三章 誇り高き堕落者 Valkyrie
ミントとの一件の後、僕達はすぐに家へと帰った。
今から僕達がするのは、堕天使を一人、殺すための算段。誰にも聞かれる訳にはいかない。
扉には鍵をきちんと締め、窓にもカーテンをする。声も潜め、万が一にも情報が漏れないように心がけた。
アルフレドと呼ばれる堕天使の影響力は強く、いわばこの「反乱」の話が奴の配下に知れれば、すぐにでも殺されかねないという。
もちろん、天使の不死性を守るため、アルフレド自身が悪魔を殺すことはない。他の悪魔に命じて殺させるのだろう。
「普通に考えて、奴を殺す方法は二つ目のものを選択することになる訳だが、かつて大天使と呼ばれた者なら、そう簡単には死なないように出来ている。お前の槍一本では頼りないけど、他に神器はないのか?」
こういう時、失われた僕の宝剣が惜しいが、あの河の底に沈んでしまっていれば、もう宝剣としての力は失われていることだろう。レヴィアに頼んで拾って来てもらったとして、役に立つとは思えない。
「他の堕天使は、大体がアルフレド側だから……。同じワルキューレを頼ろうにも、わたし以外に堕落したワルキューレなんていないしね」
「……そうなのか?天使と似通った存在なら、神に反逆するとかで堕落する奴もいそうなものだけどな」
「オーディン様は、わたし達にしてみれば仕えるべき主君であると同時に、家族……父親みたいなものだから、基本的に反乱なんてないんだよ」
でも、ミントはこうして地獄にいる。こいつが異端の存在なのか、むしろ正常なのか……異教の神の話はよくわからないな。
「ところで、お前のその槍は、本当に神器なんだよな?僕は見た目から勝手に神器だと思い込んでいるんだが」
「うん。それは間違いないから、安心して。もちろん、オーディン様のグングニルほどではないけど、そこらの神器より、よっぽど素晴らしい槍だから。銘はないんだけどね」
「まあ、本当の名品は名前もない武器なことも多いからな……。一定以上の格の天使は、皆名無しの神器を持っている。一応、僕のあの剣もそうだ」
「そっか……あれがなくなっちゃったのは、惜しいね」
「本当にな。僕も槍は使えないことはないが、一本しかないのはかなり痛い。現実的に考えるなら、なんとかしてもう一本神器を手に入れる必要があるな」
堕天使から奪うか、僕の剣をどうにか浄化……は無理だろうな。堕天使となった僕にどうこう出来る物とは思えないし、あの剣が今どうなっているのかもわからない。
「そっか……一応、心当たりはあるんだけど」
「なんだ?僕はどの武器でもある程度は使いこなせるつもりだが」
「剣と、斧。ただ、出来れば頼りたくないの」
「どういうことだ?お前としても、かなり切羽詰まっているはずだ。それでも尚、渋るほど使いづらいのか?」
「うん……だって……」
*
地獄の一角。バハルド、レヴィアの兄妹はそれぞれ一件ずつ家を持っているが、大抵はレヴィアがバハルドの家に来ている。
理由は、広い家に一人でいると、どうも居心地が悪くて、一人で眠れないからだ。
「……お兄ちゃん。ちょっと出かけてくるね」
「またミントの家か?最近よく行くなぁ」
「うん……。また、エリス様に会えたら良いな……」
エリスに褒められたロングスカートをはき、鏡を何度も見て髪型をセットして来た。
以前、彼に助けてもらってからレヴィアは、もうエリスのことしか見えていなかった。ミントの家とは言うが、目的は完全にエリスであり、もしミントしか家にいなければ悲しまずにいられる自信がない。
「にしても、お前が俺以外の男と自発的に話して、好きになる日が来るなんてな……。正直、信じられないぜ」
「そう……?でも、あたしもいい加減男の人が苦手なのは直そうと思ってたから。エリス様に出会えたのは、そんなあたしにとって、運命だと思うの」
「運命の王子様って訳か?……それにしてはちょっと、ひねくれ過ぎているけどなぁ」
「そんなこと、ないよ。エリス様はすごく優しくて、本当に理想の男の人」
「そうは思えないけどな……。まあ、天使の男なら、悪魔よりは安心して妹を送り出せるけどな。……おっと、結婚とかそういう話はなかったか」
少し意地の悪い兄のからかいに、律儀にレヴィアは赤面する。男も苦手なら、冗談も苦手だ。
「じ、じゃあ、もう行くからっ」
「気を付けてなー」
今日は手ぶらではなく、ちょっとした手土産もある。いつもより少し明るく、得意気な顔でレヴィアはエリスの下へと歩き出した。
*
「あいつ等が、か……」
この地獄に、僕の常識を適用してはいけない。そうずっと思っていたが、これはいよいよクレイジーだ。
しかも、これもまた神が創造した仕組みだと言うのなら……僕達の神は、一体どれだけ悪趣味なんだ?本来は信仰する神の正気を疑ってしまう。
「ベヒモスとレヴィアタンは、人を脅かす怪物ではあるけれど、同時に終末の時のための非常食であり、神にとっての最終兵器なんだよ。……だから、その気になれば最高の神器にもなる」
地獄にあって、天界で使われている神器よりも更に強力な神器の始祖は、ベヒモスとレヴィアタン。つまりは、バハルドとレヴィアそのものだという。
天使が使う神器は全て、彼等を模した量産品であり、その力は三分の一にも満たず、時の流れと共に武器に宿った神聖な力は失われるのだと、ミントは語った。
僕のような若い天使だけではなく、多くの先輩天使も神器が永遠の物だと信じていたのに、とんだホラ話だ。こんなことがわかってしまっては、神器のありがたみも何もない。ただ、酷く裏切られた気持ちだけが残る。
「その、あいつ等を神器として使う場合、どうすれば良いんだ?やっぱり……」
「ううん。二人は不死の存在。一応、ベヒモスは餓死、レヴィアタンは感電で死ぬってことになってるけど、そんなことをする必要はなくて、ただ本人達が武器になろうと思えば、それだけで良いんだよ」
「意思の力で、神器になるのか?」
「そういうこと。ただし、神器もあくまで道具。刃こぼれをしたり、折れたりすることもある。そして、それは当然、本人達にフィードバックされるの。……絶対に消えることのない、永遠の傷としてね」
本当に、えげつない話だ。神は自分の創った二人に、愛着なんてなかったのか?
それとも、ただ道具として割り切って双つの命を創ったのだろうか。わざわざ武器ではなく、最強の怪物として二人を。
どちらにしても、もう僕は神を純粋な気持ちで信じることが出来ない。
「使えば使うほど、傷が刻まれて行くのか……。それなら確かに、おいそれとは使えないな……」
もし刃が欠けたり、折れたりしたら、それは彼等の体が欠損することを意味するのだろうか?
