契約書の写しを持ってきたアリスは、パチュリーと2・3のやり取りを交わすと反論する術を完全に失った。理論派を自称しているだけに、理論で打ち負かされてしまえば終わりである。抵抗することもなく、パチュリーの言う通りにうんうんと頷くだけの時間が過ぎる。そして「時間だから、行くわね……」とだけ言い残して、アリスはパチュリーと共に去っていった。
「クールを気取っている奴がへこんでいる姿は、なかなかに乙なものだな。見たか?さっきのアリス・マーガトロイドを。綺麗にやられて、言われるがままになっていたぞ!」
パチュリーが交渉事を始めたら、そこがどこであれ彼女の戦場となる。だからレミリアは、パーティのリーダーでありながらもアリスとの話を全てパチュリーに任せていた。これは紅魔館におけるいつものやり方で、交渉事に関してはパチュリーに判断を委ねることを良しとしていた。だから二人がそろっている時は口を閉ざしていたし、今も二人で立ち去るまでは何も言わなかった。
「高笑いするものいいけど。あんたの信頼する友人がパーティを抜けることになりそうじゃない。”復帰したら火力が激減していました”ってのは勘弁してもらいたいわね」
もう半刻も体をほぐし続けている霊夢が、ようやく動きを止めてレミリアへと問いかけた。手で頭から滴り落ちている汗をぬぐうと、縁側に立てかけていた剣を取る。
「わかっているわよ、霊夢。パチェの言うことにも理はあるけど、作戦を立てるのも判断をするのも総括をするのも、ウチじゃあ全部パチェの役割だ。やってもらわなきゃ困る」
答えながら、咲夜に片手で指示して手ぬぐいを持って来させる。少し丸めて、ぽいっと霊夢に投げると、ゆっくり立ち上がって部屋に立てかけてある自分の剣を取りに行く。
「けどね、そんなことはパチェ自身が一番理解しているんだよ。その上での判断なら、私がとやかく言うことじゃない。きっと、自分の能力をより発揮できる場所を見定めたんだろう。この行動も、あの判断も、全ては私たちのためにやっていることだから。私は、その意思を尊重する」
縁側から中庭に降りて。右手で三回、左手で二回。剣を振って雑に構える。
「ま、正確には”あんたらのため”なんだろうけどね……まあいいわ。私は私で気になることがあるし、そっちの件は任せる。だけど、絶対に魔法使いはいるわよ。どっちかはパーティに残すこと。あと、残る方にはちょっとやってもらいたいことがあるのよね。あ、それ考えたら居残り役はパチュリーの方が都合いいかも」
受け取った手ぬぐいで額や頬あたりの汗を綺麗にぬぐって、少し丸めて咲夜の方へと投げる。咲夜が完全に無視したので少しむっとしながら、久方ぶりの剣の感触を確かめると、レミリアに合わせるように中段の構えをとる。
「まあ、全てはあっちの話が片付いてからのことね。こっちはその時まで待つしかないんだから、のんびりと暇潰しに明け暮れようじゃない」
レミリアの顔が、雄弁に述べていた。
『かかって来い』
霊夢の表情は、誰の目にも明らかだった。
『仕方ないわねえ』
今だけは、ここだけは。弾幕ごっこではなくて、剣での一本勝負が遊びの主流になっているらしい。
「はあぁぁぁ…………あぁぁ」
「不必要なほどに長い溜め息を吐かないでよ。その一息でどれだけの幸せが逃げていくと思っているの。考えるだけでも憂鬱な気分に苛まれてしまうわ」
「私の憂鬱な気分を作ってくれたのはあんたでしょうが……『お互いの心の健康のために、今すぐレミィのところへ帰りましょう』とか言ってくれたら、溜め息くらいすぐにでも止めてあげるわよ」
