No.474140

第4回恋姫同人祭り参加作品 真・恋姫†無双異聞~皇龍剣風譚~ 外伝 Tears In Heaven

YTAさん

 どうも皆様、YTAでございます。
 今回は、恋姫同人祭り開催と言う事で、頑張って原作短編を書こうと思っていたのですが、予断を許さぬリアルワールドの魔手の影響で、またぞろ連載物の外伝となってしまいました……orz

 もういっその事、毎回、最初から外伝にした方が、精神衛生上、楽なんじゃないかと思う今日この頃です……。
 しかし!前回同様、下記の事さえ踏まえて頂ければ、一見様でも大丈夫な様にはしましたので、興味のある方は、ご一読頂ければ幸いです。

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2012-08-23 04:01:35 投稿 / 全20ページ    総閲覧数:3756   閲覧ユーザー数:3013

                      第四回 恋姫同人祭り参加作品 真・恋姫†無双異聞~皇龍剣風譚~

 

                                   外伝 Tears In Heaven

 

 

 

 

 

 

 

 

 北郷一刀は、微睡(まどろ)みの中、薄暗い部屋に微かに聴こえる衣擦れの音で目を覚ました。重い瞼を持ち上げ、宵闇に目が慣れるまでの数瞬、じっと天井を見詰めていた一刀は、天井の木目がしっかりと見える様になったのを確認すると、静かに寝返りを打って、衣擦れの音の主―――黄忠漢升こと紫苑の背中を視界に捉える。

 

「……帰るのか、紫苑?」

 紫苑は、その声に僅かに驚いた様子で背中を震わせると、申し訳なさそうな顔をして振り返った。

「こ主人様……申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

「いや、ウトウトしてただけだから」

 

 一刀はそう答えると、今度は腕を枕にして、衣服を整える作業に戻った紫苑の艶っぽい背中を、改めて眺めた。紫苑との逢瀬は、何時も激しい。

 紫苑自身が情熱的だというのも勿論なのではあるが、目下の少女達との伽の時とは違い、熟練した紫苑には加減が必要ないと言う事も、大きな理由であった。

 

 蹂躙する程激しく貫いても、感情に任せて打ち据えても、紫苑は艶かしく微笑んで、自らの悦楽へと変えてしまう。本来はありえるべくもない、“年齢の差が縮まる”と言う経験をした今でも尚、一刀が伽の床で紫苑にある意味に於いて甘えてしまうのは、そうした、埋めようのない“何か”が存在するからなのだろう。

 

「そう言えば―――」

 身支度を終え、紫苑が暇乞いをしようと振り向くと、一刀は不意に口を開いた。

「紫苑。お前、随分と長い間、里に帰っていないだろ?」

 紫苑は、唐突なその質問に少々戸惑いながらも、小さく頷いて答える。

 

 

 

「はい。ご主人様が天にお帰りになられる前から数えれば、もう四年程になります―――あの、それが何か?」

「そうか―――なら、来週辺り、璃々を連れて里帰りをするといい。朱里には俺から言っておくし、半月位ならまぁ、仕事の穴埋めも何とかなるだろうからな」

 

「それは……お心遣い、痛み入ります。でも、何故、突然にそのような?」

「いや、じきに盆の入りだと思ってな。俺の国では、この時期には里に帰って墓参りをするんだよ。紫苑も、ご亭主の墓には随分と参っていないんだろ?璃々の顔を、見せに行ってやるといい」

 紫苑は、戸惑った様な顔で一刀を見ていたが、やがて、丁重に礼と暇を言って、静かに部屋を後にした。

 

「“三千世界の烏を殺し、あなたと朝寝がしてみたい”ってか―――」

 一刀は、紫苑の閉めた戸を暫く見詰めた後、煙草に火を点けて紫煙を吐き出し、そう独りごちて、苦笑を浮かべた。

「そう思うなら、けじめは着けとかなきゃいかんわな、俺も……」

 

 一刀は、まだ長い煙草を灰皿に突っ込むと、布団を被り、未だに残る紫苑の温もりと匂いの中で、再び睡魔に身を委ねるのだった―――。

 

 

 

 

 

 

「ほぉ、それは良かったでないか」

 厳顔こと桔梗は、盃を煽りながら紫苑の話を聞いて相槌を打った。

「実際の話、亭主の墓参りなぞ、ついぞ行っておらんのだろう?お館様も、そう言った所にお気を回して下さる御年になられたと言う事ではないか。何が気に入らん」

 

「そんな、気に入らないだなんて―――」

 紫苑は、両手で包み込む様に握った盃を上品に傾けると、東屋の外に差し込んだ夏の陽光の照り返しに、僅かに目を細めた。

「私は、気に入らないだなんて言っていないわ。ただ……」

 

 

「まったく、要領を得ぬな。仕事が終わるなり『相談がある』などと言って此処に誘ったのは、お主ではないか。一体全体、この儂に何を相談したいと言うのだ?」

 桔梗は、呆れた様にそう言ってから首を振り、自分の盃に酒を継ぎ足した。暑い為、水で薄めて量を多く飲める様にしてあるからか、少しも酔いが回らず、面白くない。

 

「死者への想いは、生者には越えられぬ。そんな事は、お館様も解っておられる。気を遣うのは構わぬが、遣いすぎれば、お館様の器量を疑っている様に思われてしまうぞ?」

「やっぱり、気を遣っている様に思われているのかしら?」

 紫苑が、僅かな不安を覗かせる声でそう尋ね返すと、桔梗は肩を竦めて、再び盃を煽った。

 

「それはまぁ、そうだろう。乱世ならば兎も角、世が定まってからも、死んでまだ十年と経っていない亭主の墓参りに行きたいとすら、一度として口に出さぬのではな。年若き頃は、墓参りやら供養やらの事などはあまり考えぬものだし、思い至らぬと言う事もあったかも知れぬが、周りが見えて来る御年になられた今となっては、過去に遡れば、いくらでも思い当たる節はあるであろうし」