全く初めて戦う、しかも恐らく僕より強い奴を相手に、武器を傷付けずに戦うなんて、僕にはとても出来ないし、心理的にも難しい。
その線は、ほとんどないものとして考える他ないか。
「他には、まだないのか?神がまだ何か残していそうだが」
「後は……神器じゃないけど、セレスの牙。基本的にはケルベロスって、天使よりも上位の存在だから効くと思うんだけど」
「セレストの牙?確かにあいつには八重歯があったが、あんなので噛み付くのか?」
「ううん。本当の牙とは別に、セレスがいつも使っている鞭を戦闘用に改良したような剣があるんだよ。あれに神の力があるかは、正直微妙なんだけど、特別な魔剣とは言ってた」
「いまいち、決定打に欠けるな……。天使は多分、お前等が考えるよりずっとしぶとくて、死ににくい存在だ。ちょっと魔力があるぐらいで殺せる相手じゃない。僕達の神ではなくても良いけど、神と呼ばれるだけの力を持つ者の力がないと」
そうなると、やはり使える武器はミントの槍一本だけとなる、か。
あの槍の質は決して悪くはなくても、相手は今までミントが正面対決を避けていたほどの強敵だ。なんとか神器の頭数は揃えておきたいところだが……。
この地獄か完全に閉鎖された世界ならば、新たに神器を持って来ることは出来ないし、神器は天使や悪魔が作れるものじゃない。修復ぐらいなら、堕落していない天使なら出来るが、僕はもう堕天使の身分だ。
「ミント。お前は、ワルキューレって話だったな?実際のところ、どの程度の実力があるんだ」
戦備の増強が無理なら、せめて今ある戦力を完全に把握しておく必要がある。
とりあえずミントがワルキューレという戦士の魂を導く存在だというのはわかったものの、異教の神やその従者の実力など、僕が知る由もない。ただ漠然と、ワルキューレ自身もそれなりの武力を持った戦士だと聞く程度だ。
「わかりやすく言えば……多分、あなたには本気を出しても勝てない。けど、あなたを十回ほど切ることは出来ると思う」
「僕より少し劣る、か。自己評価でそれなら、もう少し甘く考えて僕と同等。僕が大した格も持たない一介の天使に過ぎないから、相手との実力差は相当あるな。正面からぶつかればお前も僕も殺されるだろう」
「うん……。だから、出来れば暗殺がしたかったんだけど、まさか神器を使ったとしても、何百回も切らないといけないなんてね……。希望の芽が完全に摘み取られた気分」
いつもは不敵に笑っているミントだが、さすがに状況の悪さは精神的に堪えているらしい。弱々しい表情で、疲れが見える。
それは僕も全く同じだな……。手伝ってやると安請け合いしたは良いが、圧倒的不利を覆すには武器も、人も、情報も少ない。しいて言えば、時間はあり余っているけどな……。
「お前的に、アルフレドを放置、というのはありえないんだよな。他の小さい問題を解決して行っても、結局はジリ貧か」
「そう。このままだと、そう遠くない未来に地獄の覇権はあいつが握ることになるよ。そしたら、あいつに従わない悪魔は殺され、人間は更に残虐な罰を受けることになる。……実際、あいつはもうサタン様の心臓を握っているようなものだよ。その気になれば、いつでも殺せるくらい」
「……いや、サタンも確か、堕天使だろ?それに、神に最も近いとすら言われた大天使だったはずだ。簡単にやられるとも思えないが」
「そうだね……けど、もうサタン様の周りに味方はいないんだよ。それで、さっきも言ったけどあいつの仲間は堕天使ばかりで、多分それぞれが神器を持ってる。寄ってたかって攻めれば、何千回でも切れちゃうでしょ?」
なるほどな……。かつての大天使、そして今の地獄の支配者も、一度クーデターに遭えば一瞬で崩れる訳か。サタン自身も神へのクーデターを画策したが、自分のしようとしたことで死ぬかもしれないとは、因果応報という言葉を意識させられる。
しかし、そんなに簡単に下剋上をされても面白くない。絶対に人の下に就きたくない僕としては、そんな独裁的な政権、ありえないし、個人的感情でも絶対に阻止したいな。……それが容易に出来ない事実はあるが。
「今から反乱軍を作ろうって訳じゃないが、お前がそこまで敵視するほどなら、アルフレドを快く思わない奴も多いんだろ?そいつ等を集めるのは有効なんじゃ……ないか……。結局、神器とその使い手がいないと」
「問題はそこ、なんだよね。わたし以外にワルキューレはいない、残りの神器はレヴィア達だけ……。こうなったら、なんとかしてあいつに手を汚させたいんだけど」
「自分の弱点を知っている以上、そんな失態は犯さないだろうな。……僕はちょっと、自分を見失いかけていたが」
悔しいが、相手の方が僕より老練で、落ち着いていることだろう。怒りを煽って、という作戦も通じそうにはない。やはり、神器で殺す手段しか選べないだろう。
ノーリスクで僕も神器を使えれば、部下の堕天使を倒して、その神器も利用して何とか出来そうなのだが、一つしか神器がないとなると、そうも強引な方法ではいけない。ごり押しではなく、慎重策でなければ。
「……まあ、今日のところはこれぐらいにしとこう?わたしももう少し、本当に神器がこれ以上ないのか、調べてみる」
「ああ。これ以上考えても、名案は出なさそうだな。僕は……相変わらず、特に何も出来ないか」
「ふふっ、たっぷり休んで、英気を養ってて。エリスは色々な意味で切り札なんだから」
「切り札、か……」
僕がどれだけの戦力になるって言うんだ?今も結局、まともに力になることは出来ていない。食事はしていないのでちょっと違うが、これではただの穀潰しだ。
ミントがどうやら本当に僕を助けてくれるらしいことがわかった今、そんな現状がすごく申し訳なくて、横になっても眠られず、ただぼんやりと天井を見上げていると、またあの控えめなノックの音が聞こえて来た。
こんなノックをする奴、僕は一人しか知らないし、多分そいつで合っているだろう。
いつもなんとなく僕が応対に出ているが、今日はミントが出て、家の中へと招き入れたようだ。
気弱な来客のために、僕も寝室から出て来て居間の椅子へと向かう。やって来ていたのはやはり、薄い水色の髪の人魚で、今日はいつもと違って手に小さな包みを持っていた。土産だろうか?
