「私と取引しませんか?」
新緑の中に佇む一つの紫が淑やかな口調で目先の黒瞳に問いかける。
その光景はまるで幻想郷のようだった。
小柄な体から流れる紫色のロングヘアが風に吹かれる度に、周りの空気はニ変三変した。幼さが目立つ、しかしそれでいて清楚な顔は目の前の黒瞳を、その深い紫の瞳で写し、ハッキリとその姿を捉えていた。
ただ、何だろう。この違和感は。
普通、この年頃の少女が放つ雰囲気と言えば、可愛いさのそれが際立つものだが、この少女から放たれる雰囲気はそれとは全く異なった代物だった。妖艶、この言葉ほど彼女を正確に言い表す言葉は存在しないだろう。誰もが目を惹かれ、その美しさとは別の何かに息を飲んでしまう、そんな少女だった。
「誰だ?」
低い声で氷室は問いを問いで返した。細く開かれた瞳からは、明らかに警戒の色が伺える。
すると少女は、手を唇に近づけてクスクスと笑うと、軽くお辞儀をしながら口を開いた。
「申し遅れました。私はテュームヘルハート、人での名をニーヴァと申します」
「……女神が何の用だ」
ニーヴァの言葉に氷室の表情が一気に険しい物へと変わり、彼と彼女との周りを取り巻く空気が、氷原の風の如く凍りついた。言い返す言葉も更に重く、殺気さえ感じられた。
いつの間にか頭の後ろで組まれていたはずの右手が、腰のあたりに伸びていた。その手が少し動いたかと思うと、手のひらを中心に黒い炎が溢れ出し、一つの棒のような形状を取り始めた刹那、ニーヴァの唇が上下した。
「勘違いしないでくださいな。私はもう女神ではありません」
「……どう言う意味だ」
「話せば長くなりますよ? 一つ確かに言える事は私は女神ではありません」
「……」
無言のまま氷室は腰に伸ばした右手を再び頭の後ろで組み直した。
だが警戒をやめない辺り、氷室がまだニーヴァを信用していない事が伺える。
「会うのは2度目か…」
「? 初対面では?」
「……俺達が最初にこの世界へ来た時、ジロジロ見ていた」
「あら、気付いていましたか」
さして驚く事もなく、ニーヴァは氷室を見つめ返した。
緑の絨毯の上に仰向けになって、頭の後ろで腕を組んでいる目の前の男は、相変わらずこちらを睨むように見続けている。
口数が少なく、友好的でない。とりあえず、利用するにあたって手が掛かりそう、と言うのがニーヴァの第一印象だった。
「……で、何の用だ」
「あぁ、そうでしたね。実はあなたに協力していただきたい事があるのです」
「……内容と報酬次第だ」
氷室は否定をしなかった。人間嫌いの彼が目の前の少女の頼みを断らない、これは彼にとっては非常に稀に見る行動であり、少女への警戒が解けた事を意味していた。
それを知ってか知らずか、許された少女は少し驚いた様な表情を浮かべると、取り乱す事もなく、再び同じ口調で口を上下させた。
「この世界を救っていただきたいのです」
「……俺が
ニーヴァは微笑んで見せ、「返答次第ですね」と言った。
「詳しく聞かせろ」
ようやく氷室は体を起こしてニーヴァの方へと体を向けた。それを見て満足気な表情を浮かべると、ニーヴァは胸に手を当てて淡々と話し始めた。
「間も無くこの世界に"夜天 空"と呼ばれる破壊神がやって来ます。私はその破壊神を倒すために、貴方達をこの世界に招き入れました。ですが事を急いだあまり、
「ご苦労な事だ」
「あなたへの頼みは、救世主達を私の
「国?」氷室が眉をひそめた。
「女神ではないと言ったはずだが?」
「ええ、もちろんです」
ニーヴァは氷室の反応が面白いのか、時々口元に手を当ててククッ、と笑った。
氷室はそれ以上は聞かず、「残念だが……」と言いかけた。
「報酬は女神との交戦、でいかがです? 氷室……否、Dさん?」
ーー何故それを!!