 

「そう……なのかしらね?」

「まぁ、折角手に入れ()い恋人を、小娘どもにばかり好きにされては堪らんと用心したい気持ちは、良く分るがな」

「そればかりは、否定できないわね」

 

 紫苑は、桔梗の冗談に微笑みを浮かべながら、久方振りに、亡き夫の顔を思い出していた。実の叔父であったから、当然、壮健であった若い頃から知っていたが、祝言を上げた頃には既に老境に差し掛っていて、総白髪に白髭だった。

 軍人らしく、体躯隆々たる立派な偉丈夫で、年相応には、とても見えなかったものだ。最も、その体躯も病を患っている内に、みるみる萎んでしまったのだが。

 

「―――で、出立は何時になるのだ?」

「え?えぇ、そうね……朱里ちゃんからも、お昼頃には許可をもらえたし、明後日の払暁には立とうと思っているわ」

「そうか。ま、何はともあれ、久方振りの里帰りだ。ゆるりとして来い―――で、だな」

 

「お土産でしょう?分かっているわよ。以前、何時も送っていたお酒で良いかしら?」

「うむ、宜しゅうな!」

 桔梗は、紫苑の微苦笑に答えるように、子供の様な満面の笑みを浮かべると、何杯目になるかも分からない杯を飲み干すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、璃々ではないの」

 旅支度の買い物の為に、必要な物を書き出した紙を持って市の立った通りを歩いていた璃々は、後ろから名を呼ばれて、反射的に振り返った。そこに居たのは、虎痴の二つ名を持つ猛将、許緒こと季衣を従えた、魏王・曹操こと華琳であった。

 

「あ、華琳お姉ちゃん、季衣お姉ちゃん。こんにちは!」

「やっほ~、璃々!こんにちは!」

 季衣が、頭を下げた璃々に近づきながら片手を上げて答えると、隣に居た華琳も、微笑みを浮かべながら頷いた。

 

「ご機嫌よう。璃々は、暑くても元気ね。買い物をしていたの?」

「はい!ご主人様が、お母さんにお休みをくれて、お里帰りをしてお父さんのお墓にお参りに行くから、その準備で」

「へぇ、一刀がそんな事をね……璃々は、きちんとお使いが出来て偉いわね。春蘭にも見習って欲しいものだわ。それなら、紫苑も一緒なのかしら?姿が見えない様だけれど……」

 

 華琳が、そう言って周囲を見回すと、璃々は首を振った。

「いいえ。お母さんは、桔梗さんとお話があるから、後から待ち合わせなんです。一緒におやつを食べてから、二人で見ないと決められない物を買いに行こうって。華琳お姉ちゃんと季衣お姉ちゃんは?」

「私達も、買い物よ。屋敷の皆が暑気中り気味なものだから、何か精の付く物でも作ろうかと思ってね。季衣に案内を頼んでいるのよ」

 

「璃々も食べに来る?良いですよね、華琳様?」

「私は構わないけれど、璃々も紫苑も、今日は忙しいのではなくて?」

 無邪気な季衣の言葉に、華琳が嗜める様な口調で答えると、璃々も残念そうに頷いた。

「はい。お城に帰ったら、荷造りを始めちゃわないといけないし……ごめんなさい」

 

 

「あら、謝る事なんてないわ。急に誘ったのはこちらだもの。都に帰ってきたら、またご招待させてもらうわね?」

 華琳が、頭を撫でてそう言うと、璃々は満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。

「はい!その時は、ぜひ!」

 

「……あと五・六年、と言った所かしら……」

別れの挨拶をして、市を駆けて行く璃々の背中を見ながら、華琳がポツリとそう呟くと、季衣が不思議そうな顔をして尋ねた。

「はにゃ?何が五年なんですか、華琳様?」

 

「ふふ、璃々は将来有望ね、と言う話よ」

 華琳が、悪戯っぽい微笑みを浮かべながらそう答えると、季衣は何度も頷いて言った。

「ですよね~。まだ小さいのに、考え方も、最近は言葉遣いだってしっかりしてるし、凄いなぁ」

「紫苑の教育の賜物でしょう。まったく、本当に、どこかの誰かさんにも見習って欲しいものだわ」

 

「ふぇーっくしょい!!」

「姉者……くしゃみをする時は、手を添えてくれんか……」

 魏の屋敷で、(監視付きで)事務仕事に励んでいた夏侯惇こと春蘭は、夏侯淵こと秋蘭が差し出した懐紙を受け取りながら、鼻を啜って言った。

 

「すまん、秋蘭。何の予兆もなく、突然だったのでな」

 秋蘭は、豪快に鼻をかむ姉を見遣って溜め息を吐くと、新たな竹簡を差し出した。

「まぁ、良い。さぁ、次はこれだ」

「うぅ、まだあるのか……」

 

「普段から少しずつやっていれば、こんなには無い筈なんだがな?」

「分かった!やればいいのだろう、やれば!!」

 妹の片眉が吊り上がったのを見た春蘭は、半泣きになりながらも、新たな竹簡の紐を乱暴に(ほど)くのだった―――。

 

「あの子、きちんと仕事をしているでしょうね……」

 華琳が、溜め息を吐きながらこめかみを揉んでそう言うと、季衣は苦笑いを浮かべる。

「だ、大丈夫ですよ。秋蘭さまも付いてくれてますし……多分」

「ま、良いわ。それは、帰れば分かるでしょうから。それにしても、一刀がねぇ……」

 

 

「優しいですよね~。お里帰りをさせてくれるなんて!」

「そうね。中々の大度を見せたものだわ。それとも一刀なりのケジメ……なのかしらね?」

「どう言う事ですか?華琳様」

 季衣が、またも不思議そうな顔をすると、華琳は小さく首を振って答えた。

 

