一 ・ 墓場と呼ばれた都市
墨絵のような鈍色の街に、廃液の雨が降りしきる。
『上の連中』が垂れ流しにしている廃液の雨など、ここ地下東京ではさして珍しい事でもない。
彼らが管理している『地上波』では、有毒物質を完全に濾過してあるとまことしやかに放送しているが、人間として生きる事を止めた連中など、誰が信じるというのか。
近い未来かも知れない、日本国、東京。
三十年前、死海を震源地とした巨大地震により、世界は未曾有の恐慌状態へと陥った。
通称『天の火』と呼ばれる兵器がプレートの境目へ落下し、砕かれたプレートは地殻変動を発生させた。
周辺国はこれを衛星軌道兵器と認識し、所属国を特定しようとした。だがどれだけ調査しても『天の火』に関わる情報はおろか、兵器の形状すら窺い知れなかった。
各国は疑心暗鬼となり、災害救援すら拒絶する有様だった。暴動は内乱へと発展し、鎮圧に出た国際連合軍すらも侵略を疑われた。
『天の火』の落下により文字通り口火を切られ、日本は武装を迫られた。
賛成派と反対派が揉めるさなか、生体工学の権威である朔月博士が提唱した人造兵士が、半ば強引に実戦へと駆り出された。
人口を減らす事なく、各種兵器と連動して任務をこなせる人造兵士は、一般層から熱烈な支持を受けた。
人造脳に人工知能を搭載し、見た目は人工皮膚と筋肉で覆われている彼らは、外見上は人間と遜色ない。
狂った世界から日本を守りきった後には、地球全体の人口が三分の一まで激減していた。それは日本も例外ではなかった。
ただひたすら生き残るために、朔月博士は新たなる政策を打ち出した。
それが古い人間の肉体を捨て、強化された自身の肉体を得るエイジスシステム。強化人間リーンフォースの誕生だった。
やみそうにもない廃液の雨を見つめながら、少年は公園の東屋で雨宿りをしていた。
錆びたトタン屋根は静かな譜面を形成し、足音すら届かない園内に響き渡る。
地味な学生服に身を包みながらも彼を目立たせているのは、日本では珍しくなった鮮やかな金髪のせいだろう。
彼はこの髪の色が嫌いだった。クラスメイトたちと異なる青い瞳も好きにはなれなかった。
皆と違うからではない。彼らがつまらない難癖をつけては、少年をからかうのが面倒だったのだ。
中学生にしては華奢な体つきの少年を、誰もが最初はからかう。
だが次の瞬間には床へと叩き伏せられ、鼻血を出しながら許しを乞うのだ。
強化人間として肉体を与えられた少年には、人間を殴り殺すなど造作も無い。
だが、ただ闇雲に暴力を振るう事は、彼のプライドが許さなかった。
何故こんな体を与えられたのだろうと苦悩もしたが、昔の記憶がある訳でもなく、いつしか彼は考えるのをやめていた。
「朔月君?」
自分を呼ぶ声に少年がふと顔を上げると、そこにはセーラー服の少女がいた。
鮮やかな赤い傘を差す長い黒髪に、何となく見覚えがあった。
「照山か。何か用か」
「何か用かじゃないよ。君最近ずっと学校休んでるから、家に様子見に行こうと思ったの。授業のノートも取って来たよ」
微笑みながらノートを差し出す少女に、彼はそっぽを向いた。
「オレに関わるな。家にも行くなよ」
「どうして? まさか学校行く振りして、ずっとサボってたとか。カイさんだっけ。お兄さん心配するじゃない」
「あいつは兄貴じゃないよ。ただの保護者だ。いいからもう帰れ。日が落ちる」
やみかけた雨を見つめ、少年は呟いた。
地下に輝く人工の太陽は西へと傾き、夜の訪れを指し示していた。
「しょうがないなあ。じゃあノートは明日返してね。学校で待ってるよ」
夕陽に赤く映える傘の下から、少女は笑いながら手を振った。
その様が何故か羨ましく、少年は手を振り返せなかった。
夕闇の中自宅へ戻ると、すでに食事の仕度がされていた。
少年の気配に振り返ることもなく、キッチンに佇む黒髪の青年が声をかける。
見た目には二十歳前後に見えるが、その声には成熟した重みがあった。
「おかえりサツキ。今日は遅かったね」
その言葉に何も返さず、サツキは二階の自室へと上がった。
鞄とノートを机に置くと、着替えもせずにベッドへと転がる。階下からはカイの呼ぶ声が聞こえるが、無視をした。
程なく階段を昇って来る足音がする。いつも通りの恒例行事だ。
「サツキ。夕飯くらい食べなさい」
部屋の外からドア越しに声がする。
いつからだろうか。サツキは自分が人間ではないと知った時から、知らず知らずのうちにカイを避けるようになっていた。
カイがサツキを保護してから、十年の月日が経っている。
保護当時十歳程度だったサツキの体は、おおよそ十四歳で成長が止まってしまっていた。
本来ならカイと同じくらいの年齢なのかも知れないが、サツキは自分が永遠に子供のままだと勘付いていた。
ある日カイは、サツキに強化人間の話をした。
通称リーンフォースと呼ばれる彼らは、実在する人物の細胞を培養し造られた偽体だ。