始めて氷室の顔に動揺の色が走った。
細かった目が思い切り見開かれ、一筋の冷たい汗が頬を伝った。
これがつい先程まで、超然とした態度を取り続けていた男であると誰が信じられるだろうか。
ニーヴァの口から零れたそのたった一文字のアルファベットは氷室の過去の記憶を抉り出し、氷室の動揺を掻き立てるのに十分過ぎるほどの効果を誇っていた。
もはや氷室にはそのアルファベットの事以外、考えられなくなっていた。その前に並べられた、彼にとって魅力的過ぎる報酬さえ気にならない程に。
視線が徐々に下がり、いつの間にか足元の緑色をぼんやりと眺めるようになっていた。
ーー刹那、記憶が刃を持って彼の頭を駆け巡った。
ーーお前はただひとつの成功例だ。
黒い影の声が氷室の頭の中だけで響き渡った。
その影はどんな思いでその言葉を発したのだろうか。目の前の最高の
ーー数千万の失敗は、この成功のためにあった。
影はそう信じて疑わなかった。
吸血の習慣。
呪われた業。
この欠点が抹殺の理由だった。
一体どれほどの命が、抗議の無いままに赤子の段階で闇に葬られたのだろうか。影の目の前にある、たったひとつの命を除いて……
「それがあなたの絶望ですか?」
不意に聞こえたニーヴァの声で氷室はようやく正気を取り戻した。
と、同時に氷室は緑の絨毯からゆっくりと立ち上がり、背後の大木に身をもたせかけた。
「……人は自己であり、精神であるからこそ、絶望する事ができる」
ポケットに両手を突っ込んで言う氷室の目線は、既にニーヴァに向いていた。
「哲学者、キルケゴールの言葉だ」
「……あなたに絶望は無い、と?」
「あったかもしれない……ただひとつの成功例が史上最悪の失敗作になる前は……な。獣が絶望するなら話は別だがな」
と皮肉気に氷室が言う。
「それは獣にしか分からないことですね」とニーヴァが氷室の例えに疑問を残しながらも言い返す。
「……絶望する事ができると言う事は、同時に人であり、希望が持てると言う事だ。誇りに思うべきだ」
「……私には、絶望はあっても……」
ニーヴァの視線が氷室から外れた。顔には今まで見せなかった暗い面持ちが濃い。
ふと耳を澄ますと、風の歌が聴こえた。大木の青々と茂った木の葉を揺らし、サワサワと清らかで静かな音を立てる、まるで子守唄のような歌だった。
「まぁ、その話はもういい。で、報酬は女神との交戦と言ったな?」
「ええ、私がギョウカイ墓場へ赴き、女神達をあなた達に引き渡します。後は闘うなり、殺すなり、あなた達のご自由にどうぞ」
「……用件は承知した。決行する時は何時だ?」
「あなた方の調子さえ良ければ、今宵にでも。猟犬は夜の方が狩りがし易いと言いますしね。もっとも、それは狩られる側の狐も同じ事ですが」
「随分急だな……。その破壊神とやらもご苦労な事だ。それに、俺たちの事も調査済みって訳か……何処で知った?」
「残念ながら教えられませんね。女の子は秘密を着飾って美しくなるんですよ?」
人をからかう様な口調に氷室は軽く舌を打つと、鋭い目線をニーヴァへと送った。あらゆる死線をくぐり抜けて来たダンピールも、目の前の幼さが際立つ少女のペースに完全に乗せられていた。
「……仕事の話はそれだけでいい。ただ、さっき絶望はあっても、と言ったな。それはここに来る破壊神と関係があるのか?」
「!! 何故、何処でそれを!」
「今、此処で、だ。生憎、こっちも無駄に長生きはしていない。話を聞き出すテクニックぐらいは心得てる」
そう言って氷室はフッと鼻で笑うと、勝ち誇ったようにニーヴァを見下した。
