No.527953

オキクの復讐 - 2

オキクの復讐プロジェクトが始動した。泰佑との仕事を通じて、着々とその準備を進めるが、改めて泰佑のことを知るにつれて時に心はあらぬ方向へ。初心を忘れず、オキクは復讐へ邁進することができるのか…。

2013-01-05 06:08:11 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:450   閲覧ユーザー数:450

 ナミの病院では、病院内の施設を開放して、地域住民のための市民公開講座を開催していた。市民講座は月に一度休日に開催され、今月は小児科が担当し『子供の急な発熱への対処』というテーマで、ナミが講師を務めることになっていた。司会である事務長の紹介の後、ナミが講師席についた。来場者の顔ぶれを見渡すと、その中にユカのパパを発見した。市民公開講座なのだから、興味のあるテーマだったら来ているのも当然だとは言え、彼が自分を見つめていると思うとなぜかナミの胸の鼓動が早まった。

 PCをプロジェクターに投影して、説明を始めようとすると小さな女の子がトコトコ歩いてきてナミの膝の上にちょこんと座ってしまった。

「あら、ユカちゃんじゃない。」

 ナミは突然の来訪者に驚きながらも、ユカを慌てて引き戻そうと席を立つ父親を制した。

「私もアイドル並みにこどもの患者さんのファンが多くて…。今日も可愛い親衛隊が来てくれました。皆さんがお嫌でなければ、このまま話しを進めさせていただきますが、よろしいですか?」

 ナミの申し出は来場者の笑いと拍手で承認され、講座は始まった。ユカを膝に抱いたままの講座は、会場をアットホームな雰囲気に包み、ユカの笑顔は受講者と講師のフランクなコミュニケーション形成に貢献した。ナミ個人にしても、ユカを膝に置くことにより、パパの視線から受ける不可解なドキドキ感を回避することできてありがたかった。ユカは時にはレーザーポインターを持って実際の助手の仕事も務め、講座は無事に終了した。

「どうもすみません。今日はユカを見てくれる人が居なくて。家に置いておくわけにいかないので、迷惑だとは思ったんですが連れてきてしまいました。」

 講座終了後、ユカのパパが慌ててやって来た。

「いいえ、おとなしいし、手伝ってくれましたし、来てくれてありがたかったですよ。」

「いいえ、ご迷惑をおかけしました。ユカ、ほらおいで。」

 ユカは、しぶしぶナミの膝から降りて、パパのそばに寄って行った。ユカの手をとって立ち去りかけた石嶋だが、思い直したように立ち止まる。

「あの、お忙しいところ誠に申し訳ないのですが、講座の内容について最後にひとつだけ質問してもいいですか?」

 ナミは、ユカと手をつなぎながら、すまなそうに話すパパの様子をあらためて見た。見た目で彼の年齢を推し量ることは難しいが、若いその容姿から自分と同じ世代であろうことは容易に想像できた。休日の私服は決して高価なものではなさそうだが、そのきちんとした着こなしは、彼に並み以上の教養と品を感じさせる。その体形は長身で細身ながら決して詭弱なものを感じさせない。実の娘ではないユカがなついているところ見ると、それなりの優しさも持ち合わせいるのだろう。そう言ってしまった動機は、ナミ自身にも未だに不明だが、その時はいたって自然に誘いの言葉を口から出すことができた。

「ユカちゃんもパパもお昼食べました?私まだなんです。よろしければ、お昼をご一緒に食べながら質問にお答えしてもいいかしら。」

 ナミとパパとのやり取りの雰囲気を察したユカは、何も言わずパパの手を振り切って今度はナミと手をつないだ。賢い子ね、ユカちゃんは…。そう思いながら、ナミは彼女の頭を優しく撫ぜた。

 ナミのいきつけのパスタの店へ向かう道では、ナミとユカは手をひと時も離さず歩いた。道すがら女性物の雑貨店を発見したナミは、パパにひとこと言ってユカと店に入っていった。パパは、店の外で待ちながらユカの様子を心配そうにのぞいていたが、彼女たちは、店の中で髪留めを選んでるようだった。ナミがユカの髪をまとめながら、様々な髪留めを試している。そんなふたりの姿を見ながら、パパは決して自分が入って行けない女の世界を感じていた。やがて、出てきたユカを見ると、髪に可愛いシュシュを付けていた。髪留めひとつでこんなにも女の子の印象が変わるのかと驚いた。

「はじめてユカちゃんと会った時から気になってたんです。髪をまとめるともっと可愛い女の子になるなって…。」

 そういえば、ユカの髪をとくなんて思いもつかなかった。パパはそう思いながら、可愛くなったユカの後ろ姿を見守った。

 パスタの店では、ユカがよく喋った。ナミは聞き役と言うよりは、同じ世代の友達のようにおしゃべりした。パパは圧倒されながらふたりの会話に聞き入っていたが、たった5歳のユカにも好きな人、嫌いな人が居て、こんな悩みがあったのかと初めて知ることばかりだった。

「わかったわ、ユカちゃん。今度はパパとお話する番だから、ちょっと待っててね。さて、お待たせしました。ご質問はなんでしょうか?」

「えっ、ああ…お聞きしたいことは…すみません、忘れました。」

「まあ、どういうことでしょう、ユカちゃんパパはもしかしらた認知症っていう難しい病気かしら。それともみんなでお食事したくて嘘ついたのかな…。」

 キョトンとするユカの口に、ナミはフォークに絡めたパスタを運んだ。ナミの言葉に慌てたパパは盛んに言い訳をする。

「先生、すみません。そんなつもりはなかったんです。」

「私の名前は先生ではありません。荒木ナミといいます。」

「はい、荒木先生。」

「私は、まだお名前をパパの口からお聞きしてませんが…。」

「すみません。この子はユカ。私は石嶋隆浩と言います。それから、自分はユカのパパではありません。叔父です。」

「はじめまして、ユカちゃん。私はナミ先生よ。」

 名前を呼び合いながらふたりは、テーブルの上でハイタッチをした。

「ユカちゃんは。パパのことを何と呼ぶんですか?」

「くどいようですが、自分はユカのパパではありません。叔父です。」

「はいはい、叔父さん。で、なんて呼ばれてるんですか?」

「…ヒロパパです。」

「やっぱりパパじゃないですか。かっこつけちゃだめよね、ユカちゃん。」

 そう言いながらナミが笑うと、ユカも笑った。やがて笑いもおさまると、ナミは笑顔で石嶋に向って言った。

「わたしもヒロパパってお呼びしてよろしいかしら?」

「その呼び方がお好きならどうぞ。ご勝手に。」

「ヒロパパ、そのかわり私のことナミ先生って呼んでもかまわないですよ。」

 その後のナミ達のテーブルでは、食事が終わっても3人の話しは弾んだ。ナミ先生、ユカちゃん、ヒロパパ。そう呼び合いながら食卓を囲むと、その席だけ別世界にあるような錯覚に陥る。ナミは、プチ・パレスのチイママの話しが、あながち嘘ではないなと感じていた。

 

「泰佑、会議資料の準備できた?」

「ああ、20部だったよな。」

「ちょっと、あたしが指示したページネーションになってないじゃない!」

「こっちページ立ての方が明らかに論理的でわかりやすい。」

「なんで、あたしの言うとおりにやらないのよ!」

「言われたままの仕事を望むなら、アシストにバイトでも付けろ!」

「ほんとにもう…。時間ないからいいわ。いくわよ、泰佑。」

「オキク、半分資料持てよ!」

 オフィスを飛び出す希久美と泰佑。今や、田島ルームと斉藤ルームの離れた席で怒鳴り合うふたりのやり取りはオフィスフロアの名物となっていた。仕事の話はいつも語気がきつくて、穏やかに話しているところを見たことがない。時には取っ組み合いを始めそうな勢いで口論するふたりだが、それでいてお互いを下の名前で呼び合うのは妙だと、みんなが感じていた。田島ルーム長ですら、長い付き合いなのに希久美を名前で呼んだ経験がない。実際のところ、セクハラ騒動で話題となった当人同士だから、両ルーム長ともふたりのやり取りをハラハラしながら見守っていた。

 希久美にしてみれば、復讐が進行している安心感か、泰佑を見る目が落ち着いてきた。比較的冷静に彼に接することができることが嬉しかった。過去に遠目でしか見たことのない希久美にとっては、身近に感じての泰佑との共同作業は興味が尽きない。あらためて接してみると、言うことを聞かない泰佑のがんこな気質に驚いたが、彼の仕事には満足していた。社内でどんなに口論しても、客の前では余計な発言は一切しない。リーダーの希久美を立てて見事な副官ぶりを務めている。クライアント先での会議でこんなことがあった。昼食後で腹が膨れたクライアント達が、地方公務員にありがちなだれきった態で、企画を説明する希久美を前にしながらも、居眠りを始めたことがある。希久美は不快感を覚えながらも仕方なく説明を続けていると、突然泰佑が席から弾けるように立ちあがったのだ。

「あっ、すみません!」

 泰佑が自分のグラスを倒し、氷とアイスコーヒーをテーブルの上にぶちまけてしまったのだ。

「自分不器用なので…。ほんとうにすみません。」

 と言いながら慌ててコーヒーを拭く泰佑に、クライアント達が失笑する。

「失礼しました。では、気を取り直してご説明を続けさせていただきます。」

 希久美が説明を再開すると、今まで舟を漕いでいた連中が、見事に目を覚まし希久美の説明に聞き入るようになっていた。泰佑の失態が実は意図的なものであったことは、もちろん希久美も察っすることができた。

 もちろん公のプロジェクトとともに、私のプロジェクトの進行も重要だ。プチ・パレスのチイママのアドバイスを軸にしながら、泰佑の気持ちをこちらに向ける努力も怠ることが出来ない。週明け提出の事業収支計画を作成するため、出勤を余儀なくされたある土曜日。希久美は、長い髪に軽いウェーブをかけて、少女っぽい花柄のワンピースを着てオフィスへ向かった。オフィスにふたりだけになる土曜出勤に、普段会社には着てこないような服で出社し、自分に見せるために特別におしゃれしてきたと、泰佑に淡い勘違いをさせるのが目的だ。

 オフィスに行くと、泰佑はもう先に来て作業を進めていた。泰佑もカジュアルな私服姿だった。椅子に浅く腰かけ、素足にデッキシューズを履いた長い足をテーブルの上に組んで、予算資料を読んでいた。しばしその姿を眺めていると、10年前渋谷で待ち合わせた彼の姿が蘇ってきた。今日の私服姿は、あの頃もまして肩幅の広さと足の長さを強調する。あの事さえ考えなければ、彼は希久美の関心の持てる男性リストのトップに名前を連ねられるクオリティを保持している。だからこそ、余計に彼が許せない。また怒りが、希久美の血を沸騰させる。しかしここはひとまず自分を落ち着かせて、買ってきたスタバのコーヒーをポットからコップに移し、泰佑のデスクに持って言った。

「土曜出勤なのに早いのね。」

「貴重な休日だから、早く終わらせたい。」

 泰佑は希久美を見ても朝の挨拶すらせずに、ぶっきらぼうに答えた。

「コーヒーどう?」

 希久美はカップを泰佑の前に置いた。泰佑は、じっとカップを見つめ手を出そうとしない。

「なによ。公私の公では、コーヒーに悪戯はしないわよ。安心しなさい。」

「ああ…。ありがとう。」

 泰佑は恐る恐るカップを手に取った。希久美は席に戻る背中に、泰佑の視線を感じた。どんな想いの視線なのかはわからないが、とりあえず服を変えてきた作戦は成功したかもしれない。

 作業は予算項目を分担してそれぞれが作成することから始め、統合する作業を残して昼になった。外で昼食をとる時間も惜しかったのでオフィスでランチボックスを食べることにした。希久美の好みを聞いて今度は泰佑が買ってきた。よもや作成中の予算書が載っている自分のデスクで食事をするわけにはいかないので、作業デスクに移ってふたりで弁当をほうばる。黙々と箸を動かす泰佑を見ながら呆れたように希久美が言った。

