一 ・ 疫病神
ガレリオン城内の執務室に、ひとりの男がいた。
鳶色の髪を丁寧にまとめ、骨ばった指でガラス筆を走らせている。
物音ひとつしないというのに、彼は不意に机の脇へと目をやった。
卓上のランプは目線の先までは照らしてはいない。そこにはただ暗闇があるだけだ。
「レニレウス公爵様へ御報告を」
何も無い暗がりから声がする。
「アレリア公爵家に動きがありました。数日内に事を構える模様」
報告を受けた男は声ひとつ立てず、ただその言葉を検分した。
「では私が自ら出向く事にしよう。お前は下がって良い。ご苦労だった」
それだけ呟くと、暗闇の声はいずこへともなく消え去った。
「全く面倒を起こしてくれる」
言葉とは裏腹に、どこか楽しげに男は微笑んだ。
書きかけの書類をしまい込むと、彼は外套だけ羽織り、急ぎ足で部屋を出る。
その夜帝都から一騎の早馬が発ったが、誰も知る者はいなかった。
冷たい風が、夜露の匂いをはらんでいる。
うたた寝から目覚め、ラストは長椅子から身を起こした。
ばあちゃんが亡くなってから数ヶ月。未だそれが現実と受け入れるだけの気力が、彼には無かった。
夜毎遊びふけり、泥酔して家へ戻って来ても叱る者は誰もいない。
灯火さえ無い冷たい家へと戻るのは、ラストにはかなり堪えた。
起き出して窓を閉めようとしたその時。
戸口に誰かが立っているのが見えた。
見ればそれは遊び仲間のウニクだった。
ラストが宰相を追っていた三年前、ばあちゃんの面倒を見ていてくれた、彼にとっては恩人とも言える友人だ。
「おい、そんな所で何してるんだ」
中に入ればいいものを、戸口でまごまごしているウニクにラストは声をかけた。
「あ、ラス兄貴。……実は会って欲しい人がいるんすけど」
歯切れ悪く呟くウニクを不審に思ったが、ラストは彼について行く事にした。
三年前の出来事は、ラストにとって想像を絶する世界だった。
おとぎ話にしか登場しない神やその眷属たち。そして彼らを支配する赤い月。
そんなものがこの世に存在するなど、誰も思わないだろう。
ラスト自身その一人であったが、常軌を逸した異形との遭遇に、信じざるを得なかったのだ。
今思えば、ひとときの夢であったのかも知れない。
むしろそう思えるのなら、どれだけ心休まるだろう。
だがあれは夢などでは無い。多くの人が犠牲になり、失うものもまた大きかったからだ。
ラストは不意に、共に戦った仲間たちを思い出した。
彼らは今どうしているのか。戦友とも言えるセアルやレン。そして帝都の人々。
懐かしく思いながらも歩いて行くと、そこには見覚えのある建物が現れた。
「……何だよ酒場じゃねえか。こんな所に連れて来てどうするんだ」
ウニクに案内され着いた席には、ラストのよく知る人物がいる。
「うわ……。疫病神」
口をついて出たラストの言葉に、男はじろりと彼を見返した。
「三年ぶりだというのにお言葉ですね、ラストール君。貴方に会うために早馬で来たというのに、いささか冷たいじゃないですか」
「冷たいもクソもねえよ。何だって公爵が直々に、こんな辺境まで来たんだよ。もうオレに用は無いだろ」
その言葉にレニレウスは微笑み、傍に立っていたウニクに人払いをさせた。
ウニクはすぐさま命令に従い、自らも一礼をしてその場を立ち去った。
「どういう事か説明してもらおうじゃねえか」
レニレウスの命令に従うウニクを見て、ラストはにじり寄った。
「まず彼は私の手の者であるというのがひとつ。さらにここへ来た目的は、貴方に仕事をしてもらうためです」
「ウニクはアンタの手下だったって事か? いつからだよ。……まさか、最初からか」
理解の早さにレニレウスは頷いた。
古来よりレニレウス公爵家は情報戦を得意としている。情報を早く正確に伝えるために『草』と呼ばれる、地域に根付く間者を好んで使った。
それがウニクなのだろう。
「こういった流れ者の多い街では、特に使いやすいですからね。ただ私が命じたのは貴方を見張る事であって、ご母堂には言及していない。あれは彼が自らの意思でそうしたのでしょう」
ラストが故郷へ帰るまで、ウニクがばあちゃんの面倒を看ていた事をレニレウスは指した。
仕事としてラストの傍にいながらも、気持ちを汲んでくれたウニクに対し、ラストは感謝せざるを得なかった。
「では本題に入りましょうか。多少面倒な仕事ですが、是非貴方にやって頂きたい件があります」
「嫌だって言ったら?」
「話も聞かずに嫌だとは言わないでしょう? それに貴方には莫大な借金もある。吊り橋を落とし、皇帝の間を全焼させた代金はまだ頂いてませんよ」
レニレウスの言葉に、ラストはぽかんと口を開けた。
「あれはオレがやったんじゃねえ! 請求先を間違ってるぜ」
「請求先の方は、すでにおいでになりませんので。今回の仕事を請けて頂ければ、一割ほど差し引いてあげましょう」
にこにこと微笑むレニレウスに、ラストは嘆息した。
「無茶苦茶言いやがって……。分かったよ。話だけは聞いてやる。けど、やるかどうかは内容次第だ」
ふてくされるラストに笑いかけながら、レニレウスはぞっとする言葉を吐いた。
「セアル君を殺そうとしている者がいます」
懐かしい名前に、ラストは口をつぐんだ。
じろりとレニレウスを見やり、呟く。
「あいつを殺して何の得があるんだよ」
その問いには答えず、レニレウスは言葉を続けた。
「最近アレリア公爵家で、不審な動きが目立ちましてね。調べさせたところ、アレリア公爵家の傍系にあたるブエル男爵が、何かを計画しているようです」
「セアルとアレリア公爵がどう関係あるんだよ。そもそもその程度なら、アンタでも解決出来る問題じゃねえか」
「私も忙しい身なのですよ。数日後には宰相就任の式典が控えていますので。ではよろしくお願いしますね」
