ赤にしながら聞いていた。
「かずっちのこと・・・誰も覚えてへんの?」
「はい・・・お母さんも・・・お父さんも・・・みんなです」
「アホなこと言ったらアカンって…俺だって三日前にかずっちと会ってんねんで?咲蘭ちゃんいつ来るの?って聞いたら『お前には教えねぇ』って話してたんやで?」
「私も信じられませんけど…お兄ちゃんの部屋言ったら空き部屋で…お隣さんもずっと誰も住んでない部屋だって・・・」
「かずっちの隣ちゅーたら、アイツか。ちょっと待っててな・・・っと、ここじゃアカンな」
及川はポケットから携帯を取り出して誰かに電話をかけようとする。
しかし、自分が病室にいることを思い出すと急いだ様子で病室から出て言った。
そして数分後…
ガチャリとドアが開く音と同時に及川の茫然とした顔が咲蘭の目に入ってきた。
「ウソやん…アイツ知らん言いよった…。1年ときかずっちとオレと一緒のクラスやってんで…」
「そうなんですか?」
「ほんでその他のいろんな奴にも電話で確認してみたんやけど・・・みんな知らんってさ・・・」
「そう・・・ですか・・・」
及川の少し動揺した顔を見て、咲蘭は俯きため息をついた。
「お兄ちゃん・・・」
確かに自分の記憶の中には北郷一刀がいる。
幼い頃の思い出から一年前の思い出まで詳細に思い出せる。
しかし、この現実には兄の存在がない。
いったいどうなっているのか・・・
考えれば考えるほど頭が痛くなる。
「・・・・・・よっしゃっ!!オレに任しときっ!!」
「えっ?」
動揺した顔から一変、及川は顔をグッと上げて拳を握りしめる。
「咲蘭ちゃんは精密検査終わるまでこの病院から出られへんやろ?それやねんやったらオレが探して来るわ」
「でも・・・どうやって?」
「オレ、考えんの嫌いやねん。とりあえず思いついたことやってみるわ。咲蘭ちゃんはもう一回お母さんからかずっちの話聞きな?そんじゃっ!」
及川はキザったらしく咲蘭にあいさつした後、病室から勢いよく飛び出していった。
「お、及川さんっ!!」
咲蘭の言葉はおそらく聞こえなかっただろう。
辺りは再び静寂に包まれる。
自分も病室から飛び出して、お兄ちゃんを探しに行きたい。
そんな衝動にかられるも、やはり病み上がりだからなのか身体が思ったように動かないことを今になって気付く。
身体を起こすのもやっと、ベッドから足を出すのにも一苦労だ。
「はぁ・・・こんな時に・・・何やってるの・・・私・・・」
ベッドから這い出ることをあきらめ、咲蘭はベッドに横たわった。
探しに行くのはお母さんにもう一度お兄ちゃんのことをきいてから
そう自分に言い聞かせて咲蘭は眠る努力をした。
そして少しずつ意識がまどろんでいき、眠りにつくまでにあまり時間はかからなかった。
次の日の朝、早速病室に来てくれたお母さんにお兄ちゃんのことを聞いてみた。
しかし、結果は予想通りだった。
「いい?もう一度言うわね・・・咲蘭にお兄ちゃんなんていないでしょ?」
2
それから一週間はあっという間にすぎた。
入学式にすぐ知り合った友達が見舞いに来てくれたりしたおかげで、入院生活もあまり苦じゃなかった。
これなら学校に戻っても大丈夫そうと少し咲蘭は安堵する。
しかし、それを超える大きな悩みがあった。
もちろん北郷一刀のこと
お母さんが病室に来るたびにお兄ちゃんのことをきく。
昔のことから最近のことまで何もかも
しかし、どの話を聞いても結果は同じだった。
また、あの日以降及川は病室へと訪れないことも気がかりだった。
そして、精密検査も終わって退院の日
病院のエントランスから小さなバッグを片手に出ようとした時
「咲蘭ちゃ~~んっ!!」
大きく手を振りながら咲蘭のもとへと近づいてきたのは及川だった。
「退院したんやね。身体の調子はどないなん?」
「もう大丈夫です・・・それで・・・お兄ちゃんは?」
「それやねんけど・・・まぁ、立ち話もなんやしちょっと付き合ってくれへん?」
及川はそのまま180度反転してスタスタと歩き始める。
「えっ・・・」
少し戸惑ったが一刀のことが気になる咲蘭は素直にその後についていった。
そして少し時間が経過し、着いた場所は駅前出口すぐの所にある喫茶店
「ここって確か・・・お兄ちゃんがダメって言ってた喫茶店・・・」
「えっ?咲蘭ちゃんここきたことあるやろ?かずっちがオープンキャンパスに来る咲蘭ちゃんとの待ち合わせに使ったやろ?」
「ここには来てません。でも、及川さん、何でお兄ちゃんと私が喫茶店で待ち合わせてたって知ってるんですか」
「この店、オレが教えたったからな」
「でも・・・このお店・・・」
「んじゃ、入ろうか」
及川は咲蘭の言葉を聞かず、カランカランと扉をあける。
それにつられて咲蘭が店に入った瞬間
『『『いらっしゃいませ~~っ!ご主人様っ!お嬢様っ!!』』』
かわいらしい声でお出迎えされてしまう。
「・・・・・・え?」
女性はとてもかわいらしい振り振りのお召し物・・・いわゆるメイド服に身を包んでいた。
「ここ・・・喫茶店じゃ・・・」
「喫茶店やんか。メイド喫茶」
この時、お兄ちゃんがこの場所を待ち合わせに使わなかった意味を理解する。