「ほんとに無口ね、泰佑は。ふたりで食事している時くらいなんか話しなさいよ。」

「同席を泣いて嫌がってた人のセリフか…。無理して話しをても、オキクが関心を持つような話題は持ってない。」

「それなら、食後の暇つぶしに私の質問に答えなさい。」

「嫌だね。」

 希久美は泰佑の拒否の言葉もお構いなく質問を投げかける。

「泰佑は同性愛者なの?」

 泰佑は、あまりにも直球の質問に驚き咳き込んで、口の中のご飯粒を飛ばした。

「汚いわねぇ、口に入れたもの飛ばさないでよ…。」

「いきなり何だ!」

「だって派遣社員の女子が嘆いてたわよ。」

「水飲むか?。」

「ちょっと、待ちなさいよ。まだ話してるんだから。」

 希久美が立ちあがる泰佑の袖をつかんだ。

「女の子だと、話し掛けようと寄って行くと離れていくし、やっと話しかけられても返事しないし、それでもがんばって誘っても断るばっかりだし。男ではそうでもないのに…。」

「男が好きなわけじゃない。」

 逃亡を諦めて、泰佑が希久美の前に腰掛けて言った。

「オキクがゲロを吐きまくっていた夜…」

「なんで今その話しなの?」

「言ったはずだ。自分は女が苦手だ。」、

「そのクールなところが派遣社員の女の子にウケルのかしら。」

「もっとはっきり言おうか。自分は正真正銘の男尊女卑イストなんだ。」

「ふーん。でも…、その割には…。」

 希久美が悪戯っぽい笑みを顔に浮かべながら、言葉を続けた。

「…私と昼食したがったり、私の飲みの誘いは断らなかったじゃない。」

 希久美の言葉に返事もせず、泰佑は怒ったように席を立ち、ランチボックスの空きがらを持って給湯室へ消えていってしまった。彼の反応を見た希久美は、作戦が成功しているのかどうか自信が持てなかった。しかし、こんな会話が気安くできるようになったのも、自分と泰佑が少しづつ親しい仲になりつつある証拠だろうと自分を納得させた。この先、より「親しい友達」になり、さらに「特別な友達」になるなんて、なんて先の長い話なんだろうか。

 午後の作業に入り、事業収支計画を完成させる頃にはすっかり夜となってしまった。一応泰佑に夕食を誘ったが、今度はあっさりと断られた。昼の会話の内容をまだ引きずっているようだった。

 

 泰佑との初めての出張で、希久美は鳥取県庁に居た。商工観光課のメンバーに、開館記念事業の動員広報計画について企画を説明しているうちに、気分が悪くなってしまった。会議を中断して慌ててトイレに駆け込んだ。気分も落ち着いてトイレから出るとそこに泰佑が待っていた。

「具合悪いのか?」

「ちょっと目まいがして…。」

「息を吸う暇なく、あれだけしゃべり続ければ、酸欠にもなる。」

「うるさいわね。行くわよ。」

 会議室に戻り中断の失礼を詫びて、希久美は説明を続けた。会議の終盤には遅れて部長が参加してきた。部長は、総務庁からの出向で、2年ほどこの役職を務めれば中央に戻るキャリアだ。地方の施設の開館記念事業など爪の先ほどの関心もないはずなのに、企画の説明終了後に、あたかも最初から居たかのように会議を締める。

「とにかく、たくさん動員できるように派手に頼むよ。なんなら、ジャニーズ事務所の役員が六本木の飲み友達だから、紹介してもいいよ。」

 希久美は笑いながら、曖昧な返事を返した。

「さて会議も終わったところで、今夜はわざわざ来てくれた君たちへのお礼に、席を設けたんだが、どうだい。」

 日帰りを想定していた希久美と泰佑はお互い顔を見合わせた。泰佑は目で今日は希久美も疲れているから、辞して帰ろうとサインを送ったが、希久美の返事は違った。

「ありがとうございます。ぜひご同行させていただきます。」

 希久美が部長に案内されたのは、国の登録有形文化財にも指定されている「善五郎蔵」内にある、しゃぶしゃぶ・すき焼きの専門店だった。宿と帰り便の変更手配で遅れてきた泰佑が席に着くと、部長はご機嫌顔でうんちくを始める。

「ここのあたりはね、江戸時代から、米子城下の十八町のひとつとして発展してきた法勝寺町というんだ。町禄として、唐津物・古物商が許され、現在も陶器や呉服の老舗が多いのが特徴でね。ここに実在した築120年の三連蔵がこの『善五郎蔵』。再開発にあたり、この蔵を商店街の中心施設としてショップとギャラリーにリニューアルしたんだ。」

 それからの部長の話は、総務庁勤務の自慢話と地方出向の嘆きばかり。泰佑は、部長が話している方向がほとんど希久美にむいているのに気付いた。そしてその部長の意図が、委託会社のスタッフを慰労しているものではなく、単に希久美の女の部分に関心があるからなのだと気付くのにそう時間はかからなかった。食事も終わり、それでは2次会へと部長が提案すると、県庁の部下たちは心得たもので、私どもは明日がありますのでと辞して、部長についていくものはひとりもいない。つまり、これから部長が気兼ねなくふるまえるようにする気遣いなのだ。希久美の身を案じてそばに貼りついている泰佑に対し、部長があからさまに不快感を見せた。2次会の店では、酔いも手伝ってか、泰佑を無視してあからさまに希久美を口説き始める。希久美は笑いながら、部長をうまくあしらっていた。夜も更けて、泰佑がそろそろお開きと言うと、自分が希久美をホテルまで送って行くから先に帰れと言ってきかない。泰佑が希久美に一緒に帰るようにサインを送るが、今度も希久美は取り合わない。仕方なく泰佑はひとりでホテルへ戻ると心配でロビーで希久美を待った。

 小一時間待っただろうか。やがて、部長と希久美がホテルにやってきた。部長は希久美の腰に手をまわし、千鳥足になっている。泰佑が見守っていると、部長はホテルのエントランスで、希久美に彼女の部屋で飲み直そうと駄々をこねている様子がわかった。希久美が笑いながら拒んでいると、いきなり部長は希久美の身体を抱き寄せキスをした。見ていた泰佑の怒りが爆発した。希久美を助けようと駆け寄る泰佑に気付いた希久美は、目で泰佑を制する。

「あら、部長。酔っぱらっちゃって、奥さんと私の区別もつかないんですかぁ。東京の奥さんが恋しいんだ。さあ、早く帰って奥さんの夢でも見ましょ。」

 そんな部長にも怒ることもなく希久美は、おやすみなさいと部長の背中を押した。部長は諦めて家に向かってふらふら歩き始めた。その後ろ姿を見送る希久美に、泰佑が近寄っていった。

「大丈夫か?オキク」

「別に…。仕事をしている女には、よくあることよ。」

「よくあること?」

「不愉快だけれど、ウブな女子高生でもあるまいし、蚊に刺されたほどでもないわ。」

 希久美は、自分の横顔を見つめる泰佑の視線を意識した。やがて泰佑が口を開く。

「しかしあの部長、キャリアだか何だか知らないけど、最低だな。」

 そう言うお前も同じだ。しかも泰佑から受けたダメージは、間違っても蚊に刺された程度とは言えないものだった。胸に込み上げてきた言葉を吐き出したい気持ちを押さえ、希久美は話題を変える。

「帰りの便は押さえた?」

「ああ。」

「なら、朝フロントで待ち合わせましょう。疲れたから休むわ」

 希久美はエレベーターに向かいながら、彼女をじっと見送るだけで一緒にエレベーターに乗り込まない泰佑を不思議に思った。

 

 翌朝、フロントで泰佑と待ち合わせ、タクシーに乗り込んだものの、希久美はいつまでも見知らぬ道を走り続けるタクシーに心配になって聞いた。

「ねえ泰佑。このタクシー空港へ向かってるの?」

「いや…。朝一の便が取れなかったので、ちょっと寄り道することにした。」

 泰佑は車のシートに悠々と腰掛け、平然と答える。

「何を勝手なこと言ってるの!あたしは帰ってやらなくちゃいけないことが、いっぱいあるのよ。」

 騒ぎまくる希久美に構わず車はその進路を変えようとしない。希久美が航空便の空席確認をしようとバッグからとりだしたスマートフォンを、泰佑はやすやすと取り上げた。

「なんてことするの!返して!」

 掴みかかる希久美に泰佑は抵抗もせず、しかし動こうともせず平然と構えていた。

「泰佑!私を拉致ってどうするつもり!」

 希久美は10年前を思い出して怖くなった。やがて、タクシーが鳥取砂丘の入口に着くと、泰佑は希久美を無理やり降ろしタクシーを帰してしまう。

「あたしもう嫌!なんであんたとこんなところに来なきゃならないの?」

 泰佑に悪態をついて、希久美は歩道にしゃがみ込む。それを見た泰佑は、今だとばかり希久美の足元に飛びついた。

「何するのよ!」

 泰佑が、今度は希久美の靴を取り上げてしまったのだ。裸足になった希久美の悪態が一層激しくなる。

「靴返してほしければ、ここまでおいで。」

 靴を指先にぶら下げながら、泰佑は砂丘の奥へと進んでいく。追い掛けて靴を取り戻そうとする希久美。靴を奪い返される寸前のところで逃れる泰佑。やがてふたりは、砂丘の小高い丘にやってきた。

「もうお前なんか切ってやる。いい、今この場で靴を返さなかったら、本当にセクハラで訴えるから覚悟しろよ。」

 怒りも頂点に達した希久美が、最後通牒を泰佑に付きつけるが、彼は構いもせず、丘から遠い海を眺めている。

「いい風だなぁ…。」

「馬鹿野郎!」

 希久美は、ついに泰佑に殴りかかった。強く固めたこぶしで泰佑の胸板を強く叩くが、泰佑はびくともしない。泰佑のすねを蹴り上げるが、素足の蹴りは泰佑に何の効果もなかった。殴り、蹴り、やがて息も上がり、ついには足がもつれて、砂の上にへたり込む。あぁ、やばい。また涙が出そうだ。

「ああ?また泣くのか?」

「うるさいわね!」

「オキクも不思議なやつだなぁ。エロ部長のセクハラにはまったく動じないのに…。」

 確かに、最近なんでこんなに泣き虫になってしまったんだろう。この馬鹿野郎のせいだ。希久美は泰佑を見上げた。何事もなかったように、目の上で手をかざし遠くを眺めている泰佑を見て、希久美は息を飲んだ。スーツを風になびかせて、青い空を背景した彼の凛とした立ち姿は、希久美に言葉を飲み込ませるに十分な力を持っていた。しばらくして、泰佑が口を開いた。

「空と海と台地。生きるには、これだけで十分だよな…。」

「ちっ、何バカなこと言ってるの!私は靴とスマホがなければ、生きられないのよ!すぐ返して!」

「百歩譲ってだな、これ以外に必要なものがあるなら言ってみろ。」

「だから、言ってるでしょ。あたしには…」

「靴とスマホ以外でだ。」

 泰佑は澄んだ眼差しで希久美に問いかけた。

「えっ?ああ…。強いて言えば、肌が焼けるのが嫌だから日陰が欲しいわ。」

「俗人め…。」

 泰佑はそう言うと、足元の砂をかき分け始める。

「何しているの?」

 奇行を慌てて止めに入る希久美に構わず、泰佑は砂を掘り進め、そして一対のパラソルを掘りだした。

「えっ、なんで?」

 砂の中から掘り出されたて驚く希久美の足元に、泰佑はパラソルを開いて差し込んだ。

「気付いている人は少ないが、砂の中には、欲しいものがすべて埋まっている。」

「ドラえもんのポケットじゃあるまいし、バカバカしい…。」

「さて、次は?」

「えっ、まだあり?」

「まだまだ。」

「そしたら…やっぱり座りたいかな。」

 今度は5歩ほど離れた砂を掘り始め、折りたたみのデッキチェアと小さなサイドテーブルを掘り出した。椅子に座った希久美の顔も、今では、驚き顔から笑顔の呆れ顔に変化している。なんとなく楽しくなってきているようだ。

「まだ、あり?」

「まだまだ。」

「なんか、飲みたーい!」

 泰佑はまた掘りはじめる。今度はクーラーボックスを掘りだした。クーラーボックスから冷やしたグラスを取りだすと透明な深紅色のカクテルを注ぐ。希久美の大好きなカシスソーダだった。

「まだまだ、あり?」

「まだまだまだ。」

「お金が欲しーい!」

「馬鹿、それは無い。」

 しかし泰佑は、クーラーボックスを掘りだした位置から西へ正確に歩測すると、今度はそこからビニール袋を掘りだした。袋には植田正治写真集『:吹き抜ける風』とサングラスが入っていた。