そのまま席を立とうとするレニレウスを、ラストは慌てて引き止めた。
「待てよ! 引き受けるとは一言も」
そこまで言うと、ラストは急に振り返った。
人払いをしてあるはずなのに、何者かの気配を感じたのだ。
同じように視線を感じたレニレウスも、そちらへと目を向けた。
誰何をせずにレニレウスは剣を引き抜き、カーテンで仕切られた陰へと刃を突き立てる。
小さな悲鳴とともに、駆け去る靴音だけが通路へと響いた。
戻された切っ先には、べったりと血糊がこびりついている。
「なるほど。相手も本気のようですよ。やりがいが出てよかったですね」
顔色ひとつ変えず微笑むレニレウスに、ラストは心底ぞっとした。
「やっぱりアンタは疫病神だ」
苦々しく呟くラストの言葉を、レニレウスはやんわりと視線で返した。
「でも貴方は友達のためならやるでしょう。貴方の義理堅さはよく分かっていますから」
「全部織り込み済みかよ。本当に嫌な奴だな」
血糊をぬぐい剣を収めると、レニレウスは一礼をしてその場を去った。
後に残されたラストはため息をつくと、荷物を取りに自宅へと戻った。
二 ・ 異国の仮面
三年ぶりの帝都は、活気にあふれ返っていた。
再生の息吹とも言うべき賑やかさは、昔とは比較にならない。
クルゴスの施政は地方においては重税を課し、都市部においては緘口令を敷いて情報の共有を妨げた。
賭博場や娼館も無くし上辺だけ取り繕った結果、さらなる暗部を生み出す結果となっていたのだ。
ラストは日暮れまで待ち、日没後に市街を見て回った。
三年も経った今、彼の顔を覚えている者などいないだろう。
だが相手がアレリア公爵家なら、慎重に行動しなければ危険が伴う。
そもそもセアルを地下廟へと移送するのを最後まで反対していたのは、他でもないアレリア公爵なのだから。
アレリア公爵が何故そこまで執拗に反対したのかは、今でも分からない。
セアルに対する恐怖なのか、ネリア家に対する反発なのか。
いずれにせよ、面倒な相手には違いなかった。
ぶらぶらと市街をうろついていると、一軒の店へと行き当たった。
店先では老人が店じまいの掃除をしている。
人影に気付き、老人が顔を上げた。
その表情はラストを見た瞬間に笑顔へと変わり、懐かしそうに声をかけてくる。
「おお、ラストール様。お懐かしゅうございます」
自分を知っている老人に驚き、ラストは歩み寄った。
しかも彼はラストの本当の名を知っているのだ。只者では無い。
見れば老人は、三年前にラストたちを匿ってくれた、食糧問屋の主人だった。
意識を失ったセアルとレンを抱え途方に暮れていた時に、手を差し伸べてくれた恩人だ。
「久しぶりだな、じいさん。あの時は本当に助かったよ。でも何でオレの名前知ってるんだ……?」
その言葉に老人は一瞬はっとしたが、すぐに笑顔に戻り答えた。
「貴方様は、帝都では知らない者などおりますまい。不遇の将軍が十年後に英雄として帰還するなど、物語として書き起こしても遜色ありません」
老人の答えに納得しつつも、やはり人の記憶には新しいのだろうかとラストは思った。
少なくともアレリア公爵家を調査するに当たっては、何か顔を隠す物が必要かも知れない。
「なあじいさん。何か顔を隠せる物ないかな。頭巾でも仮面でもいいんだけど」
老人は首をかしげた。顔を隠すなど、後ろ暗い者のする事だからだ。
だがラストの真剣なまなざしに、老人は彼を店の奥へと案内した。
応接間へと入ると、内部の壁には所狭しと様々な仮面が飾られている。
儀式の仮面や道化の仮面。芝居の仮面に祭りの仮面。どれもラストが目にした事の無い物ばかりだ。
「すごい量だな。こういった物を蒐集しているのか?」
「ええ。趣味というよりは、取引先から土産として頂く物が多いのですよ。どうぞ気に入った物をお持ち下さい」
ずらりと並ぶ仮面を前に、ラストは気おされた。
ふと目に留まった仮面を眺めていると、老人が声をかけてくる。
「そちらは東アドナの儀式で使われる仮面だそうです。何でも炒りたての熱い豆をぶつけ合うとか。異国の文化は不思議ですね」
老人の解説にラストは興味を持った。
「変わってるなあ。東アドナか。レンに見せてみたいもんだな」
「あの時のお嬢さんなら、よく当店においでになりますよ。侍女をされておられるようで、砂糖菓子をお求めに参られます」
懐かしい仲間の消息に、ラストはふと笑みを漏らした。
三年前帝都から去る際に、近しい人々には何も言わず彼は出奔した。
それは引き止められるのが煩わしかっただけではなく、これが今生の別れとしたくなかったのもあった。
だが継承権を捨てた今となっては、ラストの居場所などどこにもない。
どんな未来を選択しても、全てが足枷となって常に付きまとうのだ。
自分の選択が、逃避なのだとラストは分かっていた。
帝国のどんな古い慣習でも、当代の皇帝ならいかようにも正す事が出来るだろう。
両肩にかかる重圧から、彼は逃げたのだ。
「どうかなさいましたか」
老人の言葉に、ラストは我に返った。
仮面を差し出され、それを受け取る。
礼を述べて店を後にしようとした時、背後から老人が声をかけた。
「どうか貴方様の思うままに歩んで下され。それこそが我が娘、貴方の母が願う明日」
ラストはその言葉にはっとし、振り返った。
すでにそこには老人の姿は無く、閉じられた店の扉だけがあった。
夏の夜風はかたかたと木製扉を揺らした。
青白い月は煌々と輝き、満月の訪れが近い事を告げていた。
三 ・ 宿敵
宰相就任式典が三日後に迫った夜。
アレリア公爵邸は不穏な空気に包まれていた。
「レニレウスめ。恐ろしく鼻の利く奴だな。これが知られたら、我がアレリアは断絶に追い込まれかねない。何としても内偵者を探し出せ」
