【ⅴ】
1
「あれね」
曹操が云った。
眼前には盗賊の根城である砦が、鎮座していた。
「華琳さま、我々のすべきことはひとつです」
「あら、何かしら春蘭」
曹操は一歩前に出た夏候惇に問う。
「叩き潰しましょう。たかだか盗賊ごとき、ものの数ではございません」
熱く主張する夏候惇、そしてそれを黙ったまま笑んで見つめる曹操を、程昱は視界の端で観察する。けれども、今意識の中央を占めているのは、あの砦の中で何が起こっているのかと云うことであった。
村に、北郷一刀がいなかった。
それが一体何を意味するのか、程昱は瞬時に悟った。
――村も安全だし、ゆっくりしていけばいいじゃないか。
一刀と川のほとりで交わした会話を思い出す。
――安全ではないのですよ。
――なに?
――盗賊は、あれで全部じゃないのです。
――なんだって?
――南に根城があるそうなのです。きっとまた攻めてくるでしょうから、風は早く歩けるようにならないといけないのです。このままでは足手まといですから。
確か、こんな会話だったはずだ。
――そうか。
会話の最後を彼はそんな寂しげな声で締めたように思う。
今思えばあの時、一言でも止めておけばよかったのだ。今更な後悔を、程昱は胸中で噛み締めていた。
北郷一刀は、あの砦に向かったのだろう。
盗賊が何百と巣食うであろうあの砦に、単独で乗り込んだのだろう。
彼の腕がそれなりに立つと云うことは、程昱とて知っている。しかし、幾らなんでも多勢に無勢。単独でどうにかなる数ではない。
彼とてそれは理解しているはずだ。
だから、彼は今回も、先日のようなハッタリをもってして、盗賊を追い払おうとしているに違いない。彼は曹操が盗賊討伐に乗り出したことを知らない。
ただ無法者がいつまでも放置されていると、そう考える彼でもないだろう。
彼がなそうとしていることは時間稼ぎ――盗賊が官軍に討伐されるまでの間、あの村が襲われぬよう時間を稼ごうとしている。天の智をもって。
昨日の襲撃の際犠牲が出なかったのは、勿論生きようとした皆の努力の賜物でもあるけれども、それだけではない。数奇なめぐりあわせ、幸運があったのも事実。でなければ、あれだけの大火事、死者のひとりやふたり出ていてもおかしくない。
一刀もそのことは理解しているだろう。
そして、次回の襲撃があった時、程昱、戯志才、趙雲があの村に留まっていると限らぬことも、彼は諒解している。次は村の若い衆、典韋、許褚、そして一刀だけで襲撃を凌がねばならぬかもしれない、その可能性を考慮している。最悪の場合を想定し、時間稼ぎに打って出たのだ。ひとりで。
彼がひとりで出たのは云うまでもなく、それが彼の考えた策であったから。成功するのか否か、確信が持てない己の策に、他の人間を巻き込むのを厭うたのだろう。
失敗したとしても、犠牲は己ひとり。子供たちと共に楽しげに遊ぶ彼の姿を思い出すと、彼の思考が手に取るように分かった。
あるいは、彼はそこまで深く考えていないのかもしれないけれど。しかし、村の人間に農作業の指南をしている彼の姿は聡明な学者の姿そのものであり、彼が何の考慮もなく行動を起こすような人物には見えなかった。
優しく賢明な彼は、死地に赴いている。
そう思うと、いても立ってもいられない、そんな己が程昱の心の中にあった。彼はここで死なせてしまっていいような人物ではない。そう思った。
渡りに船だったのだ。曹操が村を訪れたのは。
程昱は曹操を使い、一刀を救出できないかと考えた。だから彼女は曹操にこう告げたのだ。
恩人が盗賊にさらわれた『らしい』ので、討伐に同行させて欲しいと。
聞きようによっては、方便である。
そのような方便を用いたのは――ひとつ、一刀が単独行動を始めたことを云えば自己責任だと切り捨てられかねなかったから。ひとつ、許褚と典韋が曹操の配下となったから。一刀に恩のある許褚と典韋が、一刀の行方不明を知れば、彼の救出を曹操に願い出るだろう。そう考えたのである。