「砂のイリュージョン。」

「幻想的というほど美しくもないわ。」

「残念…。」

「でも、確かに想定外ではあるわね。」

「想定外っていうのも、楽しいだろう?」

「と言うか…泰佑、山陰海岸国立公園でこんなことして大丈夫なの?」

「広報用の撮影の下見だと言って県の観光課に口を聞いてもらった。」

 泰佑はもうひとつのデッキチェアを掘りだしている。

「許可をもらった場所だから大丈夫。」

「あきれた…。」

「余計なことだが…。」

 泰佑も自らも掘りだしたデッキチェアに横になりながら、言葉を続けた。

「オキクは昼食を取りながら、晩ご飯の献立を心配しているような時がある。」

「だから何よ。」

「別に…。」

 泰佑は、昨夜ホテルで別れてから、県と交渉し、さらにこれだけのものをこの砂丘に埋めたのだろうか。希久美は今まで、どの男からもこんな手の込んだセッティングをしてもらった記憶がない。泰佑の言う通り、サングラスをして写真集を膝に置くと、風の音が聞こえた。目の前に広がる本物の砂丘がサングラスを通してモノクロの世界になる。もともと植田正治の写真は、鳥取砂丘を背景にしてモチーフを撮ったモノクロの世界だ。本物と写真の世界を見比べると、ふたつの世界が融合して頭の中で新しいイメージが広がる。カシスソーダを口に含み、砂丘の風に身をまかせると、自然と湧き出てくる空想の絵画が青い空に描かれていった。やがて希久美は、空想に満ちたゆたやかな眠りにおちていった。

 

 どのくらい時が経ったろうか。希久美は泰佑の声で起こされた。

「おいオキク。」

 デッキチェアで希久美が目を覚ますと、泰佑がびっくりするほど近くに顔を寄せていた。

「何よ!」

 あわててとび起きる希久美に、泰佑が靴とスマホを差し出した。

「時間だ。さっきの入口わかるな。そこでタクシーが待っているから。」

「あれ、泰佑はどうするの?」

「まだやることがあるから次の便で帰る。」

 なんで同じ便で帰らないのか。不思議に思いながらも、希久美はタクシーが待つ場所まで歩いた。振り返って見ると、泰佑がドタバタとパラソルやいすを片付けている姿が見える。考えてみれば、備品を国立公園に置きっぱなしにできないし、終了の挨拶も管理事務所にしなければならないはずだ。なんだ、それで時間がかかるから便を遅らせたんだ。そう思い当たると、あらためてそんな苦労までして演出する泰佑の馬鹿さ加減に呆れる希久美だった。

 希久美は空港へ急ぐタクシーの席に落ち着くと、寝入った姿を泰佑に見られてしまった不覚を悔やんだ。でもあいつ、やり方は少々強引だが、仕事以外の部分ではじめて自分に思いやりを示してくれた。どうやら、より親しい友達になるステップは達成したのかもしれない。しかし、なんであたしの顔にあんなに近づいていたんだろうか?寝ているあたしの顔を見ていたんだろうか?

 

 テレサとモールにショッピングに出ていたナミの足に、突然女の子が抱きついてきた。驚いてナミが声を上げると、女の子は大きな声で笑った。

「あらっ、ユカちゃんじゃない!久しぶりね。」

 すぐにユカを呼ぶ男性の声が、追ってきた。

「ユカ!ひとりでいっちゃだめだ。」

 ユカを親しそうに抱き上げるナミを、テレサも男性も驚いて見ていた。

「その子、誰なの?」

 テレサの問いに答えず、ナミはユカを抱いてくるくる回る。ユカは一層楽しそうな声で笑った。

「あの…いい加減、ユカを返してもらえませんか?」

 ナミは、ユカを抱いたまま男性を見た。男性の抗議の言葉に、それでもユカを降ろさなかったのは、声の主が石嶋ではなかったからだ。

「私は、ユカちゃんの主治医の荒木と言います。失礼ですが、あなたはユカちゃんのパパではありませんよね。」

 ユカを抱いたまま疑わしそうな目で見られた男性は、不愉快な口調で言った。

「ユカのパパに頼まれて預かっているんです。」

「そうですか…。ちなみにユカちゃんがパパをなんて呼んでいるか知ってますか?」

「ちょっと、ナミ。やめなさいよ。失礼でしょ。」

 なおも食い下がるナミをテレサがいさめる。しかし、ナミはいっこうにユカを降ろそうとしない。男性は、明らかに気分を害したようだった。

「先生が自分を誘拐犯と疑っていることはよくわかりました。ユカのパパの電話番号を言いますから、ご自身でご確認ください。」

 男性は石嶋の携帯電話の番号をナミに告げた。

 

「ええ、先生。彼の言う通りです。そいつは昔からの親友ですから、安心してください。ご心配かけてすみません。」

 電話を切った石嶋は、ナミからの電話を喜んだ。早速着信番号を登録する。思いがけないところでナミの携帯番号をゲットできた。いそいそと携帯電話をいじる石嶋に、希久美が声をかけた。

「おうちで何かあったんですか?」

「いえ、別にたいしたことありません。」

 今はユカのことを知られたくなかった石嶋は、電話の内容について口を濁し、急いで話題を変えた。

「ところで、青沼さんはすごいですね。」

「何がですか?」

「今日のデートプランですよ。」

「あら、女性の私が差し出がましかったかしら?いつもお任せするばかりで、申し訳なくて…。」

「いや、映画、食事、散策、お茶と、一度も待つことなく、迷うこともなく。その場の思いつきで歩いていないことが、よくわかります。」

「ツアーの企画旅行みたいで、詰め込み過ぎかしら?」

「とんでもない。それでいて流れに無理がなくて自然だから驚いているんです。」

「どうも、先が見えないと不安な性分なんで…。可愛げがなくてごめんなさい。」

「自分は、今日の青沼さんが可愛くないと、ひとことも言ってませんよ。」

「私、可愛いですか?」

 石嶋は、あけすけな希久美の突っ込みに、一瞬言葉を失った。

「そうは思っていても、まだお付き合いの浅い自分ですから…。青沼さんのように自立した女性を軽々しく可愛いと言うのは失礼な気がします。」

「上手く逃げましたね。では、質問を変えます。どんな時に、女性を可愛いと思います?」

 石嶋は、『可愛いい』という言葉に、ユカを連想した。ユカは今頃何をしているんだろう。泰佑のことだから、心配はないと思うが。

「やすらかな寝顔を、間近で見守っている時ですかね。」

 希久美は、石嶋の言葉に鳥取砂丘の遠い空を思い、胸に妙な高鳴りを覚えた。一方、石嶋は自分の答えを聞いて黙ってしまった希久美を見て、自分の答えが彼女の期待にそえなかったのかと危ぶんだ。しかしそれでも、希久美との何度目かのデートで、ようやく艶のある会話に持ちこめたことが嬉しくもあった。

 

 テラス席のあるカフェ。ケーキを食べ終わったユカは、扱いにくいと文句を言いながらも必死に自分の髪を編んでくれるテレサが、新しいお友達として気に入っているようだ。ナミは、疑いをかけた失礼を詫びながら、泰佑の相手をしていた。

「ユカちゃんからは、何と呼ばれているんですか?」

「タイ叔父さん、です。」

「あら、ひろパパに、タイ叔父さんですか…。」

 笑い出すナミに、泰佑は憮然とした。

「おかしいですか?」

「いえ、ごめんなさい。ユカちゃんの周りには、素敵な男性がたくさんいるから、うらやましいんです。」

 石嶋がユカを預けるくらいだからきっと信用できる人なんだろう。ナミは言葉少なで無愛想ではあるがこの男性にも好感が持てた。しばらく黙って、ユカとテレサを見守っていたふたりであったが、泰佑が重い口を開いた。

「さきほど主治医とおっしゃってましたが…。」

「ええ、こう見えても小児科の医師ですよ。」

「そうですか…。ひとつ聞いてもいいですか?」

「ここで診察は無理ですよ。」

 笑って冗談を言うナミにも、泰佑はにこりともせず真剣に言葉を続ける。

「いや…。昔から疑問だったのですが、何歳までが小児科の診療対象年齢なんですか?」

「みなさんよく聞かれます。別に大人を診てはいけないと言う決まりはないのですよ。タイ叔父さんも、私のところに来て頂いてもかまわないんです。ただし周りが子供ばっかりだから、居づらいでしょうけど…。つまり、対象年齢は、私が決めるのではなくて、患者さんが決めるんですね。」

「そういうことですか…。」

「それに、小児科なんて名前にしたから、内科、外科の関係なくこども達はやってきます。だから幅広く対応するための勉強は不可欠なんです。例えば、私は病院では精神科医としての診察もできるんですよ。」

 泰佑は、今度はナミを見つめて黙ってうなずくだけだった。また、しばらくの沈黙の後。

「あの…。今度病院にご相談に行っても…。」

 ようやく泰佑の口から出た言葉はあまりにも小さく、ユカに飛び付かれたナミの耳には届かなかったようだ。テレサと交代して、今度はナミがユカと遊ぶ。テレサはすれ違いざま、小声でナミの耳元で囁いた。

「いつまでもいい男を独占してるんじゃないわよ。私にもチャンス頂戴!」

 テレサはユカのお相手に疲れたように振舞いながら、図々しく泰佑の横に腰掛けた。

「ユカちゃんは可愛いですよね。」

 テレサが、少し泰佑の方にすり寄った。

「…私もユカちゃんの年の頃は、お人形さんみたいに可愛いって、よく言われてたんです。」

 泰佑は何の反応も示さなかった。

「私の名はテレサっていうんですけど…、タイ叔父さんの下のお名前を、聞かせてもらえません?」

 泰佑は、相変わらず話しかけてくるテレサを珍しいものを見るかのように眺めた。

「なんでそんなことを?」

「できれば、タイ叔父さんではなくて、下のお名前でお呼びしたくて。」

「勘弁してください…。」

「えっ、だめですか?どうして?私のこともテレサって呼んでもいいですから…。」

 泰佑は食い下がるテレサには一切取り合うことがなかった。

 

 希久美が家に戻ると、ソファーに寝そべってゴルフ中継を見ていた義父が、半身を起こして彼女を迎えた。

「早いな。石嶋君とデートだったんろう?」

 希久美は、ソファーに足を投げ出して乱暴に座わった。義父のつまみを横取りし、口に投げ入れながら答える。

「石嶋さんは、夕方には家に戻らなきゃならないそうよ。」

「なんだ、ディナーは無しか?」

「雨も降ってきたし、早めの解散は正解ね。」

 希久美は、今度は義父のビールグラスを横取りして、豪快に喉を鳴らして飲んだ。

「ところでどうだ、石嶋君の印象は?」

「別に、良くもなく、悪くもなくってとこかしら。」

「俺は、お似合いだと思うんだがな…。」

「でもね。なんかトキメキがなくてね。」

「偉そうに…。今まで男にトキメイたことなんかあるのか?」

「あったわよ。お義父さんに初めて会った時。」

「ばか言うな。」

 ニヤつきながら枝豆を口に運ぶ義父。冗談だとわかっていても、娘からそう言われると相好が崩れるのは父親の常なのだ。

「もうトキメキがどうだとか言っている年じゃないだろう。そんなことより、この後一生付き合える相性の方が大切じゃないのか。」

「はいはい。お母さん、お義父さんがもっと枝豆欲しいそうよ!」

 希久美は、空の皿を口実に、キッチンへ退散した。

 

 タクシーのフロントガラスにあたる雨を、ワイパーが忙しく払っていたが、段々強くなる雨足に、視界も危うくなってきた。ナミがタクシーを玄関に横づけすると、そこではすでに石嶋が傘を開いて待っていた。石嶋はタクシーの運転手に料金を払い、濡れないように傘を差し出しナミを家に導いた。

「ナミ先生。こんな時間に電話してしまってすみません。」

 テレサとショットバーで飲んでいたナミだったが、そろそろ帰ろうかとしたところで、携帯が鳴った。

「どうしていいかわからなくて…。」

「ちょうど家に帰るところだったからいいんです。ユカちゃんを診ましょう。会った時はなんでもなかったけど…。」

 ユカの急な発熱に慌てて、アドバイスを求めてナミに電話したのは石嶋だったが、家にまで行って診ようと申し出たのはナミの方だった。果たして、ゆかは小さなベッドの上で、ぐったりしていた。しかし、ナミが来たことがわかると、喜んで半身を起こし抱っこをせがんだ。ナミは、額や首筋をなぜながら触診で熱を確認し、ベッドの上でユカを腕の中に抱きかかえる。その姿勢で、体温計で熱を測り、眼やのどをペンライトで照らして見て、心配そうに見守る石嶋に言った。

