「ほら、約束のグッチのバックよ。」
ワインバーで待ち合わせナミにテレサがバッグを差し出した。
「ああ、ありがとう…。」
「なんか嬉しそうじゃないわね。いらなかった?」
「ごめん、そうじゃないの。実は今日呼び出したのは、なんかみんなと飲みたくてさ。」
「あら鉄の女ナミにしては珍しいわね。いいわ、残念ながらオキクは出張でいないけど、私が徹底的につきあってあげる。」
グラスを差し上げて乾杯するも、いつもよりハイペースなナミの飲みっぷりにテレサも多少心配になってきた。
「ちょっとペース速すぎない。それじゃ身が持たないわよ。」
「いいの、今夜は飲みたいの。」
ナミの呂律も妖しくなってきた。
「あたし、なんで先生なんてよばれる仕事についちゃったんだろう。」
ナミはグラスのワインをぐっと飲み干した。
「ねえ、知ってる?みんな先生って呼んでるけど、意味的には自分達と違う世界の人って意味で使ってるのよ。先生と呼ばれる人間は、正しくなければならず、ミスがあってはならず、常に冷静でなければならず。つまりおよそ人間らしいことが許されない存在なのよ。」
空いたグラスにワインを注ごうとするが、手元も危なくなってきたナミは、ほとんどテーブルにこぼしてしまう。たまらずテレサがボトルを奪う。
「はいはい。私が注いであげますから…。」
「あら、優しいわね…。」
ナミはさらにショットを重ねる。
「先生なんて呼ばれてる女に、恋は許されないのよ!」
「おっと、今日の荒れ模様の原因はそこなの?」
「なによ、あたしだって女ですもの、男を好きになるわ。だめなの?」
「いいえ、嬉しいのよ。ナミがようやく女らしくなったから…。」
「でしょ。30近くにもなって処女だけど、あたしもれっきとした女なの。」
「あれ、研修医時代に研修先の医師とやったって言ってたじゃない。」
「嘘よ、嘘に決まってるじゃない。」
「ここでカミングアウトかよ。」
「オキクには言いにくいけど、私はオキクがうらやましくてしょうがないのよ。」
「なんで?」
「だって少なくとも死ぬほど好きな男とやれたんでしょ。私だって…私だって…捨てられてもいいから、一度は好きになった男とやってみたいわよ。」
「ちょっと、声大きいって…。」
「夢でもいいから、妻と呼ばれたいわ…。沢山の患者さんに尽くすのではなくて、たった一人の男にも尽くしたいのよ!」
「私はごめんだわ。」
「なによ。ケンカ売るなら買ってやるわよ。文句ある。」
「いえそんな…ところでさ、ナミを目覚ませた男って何者?」
ナミは答えようとしない。
「あら、答えないつもりね。でも黙っても無駄よ。あたしの霊感が強いのは知ってるでしょう。ちょっとあんたの守護霊に聞いてみるわ…。」
「ち、ちょっと、怖いこと言わないでよ。」
ナミはそう言うと、そっぽを向いてグラスを煽る。テレサは眉間に軽く握ったこぶしを添え、何かを感じようと目を閉じていたが、やがて納得したように眼を開けた。
「ヒロパパでしょ。」
「な、なに言ってんのよ。やめてよ。」
「あんたの守護霊がはっきりそう言ったもの。図星でしょ。」
テレサの突っ込みに追い込まれたナミは、ワインの力を借りて逆切れをおこす。
「そうよ、だから何?悪い?」
テレサは、先日会った石嶋を思い出していた。ナミが惚れるのも無理がない。でも、今この席に希久美がいなくてよかった。ヒロパパの見合い相手が誰かわかったら、大混乱になっていたに違いない。
「ユカちゃんとヒロパパは私を先生って呼ぶのよ。名前で呼んでくれたことなんか一度もないわ。あっちはわたしを生身の女だとは見てないのよ。」
「好きだって言って、あなたもエントリーすればいいじゃない。」
「だめよ。向こうにはつきあっている女がいるみたいだから…。」
もちろん、テレサはその女が希久美であると言いだすことができない。
「夢でもいいから、『おまえ』なんて甘く呼ばれてみたい…。」
そう言いながらナミは、いつの間にか酔ってテーブルの上でだらしなく潰れてしまった。テレサは潰れたナミの髪を優しく撫ぜながら、高校時代はもっとクールだったはずのナミを憐れに見つめた。
「オキク。あんたには悪いけど、可愛そうなナミに夢を見させてあげて。たった一日でいいから…。」
テレサは、ナミの携帯をバッグから取り出すと、ナミになりすまして石嶋にメールを打った。
ナミはなぜかティアラと宝石に飾られたドレスを身にまとい宮殿で王子と踊っていた。彼女を軽やかにリードしている王子の顔を見て驚いた。石嶋であった。この楽しい時がいつまでも続けばいいと願っているその時、宮殿の大時計が深夜零時を告げる。その鐘の音を聞くとナミは、理由もわからず、ただ戻らなければならないと思った。石嶋の手を解き必死に宮殿の出口へ駆けだす。石嶋は、ナミの後を追いながら、行かないでと必死に訴えている。どこに戻らなけばならないのかわからないが、ナミはそれでも戻らなければならないという強迫観念に襲われていた。石の階段を駆け下り、途中で石のくぼみに足を取られた。危うく倒れそうになりながらも、必死にこらえてなんとか待ち受ける馬車に飛び乗る。石嶋は宮殿の門に呆然と立ちすくみながら、立ち去る馬車をいつまでも見送っていた。ナミは、馬車の中で自分が悲しくなった。しかし、この展開はどこかで聞いたことに気付く。そうだ確かこの展開はハッピーエンドになるはずだ。安心して馬車のシートに深々と腰掛ける。リラックスしたナミは、美しいドレスを着ている自分の姿を眺める余裕さえできた。しかし足元を見て愕然とした。ハッピーエンドになるための決定的要素が欠落している。ナミの靴が両足とも無事におさまっているのだ。これじゃ私を探せない。慌てて馬車を飛び降り宮殿に戻ろうとするナミ。しかし彼女のドレスをネズミの従者たちが引っ張っていて身動きができない。もがいているうちに目が覚めた。ナミが周りを見回すと見憶えのある子供部屋のベッドにいた。そしてナミの服を引っ張っているのはユカだった。
ユカに手を引かれて、階段を下りるとリビングに、新聞を読みながらジャージ姿の石嶋がいた。
「ユカ。ナミ先生を起こすなって言っただろ。すみませんナミ先生。ゆっくり寝られなくて。」
「いや、わたし…。何でユカちゃんの部屋に居たのかわからなくて…。」
「そうですね。ナミ先生を迎えに行った時は、もう酔い潰れていらしたから…。先生もあんなに飲むことがあるんですね。」
ナミは、テレサと飲んでいた事を思い出した。
「恥ずかしいわ…。」
「ナミ先生の家も知らないし、ご迷惑だとは思いましたが我が家へお連れしました。我が家にはゲストルームが無いもんで、ユカのベッドでお休みいただきましたが、窮屈でしたか?」
ユカが楽しそうにナミの身体に抱きついてきた。
「ごめんなさい。私なんてご迷惑なことをしてしまったのかしら。すぐお暇しますから…。」
「いえ、そんなことおっしゃらず、今日は休日でしょ。ゆっくりしていって下さい。自分とユカは、朝のウオーキングがてら朝食の買い物に行ってきます。今日は家政婦さんも休みだから、たいしたこと出来ないけど、朝食を準備しますから。その間にシャワーでも浴びてはいかがですか。」
石嶋がユカを連れて外へ出ようとするが、ユカがナミの手を離さない。ナミにしてもこの家にひとり残されても、落ち着いて待っていることもできないだろう。
「お邪魔じゃなかったら、わたしもご一緒させて頂いてもいいかしら…。」
「えっ?そりゃあ自分もユカも大歓迎ですが、大酒飲んだ翌朝のウオーキングはキツイですよ…。」
「大丈夫です。」
「それなら確か…、義姉が使ってたジャージがあったな。」
石嶋が着替えを探しに奥に入って行った。ナミは、とりあえずハンドバックから携帯歯ブラシを取り出し、歯を磨くと、顔を洗って昨夜からの化粧を落とし、軽く肌を整える程度の朝の顔を作った。その間もユカがナミのそばにべったり張りつき、不思議そうにナミのやっている事を見つめていた。
「ユカちゃんそんな目で見ないで。女がスッピンでいられるのは、ユカちゃんの頃から女子高の年代までよ。私くらいの年になるとね…。」
石嶋が持ち出してきたジャージに着替えて、少し大きめだが、石嶋が昔使っていた運動靴も借りて準備は万端。3人はウオーキングに出発する。
必死に歩くナミであるが、そんな距離を歩いていないのにもう息が上がってきた。ユカに手を引かれながら、肩で大きく息をしながら歩く。石嶋はそんなふたりを笑顔で眺めながら、後方からゆっくりと歩いていた。