「あ、エリス様……お久し振りです」
「久し振り。確か、三日分ぐらい会わなかったか?」
いよいよ、僕の時間の感覚もおかしくなって来た。
ミントの話では、こんな風に時間がわからなくなる時期を経て、ぱっと時間経過のわかる体になるらしい。……適応力は本当に恐ろしいな。
しかし、今日も安定してレヴィアは可愛い。僕が今まで会って来た他の女も、確かに美人だとは認めるが、一番の好みはレヴィアだろう。見る度に、本物だという気がする。
「あれ、それってお土産?」
「う、うん……。ごめんなさい、ミントちゃんじゃなくて……」
「とすると、僕にか?」
「はいっ。あの、受け取って頂いても……」
「ああ。突き返す理由なんてないしな」
当初は、どこまでも控えめで気弱なところが面倒臭い気もしていたが、慣れればそこもチャームポイント、可愛さを引き立てる要素にまで昇華される。
受け取った包みを開いて、中をあらためてみると……なんと、人形が入っていた。
人形と言っても、布や木で出来たものではなく、毛糸で編まれたものだ。そう言えばレヴィアの兄、バハルドに初めて会った時、レヴィアが最近編み物に凝っているという話をしていたな。
かなり精巧に出来ている人形で、レヴィアの手先の器用さと集中力がよくわかる代物だが……いまいち何をモデルにしているのかわからない。とりあえず人型ではないし、何か動物……。魚のようにも見えるが。
「……ミント、これ、何だ?」
出来るだけ小声で、本人ではなくミントに尋ねる。長い付き合いなら、何かわかるかもしれない。
「えっ、わ、わたしに振られてもっ。だって、レヴィアはこういう芸術のセンスは本当にぶっ飛んでて、わたしみたいな凡人にはわからないよ」
「そうか……。レヴィア、ありがとう。大事にするよ」
「あ、ありがとうございますっ。気に入って頂けて、幸いです……」
もしかすると、これは伝承にあるレヴィアタン……いや、手足がある。しかも顔は魚類のそれで、尻尾まである。何だ?これは何の生き物なんだ?そもそも、実在するのか?
全くわからない……いや、わからないからこそ、芸術なのかもしれない。ただ、悪い感じはしないし、レヴィアの一生懸命さも伝わって来る。高次の芸術とは、頭ではなく心で理解するものなのだろう。きっとそうに違いない。
……やや無理矢理に自分を納得させて、レヴィアの人形はとりあえず寝室に飾らせてもらうことにした。なんとなく快眠効果もありそうな気がする。ここまで来るとオカルトの域だが。
「それにしても、良いタイミングだったね。わたし達、ついさっき帰って来たとこだったんだよ」
今日も今日とて、ミントがお茶を用意する。僕は相変わらずパス、ただし席には座って、会話には入って行くつもりだ。
「そうだったんだ……良かった。二人とも、おかえりなさい」
「うん、ただいま。あー、でもわたしはまたすぐ、外に出るんだよね。エリスは家にいてもらうけど」
「そうなの?」
「みたいだな。まあ、ここのところオーバーワーク気味だったんだ。僕だって休息ぐらいもらえないとな」
ミントとの戦いや、アルフレドへの対策の話は、やはり避けるべきだろう。
僕が神器を欲していることを知れば、レヴィアは自らを神器へと変え、使われることを望むかもしれない。……でも、僕はそれが嫌だ。
だから、余計な話はしない。レヴィアのことを想うからこそ。
「じゃあ、ミントちゃん。しばらくお家に置いてもらっても良い?」
「エリスと一緒が良いの?わたしは構わないよ。ベッドもわたしのを使ってもらって良いから」
「ありがと……。エリス様、良いですか?」
「ああ。ミントより百倍は良い同居人だな」
それにしても、本格的にレヴィアは僕のことを好いているのか?さっきの人形もそうだし、僕に接する態度が明らかに通常のそれと一線を隔している。
最初は嫌われているのかもしれないと思っていたが、どうも逆なようで、積極的に僕に近付こうとしているみたいだ。
僕もレヴィアのことは嫌いじゃないし、その懐き方はセレストのようにべたべたしたものではなく、ミントのようにどうも掴みづらい感じでもない、一番話していて疲れない相手だろう。悪い気持ちはしない。
「でも、レヴィア……お願いだから、わたしの家で変なことしないでね?この家、結構わたしなりに拘って建ててもらったんだから」
「レヴィアが家を壊すとでも言うのか?それはないだろ」
「いつものレヴィアでいてくれれば、そうなんだけどね……。あー、嫌な予感がする。そして、わたしの嫌な予感は大体当たる気がする。帰って来た時に家、ちゃんとあるかな……」
おいおい、なんて失礼な奴だ。今まで少しミントの株が上がって来ていただけに、今度の株価暴落は少し尋常ではないぞ。
見てもわかるように、レヴィアは大人しい性格だし、いくら伝説の「最強の怪物」とはいえ、女だし力は弱い。家を滅茶苦茶にするほどの強力を見せるはずがないだろう。
現にレヴィアを見てみると、困ったような顔でこちらを見返して来た。全く、根も葉もない言いがかりはやめてもらいたいな。
「エリス様達は、どこに行かれていたのですか?」
お茶が入り、少し落ち着いた辺りで珍しくレヴィアから話を振る。ミント達じゃなく、僕達なところに逆転し始めて来たレヴィアの中の優先順位が窺い知れるな。
「ちょっと、エバンのところにね」
「あの、風の強い?大丈夫だった?」
「うん。わたし達は何もなかったんだけど、ちょっと、セレスがね」
「セレスちゃんもいたの……?」
エバン……愛欲者の地獄の管理人のあの男だろうか。あいつとはほとんど会話もなかったが、なんとも頼りなさそうな奴だったな。逆に親しみやすいのかもしれないが、管理人ならベレンぐらい事務的でも問題ない気はする。
「あいつのスカーフが風にさらわれたとかで、見つけてやってたんだ。どういう訳か僕は、あいつに告白されてしばらく話し込むことになったけどな」
「……告白?」
「ああ、あいつ、僕に懐いて来て。……迷惑な話だ」
別に、嫌いという訳じゃないけどな。ただ、僕は一目惚れのような勢い任せの恋は信じない。恋とはもっとこう……崇高なものであるはずだ。僕自身、まだ経験したことはないが。天界では基本的に独りだったし。
「はぁ……。エリス、今のは明らかに地雷だったよ……」
「ん?別にセレストとレヴィアの仲が悪い訳じゃないだろ?」
「だけど……。はぁ、さようならわたしのマイハウス……こんにちは野宿生活……」
……なぜだかミントが勝手に悲嘆に暮れているが、不安定な時期なのか?