「確かにお熱は高いですが、その他の異常なところは見られません。汗もかいているようですから、とにかく今は、かたく絞ったタオルで身体を拭いて着替えさせてあげましょう。先日処方した解熱剤は、まだ残っていますか?」

 ユカのベッドの上から矢継ぎ早にナミは指示を出す。石嶋はバタバタしながら対応した。石嶋が用意したタオルと着替えをナミが受取りユカの身体を拭こうとしたが、その場でじっと見守る石嶋に、ナミが言う。

「紳士はレディの着替えを眺めたりしないものですよ。」

「えっ?自分はユカの保護者ですが…。」

「やあねぇ、ユカちゃん。ヒロパパったら、デリカシーがないわよね。」

 ユカにそう語りかけるナミに、石嶋も何かばつが悪くなり子供部屋から出た。ドア越しから、ユカとナミがなにやら話している声が聞こえたが、声が小さくその内容までは知ることができない。薬を持ってドアの外に立っていたが、しばらくしてもお呼び掛からないので、焦れた石嶋がドアをノックする。

「ナミ先生。薬を持ってきましたが…。」

「ああ、お薬ですか。もう必要ないみたいです。しばらくふたりにしておいてもらえますか。」

「しかし…。」

「ユカちゃんと私の為に、温かくて甘い飲み物でも作ってください。」

 石嶋は仕方なく台所に退く。確かココアがあったはずだ。ココアなど作ったことがない石嶋だが、ようやく探し当てたココアの缶を握りしめて考えた。ユカは家政婦が休みの日に限って熱を出す。あれ、ココアを溶かすのは、水か?ミルクか?屋根のひさしをたたく雨音が激しくなった。外の雨は強さを増しているようだ。今夜は、ナミ先生が来てくれて助かった。こんな嵐のような雨の夜に、診てくれる病院を求めてユカを連れ回ることは出来なかった。ところで砂糖は入れなくていいのか?それにしても、ユカはたびたび熱を出す。この前は、風邪だったようだが、今日はそんな予兆もなかった。ユカはこんなにナイーブだったかな。少なくとも兄貴夫婦が生きていた頃はそんな話は聞かなかった。ココアらしき色に仕上がった液体を、マグカップにサーブして、石嶋は子供部屋に向かった。その時だ。ぴかっと閃光が走ると、しばらくして空気を切り裂くような落雷の音が轟音となって響く。

「キャー!」

 子供部屋の中から、ユカとナミの叫ぶ声が聞こえた。慌てて、子供部屋に飛び込むと、ベッドの上でユカとナミが抱き合いながら震えている。

「どうしたんです!」

 驚いて問いかける石嶋に、ナミが震える声で答えた。

「私、雷は大の苦手なんです。ひっ!光った!」

 また、雷が落ちた。ベッドの上のふたりは一層力を込めて抱き合っている。

「そんなに恐がらなくても、家に居れば安心ですよ。」

「怖いものは怖いんですよ。わっ、また光った!キャー!」

 さきほどのけ者にされた石嶋は、かたき討ちとばかりに、震えて抱き合うふたりを意地悪な笑みを浮かべて眺めていた。やがて、さすがにふたりが可哀想になったのか、小さなライトを持ち出してくると、部屋の明かりを消して、覆いかぶさるようにふたりの肩を抱き、布団を頭からすっぽりとかぶった。突然の石嶋の乱入に驚くふたり。布団の中で、ユカとナミとそして石嶋の顔が、間近にスモールライトに浮き上がる。

「今は亡くなった母ですが、やっぱり雷が嫌いでしてね。その母にならったおまじないですよ。こうしながら呪文を言うと怖くなくなるんです。」

 ユカはもう満面の笑顔。しかし石嶋に肩を抱かれたナミは、もう雷どころの話ではない。ユカの熱が移ったように顔が火照ってきた。

「さあ、ユカもナミ先生もヒロパパについて言ってごらん。ポンポコリンノパンポコリン。」

「ポンポコリンノパンポコリン。」

「パンポコリンノピンポコリン。」

 パ行が変化していく奇妙な呪文。ユカは先程の熱がどこかへ飛んで行ってしまったようにはしゃいだ。ユカを抱くナミ。ナミとユカを抱く石嶋。ペンライトで照らしだされた布団の中は、ユカとナミとヒロパパだけの世界になったようだ。

 実はナミは男性とひとつ布団の中にはいった経験がない。医師になるための勉強に励むあまり、恋愛経験もないままここまで来てしまったナミにとっては、ユカがいるとは言え、石嶋と頬も触れんばかりに、身体を寄せ合うこのおまじないはあまりにも刺激が強すぎた。うぶな少女のように、顔を赤らめ鼓動を高める自分を見られて、この年でまだ処女であることが彼にバレてしまわないかと不安になった。しかし、この場で布団を撥ね退け、石嶋の腕を振り切る力は湧かない。ナミは布団の中で一緒に呪文を唱えながら、石嶋の温かい体温、そして安心感を感じさせる香りに包まれて、溶けそうになっていく自分がわかった。男ってこんなにも甘美でたくましいものなのか。ナミは生涯で初めて、雷がいつまでも鳴っていて欲しいと願った。

「雷の音が小さくなったね。」

 やがて、雷も遠ざかると、石嶋は被っていた布団を退けた。ナミが未練のある表情で石嶋から身を離し、腕の中のユカを見るといつのまにか寝息を立てている。ユカの熱を測ると、平温に下がっていた。ユカをベッドに残し、ナミと石嶋はリビングへ降りた。

「今日は、本当にありがとうございました。」

「いいえ、こんなひどい雷の夜ですから、ひとりじゃなくてよかったです。…あのおまじないの話しホントですか?」

「ええ、雷が鳴ると母は兄と自分を呼んで、肩を組みながら布団をかぶるんです。」

「そしてあの呪文ですか?」

「効きませんでしたが?」

「効果てきめんでした。科学者のはしくれである自分としては、認めにくいですが…、」

 確かに雷への恐怖心をしばし忘れてしまったのだが、それが呪文の効果なのか、息の温度が感じられるほどの距離にいる石嶋の効果であったのか、ナミには良くわかっていた。ここでまさか石嶋のお陰ですと言えるわけもない。

「ココア作ったんですが、冷めてしまったから温めましょうか?」

「ええ、お願いします。」

 石嶋はマグカップを電子レンジに入れながら、ユカの容体を聞いた。

「今回も風邪なんでしょうか?」

「いえ、風邪の症状は見られませんでした。それに、着替えて私と話したら熱は下がったんですよ。」

「そうですか…。」

 石嶋は、電子レンジからマグカップを取り出しナミの前に置いた。ナミがココアを一口すする。

「うえっ、まず!なんですかこの泥水は?」

「えっ、ココアになってません?色はココアなんだけどな…。」

 慌てる石嶋をナミは笑って慰めた。あらためてお茶を準備する石嶋だったが、キッチンでドタバタするその手際の悪さに、さすがにナミも可哀想になって彼から茶器を奪い取る。

「いいですよ。私がやりますから。」

 石嶋はリビングから、てきぱきとお茶の準備をするナミの様子を眺めていた。このキッチンでナミのような若い女性が働く姿を眺めるのは初めてのことだ。このひとときに妙なくつろぎを感じてしまう石嶋だったが、キッチンで立ち働く女性はユカの主治医であったことを思い出し、慌ててみずからの妄想を打ち消して、質問を続けた。

「最近、ユカが訳もわからず熱を出すことが多くて…。どうしてなんでしょうか。」

 ナミがお盆に急須と茶碗を乗せてリビングのソファーに戻って来た。ナミが慣れた手つきでお茶を注いでくれる。石嶋は、その仕草があまりにも白くしなやかなので、舞を見ているような錯覚に陥っていた。

「ヒロパパは、ストレス性高体温症というのをご存知ですか?」

 ナミに問いかけられ、石嶋は我に帰る。

「いえ初めて聞きます。」

「いくつかのストレスが重なった状況で、熱が出るようになり、なかなか下がらない。さらに病院で検査を受けても異常がないと言われるが、解熱剤でも熱が下がらない。そんな場合は、心因性発熱が疑われます。これを一般的にはストレス性高体温症と呼ぶんです。子供に見られるケースは、大きなストレスによって急激に高体温が生じるものの、回復も早いタイプのものが多いです。すぐ解熱しますが、ストレスの原因を解決しないと何度も繰り返すことがあります。」

 ナミの話しを聞き入っていた石嶋が言った。

「では、ナミ先生は、ユカになにか強いストレスがあるとお考えですか?」

「はっきりとはわかりませんが…。」

「やはり両親がいないことが、ストレスになっているのでしょうか?」

「今夜、熱が出る前になにか覚えはありますか。」

 石嶋は、温かい茶碗を手の中でまわしながら考えた。

「いえ、帰ってきてからユカとずっと一緒でしたが、思い当たることはないです。」

「なにかお話されました?」

「ああ、今日はナミ先生や新しいお友達と遊べたのに、なんでヒロパパは、一緒じゃなかったんだと聞かれて…。」

「それでなんと答えたんです?」

 あくまでも医師としてのカウンセリングであって、個人的な興味で聞いているんじゃないと言い聞かせながら、ナミは石嶋へ突っ込んだヒヤリングを続ける。石嶋はしばらく答えを躊躇していたが、ユカのためだとあきらめて重たい口を開く。

「実は、女の人と会っていたと…。」

「えっ、ユカちゃんを友達に預けて、デートですか?」

「いえ、別にそんな…。」

「仕事ならまだしも、休みの日ぐらい一緒に過ごしたいユカちゃんを置いて、ひとりだけ楽しくデートですかっ?」

「いや…だから…。」

「ひどくありません?ユカちゃんが熱でるのも仕方ないわ!」

「ちょっと待ってください。なんで、そんなに怒るんですか?自分の話も聞いてください。」

「私、帰ります。失礼します。」

 バッグを持って立ち上がるナミに、石嶋はおろおろしながら玄関までついていく。

「ナミ先生。夜も遅いですから、お送りしますよ。」

 ナミは玄関で靴を履くと、腕を組んで仁王立ちになった。

「寝ているユカちゃんをひとりに出来ないくせに…。そういう無責任な発言がいけないんです!」

 呆気にとられる石嶋の鼻先で荒々しく玄関ドアを閉めて、ナミは家を出た。こんなに腹が立つ理由が、ユカを想ってのことなのかよくわからなかった。やがて夜露の冷気にあたって興奮が冷めて来ると、医師としての自分が、冷静さを失った自分を責め立てる。タクシーがなかなかつかまらない歩道で、惨めな思いが襲ってきた。ナミは、荒れ模様のこころの内とは裏腹に、雨が小ぶりになっていたのがせめてもの救いだと思った。

 

 誰が見ても嘘くさい直行業務から夕方帰社したテレサ。デスクに着いた早々編集長からお呼びがかかった。応接室に呼びだされる時は、大概人目のない所で叱られる時だ。今度はどの仕事のあらが露見したのだろうと、びくびくしながら応接室へ行くと、編集長とスーツの男性がテレサを待っていた。

「ああ来たな。ご紹介します。うちの雑誌の編集担当です。」

 スーツの青年が席を立ち、名刺をテレサに差し出した。

「はじめまして。」

 テレサは、その声の主を見てこの男と運命的なものを感じた。

「はじめまして、ではないですね…。」

「えっ、ああ、あなたは…。」

 絶句する泰佑。なかなか自分の名前を呼んでくれない泰佑に焦れてテレサが言った。

「やだぁ、名前忘れちゃったんですか?テレサですよ。市橋テレサ。先日はどうもお世話になりました。」

 自分の名刺を手渡すと、あらためて泰佑の名刺を見た。えっ、オキクの復讐相手!テレサはあらためてこの男との因縁の深さを思い、ゾクゾクするようなスリル感で身体が震えた。

「へぇ、汐留のバリバリ営業だったんだ。」

「なんだ市橋、お前知り合いか?」

 編集長の言葉に、テレサは意味ありげなうすら笑いを泰佑に投げかける。これで泰佑のフルネームもわかってしまった。

「石津さんはピンクリボンの啓発広報を担当されていて、うちの雑誌との編集タイアップをご希望だ。読者ターゲットにはあったテーマだし、なんとか実現できる方向で進めたい。お前の担当ページで考えてくれないか?」