歳若い公爵は密偵からの報告を受け、いつにも増して屋敷の警戒を厳重にするよう申し付けた。
当主のただならぬ形相に、側近たちは慌てふためき部屋を飛び出した。
一人執務室に残されたアレリア公爵は、報告書を握り潰しぽつりと呟いた。
「一族の恥は、一族の手でそそがねばならない」
歯軋りをしながら月を睨めつける公爵の顔は、激しい憎しみに歪んでいた。
レニレウス公爵からの依頼のために、ラストは調査を開始した。
だがアレリア公爵家の警戒は強く、おいそれと近付く事が出来なかった。
残された選択肢は、ただひとつしかない。
「あまり使いたくないけど、四の五の言ってられないよなあ」
ぶつぶつと文句を言いながら、ラストは旧地下水道を歩いた。
光鉱石で道々は照らされ歩きやすかったが、三年前を嫌でも思い出させられる場所だ。
「アレリアのクソ野郎に出くわしませんように」
心の中で祈りながら、アレリア公爵邸へと続く井戸を見上げた。
縄梯子はあるものの、肝心な井戸上部には石板で蓋がしてある。
「まさかオレが探ってるのがバレてるんじゃないだろうな」
恐ろしいまでの周到さに、ラストは冷や汗をかいた。
この地下水道を知っている者は、今となっては三公爵とラストくらいなのだ。
回り道を探したがどこも蓋がされ、ラストは進退窮まった。
仕方なく最初の井戸へと戻り縄梯子を昇ってみると、石蓋が少し欠け、ずらせそうな空間が出来ている。
直感で罠かも知れないとラストは思った。
ご丁寧に蓋までしておいて、これほど小さな見落としがあるとは到底思えないからだ。
だがここまで来たら後には引き返せない。
ラストは慎重に石蓋をずらした。
音を立てないようゆっくりと動かし、頭ひとつ分の空間からそっと辺りを窺う。
月明かりに照らされる中、庭園には衛兵どころか人影すら無い。
罠である可能性を考慮し、ラストはそっと忍び出た。
すぐさま物陰へと潜み、様子を見る。
これだけ明るいと、無用心に歩き回る事すら憚られた。
しかしこのまま潜んでいる訳にもいかない。
物陰を伝ってラストは用心深く歩き出した。庭園を見渡しても出入り口はひとつしか無く、他からは出られない仕組みになっている。
これが罠なら袋のねずみだ。
息を殺し、気配が無い事を知ると、ラストは庭園の外へと出た。
木陰から辺りを探ると、邸内へと続く裏口の扉が目に入る。
内部へ侵入する前に、ラストは仮面を被った。
視界がかなり遮られるが、正体を知られる方が面倒だと考えたのだ。
慎重に裏口へと近付くと、ラストは扉に手をかけ一気に開けようとした。
だがその手はぴたりと止まり、視線は扉へと向いた。
内部に気配がする。
思えばここまで衛兵がいない事が、あまりにも不自然であった。
侵入者を誘い込み、捕らえるための罠。そう呼ぶ方がしっくりくるだろう。
弾かれたようにラストは後方へと跳んだ。
それと同時に扉が音も無く開き、よく知る男の姿をさらけ出す。
「ようやく虫が罠にかかったようだな」
男は楽しげに笑った。
「小癪にも仮面など着けているのか。貴様どこの手の者だ。地下水道を辿って来たところを見ると、ブエルの手先ではないようだな」
ラストは声を上げそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
ここで声を出しては正体を知られてしまうだろう。
何しろこの男は三年前、ラストが一騎討ちの末負かしたアレリア将軍なのだ。
動揺を抑え、ラストは小剣を引き抜いた。
一度戦った相手だ。太刀筋で気付かれる恐れもある。
彼は適度にあしらいながら、情報を引き出して退散する道を選んだ。
声色を変え、悟られないように口を開く。
「ブエルの手先では無いとしたら何だと言うのだ。あの道を知っているのが三公爵だけだと思ったら大間違いだぞ」
「ほう。あの抜け道をブエルが知っているとでも言いたいのか? そうであれば皇女を囮にして王器を奪うなど、大それた真似はするまい」
アレリア将軍の言葉にラストは驚愕した。
元はと言えば、セアルの命が狙われているという話だったものが、いつしか王器が奪われるという話へとすり替わっている。
三年前に全てが終わった後、ラストは四つの王器全てを地下神殿へと納めた。
あの神殿の扉を開けられる者は、皇帝の一族以外にはいない。
開く事が出来る者は、今では皇子と皇女、そしてラストだけだ。
「我がアレリアの傍系と思って甘く見ておれば図に乗りおって。まあ貴様が誰であろうが、ここから生かして帰さぬがな」
言い終わる前に、アレリア将軍は素早く剣を抜き放った。
柔らかく落ちる月光の下、細い抜き身はきらきらと輝く。
やり合うのは簡単だ。だが正体を知られるのが殊更危険だとラストは判断した。
アレリア将軍の刃をかいくぐり、ラストは庭園へと後退した。
よほど自信があるのか、アレリア将軍は近衛を呼ぶでもなく、じわじわとラストへと迫る。
「本気を出せ。ラストール・ルミナ・ネリア・ガレリオン。いや、今はその名は捨てたのだったか」
その言葉にラストはどきりとした。
知られている。だがもしかしたら、鎌をかけただけなのかも知れない。
井戸へと下がるラストへ、アレリア将軍はなおも続けた。
「あの屈辱の日から、私は貴様を倒すために必死に鍛え上げた。ただ打ち負かす。そのためだけに」
アレリア将軍の執念に、ラストは覚悟を決めた。
仮面を脱ぎ捨て、小剣を構え直す。
その姿にアレリア将軍は満足げに笑った。
「そうだ。それでこそ我が宿敵。いざ勝負!」
迷いの無い切っ先を打ち込んで来るアレリア将軍に、ラストは舌を巻いた。
何もかもが吹っ切れた剣は、彼の絶技に磨きをかけている。
世が世なら、好敵手として存在し得たかも知れない。
だがラストはすでにその舞台から降りているのだ。