本来であれば、その偽体はオリジナルの自我と記憶を刷り込まれて、新たなオリジナル体として世に出る。いわば若い肉体のままで永遠に生きるシステム。それがエイジスシステムだ。
地上東京と呼ばれるアクロポリスは、そういった永劫主義者たちで溢れかえっている。そしてそれに異を唱える者たちを、戦前にシェルターとして作られた地下東京へと追いやった。
この地下東京がネクロポリス――墓場と揶揄されるのは、そういった経緯もあるのだ。
「食べたくない」
カイの呼びかけに、サツキは一言だけ応えた。
自分は誰の偽体だったのか。何故自我を持ったのか。この感情さえ他人に植え付けられたものなのか。
様々な思いが駆け巡り、サツキは悩み苦しんだ。
そんなサツキに、カイは何も言わなかった。十年前から何ひとつ変わらない姿のカイに、サツキはそれとなく彼もリーンフォース体なのだろうと察した。
いつの間にかドアの外にあったカイの気配は消え、静寂だけが部屋を包んでいる。
カイに対する罪悪感と、自分へのいら立ちがサツキを苛んだ。
不意に起き上がると、サツキは私服に着替えた。
掛けてあったパーカーを着込むと、そのまま階段を駆け下り外へと飛び出した。
背後からカイの声が聞こえた気がしたが、なりふり構わず独りになりたかった。
十二月の寒さは、雨すら雪に変えそうな気温だ。
高台の公園まで来ると、ぽつぽつと灯る家々の明かりがサツキの心を慰めた。
金切り声を上げるブランコだけが、彼の耳に届いた。
二 ・ 烏丸堂
何も言わず飛び出して行ったサツキに、カイはため息をついた。
十年前彼を保護したのは、狭い裏路地の奥だった。
体長に合わないぶかぶかの白衣を着せられ、五月の雨に打たれて寒さに震える子供を、カイは見捨てる事が出来なかった。
『仕事中』にも関わらず、標的を追うよりも子供を優先してしまった自分に、彼自身が一番驚いた。
これまで数多くの強化人間や人造兵士を屠り『夜殺し』とまで呼ばれた男が、一人の子供のために全てを捨てる事になろうとは。
不意に呼び鈴が鳴り、カイの思考は中断した。
呼び鈴の室内モニターを見やると、一人の男が訪ねて来ている。
黒のスーツを着込み、隙の無い所作でこちらを睨むその男を、カイはよく知っていた。
十年前に『仕事』をしていた頃の知り合いだ。
カイは主に単独で行動していたが、彼らは組織の中で情報を共有しながら任務に当たっていた。
目的が同じな分、彼らから依頼が舞い込む場合もあり、ライバルというよりは同業者に近い。
ドアを開け招き入れると、長身の男がゆっくりと足を踏み入れた。
黒髪に黒のスーツ、そして同じ色の皮手袋をはめている姿は、さながら黒い壁が移動しているようだ。
「お久しぶりです、カイさん。近くに寄ったもので。急にすみません」
目を細め、懐かしそうに男は挨拶した。
最後に会った時はまだ二十代だった彼も、今や成熟した大人へと成長している。
「久しぶりだね鋭司。元気そうで何よりだ」
「実はカイさんにお知らせしたい件がありまして」
男は微笑み、間髪を入れず用件を語り始めた。
「どうやら矢雲財閥の会長が動き出したようです。ここ最近の子供誘拐事件は連中の仕業と見ています」
「矢雲といえば、八大老の一人か。アクロポリスの偉いさんが動くとなると、相当ヤバイ件のようだ」
「恐らくこの男を追っているのではないかと」
鋭司が差し出した写真には、一人の中年男と少女の姿が映っている。
「朔月博士の研究所にいた研究員が一人、家族を連れてこちらまで逃亡した可能性があるようです。この娘を探し出すために、子供たちを攫っているのかも知れません」
淡々と語る鋭司の言葉に、カイは眉ひとつ動かさず聞き入った。
十年前に一線を退いた自分にこの話をしてくれるのは、他でもない朔月博士絡みの案件だからなのだろう。
人造兵士や強化人間の生みの親。朔月博士の生み出すモノを残らず破壊しつくすのが、カイの悲願だったのだ。
「ありがとう。明日から調査をしてみる。何かあれば連絡するよ」
鋭司は一礼をしてその場を立ち去ろうとした。
不意に何かを思い出したように立ち止まり、振り返ってカイの顔を見た。
「そういえばあのボウズはどうしたんです。先ほど烏丸堂の前で見かけましたが」
「サツキか。今はまだ思い悩んでいるようだ。自我と感情を持ってまだ十年だし、無理もないよ。まあ俺の育て方が悪かったのかも知れないけど」
自嘲気味に微笑むカイに、彼が自らの過去を重ねているのだろうと鋭司は思った。
カイがリーンフォースとなった経緯を、詳しくは知らない。分かっているのは、一度は死んだ彼を強化人間として蘇らせたのが、朔月博士だという事だけだ。
別れを告げ、鋭司は外へと出た。小降りだった雨も、今は凍てつく滴となっている。
停めてあった車のエンジンをかけ、彼は主人の許へと急いだ。
雨が次第に氷となり、雪に似た塊へと変化するのにそう時間はかからなかった。
ブランコの鎖を握る手も凍え、赤くかじかんでいる。