対するニーヴァは、今までこちらに引き込んでいた男に一本取られた悔しさからか、顔が苦く歪んでいた。一瞬にして立場逆転である。
「お前が破壊神を倒そうとするのは使命か? それとも、私情か?」
「……両方です。どちらも私にとって、譲れない大義です」
氷室は腕を組んで、「そうか……」とだけ言った。
「あなたが女神を憎む理由はなんですの?」とニーヴァが聞き返す。
その言葉を受けて氷室の顔が上を向き、その目が変色し続ける天を仰いだ。目の前に広がる大空よりももっとその先を見つめる様な目で、氷室はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……9割が復讐」
「残りの1割は?」
「そうだな……言うなれば……嫉妬か? 落ちこぼれが優等生を憎む、とか、そんな感じだ。まぁ、お前に言っても分からないだろうな。忘れてくれ。」
「……そうですか」
自嘲気味に語る氷室の姿を目の当たりにしたニーヴァに、ふとある男の姿が思い浮かんだ。
ニーヴァはずっと1人だった。孤独に孤独を重ね、己を見失うかのような闇の中で、ただひたすらに救いのあてもなく、手探りでさまよい歩くより他なかった。死のうと思った事も一度や二度ではない。世の中の全てが憎く、色あせて見えていた。
そんな彼女にある時、その男が現れたのだ。誰もいないはずの日没時の公園で、白いコートに身を包んだその姿は、まるで彼女を迎えに来た天使のごとき神々しさを持っていた。そっと自分の手を握ってくれたその手は、今までに感じた事の無い暖かさを、冷え切っていた自分の手と心に与えてくれた。
彼は彼女の全てだった。その温もりが彼女を再生させ、彼女に新しい道を開く力を与えてくれた。あの時抱いていた彼への感情、それは紛れもない深い愛情だった。
ーー今はどうなんだろう?
答えは憎しみだ。そうに決まっている。では全てが憎しみなのか?
ーー答えは分からない。
胸の奥に残るこの僅かな感情、これは何なのか。何度自問を繰り返しても答えは返らない。そもそも答えがあるのかさえ疑問に感じてしまう。
ーー私は、彼をーーー
「話はここまでだ」
突然、氷室が機械的な声を上げた。
物思いにふけっていたニーヴァはハッと我に帰って前を向くと、氷室の視線がいつの間にか自分から逸れていることに気が付いた。その視線は、丁度ニーヴァと氷室の間よりもやや右手、そこにある青々と茂った緑の地面に向いていた。
「? 何処を見て……?」
言いかけてニーヴァは言葉を詰まらせた。
ふとそこに目を向けると、本来動くはずの無い地表が、微かに一部分だけ動いているではないか。
刹那、地中から二本の柱が生え、そこにつながれている五本の指が地面を掴んだ。
そして見る見るうちに、青い髪と全身に黒土を纏わり付かせたライの姿を導き出したのだ。
「……よいしょっと! ……あぁ、ようやく外気にありつけた……って、ん? 何だ氷室? もしかして取り込み中か? そりゃ邪魔したな。んじゃ、ゆっくりやれよ。まさかお前にロリコンの趣味があるとは思わなかったけどな」
「そのまま土に帰るか、ライ?お前のベッドはその土がお似合いだ。せいぜい迎えに来る天使とでも仲良くやってな」
全身に残る泥と土の混合物を払いながら、からかうライに、氷室が右手に持った黒い炎で生成した日本刀を片手にライの下へと歩み寄ると、土にまみれた首に銀光を放つ得物を当てて言い返す。冷え切ったその声に、ライはあくまで軽い口調で「冗談、冗談だって」と言いながら両手を挙げた。そして急に視線をニーヴァへと移し、
「で、この女の子は誰?」と聞いた。
「……俺たちのクライアントだ」