「あら、私の真似のつもりかしら?ちなみにそれ、レミィの前でやったらすごいことになるわよ。レミィって呼ぶのは私だけだから。そう呼べるのは私だけだから。他の人がそう呼んだ時にどうなるか、ちょっと想像もできないわね。ちなみに、冗談好きの咲夜ですら一度も試したことが無いってことだけは、同じ魔法使いのよしみで教えておくわね」
「やめてよ。また溜め息のネタが増えるじゃない。それに、そんな小さな冗談のために膨大なリスクを冒すほど馬鹿じゃないわ。魔理沙じゃないんだから」
「そう。それ」
「ん?何がそれなのよ」
「それはそれ、魔理沙よ。あなたは私たちよりも少しは事情に通じているんでしょう。少しはおかしいって思わなかったの?迷宮そのものについてはね、おおよそのあたりはついてきているのよ。大前提として、あの迷宮が”私たちに突破されるためのもの”だってこと。霊夢たちがやる”異変解決”とやり口が似ているわ。そもそもね。自然に出来た代物なら、階層が深くなるほど手強くなるなんてありえないの。しかもそれを、依頼者が事前に知っているなんて実に笑わせるわね。いちいち例示はしないけれど、要はこの迷宮探索も”お遊びに近い何か”だってことよ。でも、魔理沙は現実に倒れてしまった。おかしいのよ。こんなことは誰も望んでいない。あれはきっと、本物の事故。起こって欲しくなかった、考えてもいなかった、あるはずのない悲しい出来事」
「どうしてそう言い切れるわけ?」
「あの八意永琳が折れたのよ。自明でしょう。幻想郷の理に縛られない史上最高レベルの天才が、レミリアの強引な交渉の結果で折れるなんてあるはずが無いの。あれは”はじめからほぼどんな要求でも飲まざるを得なかった”のよ。だから、無言だった。私たちから見れば、八意永琳の交渉力を高く見積もれば見積もるほどに、高い要求はし難くなる。そしてあの事故の重要性を探索に行く私たちの常識で算定すれば、あの要求でも厳しいと見積もって然るべきものなのよ。だって魔理沙の件は、私たちにしてみれば”ただ私たちが探索を失敗してパーティが壊滅寸前になった”というだけの話。ぶっちゃけちゃうけど、責任は完全に私たちにあるって思っていたのよ。でも手詰まりになっちゃったから、『体があれば復活させてみせる』って言質を突いてみたみただけ。私もまだ考えがまとまっていなかったから、あの時は確実に失敗すると思っていたわ。交渉担当の私が出なかったのは、単純に八意永琳には勝てないと判断したからよ。下手に交渉をチラつかせるよりも、レミリアの正面突破の方がまだましなくらい絶望的だった。でも、彼女は何も言わなかった。要求が出そろうまでは、ほぼ無言を貫いた。幻想郷でおそらく最強クラスであろう交渉人が、全く交渉をしなかった。それはとても雄弁に、『そうせざるを得なかった』と語ってくれるわ。あの事故は依頼者側にとって致命的で、あってはならないものだった。そうでなければ、八意永琳は己の力で私たちの交渉を叩き潰していたはずよ」
「それで。この話には色々と裏があるとして、じゃああんたは何が言いたいのよ」
「単純な話よ。そう、私の心の中はとてもシンプルな思いで一杯なの。気にくわない。ただそれだけ」
「あんたの言う”事故”があったから?」
「それは決定打ね。私はもう少し前から、これが”異変に近い何か”だということは見抜いていたのよ。でなければ、私がこんなものに参加するわけがないじゃない。向いていないことはわかっているのだから。やるとしても後方支援に徹する形を取るわ。参加したのは、弾幕ごっこと似たレベルの”命の危険はあるけれどほぼ大丈夫”という代物だと踏んだからよ。八雲紫は、幻想郷の重要人物が死ぬことを忌避する傾向にあるからね。そういう意味では、あいつを信用していた。けど、今回は少し違った」
「そうね。うっかり全滅したら、回復できない損傷を受ける可能性があるわ」