「おいユカ。ナミ先生が苦しそうだから、少し休むか。」
石嶋の配慮で、公園のベンチで一休み。石嶋はベンチのそばの砂場で遊んでいるユカを見守っている。ナミはそんな石嶋を見ながら、改めて自分の今の状況を考えてみた。目が覚めた時に自分のベッドの中に自分以外の誰かがいる朝。目覚めの直後に、コーヒーの湯気につつまれた男の顔に迎えられる朝。こんな朝は、未だかつて経験したことが無い。そしてなにより、休日の朝に、朝日に反射して光る石嶋の顔をひとり占めできることが、何と言っても嬉しかった。そう、夢のようだ。
「ごめんなさい。かえって足手まといになっちゃって…。」
「いいえ、とんでもない。ナミ先生のおかげで、初めてあんなに楽しそうに歩くユカを見ました。」
ユカが嬉しそうに石嶋とナミに手を振る。ナミも笑顔で応えた。
「ところでヒロパパ。ゆうべはなんで私がいるところがわかったの。」
「えっ、それも覚えてないんですか?メールくれたじゃないですか。」
自分は打った覚えが無い。テレサの奴めやりやがったな…。あんな話をしたもんだから、テレサが気をきかしたのだろう。でもこんな状況を作ってくれても、付き合っている人がいる男相手に、いい大人がコクルなんて出来るわけがない。
「さあ、ナミ先生。この後はスーパーに買い物ですが、歩けますか。おなかも空いたし、朝ご飯を買って家で食べましょう。」
そう言いながらナミを見た石嶋の笑顔が、輝いていた。石嶋がベンチから立ちあがる。ナミはその姿をベンチから見上げた。長身でありながらバランスのとれた体躯は、ナミにあらためて男のセクシーな美しさを感じさせる。ナミは考えた。でももしかしたら、たった一日だけなら夢をみることが許されるかもしれない。
「あの…。ご迷惑をかけたお詫びに朝ご飯は私が作ります。」
「いいんですか?楽しみだな。」
「それから…。ヒロパパはハングル語をご存知ですか?」
「いえ、さっぱりわかりませんが。なんでですか?」
「スーパーで朝からヒロパパ、ナミ先生って名前を呼び合うのも変ですから、今日だけ、お互い『ヨボ』って言い合うことにしません。」
「どういう意味なんですか?」
ナミは顔を赤らめながら答えた。
「まあ、英語の『ユー』みたいなもんです…。」
実は、この答えはまったくの嘘だ。ナミは韓国ドラマでよく耳にするこの言葉に憧れていた。意味は慈しみ合う夫婦がお互いを呼ぶ言葉で、日本語で近い意味は『あなた、お前』なのだ。
「ヨボか…。面白いな。では行きましょうか、ヨボ。」
「そうしますか、ヨボ。」
ナミの夢の一日が始まった。買い物カートにユカを乗せてスーパーでお買いもの。ナミが食材を
選ぶと、石嶋に投げる。石嶋がキャッチしてユカに渡す。ユカはそれをきれいにカートの中に並べる。大きなスーパーの袋をぶら下げて家に帰れば、ナミはユカとシャワーへ。ユカは身体を洗ってもらいながらも、決して大きいとは言えないナミの胸に、多大な関心を示していた。その間石嶋はお米をといで炊飯器のスイッチを入れる。シャワーから上がったユカは、鏡の前でまた顔を整えるナミを不思議そうに見ている。大人は一日に何回鏡を見れば気が済むのだろうと、ユカの顔に書いてあった。ナミは石嶋から借りた義姉の部屋着とエプロンを身にまとい、朝ご飯の準備に取り掛かかる。ナミの姿を真似てゴムで髪を後ろにまとめたユカが、キッチンで料理の準備を手伝う。
シャワーから上がってリビングで新聞を読む石嶋にナミが声を掛ける。
「ヨボー、ご飯ができたわよー。」
「うわー、朝から豪華だなぁ。」
喜ぶ石嶋に、ナミがご飯をよそう。ユカがお盆の上に載せたご飯椀を石嶋に運ぶ。石嶋はユカとナミのおしゃべりを聞きながらご飯を食べた。食べ終えた石嶋をリビングに追いやると、後かたずけもナミが引き受けてキッチンで立ち働く。石嶋はお客さんに台所仕事をさせて、申し訳ないと言いながらリビングのソファに腰掛けていたが、やがて休日の親父の常で、うたた寝を始めてしまった。ナミはソファで寝ているヒロパパに、毛布を掛けてあげるようにユカにお願いすると、食器の後片付けだけでなく洗濯、掃除を積極的にこなした。時が経ち、やがて眼を覚ました石嶋がリビングからキッチンへ顔を出した。まだナミとユカがキッチンで立ち働いている。
「ヨボ、何しているんですか?」
「もうすぐお昼御飯ができるわよ。テーブル片付けて。」
「えっ、もう昼ごはんですか?」
誰もナミに帰れとは言わなかった。ナミも帰るとは言わなかった。昼食後もリビングでゴロゴロしながら過ごす3人。何をするわけではない。ただ3人で過ごしているのだ。ナミが動けばユカがついてくる。リビングに戻れば石嶋がそこに居る。ひとりで好きにやれない不自由さはあっても、ひとりになる寂しさが無い。
「ヨボ、晩御飯何する?」
ソファーで本を読みながら、石嶋がナミに声を掛ける。
「もう晩御飯の時間なの?なんだか一日中食べている気がするわ。でも、おなかもすいてきた気もするし…。そうねぇ、お店で安いもの見て晩御飯のメニューを決めますかね。散歩がてらまた買い物に行きましょう。」
連れだって買い物に出る3人。店先の試食に飛びつくナミとユカ。石嶋が買った一匹のタイ焼きを頭としっぽに割って、どっちを食べるかで、ナミとユカが大騒ぎしながらじゃんけんをしている。家まで待てずに歩きながらタイ焼きをほうばるユカとナミ。
「ヨボ、ユカ。そんなに食べたら、おなかに晩御飯を入れる隙間が無くなるぞ。」
石嶋の警告にも、ユカは笑って取り合わなかったが、さすがにナミは、食べきれぬと判断したのか、自分が食べているしっぽの部分を、また半分に割って石嶋の口に放り込んた。
お店での食材の検討の結果、結局晩御飯のメニューはすき焼きなり、ああだこうだ言いながら食材を買いそろえる。そのうちナミと石嶋の家庭のちがいなのか、すき焼きに白菜を入れるか入れないかでふたりがもめ始めた。最終的には『私のタイ焼きを半分食べたくせに』のひと言が決定打となり、石嶋が折れた。お礼にナミは缶ビールを2本買って石嶋を慰めた。
家に帰り晩御飯の準備。石嶋がすき焼き鍋を取りだしコンロにガスのカセットを装着。ナミとユカが材料を切った。3人で食事を準備し、3人で鍋を囲んだ。食後は、ナミがユカをお風呂に入れた。パジャマに着替えさせて、ベッドにふたりで横になりながら、ユカを寝かしつける。
ナミは、ベッドで眠りに着いたユカの髪をなぜながら、今日一日を振り返った。劇的な喜びもエキサイトする楽しみもない休日。何をしたと友達に説明しようがないほど平凡な一日。しかし、ナミにとっては3人で肩を寄せあって過ごしたこの休日は、どんな高価な贈り物にも及ばない尊いものに感じた。見ると時計の針が午後9時を告げていた。
部屋着を脱ぎ捨て自分の服を着たナミが突然リビングに現れ、果物をむきながらナミを待っていた石嶋を驚かせた。
「ユカちゃんも寝たので、私帰ります。」
石嶋の顔から笑顔が消えた。
「そうですか…。」
「図々しく、遅くまでおじゃましてしまってすみません。」
「とんでもありません。あの、ヨボ…。」
ナミが石嶋の言葉を遮るように彼に問いかけた。
「ところで、ヒロパパ。ユカちゃんは石嶋さんのデートの相手と会えたのかしら?」
ナミの口調が今までと変わっているのに、石嶋は戸惑いを覚えた。
「ええ、先週会うことが出来ました。」
「今さらだけど、今日は折角のお休みなのにデートのおじゃましちゃったかしら。」
「いえ、先方は出張で居ないんです。気にしないでください。」
「そうですか…。それはよかった。それでは失礼します。ユカちゃんによろしくお伝えください。」
「はい…。あの、家まで送ると言うと、また怒られてしまいそうですから、せめてタクシーの拾えるところまでお送りさせてください。」
タクシーが拾える通りまで、ナミと石嶋は並んで歩いた。現実の王子は、ナミに行かないでくれとは叫ばなかった。そしてナミも、忘れものはないかしっかりと確認して、タクシーに乗り込んだ。ナミの夢の一日はこうして幕を閉じた。
石嶋が秘書に案内されて役員室へ入ると、青沼の部屋にはすでにランチの準備が整っていた。
「おお、来たか、さっそく報告を聞きたいところだが、妻が食事を摂る時間にうるさくてね。昼食をしながらの話しでいいかな?」
「はい。」
「忙しい時は部屋で昼食を摂るんだが、一緒にどうだ。」
「はい、いただきます。」
石嶋が報告書をデスクに置いて席に着いた。石嶋の席の前には、ビーフシチューとパンが載っていたが、青沼の席は様子が違った。