ラストが若くして将軍に抜擢されたのは、御前試合において全ての将軍を打ち負かした功績も大きかった。
ふとそれを思い出し、この天才と試合をしてみたかったとさえ彼は思った。
全ての切っ先を躱し続けるラストに対して、アレリア将軍は苛立ちを募らせた。
ただラストも余裕がある訳では無く、経験と勘によって刃を躱しているのだ。
不意に剣の軌道が変化した。
アレリア将軍が勝負を仕掛けて来たのを悟り、ラストも勝負へと出た。
躱すと見せかけ、下から剣を打ち上げ弾き飛ばす。
直前まで動作の変わらなかったラストに、アレリア将軍は完全に虚をつかれる格好となった。
軽い金属音を上げ、跳ね上がった剣は弧を描き地面へと突き刺さる。
膝を折りうなだれるアレリア将軍に、ラストは呟いた。
「お前は強い。もう誰にも恥じる事すら無いほどに。紛う事無き天才として生きていけばいい」
それだけ言うと剣を収めて踵を返し、井戸へと向かった。
「何故……。何故だ」
力なく呟くアレリア将軍に、ラストは足を止めた。
「何故それほどの実力を持ちながら、全てを捨てたんだ。兄の跡を継いで公爵となった今でも……。貴方の事は理解出来ない」
「オレは、逃げたんだ。自分の手で掴める全てから目をそむけた」
そのまま歩き出そうとし、ラストは再び足を止めた。
「ひとつだけ教えてくれ。ブエル男爵って奴は今どこにいる?」
その名を聞き、アレリア将軍は驚き顔を上げた。
「何故貴方があの男を探っている? あれは一族の恥。アレリア家が決着をつける」
「悪いがこっちもそいつが目当てなのさ。アレリア公爵家に対して悪いようにはしない。少なくともレニレウスはそう考えている」
政敵の名を耳にしたアレリア将軍は、自嘲気味に笑いながらふらりと立ち上がった。
「レニレウスの差し金か。ここまで知られてしまっては、もう仕方が無い。ブエルは商業区のはずれにある廃屋に潜んでいるらしい」
夜空を見上げ、アレリア将軍は続ける。
「あいつは満月の夜に城内へと侵入しようとしているようだ。皇女を妻とし、王器を強奪する事で継承権を得られると本気で信じている。妄想の塊のような男だ」
「まさか……。王器は地下神殿に納められていて、ネリアの一族以外は手出し出来ないはず」
「そうさ。皇女に開けさせるつもりなんだ。皇女と王器を手に入れ、皇女の想い人と噂されている男を殺す。とんでもない狂人だ」
アレリア将軍の言葉に、ラストは驚きを隠せなかった。それと同時に、セアルが狙われている理由も納得がいった。
「ブエルが事を起こせば、いくら皇子がアレリアの血筋とは言え断絶が免れない。あれが計画を実行する前に止めなくては」
「分かった。オレに任せろ」
仮面を拾い上げると、ラストは縄梯子へと手をかけた。
「ありがとよ」
何に対する礼なのか、一言述べるとラストは井戸の奥底へと消えていった。
その様を見ながら、アレリア将軍は何故か自分が微笑んでいる事に気付いた。
四 ・ 叛逆者
アレリア公爵邸から戻る途中、ラストは地下廟へと寄った。
念のため王器を納めてある神殿を、確認する必要があったからだ。
地下廟へと続く縄梯子を昇り、彼は神殿の扉を開いた。
内部には樫材の箱が四つ置かれ、どれも手をつけた形跡は無い。
ゆっくりと蓋を開けると、それぞれに剣と杖、銀盤と王冠が眠っている。
「今のところは問題無いみたいだな」
三年前と変わらぬ状態に、ラストは安堵した。
ここへと入れる者が限られているために、問題が無いのは分かっていたが、それでも自ら確かめなければ気が気でなかったのだ。
王器を確認し、ラストは神殿の外へと出た。
神殿から城内の地下へと続くホールを見渡すと、ひっそりとした寝台が目に入る。
寝台の傍へと寄ると、一人の青年が眠っている。
息すらしていないように見えるほど昏々と眠る彼は、ラストにとっては大切な仲間の一人だ。
その存在を疎まれ、追いやるように地下廟で眠り続けるセアル。
三年前にレニレウス公爵の助言がなければ、邪神の依り代として殺されていてもおかしくはなかった。
思えば三公爵でも特に反発していたのは、他でもないアレリア公爵家だった。
レニレウス公爵とダルダン公爵代理がセアルの保護に賛成していた中、アレリア公爵だけは執拗に処断を迫った。
それがアレリア一族の総意だとすれば、セアルを直接亡き者にしようとする輩がいる可能性は十分にあった。
「何も知らずに、呑気に眠りやがって」
身じろぎもせず眠る彼に、ラストは呟いた。
この状態で襲撃を受ければ、ひとたまりも無いだろう。
そうなる前に、賊を捕らえてレニレウスへと引き渡さなければならない。
地下廟を後にすると、ラストは振り返りもせず商業区へと向かった。
今の彼には、仲間を護る事が何よりも大切だった。
商業区にある古井戸から出ると、そこはさびれた商店が並ぶ一角だった。
すでに夜半を過ぎた今は、街路を往く者は誰もいない。
アレリア将軍に教えられた区画へ向かい、廃屋を探す。
程なくそれらしい屋敷跡を見つけ、ラストは様子を窺った。
静まり返る宵闇の中、その廃屋にはぽつりと灯りがともっている。
物音を立てないよう窓際へと忍び寄ると、内部からは男たちの話し声が聞こえてくる。
「旦那ぁ。計画の段取りはついたんですかい」
「もちろんだ。皇女にはすでに手紙を出してある。警備が皇女に集中し、地下は衛兵が減るはずだ」
旦那と呼ばれる男はブエル男爵だろうとラストは推測した。
「二手に分かれる。囮となる班は私と共に来るのだ。残りは地下へと向かえ」
「そこからはどうするんで?」
「地下の班は内部にいる男を殺したら、すぐに城外へ出て馬車の用意をしろ。こちらは皇女の警備が薄くなったところで、侍女をさらって兵を引き付ける」