「じゃあ、この依頼は私たちの命を賭けるほどの価値のあるものなの?理由を聞かされていない上に、契約自体もレミィをおだてて乗せるような形で、なし崩し的に受けさせられた代物よ。その際にも”命の危険は無い”と言質を取ってある。だから、私は『レミィの暇つぶしになるわね』くらいの感覚だった。でも、迷宮探索は困難を極める上に、魔理沙が戦列を離れるほどの損傷を受けた。事前の話とは全く違う、とんでもない話だった。レミィはやる気だけど、私はもうこの契約を破棄したいと思っている」
「……なんでそれを私に言うのよ」
「あんたが、あいつらに、上手く丸めこまれているからに決まっているでしょう。何を言われたのかは知らないけれど、つなぎ役どころか完全にあいつらの手先じゃない。こっちの情報だけ全て流して、あいつらの情報は一切流さないって、それじゃあただの監視役よ。まあこれも完全に契約違反だから、追及させてもらうわ」
「いや、あなた契約書を見てないって」
「見てないわ。見る気もないわ。面倒くさい。質も性質も悪くて本質も捉えられていない書物なんて、私の記憶に残したくないもの。駄文ならともかく詐文なんて、読むだけで不快。あんたは慣れていないかもしれないけれど、こちとら幻想郷に来る前は吸血鬼や悪魔なんかと一緒にあちこちで騒いできてるのよ。私は、不本意ではあるけれど、そいつらの面倒をずっと見てきてたの。だから、そうね。ざっくり言って交渉・契約に関しては幻想郷でもトップクラスじゃないかしら。少なくとも、経験だけは絶対に負けていない」
「だからって」
「いえ、だからよ。だから、わかるの。相手の立場から考えたら、契約書に書くべき条項と、誤魔化すべき条項と、書くのを避ける条項くらいは簡単にわかる。契約書の条項なんてね、どれも似たようなことばかり書いてある上に、ほとんどは使われないし使われることを意図していないって代物なの。本当に大事なのは、ほんの数項目だけ。後は全部、万が一への対処をだらだらと書き連ねているだけの駄文ばかり。”書かれていないこと”の確認のために全て読むこともあるけれど、あれほど価値を見出せない文字列も珍しいとすら思うわ」
「本職を名乗る奴が、商売道具を罵ってどうするのよ……」
「知っているからこそ、言いたいこともあるの。それにね、私の作成する契約書はすごいわよ。読み物としての完成度も求めているからね。ちゃんと愛着を持って仕上げているわ。あなたも私の魔法術式を解析したことがあるのでしょう?あれ以上に洗練された文章の羅列が、契約書という形態を取りながら紡がれているわけ。誰のためでもない、気付かれるわけもない。私だけのためにね。商売道具を疎かにするほど馬鹿じゃないわ」
「はあ、これだから職人気質の研究者は。あ、そろそろ着くわよ」
「そう。なら、念のためにさっきの契約書の写しを見せておいて」
「って、やっぱり見るんじゃない!……はあ、もういいわ。はいどうぞ。悪用しないでよ」
「拗ねないの。それにね……はいもう返すわ。これでどうやって悪用するってのよ」
「早すぎるでしょ!って、これも深く突っ込まない方がいいんでしょうね。ちょっと反論したら何倍にもなって返ってくるんだからたまったもんじゃないわ」
「本職の仕事を疑うからでしょう。私の読みが正しいかを一応確認しただけよ。いいからアリスは、安心してパーティに加わってなさい。私が、完全なつなぎ役として後方支援をしてあげるから。正直、わからないことが多すぎて打つ手に乏しいってのが現状なの。可能な手段を洗いざらいにするところから始めるから、探索は任せたわよ」
「またそれっ?!嫌って言っているじゃない。絶対に、イ・ヤ!」
「でもきっと、あいつらも探索に行けって言うわよ。ああ、違った。正確には”探索に行けって言わせる”ね」