「そうでしたか。セレスちゃんが……」
「もちろん、断ったけどな。相手があまりに幼かったのもあるが、僕には恋愛をする余裕なんてないし、するつもりもない。何度も言ってるけど、いつかはこの地獄を出るつもりだからな」
かと言って、そう簡単に脱出することが出来ないというのも、既にわかってしまっている。
ミントの問題もあるし、僕は今まで十分過ぎるほど、この地獄が理不尽に出来ているのかを見て来た。それにはレヴィア達兄妹のことも含まれる。
それ等を全て改善する、なんてことは僕やミントだけの力では難しいが、少しは良くしないと、僕も安心してここを去れない。……ここにいる悪魔や罪人のことを思いやるなんて、我ながらどうかしている気もするけども。
「そうでしたか……」
「……いや、ちょっと遊ぶぐらいなら良いけど、な」
僕に好意を持つのはセレストもそうだが、レヴィアもだ。少しデリカシーのないことを言ってしまったな。
気休め程度のフォローを入れるが、表情は晴れず、どことなく場の雰囲気も暗く、湿っぽいものになる。……さっきからミントが声もなく泣いているし。
と言うかあいつ、いつまで原因不明に落ち込んでいるんだ。破滅の未来でも予知してしまったのか?
「おい、ミント……」
「うぅ、こんな家にこれ以上いられるかっ。わたしはもう行かせてもらうから!」
「こんな家って、お前の家だろ……」
紅茶を一気にがぶ飲みすると、片付けもしないで本当に家を飛び出していってしまった。
いつもは後片付けや客への応対はちゃんとする奴なのに、そんなに切羽詰まっているのか?あいつのことはまだまだ謎が多いな。
――何はともあれ、これでこの家には僕とレヴィアだけが残されたことになるのだが、途端に静かになってしまう。
お互いに何かを話す訳でもなく、時々相手の方を見ては、部屋の適当なところに目を向ける。なんとなくその繰り返しばかりだ。
ここで、僕の女性慣れしていないところが露呈してしまっている気がしてならない。
一応、天界では一人だけ女の友達もいたが、そいつはミントみたいに結構自分から話すタイプで、天使には珍しい性格だった。だからこそ、はみ出し者だった僕と波長が合ったのかもしれないが、そのせいで地獄に来て女性への接し方がわからないとは。
別にレヴィアは、適当に僕が話してもそれに合わせてくれるだろう。でも、セレストの時にも言った通り、僕は無理矢理合わせる関係というのが嫌いで、そういうものは遠からず破綻すると考えている。だから、出来れば相手に無理をさせず、かと言って僕の負担も少ない最良の道を選びたい。
「レヴィア。さっきはあっさり流したけど、人形ありがとう。本当に器用だな」
「……は、はい。ありがとうございます」
とりあえず、もらった人形の完成度は本物だし、それを褒められても悪い気はしないだろう。実際、誰かに打算抜きでプレゼントをもらったことなんて、今まであっただろうか?……いや、きっとないだろう。天界とはそういうものだ。
天界に昇ることの出来た人間は、天使に気に入られて、自分も天使と同格になろうと必死だ。そのためには賄賂も辞さない。
人間や地獄の悪魔達には素晴らしい夢の国、とでも伝わっているのだろうが、実際のところ天界は地上と同じく様々な思惑が交錯し、混沌としている。それでも、神のお膝元だけあって住み心地や天使の待遇は良いが。
「そう言えば、編み物以外に趣味はないのか?」
「趣味、ですか……。えっと、水泳と、お菓子作りと、刺繍も好きです」
「本当に多趣味だな……。何かに没頭出来るなんて、羨ましい」
「そ、それはその、あたしが単純なので……」
「けなしているんじゃない。僕には趣味と呼べるものが出来たことがないからな。素直に羨ましいと感じるんだ」
全能に近い天使は、やろうと思えば何だって出来る。不可能はないし、どんなに困難に思えることでも、苦労することがなく出来てしまう。だから、努力や没頭という概念が存在していないに等しい。
もちろん、戦いだけはその限りではなく、むしろ普通より上下の差がはっきりとしているぐらいだ。
……その差を覆すのは、本当に不可能に思えてしまうことで、僕自身これからどうすれば良いのか、どうなるのか、全く見通しが立っていない。
そんな中、レヴィアと二人で話せるというのは、精神にとって非常に良いことに思える。
はっきりとものを言えない相手だし、時にもどかしくも感じるが、中々話さないということは、それだけ慎重に言葉を選び、僕のことも気遣ってくれているということだ。
言外の心遣いが嬉しくて、心地良くて、雲が差し込めていた心も晴れ渡って行くみたいですごく気分が良い。
「しかし、お菓子なんて作れるのか?地獄にまともに食べ物はない気がするが」
地獄の食糧と言えば、大きな果樹に実る赤い木の実ぐらいしか僕は知らない。リンゴにも似たそれは、甘くて水分も多く、不思議とよく眠れる効果があるという。……結構危ない代物なのかもしれないな。
「はい。禁断の果実の他に食べ物はありませんが……それを加工してお菓子にするんです」
「禁断の果実?あのフルーツはそんな名前なのか。……でも、あれはリンゴみたいなのだったし、どうお菓子を作るんだ?焼くぐらいしか思いつかないが」
「そうですね……。でも、禁断の果実の葉はご存知の通り、お茶になりますし、木の皮を細かく刻んで生地を作れば、パイやパンも焼けます。幹を傷付ければ、砂糖水も流れますし」
……何?ミントがいつも淹れているお茶は、そんな風に出来ていたのかっ。しかも、皮でパンが焼けるって、どれだけその禁断の果実の木は高性能なんだ。それだけじゃなく砂糖まで取れるとは……。
確かに、それだけ材料があれば色々と調理しがいもあるだろうな。ミントは面倒なのか、料理が苦手なのか、果実をそのまま齧っていたが。
「今度、何かお作りしましょうか?……あ、でもエリス様は何も食べなくて良かったんですよね……」
「まあ、そうだけど、食べられない訳じゃないからな。作ってくれるなら、ありがたく食べさせてもらうよ。……何事も経験だ。地獄の料理を食べてみるというのも悪くはない」
「本当ですか……?」
「あ、ああ」