男たちの密談に、ラストは息を呑んだ。
ここまで計画しているとなると、逆賊とされても文句は言えない。
「皇女を人質に取ったところで地下へと連れて行き、宝物庫の王器を引き出させる。ネリアの一族を一掃した暁には、私が皇帝となるのだ」
ブエル男爵の狂った思考に、ラストは怒りを憶えた。
皇女を娶ったところで、皇子が存在する限り継承権の順位は限りなく低い。
この計画にはまだ続きがあるのだ。皇子を暗殺する筋書きが。
皇子も亡く、皇女と王器があるなら、それは帝位を認めざるを得ない方向へと進むのかも知れない。
だがそれは叛逆者となる道だ。
ラストは自らの甘さを痛感した。
王器を谷底へ葬っていれば。もしくは自らが皇帝となっていれば。
ただ今は、そんな後悔をしている場合ではなかった。
奴らを止めなければ、この国に未来は無い。
「決行は満月の夜。二日後だ。まさか満月の明るい夜に、賊が入り込むなどと思いもすまい」
男たちの笑い声に混じり、杯を交わす音が耳へと届く。
ラストは怒りを抑えながら、音も無くその場を立ち去った。
五 ・ 名の無き者
満月の夜が訪れた。
有事に備え、ラストは事前に皇女へと無記名の書簡を送っていた。
満月の夜に注意を促すその書面に、まさか皇女が怯えているとは露ほども知らなかったのだが。
男たちを見張っていると、夕闇に紛れるように続々と廃屋を後にする姿が見えた。
遅れを取らないよう、ラストは先回りをして城内へと身を潜める。
すでに進入経路を確保していたのか、ラストの潜む地下階段の脇を、男たちは素通りして行く。
先日盗み聞いた計画では、二手に分かれ地下へと行く者、皇女を拉致する者と役割分担がされている。
まずは地下の連中を排除してから、後宮へと向かう必要があった。
「面倒を起こしてくれるぜ」
男たちには聞こえないようにラストは呟いた。仮面を着け、そっと様子を窺う。
地下へ来たのは二人。ラストなら楽に相手が出来る人数だ。
手薄になった守備兵たちを倒し、男たちは地下へと降りて行った。
およそ三フロア分ほど降りた先の通路には、地下廟へと至る扉がある。
地下廟のある洞窟の一部となった廊下は、わずかな靴音すら響かせた。
賊に気取られないよう、ラストは慎重に後を尾ける。
男たちが廟内のホールへと入る様子が見えた。
微かな金属音から、彼らが剣を抜き放ったのを悟る。
廟内を熟知しているラストには、地の利があった。賊からは見えない位置へと移動し、距離を測る。
男たちはセアルの寝台へと近付き、何やら顔を見合わせているのが見えた。
ラストは音を立てずに背後へと忍び寄った。そしてゆっくりと小剣を引き抜き、賊の喉元に当てる。
予期せぬ仮面の敵に男たちは怯んだ。
喉元に切っ先を突きつけられた一人は剣を取り落とし、固唾を呑んだ。
「そいつから離れろ」
未だセアルの横にいる賊を、ラストは睨みつける。
ラストの刃が薄皮を裂き、滴り落ちる血液に捕らえられた男は震え上がった。
仲間を横目でちらりと見やり、寝台の近くにいた男はそこから離れる。
セアルの無事を確認し、ラストは賊を突き飛ばした。
よろめいた男は武器を咄嗟に拾い、ラストへと向き直る。
「お前らの頭目は何が望みなんだ? 言ってみろ」
ラストの静かな恫喝に彼らは動揺した。
だがすぐに落ち着きを取り戻し、にやりと笑う。
「地下にいる男を殺せと言われているんでね。誰だろうが構わん。死ね!」
賊は同時にラストへと飛び掛かる。
ラストは寝台を背に、彼らの攻撃を受ける形となった。
小剣にぬめる血糊を振り払い、賊の剣撃を受け止める。
そこへもう一人の男が容赦なく斬り込んで来るが、ラストは紙一重で身を翻した。
「面倒くせえな」
愛用の短剣はすでに手許には無い。
横目で辺りを探ると、見覚えのある剣が飛び込んで来る。
「ちょっと借りるわ」
寝台脇に立てかけてあったセアルの片手剣を鞘ごと引っつかみ、それを抜き放って左手に構える。
三年経った今でもその抜き身は鈍く輝き、往年の姿を映し出す。
「かかってきな! 遊んでやるぜ」
その言葉に煽られたかのように、侵入者たちはラストへと斬りかかる。
だが経験と技量の差は大きく、彼らは次々に床へと叩き伏せられた。
「廟の床を血で汚しちまったじゃねえか。後で請求するから覚悟しろ」
男たちを縛り上げ、柱へとくくりつけてラストは立ち上がった。
後宮へ急がねば、手遅れになりかねない。
セアルの剣を手早くぬぐい、鞘へと収める。
元の位置へ立てかけると、ラストはそのまま地上への階段を駆け上った。
怠惰な生活のお陰で息が上がるが、ただひたすら走り続ける。
後宮へ続く廊下を走ると、いたるところに衛兵の死体が転がっていた。
恐らく賊の仕業なのだろう。
変わり果てた無残な姿に、ラストの怒りはつのった。
「待ってろクソ野郎が。下らねえ妄想を終わりにしてやる」
衛兵たちの遺骸を目印に、ラストはひた走る。
程なく絨毯の敷き詰められた階へと到着した。
絨毯は靴底を柔らかく受け止め、侵入者の足音を消し去っている。
ラストは注意深く音を拾った。
廊下の遥か向こう、突き当たりの豪奢な扉から異様な音が聞こえる。
慎重に近付くと、そこにはぐったりとしたレンを抱える三人の男たちがいた。
男爵と思われる男が何か指示を出し、三人は闇の中へと消えていった。
居ても立ってもいられず、ラストは駆け出した。
廊下の窓から外を見れば、三人はレンを担いだまま衛兵をなぎ倒し、そのまま城外へと走り去って行く。
その後を一人の少年が追いかけて行くのが見えたが、まずは男爵を何とかするほか無い。
皇女の居室へと踏み込み、彼は辺りを見回す。
居室の奥には寝室へと繋がる扉があり、すでにそこは開け放たれていた。
皇女の悲鳴が響き、ラストは寝室へと躍り込んだ。