吐息も白く煙り、サツキは家へ帰ろうかと思った。
彼の帰る場所はそこしか無い。どんなに反抗しても、実の家族のように受け入れてくれる存在に甘えきっているのは、彼自身よく分かっているのだ。
ブランコから立ち上がり、サツキは公園を後にした。
歩きながら見上げる雪は、空から舞い落ちる花びらのようだ。
カイが話してくれる桜とは、こういったものなのかも知れない。
春になると淡い白の花を咲かせ、風と共に一斉に吹きすさぶ。それがまるで吹雪のようだと教えてくれた。
墓場と揶揄されるこの都市に、樹木は一切根付かない。人工の太陽と月が申し訳程度に設置され、コンクリートで塗りつぶされた街はまるで墓標だ。
国民の強化人間化政策に反対した者たちは、闇へ潜むようにこの地下都市へと逃げ込んだという。
それが彼らの、精一杯の抵抗だったのだろう。
角を曲がれば自宅という所まで来て、サツキの足はぴたりと止まった。
どんな顔をして帰れば良いのか。何と声をかけるべきなのか。
迷い始めると足は動かなくなり、次第に自宅から遠のいた。
気付けばサツキは一軒の薬屋の前へと辿り着いていた。烏丸堂と銘打たれた看板の横には『良薬から猛毒まで』と如何わしい文句がぶら下がっている。
すでに店じまいがされていたが、小遣い稼ぎに時々店を手伝うサツキは、裏口の場所を知っていた。
勝手に裏庭へと回り、開いている裏口から店の奥へと入る。
店主がいるかどうかは分からなかったが、暗い店内に灯りをつけ、彼は折りたたみ椅子を引っ張り出して座り込んだ。
店番のアルバイトをしている時は気付かなかったが、手の届かない上の棚に、緑色に輝く石版が見えた気がした。
何故かそれが気になり、椅子を台にして棚を覗き込んだ。
そこに見えたのは、ガラスケースに収められたエメラルドの板だ。
神秘的な光を放つその石に、サツキは陶然と見とれた。
本物なら、どれだけの値が付くのだろう。触れてみたい衝動に駆られたが、ガラスケースにしっかりとはめ込まれて、取り出す事さえままならなかった。
「何をしている」
不意に背後から声をかけられ、サツキは椅子から転げ落ちそうになった。
振り向けば戸口には、店主の烏丸が立っている。
見た目は二十代半ばに見えるが彼の眼光は鋭く、恐ろしいほど老成している。
初めてここに連れて来られた日から、烏丸の容姿はまるで変わらない。恐らく彼もリーンフォース体なのだろうとサツキは思っていた。
実際烏丸は自らの身上など一言も口にせず、ただ淡々と薬屋を営んでいるだけで、過去など窺い知れようも無い。
店内には漢方から化学製剤までが所狭しとひしめき合い、膨大な知識量を蓄えているであろう事は誰にでも見て取れた。
「あ、烏丸さん。こんばんは」
「こんばんは、じゃないよ。泥棒みたいなマネをして。カイさんとケンカでもしたんだろうけど、心配するから早く家へ帰りなさい」
毎度の事なのか口では諭しながらも、烏丸は茶を淹れてサツキに勧める。
すっかり体の冷えたサツキには、湯呑みの暖かさが身にしみた。
「棚の上にある緑の石、綺麗だね。本物みたいだ」
子供らしい言葉に烏丸は微笑み、ぽつりと呟いた。
「昔拾ったものだよ。あの欠片には不老不死の碑文が彫り込まれているのさ。本物ならね」
嘘か本当か分からない冗談を発する烏丸に、サツキはまじまじと彼の顔を見た。
その様子に烏丸は笑い出した。明らかにからかっているのだ。
「何だよ! バカにして。オレ帰る。お茶ごちそうさま」
一瞬でも信じたのが恥ずかしくなり、サツキは急いで立ち上がった。
勝手口へ向かうサツキの背中に、烏丸が声をかける。
「もうすぐ二十五日だね。その日くらいは家にいてあげなさい」
予想もしなかった烏丸の言葉に、サツキは振り返った。
「二十五日ってクリスマス? オレもうそんなガキじゃないよ」
不満げに呟くサツキに、烏丸は笑いながら応えた。
「そうじゃない。確かカイさんの誕生日のはずだよ。祝ってくれる人もいないだろうから、せめてキミが祝ってあげる方がいい」
「あいつの誕生日なんてよく知ってるなあ」
「カイさんとは付き合い長いからね。それにこの街で僕の知らない事は無いよ」
再び嘘か本当か分からない冗談を言って、烏丸は微笑みかけた。
「分かったよ。烏丸さんがそう言うならそうする」
帰ろうとしたサツキに、烏丸は思い出したようにふと呟いた。
「そういえば、最近誘拐事件が多発しているようだ。キミは大丈夫だろうけど、気をつけて帰りなさい」
含みのある言葉を投げかけられ、サツキは烏丸堂を後にした。
夜の冷え込みは一層厳しくなり、星も無い空だけが冴え渡った。
三 ・ 終わりの始まり
翌朝、サツキはノートを返すために学校へと急いだ。
アスファルトの薄氷は雪結晶にも似た模様を形成し、きらきらと輝く人工太陽に照らされている。
昨晩は帰宅してから何も話せず、結局そのまま自室へと戻ってしまった。
自分が素直にならないのが悪いと感じてはいるが、きっかけを上手く掴めずにいた。