きらきらとした瞳で見つめられ、なぜか緊張してしまう。こいつ、こんな顔もするんだな……。
その顔があまりに眩しくて、長らく光を見ていなかった目が焼き付くみたいだ。
「では、また今度、お土産に持って来させてもらいますね。ミントちゃん、あんまり道具を揃えていないので」
「がさつな女だからな。その癖にお茶だけは絶対飲むし、おかしな奴だ」
「好きなんでしょう。禁断の果実の葉のお茶には、依存性がありますし」
……やっぱりかなり危険な木だな。ある意味地獄らしいが。
「しかし、ワルキューレがお茶の中毒者と言うのも、変な感じだな……」
「っ!……エリス様、ミントちゃんの正体をご存知なのですか?」
「正体って言うのか、あれ?まあ、あいつがワルキューレとは本人の口から聞いたな。そんなに驚くことなのか?」
「はい……ミントちゃん、あたし以外には話したことないはずです」
そこまでなのか。まあ、ワルキューレなんて悪魔でも天使でもない、微妙なところだからな。不用意にばらせば、誰からも迫害される危険性がありそうだ。慎重になるのも道理かもしれない。
なら、僕もおいそれとは漏らさないようにするべきだな。あいつはただでさえ、自分の立場が危うくなりそうなことをしているのだから、世話になる側である僕がそれを更に悪化させるなんて、悪い冗談だ。
「ん?でも、セレストも知ってそうだったが」
僕とミントが刃を交えている場に、あの犬もいた。特に驚く様子はなかったが、あの槍ぐらいならワルキューレの証拠にはならないし、知らなかったのかもしれないな。
「セレスちゃんが知っているのは、当然ですよ。セレスちゃん……つまりケルベロスは、地獄の支配者でこそありませんが、門番としてあらゆる悪魔の上に立つ存在です。全ての情報を掌握しているはずです」
「何?あいつ、そこまで偉い奴だったのか?」
「偉いも何も、あたしもミントちゃんも、セレスちゃんの部下みたいなものですよ……。それに多分、エリス様も部下になると思います」
「こ、この僕があの駄犬の部下!?馬鹿なっ。あんな子どもみたいな姿をした奴に……」
「ついでに言えば、調教師のベレンさんも部下になります。一応、職業上強気な姿勢ではいますが、セレスちゃんがそのつもりならクビにされたりもしますね」
……あの時、あいつが怖がらない僕を評価したのは、そういうことだったのか?でも、あいつは冷たくされ、暴力を振るわれたりもしたと言っていたし、とてもではないが上の立場にいるとは思えなかったが……。
「でもあいつ、セレストは他の悪魔から暴力を振るわれたりもしたんだろ?」
「見た目があれですので……。でも、後からセレスちゃんの正体を知った人は皆、彼女になぶり殺される前に自決の道を選んでいます」
「じ、自決……」
およそ恐れというものを知らなそうな地獄の悪魔どもが、自ら命を断つほどあいつの拷問は酷いのか……?そりゃ、あんな鞭で打たれることは考えたくないが……実際に受けたら、死にたくなるほどの苦痛なのかもしれない。子どもに見えて、相当恐ろしい奴だったんだな。
「でも、お前達は気軽にちゃん付けをして呼んでいるな」
「変に畏まられるより、セレスちゃんはそれぐらいフランクな方が好みなので。それに、スイッチが入らなければ優しい子ですよ」
「入ったら、たちまち狂犬か……」
とりあえず、セレストだけは敵に回してはいけない。覚えておこう。告白して来るほどだったが、愛が憎しみに変わるようなことがあれば、眠れない日々を送ることになりそうだ。……想像するだけで肝が冷える。
「……そんな話は良いですが」
「良いのか?」
「良いんです」
僕の気のせいだろうか?セレストの話に入ってから、どうもレヴィアの機嫌が悪い気がする。
言葉には現れていないが、顔は苦虫を噛み潰したようなそれで、あまり話したくはないようだ。まあ、まるで違うタイプだし、無理もないか。
「エリス様はどれぐらい、ミントちゃんについてご存知ですか?」
「どれぐらいって……。ワルキューレで、自分から堕落したらしい。持っている槍は神器、ってところだ」
「では、どうして堕落したか、は……」
「知らないな。天使が自分から地獄に落ちる理由なんて、神が気に入らないからとか、更なる力を得るためとかだが、あいつもそうか?」
どんな理由にせよ、それこそ滅多なことでは話さないだろうな。僕のような冤罪ならともかく、あまり自慢げに話すことでもないだろう。
ただ、そう言われてみると興味も湧いて来る。あまり単純な理由とも思えないし。
「そうですか……。あたしは知ってますけど、ミントちゃん本人が言いたい時に言うべきことですから、あたしから話すのはやめておきますね。……でも、ミントちゃんは多分、他の誰よりも誇り高い堕落した存在だと思います。これだけは、覚えておいてあげて下さい」
「誇り高い、か。それなら僕も負けるつもりはないが、堕落したのは僕の意思じゃないからな。ちょっと違うか。――まあ、あいつはそんなところがありそうな気はしていたな。迷いがないと言うか」
アルフレドの件にしても、確固たる意志を持っているからこそ、早速行動に移ったのだろう。天界で無為に生きて、それでも他に埋もれたくはないと考えながらも、まるで何も出来ていなかった僕とは大違いだ。……それを認めるのは、僕自身の天界での生活を否定することだし、辛いことだが……認めないといけないだろう。
「エリス様……?」
「ちょっと考え事をしていただけだ。地獄での生活は、そんなに悪くもないっていう、な」
「……そうですかっ。嬉しい、です」
「ああ、僕の天界での暮らしは何だったんだ、って思えるよ。……ははっ」
自分の中で、世界が反転して行くのを感じる。今までは天界を恋しく想うことしかなかったが、その想いがぐらつき、壊れ、裏返って行く。
何が理由か、はっきりとしたものがある訳ではない。あるとすれば、日々の積み重ね。ミントに地獄を連れ回され、レヴィアと話して行く内に、僕の地獄観、天界観が、完全に逆転したのだろう。
――地獄は本当に地獄で、天界は本当に天界か?地獄が理想の国で、天界が醜悪の限りを尽くした無法地帯ではないか?