「青沼専務、手作りのお弁当ですか?」
「ああ、妻の栄養管理もうるさくてね。なんか恐妻家みたいで恥ずかしいがな…。」
照れ笑いしながらも、青沼は嬉しそうに弁当の中身を石嶋に説明した。石嶋は、そんな家庭人らしさを見せる青沼と、先日の株主総会で専務に昇格した野心家の青沼とが同一人物でありことが不思議でならなかった。
「ところで石嶋君。希久美とは何度か会ってくれているんだろう。」
「はい。」
「希久美はどうだね?」
「とても魅力的な女性だと思います。」
石嶋はこの言葉を口にしながら、なぜかナミを想った。昨日は不思議なきっかけで、ナミと一日を過ごすことになった。ユカと自分の強力な味方であるナミ先生の『先生』が取れ、ヨボになってすごした休日。そして、帰り際の態度の急な変化。ナミのタクシーを見送った時のわずかな喪失感。そんな記憶をたどっている石嶋だったが青沼の言葉で我に帰る。
「実は希久美がこの前に会ったと言っていたんだが…。石嶋君は亡くなったお兄さんのお子さんを預かっているそうだね。」
「はい。」
「そうか…。別にプライベートなことを聞くつもりはないんだが、この先ずっとそのお子さんと一緒に暮らすつもりかい?」
「一応、いい里親を探しておりますが、まだ見つかっておりません。」
青沼は、石嶋の答えを聞くと、しばらく無言でいたが、やがて弁当に視線を落として話し始めた。
「私はね、この弁当を作ってくれた女性との結婚を考えた時、彼女に子供が、つまり希久美のことなんだが、居ることにとても悩んでね。父親になれるのかとか、娘に受け入れてもらえるのかとかね。」
石嶋はだんだんビーフシチューの味がわからなくなってきた。
「暮らし始めてからも苦労が多かった。希久美はもちろんとてもいい子だ。だからこの苦労は、希久美に苦労させられたというわけではなく、親として未熟な自分への失望感なんだな。実際、親になる準備ができていないのに、ある日いきなり親になれと言うのは酷な話だ。」
「はい。」
「正直なところ、希久美には私のような苦労をさせたくないと言うのが未熟な義父の親心だよ。石嶋君に希久美を紹介したのは、社員として期待できるだけではなく、希久美に平安でしっかりとした家庭を与えられる家庭人としても、期待できると思ったからなんだ。」
石嶋は食欲が無くなりスプーンをテーブルに置いてしまった。
「それに…恥ずかしい話、希久美もいい歳だから、何度も恋愛を繰り返しながら、悠長に相手を探している時間が無い。無駄な恋愛をしている暇が無いんだ。」
石嶋は青沼の言葉を聞きながら、彼が専務になれた理由を垣間見た気がした。石嶋自身、別に希久美が嫌いではない。考え方の共通点も多いし、むしろ好きな部類に入っている。一緒に暮らすなら、彼女のような女性もいいかもしれないと思っている。しかし、あくまでもかもしれないというレベルなのだ。結婚を決意するには、まだ心の準備が出来ていない気がしていた。しかし、青沼の話を聞くと、いつのまにか会社の地位と結婚が紐付けられていて、強要や脅迫ではないがそれと同等な効果で、石嶋へ結婚に向けての実行動を迫る。この巧みな交渉術が、彼を今の地位へ押し上げた秘密なのだろう。
「どうした?ビーフシチューは嫌いか?」
「いいえ…。」
石嶋はスプーンを手にして、シチューを無理やり口に入れた。
まだ夜が明けていない休日の朝。今日は泰佑への復讐が完結する日。半年以上にもわたる努力の成果が今日試されるのだ。希久美は正直昨夜から寝られなかった。それは、いよいよ復讐成就への興奮からくるものなのだろうが、興奮の理由がすべてそれかと言うと、後になってみると首を傾げざるを得ない。興奮の中に若干の期待感が混じっているのに、その時の希久美は気付くことができなかった。したがってベッドに入っていても寝ることができず、まだ約束の時間にもなっていないのに待ち合わせ場所の歩道で立っていた。やがて、一台の車のライトが希久美の姿を照らした。泰佑があくびをしながら、車から出てきた。
「オキク。夜明け前集合なんて、いくらなんでも早すぎないか。」
「文句言わないの。」
「俺にレンタカー借りさせて、どうするんだ?」
「私がナビゲーターをするから、今日は言う通りに動くのよ。わかった?」
「今日も…だろ。まあいいけど…これでいったいなにがお礼になるんだ?」
「お礼に、私が今日一日泰佑の恋人になってあげる。」
希久美の言葉に、泰佑も目が覚めたようだ。希久美をまじまじと眺めた。
「泰佑は女の人が苦手だから、恋人いないんでしょ。当然甘いデートもしたことがないわけだから、経験させてあげるわ。」
絶句する泰佑。やっと絞り出した声は、震えていた。
「オキク、裏があるだろ。」
「なんで怯えてるの?今日は私が恋人になって泰佑にベタベタしてあげるって言ってるのよ。そのかわり、泰佑から私を触ったら殴るわよ。」
「やっぱり俺にトドメを指す気なんだ。」
「泰佑がおとなしくしてれば、そんなことしないわよ。さあ、出発しましょ。」
希久美は早速泰佑の腕を取り車に乗り込んだ。泰佑は、マクドナルドのドライブスルーで買ったコーヒーを、おそるおそる助手席にすわる希久美に渡す。希久美は、差し出す泰佑の手を両手で包みながらカップを受け取り、甘い声で言った。
「気が利くわね。ありがと、タ・イ・ス・ケ」
初めて聞く希久美の甘いトーンの声に、泰佑の総身に鳥肌が立つ。泰佑は、まとわりつく希久美の声を振り払うように、とにかくアクセルを踏んだ。
最初の希久美の指定は、レインボーブリッジだった。休日の夜明け前、さすがに車がまばらな道を軽快に飛ばす。
「ちょっと、飛ばし過ぎよ。」
「そんなに乱暴な運転はしてないけど…。」
「ちょっとここで止めて!」
「なんでこんなところで?」
「これじゃ、早く着きすぎちゃうのよ。」
「時間調整?なぜ?」
希久美は何も答えない。仕方が無いので泰佑はシートを倒して目をつぶる。慢性的な睡眠不足の泰佑に心地よい睡眠の入口が見え始めた頃、無情にも希久美は彼をたたき起こす。
「泰佑、起きなさい!今よ!」
寝込みを襲われた泰佑は、希久美の指示にわけもわからず車をスタートさせた。そして、ちょうどレインボーブリッジにさしかかった頃、日の出が始まった。朝日を反射させてまばゆく光る東京湾。朝日に照らされて、長い影を落とす高層ビルの群れ。
「うわぁー、やっぱり綺麗よね。」
希久美は紅潮した頬を車窓からの風にさらしながら、一心に景色を眺めている。
「オキクの時間調整の目的はこれか…。」
泰佑は眩しい朝日で逆光になり、シルエットでしか見えない彼女の後ろ姿を見ながら、希久美の長いまつ毛が風に揺れてきらきらと輝いてる様を想像した。
朝食は、徐々に明るくなっていく台場海浜公園のオールナイトカフェで摂った。希久美は泰佑の横の席に座る。ふたりは黙って、朝が始まり、街が目覚めていく様子を眺めていたが、やがて希久美が自分の頭を泰佑の肩にのせた。希久美の髪が、泰佑の頬に当たった。
「わたし、世の中に平等なんて存在しないものと思ってたのよ。」
泰佑は黙って、希久美の髪の香りを吸い込みながら、街の朝に見入っていた。
「でもね、街の朝を見ると時々思うの…。朝になれば、貧しい家にも、お金持ちの家にも…すべての人の家に朝日が降り注ぐじゃない。なんか、平等ってこういうことなんだなって感じがしたの。」
「そうかな…。」
「たとえ悪い奴でも、朝になればいい奴と同様に朝日が当ってしまうのよね。」
「いてっ、なんでつねるんだよ。」
「なんか、この絶対的平等ってやつに腹が立つのよ。」
「それが俺となんの関係があるの?」
「知ってた?恋人は一番近くに居る相手だから、時にはこういう理不尽な目にも遭わなければいけないの。」
「だから、恋人なんて頼んでないから…。」
「さて、次へ行く時間ね。」
次の場所は、東京国立近代美術館だ。泰佑が入場券を希久美に渡すと、希久美は、泰佑の腕を取り足早に歩きはじめる。数ある名作を歩き抜け、ある作品の前に直行する。それはシャガールの『真夏の夜の夢』であった。希久美はその作品の前に陣取ると、じっと動かなくなった。腕を取られた泰佑も並んでしばらく眺めていたが、絵そのものは美しいと思うが、シャガールの幻想世界であるがゆえにその絵の意味がよくわからない。
「オキク。この絵はどんな意味があるの?」
「泰佑は絵の見方を知らないのね。絵はね、理解するんじゃないの、感じるものなのよ。この絵から、何を感じる。」