予鈴直前に教室へ滑り込むと、教室内にいた生徒が一斉に振り向いた。
ただでさえサツキの姿は目立つ上に、登校自体が一週間ぶりだったのだ。
そのまなざしを気にも留めず、サツキは自分の席へと着いた。照山明日葉の席へちらりと目をやったが、授業が始まっても彼女は現れなかった。
放課後まで待っても明日葉の姿は無く、胸騒ぎがしたサツキは担任のいる職員室へと向かった。
担任からは再三登校するように言われていた分、今更顔を合わせるのも気乗りはしない。ただ明日葉が登校しない事だけが気がかりだったのだ。
「あら朔月君。ようやく学校に来てくれたのね」
担任の根津先生が、嬉しそうな表情でサツキを迎えた。
普通の『人間』が多いこの地下東京で、強化人間リーンフォースと知りながら会って喜ぶ人などそういない。
他人にあまり興味を持たないサツキには、根津先生の思考が理解出来なかった。
少し力を加えるだけで人を殺せる強化人間を、恐れない人間などいるだろうか。自分たちと毛色の異なるモノを受け入れるなど出来るのだろうか。
保護者であるカイの意向で、サツキがリーンフォースであるのを知っているのは教職員だけにとどまっていた。
知りながら変わらず接してくれる教師がいる中、あからさまに避ける教師や、なるべく関わらないようにしている教師もいるのは知っている。
そうした教師たちの態度が生徒にも伝播し、やはりサツキに対する態度は様々だ。
それでもこれが、彼らにとっては最善なのだろう。
「先生。オレ照山に用があって学校に来たんだけど、あいつ風邪でもひいたのかな。今日来なかったよね」
「ああ、照山さんね……」
根津先生は言いよどむと、サツキの目をじっと覗き込んで囁いた。
「あなただから言うわね。他の子には知らせてないけど、照山さん、昨日の夕方から消息が掴めないみたいなの。彼女まじめな子だし、家出するようには見えないのよね」
予想しなかった答えにサツキは言葉が出なかった。
不意に烏丸が言っていた誘拐事件を思い出し、呟いた。
「昨日の夕方、照山に最後に会ったのオレなんだ。オレがちゃんと家まで送らなかったから、こんな事に」
「あなたのせいじゃないわ。警察が非公開で捜索してくれているから、今は待ちましょう」
「……待ってなんかいられない。オレ探して来ます」
根津先生の制止を振りきり、サツキは職員室を飛び出した。
血相を変えた彼の様子に、根津先生はため息をついた。
「無愛想だけど優しい子よね、あの子。そんな子が何故、朔月の姓など名乗っているのかしら」
誰にも聞こえないようぽつりと呟きながら、根津先生はコーヒーカップを手に取った。
すでに冷めてしまったカップは黒々とした液体を湛え、彼女の不安そうな顔をその表面に映し出した。
明日葉の姿を捜し求め、サツキは最後に別れた公園へと来た。
昨日雨宿りをしていた東屋を見渡し、彼女が走り去った方向に目を向ける。
夕暮れ時の公園には人影も無く、物音どころか気配すらしない。
静まり返る夕闇の中、サツキは目を閉じ耳をそばだてた。全神経を聴覚に集中させ、わずかな音すらも拾い集める。
彼らリーンフォースは筋力や体力だけでは無く、五感にも優れている。生体の耐用年数は三十年程度と短いが、それを補って余りある能力を有した。
ブレーキ音。金属の鳴る音。複数の足音。子供たちの声。
辿り着いたその中に明日葉のすすり泣きを聴き取り、サツキはゆっくりと目を開けた。
音情報の位置から、数キロ先にある倉庫街だと彼は確信した。
「今行く。待ってろ」
明日葉の無事を祈り、サツキは駆け出した。
すでに日は落ち、人工の月が東の空に姿を現している。カイに連絡する事さえ忘れ、そのまま彼は走り続けた。
四 ・ クリスマスカード
サツキを学校へと送り出した後、カイは一階の仏間へと閉じこもった。
仏壇に花を生け、蝋燭を灯して線香を焚く。中央には優しげな微笑を湛えた女性の遺影が飾られている。
りんを鳴らし、カイはそっと手を合わせた。そして蝋燭の炎を扇ぎ消し立ち上がると、畳をはがして床下へと手を伸ばした。
その手に握られていたのは、ひとつの布包みだ。見た目はぼろぼろに朽ちたそれを解くと、黒く輝く銃器が姿を現した。
リボルバーの形状を成しながら、大きさは拳銃の比ではない。人間なら発砲しただけで腕が吹き飛ぶ代物だ。
二度と手にするはずが無かったもの。
十年前、サツキのために捨てた思い。母と弟を死へ追いやり、あまつさえ一緒に死んだはずの自分をいたずらに蘇らせた朔月博士への怨念。その憎悪だけがカイを生かしてきたのだ。
銃器を手にしたまま居間へ戻ると、カイはテーブルに置かれた葉書大のホロフラフィカードに目を移した。
この手の立体ホログラムメールにしては珍しく、音声だけが再生されるものだ。
「……もうすぐお前の誕生日だな」
囁きのような低い男の声が響く。
「あれから三十年近く経つ。その体にもガタが来ている頃だろう。戻ってくるなら今のうちだ。十年前に失くした『鍵』もお前が持っているのだろう。良い返事を期待している」