「ええ、そりゃもう泰佑が是非とおっしゃるなら、何でもやりますけど…。」

「おい、お客さんをそんな呼び方して失礼だぞ。」

 編集長は、いつになく馴れ馴れしく接するテレサをいさめながらも、ふたりを交互に見比べながら言葉を続けた。

「でも、まさか石津さん、そんな呼び方が許される間柄なんですか?」

 妖しく微笑みを返すテレサの視線を避けながら、泰佑が慌てて否定する。

「以前一度お会いしただけで…。市橋さんが考えているほど親しくはないと思うんですが…。」

「やだぁ、照れちゃって。いずれにしろ編集長、この件は任せてください。泰佑のお役にたちますから。」

「今さらだが、お前を担当にしたことに一抹の不安を感じるよ。」

  意気込むテレサを見ながら、編集長がため息をつく。

「しかし、知らない仲でもないようだから、後はふたりで詰めてください。」

 編集長はそう言うと、ふたりを残し応接室を出ていった。テレサはあらためて泰佑を眺めまわした。この男がオキクをどん底に陥れた悪党か。しかし、高校時代にオキクがぞっこんだった頃もこんなにいい男だったかしら。高校時代はわからないが、今の彼は本当にセクシーだ。ああ、こんなセクシーな男がインポテンツになるなんてもったいない。短いスカートでありながらも大胆に足を組むテレサに、舐めるように眺めまわされて泰佑も居心地が悪くなってきた。

「記事にして頂きたいメッセージポイントですが…。」

「はいはい、お聞きしましょう。まずお仕事を済ませてしまいましょうね。」

 編集担当に戻ったテレサは、泰佑の話しに耳を傾け、雑誌として記事化が可能なことと不可能なことを明確にしながら仕事を進めた。仕事モードのテレサは案外出来る女なのだ。

 しばらく話し合った後、合意点が見つかったところで泰佑が席を立った。

「市橋さん、この内容で持ち帰らせていただき、財団に決裁を仰ぎます。今日はありがとうございました。」

「いいえ、こちらこそ、お疲れ様でした。」

 泰佑が応接を出ようとすると、その背中にテレサが誘いの言葉を投げかける。

「よろしかったらワンショットご一緒しません。」

「お誘いはありがたいのですが、まだ会社で自分を待っているスタッフがいて…。」

「純広の話だったら、これで終わりでもいいんですが、編集タイアップでよりいい記事を作ろうとしたら…。」

 テレサが泰佑の名刺を指でもて遊びながら、上目遣いで泰佑を見た。

「担当同志、より深いコミュニケーションが求められると思いません?」

 掲載記事の質と量はあなた次第よと、脅迫ともとれるテレサの誘いに、さすがの泰佑も今度は断ることができなかった。

 

「あらためて、ふたりの再会に乾杯。」

 グラスをあわせるテレサと泰佑。奇しくも場所は、希久美が薬を盛ったホテルの高層階にあるクラブラウンジだった。泰佑は嫌な予感がした。仕事の話しから始めたふたりの会話。と言ってもテレサが一方的にしゃべるばかりで泰佑はグラスを注視して話しに乗ってはこない。テレサはお構いなしに、喋り飲み、やがて少し酔いが回ってきて、話しの方向がおかしくなってきた。

「ところで泰佑。あなた…もしかして高校は駒場学園だったでしょ。」

「えっ?」

 驚いてテレサを見返る泰佑。彼がテレサの話しに、初めて見せたレスポンスだ。

「図星でしょ。わたしね、一級下で、泰佑を野球部で見たことがあるの。」

「そうですか…。」

「あの頃の私はまだうぶな女子高生だったのよね。ねえ、そんな私が、どうやって一人前の女性編集担当に成り上がっていったか知りたい?」

 泰佑が別に聞きたくもないと、答える間もなくテレサが勝手に話し始める。泰佑はテレサの話しとは別の世界にいたが、やがて意を決したように、テレサの話しに割って入った。

「ちょっと待ってください。」

「なに?」

「高校で一級下だといいましたよね。」

「それが?」

「小川菊江という女の子を知っていますか?」

 泰佑の口から出た名前に、テレサのほろ酔い加減が吹き飛んだ。なんでそんなことを聞くの。

「そんな子がいたような気がするけど…。」

 泰佑がテレサの腕を掴んで、その話題に突っ込んでいく。

「その子が今どこにいるか知ってますか?」

「さあ…。」

「同窓会名簿でその子の連絡先だけでもわかりますか?」

 テレサの警戒がますます深まる。泰佑の追及があまりにも厳しいので、変にとぼけてもボロが出そうに感じたテレサは、話題に終止符を打つべくとっさに嘘をついた。

「ああ、確かその子、交通事故で亡くなったって聞いたわ。」

「えっ、本当ですか…。」

 泰佑の落胆は尋常ではなかった。テレサは、別の嘘を言えばよかったと後悔したがもう遅い。

「いつ亡くなられたんですか?」

「高校卒業した直後かしら…。」

「そうですか、どおりで探しても、忽然と消えたように消息がつかめなかったわけだ…。」

 泰佑は意気消沈してまた自分のグラスに視線をもどした。テレサは考えた。泰佑は本当に今の希久美と菊江が同一人物であることがわかっていない。しかし、なんで今更菊江を探しているのだろう。謝罪するつもりかしら。謝罪したくらいで、希久美の怒りが収まるはずがない。テレサは泰佑の長いまつげの横顔を見つめた。ああ、こんなセクシーな男が希久美にインポテンツにされてしまうのは本当に惜しい気がする。希久美には申し訳ないが、もしかしたらその前に一口だけ味わうと言うのもありかもしれない…。テレサの罪のない非常識が暴走し始めた。

 その時泰佑の携帯が鳴った。失礼と言って席をはずす泰佑。テレサは、大切にしていた『やりたくなる薬』をハンドバックから取り出すと、泰佑のグラスに混ぜ込んだ。希久美とちがって罪悪感が無い分、その動きはあまりにも自然で、今回はバーテンの目を引くことができなかった。やがて、なにも知らず席にもどる泰佑。

「すみません。会社で待つ同僚からの電話でした。申し訳ありませんがそろそろで失礼します。」

「わかりました。無理に引き止めませんよ。」

 テレサが、あやしく笑いながらグラスを差し出す。

「最後にグラスをぐっと空けちゃってください。」

 泰佑の胸の嫌な予感が強まった。しかし、会社で待つ希久美の文句を聞くのもつらい。はやく店を出ようと、残ったカクテルを一気に飲みほした。わずかながら異物の味がしたが、気にしなかった。

「それでは…。」

「ちょっと待って、タイアップで言い忘れたことがあった。」

「えっ?」

「財団への取材の日程なんだけど…。」

「そんなこと、今ここで詰めなくても…。」

 テレサは、時間を計りながら、どうでもいいことをグチグチと言い始める。5分を経過したことを確認して、いらつく泰佑にテレサが仕掛けていった。

「私の目を見て、何か感じる?」

「突然、なんですか?」

「だから、私の目を見て何か感じる?」

「いいえ、別に…。」

 しばらくの間をとってから、またテレサが泰佑に問いかける。

「わたしの唇を見て、何か感じる?」

「いいえ、別に…。」

 そんなやりとりの繰り返しに、いよいよテレサも焦れて、最後の仕掛けを放つ。自らのブラウスの上のボタンを外すと、首元を大きくはだけて言った。

「私の鎖骨を見て、何か感じる?」

 泰佑はしばらくテレサの鎖骨を見ていたが、何の変化もなく平然としている。

「どんな答えを期待されているかわかりませんが、別になにも感じません。」

 なによ、この薬効かないじゃない。サービス品はこれだから嫌になる。最後の仕掛けも空振りして、さすがのテレサも諦めるしかなかった。

「引きとめてごめんなさい。仕事がんばってね。石津先輩」

 テレサからやっと解放された泰佑は、クラブラウンジを飛び出して入った。

 

「あいつ、すぐ帰って来るって言ったのに何やってんの。」

 打合せの為に泰佑の帰りを待っていた希久美の忍耐もそろそろ切れかけてきた。よし、これが最後の電話だ。もしでなければ帰ってしまおう。希久美は泰佑の携帯に電話をかけた。しばらくの呼び出し音の後、回線がつながる音。

「泰佑、あんた何やってるのよ。いつまで待たせるつもり。いい加減にしてよ。」

 強い口調で攻め込む希久美に、帰ってきた返事はあまりにも弱々しい声だった。

「オキク…。助けてくれ…。気持ちが悪くて、動けない…。」

 泰佑が告げた新宿西口の中央公園へ希久美がタクシーで駆けつけると、果たして彼は吐いた汚物にまみれて、公園のベンチに倒れていた。

「どうしたの?あたしが待っているのに飲んだの?」

「脅迫されて…。しかし1杯だけ。」

「それだけで、なんでこうなるの?」

「また一服盛られた…。」

「またって…あんた、いったい何人の女から憎まれているの?」

 当然の報いだわよ、この悪党。テレサはこころの中ではそう吐き捨てたが、とりあえず瀕死の泰佑を抱き起こす。

「うっ…。」

「きゃー、やめて!」

 自分に向かって吐かれては大変と、希久美は起こした泰佑をまた投げ捨てた。泰佑は、またうつ伏せて植栽の下でゲーゲー吐き始める。

「この際だから、全部出しちゃいなさいよ。」

 非情にも希久美は、起き上がろうとする泰佑の背中を足で押さえつける。

「いくらなんでも、ひどいんじゃ…うっぷ。」

 希久美は腕組みをしながら、泰佑の背中を足で押さえ続けた。いい加減吐きつくした頃、ようやく足をどけて泰佑を抱き起こす。

「いやだ、なんて匂いなの!」

 泰佑の汚物にまみれた上着をなんとか脱がせると、公園のごみ箱から拝借してきたコンビニのビニール袋に丸めこみ、片腕を背負って立ちあがらせる。

「重たいわね…。うちどこ?」

「南阿佐ヶ谷…。」

「仕方ないわね。手間のかかるやつだよ、お前は。」

 希久美はそのまま泰佑とタクシーに乗り込むと、彼の家へ向かった。泰佑は、小さくうなされていて苦しそうだ。仕方がないので、希久美は後部座席で泰佑の頭を抱きながら、膝枕で寝かせた。途中、泰佑の放つ異臭にドライバーが露骨に嫌な顔をするので、髪が乱れて嫌だったが、窓を開けた。外からの風が泰佑の前髪とまつ毛を揺らす。考えてみれば、苦しそうであっても、泰佑の寝顔を見るのは初めてのことだ。しっかりと線の通った眉毛と鼻筋。少し伸びたひげでざらつく頬とあご。あらためてじっくり見ると、男の顔って不思議だな。繊細な線と無骨な線が交差して、柔らかい面とざらついた面が重なって、決して綺麗だとは言えないのに、美しいと感じるのはなぜだろう。じっと見つめる希久美の顔に、風に乱された希久美の長い髪がかかる。泰佑がうっすらと目を開けた。

「お前誰だ?」

 希久美は、同僚の自分すら認識できない泰佑に呆れて返事をしなかった。

「菊江か?」

 え、バレタ?希久美はぎょっとした。突然昔の名前を呼ばれて、慌てて自分の顔を両手で覆った。しばらくじっとしていたが、泰佑の次の言葉が聞こえてこない。指の隙間から泰佑を覗くと、彼は相変わらずうなされながら眠っていた。うわごとか。しかし、なんで泰佑の口から昔の自分の名前が出て来るのだろう。

 

 タクシーが家の前に着いた。泰佑を担いで家の呼び鈴を鳴らすと、見るからに優しそうなおばあさんが玄関を開けた。ふたりを見るなり、開けた口に手をあてながら、歓声をあげた。

「なんてことでしょう。泰佑が女のお友達を家にお連れするなんて…。」

「いや、連れてこられたんじゃなくて、私が泰佑を連れて来たんで…。」

「泰佑の祖母です。どちら様かしら?」

「会社の同僚の青沼と言います。」

「泰佑はいつからお付き合いさせていただいているの?」

 苦しむ泰佑に一瞥も与えず、祖母は希久美にばかり質問する。

「とにかく、おばあちゃん。重いですから泰佑をどこに寝かせたらいいか言ってください。」

「あらあら、ごめんなさいね。気がつかなくて…。泰佑の寝室はお二階なんですけど。」

 希久美は、苦労して軟体動物同然の泰佑を、二階にかつぎ込む。泰佑の部屋に入ると、ベッドに自分の身体ごと倒れ込んだ。起き上がってベッドに横たわる泰佑を眺めると、汚れた服のままではなんとも惨めな姿だ。

