『……ということがありました。Rさんはどう思われますか?』
「――なるほど、デリカシーのないってこういうことなのね。それはAさんが怒るのも無理ないわ」
深夜――日の射さない地底において、多くの住人が寝静まるような時間を意味する――さとりは自室の机で、ロウソクを読書灯にして、手紙を読んでいた。つい先日送られてきた、『Initial A』の手紙である。
つい数日前の話だが、地霊殿のバイオネット端末は、こいし、空、お燐の異議申し立てにより、さとりの占有状態がなし崩し的に解消されてしまった。バイオネット端末は協議の末、さとりの部屋のドアの前に設置することとなり、さとりは以前ほど集中的に扱えなくなってしまった。
物理的な距離はさして変わってはいないが、部屋の中と外では周囲に払わなければならない注意力がまるで違う。今まで、小説を投稿する際の時間的拘束を部屋の中という聖域によってカバーしていたさとりにとってはかなりの痛手であり、結果『Surplus R』のアカウントを使えるのは、地霊殿の住人がほぼ寝静まる深夜帯のみになってしまった。
こいし、空、お燐の興味が一時的なものであることを期待したいが、当分はこの状態が続くであろうことを、さとりは諦観しながら受け入れるほかなかった。
「おかげで睡眠時間が少し不規則ね――これ以上こいしに寝不足妖怪なんて言われたくはないんだけど」
ひとりごちると共に、ロウソクの微量なすすが、さとりの目を瞬かせる。さとりの睡眠時間は、今までは人間に近い尺度であったが、『Surplus R』側で作業があるときは、どうしても眠る時間を後回しにせざるを得なかった。これで小説を書く時間が減らないのは不幸中の幸いであるが。
さて、手紙を読み切ったさとりは、その返信を考え始めた。『Initial A』との手紙のやりとりは既に数度行われており、その間に、お互いの個人情報が特定されない程度の情報交換――趣味や好物、日常の出来事について――は済んでいた。小説のことを始め、共通の話題に恵まれたため、両者はすぐに打ち解けた。
今回の手紙では、『Initial A』はなにやらとある人物から不躾な物言いをされたことが書かれていた。筆の走り具合から、誇張が入っているにしろ、相当立腹したようだった。ただ、文章中一文字も「男」という漢字がでてこなかったのが、さとりには少し引っかかった。
「ふつうに考えればAさんは女性で、軽薄な男性に言い寄られたと見るところだけど――同性? まさかね――」
小説を書いていると些細な記述も気になってしまう。ある種の職業病だろうか、とさとりはため息をついた。
「さて、この件についての返事と――そうね、日常の話から繋げて、この前の事でも書きましょうか。――でも、まさか妹とペットが喧嘩したなんてダイレクトに書いても首をひねられるだけだから、うまくごまかさないと」
大まかに返信の内容をメモ用紙に残して、さとりは筆を置いた。今晩はここまでだ。流石に眠くなってきたので、今の状態ではうまく言葉が浮かばない。返事を書くのは夜が明けてからでもできる。
さとりは一息でロウソクを吹き消し、席を立ってベッドに歩み寄った。
「――?」
そこでだ。さとりはベッドに乗り上げる前に、違和感を覚えて足を止めた。
真っ暗になった自室を一度見渡す。周囲には何者の気配もない。気のせいか? と思いながら、二度部屋の様子を見――。
「!」
ドアの方角だ。暗がりの蛍光塗料よりもなおおぼろげな、青白い輪郭が現れる。
ぎょっとしたさとりは、三つの目全てでそれを注視する。それが、物理的な光源を持たない存在であることは、遠近感の希薄さで判断できた。
では何らかの霊魂か? しかし何故かそうとも感じられなかった。幽霊ならば室内の温度が下がり、怨霊であれば温度は上がる。しかし、肌で感じる室温は平静なものだ。そもそも、霊魂であれば、見ずとも気配でわかる。今さとりが見ているものは、物理的な存在でもなければ、霊体ともいいがたいものだ。
さとりが観察している間に、謎の存在の輪郭が少しずつ鮮明になる。それにともなって、さとりはその形がなんなのか認識できるようになった。
いや、それどころか、それはさとりの記憶に沈んでいたある存在を想起させた。
犬だ。蒼白の線で縁取られ、グラデーションで面を構成するその立体は、まぎれもない動物の犬だった。