「私達が知らなくても良い事よ―――さぁ、季衣。買い物を済ませてしまいましょう。早くしないと、新鮮な鰻が売り切れてしまうわ」

「あ、そうだった!華琳様、こっちですよ!あの店のオジサンが捕ってくるウナギは、いつも脂が乗ってて美味しいんです!!」

 

「はいはい。今行くわよ」

 華琳は、駆け出しながら大声で自分を呼ぶ季衣に優しげな微笑みを向けながら、その後を追う為に、早足で歩き出した―――。

 

 

 

 

 

 

「無理を言って済まなかったな、朱里、雛里」

 北郷一刀は、自分の執務室の机の前で揃って頭を垂れている諸葛亮こと朱里と、鳳統こと雛里に礼を言った。一刀の手には、二人が急遽組み直してくれた今月分の予定表が広げられている。

「いえ、紫苑さんの事に関しては以前から気にはなっていたので、丁度良い機会でしたから」

 

 朱里がそう言って頭を上げると、雛里が頭を上げ、言葉を継いだ。

「でも、やっぱり、紫苑さんが何も仰らない以上は、私達の様な若輩が口を出すのも(はばか)られましたので、つい甘えてしまう形になってしまって……」

 一刀は、二人の言葉に頷くと、予定表を机に置いて溜め息を吐いた。

 

「やっぱり、みんな気にしてはいたんだなぁ。俺が、もっと早くに気付いてやれてれば良かったんだけど……最も、十八・九の小僧の頃じゃあ、しれっと『旦那さんの墓参りに行っといで』なんて、言えた気がしないけどな。まったく、男ってやつは、臆病な生き物で嫌になっちまうよ」

 一刀は、自嘲の混じった苦笑をうかべて頭を掻く。

 

 

「ところで、新しい予定の事なんだけど、四・五日の間に、龍風(たつかぜ)を遠乗りに連れて行ってやりたいんだ。最近、あまり走ってないから……可能かな?」

 一刀が、改まってそう言うと、朱里は、顎に手を当てて、しばし逡巡してから口を開いた。龍風とは、一刀の愛馬で、一日に千里を駆けると云われる伝説の瑞獣・龍馬の事である。

 

「内政面に関しては、可能だと思います。紫苑さんの担当していらっしゃる案件は、得意分野が同じの音々音ちゃんが引き受けてくれましたし、お風呂やその他の管理は月ちゃんと詠ちゃんが代わってくれるので、ご主人様のご負担が増える訳ではありませんから。軍政面ではどう?雛里ちゃん」

 朱里が、そう言って雛里に水を向けると、雛里は小さく頷き、朱里同様、淀みなく答えを口にした。

 

「問題ないです。ここの所は、最近の暑さを利用して各隊を細かく分け、連日交代で日中に耐暑訓練を行っていますから、ご主人様にお出まし願う様な催しはありませんし」

「そうだったな。報告は来てるよ。暑さ対策の方は、きちんと出来てるんだろ?」

 一刀がそう尋ねると、雛里は、またも即答で返した。

 

「はい。ご主人様に教えて頂いた、塩と砂糖を水に混ぜた物を水筒で全員に携帯させていますし、予備も十分に用意していますので、今の所、基礎訓練に於いて暑さで倒れた兵士さんは居ません。ただ、行軍訓練を行う部隊では、何人かは脱落者が出るものと……」

「まぁ、あれは訓練の性質上、仕方ないだろうなぁ」

 

 行軍訓練とは、実戦と同じ装備を持ち、決められた食料のみを携帯して、七十五里(約15km)もの距離の予定コースを、規定の時間内に走破する訓練の事である。これは、山岳地帯の多い蜀の兵士には必須のカリキュラムで、訓練課程を終えたばかりの新兵達は勿論、各精鋭部隊にも、年に数度の実施が義務付けられているものであった。

 

「まぁ、内容の難易度が違うとはいえ、百戦錬磨の精鋭部隊でも、毎回何人かは軽く錯乱する奴もいる位だし、こればかりはな……そこら辺は、兎に角、衛生兵をこまめに配置して、命に関わる事のない様に、十分注意は払っておいてくれ」

「承知しております」

 

 雛里がそう答えれ頭を垂れると、一刀は肩の力を抜き、椅子から立ち上がった。

「さて、仕事の話も一通り済んだし、茶でも飲もうか。月と詠が、冷たい麦湯を用意してくれている筈だから」

「それなら私、お買い物の次いでに買ってきたお菓子を持って来ます。月ちゃんと詠ちゃんも呼んで、一緒に食べませんか?」

 

 

 朱里がそう言って、ポンと両手を叩くと、雛里も嬉しそうに頷いた。

「いいですね。最近、皆さんとゆっくりお茶を飲む機会もなかったし……宜しいですか?ご主人様」

「勿論!美人に囲まれてのお茶会を断る理由なんて、俺にある訳ないだろ?」

「あわわ。ご主人様、イヤラしいです……変態」

 

「はわわ……相変わらず、浮気性なんですから……」

「えぇ!?どうしてそうなるの!!?」

 一刀は、茶目っ気たっぷりな表情で自分を揶揄(からか)う二人の軍師を前に、大袈裟に嘆いて見せながら、呼び鈴に手を伸ばすのだった―――。

 

 

 

 

 

 

 紫苑と璃々の親子が都を出てから、二刻(約四時間)程した頃、夏の日差しは既に中天に近づいて、燦々と二人を照らしていた。

「ふぅ、暑いねぇ。お母さん」

 璃々が、自分の馬の手綱をどうにか操りながらそう言うと、揃いの日除け笠を被った紫苑が、自分の馬の歩調を僅かに緩めて、娘の方に顔を向けた。

 