それだけ再生されると、音声はぷつりと止んだ。
男の皮肉めいた言葉尻に、カイはカードを握り潰した。怒りに震える拳から細かい破片がこぼれ落ち、男の嘲笑だけが延々と繰り返される。
不意に電話が鳴り、カイは表情を強張らせた。
応答すると、訛りの強い男の声が耳に入る。
「よォ。久しぶりだなァカイ」
モニターの電源を入れると、銀糸を思わせるプラチナブロンドにマラカイトグリーンの眼をした、明らかに日本人ではない若い男の姿があった。
口を開かなければどんな女でも虜にするであろうその美貌は、十年の歳月を経てなお神々しく映る。
「久しぶりだなシルヴァン。最後に会った時はまだ中学生だったのに、立派になったもんだ」
まるで長年会っていない親戚のような言い方に、シルヴァンは不機嫌そうに口をつぐんだ。
「うるせェな。いいんだよ、そんな事は。それよりも鋭司が勝手に顔を出したようで悪かった。あのボウズのために、転居しながら痕跡隠してるんだろ」
「いや、もういいんだ。『あいつ』からクリスマスカードが届いた。すでにここも特定されているようだ」
カイの言葉に、シルヴァンはふと黙り込んだ。『あいつ』とは、朔月博士に他ならないと彼も知っているからだ。
戸籍や個人情報など、全てを電子記号化した現代となっては、電子情報のやり取りよりもアナログな手段の方が痕跡を辿られにくい。
それを踏まえて鋭司は直接訪問したのだろう。ただ彼が来る来ないに関わりなく、すでに朔月博士はカイの居場所を知っていたのだ。
モニター越しに、テーブルの上に置かれたリボルバーがシルヴァンの目に入った。見覚えのある代物だ。
「懐かしいなァ。『神意二十六式』か。八十口径のバケモノを扱えんのは、今ではお前くらいだろうな」
そう呟きながらシルヴァンはカイの意志を見て取った。
十年前の作戦中、侵入したアクロポリスの兵士たちを追い詰めながらも取り逃がしたのは、指揮をしていたカイ自身が中断したためだった。
敵を追うよりもたった一人の子供を優先した事に、地下東京を統治する四太守から批判が噴出し、カイは一線を退かざるを得なかった。
地上東京アクロポリスが、反勢力である地下東京を秘密裏に殲滅する事を是としている以上、生きるためには戦うしかすべが無い。
「四太守の一人、シルヴァン・レイスが俺に何の用だ。今更戦線に戻れなどと言う訳じゃないだろう」
「そんな野暮は言わねェよ。もうお前はウチの駒じゃ無い。それに子持ちは邪魔になるだけだ」
口ではそう言いながら、シルヴァンは紙切れに何かを書いてそれをカイに見せた。紙片には下新宿区の住所と『貸し倉庫』とだけある。
「今朝ウチの協力者が知らせて来た住所だ。この名称は暗喩の可能性がある。恐らくここ最近の失踪者が捕らわれていると思われる」
紙をくしゃくしゃに丸めると、シルヴァンは鷹揚にそれを投げ捨てた。煙草に火を着けひとしきり紫煙をくゆらせると、机に肘をつきながらカイに訊ねた。
「一人でもやるつもりなんだろう。『あいつ』を」
特製の二十ミリ加工弾を装填するカイは、その言葉にも顔を上げなかった。ただ粛々と自分の出来る事を成す。守れなかった家族のために、今ある家族のために。
「ありがとう」
シルヴァンの問いには答えず礼だけを残し、カイは通信を切った。
恐らく彼にも分かっているのだろう。十年前のアンドロイド兵士の目的も、今回の子供誘拐事件も、根元は同じなのだ。
「サツキが目的なのか」
必要な物だけ持ち出し、カイは二度とは戻れないだろう自宅を後にした。
途中、携帯からサツキに電話をしたが、電源が切られているのか応答は無かった。
息が上がるほどに走り続け、サツキは寂れた倉庫が建ち並ぶ一角へと辿り着いた。
すでに日は暮れ、街灯すら無い倉庫街の一寸先は暗闇だ。
常人より視力を上げる事は可能だが、さすがにリーンフォースといえど暗視能力は無い。元から機能を搭載されているアンドロイド以外は、暗視スコープを使用する他ないのだ。
明日葉の痕跡を辿り、サツキは三番倉庫へと足を踏み入れた。
天の火大戦で防空都市として建設されて以来、遺棄されたに等しいこの倉庫街に立ち入る者など誰もいない。
その誰もいないはずの倉庫から気配がするのは、ここがよからぬ目的で使用されている事を裏付けている。
敵に気取られないよう慎重にサツキは辺りを探った。
相手がただの人間であれば、銃火器を所持していようが負ける気はしない。だがもし人間でなかった場合は。
人間よりも頑丈に造られているリーンフォースの肉体なら、多少の損傷では死に至らない。明日葉を逃がす事さえ出来れば、それでいい。
ゆっくりと足音を立てず、サツキは倉庫内を探した。壁伝いに奥まで進むと、天井の明かり取りから落ちる月光に、いくつかの人影を見出した。
「照山!」
ほのかな明かりに照らされる影たちの中に、サツキは明日葉を確認した。