「鹿なのかな、牛なのかな、とにかく獣の頭を持ったおっさんが友達の結婚式に出席したんだ。そのおっさんの顔が赤いから、きっと披露宴で酒を飲み過ぎたんだろうな。それで酔っぱらって、調子に乗って嫌がる友達の花嫁さんに抱きつき、周りからひんしゅくをかっているってとこかな。」
「あんたの想像力には言葉が出ないわ…。」
「ほめてくれてありがとう。」
「呆れてるのよ!」
「ならオキクは?」
「男と女のちがいよ。みずからの欲望や感情を顔に出せるから男であり、本当の気持ちや欲求を顔に出さず、心に秘めるからこそ女なの。見て、この憂いに満ちた女性の表情を…。」
「やっぱ女って怖いよな…。」
「やっとわかった。女ってのは、心の中で渦巻く本当の想いは顔に出さないものなのよ。恨みなんか特にね…。」
「いてっ、なんで足を蹴るんだよ。」
「恋人ってのは、本当の想いをぶつけられる相手のことを言うのよ。」
「話の流れがよくわかんねえよ。」
希久美は組んだ腕を解かずに、蹴られた足を痛そうに引きずる泰佑を、ギャラリーショップへと連行していった。
「この店、翁庵っていうんだけど、ネギせいろと鴨せいろが抜群なのよ。」
上野駅のそばにあるふるぼけたそばやの暖簾をくぐりながら希久美は言った。
「どうでもいいけど、そばやに入る時まで腕を組んでる必要ないでしょ。ふたり並んで入るには入口が狭すぎだろう。」
「いいから…。とにかく食券買って。」
「おれが出すの?」
「恋人だったら当たり前でしょ。」
「で、何を?」
「あんた人の話し聞いてる?さっき言ったでしょ。ネギせいろと鴨せいろよ。いつも来ると両方食べたいんだけど、一人じゃなかなか食べられなくてね。今日は嬉しいわ。ふたりだから、恋人らしくシェアして食べましょ。」
手書きの紙の食券を買って、しばらくするとせいろが運ばれてきた。ネギせいろの汁には、縦に切ったねぎと大きなかき揚げ、鴨せいろの汁には、ジューシーな鴨の胸肉が入っていて、どちらの汁も温かい。なかなかのボリュームだ。
「まず、私がネギせいろ。泰佑が鴨ね。」
ふたりはそばにたっぷりと汁をからませ、黙々とそばをすする。
「はい、ここでストップ。こんどは私が鴨ね。」
希久美が泰佑の汁椀を奪って、自分のものと交換した。
「ちょっと待て、ネギとかき揚げがほとんど残ってないじゃないか。」
「あら、そう。」
希久美はそばを口に入れながら平然と答える。
「おれは遠慮して、鴨を結構残したのに…。はっきり言うが、これをシェアとは言わない。日本のそばを食べる日本人でありながら、日本が世界に誇れる良き慣習である奥ゆかしさを、お前はいったいどこへ捨ててきてしまったんだ。」
「珍しく長セリフはくかと思えば、意味のないことをウダウダと…。ぐずぐずしてると残ったネギも食べちゃうわよ。」
「これが恋人らしくといえるのか?」
「上手いモノの前では、恋人もクソもないの。黙って食べなさい。」
「食べ物を前にして、汚ねえな。」
「そんなに言うなら、食べさせてあげましょうか。はい、あーん…。」
「もういいよ。自分で食べるよ。」
希久美は泰佑に車を歩道に寄せて止めるように指示をした。国道一号線。慶應義塾大学東門前である。希久美は、車から面倒がる泰佑を引きずり出す。
「この時間、ここから見る東京タワーが一番素敵なのよ。」
見上げてみると、東京タワーが青い空にそびえ立ち、手を伸ばせば掴めそうなほど近く感じた。見えている角度やその質感があまりにも空に溶け込んでいるので、人口の建築物と言うよりは、1千年も昔からそこにあった自然物のような気さえしてくる。
「だいたい、今どき東京スカイツリーじゃなくて、なんで東京タワーなんだよ?」
希久美は、泰佑の腕につかまり甘えるようにささやいた。
「あたし慶應ガールだって知ってた?かつては三田キャンパスのクイーンと呼ばれていたあなたの恋人は、ここから幾度も東京タワーを見上げていたのよ。」
「半分自慢だな。」
「当時はわたしと腕を組みたい一心で、慶應ボーイたちが長蛇の列をなしてわたしに腕を差し出したの。今、そんな私を独占している自分の幸福を、泰佑はわかってるの?」
「そうですか、たいしたもんですね。それが言いたいためにここに連れてきたの?」
「ちがうわよ。泰佑に一番素敵な東京タワーを見せたかったの。」
「ありがとうございます。ところで、慶應ガールのオキクはわかったけど、それより前のオキクはどんなだったんだ?」
「えーっ、今それを聞くの?ここで?」
「何、そのレスポンス。」
「うわー、聞くんだ。」
「だから、何だよそのレスポンスは?」
「話してもいいけど、さっきからライトグリーンの制服を着た叔父さんふたりが泰佑の車を眺めながら周りをぐるぐる回っているんだけど…。」
泰佑は車へ飛んで戻った。
泰佑がスターライトパスポートを2枚買って戻ると、希久美はすでにミニーのヘアバンドを付けてはしゃいでいた。
「次はTDLなの?」
「そうよ。恋人たちの永遠のデートスポットよ。」
「高校生じゃあるまいし…。」
「いいから行きましょ。」
希久美は、彼の手を握ると、はしゃぎながら泰佑を園内へ引っ張って行った。エントランスからワールドバザールを抜けて、メイン広場へ泰佑を導くと、広場の歩道にブランケットを敷いて腰かけた。
「アトラクションに乗らないの?」
歩道に腰掛けて動かない希久美に泰佑が問いかける。
「ここで、エレクトリカルパレード・ドリームナイツが始まるのを待つの。」
「ええ?まだだいぶ時間あるぜ。」
「泰佑もここにいらっしゃい。」
泰佑を自分の横に座らせた希久美は、さらに自分の膝を叩いて泰佑を促す。
「ほら、ここにくるのよ。」
「お、おい。膝枕なんて…。」
「いいのよ。おいで…。」
躊躇する泰佑の頭を抱えると、無理やり自分の膝の上に載せた。
「朝から連れまわしたから疲れたでしょ。ここで少し休みなさい。」
「しかし…。なんだか悪いし、恥ずかしいし…。」
泰佑は口で抵抗する割には、体がまったく抵抗を示さない。
「なによ、気持ちがいいくせに。恋人は周りの世界が見えないから、何をするにも恥ずかしがらないものなのよ。」
泰佑はぶつぶつ言いながらも、膝の上で寝がえりを打ち希久美のおなかに顔をうずめた。希久美の息に合わせて呼吸していくうちに、いつしか眠りの園に入って行ったようだった。希久美は、泰佑の寝顔を見守りながら、今日1日を振り返っていた。実は、TDLのパレードを含めて、この忙しいデートプランのひとつひとつが、高校時代、毎夜石津先輩にラブレターを書きながら、一緒にできればと夢想したものだったのだ。その夢を今日1日で一気に叶えた。実はこれは、希久美なりの復讐の一環ではあったのだが、その一つ一つの場面で見せた泰佑の反応が、まさに希久美が願った通りの反応であったことが嬉しかった。三田では、駐車監視員の登場に慌てた泰佑が、車道の縁石に足を引っ掛け、無様につまずくなんておまけまで付けてくれた。
考えてみると、今の泰佑は高校時代の石津先輩より子供に見える。身体はだいぶ大人になっているのになぜそんな感じがするんだろう。希久美は泰佑の髪をなぜながらしばらく考えていた。そうか、泰佑があの頃から変わらないのに、自分が大人になってしまったからそう感じるんだ。わたしは高校時代の石津先輩の仕打ちを含めて、母親の再婚、就職、様々な男の人たちとのお付き合いなどを経験し、今ではすっかり大人の女になってしまった。泰佑も同様なことがあったはずなのに、なぜかあの頃からこころの成長が止まっているようだ。
デートの待ち合わせ場所で石津先輩の私服姿を初めて見た時、仕事場で意欲的に動く泰佑の姿を見た時、希久美はその姿に男としての強いオーラを感じた。しかし今自分は、膝の上で寝息を立てているこの男を可愛いと感じている。いかん、いかん。希久美は慌てて首を振る。この男に可愛いなんて感情を持ってはいけない。所詮この男は、いたいけな女子高校生の処女を無理やり奪って、その日に捨てるような悪党なんだから。希久美は膝の上にある泰佑の頭を乱暴に投げ捨てた。
「いてっ、なんだよ急に。」
「もうすぐ始まるわよ。」
「だからって、この起こし方はないだろう。さっきから、優しくしたり、乱暴になったり…。」
「そう言う気まぐれが許されるから恋人なのよ。」
「恋人ってのは面倒だなぁ。」