「そうね―――璃々、大丈夫?もうすぐ、茶房が見えてくるけれど……少し、休憩にしましょうか?」

「ううん。大丈夫だよ。この子も頑張ってるし……ね?」

 璃々が、紫苑にそう言いながら乗っている馬の首を撫でてやると、馬は僅かに嘶いて、璃々の言葉

に応える様に首を振った。

 

「そう?なら、このまま進みましょう。飲み物は、まめに飲んでね?」

「は~い!」

 紫苑は、娘の元気な返事を聞いて安心すると、視線を前に戻した。この季節に、敢えて馬車を使わなかったのは、時間的に単騎の方が早いと言う事もあるが、娘に馬での長旅を体験させておこうと思ったからだった。

 

娘がいずれ、自分の後を継ぐ事になれば、千、万の兵士を指揮して、厳しい行軍をしなければならない。無論、実戦などあって欲しくはないが、未来の事など分からぬし、どの道、訓練では指揮を取らねばならないのだから、もうそろそろ、こう言う事も経験しておいた方が良いだろうと思ったのである。

「ねぇ、お母さん」

 

 

「なぁに?璃々」

「お父さんて、どんな人だったの?」

 唐突な璃々の質問に、紫苑は少し驚いて、馬首を並べてきた娘を見遣った。

「どうしたの?急に……」

 

「う~ん。ただ、何となく……」

「そう―――」

思えば、娘が父―――紫苑に取っては夫であった人物の事を尋ねて来るのは、殆ど初めての事であった。自分は、娘にまで無意識に気を遣わせていたのだろうか?そう自問しそうになった紫苑は、思考の波を無理やりに追い払い、微笑みを作って再び娘を見た。

 

「じゃあ、璃々は、お父様のどんな事を覚えてる?」

「えぇとね。真っ白いお髭のお爺ちゃんで、大きかった事―――あとは……分かんない」

 まぁ、そんな所だろう、と紫苑は思った。何せ、夫が鬼籍に入ったのは、璃々が漸く一歳になるかならないかと云った頃の事で、今言った程の事柄を覚えていただけでも大したものであろう。

 

「そうね。お父様は、とても素敵な白いお髭を生やしておいでだったわ。それに、槍が得意で、お身体も大きかった―――とってもお優しい方で、あなたが生まれたばかりの頃なんて、ずっとあなたを抱っこしたまま、離そうとなさらなかったものよ」

「へぇ~。そうだったんだ!」

 

「えぇ。『世界一可愛いお姫様』って言って、あなたの顔中に口づけをして―――ふふ、お母さんが少し、妬きもちを焼いちゃう位だったんだから」

「え~!!璃々、全然覚えてないよ……」

「それはそうよ。だって、まだ一つになる前の事だもの」

 

「そうかぁ……お父さん、璃々の事、好きでいてくれたんだね……」

「勿論よ―――大好きなんてものではなかったわ。その内、本当に食べちゃうんじゃないかって心配した位よ。あの時も―――」

 紫苑は、そこで言葉を切って、ふと、遠くを見詰めて黙り込んだ。視線の先にある夏の空に、まだ乳飲み児の璃々を抱き締める、病み衰えた夫の姿が、ありありと浮かんでしまったのである。

 

 

「―――あさん―――お母さん!」

「え?あ、あぁ……ごめんなさいね、璃々。お母さん、少しぼうっとしていた見たい」

「もう、暑いんだから、きちんと飲み物を飲まないとダメだよ!」

「はぁい」

 

 紫苑は、僅かに頬を膨らませながら“おませ”な事を言う娘に素直に返事をすると、内心で胸を撫で下ろした。どうやら娘は、自分が最後に何を言いかけたのかを気にはしていないようだった。

 或いは、気にしていても、敢えて口に出さないのか。先程の、自分が娘にまで気を遣わせているのではないかと言う疑問が再び鎌首をもたげたが、紫苑は、今だけは娘に甘える事にした。

 

 幾ら成長したとはいえ、璃々はまだ幼い。何程に大人びて見えようとも、数えで十にもなっていないのである。

夫が、その忌の際に残した彼女への願いと想いを受け止めるには、まだ早過ぎる……無論、いつかは話してやらなければならないだろうが。

 

「あら、茶房が見えてきたわね。霞ちゃんから聞いた話では、あそこのお団子は、とっても美味しいんですって」

 紫苑は、自分自身の気持ちを切り替えようと、敢えて明るい調子でそう言いながら、視界に見えて来た小さな茶房を指差して言った。

「ほんと!?じゃあ璃々、お団子食べたい!お母さん、おかわりしても良い?」

 

「良いけど、程々にね?今日はまだ、随分先まで行かなきゃいけないんだから」

「は~い!!」

 紫苑は、嬉しそうな顔で茶房を見ている娘の横顔に暖かい微笑みを送ると、自分も茶房に視線を向け、手綱を握り直した―――。

 

 

 

 

 

 

「しっかし、暑いよなぁ……明日だけ、少し曇ってくれりゃあ良いのに……」

 紫苑と璃々が都を発ってから六日後の午後。仕事終わりに遅い昼食を摂ろうと屋敷の中庭を歩いていた馬超こと翠が、力なく愛槍の“銀閃”を肩に打ち付けながそう言うと、隣を歩いていた桔梗も、『まったくだ』と言う様に頷いた。

 

 

「そう言えば、お主の部隊は、明日が行軍訓練であったな。まぁ、心頭滅却すれば……と、言いたい所ではあるが、確かに、こう暑くては呑んだ先から汗になってしまうわい。詠の奴めに酒を冷やすのも禁止されてしもうたし、踏んだり蹴ったりだわ」

 