「ちっ、私って馬鹿ね。ここまでする必要あるかしら…。」

 希久美は泰佑の汚れたシャツを脱がせ、靴下を脱がせ、やり過ぎとは思ったものの、目をつぶってズボンも脱がせて、そして身体に毛布を掛けてあげた。汚れた衣服を丸めながら、あらためて泰佑の部屋を眺めまわした。

「なにが、『スポーツは別に何も…』よ。」

 棚の特等席には、使い古されたミットとボールが飾ってあった。バーボンの空き瓶。洋物のビールの空き缶。結構年代物のアコースティックギター。訳のわからないブリキのバッチの数々。バイクのヘルメットと皮のジャンパー。そんな雑貨が部屋に散らばる。これが男の部屋か。なんか汚いような楽しいような、妙な感じだ。壁に作りつけの本棚を見ると、泰佑も結構新刊書を読んでいる事がわかる。ふと、本棚の奥に、自分も見覚えのある高校の卒業記念アルバムを発見した。

「キャー、懐かしい…。」

 アルバムをめくって写真を眺めると、当時の学園風景が蘇る。さっそく泰佑の学級のページを探した。いた。当時、2年近くも遠目で追っかけていた泰佑がそこにいた。今ベッドで唸っている泰佑と見比べた。まさか10年後に、本人の部屋でベッドに横たわる泰佑を間近に眺めるなんて、想像できたであろうか。アルバムをめくっていると、ピンクの封筒がひらりと落ちた。何かと思って拾い上げて、希久美は愕然とした。10年前、昼休みに泰佑に渡した希久美のラブレターだったのだ。

「こいつ、なんでまだ持ってるの?」

 女を路上の石ころとしか考えない男にしては、もの持ちが良すぎる。考えてみれば、この手紙を渡したことが、自分の一生の不覚だったのだ。希久美は、ラブレターを抜き取り、自分のハンドバックに仕舞い込んだ。

「青沼さん、大丈夫ですかー。」

 祖母が希久美を呼ぶ声が、下から聞こえてきた。

「はーい。」

 希久美は、しばらく本棚の前にとどまった後、アルバムを元に戻して汚れた衣服とともに下へ降りていった。

 

 降りてみると、居間の食卓の上に、山のように剥かれた果物が盛られている。驚く希久美に、にこにこしながらお茶をいれて祖母が言った。

「まさか、このまますぐお帰りになるなんて、いわないわよね。」

「でも、そんなにおじゃまするわけには…。」

「いいじゃないですか。泰佑が女の方をお連れするなんて、初めてのことなんですから。」

「だから、わたしは連れてこられたんじゃなくて…。」

「同じ事ですよ。泰佑がお付き合いさせていただいている女の方と、この家でおしゃべりできるなんて、夢のようだわ。今までの泰佑は本当に女の方と縁がなくてね…。」

 希久美にとっては、意外な情報だった。

「嘘でしょ。泰佑も結構いい男だから、会社の女の子に人気があるんですよ。」

「身うちが言うのも変ですけれど…。あれでいて、あの子優しい所があるから、女の方に好かれないとは、思ってないんですよ。だけど、本当に縁が無くて…。」

 どこが優しいんだ。聞いてください、おばあちゃん。希久美は危うい所で言葉を飲みこんだ。

「きっと…、おばあちゃんの知らないところで女の子と遊んでますよ。」

「そうかしら…。そうだといいんですけど。小さい頃から決して女の子とは遊ばなかったのよ。そうだ、証拠の写真を見せてあげる。」

 祖母は、部屋の奥に引っ込むと、古ぼけたアルバムを3冊ほど持ち出してきた。

「これが、泰佑が幼稚園の時でね…。」

 祖母は、嬉しそうに泰佑の子供の頃の写真を披露して、希久美に当時の泰佑を解説した。幼稚園、小中学校。高校。男の子から少年へ。徐々に成長していく泰佑を肴に、ふたりは時間を忘れておしゃべりした。綿あめを手に大泣きしている泰佑の写真など、ふたりの格好の笑いネタになった。写真の泰佑は、野球をしている姿が多かったが、確かに女の子と遊んでいるとか、並んで映っているとかの写真は皆無である。希久美は加えて、絶対あるはずの写真。つまり母親と写っている写真がないことも気が付いた。

「これを見てくださる。」

 祖母に促されて写真を見た。高校時代の泰佑が、私服でウインクをしている姿を玄関先で撮った写真だ。希久美は目を見張った。ここに写っている泰佑は、容姿も服も、10年前渋谷で会った泰佑そのものだったのだ。

「この日はね、朝からそわそわして…。珍しくめかしこんで出ていこうとしてたから、気になって撮っておいたの。今から考えれば、この時デートだったのかしら…。後にも先にも、こんなことは一切ないのよ。」

 希久美は、答えようがなかった。

「女の方を好きになれない性質なのかと、本気で悩んでいたの。そうしたら、青沼さんを連れてきて来てくれたから…。」

「ばあちゃん、喋りすぎだよ!」

 いつの間にか、毛布に包まった泰佑が、ふたりのそばに立っていた。

「おやまあ、泰佑や、いつの間に。具合はもういいのかい?」

「全部吐いたし、少し休んだら楽になったよ。それに、ふたりのおしゃべりがうるさくて、おちおち寝てられない。」

 少し怒気を含んだ泰佑の口調に、ばつが悪くなった希久美が席を立った。

「やだ、すっかりおじゃましちゃって。おばあちゃん私帰ります。ご馳走になりました。」

「オキク。タクシーがつかまる通りまで送って行く。今ざっとシャワーを浴びて来るから、待っててくれ。」

 

 スウェット姿の泰佑に付き添われながら、希久美は黙って夜道を歩いていた。やがて泰佑が口を開く。

「俺の部屋に入ったのか?」

「泰佑ねぇ、そんなことを気にする前に言うことがあるんじゃないの。」

「う…今日は面倒かけたな。ありがとう。」

「声が小さくて聞きとりにくいけど、まぁいいか。」

「…だからさ、ばあちゃんとなに話してたんだよ。」

「別になにも…。」

「嘘だろ。机に俺の昔の写真があったぞ。」

 食い下がる泰佑に逆切れした希久美が立ち止まって語気を荒めた。

「そうよ、泰佑の部屋にも入ったし、服も脱がせたし、子供の頃の写真も見たわよ。泰佑のこと、よーくわかっちゃった。スポーツやってないと言いながら、野球が大好きで部活をしっかりやって、暇な時はギターも弾くし、天気のいい休日にはバイクでツーリングもするのね。」

「そうか…。」

 泰佑は消え入りそうな声で返事を返す。希久美は今の状況が優勢であることに勇気を得て、気になっていたことを一気に仕掛けてみた。

「ところで、菊江って誰?」

 ぎょっとした泰佑のその時の表情は、その名前を恐れているかのようでもあった。

「なんでその名を?」

「うなされながら言ってたわよ。」

 黙ったまま泰佑は何も答えなかった。長い沈黙の間の後、泰佑は重たい口を開く。

「オキクが、今日知ったことを、べらべら他人に喋るような奴ではないことは、良くわかっている。」

「なにが言いたいの?」

「だから…、これだけ俺のことを知っている女は、お前だけだってことだ。」

 希久美は泰佑が止めてくれたタクシーに乗り込んだ。走り始めたが、泰佑は路上からいつまでも希久美のタクシーを見送っているようだった。希久美は後部座席で別れ際の、泰佑の言葉を思い返した。『これだけ俺のことを知っている女はお前だけ』それって、特別になったということかしら。希久美は、いよいよ仕上げの時期が迫ってきていることを感じた。

「それにしても…。」

 希久美は、ハンドバックから自分のラブレターを取り出して眺めた。ラブレターに書かれた『菊江』という名前。泰佑の口から出てきた久しぶりに聞く『菊江』の名前。10年前に消えたはずの自分に、今ここで会うことになるとは考えてもいなかった。

 

「荒木先生。次の患者さんをご案内していいですか?」

 新たな感染症の襲来もないのに、小児科では朝から患者さんで溢れていた。診察が終わった前の患者さんの電子カルテを確認しているナミは、モニターから顔も上げず答えた。

「どうぞ。」

 看護師がドアを開けるとともに、聞きなれた声で女の子が、ナミの膝にしがみついてきた。

「あら、ユカちゃん。久しぶりー。元気そうだけど、またお熱でも出たの?」

 ナミはユカを抱き上げて、額を触った。熱もなさそうだ。やがて石嶋が姿を現したが、ドアのそばで立ち止まっている。雷の夜に石嶋の家でエキサイトした自分が恥ずかしいナミは、彼にまともな挨拶も出来ないでいた。一方石嶋は、一向に自分に声を掛けてくれないナミに焦れて、仕方なく自らナミと対面する診察用のいすに座った。

「あの…。」

「へんね、ユカちゃんお熱もないし…。おなかが痛いのかな?」

 おなかを触診するナミに、ユカはくすぐられているかのように、身体をよじって笑う。

「あの…。」

「ユカちゃん、そんなに暴れたら診察できないですよー。」

「ナミ先生。今日の患者は、ユカじゃありません。僕なんですよ。」

 思いつめたような声に、ようやくナミが石嶋に目を向けた。

「今日のユカは、自分の付き添いです…。」

 ナミはじっと石嶋を見つめた。石嶋はそんな視線に押されて伏し目がちに言葉を続ける。

「先日は、家まで来て頂いてありがとうございました。ちゃんとお礼も言えなくて…。あの日先生に怒られて…、自分ではどうしいいかわからないし…。」

 意を決したように石嶋は、姿勢を正し、ナミを正視した。

「ナミ先生、どうか自分達を見捨てないでください。」

 石嶋の訴えに、ユカを膝に抱いてしばらく黙っていたナミであったが、やがて口元をゆるませた。

「わたしがいつユカちゃんを見捨てるって言いました?」

「いや、あの時本当に怒っていらしたから…。」

「だいたい医師法の第19条に応招義務というのがあって、医師は診察治療のもとめがあった場合には、正当な事由がなければ拒んではいけないのですよ。そんなことしたら、義務違反で医師資格をはく奪されてしまいます。」

「そうなんでしょうけど…。」

「あの日以来、わたしもユカちゃんとヒロパパにとって、何が最善な方向なのかをずっと考えてました。」

「もう怒っていないんですか?」

「確かにあの時はちょっとエキサイトしましたが、自分も反省してます。」

「そうですか。よかった…。」

「ご両親を失ったことで、ユカちゃんはこころに大きな傷を負ったことは確かです。今でもきっと無意識に、居るはずもないお父さんとお母さんを探し求めているのでしょう。しかしユカちゃんはどんなになついてくれても、決して私のことをママとは呼びません。私がママでないことがちゃんとわかっているんですね。でもヒロパパはちがいます。ヒロパパが父親と同じ香りと感触である実の弟だからこそ、ユカちゃんはヒロパパのことを本当の父親として感じているのではないでしょうか。どんな子供でも2回も父親を失いたくないはずです。失いそうな気配を感じるとそれが大きなストレスとなって、きっと高体温になるのだと思います。」

 石嶋は黙ってナミの言葉に耳を傾けていた。

「どうでしょう、ユカちゃんを仲間はずれにしないで、ヒロパパのデートに連れて行ってあげたら…。将来どうなるかは別として、ユカちゃんもヒロパパとお付き合いしている方と仲良くなれたら、ストレスも軽減できると思います。お相手が嫌がるかどうかわかりませんが、ユカちゃんのようなおとなしくて可愛い女の子なら、きっと仲好くしてくれますよ。」

 ナミはそう言ってユカの髪を優しく撫ぜた。

「わかりました。ナミ先生のお話をよく考えてみます。でもよかった…、ナミ先生が怒っていないことがわかって、胸のもやもやが解消しました。」

 石嶋は顔を明るくして礼を言うと、ユカの手を取っていすから立ち上がった。

「あっ、それから…。ユカにまたなにかあったら、ナミ先生にご連絡してもかまいませんか?」

「もちろんですよ。私はユカちゃんのホームドクターですし、ユカちゃんとヒロパパの味方ですから。」

 笑いながら手を振って診察室を出るユカと石嶋を見送ると、ナミは小さくため息をついた。所詮、患者と医師の関係では恋愛などできるはずない。医師は医師としての役目を全うするしかないのだ。看護師が次の患者さんを案内していいかどうかナミに聞きにきた。しかし、肩を落として考え込んでいるナミを見て、声を掛けていいかしばらく悩んでいた。