視線を動かすこともなく、淡々と氷室が口を動かす。
「はじめまして。ニーヴァと申します」
ニーヴァは氷室の時と同じように、ライの方へと体を向けて軽くお辞儀をした。
さして気に留める様子もなく、ライは、「あぁ、よろしく」とだけ言い返す。それから一呼吸置いて辺りを一通り見回すと、視線を再び氷室に向けて「レオンとエスターは?」と問いを投げかけた。
「エスターは知らない。レオンは……もう来たみたいだぜ?」
そう言った氷室の目が、ライから自らの左手の草原へと移った。それにつられる様に、ライとニーヴァの視線も同じ方角を向く。
そこにあったのは、緑色の中に映える小さな黒の塊だった。
ふと耳を澄ませば、新緑の芝生を風が撫でて穏やかな風の歌を奏でる中に、土を蹴る馬の蹄のパーカッションが絶妙なリズムを刻んでいた。音が大きくなるにつれて黒の塊はその姿を明確な物とし、大地と同じ程度の濃さの茶色の毛並をした馬と、それにまたがるレオンの姿を導いた。
「遅かったな」
特に感情の無い声が氷室の口から飛ぶ。
「うっせえ、色々と大変だったんだよ。なぁ? 真っ先に逃亡図りやがったライさんよぉ……」
馬に跨ったままに横目でライを見下すレオンが、皮肉をこれでもかとぶち込んだ重い声を叩く。
すぐにライの視線がレオンから足元の芝生へと移った。何も言わないその表情は、非常にばつが悪いような顔だった。
気まずい沈黙がいつまで続くのかと全員が思いはじめた時、ふとこの空気を作った張本人の口が動いた。馬からその身を下ろした直後の言葉であった。
「……で、さっきから気になってたんだがその
まさかここにロリコンの趣味がある奴がいるとはな。どっちのツレだ?」
「……お前らそれしか言えないのか?」
レオンの軽口に氷室が石を見る様な目で呆れた声を漏らした。少し前の状況を知らないレオンは首を傾げるしか無いが、それを知るライの方は一層深く表情を曇らせ、誰とも目を合わせまいとばかりに足元を見続けていた。
ーー残りはエスターだけか……ってことはあいつ、スイッチが入ったな。
ふと、氷室が今この場にただ1人欠けている仲間の事を思った。
氷室達全員に言える事であるが、彼らは一度火が付くとなかなか消えないのだ。
氷室はもたれていた大木から背中を離すと数歩前へと歩みを進め、
右手を開いて前へ突き出した。刹那、5本の指が開かれた手の平の中央から高密度のエネルギーが溢れ出し、それらが豪風と黒色を持った炎となって渦を巻いた。周りの空気さえ熱を持ち、足元の芝生と氷室のウェーブのかかった金髪が大きく揺れる。
「エスター、戻れ」
見えぬ仲間の名を、氷室は炎の渦の中に向かって呟くように言った。それを言い終わるのとほぼ同時に、渦の中からそれは姿を露わにした。
「……チッ、何だってんでィ」
炎の中から現れたのは、本来の薄めの茶髪を血で赤く染め、両手に等身大程の鎌を固く握りしめているエスターの姿だった。イラついた口調とその様子から、戦闘中であった事は、この場にいる全員が容易に想像できた。
「負傷したのか……誰にやられた」
無機質な声で氷室が聞く。声こそ感情はこもっていないが、心配はしているようだ。
「こいつは自分でやったんでィ……」
「はぁ? 何言ってんだお前?」
遂に狂ったのかとでも言う様にレオンが声を上げる。
「話せば長くなりまさァ」
「まぁいい。とにかく、無茶はするな」
氷室が手を下ろしてエスターに目を向ける。すると、先程まで渦巻いていた炎は、嘘の様に消えてしまった。芝生が抉れた跡さえなければ、誰が今起きていた事実を信じる者がいるだろうか。
「そうだ。お前1人の体じゃねえんだぞ?」