やがて、リズミカルにストリートの明かりが消え、楽しい電子音とともにパレードがスタートした。無数のライトに彩られた美しさと楽しさで、興奮気味にパレードを見つめる希久美の瞳に、様々な色のライトが反射してキラキラと光っている。泰佑は恋人を持つと面倒だけど、案外悪いもんじゃないなと感じ始めていた。泰佑は殴られるのを覚悟で、おそるおそる希久美の手を握った。希久美から何の反撃もなかった。しかも意外なことに、希久美はその手を優しく握り返してきたのだった。
「だから私言ってやったの、勘違いもほどほどにしなさいって。そしたらそいつ泣き始めてさ、ハハハハ。」
TDLを出た後、近くのシェラトンホテルでふたりは食事を摂っていた。希久美は話すテンションが上がっている。
「しかし…。オキク、運転で酒が飲めない俺の前で、よくまあそんなに飲めるよな。」
「いいでしょ、楽しいんだから。」
実際、希久美は飲まずには居られなかった。いよいよ復讐のクライマックスを迎えようとしている今、素面では最後の局面に突入できそうにない。
「泰佑は泣いたことないの?」
「そうだな…。泣いた記憶が無い。」
「そうよね、高校の最後の試合でも泣かなかったものね。」
「なんか言った。」
「いいえ、何にも…。」
「でも友達に、テレビの『水戸黄門』で毎回泣いているやつがいたよ。なあオキク、『水戸黄門』観て泣けるか。信じられないよ。笑っちゃうよな。」
急に希久美が黙り込んだ。いきなり場の空気が変わって泰佑が慌てる。
「どうしたの、お腹でも痛いの?」
希久美はまだふさぎこんでいる。返事もないので泰佑も途方に暮れているとやがて希久美が口を開いた。
「亡くなったおばあちゃんが、『水戸黄門』を観てよく泣いていたのを思い出しちゃった…。」
あちゃー、やっちまった。
「わたしね、小さいころにお父さんがいなくなって、お母さんが必死に働いて育ててくれたの。だからお母さんは、仕事でほとんど家に居なかった。学校から帰ってきたわたしを家で迎えてくれたのは、おばあちゃんだったのよ。」
泰佑は頭を抱えた。やはりおばあちゃん子である泰佑にはたまらない切り返しだ。もう希久美に掛ける言葉を失っていた。
「おばあちゃんが大好きだったの。中学の時だったわ。おばあちゃんの具合が悪かったから修学旅行には行きたくなかったの。でもおばあちゃんが、思い出だから行って来いって…。わたし毎日家に電話したのよ。お母さんは大丈夫だって言ってたのに、帰ってみたらおばあちゃんの布団が片付けられていて…。お母さんたら修学旅行を台無しにしたくないと思って、嘘ついていたのね。初めてお母さんを恨んだわ。おばあちゃんの最後に一緒に居てあげることができなかったのよ。」
希久美のほほを伝わった涙が、テーブルクロスの上に落ちた。
「あの…、ごめん。決しておばあちゃんを馬鹿にして言ったわけじゃないんだ。それに、悲しいこと思い出させちゃって…。」
泰佑はハンカチを差し出した。希久美にもか弱い一面があるんだな。そう思いながら涙ぐむ彼女をじっと見つめていた。希久美は、こんなところでおばあちゃんを利用したことを心の中で詫びながらも、この瞬間を逃さなかった。グラスを手に取ると、心を落ち着かせるために飲む振りをして、ワインを胸元にこぼしたのだ。
「やだ、あたしったら…。服がしみになっちゃうわ。」
希久美はシミの具合を見るために、慌ててブラウスの襟元を引いた。首元から希久美の鎖骨が露わになった。テレサの時とは違って今度は薬も飲んでいないのに、泰佑が反応を示した。
希久美がシャワーを終えてバスローブ姿で出てきた。手には薬の溶けたミネラルウオーターを持っている。アクシデントで急遽押さえることになったホテルのツインルーム。泰佑はいすに座ってTDLの夜景を眺めていた。その後ろ姿は、何かに怯えているように感じられる。こいつこんなにうぶだったっけ?希久美は泰佑に近づきながらそう思った。
「心配ごとでもあるの泰佑。ほら、水でもお飲みなさい。」
泰佑は、希久美からグラスを受け取ると一気に水を飲み干した。何に緊張しているのか、相当のどが渇いていたに違いない。よし、これならまちがいなくやれる。泰佑が緊張していればいるほど、希久美はリラックスできた。
「別に心配ごとなどない。だいたい、そんなかっこで男の前をうろつくもんじゃないぞ。」
「シミ抜きで服を渡しちゃったんだからしょうがないじゃない。何着ればいいっていうの。それにいいのよ。恋人だから。」
「恋人って…。今日は振りだろ。ここまではやり過ぎだろう。」
「さっきから、なんで私の顔見ないの。」
「夜景の方が綺麗だから…。」
緊張しちゃって可愛い奴だ。そう思いながらも、希久美は泰佑の身体に薬が浸透するのを冷静に待った。確かテレサは、5分くらいから効き始めるって言ってたわよね。相変わらず泰佑は夜景を見ていた。経過する時間を確認して、いよいよ希久美は後ろから泰佑の肩に手をまわした。豊かとはいえないまでも、希久美の柔らかい乳房がバスローブ1枚を隔てて泰佑の首筋に触れた。
「何するんだ。」
「いいから、もっとりラックして…。」
希久美は薬の効果を信じて、後ろから泰佑の首筋にキスをし、耳たぶを軽く噛んだ。泰佑はまったく動かない。
「今は振りをやめて、泰佑と愛し合いたいの。」
泰佑の耳元でそう囁くと希久美は前に回る。泰佑は震えながら目を閉じていた。希久美は、泰佑の両頬を手のひらで支えると、ゆっくりと顔を近づけ、唇にキスをした。意外なことに、そうまったく意外なことに、その時希久美の頭のてっぺんで鐘が鳴った。それも半端な音ではない。あまりの音量に、頭の中が真っ白になった。意識が飛びそうになった。もし今、強く抱きしめられてたら、確実に意識が飛んでいたにちがいない。あの時の記憶が無い理由がわかった。しかし、今回は泰佑は抱きしめてこなかった。ゆっくりと顔を離すと、これも意外なことに、閉じた泰佑の瞳から、涙が流れていた。やがてとまどう希久美の肩に泰佑は優しく手を回すと、窓の方を向かせて座っている自分の膝に抱きあげた。後ろから希久美を抱きしめて、ゆっくりと話し始めたのだ。
「自分が周りの友達とちがうとわかりはじめたのは、中学のころだった。みんなのように、女の子に関心を持つことができなかったんだ。だからと言って男が好きなわけではない。ただ単純に女の子に興味が持てない、いやむしろ嫌いだったんだ。なぜ自分がそうなったのかわからない。でも世の中は男と女しかいないだろ。そのうち、女性に対して性的にも精神的にも興味が持てない自分に悩み始めるようになった。高校生になってもかわらず、悩みを振り払おうと必死に野球の練習をしていたある日、自分が見つめられていることに気づいた。それも今まで感じたことのないような暖かな、そして落ち着いた視線だったんだ」。
石津先輩は私が見ていたのをわかってたんだ。希久美は身体を硬直させて泰佑の言葉を待った。
「学園に居る時も、グランドで練習している時も、その視線は自分を柔らかく包み込んだ。とても心地よかったんだ。誰に見守られているんだろうと探して、ようやくその主を突き止めた。でもその主が、今まで興味が持てなかったはずの女の子であることがわかって、正直驚いたよ。そして、高校も卒業しようとしている頃、やっとその女の子と話すことができた。自分はその娘に賭けてみようと思った。」
希久美は、手紙を渡したあの日を思い出した。
「彼女と初めて会って、待ち合わせ場所でいきなり彼女を抱きしめた。彼女もびっくりしたろうな。彼女には悪いけど自分の身体の反応を確かめたかったんだ。驚いたよ。普通の男の子のように、体に力が満ちた。そしてその日、ようやく男になることができた。」
なんだと、ただ自分が男であることを確かめる為だけに、私を抱いたってことなの。怒りがまた湧いてきて、希久美は泰佑の抱擁から逃れようともがいた。しかし、泰佑はその腕を強く絞り、希久美を離さない。
「話はまだ続くんだ。聞いてくれよ。」
泰佑の切実な口調に、希久美もおとなしくなった。
「やっと本当の男になったみたいで、その時は嬉しかった。これで自分も他の仲間と一緒になれた。有頂天になって、その女の子をほったらかしにして大学に行った。でもそれは間違いだったことがすぐわかった。女としての魅力や成熟度が増している女子大生に囲まれているのに、相変わらず性的にも精神的にも興味が持てない。なぜ、あの女子高生には男になれるのに、他の女の人はだめなんだ。不思議で、理由を確かめたくて、慌ててその娘を探した。でもその娘の名前と消息が忽然と消えてしまっていた。探して、探して、それでも探し出すことが出来なかった。」