「そりゃあ、井戸が塞がるほど馬鹿デカい酒樽を毎日バカスカ放り込まれたんじゃ、詠じゃなくても怒るって……」

 翠が呆れた様にそう言うと、桔梗は、さも心外そうに腰に手を当てた。

「何を言う!儂は、その日に呑む分しか冷やしておらんぞ!」

 

「いや、だから……その“一日分”が多過ぎなんだって……」

 翠が、心底疲れた様にそう言い返すと、桔梗は、子供の様に頬を膨らませて首を振った。

「やれやれ……酒に強いと言うのも、よりけりよな。お館様の話では、天の国には、真夏でも食材を冷やしたり、氷を幾らでも作ったり出来る、摩訶不思議な氷室があるそうな。そこで雪解け水の如く冷やした“びぃる”なる酒は、暑い時期に呑むと格別の味わいだと仰っておられたが……」

 

「へぇ……確か、その氷室の話は私も聞いた事があったけど、“びぃる”ってやつの話は初耳だな。どんな酒なんだ?」

「うむ、なんでも、麦と“ほっぷ”なる植物を醸して造るらしい。苦味が強いが、“たんさん”なるものが含まれており、呑んだ時に喉をチクチクと刺激すると相まって、堪らなく爽快なんだそうな」

 

 桔梗が、涎を垂らさんばかりの恍惚とした表情で説明すると、翠も感心した様に頷いた。

「何だかよく分かんないけど、そいつは面白そうだなぁ……ご主人様、作ってくれればいいのにな」

「うむ。お館様も召し上がりたいと仰って、材料を探しておられたらしいが、どうにも“ほっぷ”は、中原にはないらしくてな……天竺の先には野生のものが生えておるらしいし、南蛮にならば天竺か羅馬(ろうま)辺りから渡来しているかも知れぬと仰られて、美以に当たりを付ける様に頼んで下さっておるそうだ」

 

「また、先の長い話だなぁ……」

「まぁな。しかし、一度植えれば、二・三十年は実を採り続けられると言うから、楽しみにしておく価値はあるだろう。美以はあれで、動植物には中々に目が利くしな」

「はは。確かに、野生児だからなぁ。しっかし、ご主人様もめっちゃ職権乱用じゃないか―――って、そう言えば、ご主人様、どうしたんだろ?今朝から、全然、姿が見えないけど……」

 

 翠が、思い出したようにそう言うと、桔梗が顎をさすりながら、意外そうな顔で答えた。

「何じゃ、知らなかったのか?お館様は、今朝から龍風を遠乗りに連れて御出でだぞ」

「え!?そうなのかよ!何だよ、ご主人様。それなら、私を連れて行ってくれりゃいいのに……」

 

 

「はっはっは!そう膨れるな、翠。何でも、今回は龍風を“思い切り走らせて”やる為の遠乗りだそうだからな。天下に聴こえた錦馬超の手綱捌きを以てしても、騎馬の格が違い過ぎて話になるまい」

 

「あ~、そうなんだ……それじゃあ仕方ないよな」

 切り立った崖の側面すら難なく走破してしまう龍風の姿を直に見た事のある翠は、特に反論もせずに桔梗の言葉に同意すると、ボリボリと後頭部を掻いて。苦笑いを浮かべた。

「なんつっても、龍風の脚はスゴ過ぎるからなぁ。真面目な話、千里どころか、一日あれば大陸横断くらいしちまいそうだし―――」

 

「……ふむ。大陸横断、か……」

「ん?どうしたんだよ、桔梗。急に難しい顔してさ?」

 翠が、唐突に押し黙った桔梗の顔を覗き込みながらそう尋ねると、桔梗は口元を綻ばせて、小さく首を振った。

 

「いや……流石は我らのお館様、と思うただけの事よ」

「はぁ?そりゃまぁ確かに、あんな凄い駿馬を手懐けたのは、流石だとは思うけど……」

「あぁ。まったく、大した御仁よ……さて、さっさと昼餉を済ませてしまうとしよう。今日は鈴々の部隊が行軍訓練の日だからな。あやつが帰ってきたら、屋敷の食物は粗方なくなってしまうだろう」

 

「あぁっと、そうだった!こうしちゃいられない!桔梗、走るぞ!!」

「おいおい。流石に、こんなに早く帰って来はせ―――と、行ってしまいおったか」

 桔梗は、土煙の彼方に見える翠の後ろ姿を呆れた表情で見送ると、高く晴れた空を見上げて、朗らかに笑う。

 

「紫苑、儂らは幸せ者ぞ……」

 盟友には決して届かぬであろうその言葉は、彼女の吹く笛の音の様に大気に染みて、やがて、消えていった―――。

 

 

 

 

 

「ありがとう、龍風。後で呼ぶから、適当に休んでいてくれ」

 一刀は、そう言って愛馬の首元を撫でてやってから、鞍を降りた。日差しに煽られながらも不快に感じないのは、遮る物のないこの小高い丘に、絶えず爽やかな風が吹いているからだろう。

 

 

 一刀が、緩やかな勾配を登りながら視線を丘の頂上へと向けると、そこには、枝を大きく広げた一本の大きな木があって、みっしりと茂った青葉が、囁くような音を立てて風に吹かれていた。

「ふぅ……」

 一刀は額の汗を拭うと、白い外套(ロングコート)を脱いで小脇に抱えた。この外套は、神獣の革より造られた神代の物であるから、通気性に関しては何の問題もないのだが、如何せん、“上着を着ている”と考えるだけで、精神衛生上、とても宜しくない気がしたのである。

 

 そうして暫く、無言で丘を登り続けた一刀は、丁度、大木の木陰になっている辺りで足を止め、「へぇ……」と、感嘆の声を上げた。そこからは、眼下にある大きな城とその城内の町並み、そして、果て無く広がる平原と、遥か遠くに聳え立つ山々を一望する事が出来た。