しかし、仮にそうだとしても……今の地獄は、確かに地獄だ。僕はこの目でアルフレドの行う理不尽な支配を見た訳ではない。でもきっと、確かに奴は地獄を悪い方向へと導いていて、あちこちにその影響は出ているのだろう。
安全対策がなっていないのは、元からな気もしないでもないが……関係があっても不思議ではない。
「そうだ。レヴィア、最近、地獄の治安は悪化しているのか?」
自分一人で考えていても、仕方がないことだろう。そして、今は僕が手放しで信用出来る悪魔が一人いるんだ。話を聞かない手はない。
「治安、ですか……。あたしが知る限りだと、下の方の地獄のマレブランケと言う悪魔の半数が失踪したという話があります」
「そう言えば、そういう奴等もいたな。僕達が行った時はまだ健在だったが、その後に消えたのか?」
「みたいです……。ただ、人探しはミントちゃんのお仕事ではないので、話が届いていないのかと。お兄ちゃんが結構な情報通なので、知ることが出来ました」
「なるほどな」
地獄がアルフレドに侵食されているわかりやすい証拠の一つ、だろうか。
マレブランケとは、古くから地獄下層で人間に責め苦を与えている悪魔達と聞いた。古参の悪魔ならば、サタンにも従順なことだろう。それでは都合が悪いから、始末されるなり、監禁されるなりしたのかもしれない。
時間はまだまだあると思っていたが、もうあまり猶予はないのか?……なら、僕も何かしら行動を起こしていかないと。
「レヴィア。ならちょっと、お前の兄に調べ物をしてもらって良いか?」
「は、はい。エリス様が望まれるのでしたら、どんなことでも」
「この地獄に、簡単に手に入りそうな神器がないかを調べて欲しいんだ。僕の剣はもう失われてしまったからな。その代わりが欲しいんだ。ただ、僕が常備するためのものだ。あまり大層なものでなくて良い」
あまり下手な注文をしてしまっては、今この場でレヴィアが神器となった自分を差し出してしまいかねない。まさかずっと神器になってもいられないのだし、こう言っておけば変なことにはならないだろう。
「わかりました。……簡単には見つからないと思いますけど、あたしも気にするようにしますね」
「ああ、頼む。そんなに急がなくて良いけど、バハルドにも伝えて欲しい」
「それなら、もう終わりました」
「え?……そうか。心が伝わるんだったな」
どれだけ離れていても、心で通じ合えるとは、さすがに世界最古の双子は違うな。それはそれで不便そうだが、これだけ長い時間連れ添って来た兄妹なら、今更隠し事もないのだろう。
「……エリス様」
「どうした?」
「あたしを頼ってくれて、ありがとうございます」
レヴィアと言うより、どちらかと言えばバハルドを頼ったのだが、僕を見る表情は明るくて、本当に幸せそうなものだった。
このまま蕩けてしまいそうなぐらいの笑顔で……笑顔らしい笑顔をしたことがなかった僕も、釣られて笑っていた。地獄に来てから……いや、天界での暮らしが「当たり前」になってから、初めての笑顔だろうか。
「まさか、地獄に来て二人の女に好かれて、一人にはこんな笑顔を向けられるなんてな……」
僕の人生も、数奇なものだ。堕天使になるという時点で、天使の本来の人生の筋書きから大きく外れてはいるが、このまま地獄にいても良い、なんて考えが生まれて来るなんて。
そして、地獄を想えば想うほど、ミントに協力しなければならないという義務感も湧いて来る。
当初は絶対にありえなかった考えを持って、僕はレヴィアと一緒にミントの帰りと吉報を待った。
「エリス!いる!?」
ノックもしないで家に入って来たのは、この家の持ち主……ではなく、ピンク色の髪のツインテールが印象的な少女。いや、犬だ。
ミントが出て行って、レヴィアの体内時計によればまだ二日ほど。帰りが早いと思ったらこれだ。別にセレストを嫌ってやる訳じゃないが、軽く落胆する。
「なんだ?僕はどうせ、中途半端に外出したら迷うだけだし、ずっと家にいるが」
「良かった会えたー……って、レヴィアもいるんだね」
「ああ。愛を語らってたからな」
「にゃっ!?まさか、エリス、ボクを振ったのって……」
「ふははは。そうとも。僕はレヴィアこそを真に愛しているのだっ」
なんて、冗談だが、単純で純粋。疑うことを知らないこいつのことだ。簡単に騙されて面白い反応が見れるだろう。
人の恋心を弄ぶなんて、人でなし?まあ、こんなわかりやすい嘘なんだ。信用する方が悪いだろう。
「そ、そんな……。エリス、悪魔のこと好きにならないんじゃなかったの?」
「愛に種族や身分は、関係ないだろ?」
「あのエリスが、そこまで言い切るなんて……。レヴィアっ、どんな手を使ったの!?」
本当、わかりやすい奴だな……。多分、僕の顔は半笑いだろうに、ここまで引っ掛かってくれるとは。逆に早く種明かしをしてやらないと、申し訳なくなって来てしまう。
「なんてな。冗談だよ。……僕はまだ、どれだけ愛されても、それに報いることは出来ない。天界に帰るという意思は、正直ぐらついて来ている。でも、地獄に永住する決心も付かない。何より、僕は今の地獄を肯定することは出来ない」
どちらの問題もほとんどイコールで結ばれている。堕天使アルフレドの排除が叶えば、僕が新しい故郷として地獄を選ぶことも出来るだろう。
けど、今はまだ力が足りない。それに、情報だって欲しい。ミントが帰って来たら、また話し合わないといけないし、どれだけ愛され、また誰かを愛おしく想っても、恋愛に現を抜かすなんて僕には出来ないんだ。
「エリス様……」
「そ、そんないきなり真面目なお話されるなんて、びっくりしたー」
「僕はいつだって大真面目だぞ?お前のことも、真面目にからかった」
「それ、面白半分にするより、ずっとタチ悪いよー!ボク、エリスのことは真剣に信じてるんだからっ」
もしかすると、いくらセレストが単純な犬と言っても、ここまで手放しで信用するような相手は珍しいのか?それなら、少し悪いことをしたな。一応、申し訳なく思わないでもない。
……本当なら、こんなぞんざいな扱いは許されないんだろうけどな。一応僕の上司らしいし。
「それで、どうしたんだ?えらく勢いよく来たが」
「あ、そうだった。しばらく会ってなかったから、エリスにずーっと会いたかったんだ」
「……は?いや、何か用事があって来たんじゃないのか?」
「ううん。エリスに会いたかっただけだよ。お休みもらったし」
「いや、本当にそれだけなのか?お前、折角の休暇を使って、あんなに全速力で走って来て、僕に会いたかっただけなのか?」
「うん!だってボク、エリスのこと好きだもん」
そ、そこまで懐かれていたのか、僕……?
偶然とはいえ、同棲状態になってしまっているレヴィアとの関係も相当だが、そこまで想われている相手の告白を実質的に保留にしているとは、とんでもなく駄目な男みたいだ。
ここまでセレストの恋が長続きするというのはまずないことらしいし、それだけ本気なのだろう。
参ったな……こんな状態をずるずると続けるのも、お互いに良くないことだ。いっそ、きっぱりと僕の想いを伝えておくべきか?
「セレスちゃん。そんなに、エリス様のことが好きなの?」
「もちろんっ。あれ、もしかしてレヴィアもエリスのこと好きだった?」
「……うん。セレスちゃんが本気だと言うのなら、あたしも見逃してはおけない。セレスちゃん、外出て」
明らかに、空気が変わった。
レヴィアの語調がいつになくきついものになり、オーラと言うのだろうか。雰囲気がどんどんどす黒く、恐ろしげなものへと変質して行く。
こんな圧倒的なほどに邪悪な気配を持つ相手は、今まで会ったことがない。もしいるとすれば、悪魔の中の悪魔。それかどうしようもないほど邪悪な力を持った堕天使だろう。今は丸くなったのか、サタンですらまだマシな邪悪さだった。
「おい、レヴィア……?」
「エリス様に恋して良いのは、あたしだけ。エリス様に愛されて良いのは、あたしだけ。セレスちゃんのことは好きだけど、あたしの邪魔になるなら、処理しないといけない」
「えっ、ええっ!?ボ、ボク、まだエリスと何もしてないよ?手を繋ぐみたいなえっちなこととかも、全然してないし……」
「でもセレスちゃんはあたしにとって邪魔なの。わかる?」
「わからないよ!」
思った以上に子どもな思考のセレストはともかく、鬼気迫る表情、そして雰囲気のレヴィアは明らかに尋常じゃない。
もしかして、これがミントの言っていたことか?