犬の幻影は、さとりに顔を向けることなく、無音でさとりの部屋のドアを通り抜けていった。
「!」
さとりは弾かれるように駆け出し、ドアを開ける。正面の廊下には、壁際に設置されたバイオネット端末とそれを乗せる台。
青白い輪郭の犬は、「まるで生きている時のように」、上体を持ち上げて前足を台に乗せる。尻尾の振り方も、「生前そのまま」だ。
そうして、バイオネット端末のパネルに鼻面を押しつける――どころか、貫通して内部にまでめり込んでいく。そのまま、犬は端末内部に吸い込まれるようにして、姿を消した。
残されたさとりは、すぐさまバイオネット端末を掴んだ。機器には一切の外的変化は見られない。犬の鼻息の跡や唾液の付着などあろうはずもなかった。
次にパネルを操作して、機械の動作をチェックする。全くもって正常だ。機器のセルフチェックは何一つイエローやレッドを示しておらず、古明地さとりのアカウントへのログインも滞りなく行われた。
「何これ――」
さとりは困惑に包まれた。余りに訳の分からない事態に判断力が働かない。ただ、ぼんやりとした眠気は完全に吹き飛んだ。
深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。すると、ある事に思い当たった。
さとりは、バイオネット端末を操作して、古明地さとりのアカウントからログアウトする。そして、『Surplus R』にログインし、操作履歴を参照した。
今晩は、また新たに小説を一作品、バイオネットに送信している。
――その作品はなんであったか。
最新の操作履歴を見たさとりは、背筋に得体の知れないものが走るのを感じた。
「私が、今日投稿したのは――」
『頼れるアルフレッド』。
犬を主役にした作品だった。
夜が明けて、時計の針は午前十時を指していた。朝というには少し遅い時間である。
さとりはようやくベッドから起き出して、身支度を整えるべく洗面所に移動した。
ペット達がすり寄ってくるが、さとりはそれらをやんわりとあしらいつつ、洗面台の前に立った。
「――やっぱり、あまり眠れなかったわ」
鏡に映った自分自身を糾弾するように、さとりはひとりごちた。普段よりも目の回りが腫れぼったくなり、クマがうっすらと浮かび上がっている。
すぐさまさとりは蛇口を捻って水を出す。地霊殿は地底大空洞の上層の地下水脈から水を引いているため、その水は冷ややかで清潔である。さとりは震えるくらい冷たい水で顔を洗った。いつもよりも強めに、顔に滲んだ寝不足の陰をぬぐい去るように。
丹念に洗い流したところで、再度さとりは鏡を見る。そこに映る自分の顔は、先ほどよりはましになったような気がした。
それを凝視しながら、さとりは沈思黙考する。それは、昨晩無理矢理ベッドに横になってから、ずっと続いているものだった。
(あれは、色こそ違えど、間違いなくアルフレッドだった――)
昨晩に見た正体不明の犬の幻。それは、さとりの記憶に強く残るもの――十数年前に死んだペット、ラブラドールレトリーバーのアルフレッドの姿そのものだった。
アルフレッドは、何らかの事情で時空の迷子になって地底に転がってきたところを、さとりが保護した。彼は何の力も持たない、ただのペット犬だった。だが、非常に人なつっこい性格のアルフレッドを、さとりはよく可愛がり、地霊殿の他のペットからも愛される人気者だった。
だが悲劇が起こる。ある日、本来ならさとりが食べるはずの食事を、アルフレッドが誤って口にしてしまった。
その中には、犬が口にしてはいけないものが含まれており、たちまちアルフレッドは体を壊した。医者にかかることもできずに(そもそも、地底に獣医はいなかった)、そのまま数日で息を引き取った。
アルフレッドを失った時の沈んだ地霊殿の空気を、さとりは今でも覚えている。自分の不注意でアルフレッドを死なせてしまったと、さとりは酷くふさぎ込んだものだった。
その失意から立ち直るためにさとりが行ったのが、アルフレッドをモデルにした小説を書き、そこに思い出を閉じこめることだった。その際にできた作品を下地に改訂したものこそ、昨晩、さとりがバイオネットに投稿した小説、『頼れるアルフレッド』だった。
投稿したその夜に、アルフレッドそっくりの幻がさとりの目の前に出現した。これは何らかの符号なのだろうか?