「あんたね……まあいいわ。あいつらを落とせるっていうのならやってみなさいな。揃いも揃った癖者たちを、どう料理するのか見ものだわ」
そこでパチュリーは会話を止めた。いくら言葉を重ねても、アリスはパチュリーの交渉能力が幻想郷の重鎮共を上回っている可能性をかけらほども認めようとしないから。恐らくは魔法使いの能力と混同しているのだろう。アリスとパチュリーの魔術的なレベルは、ベクトルが違うので一概には言えないが、双方が理解している限りでは大きな隔たりは無い。もちろんお互いに秘匿している部分は考慮外としても、それはお互いさまで双方が『自分が上だ』と思っている。つまりアリスは能力的に五分以上だと理解しているので、アリス自身が上手くやれなかったことはパチュリーもできないと思っている。パチュリーが、いくら説明をしても無駄だと判断するくらいに強く、思い込んでいる。
「そうね。しっかりと見ておきなさいな」
語りかけるのではなく、短い独白のような一言だった。パチュリーは、頭の中からアリスの存在を消して、考え事を始めた。相手が誰かも、人数も、そしてどの程度の権力を有しているのかもわからないのだ。恐らくは紅茶を一杯飲むほどの時間も無くたどり着くだろう。この僅かなひと時は、紅魔館の交渉担当パチュリー・ノーレッジが、この後の交渉のために必要とする思考時間に等しい。
パチュリー・ノーレッジは誤解されている。幻想郷ではのんびりとした生活を送っているようだが、幻想郷に至るまでには馬鹿げた数の荒事をこなしてきている。居を構え、従う者を侍らせる吸血鬼は、否応無く闘争の中で生きることになる。力があればある程に、擦り寄ってくる者と敵対する者の数は加速度的に増えていく。有象無象の者共が、剣を構えて金を担いで、敵だ味方だ仲間だ仇だとわけもわからずやってくる。単純な暴力で蹴散らすのは容易いことだが、そればかりではいつか人間の”数”という圧倒的な力に押し潰されてしまう。また知力で誤魔化すのも容易いことだが、そればかりではいつか人間同士の”愚かさ”から歪に広がる人間関係の渦に巻き込まれてしまう。つまり、双方が必須なのだ。レミリアが暴力を示して、パチュリーが知力を司る。その両頭が等しく突き抜けているからこそ、紅魔館はここまで永らえてきたのだ。
レミリアが吸血鬼として、生態系の限りなく上にいる。そして、パチュリーは魔法使いとして限りなく上にいる――――わけではない。パチュリーはあくまでも賢者として、知の限りなく上にいるのだ。狂人にほど近いレベルで本を収集しながらも、その全てを著者よりも読み解こうと静かな情熱を傾けている。誰よりも飛び抜けた早さで積み重ねていく知識を、身一つの時代から紅魔館の客人になった今も、ずっと高め続けている。その能力を、生き長らえるために、紅魔館を維持するために、友人の無茶振りを成し遂げるために駆使し続けてきた。知の権化が経験を得て方向性を与えられれば、後はもう行動するだけで完了してしまう作業となる。起こりうる全ての道筋は仮定されて、9が七曜連なる可能性をも網羅する。限りなく動かないだけで、必要があれば全てを解決してしまう。そんなパチュリーの能力を疑問に思う者がいたら、こう問えばいい。
「幻想郷の科学レベルで、月へ行けると誰が思う?」
月の科学を修めている天才・八意永琳をして『ほぼ完璧』と言わしめるロケットだ。他方面からの補助があったにせよ、他の誰が完成させられるというのだろうか。専門外にして、超高度な技術が必要な分野ですら、この完成度。ならば専門とする分野であればどうなるのか。答えは、自明である。
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迷宮外(白玉楼→道中):それぞれの関係と話の合わない少女たち