討伐に同行すれば、上手く一刀を救出できるよう、流れを持っていけばいい。自惚れではないが、人心を読み、惑わし、流れを変えるのは得意だ。自分は見たままの奇人であり、それもこちらの策を上手く覆い隠す役を果たすだろう。
狙い通り、曹操は程昱の同行を許した。許褚と典韋の口添えがあったのも、計算通りだった。
ただすべてが計算通りだったと云うわけでもない。
ひとつ、許褚の口から、一刀が村で農作業の指導をしていたことが露見したことが計算外だった。これは仕方がなかったのかもしれない。曹操は一介の旅人である一刀に、許褚と典韋がどうしてそこまで執着するのか、訝ったらしい。許褚は見た目振る舞いの通り素直で、一刀が村長と相談し畑に薬粉末をまいていたことまで話した。曹操はそれに大いに興味を持ったらしい。曹操の眸が「欲しい」と煌めいていた。
ただ許褚が素直に話してしまってよかったのかもしれない。一刀は畑にまいた薬粉末の他にも数々の功績を残していた。その中にはこれまで多くを学んだ程昱の知らぬ知識が山のように詰まっていた。許褚はそれを知ってか知らずか曹操に話さなかった。意図して隠したわけでもないのだろう。だから曹操の詮索はそれ以上なかった。
曹操が一刀を欲しがる分には構わないのだ。ただそれが一刀を縛るようなことがあってはならないと思う。それでは救出する意味が半減する。
もうひとつの計算外は、曹操が程昱に条件を提示したことである。ただこれは飲めぬものでもないので、大した問題ではなかった。
そう云うわけで今、程昱は曹操の手勢と共に砦の前にいる。砦はやけに静かで、騒ぎになっている様子はない。
一刀がまだ動いていないのか、それともすでに『終わってしまった』後であるのか。どちらとも判別がつかなかった。
「華琳さま」
程昱の思考を遮る声が響く。色の淡い髪に薄緑色の頭巾をかぶった少女――軍師荀彧が曹操に声を掛ける。
「なに? 桂花」
「は。斥候が戻りました」
「それで?」
「それが――」
「云いなさい、桂花」
「は」
云われ荀彧は意を決したように息を吸う。そして。
「砦は、無人であったと」
そう告げた。
「なんですって?」
「はい。砦に盗賊の姿はなく。しかし、つい先ほどまで宴を開いていた痕跡があると」
「どういうことかしら」
曹操は首をひねる。
「華琳さま、これを」
荀彧は巻物を曹操に差し出す。
「地図――」
「は。この砦の南に、もうひとつ、やや小さい砦があるようなのです。恐らく盗賊どもはそこへ移ったものかと」
思案する曹操に荀彧は言葉を続ける。
「あの砦は老朽化が進んでおり、補修も碌になされていないようす。推測ですが、南の砦の方が整備されているのやもしれません」
「より強固な砦に移ったと云うことは、私たちの動きが知られていたと云うことかしら」
曹操の言葉に荀彧は首を横に振る。
「そうとは限りません。盗賊相手とは云え警戒は怠りませんでしたし、盗賊ごときが細作をわざわざ放つような真似をするとは思えません」
「では、どう云うことかしら」
「は。我々とは別に盗賊討伐を企てたものがいるものかと」
荀彧の言葉に程昱の胸が少し反応する。勿論、表情に出すはずもない。
「このところ続く盗賊騒ぎに伴って、各地では義勇兵を募る動きが出ています。今回もどこかの義勇兵が動きを気取られ、盗賊どもはそれに対抗するべくより堅牢な砦に退いたものと思われます」
荀彧は静かに整然と云い終えた。
「桂花、私たちはどうするべきかしら?」
曹操は荀彧を試すように云う。
「まずは砦を抑えるべきかと。砦には奪われた食料や金品が保管されていますから、それを鹵獲し、被害の激しい集落から順に、保障を与えていくべきと考えます。それに盗賊ども全部が南の砦に集まっているようではないようです」
「それで?」
「砦の外で暴れている盗賊どもの位置は掴めていますから、夏候惇隊、夏侯淵隊でやつらを南の砦へ追い立て、一網打尽にするのが良いかと考えます」
「そう上手くいくかしら」