(そう言えば、お兄ちゃん・・・言ってたな・・・)
『アイツは頭がおかしい。できれば会わせたくない』
そのとき、咲蘭は何と返答したかも思い出す
『ふふっ、余計に会いたくなっちゃった・・・』
この言葉を放った自分の頬を叩いてやりたいと思う咲蘭
「あっ、予約してた祐にゃんです♪」
「お待ちしておりました~~♪どうぞっ!こちらへっ!!」
かわいらしいメイドさんに手を取られ、及川は店の奥の方へ連れて行かれる。
「お嬢様もこちらへどうぞっ♪」
「あっ・・・はい・・・」
そう言われて咲蘭もメイドさんのあとに着いていく。
及川の印象ががらりと変わり、オープンキャンパスの時以上に及川の印象を下げた咲蘭であった。
3
「さて、本題にはいろうか」
及川は注文した『ピュアラブオムライス』にメイドさんと一緒にケチャップでLOVE
と書き、一口食べた後、真顔でこう言った。
ケチャップでお絵描きの時はデュヘヘと口元が緩みきっていたのにこの真顔である。
もうそのギャップについていけない。
口元にはケチャップが付いている。
「一応クラスの全員に北郷一刀って知ってるか?って聞いてみたんやけど全員アウト。全く覚えとらん。お前ついにイカレてもうたかと白い目でみられたわ」
「元から頭の方はイカレてませんでしたっけ?」
「おっと、オープンキャンパスの時の感じに戻ってきたやんか…咲蘭ちゃん…おいちゃんはうれしいで」
「それで?」
「先生にも聞いてみたんやけどこれもアウトや。出席簿も確認したんやけどこれにも名前がなかった。北郷一刀出席番号34番が無くなって、35番のヤツが34番にくりあがっとった」
話しながら及川はピュアラブオムライスをスプーンですくい上げる。
「いる?」
「いりません」
「そうなん?おいしいのに…モグモグ…」
「報告はそれだけですか?」
「それと学校事務総務課にも北郷一刀っていう在校生、または卒業生っておる?って聞いてみたんや。やけどもこれもアウト」
「簡単に教えてくれたんですか?」
「ふっ、オレの人脈舐めたらアカンで…。事務のおばちゃんはすでにオレが買収済みや・・・」
「そうですか…」
「ただなぁ・・・。何か事務さん『アレ?』とかいうて変な感じやったな…あるはずの書類がないとか、変なところでデータが消え取るとか・・・なんやかんや・・・」
「お兄ちゃんのファンクラブがあるって言ってましたよね?そちらの方は?」
「あとかたもなく消えとったわ。代わりにセイロ・ガンのファンクラブができとった」
「ということは、聖フランチェスカ学院に北郷一刀事態が…」
「おらんようになっとる・・・ちゅーことやね」
スプーンで咲蘭の顔をビシッと指しながら、及川が断言する。
「お母さんにも何度も聞いたんですが…覚えてませんでした…」
「お母ちゃんが覚えてないちゅーのも変な話や。どうゆうこっちゃ…これやと捜索願も出されへんな。今の状態で出そうなんていったら、こっちが頭おかしい奴になってまうし…」
及川がムムッと難しい顔をしながら考えている間、咲蘭は顔を伏せ静かにため息をついていた。
自分の思い出を疑ってしまいそうになる。
これだけの人がお兄ちゃんのことを知らないという。
お兄ちゃんのことを覚えているのは私と口元にケチャップをつけている目の前の男だけ
本当に北郷一刀なんて人物・・・いたのだろうか…
「お待たせしました。こちらフルーツパフェになります」
考えている間に咲蘭が注文していたフルーツパフェが机の上におかれる。
「ご注文は全てお揃いでしょうか?」
メイドさんは落ち着いた声でそう言った後、机の上に伝票を置く。
「あっ、はい…」
咲蘭はこのメイドさんにちょっとした違和感を覚える。
それは及川も同じようだった。
入ってきた時に対応してくれたメイドさん達はどちらかというと、かわいらしい声で出迎えてくれた。
しかし、今対応してくれているメイドさんはどちらかというと落ち着いた雰囲気であたかも“できるメイド”の雰囲気を醸し出している。
お金持ちの家で働いていてもおかしくはないまさに職業メイドといった雰囲気
「では・・・ごゆっくりおくつろぎ下さい。ご主人様、お嬢様…」
メイドは美しいお辞儀を二人にしたのちに、クルリと背を向ける。
「あのメイドさん…別の意味でめっちゃいいやん…」
「あの人だけ雰囲気が違う…」
そのメイドさんはテーブルから二歩ほど歩いた後、急に立ち止まり、顔だけをこちらに向けてボソッと何かをつぶやいた。
「えっ・・・」
「今・・・何言うた・・・アンタ…」
二人にはそのメイドは確かにこう言ったように聞こえた。
『北郷一刀のこと・・・知りたいですか?』
END
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どうもです。
もう少し長く書きたいのですが
いきなり長いのを書くと大変なので
短いのを一つ
あと、恋姫たちが書けないことがこんなに苦痛とは思わなかった…
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