「それが、寝言で言っていた菊江って娘なの?」
「覚えていたのか…そうなんだ。」
「泰佑さ、その娘に会って自分の事確かめる前にやることがあるんじゃないの!」
自然と希久美の語気が荒くなる。
「そうだな、自分の事ばかり考えてしまって…。彼女も初めての日に取り残されて、そうとう傷ついたに違いない。許されることじゃないが、まず謝罪しなくちゃな。でもつい最近に偶然彼女のクラスメイトに会って、彼女が交通事故で亡くなったことを知った。これで、永遠に謎のまま、そして謝罪も出来ないまま生きるしかないわけだ…。」
えっ、あたしがいつ死んだのよ。誰よ、そんなデマ流したやつは…。
「その娘を性的関心だけでなく、精神的に関心があった、つまり好きだったのかどうかは、今考えてもよくわからない。その頃の自分があまりにも幼かったから…。」
このやろう!あたしは本気だったのよ。
「でも今ははっきりと言えるんだ。オキクと出会って、初めて女性に心が動いた。自分は青沼希久美が好きだ。」
泰佑の意外な言葉に希久美がフリーズしてしまった。黙りこくるふたり。後ろから抱きしめる泰佑、抱きしめられる希久美、お互いの息遣いが聞こえてくるようだ。やっと、希久美が口を開いた。
「いつから?」
「たぶん、会社で初めて挨拶した時からだと思う。一目見た瞬間、初めて会ったとは思えない気がした。身体中に電気が走った。」
そんな様子は見せなかったのに…。希久美は音をたてないように唾を飲み込んだ。
「今もオキクと会いたい。ずっと一緒に居たい。心が狂おしいほどオキクを求めている。なのに、相変わらず体が反応しないんだ。つまりそれは、いくらオキクを愛していても、オキクに恋人や妻や母になる女の幸せを与えてあげることができないということなのさ。それが…それが本当に悔しくて仕方がない。生きている意味がないとさえ思えるよ。」
泰佑は、希久美を軽々と抱き上げて、ベッドに寝かせ希久美の髪に触れた。
「今日は振りでも本当に嬉しかった。たった1日だったけどオキクと恋人になれた。しかも、今日は人生で初めて泣いた記念すべき日になったものね。まあ、初めて会ったその日からオキクにいじめられ続けて、いつか泣かされるんじゃないかと予想はしてたけどね。ありがとう。」
泰佑はそう言い残すと静かに部屋を出て行った。
なに?なに?なに?なんなのこの展開?どういうこと?だからなんなの?
ベッドに取り残された希久美の頭が混乱する。今日は夜明けからいろいろなことがあり過ぎた。ほほに涙が跡をつけたまま泰佑が去った後、希久美は嬉しくもないし、悲しくもない。なにも感じられない。もう何ひとつ考えることができない。希久美はベッドの毛布を被り、とにかく寝ることにした。
今日の女子会は、なぜか和食で日本酒の気分だ。だから、希久美は、ナミとテレサを銀座一丁目にある日本料理屋に招集した。テレビなどでブームになる前から宮崎の名物『冷汁』をメニューに加えていたところメディアで紹介され、「冷汁の岩戸」として人気を博した店だ。もちろん冷汁だけではなく、昭和52年創業の実績で、築地の河岸で良い海鮮素材が安く仕入れられるため、その時期の一番を低価格で提供してくれる家庭的な店である。女子会は、いつも騒がしい乾杯から始まるのが常だ。しかし今日の希久美の声には、いつもの張りが無かった。ナミが心配して言った。
「どうしたの、復讐が成就したというのに、なんか元気ないわね。」
「まあ、明日のジョーじゃないけど、試合が終わって今はまだ真っ白って感じかしら…。」
「でも、考えてみたら、石津先輩は、オキクをほったらかして大学に行った時からすでに、オキクの復讐を受けていたってことね。」
テレサがお通しに箸をつけながらナミの言葉に続いた。
「いわば今回の復讐は、瀕死の病人に鞭を打ったって感じかな?」
「いつも思うんだけど、テレサが編集やれているのが不思議でしょうがないわ。なんて不適切な表現かしら…。」
「いえ、テレサの言うことにも一理あるわ。でも、泰佑はどうしてそうなっちゃったんだろう。精神科の医師の見地からどう?。」
「本人から詳しくヒヤリングできていないから、正確なところはわからないけど…。オキクには失礼だけど、少なくとも一度はオキクとはやれているんだから、先天性のフィジカルな理由ではないわね。やはり後天性のメンタルなものに起因しているのは確実ね。症状が現れた時期を考えると、思春期を迎える前、それも幼年期頃に心に大きな傷を負った確立が高い。」
「えー、幼年期に女の子とセックスして侮辱されたってこと?」
「テレサも短絡的ね。なにもこうなった原因がセックスの失敗とは限らないわ。でも女が絡んでいる事は事実ね。幼いころから一番多く接する女って誰?」
「母親かしら…。えー近親相姦?」
「だから、全部セックスに結び付けないでよ。」
「そう言えば、以前泰佑のおばあちゃんから昔のアルバム見せてもらったけど、母親と撮った写真が一枚もなかった。母親の写真すら見当たらなかった気がする…。」
希久美は、あの時アルバムで見た泰佑のあどけない笑顔を思い出していた。黙ってしまった希久美に構わず、テレサが今度はお刺身をつつきながら話を突っ込んでいく。
「でも、なんでオキクとだけ出来たの?」
「そうね、不思議ね。私にも謎だわ。」
さじを投げたナミに、希久美が遠い目つきでエピソードを加えた。
「確か、菊江が死んでしまった今では永遠の謎だと本人も言っていたわ…。」
「でも、菊江が死んだなんて誰が言ったのかしら?」
「それ、私よ。」
希久美とナミが驚いてテレサを見た。テレサが伏し目がちに、泰佑と会った日のいきさつをポツポツと説明する。テレサのカミングアウトを聞きながら、希久美もナミも開いた口がふさがらなかった。
「なんで死んだなんて言ったの?」
希久美の問いに、テレサが口をとがらせて答えた。
「だってあんまりしつこく聞かれるもんだから、つい…。」
「しかしテレサも怖い女ね。オキクの獲物を横取りしようとしたの?」
「いい男でもったいなかったから…。インポテンツになる前に一口だけならいいかと…。」
「あの、泰佑がゲロゲロになった夜ね。思い出した。泰佑に薬盛ったのテレサだったのか。」
「でも、それで石津先輩の家に行けたんだから、結果オーライじゃない、ね。許して。」
「許してじゃないわよ。あんた、ヒロパパに薬盛ったらただじゃ済まないからね。」
「誰?ヒロパパって。」
「ナミの片想いの相手よ。これもいい男なんだけど、患者だから手が出せないんだって。」
「わたしそれ初耳よ。そんな人いたの、なんで話してくれないの水くさいわね。」
「テレサと飲んだ日、オキクは出張で居なかったから…。」
この場でナミの片想いの相手が希久美の見合い相手だと判明したら大変なことになる。テレサはこの話がこれ以上突っ込まれないよう慌てて話題を変えた。
「でもオキクもすごいわね。私が薬の力を借りても、どうにもならなかった男のこころを動かしたんだから。綿密な計画もさることながら、その行動力と演技力には脱帽するわ。」
『演技力』という言葉が、希久美の心に刺さった。泰佑の一筋の涙を思い出した。
「ねえナミ…。」
「嫌ね、妙に潤んだ眼しちゃってなによ、オキク。」
「泰佑は…治らないの?」
「えー、この期に及んでなに。いまさら情けを掛けるつもり?」
テレサが口をつけていたお猪口を、テーブルに叩きつけて言った。
「そういうわけじゃ…。」
「ちゃんと診察を受けてくれれば、その糸口くらい見つけられるかもしれないけど、それでも治るかどうかわからない。治すためには患者のこころの奥底に入って、その理由を探して取り除いてあげないとだめなの。でも患者さんがこころの奥底まで受け入れてくれるなんて、どんな優秀な精神科医でも、それができるとは限らない。」
「泰佑が心の奥底まで受け入れられる人か…。」
「そうね。いま思いつくのは、高校時代の菊江くらいなものだけど、もう死んじゃってるしね。」
ナミは、テレサを睨みつけた。テレサは視線を落として、忙しく箸を口に運んだ。
「ということは一生、男として女を愛することができないし、当然父親にもなれないんだ。」
「ねえ、プチ・プラザのチイママの話しを想い出さない。」
テレサが急に会話に参加して来た。
「男に愛されず女になれなくなったニューハーフ、女を愛せずに男になれなくなった青年。つまり両方とも『奇妙な果実』ってわけね。」
テレサの言葉が、また希久美の胸に刺さった。いくら飲んでも、もう希久美は酔うことができなかった。