「復讐果たす前に死んじまったら元も子もないんだからよ」
レオンとライの視線もエスターの方へと向く。
先に逃げた奴が何を言うか、と思いながらも、エスターは先程、2人に役立たずと思ってしまった事をほんの僅かであるが後悔した。彼の中の小さな良心が、久々に働きを見せた瞬間だった。
「……で、そいつは誰なんですかい? まさかロリコン趣味のある奴がいるとは思いませんでしたが?」
「……」
ーー今日三度目だ。と心の中で呟きながら、もはや否定する事さえ面倒臭くなった氷室は横目で冷ややかな視線をエスターに浴びせ、ニーヴァの方へと振り返った。
「悪いが……最初から説明してやってくれないか?」
「分かりました」
返事はすぐにあった。その場に居る全員の視線がニーヴァに集中する。その中でニーヴァは発展途上の胸に手を当てて軽く一息吐くと、淡々と事の経緯を話しはじめた。
◆◆◆
「……と言うわけです」
氷室に話した内容を手短に纏めた話を終えると、ニーヴァは三人の顔を覗き込む様にして表情を伺った。
「いいんじゃねぇか? 報酬も申し分ねぇわけだしよ」
「断る理由は無いな」
レオンとライが顔を見合わせて口を開く。その顔も何処か明るさを帯びており、2人の肯定的な態度が雰囲気を通してでも分かるほどであった。
「……」
だが1人、眉間にしわを寄せたまま、鋭い目つきでニーヴァを睨みつけるエスターの顔があった。2人とは対称的にまるで敵を見る様な目であった。
話自体に嫌気がさしたのでは無い。問題は彼女の声にあった。
その声とよく似た声をエスターはつい先程、聞いたばかりであった。人を嘲笑うような冷たく、中傷的なトーンが、彼の中の記憶にある声と気味が悪い程に似ていたのだ。
「おい、エスター。お前も賛成だろ?」
「……ん、あぁ……」
レオンの言葉にエスターは歯切れ悪く返す。
「何だよお前……どうした?」
「いや……何でもねぇ」
視線を合わせずにエスターが再びレオンに言葉を返す。
考え過ぎか、と心で呟きながらも、エスターはニーヴァへの警戒を辞めようとはしなかった。細く開かれた目が突き刺さるようにニーヴァへと注がれる。
「まぁ、行くには文句ねぇわけですが……俺はあの白いチビんとこに行きますぜ? 逃がした獲物は確実に仕留めまさァ」
低い声で言うエスターに、ニーヴァは満足そうな笑みを浮かべると、
「では、彼女も連れて行ってください。きっと役に立ってくれるはずです」
右手を頭上に挙げて中指と親指を重ね合わせ、パチンと乾いた音をたてた。その音と同時に、まるで先程までそこに居たかのように、一瞬にして一人の少女がニーヴァの隣に佇んでいた。その光景はさながらマジシャンが観客に向けて手品を披露するような、呆気に取られてしまう光景だった。
「この娘の名をネロと言います」
「……」
物言わぬ少女、ネロは虚空を見つめるような焦点の定まらない目で、呆然と前を見つめていた。小さな黒いツインテールに黒いブレザーを身につけた、おおよそ中高生程の少女は何故かその姿を紅に染めていた。服にべったりとこべりついた血の塊はまだ乾き切っておらず、風が血臭を辺りへと撒き散らした。
「……その小娘、貴族の口づけでも受けたのか?」
氷室が低い声でニーヴァに言う。
もしそれが誠の事ならば、この一言はネロへの褒め言葉である事は、もちろんニーヴァは知る由もない。
「いいえ、彼女には絶望を知っていただきました。もっとも、まだ己の絶望を正しく理解してはいないようですが」
何処か悲し気な声でニーヴァが言う。それに続けて、