「佳い眺めで御座いましょう?」

 

 一刀が、風景画から切り抜いてきたかの様なその光景に暫く魅入っていると、突然、視界の外から声が掛かった。一刀が振り向くと、大樹の根元に寄り掛かるようにして胡座をかいていた老人が、穏やかな微笑みを浮かべながら一刀を見詰めていた。

「えぇ。とても……」

 

 一刀がそう答えて、もう一度、視線を景観に向けると、老人は嬉しそうに白い髭を(しご)いて、自分の隣を手で示した。

「宜しければ、こちらにお座りになりませんか?木の幹が冷たくて、心地良いですぞ」

「―――では、遠慮なく」

 

 一刀は、一瞬の逡巡の後にそう言って、老人の横に腰を下ろした。老人の言った通り、木の幹は程良い冷たさで、夏の陽光で火照った一刀の背中を、瞬く間に冷やしてくれた。

 木陰である事もあり、風が吹くと、少し寒い位だ。

「ふぅ。本当に、良い気持ちですね」

 

 老人は、一刀のその言葉に満足げに頷くと、一刀がそうしていたように、景観に視線を向けた。

「若き頃より、此処が好きでしてな。よく兄と、遠乗りに来ていたものです」

「あぁ、成程。確かに、遠乗りの途中で休憩するには絶好の場所ですね」

「えぇ。田舎者ゆえ、この地から出た事も殆どありませぬから、此処におりますと、何やら、神仙の住まうと言う蓬莱山の頂きから、世界を眺望している様な心持ちになりまする」

 

 一刀は、『分かる気がする』と言う意味を込めて頷くと、腰にぶら下げていた大きめの竹水筒を外し、外套の内ポケットから、瑠璃色の盃を一つ取り出した。水筒の栓を取って盃に傾けると、透明な液体が、耳心地の良い音を立てて、盃を満たしてゆく。

 一刀は、それを一息で煽ってから、盃を軽く拭いて老人に差し出した。

 

 

「もし宜しければ、一献、如何ですか?」

「これはこれは、ご丁寧に……では、お言葉に甘えて」

 老人が盃を受け取ると、一刀はそこに酒を注ぎ入れた。老人は、少年の様に瞳を輝かせながら、波立つ液体を見詰めている。

 

「それでは―――」

 老人は、たっぷりと酒の注がれた盃を一刀に向けて恭しく掲げると、ゆっくりと口を付け、目を閉じて一息に飲み干した。

「あぁ……甘露……」

 老人は、瞳を開け、中空を見つめながらそう呟くと、はっと気づいた様な表情で、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「これは、お恥ずかしい所を……私は生来の酒好きなのですが、最近まで長患いをしており、盃を傾けるのは久方振りの事で……」

「そうでしたか。宜しければ、もう一献」

 一刀が微笑んで水筒を差し向けると、老人は「では、もう一献だけ……」と、照れ臭そうに言って、それを受けた。

 

「まったく、お恥ずかしい。こんな調子なもので、若い妻にも、知らずともよい酒の味を教えてしまいましてな。秘蔵の酒が瞬く間に減ってしまって、途方にくれた事もあるのですよ」

「それはまた……剛毅な奥方であられるのですね」

「ははは。なぁに、今となっては、微笑ましい思い出で御座います」

 

 老人は、白い歯をみせて朗らかに笑うと、一刀が水筒を差し出だそうとするのを手で固辞し、盃を返した。

「これ以上は、爺には身体の毒に御座いますれば―――さ、ご返杯を」

「そうですか、では―――」

 

 一刀は、素直に水筒を老人に渡すと、盃を差し出して酒を受けた。老人は、一刀が盃を空けるのを、穏やかな微笑みを浮かべて見守ると、再び景観に目を向け、不意に口を開いた。

「あの街道は、私の曽祖父が整備致しました―――」

 そう言って、節榑の立った太い指で、城から伸びる道を指差した。

 

 

「あの河は、私の祖父が。あの辺りの田園の開墾は、父が始め、兄がそれを受け継いで成し遂げましたので御座います。私は―――」

 次々と景観を構成している場所を指差していた老人は、不意に言葉を切った。一刀は、何も言わず、老人の指差していた場所を、ただ眺めていた。

 

「私は、次男坊でしてな。兄は文武に優れており、まさか自分が跡目を継ぐなどとは思ってもおりませんでした。若き頃より槍で身を立てようと思い定め、以降、武門一辺倒の無骨者で……結局、いざ政を任されてみれば、民に、何一つとして形のある物を残してはやれませなんだ……」

 老人は、そこでまた言葉を切ると、淡い雲の流れる空を見上げて、大きく一つ、息を吐いた。

 

(あまつさ)え、まだ年若き妻の両肩に、乳飲み児の娘とこの地と民を背負わせしもうた……先に逝かねばならぬ事など、初めから分り切っていたのに……」

「それは―――」

 老人は、一刀の言葉を手を挙げて制すると、再び視線を蒼穹へと戻した。

 

「まったく、情けない話で御座います。死が自分の喉笛に喰らい付いているのが解っているのに、それでも生に(すが)ってしまう。守らねばならぬと―――守りたいと、そう想うものが多ければ多いほど……。結局、潔の佳い死よりも、情けない生が欲しかった……。私は、そう言った意味で、武人にも向かなかったのでしょうな。だから、娘に約束をしたのですよ―――」

 

 老人は、そう言って、一刀の顔を正面から見据えた。

「“私は、お母さんには夫らしい事を、お前には父らしい事を、何一つしてやれなかった。だから、この身体が朽ちても、あの世へは逝かぬ。地獄へ往くのと引換えにしてでも天帝様にお願いをして、お前達を守って下さる方が現れるまで、お前達二人を守る”と―――」

 