診察室のドアを開けて入ってきたのは、ユカとヒロパパであった。
「あら、先日はお世話になりました。どうぞお掛けになってください。」
「はい。こちらこそすっかりお世話になってしまって…。」
石嶋がユカを膝に抱きながら、診察用のいすに座る。
「今日はどちらを診たらよろしいのかしら。ユカちゃん?それともヒロパパ?」
「ユカと自分のことでご相談があって…。ちょっとユカに聞かれたくないのですが、外に出していいですか?」
ナミは石嶋をしばらく見つめた。楽しかったあの一日を思い出した。しかし帰りのタクシーの中で、医師であることに徹しよう決心したのだ。石嶋への思いが募れば募るほど、言葉は冷徹な医師の口調になってしまう。
「私は医師です。健康に関することしか答えられませんよ。」
「はい…。」
ナミは、看護師にユカを連れ出してしばらく相手をするように指示した。ユカが部屋を出ても、石嶋はしばらくもじもじして話し始めない。
「他の患者さんがお待ちですから、早くお話し下さい。」
「はい。…実は仕事や将来にとても強い影響力がある人から、結婚を勧められています。相手はその人の娘なんです…。」
「何度かデートされていた方と違う方かしら?」
「いいえ、その人です…。でも、どうもユカの事は受け入れてくれないみたいで」
「デートにユカちゃんを連れて行ったんでしょう?」
「あっ、受け入れてくれないのは父親の方でして…。お付き合いしている女性は、ユカを連れて行った時優しくしてくれたんですが、正直まだどうだかわかりません。」
ナミは黙って石嶋を見つめていた。
「この結婚を考えようと思っても、もしユカが先生のおっしゃっている通りだったら、ユカが心配で…。逆に、ユカは落ち着いた両親がそろったところで育った方が、自分みたいな半端な人間のもとにいるより幸せになれるんじゃないかとも思うし。それにユカの為に自分の夢をあきらめても、後々ユカは本意じゃないと悲しむかもしれないし。」
黙って石嶋の話を聞いていたナミだったが、ついにキレた。
「石嶋さん、あなた馬鹿ですか?」
「えっ?」
「おかしいんじゃないですか、ユカちゃんのこと考えているようなこと言ってますが、一番大切なことから逃げています。ユカちゃんと一緒にいることを選んで、もし仕事が上手くいかなくなったらユカちゃんのせいにするんですか?ユカちゃんと離れることを選んで、結婚生活が上手くいかなくなったら、ユカちゃんに負い目があったからって言うんですか?」
「何も先生、そんなに怒らなくても…。」
「いいですか、大切なことは石嶋さんの想いがどこにあるかなんじゃないですか?仕事が好きなんですか?その女性が好きなんですか?ユカちゃんが好きなんですか?おい、石嶋隆浩。お前の想いはどこにあるんだ。」
待合室まで聞こえるほどの大声に、石嶋は震えあがった。看護師が止めに入るか悩むほどの剣幕である。
「この際ユカちゃんなんか考えなくていい。あなたの想いがどこにあるかで決めればいいんです。それで決めたことなら、それがもしユカちゃんと離れることであっても、ユカちゃんはそれを受け入れなくてはいけないんです。いや絶対わかってくれます。今日つらくても、結果的に明日は幸せになれるんです。」
興奮のせいか、なぜかナミの目に涙がにじんでいた。
「だから、今こうして目の前に座っている石嶋さんは、情けないひきょう者にしか見えません。診察は終わりです。お帰り下さい。次の方どうぞ!」
それだけ言うと、ナミは石嶋を見ることもなくカルテのモニターに顔を埋めた。だから、石嶋がどんな表情で出て行ったのか、ナミは知ることもなかった。
「青沼、1階の受付にお客さんだぞ。」
「今日は別に約束なかったはずなのに…。」
「石津ミチエさんだって。4階の応接ルームに通すか?」
泰佑のおばあちゃん?
「いえ、私が1階に行きます。」
希久美は意外な訪問者に、胸騒ぎを覚えながら1階の待ち合わせロビーへ降りていった。受付に着くとフロアの隅で不安そうに希久美を待つミチエの姿が見えた。その小さくなった肩には、ロビーで右往左往する大勢の来客に圧倒された心細さが現れていた。緊張しているのか、話し方も以前泰佑の家で会った時とは違ってぎこちない。
「突然おじゃましちゃって。ご迷惑だったですね。」
「いえ…。」
「本当にごめんなさいね。でもこの会社は大きいわね。人が大勢行き来して、なんか東京駅に居るみたい。」
「特にこの受付は、社員の自分も呆れるほど人が多いです。…ところで、今日は?」
「ご相談したいことがあって…。少しお時間をいただけるかしら。」
「ちょうど昼休みですから、お食事でもしますか。」
希久美は、ミチエをシオサイトにある蕎麦屋へ案内した。いつもは満席になる店も、早めの昼なのですぐ座ることができた。
「どうされたんですか?」
「実は、泰佑のことなんですけど…。」
当然そうだよな。希久美は襟を正した。希久美はデートの日以来、泰佑と会っていない。次のプロジェクトの都合で泰佑のオフィスが変わったこともあるが、自分が泰佑にしたことの評価や泰佑への感情が整理できず、みずから連絡をとる事が出来ないでいた。むしろ、防衛本能なのか泰佑に関しての思考を無意識のうちにストップさせていたという表現の方が正しいかもしれない。
「もともと泰佑は仕事を熱心にする方なんですけど、最近の泰佑の仕事ぶりは度を越していて…。まるで狂ったように仕事をしているんです。毎日帰って来るのも夜明け近くだし。それでいて、朝早くまた出ていくし。食事もろくに取らないから頬がこけちゃって、疲れのせいか目つきも悪くなっているし。少し休んだらと言っても、全然言うことをきかないのです。家じゃろくに話もしないから、わけがわからなくて。このままじゃ泰佑は倒れてしまうんじゃないかと心配しています。」
あいつ馬鹿なことを…。希久美は心の中で、あの夜静かに語った泰佑の話しを思い出していた。
「お付き合い頂いている青沼さんなら事情をご存じかと思って…。」
「別にわたしたち付き合ってるわけじゃないですよ。今は泰佑と働くオフィスも別なので、全然会ってないし。」
「高校の時と同じように、前日からそわそわして…。珍しくめかしこんで出て行った日があって。その日以来様子がおかしくなったんです。あの日、青沼さんとお会いになったんじゃないかと思って…。」
「いえ、別に会ってませんが…。」
希久美は嘘をついた。あの日、自分が泰佑に何の目的で何をしたのか、ミチエに言えるはずもない。
「そうですか…。変なこと申し上げてごめんなさいね。ならば、わたしの話し忘れてくださいな。」
ふたりの席にそばが運ばれてきた。そばを見て希久美は、翁庵で不公平なシェアに抗議していた泰佑を思い出していた。しばらく、黙ってそばを食べていたふたりだが、希久美が箸を止めてミチエに問いかけた。
「あの…。プライベートな話なんですが、聞いてもいいですか?」
「どうぞ。青沼さんなら、なんでもお答えしますよ。」
「あの…。泰佑はお母さんとどんなだったんですか?」
ミチエは、箸を止めてしばらく希久美の顔を見つめていた。答えをためらっているというよりは、どう説明していいか考えをまとめているような感じだった。
「泰佑の母親は、つまり私の娘ですけど、とても自己中心的な子でね。なにかあると全部人のせいにするし、ひとに謝ったこともほとんどない。考え方が常に、自分が世間に対して何ができるかより、世間が自分に何をしてくれるのかだったのです。私の育て方が間違っていたんでしょうね…。だから、自分の子供に関してもそうでした。泰佑にとっての自分を考えることができず、常に自分にとって泰佑がどうであるかしか考えられなかったのね。」
ミチエは、もう食欲をなくしてしまったようだ。箸を置いて話すことに集中していた。
「泰佑を産んだ時、自分の天中殺の期に生まれた子だと言って、はなから自分とあわないと決めつけていたようでした。意図的に遠ざけていたようだし、会えば文句ばっかり言っていました。父親と同居している時はまだよかったんだけど、離婚してからは私が預かることにしたの。でも、娘の為に言っておきますが、決して泰佑を愛してなかったわけじゃないのよ。愛し方が適切じゃなかったのです。」
「今はどうなんですか?」
「中学時代、高校時代の時は、大事な野球の試合は見に行っていたみたいだけど、今ではもうほとんど会うこともないし、たとえ会ったとしも泰佑はひとこともしゃべりません。」
「そうなんですか…。」