 

 社内ソフトボール大会の土曜日は、まさにスポーツ日和の快晴となった。希久美の会社はとにかく社員数が多い。そのため、社内大会といっても、いくつもの野球グランドを有する大きなスポーツ施設でなければできない、大イベントになってしまう。職場ごとにチームを構成するのだが、それだけでも30を超えるチーム数となる。希久美の居る営業室でも一チーム作ることになり、田島ルームと斉藤ルームの合同メンバーでチームが構成されることになった。こういう行事にはなにかと積極的な田島ルーム長が世話役になった。チームのメンバーを決める際には、希久美は田島ルーム長に限りなく強要に近い推薦をして、泰佑をキャッチャーにさせた。また、社内大会のルールとして、チームの中には3名以上の女性を入れなければならず、ピッチャーは必ず女性でなければならない。希久美も見物ですまない社内行事なのだ。

 朝グランドに集合して、営業室長の激励の挨拶を受けたあと、各自で準備体操とキャッチボールを始める。

「おいオキク、こっちこいよ。」

 泰佑がジャージ姿でウロウロしている希久美に声を掛けた。

「怪我しないように、アップのやり方を教えてやるよ。」

 泰佑の家へ寄った日以来、泰佑と希久美の距離が急激に近くなった。仕事以外のことでも泰佑から希久美へ話しかける機会が増えたし、泰佑と話す希久美との身体の距離も、密着とはいえないまでもかなり近いものとなっていたのだ。泰佑の手を借りて屈伸や伸身をする希久美。高校時代に泰佑の追っかけをしていた時、野球部活で見たなじみの準備体操だった。しかし泰佑のアップの指導は準備体操にとどまらない。足の交差走、ハイジャンプスキップなどまさに高校の野球部と同メニューのアップを希久美に強いた。挙句の果てにとどめの10メーターダッシュときては、さすがの希久美もたまらない。

「泰佑。なんでここまでやらなきゃならないのよ…。始まる前にすでに終わっちゃうわ。」

 膝に手をついてぜ―ぜー言いながら文句を言う希久美。

「この程度のアップは基本だ!」

 泰佑は容赦なく希久美を追いたてる。額にうっすら汗がにじむ頃、希久美はようやくキャッチボールが許された。自分にあった相手を探しまわっていた希久美だが、今度も泰佑がグローブを希久美の頭にかぶせ、ジャージの首を持って引っ張って行った。学生時代に野球を競技としてやっていた泰佑の球は、どんなに緩く投げたとしても希久美にとっては弾丸の速さに感じる。泰佑の投げたボールに、希久美はキャーキャー言って逃げまわり、キャッチどころではない。

「オキク、いい加減にしろ。野球はボール取らなきゃ始まらないんだよ!しっかりボールを見れば怖くないだろ。」

「そんなこと言ったって…。」

「わかった。グローブ開いたところに投げてやるから、へたに動かすな。」

「そんなことできるの?」

 半信半疑で身体から遠い所でグローブを開いていると、泰佑の投げたボールが見事に開いたグローブに飛び込んできた。

「へー、さすが泰佑。だてに12番背負ってたわけじゃないわね。」

「え、なんで知ってる?」

「写真で見たもーん。ほらもう一球。カモーン!」

 高校時代、希久美は河川敷グランドの遠くから、野球部の練習を見つめる毎日だった。監督やコーチに指導されての練習は、部員達にとってかなりつらそうに見えた。でも同じようなことを今泰佑とやってみると、案外彼らも楽しんでいたんではないかと思えるようになっってきた。声を掛け合いながら、ひとつのボールを受け取り、投げ合う。たった数分のキャッチボールだが、一日中おしゃべりして過ごすより、何倍も大きな相互理解と親密感をもたらした。希久美は過去の因縁を忘れ、しばらく泰佑とのキャッチボールを楽しんだ。

 一方、職場のチームメイト達は、そんなふたりを好奇の目で見守っていた。一時期はセクハラ騒動を起こすほど仲が悪かったふたり。そのふたりが朝から離れようとせず、楽しそうに体操やキャッチボールをしている。あいつら、いつのまに出来てしまったのかと、同僚たちは囁き合いあう。ひそかに泰佑を慕っていた女子契約社員などは、うっすら涙を浮かべているものさえいた。

 いよいよ試合が開始される。希久美は、試合の前半はベンチで待機となった。泰佑がホームベース上で、ナインにげきを飛ばす。あの懐かしいキーの高い声だった。試合は社内親善にふさわしく、競技と言うよりは、どたばたとした遊戯のレベルである。大きな白球を追って右往左往する選手たち。そんな中でも、ふと希久美は泰佑だけ目で追っている自分に気付いた。晴天のグランドの解放感が、高校時代の自分を蘇らせたのだろうか。白球が野手の間を抜けている最中でも、希久美は、捕手の面を投げ捨てて、返球の位置を指示する泰佑を見ていた。打者となった泰佑が外野に向けて大きな打球を放った時でさえ、希久美は打球ではなく、ベースを掛け回る泰佑だけを目で追っていた。ベンチで声援する希久美のこころは、すっかり女子高校生時代に戻っていたのだ。

 3点をリードする最終回。いよいよ希久美の登板機会がやってきた。ベンチの仲間に励まされ、マウンドに上がった希久美だが、緊張のせいかストライクがなかなか入らない。四球で出たランナーを、野手がエラーで進塁させてしまう悪循環。なんとか2死までこぎつけたものの2点を失い、なおも満塁のピンチ。さすがの希久美もこの局面の重要さは十分理解していた。おもむろに泰佑が立ちあがり主審にタイムを告げると、ボールを手の平で擦りながら、マウンドの希久美に近づいていった。

「 なによ。間を取るなんて、たかが社内ソフトボール大会でおおげさじゃない。」

 希久美が肩で息をしながらも泰佑に強がる。

「いやね…。」

 泰佑がミットで口を隠しながら、小声でささやいた。

「相手のベンチにさ、さっきからずっとオキクをもの欲しそうに見ている変質者がいるからさ。一応伝えておこうかと思って…。」

 おもわず相手のベンチを見ようとした希久美を泰佑が慌てて制する。

「見るな!ストーカーっぽいから、ヘタに目が合うと後が面倒だぞ。」

「そんなこと言ったって…。」

「ベンチに背を向けるから、俺と話すふりして、肩越しに見てみろ。」

 そう言うと泰佑は希久美を中心にゆっくり回った。希久美はロージンを拾い、手に粉をまぶしながら、泰佑の肩越しにチラッと相手ベンチをのぞく。

「いいか、オキクの見ている方向から一番右の男だ。」

 言われて希久美が発見したのは、10歳くらいの肥満児。鼻水を垂らし、両手にドーナッツを持ち、口をもぐもぐさせながら、希久美を凝視していた。相手チームの誰かの息子だろう。希久美は吹き出しそうになり、慌ててグローブで口元を隠した。

「あんたね。」

「はい?」

「ホンチャンの試合でもこんなことやってたの?」

「ああ、広い球場だと一発吹き出しキャラを探すのは結構苦労するんだ。」

 高校時代の自分は、泰佑がマウンドの投手に声をかけに行く時は、苦しい投手を励まし、純真な高校球児らしい話をしているとしか思ってなかったのに。

「好きだ。」

 希久美はいきなりの泰佑の告白に驚いた。

「いきなり、何言い出すのよ!」

「ボールであろうが、ストライクであろうが、俺はオキクの投げる球が大好きだよ。」

「ああ、そう言うこと…。」

「お前は気付いていないだろうが、お前は実に素直で、元気で、新鮮な球を投げる。結果はどうでもいいから、思い切って投げ込んで俺を楽しませてくれ。いいな。」

 ボールを希久美のグローブに渡すと、泰佑はホームへ戻って行った。希久美は、小走りでホームへ戻る泰佑の背を見つめながら、自分が愛されていることを実感した。しかしそれは、女としてではなくバッテリーパートナーとしてだ。球を投げ、そして捕球するふたりは、世界中の誰よりも近しい仲として希久美は感じたのだ。

 主審がプレイボールを告げる。希久美が投げた一球目は、打者のアウトローを通過した。

「いい球だ!」

 ボールがミットに収まった瞬間、泰佑が叫ぶもジャッジはボール。

「いいよ、いいよ、お前のしびれる球はとった俺しかわからない。」

 そう言いながら返球する泰佑に、主審も打者も笑い出した。

「さあこい!」

 泰佑の掛け声に背中を押されて、希久美はど真ん中に構えられたミットをめがけて投げた。打者は手を出さない。ジャッジはストライク。

「クーッ、いいね!」

 泰佑はボールを取ったミットの位置を動かさず、小刻みに震えながら全身で快感を表現している。

「こいっ、ピッチャー!今度はここだ!」

 泰佑の言葉とリズムに乗せられて、もう希久美は泰佑のミットしか目に入らない。この世には、ふたりしかいないようにさえ感じていた。全身の力を込めて放った3投目は、打者のインハイ。前の絶好球を見逃して打ち気満々の打者が手を出さないわけがない。バットを渾身の力で振り出したが、活きのいい球は、打者のイメージより若干伸びた。ボールはバットの根っこに当たり、ほぼ直角の角度で打球が空に舞い上がる。しかし、投球動作を終えたばかりの希久美は打球の行方を見失っていた。

「オッケー!」

 泰佑は面をはねのけて、打球の落下地点へ。そこはほぼピッチャーマウンドのあたりだったが、打球の行方を見失っていた希久美は、なんで泰佑が自分に突進してくるのかわけがわからない。

「ピッチャー、どけ!」

 泰佑が怒鳴ったが、希久美はわけわからず怒鳴られて余計体を硬直させる。ついに打球を追う泰佑が身体ごと希久美にぶつかった。しかし泰佑は、希久美の華奢な体が跳ね飛ばされないように、右手でしっかりと抱きとめた。希久美を抱きかかえながらも、チームの勝利の為に、あきらめずに捕球態勢を維持する泰佑。そして彼のミットにボールが収まった瞬間だった。

「てめえ、なにしやがる!」

 身体をヒッシと抱きしめられた希久美が、驚いて膝蹴りを繰り出す。それが見事に泰佑の急所に的中し、泰佑は苦しみのあまり身をよじった。ミットにおさまっていたはずのボールは、無情にもグランドに転々と転がった。主審は両手を水平に開いてセーフを宣告。ランナー2者が生還し、希久美のチームは最終回に逆転負けを喫したのだった。

 それでも希久美は平然として、足元でもがき苦しむ泰佑をマウンドに残し、跳ね飛びながら勝利を喜ぶ相手ベンチに背を向けて、自軍のベンチに戻っていく。あまりにも落ち着いた希久美の歩く姿は、チームメイト達をもってして、敗戦の原因は希久美の暴挙ではなく、泰佑のエラーだったと思わせるに十分な力を持っていた。そして、やっぱり希久美と泰佑はそういう仲だったと、敗戦のチームにはそぐわない、妙な安心感がベンチに漂っていた。

 

「ねえ、みんなもう飲み会の会場へ移動しちゃったよ…。」

 外野のファールグランドの芝生で、希久美が横たわる泰佑に付き添っていたが、泰佑は片腕で両目を覆いながら返事もしなかった。

「まだ身体が痛くて動けないの?それとも負けたことが悔しくて動けないの?」

「黙れ、この苦しみは、女のお前にはわからない…。」

「泰佑が悪いんでしょ、いきなり抱きついたりするから…。」

 泰佑が目の上の腕をほどいて半身を起こし希久美を睨みつけた。希久美が泰佑からの攻撃に備えて身構えるも、やがて彼も何かを言うのをあきらめたように、またもとの姿勢に戻る。希久美は、攻撃がないので身体をリラックスさせ、遠くでおこなわれているソフトボールの試合を眺めた。