 一刀は、老人の瞳から目を離す事が出来なかった。そこに燃えている、情念というにはあまりに優しく、執念と言うにはあまりにも誠実な、激しい炎から。

 老人は、暫く一刀の瞳を見詰めてから、ふと微笑んで、頭を垂れた。

「どうも、初対面の御方に、不躾な事を申しました。唯々(ただただ)、貴方様に一言、御礼申し上げたく思い、此処でお待ちしていたのですが、言わずともよい事まで口走ってしまい……」

 

「いえ、自分の方こそ……もっと早くに、ご挨拶に来なければならなかったものを、こんなに遅くなってしまって―――ご無礼をお許し下さい」

 一刀が、そう言って居住まいを正し、頭を下げると、老人は緩々(ゆるゆる)と首を振り、一刀の両手を取った。

「いいえ。こうしてお出向き頂き、盃まで頂戴致しました事、この爺、感謝に耐えませぬ。これで漸く、安心して逝けまする―――さぁ、もう、往かれた方が宜しいでしょう。どうやら、私達の密談を見られると厄介な者達が到着したようだ」

 

 

 老人は、一刀の肩を抱いて立たせると、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、城から伸びる街道に視線を向けた。一刀もそれに倣うと、馬に乗った二つの小さな人影が、城の門へと近づいて行く所であった。

 

「どうやら、そのようですね……では、またいずれ。必ず参ります」

「はい。また盃を交わせる時を、お待ち申し上げておりまする…………北郷殿」

 老人は、会釈をして去ろうとする一刀の名を―――名乗ってはいない筈の名を、ごく自然に呼んだ。一刀が、別段その事に驚きもせずに振り向くと、老人は両手を組んで高く掲げ、恭しく一刀に頭を垂れていた。

 

「北郷殿。どうか妻を―――いえ、“姪”と娘を、何卒、宜しくお願い申し上げまする」

「はい。必ず。この一命に懸けて」

 一刀は、老人に深く頭を下げてそう答えると、振り向く事もなく、丘の坂道を下って行った。一刀が去った丘の上には、唯、大木の葉が涼やかな風にその身を揺らす音だけが残されていた―――。

 

 

 

 

 

 

「うわぁ、きれー!!」

 璃々が、そう叫んで大きく瞳を見開くのを見た紫苑は、嬉しそうに微笑んだ。

「そうでしょう?此処は、お父様の一番のお気に入りだった場所なのよ。その中でも今の時間が、一番お好きだったの」

「そうなんだ!何だか、世界中に朱墨を振り掛けたみたいだね!」

 

 璃々の言う通り、紫苑の夫であり、璃々の父である人物が眠っている場所は、黄昏時の斜陽の光を受けて、全てが朱に染まっていた。じきに、東の空から夜の帳の藍色が染み出して来る事だろう。

 今はまだ、夏と言う季節の掛けた魔法が、それを阻んではいるけれども。

「ほら、あそこよ、璃々」

 

紫苑が、花と柄杓の入った水桶を持つのとは反対の手を挙げて、その場所―――大きな大木が葉を広げる丘の頂上―――を指差すと、璃々は、僅かに緊張したような面持ちで、母の顔を見た。

「あそこに、お父さんが居るの?」

「えぇ、そうよ」

 

 

紫苑は、短くそう答えて、少しずつ近づいて来るその場所を見詰めた。璃々を、この場所に連れて来たのは、これが初めての事だ。

 夫が逝ってしまってからと言うもの、育児と政に忙殺され、年に一度か二度、その合間を縫って一人で忙しなく掃除に来る程度が精一杯だったのである。―――いや、それは言い訳だ、と、紫苑は内心で己を諌めた。

 

 本当は、怖かったのだ。璃々を―――娘を此処に連れて来た時、娘に何を尋ねられるのかと、怯えていた。『お父さんは、どうしてここで寝ているの?』『お父さんは、どうして自分達と一緒に居てくれないの?』―――。

 そう聞かれたら、自分はどう答えればいいのだろう?どう言う顔をすればいいのだろう?寂しさと不安から、自分自身ですら、どこかで答えを出す事を恐れていた質問を、真っ直ぐに投げかけられた、その時に。

 

 夫が病に伏してから暫くの後、夜も深まった娘の部屋で偶然に見てしまった光景を、紫苑は今、ありありと思い出していた。あれは、夏の気配が近づいて来ていた晩春の事だった。

 娘の様子を確かめようと寝所を出て、隣にある璃々の部屋の前まで来ると、紫苑は部屋の中に人の気配を感じ、ふと立ち止まった。

 

どうして直ぐに扉を開け放たなかったのか。今では思い出せないが、兎も角、紫苑は、扉の取っ手を握り、中の様子を伺う様に僅かにそれを押し開いた。

そこには、行灯の光に照らされて我が子を抱く夫の姿があった。病に伏してからは、『璃々に“死の匂い”を嗅がせたくない』と言って、会う事を拒否し続けた夫が、愛おしそうに、胸に抱いた娘の頬を、痩せこけた指で撫でていたのである。

 

 声を掛ける事が、憚られた。夫の顔が、余りにも穏やかだったから。

 別に夜中だからと言って、夫の身体を蝕む病魔が眠りに就いた訳でもありはすまい。だと言うのに夫は、まるで健康だった頃と同じ様に穏やかに微笑んで、娘を見詰めていた。

「璃々……璃々や……」

 

 夫は、絞り出すように、囁きかけるように、まだ、言葉など解る筈もない娘に語り掛けていた。

「世界一可愛い、お父さんのお姫様……お前とお母さんを残して逝かねばならないお父さんを、どうか許しておくれ……。私は、お母さんには夫らしい事を、お前には父らしい事を、何一つしてやれなかった。だから、この身体が朽ちても、あの世へは逝かぬ。地獄へ往くのと引換えにしてでも天帝様にお願いをして、お前達を守って下さる方が現れるまで、きっとお前達二人を守る。だから、だからな―――」

