「おう、戻ってきたか。」
先生に別れを告げ再び店へと戻る。
店主は、腕を組んで店前に仁王立ちをしていた。
「済みません。遅くなりました。」
「いやァ、別に気にすることじゃねェ。それより、水鏡先生は元気にしているか?」
「ええ、特に問題は無さそうです。元気にしていますよ。」
でも、昨日あったばかりだと思いますが……。
店主へと言葉を続ける。
彼は、昨日のことなど知るかと、そう言わんばかりに笑った。
「まァ、こういうモンは挨拶と一緒だ。最後にいつ会ったかなんて、どうでもいいんだよ。」
店主は、身を翻し店内へと歩を進めていく。
俺は遅れないようにと彼の後を追った。
母ちゃんが首を長くしてんだ。
人懐っこい笑みを見せる彼に、今までと違う印象を受ける。
破落戸かとも思えた顔つきは、柔和なものへと変わり。踏み出す足は、小気味の良い拍子を鳴らす。
心なしか、その歩調も速く思えてくる。
やはり、何だかんだと言っても、仲の良い夫婦なのだ。
前を歩く、男の背中が先程よりも広く、そして大きく見えた。
「あぁ、待ってたよ。」
店内の更に奥。
夫婦の居住区である居間に、奥さんが座っている。
「さぁ、飯にしようぜ。母ちゃん、ウチで一等の酒を出してくれ。」
「何言ってんだい。ウチにあるモンは全部安酒じゃないか。」
「だからなぁ。昼間にも言ったじゃねェか。こういう時ちゅうのはなぁ……。」
「はいはい、黙って持ってくりゃいいんだろ?アンタこそ、つまらない見栄を張るなって、一体何度言えばわかるんだい。」
「男なんてのは、見栄張ってナンボの
そう言って店主は肩を揺らす。
やれやれ、といった声が彼女の口から漏れた。
「さァて、ウチの宿六は放っておいて。元直さん、こっちに座ってゆっくりしてな。直ぐに準備しちゃうからね。」
酷ェじゃねぇか、母ちゃん……。
ぼやき声を上げる亭主には目もくれず、彼女は奥へと消えていった。
「さァ、遠慮せずにどんどん食ってくれや。」
とくとくと手元の杯に酒を注ぎながら、店主が言う。
「アンタは何もやってないじゃないか……。」
奥さんが不満気に漏らすも、ぐいと、酒を煽る彼には既に聞こえていないようである。
「ま、アレの言うように遠慮なんかはしなくていいからね。好きなだけ食べて頂戴。」
そう言われ、卓の上に並ぶ料理へと目を向ける。
大皿に盛られた野菜と肉の炒め物。椀には、鶏肉と卵のスープが注がれ白い湯気を上げている。
そして白米。米の一粒一粒が仄かに輝きを放つ。銀シャリとは本当に上手く言ったものだ。
粥も悪くない。悪くないのだが、やはり、日本人としては、炊きたてそのままのご飯が食べたいのである。
その傍らには、白い磁器になみなみと注がれた酒が――。酒?