「あの…。母親のことが今の泰佑に何か関係があるんですか?」
「いえ、別にそう言うわけじゃないんですけど…。」
ふたりは食事を終えて店を出た。
「図々しいお願いですが、もし機会があったら、泰佑と話してやってもらえますか?」
「はい…。おばあちゃんも御心配でしょうから、近いうちに私も連絡を取ってみます。」
「そうですか、ありがとうございます。今日は突然おじゃましてすみませんでした。」
「いえ、こちらこそご馳走になってすみません。」
手を振ってミチエを送る希久美ではあったが、ミチエとの約束を守れるかどうか自信が無かった。
石嶋の誘いで希久美は指定されたレストランに向かっていた。希久美の気は乗っていなかったが、断る理由もないので義父の手前、承諾したのだ。一方石嶋は、ナミに相談に行く前に取り付けた約束だったので当初からの積極的な姿勢を失っていた。案の定、気の乗らない希久美と積極的姿勢のない石嶋の会食は、言葉少ないだるいものとなってしまっていた。
石嶋は、先日ナミに怒鳴られたことが堪えていた。これでナミに怒られるのは2回目だ。今回は情けない卑怯者とさえいわれて、取り返しようもないほど自分に失望したようで気が重かった。今までのナミとのやり取りを思い出す。ナミは石嶋の前で様々な顔を見せる。診察室に居るナミは、冷静で優秀な医師そのものだが、ユカと話す時は母のようで、雷の前では少女の様で、酔っぱらった時は叔母さんの様で、キッチンで料理している時は妻の様で…。えっ、何考えてるんだおれ。だいたい俺にさんざん怒っていたが、メールで俺を迎えに来させたりして、ナミ先生自身はいったい何を考えているんだ。石嶋がナイフとフォークを置いて希久美に話しかけた。
「青沼さん。質問があるんですが…。」
希久美もようやく自分ひとりでないことを思い出して、石嶋を見た。
「はい、なんでしょう。」
「女性の本当の想いを知るためにはどうしたらいいんでしょうか。」
「それ、私のことですか?」
希久美が警戒して石嶋に答えた。
「ごっ、ごめんなさい。青沼さんのことじゃなくて、一般論でいいんです。こんな質問ができる女性は青沼さんしかいないので…。」
「そうですか、安心しました。それならお答えしますが、残念ながら、女性の本当の想いなんて、男性がどんなことしてもわかるはずありません。」
「そうですか…。」
「女は綿密な計画を練って、相当な執着心を持って想いを隠します。それも無意識にです。自分の家族にもわからないんだから、ましてや他人の男なんかに解りっこありません。」
「ですよね…。」
「がっかりしました?」
「いえ…。」
「でも、人間のやることでもあるから、わずかな証拠を残す時もありますよ。完全犯罪に挑む名探偵のように、そのわずかな証拠を見逃さず、そして解読できれば、もしかしたらわかるかもしれませんね。」
「そうですか…。でもシャーロック・ホームズじゃあるまいし、自分にはできそうにありません。」
ふたりの会話が途切れた。
希久美は、泰佑とシェラトンホテルで別れた日から何日も、モヤモヤとした日々を過ごしていた。そのモヤモヤ感は、日を追うごとに膨らんでいく。この前ミチエと会ったことが、さらに胸のわだかまりを大きいものにしていた。期待もしていないが、泰佑からも連絡が無い。泰佑のオフィスは渋谷の岸記念体育館の中にあるので、偶然に出会う奇跡などあろうはずもない。えっ、今私なんて言った?泰佑に会いたいの?石嶋と食事しながらもそんな自問自答を繰り返していた。今度は希久美が石嶋に問いを発する。
「石嶋さん。質問があるんですが…。」
「はい、なんでしょう。」
「男性が、寝食を忘れ、体を壊すこともいとわず、狂ったように仕事をするのはどんな時でしょうか?」
石嶋は、黙って希久美を見つめた。質問の意味を整理しているようだった。やがて話し始める。
「自分のため、恋人のため、家族のため、会社のため、社会のため。理由はいろいろあるでしょうが、正直なところそんな使命感で狂ったようには仕事できません。だぶん、それは自分への絶望感でしょう。自分自身の絶望感から逃避したいんです。きっとその結末には、いいことなんかありませんよ。」
石嶋との食事を終えた数日後、仕事中の希久美の携帯に、ナミの電話番号が表示される。
「なに?」
「余計な話だと思うけど、石津先輩がさっきうちの病院に救急搬送されてきたわよ。」
石嶋の答えが現実のものとなった。
希久美が病院に駆けつけた時、泰佑は相部屋の病室のベッドで点滴を受けながら寝ていた。そばにミチエが付き添い心配そうに泰佑を見守っている。顔見知りである希久美に気付いたミチエは、安心してすこし顔を明るくして声をあげた。
「青沼さん。来て下さったの。」
「おばあちゃん。泰佑はどうですか?」
「今は落ち着いて寝ているけど、さっき気がついた時は、これから仕事へいくんだと大騒ぎだったのよ。」
希久美は寝ている泰佑の顔を覗いた。驚いた。たった10日間前後でこんなに顔が変わるのか。頬が痩せこけ、あごの線が鋭くなっている。目の周りが落ちくぼんで、若干くすむとともに、肌と唇は荒れ放題。イケメンの残影はあるものの、躍動していた泰佑の面影はまったくない。
「そうですか…。でも命に関わるほどじゃないんでしょう。」
「今はそうだけど、退院すれば同じ事繰り返して、いずれは命に関わることになるような気がして心配だわ。」
そう言いながら心細くなって震えるミチエ。希久美はその肩を優しく抱いて慰めた。病室のドアが開いてナミが入ってきた。希久美と目で挨拶する。
「そうだ、おばあちゃん。今入ってきた先生が、私の同級生で荒木先生と言うの。科は違うけどこの病院では顔が利くから、困ったことがあったら何でも相談してね。」
ナミがミチエの手をとり挨拶した。ミチエは、よろしくお願いしますと言いながら何度も頭を下げた。
「おばあちゃん、ちょっと荒木先生と話してくるから待っててね。」
希久美とナミが連れだって病室を出て、廊下にあるベンチで話し始める。
「どうして泰佑だとわかったの?」
「救患で精神科がからんでる予見があったんで、とりあえず私が呼ばれたの。カルテの名前を確認して驚いたわ。」
「そう…結局、泰佑はどうなの?」
「患者さんのことは、部外者に話せないのはわかってるわよね。」
「いいから話しなさい。」
希久美の言葉に有無を言わせない強さがあった。ナミはしばらく考えた後話し始めた。
「まあ、あんたもこの件では部外者だと言える立場でもないしね…。過労からくる自律神経失調症よ。今は、メジャートランキライザー、つまり強力精神安定剤を投与して寝てるけど、目が覚めたら、また仕事に戻るって騒ぎだすでしょうね。」
「過労の原因は?」
「それはオキクが一番よく知ってるでしょ。とにかく最後の一発が致命傷だったのね。」
「おばあちゃんが、退院すれば同じ事繰り返して、いずれは命に関わることになるんじゃないかって言ってたけど…。」
「適切な治療を受けなければその通りね。」
「治療って前の話し?」
「そう、心の奥底に行って原因を見つけて、取り除いてあげる。でもこの病院にはそれができる人材も設備もないわ。」
「あれ、青沼さん。なんでここに?あっ、ナミ先生…。」
ひそひそ声で話しているふたりの前に、突然石嶋が現れた。驚いて立ち上がるふたり。同時に病室のドアが勢いよく開きミチエが飛び出してきた。
「青沼さん。なんとかしてください。泰佑が起きだして、仕事へ行くと言いだしてるんです。」
希久美が、石嶋とナミを残して病室に飛び込む。泰佑が、半身起こして、乱暴にも点滴の管を抜こうとしていた。
「このばか泰佑っ!あんた何やってんの!」
希久美の一喝は、泰佑どころか、相部屋のすべての人々を凍りつけるに十分な迫力とパワーを持っていた。
「オキクだ…。」
「なに、あたしがいちゃ迷惑?つべこべ言わずに、おとなしく寝てなさい!」
泰佑は、すごすごとベッドに戻り、希久美に言われるがままに布団を被った。
「青沼さん。あなたさすがだわ。」
仁王立ちの希久美の背後でミチエが絶賛の拍手を贈る。ナミと石嶋が希久美の剣幕に怯えてその様子を見守っていた。
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オキクの復讐もいよいよ最終段階へ。オキクは綿密な計画のもとに、冷酷にその復讐を達成するが、その後オキクの心に、信じられない思いが帰来する。そして新たにオキクの下した結論とは…。