家が崩壊するとか、あんまりレヴィアを勘違いさせるなとか、色々と言っていたが……。
「そう……でも、セレスちゃんはエリス様のことが好きなんでしょ?あたしも同じ。だから、邪魔」
「こ、恋敵ってこと?でもボク、一回振られたし、エリスは全然ボクに興味ないみたいで……」
「一回振って、そこから復縁するのはよくあること。それにあたしはまだ、告白出来ていない。セレスちゃんの方が圧倒的に有利なの。もうあたしがエリス様と結ばれるには、あなたの首を斬り落として、それをプレゼントにするしかない」
「お、おい待てレヴィア!僕が女の生首なんかを贈られて、喜ぶ訳ないだろう!そんな物で好きになる奴がいるとしたら、救いようがないほどの変態だ!お前、僕を何だと考えてるんだよ」
「失礼ですが……物言わぬ体にこそ興奮を覚えられる方かと」
「本当に相当失礼だな!どこをどう捉えれば、僕がそんな嗜好の持ち主だと勘違いするんだっ」
今までレヴィアは、僕のことをそんな男だと考えていたのか?その上でついて来るなんて、レヴィア自身も相当奇特というか、なんというか……やっぱり普通じゃない。
悪魔の割に大人しい性格をしているだけあって、他の面では普通の悪魔と違うのだろう。色々と。
「あたしの人形を褒めてくれたので、そう思っていたのですが……。それなら、セレスちゃんの首を斬る必要はありませんね。再起不能になるぐらいまで傷め付けます」
「だから、なんでお前の思考はゼロか一の両極端なんだ!言っておくけど、僕の中でのお前達の評価は、どっちも同じだ。むしろ、容姿、性格面を総合して考えれば、レヴィア、お前の方が好みだ。だから、滅多なことをするな」
「本当……ですか?」
その声音は妙に落ち着いていて、重みがある。……今まで感じたことのない、身の毛もよだつほどの恐怖、というものが背筋を冷やした。
下手なことを言えば、やられる。一度言葉の選択を誤れば、もう後はない。誰かが言う訳ではなく、レヴィアのこの世の恐ろしさを全て集めた上で、それ等を何倍にも強めたようなオーラがそんな考えを僕に植え付けた。
「あ、ああ。それに僕は、いつもの静かで、優しくて、えーと……落ち着いた物腰で、可愛くて、守ってやりたくなる雰囲気のお前が好きだ。そんな、嫉妬みたいなことはしないで、いつものお前でいてくれないか?」
こうなった以上、もう褒め殺しだ。思い付く限りの褒め言葉を重ね、なんとか怒りを鎮めてもらう。
僕がここまで誰かを称賛したことなんて、多分他には一度たりともないぞ。それぐらい今のレヴィアは危なくて、僕自身かなり恐れているということだ。
「……エリス様が、そう言うのでしたら。それにあたしも、別にセレスちゃんが憎い訳じゃないんです。……そう、ただのジョークで」
いや……絶対本気だっただろ。再起不能にすると言われたセレスト自身はもう、恐怖で体が完全に硬直しているぞ。
確か、レヴィアタンは七つの大罪の内、嫉妬の象徴だっただろうか。いつもは大人しいが、恋愛絡みだと正に「怪物」の面が出て来るのか……?
「はぁ。とりあえず、こいつを解凍するか。おい、セレスト。もうそろそろ起きろ。もう怖くないぞ」
「嘘だー。絶対ボクのこと、取って食べちゃうんだー」
「そんな訳ないだろ。レヴィアもほら、謝ってやれ」
「はい……。セレスちゃん、さっきはごめんなさい。これからは出来るだけ、優しくするからね」
「う、うーん……。出来るだけってトコが引っ掛かるけど、もうボクを虐めないのなら……」
「けど、あたしのエリス様に何かしたら、許さないから」
「う、うんっ」
いつの間にかに、僕の所有権はレヴィアに移ってしまっていたらしい。ものすごくツッコミを入れたいところだが、まだ下手なことは言えないな……セレストの首が飛ぶかもしれない。
と言うか、まさかレヴィアと一緒にいる時にこんな物騒な心配をしないといけないなんて。さっきはレヴィアが好みだと言ったし、実際のところ今まではそうだったが、少し考え直したくなるほど殺伐としているぞ、この状況。
「じゃあ、セレスト。これからどうする?もう僕の顔は見れたし、戻っても良いんじゃないか」
「そ、そうだね。お邪魔しましたー。また今度来るねー」
「もう来なくても良いよ」
「レヴィア……」
なんだこの、言葉に出来ない、するのも恐ろしい恐怖は。
当の本人は、真顔でこれを言っているんだぞ?いつもみたいに「う、うん……。またね」とでも言い出しそうな顔で。
これに恐怖を感じない道理があるだろうか?いや、存在しない。存在するはずもない。
「エリス様」
「う、うん。どうした」
「あたしのことを褒めてくれたこと、忘れませんから」
幸せそうな笑顔で。満面の笑みでレヴィアはその言葉を紡いだ。
ほんの数秒前の出来事がなければ、僕は一途で可愛らしいと彼女を評価しただろう。……なのに、だ。
今は残念ながらもう、恐怖しか感じられない。
世には深過ぎる、重過ぎる愛情により、精神を病む人間もいるという。それは脆弱な人間にだけありえる症状だと思っていたのだが……もしかするとその元祖は、この最強の海の怪物なのかもしれないな。
「ただいまー。まさか家が完全な状態であるなんて……。夢ならば覚めないで。もし覚めるなら、半壊ぐらいでいて、現実」
「安心しろ。現実だぞ。……まあ、レヴィアとセレストが軽く修羅場になりかけたのも確かだが」
レヴィアの認識が大きく変わった日から、一週間と少し。ようやくミントが家に帰って来た。
まあ、あれ以来は来客もなく、レヴィアがいつものレヴィアのままでいてくれたし、特に不自由することもなかった。およそ幸せな時間だったが、長く感じたのは人を待っていたからだろう。
気持ちを整理するためにも、神器を手に入れ、先輩堕天使に引導を渡す必要があった。
「上手くなだめられたんだ。すごいすごい。レヴィアは正直、長い付き合いのわたしでも手に負えないんだから。……もしかして、まだいる?」
「ああ。今はちょっと寝てるけどな」
地獄に昼も夜もないが、一応レヴィア的に今は寝るべき時、つまりは夜らしい。安らかな寝息を立て、幸せそうな顔で眠っていた。どんな夢を見ているのだろうか。
「そっか。じゃあ、単刀直入に言うね。神器の件だけど、見つからなかったよ。やっぱり、今あるだけの物で何とかするしかない。……それでね、それがわかってから、逆に神器を修理するための方法を探していたんだよ」