「彼女の他に、もう1人の少女にも絶望を知っていただきました。まだ2人共克服してはいませんが、それと向き合い、正しく理解して克服した時、彼女達は新しい己を知るでしょう」
とも言った。
「ガキのお守りは御免でさァ」
嫌悪感丸出しのエスターの声が響く。
ネロは一切の反応も見せない。知らぬ者が一見すれば、死人と疑うほどの生気のなさである。
「彼女は変わりました。十分、戦力になるはずです」
ニーヴァがすかさずフォローを入れる。どうやらネロを彼の襲撃相手に合わせる事に相当熱心なようだ。
「……氷室、作戦中このガキ、死ぬかもしれねぇ。俺の手によって」
「……クライアントはこいつだ。従え」
威圧感のこもった氷室の口調にエスターは不満で顔を歪ませながら、チッと舌打ちした。
「んじゃ、俺は今日行った奴らの所に行く。情報は集めた。負けはしねぇ」
「俺もレオンに同行しよう。それでそこは落ちるはずだ」
氷室とレオンが抑揚の無い声でニーヴァに言う。だがその内心は、闘争心で今にも暴れ出しそうになるのを必死で抑えているのが、周りの空気から読み取れる。
「構いませんよ。それでお願いします」
と、ニーヴァは月のような微笑みで受け答えた。
それに続けてライの声が上がる。
「んじゃ、俺は『貴方はリーンボックスにいる、イヴと言う少女の元へ向かってください。貴方と相性が良いはずです』……へい」
遮るニーヴァの言葉に、ライは手も足も出ない。赤子の手をひねるよう、とはよく言ったものだ。
「話は終わりだな。んじゃ、俺たちは帰らせてもらうぞ」
レオンはそう言って身を翻すと、少し離れた所に待機させていた馬へと歩みを進め、慣れた動作で馬の背へと飛び乗った。
「あ、俺馬無いから乗せてくれ」
と、ライもレオンの後を追いかけるように駆け出し、レオンの後方へ飛び乗った。レオンはライが乗った事を確認すると、他の者の了解を得る事もなく馬の手綱を引き、2人は風に呑まれる様にその場を後にした。
「俺も先に帰ってまさァ。んじゃ」
氷室が声を確認し、目をその方向へと向けた時、すでにエスターの姿は無かった。後に残されていたのは、残された者の髪を強くなびかせる旋風だけであった。
氷室とニーヴァ、それにネロだけが残った。
「俺も行く。仕事はこなす」
そう言って氷室も2人に背を向けた。
その足が一歩動こうとした時、不意に氷室が口を開いた。
「いつからこんな事をしている?」
とっさの事に、ニーヴァは多少驚いた様な表情を見せたが、直ぐに収めると、
「さて、いつからでしょうね。もう数えるのも辞めました」
と言った。
「向いていない。獲物を追い詰めるのが楽しくなったら、もう女でもなくなる」
「あらあら、では私が女を失くす日は近いのかもしれませんね」
自嘲する様にニーヴァが言う。声には諦めの色が濃い。視線が氷室の黒く映える背中へと向いた。
「もうこの手は血みどろです。今更戻る事なんて出来ません」
「洗えば落とせる」
氷室が当然の事の様に言ってのける。
「あなたは……どうしたいのです?」
深く首を傾げてニーヴァが問いかける。
「別に……ただ……」
氷室の口がいつに無くゆっくりと、神妙な動きで上下する。
「復讐する相手を思いやる奴に復讐はできない」
そう吐き捨てて氷室は消えた。
黒い炎の中に溶ける影の様に。
氷室の言葉だけがニーヴァの頭の中でいつまでも鳴っていた。
草原に立ち尽くす2人の姿は、答えを見失った賢者のように物寂しさをのぞかせていた。
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ようやく完成しました。
いや〜、色々予定が重なってかなりハードでした。