 

 

 気が付くと、既に大木は目の前に迫っていた。全ては、あの時のまま。

風も、大木の青々とした葉も、その葉擦れの音も、その根元にひっそりと佇む、簡素な墓石も―――最後に参った時のままだった。

「あなた―――只今、戻りました。長い間、来れなくて、申し訳ありません」

 

 紫苑は、口に出してそう言うと、隣で押し黙っていた璃々の肩に手を置いた。

「さ、璃々。お父さんにご挨拶は?」

「うん……ただいま、お父さん……」

 璃々は、そう言うと、ゆっくりと小さな墓石に近づいて行き、その直前で足を止めて、不思議そうに首を傾げた。

 

「あれ……?お母さん」

「なぁに?」

 花を(そな)える準備をしていた紫苑が璃々の方を向くと、璃々は墓石を指差して、意外そうに言った。

 

「お父さんのお墓、お酒の匂いがするよ?」

「あら、本当に?」

 紫苑が、娘と同じ様に首を傾げて墓石に近づくと、確かに、酒の匂いが僅かに漂っていた。よく見てみると、墓石も僅かに濡れている。誰かが、酒を掛けたのだろう。

 

「お父さんのお友達が、偶々(たまたま)お参りに来て下さったのかしら?」

 だが、それなら、紫苑が留守にしているとは言え、黄家譜代の家臣も多く居る城に立ち寄っているだろう。先程、城に寄った際に顔を合わせるか、行き違いになったとしても、臣下の誰かが来訪者がいた事を教えてくれてもいい筈なのだが。

 

「お若い頃のお友達なのかも知れないわね……後で、城に戻ったら聞いてみましょう。さぁ璃々、お花を供えるのを手伝ってくれる?」

「うん!」

 母娘はそれから、黙々と花を供え、墓石を綺麗に掃除をした後、墓石の前に並んで跪き、長い祈りを捧げたのだった。

 

「さぁ―――そろそろ行かないと、暗くなってしまうわね」

 紫苑が目を開けてそう言いながら右手を差し出すと、璃々も頷いて、その手を握り返した。そうして、無言で坂を下っていた紫苑は、僅かな抵抗を感じて思わず足を止めた。

 隣を歩いていた璃々が不意に立ち止まり、後ろを振り返ったのだ。

 

 

「璃々、どうしたの?」

「うん、今……」

 『呼ばれた様な気がする』璃々は、そう言いかけて首を振った。どんなに耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは、丘を渡る風と、大木の葉の葉擦れの音だけだ。

「なんでもない。帰ろ、お母さん」

 

「そうね……ねぇ、璃々。今日は、何が食べたい?久し振りに、お母さんが頑張って、璃々の好きな物を作ってあげる」

「ほんと!?じゃあ、璃々ね―――」

 母娘の何気ない会話は、夏の風に乗って、木陰に佇む墓石を、優しく撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 世界一可愛い、お父さんのお姫様……お前とお母さんを残して逝かねばならないお父さんを、どうか許しておくれ……。私は、お母さんには夫らしい事を、お前には父らしい事を、何一つしてやれなかった。だから、この身体が朽ちても、あの世へは逝かぬ。地獄へ往くのと引換えにしてでも天帝様にお願いをして、お前達を守って下さる方が現れるまで、きっとお前達二人を守る。だから、だからな、璃々。

 

 お前が何時か、誰かの大きな腕の中で安らかに眠る事が出来るようになったその時に、私の―――お父さんの事は、全て忘れなさい。父無し子としてお前が味わった悲しみは、全部お父さんが、あの世までもって往くから。だから全部忘れて、お前を抱き締めて守ってくれる人を父と呼び、孝を尽くして慕いなさい。

 

 そして、前を向いて、真っ直ぐに生きて、幸せになっておくれ。どうか世界一、幸せに―――。

 

 

 

終劇

 

 

                        あとがき

 

 はい、今回のお話、如何でしたか?最早、毎回言っている様な気がしますが、今回も間に合わないのではないかと、ヒヤヒヤしながら執筆しておりました。特に今回は、秋口に公私ともにイベントがみっちり入ってしまい、もうダメかと本気で悩んでしまい……。

 結果、休閑話題として用意していた紫苑と璃々のお話を、一部改変してお送りする事に……本当は、原作ベースの短編を書こうと画策していたのですが(-_-;)

 

 え?怪談じゃないじゃないかって?いやぁ、お題の解釈によっては、ゴーストストーリーだからイケるかな~、何て思ったんですけど……ダメですかねぇ?

 さて、今回のサブタイ元ネタは、

 Tears In Heaven/ Eric Clapton

 

でした。

 愛する誰かを見送った経験のあるい人なら、必ずや心に響く珠玉のブルースです。斯く言う私も、三十も近くなり、何度かそう言う経験をしたので、本当に心揺さぶられます。

 プロットの段階では、もっと紫苑の心情にスポットを当てようかと思っていたのですが、やはり、所詮は私も男で、しかも若造なので、女性・母の心理にこれ以上迫ると嘘臭くなってしまいそうなので、今回の様な構成にしました。

 

 サブタイも、それに合わせて変更してあります。ちなみに、璃々に向けられたメッセージは私の敬愛する作家さんへのオマージュになっています。

気が付いた方はいらっしゃるでしょうか?ともあれ、本編最新話も、もうすぐ書き終わる所なんですが、如何せん時間がなく、もう暫くはお時間を頂く事になりそうでして……。

 申し訳ありませんが、今少しお待ちください。また、支援ボタンクリックやコメントなど、励みになりますので、お気軽に頂けると嬉しいです。

 

 では、また次回、お会いしましょう!!

 

 

 

 

 


 
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