そう思いながら、さとりは首を捻るしかない。
『頼れるアルフレッド』を昨晩投稿したことに、特別な事情はない。さとりは、新規に執筆した作品、過去に書いたものを手直しした作品、どちらを投稿するかは、その時々の気分で決める。強いて基準があるとすれば、チェックした際にある程度納得できる仕上がりのものを出すという程度だ。
(執筆した当時の感情が霊魂を招き寄せた――? そんなばかな)
『頼れるアルフレッド』は思い入れのある作品だが、小説書きのさとりとしては、習作の部類だ。そのものに極端な執着はない。
いやそれ以前の話だ――とさとりは頭を振った。アルフレッドが亡くなったとき、さとりと地霊殿の住人は、丁寧にアルフレッドを弔った。身の回りに当たり前のように幽霊や怨霊が存在する地底の環境では、死者をおざなりにすることは、怨霊を生み出して面倒事を引き起こすことに等しい。最低限、旧灼熱地獄にでも放り込んでおかないと危険だ。
しかも、さとりは、仕事のつてを頼って、地獄の業火とは違う、死者を弔うための清浄な炎を分けてもらい、それでアルフレッドの亡骸を彼岸へと渡した。これは、地霊殿の住人が死んだとき、必ず行っていることだ。これで弔った者の魂が此岸に残っているようでは、是非曲直庁側の問題になる。
なにより、昨晩、さとりが目撃したあの幻は、幽霊でも怨霊でもなかった。少し寝ぼけていたとしても、あれが見間違いとは考えにくい。
つまり、原因はさっぱり不明ということだ。このような堂々巡りが、昨晩からずっと続いていた。
「――」
さとりは髪の毛にまで余分についた水分を、タオルでしっかりふき取って、食堂に向かった。
食堂でトーストを一かじりとコーヒーを一杯飲み干すと、自室の前のバイオネット端末に移動する。
今日はお燐も空もこいしも地上に行っている。故に、多少の占有は問題がない。いや、利用するのが『古明地さとり』のアカウントであれば、仮のその三人がいたとしても気にならないが。
バイオネット端末を乗せた台には引き出しがついており、そこに端末の説明書がしまわれていた。片手でログイン操作をしながら、さとりは説明書を引き出し、巻末を開いた。
「……連絡先は、これね」
『バイオネット及びその端末について不明な点がございましたら、下記アドレスにバイオネット経由でご連絡ください――』
巻末にはいわゆるサポート窓口の案内が記されており、上記の通りバイオネット経由で管理側にメッセージを送る手段が書かれている。指定のアドレスに手紙を送ればよいらしい。ちなみに、バイオネットを使わない連絡方法も記されているが、みるからに七面倒くさい手順を踏まなければならないので、明らかに非推奨であろう。
「――どっちにしろ、やりたくないんだけどね」
苦虫をかみつぶした顔のさとり。この連絡先にメッセージを送るということは、つまりバイオネットの運営を取り仕切っている、パチュリー・ノーレッジ、そして八雲紫とコンタクトをとると言うことだ。それがさとりには気が重かった。
バイオネットを実質的に主導しているのが、八雲紫であろうことは、ある程度の幻想郷の事情を知る者にとっては、大体想像のつく話であり、半ば公然の秘密に等しかった。パチュリー・ノーレッジは幻想郷の有力者である紅魔館の賓客で魔法使いだが、彼女に幻想郷全土に及ぶシステム構築が可能かは怪しいところである。
地底に住むさとりとて、あの妖怪の厄介さは理解している。とにかく、こちらから働きかける気にならない。その警戒心は、ある意味呪いじみていた。
しかして、このままあえて説明書を閉じて何もしない選択をとるのがよいのか? さとりは大いに迷った。あれが本当に自分の寝不足による幻覚だと、思いこめればどんなによかったろう。だが今のさとりにはそこまで決断的に自己暗示ができない。
――さとりはバイオネット端末に背を向けて、部屋に入った。
数分して、ドアが再度開かれる。出てきたさとりの手は、一般的な便せんの紙を一枚掴んでいた。
さとりはいつもの手つきで、紙を端末に通して、送信手続きを行った。端末はいつも通りの音を立て、手続きが滞りなく終わったことを通知した。
そのまま、さとりは自身のアカウントからログアウトして、また自分の部屋に戻った。机の前に腰を下ろすと、そこでようやくため息をついた。
(とりあえずあるがままは伝えた――後は野となれ山となれ)
できることはそれだけだった。だがとりあえず、気分は落ち着いてきた。良かれ悪かれ、行動は進展をもたらす。次のリアクションがくるまでは、思考の外に閉め出しておいても支障はない。
机に落ち着いたついで、といってはおざなりであったが、さとりは書類業務を片づけることにした。そして、それが終わったら、『Initial A』の手紙の返信を書いて、送る。今日のような日であれば、『Surplus R』のアカウントを日中に使っても支障はない。今日の予定はそう決めた。
(そうね――流石にあの一件を書くのは脈略がないから、昨晩考えた通りに書こう)
必要な書類を引き出しながら、返信の言葉を頭の中で用意していくさとりの表情は、自然にほころんでいた。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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