そこには皇女の口をふさぎ、縛り上げようとのしかかる男の姿が見える。
「てめえ!」
怒りのあまり、ラストは声を荒げて男爵へと掴みかかった。
襟首を掴んで引きずり倒し、拳で殴りつける。
不意に皇女の声が聞こえた気がして、ラストは振り向いた。
「いけません。もうやめて下さい。これ以上殴ればこの人が死んでしまいます」
見れば皇女は泣きそうな表情で、彼を見つめていた。
ラストの左手には襟首を掴まれたままの男爵がいる。その顔面は血まみれで、ところどころ歪んでさえいた。
皇女の懇願にラストは理性を取り戻した。
言葉も発さず、気絶寸前の男爵を縛り上げると、ラストはそのまま立ち去ろうとした。
「あの……。お名前を伺ってもよろしいですか」
背後から皇女が声をかけるが、ラストは振り向きもせず言葉を返した。
「オレには名乗る名前が無い。この男はレニレウス卿のところにでも突き出せ」
それだけ言うと身を翻し、ラストは皇宮から走り去った。
後に残された皇女はよろめきながら立ち上がると、衛兵を探しに廊下へと消えていった。
皇女を間一髪で助け出せたものの、ラストにはまだやる事があった。
三人の男に連れ去られたレンを救い出さなければならない。
男たちが消えた方角へ走っていると、そこはあの廃屋があった方向だと気がついた。
それならばと彼は抜け道を辿り、入り組んだ店々を影のように駆け抜けた。
しばらく追っていると、前方に見知らぬ少年の姿が見えた。
十三、四歳の子供が、このような夜半に一人。普通では考えられない事だ。
少年は手に鉤付き棒を握り、辺りをきょろきょろと窺っている。
思えばレンが攫われた時、彼女を追う少年が城内から走り去るのを目撃していた。
物陰から様子を見ていると、少年は忍び足であの廃屋へと入って行く。
ラストの勘は当たったといえるが、あまり良い状況ではない。
若い娘をさびれた場所に連れ込むなど、考えられる事はひとつしかないからだ。
連中がレンの特徴に気付いた時、彼女は必ず奴隷市場へと連れていかれるだろう。
むしろ最初からそれが目的だったのかも知れない。
この商業区にアジトを構えておけば、荷馬車に『商品』を紛れ込ませるなどたやすい話だ。
少年の後を追って、ラストも廃屋へと足を踏み入れた。
灯りひとつ無い屋内にも関わらず、壊れた天井から降り注ぐ月光が、辺りをぼんやりと照らし出している。
地下廟での失敗を鑑みて、瓦礫の中から手ごろな棒を拾い上げ、ラストは廊下の奥へと進む。
廊下向こうの扉は半ば開いていた。
客間と思しきその部屋には、少年に叩きのめされたのか、男たちが苦悶の声を上げて転がっている。
そして月光の下には、獣人族としての姿をさらしたレンがいた。
気付かれないよう物陰に隠れ、ラストは目を凝らした。
少年がレンを助けているさなか、賊の一人がふらふらと立ち上がる。
二人はまだそれに気付いていない。
止める間も無く、ごろつきが少年に拳を振るった。
うめき声すら上げられずに転がる彼を、レンがかばうのが見えた。
すぐにでも割り込もうとし、ラストはふと足を止めた。
それはレンが意を決したように、月を仰いだからだった。
何も怖いものなど何も無いように見えた彼女は、唯一月を恐れた。
共に旅をしていた頃もただの満月さえ恐れ、決して見ようとはしなかったのだ。
レンは今、それを乗り越えようとしている。
様子を見守っていると次の瞬間、彼女は尋常では無い速さで男たちに襲い掛かった。
動体視力を鍛えているラストですら、その動きを捉えるのが精一杯だ。
眼前の一人を倒し、レンはさらに残った二人へと目を向ける。
ごろつきたちは手に手に武器を構え、レンへと対峙していた。
このままではレンが危ない。
そう判断したラストは、物陰を飛び出した。
予想もしない第三者に男たちは驚き戸惑う。
それはそうだろう。人に見咎められただけではなく、見た目に恐ろしげな異国の仮面を被っているのだから。
手にした棒を握り締め、ラストは男たちの前に立ちはだかった。
一人の男が、何かを喚き散らしながらラストへと向かって来る。
男はやおら斬撃を放って来るが、仮面で視界を遮られてさえ楽に躱せるのろさだ。
鍛錬の足りなさにいらつきながら、ラストは男を叩き落した。
「野郎!」
残る一人が飛び掛って来るも、こちらも隙だらけだった。
アレリア公爵と一戦交えた緊張感を忘れられないラストには、物足りない相手でしかなかった。
ごろつきたちを縛り上げ、ラストはレンを見た。
ところどころ衣服を裂かれているが、外を歩くにも支障が無い程度だ。
彼女の傍らに転がる少年も大事には至っていない。
いい友人を持ったなとラストは仮面の奥で微笑む。
セアルはよくレンの身を案じていたが、彼女は彼女なりに生きていく逞しさがあった。
親が子を杞憂しても、子は親の知らないところで成長しているものだ。
「じゃあな」
それだけ言うと、ラストは早々にその場を立ち去った。
満月は彼の影を引き伸ばし、背後に巨大な有角の像を結んだ。
六 ・ 今を生きる者たち
レニレウス公爵に一連の報告をするため、ラストは夜が明けるのを待ち連絡を取った。
折しもその日は、宰相就任の祝賀会が催される当日だった。
大勢の来客に紛れ、ラストはこっそりと城内へ潜入した。
建て直された大広間には宴席が広がり、次々と大皿に盛られた料理が運ばれて来る。
ちらりと奥を見ると皇子と皇女の姿が確認できたが、肝心のレニレウス公爵の姿は無い。
よく見ると三公爵がいるはずの席に、アレリア公爵も見えない。
ダルダン公爵は未だ空位のままで、席には公爵代理が着いている。
開会しようにも本人がおらず、皇子もその場をもてあましているように見えた。
レニレウス公爵の姿を探し、ラストは大広間を離れた。