「相手は碌な頭脳も持たない盗賊。この程度の策で十分かと」
「分かった。それで行きましょう。春蘭、秋蘭聞いていたわね」
曹操はどこか楽しげに夏候姉妹を見る。
「砦は本隊で押さえるわ。ふたりは賊どもを南の砦に追い立てなさい」
そんな主の言葉に意見を述べるのは夏候惇である。
「か、華琳さま」
「なにかしら?」
「本隊だけでは手薄では……」
「問題ないわ、季衣と流琉もいることだしね」
名を呼ばれ、ふたりの若い武人は頼もしげに頷く。
「姉者、季衣と流琉の腕は姉者も知っているだろう。我々は我々の務めを果たそう」
「う、うむむ」
夏候惇は渋々と云った様子で引き下がった。
「決まりね。本隊は砦へ入る。春蘭、秋蘭は盗賊どもを追い立てたのち、本体に合流なさい。そして明日、盗賊どもを討つわ」
曹操の言葉に「御意」と臣たちが行動を開始する。
「程昱」
「はいー」
「あなたも本隊に同行なさい。もしかしたら、あなたの探し人は牢にでも置き去りにされているかもしれないわ」
「ありがとうございますー」
緩慢な調子で程昱は答える。
その後、痛む足を堪えながら、典韋の馬に乗せてもらい、程昱は討伐隊本隊に伴って、砦に入った。
2
男は、玉座にあった。
白く光る着物、黒く照る履物――男は程昱を、曹操を、荀彧を、そして許褚と典韋を迎えた。
砦に入った程昱は、最低限の人員を連れる曹操と共に、砦の中央に向かった。埃臭く、黴臭い通路を抜け、辿り着いたのは、玉座の間と思しき部屋。けれども意匠は欠け、色はくすみ、そのみすぼらしさにかつての栄光の影はない。
その部屋の、最奥――酷く痛んだ玉座に男が足を組んで腰掛けていた。
砦には誰もいない。
そう報告を受けていた曹操以下数名は、男の姿を認めるや否や警戒を強める。ただ、程昱、許褚、典韋はその限りでない。
「曹操様! お下がりください!」
親衛隊のひとりが声を上げる。
男は目を丸くしていた。
曹操が現れたことに驚いたわけではなさそうである。なぜなら、男は程昱を見つめていたのだから。
「大丈夫よ」
曹操は親衛隊を下がらせる。
「程昱」
「はいー」
「あれかしら。あなたの探し人は」
「そうですねー」
程昱は痛む足を引きずり、前へ進む。男――北郷一刀は玉座から立ち上がるとこちらへやってきて、程昱の身体を支えるように抱き留めた。
「どうして、ここに?」
一刀は疑問の声を掛けてくる。
「お兄さんがひとりで突撃を掛けたのはお見通しなのです」
程昱は一刀にだけ聞こえるよう、囁くように云った。
「あの人は?」
一刀は曹操へと視線を投げかける。曹操はそれを受け、淡く笑んでみせた。
「私は陳留の刺史、曹操」
「曹孟徳――」
一刀の発言に曹操はやや驚いた顔で、
「あなた――」
厳しい声を出す。
「お名前はかねがね」
一刀は続けようとする曹操の言葉を遮って、そう云った。彼女の傍らで許褚が「流石華琳さま、有名人なんですね!」と楽しげな声を上げる。
「あなた、名は?」
「北郷一刀」
「そう、変わった名前ね。あなた、盗賊にさらわれた『らしい』と聞いたのだけれど?」
不敵に笑んで曹操は云う。
「それは少し違うかな」
「じゃあ、どうしてここにいるのか説明してもらおうかしら。よもや盗賊の一味だったと云うオチではないでしょうね」
「盗賊が女の人を数人連れてここに入るのを見た。その後盗賊が砦から慌てて出て行ったもんだからさ、様子を見てみようと思って」
「貴様! 曹操様に向かって、その口のきき方――」
激昂する荀彧を
「桂花。かまわないわ」
曹操が一言で制する。
「で、女たちはどこ?」
「奥の部屋で休ませてるよ。無事だ」
「そう。季衣、流琉」
その声に典韋と許褚が鋭く返事をした。
「保護しなさい」
「はい!」
ふたりは親衛隊を連れて部屋を飛び出していく。玉座の間には一刀の他、曹操、荀彧、程昱だけが残った。
「私は盗賊討伐に来たの。そのついでにあなたを探していた程昱を拾ってきたのだけれど」
「そうか――って、程昱?」