「でも、野球って今まで見るばっかりだったけど、やっぱりやった方が面白いわね。」

「今日やったのはソフトボールだって、わかって言ってるよな。」

「でもさ、球を自分の思うところに投げられるようになったら、もっと面白いと思うわ。」

 希久美は、手にボールを持って握りを確かめた。

「その方が、泰佑もリードしがいがあるでしょ。」

 泰佑が腕の隙間から希久美を盗み見する。

「わかってないな。リードは、ピッチャーに球を投げる場所と球種を指示することじゃない。」

「どういうこと?」

「所詮、結果を考えて投げる球では、打者を抑えることなんてできない。活きた球じゃなきゃ打者を抑えられないんだよ。」

 泰佑は肘を立てて半身を起こした。

「活きた球は、ピッチャーが先を考えず、今のこの一球を楽しんで投げることにより生まれる。それを作り出すことがリードなんだ。」

「誰の受け売り?」

「うるさいなぁ。俺の哲学だよ。」

 泰佑が寝返りを打って、反対の方向を向いてしまった。

「すねないで、続けて。もう茶化さないから。」

 泰佑はそのままそっぽを向きながら話し始めた。

「キャッチャーにとって、活きた球を受けることは快感だ。今まで多くのピッチャーの球を受けてきたが、自分を感じさせてくれる投手はそう多くない。高校時代にひとりいたくらいかな…。」

 希久美の目に、高校の野球グランドの片隅で投球練習に励むバッテリーの姿が思い浮かんだ。

「でも…今日は試合には負けたけど、久しぶりに感じる球を受けられた気がするよ。」

 希久美は芝生に横たわる彼の背中をしばらくの間見つめた。

「ねえ、それわたしのこと?」

 泰佑は答えない。投手として彼に接してみてつくづく思う。もし自分が男に生まれていたのなら、きっと泰佑とは無二の親友になれていただろう。

「柄にもないこと言いやがって…。顔を隠してるのは、痛いからじゃなくて恥ずかしいからじゃないの、泰佑。」

 ニヤニヤしながら泰佑の顔を覗きこむ希久美。ばつが悪くなった泰佑が急に立ち上がる。

「いこうぜ。オキク。」

 バッグを担いで、泰佑を追いかける希久美。

「タクシー乗り場までいかなくちゃ。」

「時間も金ももったいない。ほら。」

 泰佑がヘルメットを希久美に投げわたす。

「えーっ。怖いよ。」

「黙って乗れ。」

 泰佑は嫌がる希久美を無理やりバイクの後部シートにまたがせると、エンジンのセルボタンを押した。ヤマハFZ1の重厚なエンジン音が響くと、滑るように走り出す。コーナリングをいつもより少し倒し気味にした走行に、希久美がキャーキャー叫びまくる。

「うるさいなぁ。バイクは倒さなければ曲がらないんだよ!」

 泰佑の意地悪なライディングに、希久美は考え付くあらゆる悪態をつきながら、必死に泰佑の身体にしがみついた。希久美は泰佑の広い背中に密着しながら、渋谷で会ったあの日以来久しぶりに、泰佑の『男』を感じていた。今日ほど、泰佑と触れあった一日はなかった。

 

 希久美は昨日の投球で、朝起きたときから体中の筋肉が痛い。加えて、試合後の打上げで泰佑や職場の仲間と騒ぎまくって、飲みまくって、頭の中も胃の中もガンガンしている。半日かけて外出の準備し、ようやく石嶋との約束の場所へたどり着いた。時間には遅れたが5分程度だ。今日は石嶋の希望で上野公園での待ち合わせだった。デートコースとしては、あまりにもありきたりな指定だが、そのありきたりさがかえって新鮮かもしれないと希久美は自分に言い聞かせていた。

 希久美が長身の石嶋の姿を認めた時、石嶋も彼女を見つけて笑って手を振った。今日の石嶋の姿に、希久美はいつもと違う感じを受けた。よく見ると、手を振っている反対の手に、女の子がぶら下がっていたのだ。

「すみません。ご迷惑とは思ったんですが、今日はおまけ付きで来てしまいました。ユカと言います。」

 ユカが可愛らしくお辞儀をして、希久美に挨拶した。事態が飲み込めぬ希久美に石嶋が言った。

「今日は、とりあえず動物園でも行きませんか?歩きながら事情を説明させてください。」

 ユカと石嶋、そして希久美は連れだって上野動物園へ向かった。道すがら、石嶋がユカと自分の事情について、希久美に慎重にそして正直に説明した。

「ユカと自分がこの後どうなって行くかはまだわかりません。しかし、今の自分の事情を正直に青沼さんにお伝えしておく方が、正しいと思いまして…。自分の都合ばかり申し上げましたが、気分を害されましたでしょうか。」

 心配そうに希久美の顔を覗く石嶋。突然の話しに希久美も驚いたが、話しを聞いているうちに、石嶋の誠実さが伝わってくる。

「今日ユカをご紹介させていただいたのは、ユカのためもありますが、もしご負担でなければ、青沼さんと将来の話しも出来るようになりたいと願っているからです。」

 希久美は石嶋の顔を見上げた。その真剣なまなざしには一点の曇りもなく、泰佑のガサツさとは違った繊細な心がうかがい知れる。『トキメキがどうだとか言うことより、この後一生付き合える相性の方が大切じゃないのか。』義父の言葉が希久美の頭をよぎる。もし石嶋と生活するようなことがあったら、決して喧嘩なんかしないんだろうな。そんなことを漠然と思っていると、ユカがキリンを見に行こうと希久美の手を引いた。希久美も明るく純朴なユカが嫌ではない。気の許せる人と将来を考え整理立てて計画を練る。それは自分の性にあっているし、魅力的なことでもあった。

 その時、希久美の胸に突然、『しかしその前に、今自分がやるべきことがある。』という想いが飛来した。やるべきことをやり遂げた後でなければ、将来なんて考えられない。それなのに、昨日の自分は本分を忘れ、泰佑との野球を心の底から楽しんでしまっていた。ユカと石嶋とキリンを指差しながら談笑する希久美ではあったが、心の中では言いようもない自己嫌悪に苦しめられていた。

「オキクじゃない?」

 上野 精養軒 カフェラン ランドーレのテラス席で遅めの昼食を取っていた希久美たちに声をかけながら近づいてきた女性がいた。

「あら、テレサ。今日はどうしたの?」

「取材の打合せでさ…。」

 話しているテレサにユカが抱きついて行った。

「これはこれは、意外なところで会うわね。」

 親しそうにしているテレサとユカに、希久美と石嶋が驚く。

「あなたユカちゃんと顔見知りなの?」

「いえべつに…。」

 テレサは、ユカとの出会いは希久美の宿敵の泰佑が絡んでいるので、目の前に居る男性にも警戒して真実は伏せた。

「ところで、そちらの美男子はどなたさま?」

「ああ、紹介するわ。石嶋さん、こいつはテレサと言って高校時代からの悪友です。テレサ、こちらはユカちゃんのパパよ。」

「あなたがユカちゃん自慢のパパですか…。はじめまして。」

「どうも…。でも、人見知りのユカが、なんでそんなに慣れているのか不思議だ。」

「ユカちゃんとは、会った瞬間からもうマブダチです。でも、マブダチだと思っていたオキクからは、石嶋さんのこと一切聞いたことないんです…。どういうご関係かしら。」

「嫌味ねぇ。石嶋さんは、お義父さんがいる会社の方で…。」

 言い淀む希久美に石嶋が付けたす。

「青沼さんのお義父さんのご紹介で、お付き合いさせて頂いています。」

「ご紹介でお付き合いって…お見合い?」

 テレサは改めて希久美の顔を見たが、希久美はそっぽを向いていた。

「あなた私たちに内緒で、なに堅気なことやってるのよ。」

「堅気って…、何をおっしゃっているかわかりませんわ。」

 淑女を気取ってとぼける希久美に、テレサが鉄杭をくらわす。

「ヒロパパ、こいつはユカちゃんの前に出せるような善良な女じゃないんです。裏で男を懲らしめるために数々の陰謀を張り巡らせている残忍な女なんです。」

「あんた、この席でその遊びはやめて!忙しいんでしょ。帰ったら。」

 慌ててテレサの首を締めて口を封じる希久美に石嶋が笑って制止する。

「いやいや、今日は自分も内側の事情を初めて青沼さんに披露しました。今度は青沼さんのいろいろなことを知りたいな。どうぞ、テレサさんご一緒して青沼さんのことをお聞きかせいただけませんか。」

「テレサ、あんた、なに勝手に座ってるのよ。早く帰りなさいよ。」

「いや、せっかくのヒロパパのお誘いを断るわけにいかないし、ねぇーユカちゃん。あらあら、今日も可愛いわね、また髪を編んであげましょうか…。」

「あんた、余計なこと言ったら絶交よ。お義父さんも知らないようなこと知られたら、私は一生石嶋さんの奴隷になるしかなくなるわ。」

「それはそれで、魅力あるな…。」

 笑いながら石嶋がそう言うと、ユカと遊ぶテレサに数々の質問を繰り出していった。希久美はハラハラしながらテレサと石嶋のやり取りを聞いていた。テレサの居座りに気が気ではない希久美だったが、一方では自己嫌悪に陥りながら、なにもなかったように石嶋と笑って話すのもしんどかったのも事実だ。とりあえすこの場を楽しく明るくしてくれるテレサを、無理に追い出す気にもなれなかった。

 

 オキクのプロジェクト「米子コンベンションセンター開館記念事業」が、開幕された。開館記念事業と言っても、複合施設の全館を使用したフェスティバルを開催し、施設の使い方をプレゼンテーションすることにより、今後様々な分野の主催者から施設を活用してもらうことが狙いだ。開館記念事業のテーマは地域にも関連の深い『写真』だ。「米子国際フォトフェスティバル」のタイトルの基で、約1週間にわたり様々なプログラムが展開される。この企画で、希久美は営業の中心となって陣頭指揮を執った。泰佑は、希久美の副官としてクライアントに見られぬようトラブルを処理したり、裏で業務の進行を管理したり、時にはリスクヘッジのために人から嫌がれる仕事もしながら、事業の成功のために尽くした。あるプログラムでは、搬入計画のミスで設営が大幅に遅れる事態となった。徹夜作業になる会場に希久美がやってくると泰佑が言った。

「自分が見てるからオキクは帰って寝ろ。ふたりして疲弊してもしょうがない…。」

 翌朝、会場へ行くと設営は無事終了しており、リハーサルがすでに始まっていた。希久美はクライアントを先導してリハーサルチェックに同行したが、完全な準備に安心したクライアントが、希久美に笑顔を向けて、本番もよろしくと声をかけてくれた。そのクライアントの肩越しに、現場のパイプ椅子で前夜と同じ服で仮眠を取っている泰佑を見た。

 閉幕式後の打上げでは、記念事業の大成功に満足した得意先が拍手を持って希久美を迎え入れた。希久美はクライアントと握手しながらも、成功は自分だけの力でないことは十分理解していた。現場のスタッフ達とそしてなにより日陰の部分で希久美を支えて業務を遂行した泰佑がいたからこその成功なのである。希久美は、クライアントへの一通りの挨拶を終えると、グラスを持って泰佑に近寄って行った。泰佑は、連日の激務で少し目の下の肉が落ちたようだ。疲れた様子だが、近づいてくる希久美を認めると笑顔で迎え入れた。

「希久美。成功おめでとう。」

 希久美が泰佑に握手を求めた。

「泰佑。本当にありがとう。ここまでこれたのもあなたのおかげよ。」

「なに殊勝なこと言ってんだ。いつもみたいに、あたしの仕切りに間違いはないと叫んでいいんだぜ。」

「いいえ、今夜それを言ったら品が無いでしょう。」

 ふたりはグラスを合わせて笑いあった。

「泰佑も戻ったら、次のプロジェクトが待ってるんでしょ。」

「ああ、今度はJOCの業務らしい。」

「オフィスも変わるみたいね。」

「そうらしいね。」

「寂しくなるわ。」

 泰佑はグラスを見つめてなにも答えなかかった。

「ねえ泰佑。帰ったら一日だけ私につきあってくれない。」

 希久美からの意外な申し出に、泰佑は身体を硬直させた。

「まさか、最後にとどめを刺すつもりか…。」

「嫌ねぇ。そんなことしないわよ。純粋にお礼よ。」

 泰佑が返事を戸惑っていると、希久美がクライアントにまた呼ばれた。

「いい、これはプロジェクトリーダーの最後の命令よ。」

 そう言い残して、立ち去る希久美の心境は複雑だった。プロジェクトと自分に尽くしてくれた泰佑には心からお礼を言いたい。しかし、いかに仕事のパートナーとして完璧であったとしても、私生活にもどればこんな悪党はいないのだ。公のプロジェクトが終わった以上、私のプロジェクトを完遂させなければならない。『公私は別よ。』希久美は何度も自分の胸に言い聞かせていた。


 
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