どういう訳かを尋ねるように、店主へと視線を向ける。
彼は、持っていた杯を、笑いながら傾けた。
どうやら飲めということらしい。
未成年なんだけどなァ。
酒に興味が無い訳では無い。しかし、いざ飲めと言われると、どうにも尻込みしてしまう。
それ程までに、二十年近くに渡り築かれてきた意識というものは、崩し難くあった。
ごくりと、固唾を呑んで、卓上の酒を見やる。
「何だ、酒は初めてか?」
「はい。……中々、機会がなかったもので。」
そんなに、気負うモンじゃねェ。
店主は、少しだけ、困ったような笑みを浮かべた。
「酒は、人生の友だ。隣の母ちゃんなんかよりも、ずっと長い間付き合いだ。
堅ッ苦しく飲んだって、いいことなんかありゃしねェ。水でも飲むみてェに、ぐいとやんな。」
そう、言葉を続け、彼は杯を煽る。
本当に、美味しそうに飲む人だ。
思わず手元の磁器を覗きこむ。
白く濁った水面は、静かに揺れていた。そこから、ツンとした匂いが発せられ、鼻孔に届く。
卓に並べられた、他の料理の香りと入り混じり、不思議と堪えなきれなくなる。
そのまま、ゆっくりと手を伸ばす。杯は、ひんやりとして心地が良く、それがまた好奇心に揺れる心を擽った。
ちびり、と舐める。
見た目ほど度数は高くはない。
続けて、少しずつ注ぎ込む。
辛味の効いた酒が舌を刺激する。
濃厚な香りが、ふんわりと広がり。浮き上がるようにして、脳味噌を侵してゆく。
何だか、気分が良くなって来た。
ぼんやりとした視界の端に、満足気に笑う、男の顔があった。
「だから、それがいけねェンだ。」
料理は粗方片付き、卓上には空になった瓶子が、三本、転がっている。
「何だい、その、鄭さんってのは。堅ッ苦しくて仕様がねェ。背中の辺りがムズ痒くなってくらァ。」
「はぁ。」
気の抜けたような声で返す。
どうやら、彼は鄭さんと呼ばれたのが気に召さなかったらしい。
しかし、そんな事を言われても、こちらは困ってしまう。
「じゃあ、何と呼べばいいんでしょう?」
「そうだな……。」
むむむと、唸ったきり、彼は黙りこんでしまった。
待てども待てども、一文字に結ばれた口は、縫い付けられたかのようにぴくりともしない。
代わるように、奥さんが口を開いた。
「ッたく、本当にどう仕様もないねェ、この人は。」
呆れたのか、はァ、と溜息を溢す。
「相変わらず、考えなしで口を開くんだから。まァ、他人行儀な気がするってのは否定しないけどねぇ。」
彼女は、亭主の方へと視線を移す。
つられるようにして、そちらへと目を向ける。
黙りと、まだ考えているのかと思えば、彼の肩は規則正しく上下していた。
やれやれ、といったふうに奥さんは息をつく。
「ホラ、アンタ、寝るなら部屋に戻ってからにしな。こんな所で寝られたら、いつになっても卓の上が片付かないじゃないか。」
何度か、体を揺するも、彼は起きる気配がない。
幸せそうに、空になった瓶子を、何本も抱え込んだまま寝息を立てている。
「もう、本ッ当に、呆れた人だよ……。元直さん、悪いんだけど……。」
「はい。運ぶの、手伝います。」
席を立って、彼の左側へと周り、肩を貸す。
「ホラ、起きな。」
奥さんが、彼の右頬を軽く張る。
ぺちんと、乾いた音がした。
目を覚ました店主が、きょろきょろと辺りを忙しなく見渡す。
「何でェい、お前ら、寄って集って……。」
「アンタが、こんなトコで寝ちまうから、これから部屋まで運ぶんだよ。ホラ、さっさと立った立った。」
どうやら、目は覚めても酔いまでは覚めていないようだ。
おおゥ、と声を漏らし、がたがたと椅子を体に引っ掛けながら、漸くといった風情で立ち上がる。
その際に踏まれた右足が酷く痛んだが、こればかりはどう仕様もない。
よろよろ、ふらふらとしながらも、一歩ずつ歩みを進めていく。
俺と、店主との身長差は大きく、彼は、半ば引き摺られるようにして歩いていた。
「あーッと、何だっけかな?」
「何だい、アンタ。生憎、酔っぱらいに貸すような耳は持ってないよ。」
「うるせいやい。さっきの、さっきのがここまで出かかってンだ。」
「さっきの、じゃあ一体何のことだか分かりゃしないよ。
口動かす前に、足を動かしてくんな。アンタ、体ばっかりでかくなって重いんだから。」
彼女の言う通りであった。上背がある分、彼の体は重い。正直、支えるので精一杯なのだ。
「わーッてるよ。……もう、ちぃいとのトコなんだがなァ。」