猿轡をされ縛り上げられた彼女の周囲には、同じように縛られた子供たちの姿も見える。
サツキは駆け寄り、明日葉の猿轡をはずした。
「大丈夫か。ごめんな遅くなって」
「……私は大丈夫。他の子を看てあげて」
やつれた表情の明日葉は気丈に微笑んだ。捕らわれていた子供たちの年齢は様々で、中には小学校低学年の子さえいる。
あまりの非道さにサツキは激昂した。急いで明日葉と子供たちの縄をほどき始める。
その時。
倉庫入り口から届く足音に、サツキの手が一瞬止まる。犯人が戻って来たのだ。
急ぎ縄を解いて、サツキは全員を奥へ移動させた。意識を集中させ、敵の人数を探る。
三人まで認識したところで、彼は自ら打って出た。自分を囮にし、その隙に明日葉と子供たちを逃がす選択をしたのだ。
子供たちがいるはずの暗がりから飛び出した少年に、犯人たちは驚く様子も無い。
「おい、ガキが一匹逃げ出しているぞ。見張りは何をしている」
三人の男たちはそれぞれ武装をしていた。市街用戦闘服に防弾ベストを着込み、各々ハンドガンやサブマシンガンを携行している。単なる誘拐犯で無い事は一目瞭然だ。
遅れて四人目の男が倉庫へと入って来る。どうやらこの男が見張り役だったらしい。上官と思しき男から叱責を受けている。
「ニマルヒトマルに指揮官殿がおいでになる。それまでにガキどもを集めておけ。『エサ』にする」
エサとは何だろうか。子供たちを何かに食わせようというのか。それとも『何かを食いつかせる』とでもいうのか。
武装した四人の男たちにも、サツキは一歩も引かなかった。否、今引けば子供たちは殺されかねない。
サツキを捕まえようと、男の一人が近寄って来た。武器も何も持たない丸腰の少年に、彼らは何一つ警戒などしていなかったのだ。
一瞬の隙をつき、サツキは男を叩きのめして銃器を奪い構えた。
物音に反応し、男の仲間が振り返る。だが彼らは身構えるでもなく、にやにやしながらサツキを眺めている。
「小僧。お前に撃てるのか? そいつは安全装置がはずれていないぞ」
その言葉にサツキは一瞬手許の拳銃を見た。これまで一度も銃器を触った事の無いサツキには、安全装置がどれなのか分からなかった。
大戦以降、世界情勢は様変わりし、誰しもが身を守るために武器を手に取った。日本も例外ではなく、戒厳令の下に銃砲刀剣類所持等取締法が改正されている。
身を守るためとはいえ、銃火器は過ぎた刃なのかも知れない。次第に国内は荒れ、犯罪者の鎮圧には武装警官よりも、アンドロイド兵士がもてはやされるようになっていったのだ。
現代の一般家庭では、中高生ともなれば銃の扱いくらいは親が教えるだろう。だがカイはサツキに何も触れさせようとはしなかった。それどころか、自宅には銃火器の類は一切見当たらなかった。
手にした拳銃を投げ捨て、サツキは物陰へと転がり込んだ。フルオートの銃口から掃射される爆音が、倉庫内に木霊する。
万に一つも勝ち目は無い。相手の残りは三人。そこへ増援が来るのだ。
思考を巡らせていると、不意に機銃掃射が止んだ。物陰に身を潜めながら様子を窺うと、三人は倉庫の入り口へと注意を向けている。
とうとう増援が到着したのかと、サツキは気が気ではなかった。果たしてそこには、一人の中年男性が立っている。
その男に、サツキは何故か見覚えがある気がした。とてもよく似た人物を知っている。
そうだ。この人は。明日葉によく似たこの男性は、彼女の父親なのだ。
中年男性を見ると、鬼のような形相で男たちに何かを怒鳴っている。誘拐された娘の姿を追ってここまで来たのだろうか。
男たちの目が男性に向いている隙に、サツキは子供たちと明日葉を移動させた。脱出可能な扉を探したがどこも鎖で閉じられており、簡単には開きそうにない。
サツキは決断を迫られた。
ここでもたついていれば、いずれあの男たちが戻ってくるだろう。そしてその時には、明日葉の父親が殺されているかも知れない。
子供を『エサ』にするというのは、明日葉を囮にして彼女の父親をおびき出すという意味だったのか。
これまでサツキは、人前では決してリーンフォースの能力を使用する事は無かった。
普通の人間が多いこの都市で、常人とは異なると示して見せるのは、彼にとって禁忌以外の何者でもない。
人として育って来た彼は、せめて人前では人間でありたかったのだ。
「……照山。今からオレがこの扉を開ける」
意を決し、サツキは明日葉に告げた。
「お前の親父さんが入り口に来てる。この扉を開けたらオレが助けに行くから、みんなを連れて逃げてくれ」
そう言い残し、サツキは扉の前に立った。
子供の腕ほどもある太い鎖を掴み、両腕にありったけの力をこめる。
頑丈な合金で組まれた鎖はぎりぎりと悲鳴を上げ、熱した飴のように伸びながら亀裂を生じた。
次の瞬間轟音を立てて、鎖はコンクリート床へと落ちた。
鋼鉄製の扉をゆっくりと引き開け、サツキは明日葉へと振り向いた。
たとえ恐れられてもいい。今はただ、小さな命を救いたかった。