指定されたのは大広間とは正反対に位置する、将軍たちの執務室だ。
懐かしい廊下を辿りながら、彼は執務室の扉を叩いた。
ラストの訪問に出迎えたのは、レニレウス公爵ではなかった。
中から現れたのは、鋭い目つきをしたアレリア公爵だ。
部屋を間違えたかと名札を見るも、それはレニレウスの名になっている。
「来ましたか。入って下さい」
奥からレニレウス公爵の声が響き、ラストは部屋へと入った。
後にはアレリア公爵が続く。
「本当ならすぐにでも大広間へ行かなくてはならないのですが、多少の問題がありまして」
レニレウスが顎をしゃくった先を見やると、そこには見覚えのある男がいた。
後ろ手に縛られ、椅子に座らされているのは他でもないブエル男爵だ。
「未明に近衛から連絡が入り、皇女の寝室に忍び入った不届き者がいると聞きましてね。引っ立てたところ、アレリア公爵の遠戚と判明しました」
レニレウスの言葉に、ラストは呆れ返った。
知っていて調べさせ、なおかつ証拠が掴めるまで待ち続けていたのだ。
人当たりの良さとは正反対の腹黒さに、ラストは言葉すら出なかった。
大方、政争の具にでも使うつもりなのだろう。
ここでアレリア公爵を押さえ込んでおけば、いずれ皇子に対しても発言力が増すからだ。
「如何なさいますかアレリア公爵殿。晴れがましい祝宴の日に、このような事件が表立っては、アレリア公爵家の血筋たる皇子の面目が立ちますまい」
この状況に、まだ若い公爵は苦々しく男爵を見据えた。
元はといえば男爵を抑え切れなかった自身に非があるが、一族を束ねる公爵家としては決断を下さなければならない。
「厳罰を。一族の非は公爵の非。宰相殿の処分に従う所存です。ただどうか、この場は穏便に願いたい」
恥をかかされ、アレリア公爵は憎々しげにレニレウスを睨み付けた。
とうに軍配は上がっている。
「勿論です。事を荒立てては、今後に遺恨が残る。男爵は国外追放。それ以上は追求しません。如何ですか」
レニレウスが提案する処遇に、アレリア公爵は少しだけ表情を緩めた。
最悪の事態を回避出来れば、彼と公爵家にとっては上々なのだろう。
何しろ、血族であるはずの皇子を暗殺しようとまで考えた男を抱えていては、断絶への道を辿るのは必至だったのだ。
「承りました。宰相殿の温情、痛み入ります」
完全に主導権を握られ、アレリア公爵は屈服した。
政争は非情だ。血が流れぬだけで公爵同士、引いては貴族たちの戦争に他ならない。
その戦に打ち勝つために、レニレウスは常日頃から情報戦を仕掛けているのだろう。
やはり自分には合わない世界だと、ラストは痛感した。
「ではこの話は終了です。祝賀会が終わる三日後に男爵を追放。これでいいですね」
アレリア公爵が了承し、協議は終了した。
男爵を引き立て慌しく立ち去る公爵に、ラストとレニレウスだけが残された。
「ラストール君。今回は本当に助かりました。これでしばらくは三公爵の均衡を保てるでしょう」
にこやかに礼を述べるレニレウスに、ラストは憮然として応えた。
「いやらしい遣り口は、本当に変わってねえな。だからアンタは嫌いなんだ」
思ったままの心情を吐露するラストに、レニレウスは表情ひとつ変える事なく、笑いかける。
「お褒めの言葉と受け取っておきますよ。ところで、名を取り戻す気にはなって頂けましたか」
ネリアの一族への復帰を指していると気付き、ラストはぶっきらぼうに呟いた。
「ごめんだね。やっぱり面倒くさいわ。オレはオレで適当に生きていくさ。何かあればまた呼んでくれ」
「分かりました。そうしましょう。貴方にはまだまだ借金が残っているのですからね」
何故か嬉しそうなレニレウスに、ラストはため息をついた。
別れを告げ帰ろうとすると、背後からレニレウスが声をかけた。
「もうお戻りになるのですか? 私の娘たちをご紹介したかったのですが」
「最後に行きたいところがあるから、そこ寄ったら帰る。じゃあな」
振り向きもせずラストは部屋を出た。
大広間横の廊下を通ると、中からは賑やかな祝いの歓声が聞こえる。
慌しく行き来する給仕たちの波を避け城外へ出ると、すでに日は傾き始めていた。
住所の書かれた紙片を頼りに居住区を探すと、青い屋根の小さな家が見えた。
窓から中を覗くと、一人の男が室内をうろうろしている。
窓の外にいるラストに気付いたのか、男は驚いた表情で窓へと駆け寄った。
「殿下! どうされたのです? こちらにはいつお戻りに」
「サレオス。もうオレは皇帝家の一族じゃない。殿下なんて呼ばないでくれ」
窓を開け驚く彼を尻目に、ラストは辺りを見回し問いかけた。
「レンはまだ戻ってないよな」
その言葉にはっとし、サレオスはラストを見た。
「レンはゆうべから泊り込みで城内にいるはずですが……」
「そうか。それならいい。アンタにちょっと話がある」
「実は私も、お話しておきたい事が」
ラストは居間へと招き入れられた。隣接している台所からは、何かの肉を煮込んでいる匂いが漂ってくる。
「晩飯作ってる最中だったか。悪いな。連絡も無しに来ちまって」
「そうですよ。手紙くらい下さっても良かったのに。あなたが連絡を寄越さないから、皆心配していたんです」
小奇麗に整頓された室内からは、サレオスの几帳面な性格が見てとれた。
セアルが育った環境を知って、ラストには何故か羨ましく思えた。
「アンタみたいな兄貴を持って、セアルは幸せだな。三年ぶりに顔見て来たけど、あいつ全然変わってなくて驚いたぜ」
「城の地下に行かれたのですか? 今は厳重に警備されているはずですが」
これまでのいきさつをラストは語った。
セアルが狙われた話。そしてレンの話へと進むと、サレオスは怒りに顔色を変えた。
「許せない。あの娘はまだ子供なのに。その連中には罰が下されるのですか?」
