寒い時期が終わり、色んな命がうつむいていた命を放つ時期が訪れていた。
俺が住んでいる場所にも園に花が咲き始め、もうその匂いを周りに充満させていた。
俺はその匂いが好きだ。
今日は出来るものならその匂いを嗅ぎに行きたい。
だけどその思いとは裏腹に今俺が居る場所はあり石が敷かれた冷たい床の上だった。いつものように床にうつ伏せになって『ご主人様』の仕事が終わるを待っているのだった。
ご主人様、普段俺が『ご主人』とだけ呼んでいるこの人は、この街の太守をやらを任されている『人間』だ。この街で一番偉い人という意味らしい。
「……ふあぁぁ」
突然椅子に座っているご主人が大きな声を出した。
俺は仕事が終わったのかと床から立った。
大きく両手を空を支えるように上げて大きく欠伸をするご主人の様子を窺っているとご主人は俺に向けて視線を下ろしてきた。
「ごめん、モモさん、つまんないよね」
モモというのは俺の名前だ。
ご主人が初めて会った時に付けてくれた。
「ごめんね、まだ仕事終わらないんだ。こんなに天気が良いのに散歩に行けなくて辛いよね」
散歩。
という言葉に反応して俺は尻に付いた尻尾をさらさらと動かした。
「もうちょっとで終わらせるからもうちょっと我慢してて。私だって早く出掛けたいけど、今日こそ仕事をサボったら愛紗ちゃんが怖いから…」
だけどご主人はそう言いながら置いていた筆を持ち直し机に視線を戻した。
なんだ、仕事はまだ残っていないのか、と残念がりながら俺はその場に再び俯せた。
一人で散歩に行きたい気持ちもなくはない。
だが俺にはご主人を守るという大事な任務だってあるのだ。
俺が居ない間、ご主人の身に何があったらどうする。
そう思っていた時、ふと俺は体を起こして裏の脚で立った。
そして前足をご主人が座っている反対側の方に置いてご主人の仕事風景を覗いた。
「うーん」
ご主人は筆を手に持って筆の先で自分の唇の下を押しながら唸っていた。
何か難しい思案があるのだろう。
これはどうやら今日の散歩は行けそうにない。
「ん?……えへへ」
俺が自分の机の上に前足と顎を置いていることに気づいたご主人はそう笑った。
俺はそっと足を戻して、何もなかったかのようにまた外の方を向いてうつ伏せになった。
「お姉ちゃん、遊びにいくのだー!」
その時、門を壊すかのように大きい音を立てながら入ってくる者が居た。
俺は一瞬驚いて毛並みを立てて立ち上がった。
だが入ってきたのは不審な者ではなく、ご主人の妹だった。
「鈴々ちゃん、駄目だよ。私まだ仕事あるもん」
「今日ぐらい良いのだ。外もこんなにいい天気してるのだ」
「んもう、せっかく考えないで仕事しようとしていたのにー!」
実際今日ご主人は席についてから外を見ることなく仕事に集中していた。
「そう言わずに一緒に行くのだ」
「あぁ…うぅぅ…行きたい気持ちは山々だけど…でも、後で愛紗ちゃんに怒られるのも…」
妹の手がご主人の手首を掴んでいて、ご主人は困った様子で俺を見た。
このままご主人が妹と一緒に出かけたら俺だって外に行けるし一石二鳥だが、ご主人の困った顔を見るとどうも今はそう自分の欲望を出してはいけない場面らしい。
ここは私欲を抑えて、ご主人を守る任務をきちんと果たす場面のようだ。
『カン!』
「にゃにゃっ!」
『カン!カン!グルルーー』
俺が威嚇すると妹は驚いてご主人から離れた。
「何なのだ。鈴々はお姉ちゃんと一緒に出掛けたいのだ。モモは邪魔するななのだ!」
『カン!カンカン!』
誰はご主人と出かけたくなくてこんな真似をするか。
俺だってこんな天気良いのにこんなところに座されているのだ。だがご主人は今は仕事をしている。己の欲を先に思う場面ではない。
『カン!グルルーー!カン!カン!』
「うぅぅ…!」
「何事だ!敵襲か!」
「うにゃ!」
この声は…
「って鈴々!」
「げっ、愛紗なのだ!」
ご主人のもう一人の妹が俺の声を聞いて駆けつけてきた。
普段俺が鳴くのはご主人に何かの危険が迫っている時であるため姉に何かがあったのかと駆けつけたんだろう。
「鈴々、お前また仕事中の桃香さまを連れだそうとしたな」
「さ、さくせんじょうてったいなのだー!!」
「こらーー!!」
小さい妹が逃げると大きい方の妹が怒鳴りなら門の外に行ったが、既に遠くまで逃げたため追うことを諦めてこちらを見た。
「申し訳ありません、桃香さま。私が見ぬ間に…」
「あはは…謝られても困っちゃうなー。私だってモモさんがなかったらつい鈴々ちゃんと出かけちゃったかも」
「そうか。ありがとうな、モモ」
「愛紗ちゃん、良かったらモモさんを連れて散歩に行ってきてくれない?私は今日中にコレ終わりそうにないよ」
「判りました。モモ、散歩に行くぞ」
大きい妹の方から散歩という単語が聞こえたが、ふと思うとご主人の手にはまだ筆が握られていた。
これはご主人はまだ出かけて良いわけではないらしい。
だったら俺もこの部屋を出るわけには行かないと思いそのまま俯せた。
「…どうやら桃香さまとじゃなければ行かないらしいですな」
「そうか…ごめんね、愛紗ちゃん」
「私は別に桃香さまがちゃんと仕事をしてくださればなんとも…むしろ私がモモに謝らなければならないのかもしれませんね」
「ううん、私が仕事積めていたせいだし、愛紗ちゃんのせいじゃないよ」
「モモのためにも今後はしっかり仕事をこなしてくださいね」
「うぅぅ…判りました」
しばらくご主人と話し合った妹は部屋を出て門を閉じた。
ああ、俺はとんでもないチャンスを逃してしまったのかもしれない。
「ごめんね、モモさん。私早く仕事終わらせるから。夜にでも散歩して来ようね」
この様子だとご主人の仕事が終わるのは日が暮れた後になるだろう。
それは仕方ないが、夜になると色々と危険が多い。
ご主人を狙う輩がいつどこから出てくるか判らないのだ。
だが俺が付いている以上ご主人の身の安全は俺が守らなければならない。
『カン!』
「うん、仕事が終わったら、ちゃんと皆と一緒に出かけてお花見でもしようね」
俺はご主人を元気つけるため、そして散歩に行けなくて少し残念がっている自分に向けて一度吠えて、またうつ伏せになった。
これがこの俺、犬『モモ』の日常の一部。
そしてご主人の厳しい戦いの日々の中にある平穏な一時の話である。
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この前話した試験の公式の合格者発表が今日ありました。
ちゃんと名前があって一安心したら書いたのがなんでこれなのか。
きっと発表を待ちながら荒んでいた俺の心が無意識的に癒しを求めたに違いありませんね。
なにこれ恋姫全く関係ない(笑)