彼の言う、さっきの事も気にはなる所だが、自分に口を開く余裕はない。足元も覚束ない。
それに対し、奥さんの足取りは確りとしたもので、あの細い体の何処にそれだけの力があるのか不思議なものである。
曲りなりとも、鍛えていた身としては、自信の無くなる光景であった。
「あァ、思い出した。」
店主が叫ぶ。
「場所を考えとくれよ。人の耳元で大声なんか出して。」
彼女が、何度目かも分からぬ、溜息をつく。
「悪かったよォ。でも、ようやっと、さっきの事を思い出したんだよ。」
「だから、それじゃあ、何の事だか分かんないって言ってるじゃないか。話の分からない人だねェ。」
「さっきのだよ、さっきの。あの……、あれだ、呼び方だよ。呼び方。」
「あぁ、呼び方ですか。」
店主に言葉を返す。
「そうだ。呼び方だよ。やっと、思い出せたんだ。」
「それで、何と呼べば?」
「オウ。俺のことは、親父だとか、おやっさんだとか、そんな感じで呼んでくれや。」
高らかに言い放つ。
弾んだ声であった。
顔を見ずとも、分かる。
彼は、今、笑みを浮かべているのだろう。
「全く、この人は……。」
店主――親父さんを挟んだ向こうから、女性の声がする。
何処か、楽しげな響きを含むものであった。
「悪かったね、元直さん。手伝わせちゃって。」
「いえ、構いません。」
あの後、親父さんは再び眠り込んでしまった。
ひいこら言いながら、漸く彼を寝室へと運び込むと、再び居間へと戻り、現在に至る。
「本当に、あの人はどう仕様もないんだから。」
言葉こそ、辛辣なものだが、温かみのある口調である。
「酒は、人生の友だ。なんて、偉そうなこと言ってるけどね?
ウチの人、酒には弱いんだよ。」
からからと笑う。
先程の様子を見るに、何となくそんな気はしていたが、やはり弱かったようだ。
「そのくせ、呑んだくれるンだから、手に負えなくて困ってたんだよ。
でも、これからは、男手があるからね。今日みたいに、少しは楽になって助かるよ。」
また、アレがべろべろになったら頼むよ?
あはは、と乾いた笑みを彼女に返す。
「駄目だよ、男はもっと、しゃんとしないと。」
そう言って彼女は声を上げて笑った。
「ええ、頑張ります。」
「まァ、あの人の気持ちも分かるんだよ。ウチには子供がいないだろ?」
彼女の言葉に頷く。二人以外を、この服屋で見かけたことはなく、また、子供がいるという話を夫妻から聞いたこともなかった。
「あれでも、ウチの旦那は子供好きでね。なのに、あの見てくれだろ? 中々、街の子たちは寄って来ないんだよ。
子供たちが遊んでいるトコを見てるあの人を見ると、どうにも居た堪れなくてね。
子供が産めないのは、アタシの体のせいだろうし。」
彼女は目を伏せる。
長い睫毛が、微かに震えていた。
「だから、アンタが来てくれて、あの人は凄く喜んでたんだよ。子供が出来たみたいだってね。
勿論、アタシも嬉しかったさ。まァ、でっかい子供だったけどね。」
「……ありがとうございます。」
彼女の言葉に、何と返せば良いのか分からなかった。
やっと、口にすることが出来たのは、そんな答えである。
それも、何に対して、の言葉かも分からずにであった。
いいんだよ、と、彼女は柔らかく微笑む。
「ウチの人が、親父だとかそんなふうに呼べって言ったろ?
だから、アタシのことも――。そうだねェ、女将さんとでも呼んでくれよ。」
「はい、分かりました。……女将さん。」
「良い子だねェ、元直は。」
わしわし、と頭を撫でられる。
この歳になって、人に頭を撫でられるというのは、気恥ずかしいものがあった。
しかし、不思議と悪い気はしない。
胸の芯から、仄かな熱が体中へと流れていく。
それは、とても心地の良いものであった。
女将さんと別れ、充てがわれた部屋へと向かう。
着替えるのも億劫であり、そのまま床に敷かれた布団に倒れこんだ。
体中を、程良い倦怠感が包む。横になると、酔いせいか、頭の中がぐるぐると回り出す。
今日は疲れた。
脳が睡眠を欲しがっている。
その欲求に抗うことなく、目を閉じる。明日も、佳き日でありますように、と。
ほんの僅かの間に、意識は深く深く沈み込んでいった。
北郷一刀の奮闘記 第九話 家族酒 了
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待っていた方がどれだけいるかは分かりませんが、第九話です。
前回に、拠点をやって黄巾の乱と言ったがあれは嘘だ。
拠点は次回になります。