「照山! 行け!」
宵闇の中、月光に照らされるサツキの表情に、明日葉は頷いた。子供たちをまとめ、音を立てずに倉庫を去る。
「絶対、戻ってきてね。待ってるから」
そう呟き、明日葉はサツキへと振り返る。
気丈な微笑みの中に光る涙を見とめ、サツキは明日葉へと微笑みかけた。
明日葉と子供たちを見送ると、サツキは元いた倉庫へと戻った。彼女との約束を果たすために。
五 ・ 家族
暗闇の中、月明かりだけを頼りにサツキは倉庫へと足を踏み入れた。
子供たちと明日葉を逃がした今、倉庫内にいるのは彼と犯人グループ、そして明日葉の父親だけだ。
明日葉の父が倉庫へ来てからというもの、銃声は一切無い。それは未だ彼が存命である可能性を指し示していた。
可能な限り気配を殺し、サツキは倉庫内を進んだ。この肉体がどれだけの衝撃に耐えられるかは分からない。銃の扱い方をまるで知らない彼が勝つためには、敵の懐へ入るしかなかった。
敵の気配を探ると、入り口から奥へと移動しているようだった。
痕跡を辿り物陰から慎重に窺うと、そこには武装した集団がいる。明日葉の父親は彼らに取り囲まれ、円の中心に立っていた。
助けなければ。そう思いサツキは足を踏み出した。
勝算がある訳ではない。だがここで父親が命を落とせば、明日葉は悲しむだろう。
不意に何故かカイの姿を思い出し、サツキは足を止めた。ここで自分が死んだら、カイは悲しむだろうか。
十年前カイに助けられるまでの記憶が、サツキには一切無い。どこから来たのか、どうしてそこにいたのか。
研究員が身につけるような白衣だけを纏って雨の中、路地裏にいた。両親の記憶すら無いのだから、十年間保護してくれたカイは父親といえる存在なのかも知れない。
一人佇むサツキに、犯人グループの一人が気付いた。
銃口を向けながらサツキへと近付き、他の人質を集めるよう部下に指示を出す。
近付いて来る男の影が顔にかかり、サツキは目を上げた。
銃を構え近付いて来たのは他でもない、明日葉の父親だった。
ほのかな電灯の下でよく見れば明日葉とは似ても似つかない、狂気の表情を湛えている。
部下からの報告で人質が逃げた事を知った男は、怒り狂い銃口をサツキの額へと突きつけた。
「貴様! 明日葉を逃がしたな。それだけではない。ガキどもまで逃がしおって」
まるで意味が分からず、夢の中で起きた出来事のようにサツキは狼狽えた。この男は明日葉の父親ではないのか。
「明日葉の『父親』を殺し、私が照山影時として成り代われる日が来たというのに。あの娘がいなければ、私は完璧な『照山影時』にはなれない!」
狂人のようにわめき続ける男の主張を、サツキはわずかながら理解し始めていた。
この男は恐らく、明日葉の父親である照山影時の偽体、いわゆるリーンフォースだ。
本人の細胞から造られるリーンフォース体は、コピーのように全く同一の肉体を造り出す事が可能だ。そのために権力者たちは金にあかせて影武者を仕立て、罪も無い偽体たちを犠牲にしている。
照山影時は権力者に近い位置にいたのだろう。偽体を所持出来るのは、権力者か研究者くらいだからだ。
明日葉を逃がしてよかったと、サツキは心の底から思った。本当の父親がすでに殺されているなど、彼女は知らないはずだ。
「……あんたが照山の親父さんじゃなくて本当に良かったよ。容赦なくぶん殴れるからな」
言うより早く、サツキは影時の拳銃を奪い取った。使用不可能なほどに握り潰し、遠くへと放り投げる。返す手で影時の襟首を掴み、左顎を殴りつけた。怒りのこもった拳は音を立てて顎骨を砕き、影時は呻き声を上げる。
格闘には慣れていないのか、影時はふらふらと後ずさり、部下に命令を下した。
次の瞬間、機銃掃射が雨のように降り注ぎ、サツキは物陰へとうずくまるしかなかった。
敵の数はあまりにも多く、また銃の扱いに不慣れなサツキでは太刀打ちが出来ない。相手は五人。どうやって戦えばいいのか。
ふと携帯が鳴った気がして、サツキはポケットに手を入れた。見ればカイからの着信が何度もある。連絡が無い事を心配しているのだろうと思うと、サツキの胸はつまった。
だが今はこの場を一人で切り抜けるしかない。助けを求めても、心配させるだけなのだ。
自動装填の間隙を縫って、サツキは入り口へと走り出した。
戦時中に食糧備蓄のため建てられたこの倉庫は巨大で、入り口まで数十メートルはある。リーンフォースであるサツキなら、一気に駆け抜ければ脱出可能な距離だ。
不意にサツキの視界がぐらりと歪んだ。
それは自分が倒れ込んでいるからだと気付き、次の瞬間には熱にも似た強烈な痛みが右脚を駆け抜ける。
「逃がしはしないぞ。貴様を連れて来いと朔月博士から言われているからな。明日葉を追って迷い込むとは、探す手間が省けたというものだ」
隠し持っていた小型拳銃を握り締め、影時は薄気味悪く笑う。
今まで感じた事のない激痛に、サツキは気を失いかけた。