「今頃牢にぶち込まれているだろうさ。首謀者も断絶の上、追放処分になっている。もう戻っては来れないだろうな」
ひとしきりラストの話が終わると、彼はサレオスに用件を話すよう促した。
一瞬黙った後、サレオスは小さい声でぼそぼそと話し出す。
「実はその……。あなたの姉上と結婚をする事になりまして」
「へ?」
思ってもみない言葉に、ラストは手からカップを取り落とした。
床に落ちる寸前で受け止め、驚いた表情で彼はサレオスを見る。
「よく姉上と結婚する気になったな……。料理は焦がしたり生焼けだったりするし、裁縫なんて針すら扱えないんだぜ」
しみじみと語るラストに、サレオスは気恥ずかしいのか、そのまま俯き黙り込んだ。
「女らしい事は何ひとつ出来ない姉だけど、まあ末永くよろしく頼むわ」
微妙な空気の中、サレオスは火にかけっぱなしの鍋を思い出し、慌てて台所へと走って行く。
すでに日は落ちている。そろそろレンが帰宅する時間だろう。
頃合を見て、ラストはいとまを申し出た。
サレオスは別れを惜しみ、レンが戻って来るまで滞在するよう勧めたが、ラストの意思が固く引き止める事は出来なかった。
「レンにはオレの事は言わなくていい。今を生きる者には、過去は思い出でしかないからな」
それだけ言うと、ラストはその場を立ち去った。
不意に背後からレンの声がして振り返ると、ちょうど入れ違いに帰宅したのが見えた。
窓からそっと覗き込むと、二人の楽しげな食卓が見える。
次に戻れるのはいつなのか。
懐かしい風景に目を細め、ラストは帝都を後にした。
七 ・ 夜明け
往復に十日ほどかけ、ラストは帰路に着いた。
賑やかな故郷は酔っ払いと博徒、娼婦などで溢れかえり、毎夜同じ日々を繰り返す。
安っぽい華やかさの中にいると、何もかもを忘れ去る事が出来る。
だがそれは、意図して刻を止めているのと変わりない。
三年前復讐を遂げたあの時に、彼の全ては終わっていたのかも知れない。
帝都を追われ、抜け殻のように生きた十年間よりも、喪失感が大きかったからだ。
自ら目を逸らし、背を向けた未来にはただ、空虚しか無かったのだ。
レニレウスの思惑とはいえ、帝都で触れたかつての仲間たちの今に、嫉妬すらしているのかも知れなかった。
自宅へ戻ると、そこには何故かウニクがいた。
中は綺麗に片付けられ、掃除もされている。
「あ、兄貴おかえりなさい」
にこにこして出迎えるウニクに、ラストは驚く。
「あれお前何してんの……。まあ散らかってたから、掃除してくれたのはありがたいけど」
「いやあ、兄貴が帝都から友達連れて来るのかなと思って。来てないんすか? お友達」
「来る訳ないだろ……。というかお前、レニレウスのところに帰らなくていいのか?」
訝しがるラストに対し、ウニクは素直に答えた。
「我々『草』は、その地に根付くのが基本なので。連絡は鳩を飛ばして取っていますから大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのだろうとは思ったが、怒る事も出来ずラストは呆然とした。
そんな彼を椅子に座らせ、ウニクは湯を沸かして茶を淹れた。
「本当はね、兄貴もう戻って来ないんじゃないかと思ってました。あなたは皇帝になるべきお方。ここにいてはいけないんです」
「……お前どこまで知ってるんだ」
「全部知ってますよ。どこまでを全部といえるのかは分からないけど、この帝国内でレニレウス様のご存知ないものはありません」
テーブルの向かいに座り、ウニクは微笑んだ。
「最初から計算ずくで近付いたとはな。オレとした事が迂闊だった」
「その件に関しては本当に申し訳ないと思っています。レニレウス様の命には従うしかなかったので」
「別に責めるつもりはないさ。レニレウスのいやらしさにイライラしてるだけだ。アイツは恩を売ったら十倍にして取り戻す奴だからな」
ラストはため息をついて窓の外を見た。
けばけばしい街の灯りは消える事なく、未だ夜空を照らし続けている。
「なあ。お前はオレが皇帝になるべきだと言ったけど、本当にそう思っているのか」
ラストの真意が掴めずウニクは戸惑ったが、彼はすぐに頷いた。
「アウルティン皇子がそぐわないとは言いません。だけど古い因習や慣例を変えられるのは、あなただと思っています」
ウニクの言葉に、ラストは応えなかった。
帝国はすでに形骸化した古いしきたりだけを守って成立している。それは誰の目から見ても明らかなのだ。
マルファスから四つの王器を託された時、ラストは持ち帰るか否かを迷った。
それが正しいのか。或いは間違っているのか。眼前に広がる選択肢は限りなく多く、彼を悩ませた。
たったひとつの道しか選べない人間には、思いを巡らせながらも選択する外ないのだ。
「次に帝都に戻る日が来たら、もっと前向きに考えるべきなのかもな」
誰に言うでも無く、ラストはぽつりと呟いた。
過去にこだわるべきでは無いと言いながら、最もこだわっていたのは自分自身だと気付き、彼は苦笑した。
街の喧騒はとどまるところを知らず、夜毎の幻影を繰り返している。
いつ目覚めるとも知れぬ、眠りに縛られているセアルを思い出し、ラストは遥か遠く北東の空を見つめた。
テーブルの上に置かれた仮面は街の灯りを反射し、極彩色の光を放った。
やがて夜明けが来る。
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セアルが眠りについてから三年後の話です。ラストが主人公。19901字。
あらすじ・セアルが眠りについてから三年後。ばあちゃんを看取ったラストは、荒れた毎日を送っていた。
ウニクに連れられ酒場へと足を運んだ彼は、懐かしい人物に再会する。