「神器を修理?既に壊れた神器があるのか?」
「ううん。これから壊れるかもしれない神器を、直す方法。やっぱり、たった一本の神器であいつを倒すなんて無理。だから、やっぱりレヴィア達を使う必要がある。もし神器を直すことが出来れば、レヴィアを神器として使うことにためらいはないでしょ?」
神器化したレヴィアやバハルドが傷付いた場合、人の姿に戻った時にも残るという傷。それが彼等を武器として扱う時の気がかりだ。
ならば、神器になっていることを逆に活かして、それを修理してしまえば傷も残らないということか。
発想としてはかなり良い線を行っている……どころか、僕の考え付かなかった理想の方法にも思える。やっぱり、ぼんやりしているように見えて、ミントの頭の回転の良さは凄まじいものがあるな。元は悪魔じゃないのに、悪魔より悪魔らしい頭をしているかもしれない。
「傷を付けてしまうことへの気がかりが消えてしまえば、神器としての性能は折り紙付きだし、つまりはインテリジェンスソード、意思を持つ武器なんだから、その強さは相手の神器を軽く上回ると思うの」
「でも、神器を直す鍛冶屋なんて、聞いたことがないぞ。天使の浄化能力で多少なんとか出来る程度のはずだ」
「うん。けどね……これだけ広い地獄、探してみれば色々な不可能を可能にする技術があるものだよ。かなり下層の方に、堕天使に頼まれて神器を鍛えることのある悪魔がいたの。ハルファスとマルファスと言う、これも双子の悪魔。ただの建築家だと思ってたのに、裏で鍛冶仕事もやってたみたいだね。ちなみにこの家もその二人の仕事だよ」
「そいつ等なら、神器を本当に直せるのか?傷一つ残さず」
「下層の地獄を任されるぐらいだからね、彼等も相当な大悪魔だよ。仕事は信用して良いと思う。ただ、聞いた?マレブランケの失踪。あんなことがあるぐらいだから、急がないと手遅れになっちゃうかも」
いくら堕天使側にとっても有用な人材とはいえ、このまま放置されるとも限らないな……有用だからこそ、専属で働かせるために手元に置く可能性もある。
なら、今すぐにでも準備を整え、レヴィアにも全てを打ち明け、戦いに臨むべきかもしれない。少々急ぎ過ぎなくらいで、多分丁度良い。絶対に相手に動きの速さで負ける訳にはいかないのだから。
「決行はいつにする?僕は天使の面汚しを一秒でも早く消し去りたいんだが」
「そうだね……出来るだけ早くした方が良いとは思うけど、もう少しだけ時間が欲しい。……成功したとしても、きっとわたしは死ぬんだから、その覚悟ぐらいさせてもらっても良いでしょう?」
「ああ、そのことか」
自分がそう遠くない未来に、脱走を手助けした罪で捕まり、殺される心配をまだしていたんだな。
実際、僕は天界を否定しながらも、僕の本来いるべき場所がそこなのだろうという気もしている。未だに揺れ動いている状態だ。
でも、僕は堕天使であっても、心は天使であるつもりで、天使とは人を愛し悪魔を憎みながらも、可能な限り多くの命を生かし、仮にその命が失われたとしても、それが善人であれば、転生へと命を導く存在だ。
志半ばでミントを僕一人の勝手な都合で殺させる訳にはいかない。それが今の僕の持つ、はっきりとした意思だ。
「それはもう、考えなくて良いぞ。お前が行ってから、レヴィアと話す中で考えていた。……もう少し、ほんのもう少しだけ、地獄にいてやっても良いな、ってな。それに、僕の功績でアルフレドが死んだ後のここを見てみたいじゃないか。英雄として称えさせるように根回しもしないといけないし、奴を倒して、はい終わり、と言えるほど話は簡単じゃない」
「えっ……?でも、エリスがここを出ないのなら、わたしとの利害関係は一致しないし、手伝ってもらう必要もなくなるんじゃない?」
「お前、変なところで頭が硬いな。いや、むしろその方がお前らしいか。――言っておくが、僕は何も善意でお前の手伝いをするんじゃないぞ。その堕天使が気に入らないから、一緒にぶっ潰してやるだけだ。大体、それ抜きでもお前、今まで散々僕を振り回して来ただろ?友達は助け合うものとかなんとか言いながらな」
思いっきりしたり顔で言ってやった。やっとこいつに、こいつ自身の言葉を言い返すという完璧な形で復讐が出来て、清々しい気分だ。
ここで何か反論をすれば、自分が今まで僕に課して来たことが不当な扱いということになるし、認めればそこで僕の主張は通ったことになる。どこにも手抜かりはない。
「そっか……エリス、わたしのこと、友達って認めてくれたんだ」
「っ!……そ、そうだ。お前があまりに哀れだから、僕ぐらいは友達になってやろうと思ってな」
「あははっ。そっかそっか。ありがとね。エリス」
こいつ、僕を笑いやがって……。そうか、この話の前提条件として、僕がミントのことを友達と認めている、という事柄がある。僕はなんとなくそれを自然に受け入れていたが、改めて口に出されるととんでもなく気恥ずかしい。
くそっ、またこんな風に揚げ足を取られるような形になるなんて屈辱だ。
「わかったら、すぐにでも決戦の準備に取りかかるぞ。これ以上他の悪魔が殺されでもしたら、さすがに寝覚めが悪い」
「ちゃんとわたし達のことを思いやってくれるんだ……。堕落当初の尖がってた頃のエリスを見て来た私としては、軽く感動ものだよ……」
「お前な、こんな時に茶化すな。――そろそろ、僕を地獄の住人として扱ってくれても良いだろ」
我ながら、らしくない台詞だとは思った。でも、僕の意識にも良い意味での変化はある。
少しだけ……悪魔とも良い関係を築いて行ければ、とは思ったな。少しだけ、本当に少しだけだけどな。……って、なんで自分に対して言い訳しているのだか。
「エリス……それで良いと思うよ。少なくともわたしはエリスのこと、歓迎するね」
だからミント、なんでそんな微笑ましそうな顔で僕を見るんだっ。胸糞悪い。
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言うまでもなく、この作品の地獄観はダンテの「神曲」を元にしています。それと照らし合わせて読んでいただけると、世界観が理解しやすいかな、と思います
地獄にリヴァイアサンがいるとかは、完全なる創作ですが