影時の言葉の中に知っている名を聞き取り、それが彼の意識を留めさせる。
「そこまでにしてもらおうか」
聞き慣れた声が響き、サツキはそちらへと目を向けた。
逆光で顔は見えない。だがそこにいるのが誰なのか分かっている。
「そいつは俺の家族だ。手出しは許さない」
見た事も無い銃器を手にしたカイがそこにいた。
「来たか。お前を待っていたぞ、朔月カイ」
影時は狂気の微笑みをカイへと投げかけた。
「お前の脳を持ち帰れば、私は研究所所長に就任出来るのだ。寄越せ! その脳を」
朦朧とする意識の中、カイが男たちに銃口を向けているのが見える。次々に彼らの手足を撃ち抜き、行動不能にしている。
発砲時の反動や衝撃波をものともせず次々に倒していく様は、さながら荒ぶる戦鬼だ。
あらかた倒し終わると、入り口にもう一人、黒衣の大男が現れた。カイとその男が会話をしているところでサツキの意識はついに途切れ、闇の底へと沈んでいった。
眩しい日差しに目が覚めると、サツキは見知らぬ民家の居間にいた。
ソファから身を起こし辺りを眺めると、小さなクリスマスツリーが目に入る。
頂には銀色の星があしらわれ、樹氷を思わせる青白い枝に色とりどりの電飾が輝く。
自宅にはなかった光景に目を奪われ、サツキは歩み寄ろうとした。
それまで忘れていた痛みが右脚に走り、サツキは思わず膝をついた。見ればすでに処置がされ、丁寧に包帯が巻かれている。
その瞬間、倉庫での死闘が夢では無かったと思い知らされた。明日葉と子供たちを逃がし、カイが助けに来てくれた。あれは現実だったのだ。
二人は無事だろうか。そしてここはどこなのか。痛みを堪えながらソファへと座り直し、サツキは窓の外を見た。
昼下がりの日差しの中、溶けかけた雪がきらきらと太陽を反射している。軒からこぼれ落ちる銀の滴は、景色を陽炎のように映し出す。
不規則に落ちる滴に見とれていたサツキの耳に、誰かの足音が届いた。
振り返るとそこには私服姿の明日葉がいる。
「朔月君。目が覚めたのね」
嬉しそうに駆け寄る彼女に、サツキは驚きを隠せなかった。
「照山。あれから一体どうなったんだ? ここもどこなのかオレにはさっぱり」
「ここは私の家よ。君のお兄さんがここまで運んでくれたの」
飲み物の用意をしながら明日葉は答えた。
彼女の話では子供たちを連れて逃げ出した後、追って来た残党から救ってくれたのがカイなのだと言う。
銃創を負い、意識の無いサツキを抱えた彼に協力したのは、彼女の優しさなのだろう。
「君の自宅は誘拐犯に知られてて危険だって聞いて、うちに来てもらったの。ここならひとまず大丈夫みたい」
気さくに笑う明日葉にサツキは安堵した。彼女に父親の事を告げるべきだろうか。大切な家族がすでに亡くなっているなど、受け入れがたい話だ。
言い出せず俯いていると、明日葉の方から言葉を切り出した。
「本当はね……。私のお父さん、もう亡くなっているの」
サツキに暖かいカップを手渡しながら、明日葉は続ける。
「お父さんはアクロポリスでリーンフォースの研究をしていて、お母さんが病気で亡くなった時も家には帰って来なかった。お父さんをすごく恨んだけど、事故で亡くなってからはそんなお父さんでも生きていて欲しかったって思った」
明日葉の話をサツキは黙って聞いていた。両親の死を経験した明日葉の言葉は、鉛のようにサツキの心へ沈んでいく。
もしカイが死んだら、自分はどう思うのだろうか。
「お父さんが急死した後、私に遺されたのは二体のリーンフォースだった。それぞれにラベルが貼られて『父親』『研究者』とあったの。お父さん自身も、悩んでいたのかも知れないね」
「そのリーンフォース……。オレが見たのは『研究者』の方だったのか。『父親』を殺して完全な『照山影時』になると言っていた」
「そうだと思うわ。アクロポリスで殺されそうになって、私を連れてここまで逃げたのは『父親』なの。彼は私を拉致した『研究者』に刃向かって殺された」
ふと遠くを見つめ、明日葉は呟いた。
「本物じゃなくても『父親』はお父さんらしい事をたくさんしてくれた。何もなかったアルバムを埋めていくような毎日だったの。でもまたお父さんを失ってしまった」
横を向き、涙を見せまいとする明日葉に、サツキの胸は締め付けられた。
「辛い時は泣いたっていいんだ。涙も出ないくらい心が枯れたら、きっとその人は生きていけない」
サツキはそう言葉に出した。誰のものでもない。自分が感じた自分だけの言葉だ。
「……うん。そうだね」
ツリーの電飾が、明日葉の涙に映り込んだ。見れば外は暗く、すでに日は没している。
「そうだ。今カイさんが買い物に行ってくれてるの。今日はクリスマスでしょ。三人でケーキでも食べよ?」
涙をぬぐって明日葉は優しく微笑んだ。
夜の冷え込みが溶けた雪を再び凍らせていく。明日は牡丹雪になるだろう。
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