一刀が不思議そうにこちらを見下ろしてくる。程昱は一刀に支えられたまま彼の顔を見上げた。
「故あって、改名したのです」
「そ、そうか」
「ふふ、そうなのです」
未だ戸惑っているようであったが、かと云って納得できぬと云うわけでもなさそうな彼の表情は、どこか可笑しい。
「姓は北郷、名は一刀」
曹操は短く呼ぶ。
「なにかな」
「あなた、こんな噂を知っているかしら」
その言葉に、一刀の瞼が僅かに反応したのを、程昱は見逃さなかった。
「管路という占い師が方々で話しているのだけれどね。『流星とともに現れる天の御遣い、光る衣纏いて地に降り、天の才をもって大陸を安寧に導くであろう』――知らない?」
「――知らないね」
「そう。まあ、あなたの知不知は関係ないわ。私たちは盗賊討伐のついでにその噂を確かめてみようと思ったの。この辺りに数日前、流星が落ちたと聞いたものだから」
曹操の眸は確信の光を宿していた。
「あなた、天の御遣いね」
「……」
「沈黙は肯定と同義よ?」
「いや、いきなり突拍子もないことを云われたものだから、言葉が詰まってしまってね」
「村で農作業の指導をしていたそうじゃない。不思議な薬を畑にまかせたそうね」
「あのふたりから聞いたのか。ひとつ云っておくと、不思議な薬でもなんでもない。材料はあの村のまわりで手に入るものばかりだ」
「それが畑を肥やすと云うのを知っていることが問題なのよ。粉末を畑にまくだなんて、聞いたことないわよ」
曹操は挑戦的な視線を一刀に送る。
「何より、その衣。その履物。素材は何? ――いいわ、答えなくて。そんなもの大陸に存在しないのでしょうから。そんなの洛陽でも見たことないもの。それに――」
曹操は追及の手を緩めない。玉座の傍に置かれた、一刀の布袋を指す。
「あの中身は何なのかしらね。面白いものが入っていそうだけれど」
曹操の言葉に、けれども一刀の視線は揺るがない。
「友人からの贈り物がね」
「見せてもらっていいかしら」
「断る、と云ったら?」
焦らすような一刀の云いように、荀彧が再び怒りを露わにする。しかし、曹操にたしなめられるのが分かるのか、声を荒げたりはしなかった。
「断らせないわよ」
「強引なんだな」
「欲しいものは絶対に手に入れるわ。私は確信してる――どうしてそこまで誤魔化すのか知らないけれど、あなたは天の御遣い。あなたを見付けたのがこの曹孟徳であったことは、まさに天佑でしょう。私はいずれ大陸を統べる王となる。北郷一刀。私のものになりなさい」
「華琳さまッ!!」
曹操の言葉に耐え切れなくなった荀彧が叫ぶ。
「このような胡散臭い男欲されずとも、この荀文若が必ずや華琳さまを――」
「桂花」
曹操は短く遮る。
「今はまだいいわ。でもね、これから領地を拡大し、乱世を生き抜くにはより多くの才ある者が必要よ。見なさい、あの男の目を。この曹孟徳を前にして、微塵も揺らがぬあの眸を」
楽しげな曹操の言葉に、一刀は苦く笑んでいる。
「私は才ある者を手に入れ、私の力となす。私の覇道のために」
だからこそ――と曹操はついにその言葉を口にした。
「程昱も、私のものにしたんだもの」
ここで、北郷一刀の表情が大きく変わる。驚愕に、染まっている。
「あら、さっきまでの余裕はどこに行ったのかしら?」
曹操は蠱惑的な笑みを浮かべて、北郷一刀をその言葉で弄ぶ。
「どういうことだ」
「条件だったのよ。あなたを盗賊から救出するために彼女を同行させる、その条件。彼女、桂花と互角に論戦できるのですもの、ぜひ欲しい才だわ」
「俺は無事で、救出は必要なかった」
「そうね。でも条件は『同行させる』ことに付されたもの。そして私は約束を守り、程昱をあなたのところまで連れてきた。これで程昱は私のものだわ」
一刀はこちらを見る。
これで良かったのだろう――程昱は思う。
程昱は夢を見た。泰山に登り両手で太陽を掲げる夢である。その太陽は英雄であり、それを己で支えるのが程昱の志であった。
曹孟徳は英雄足りうるだろう。日輪足りうるだろう。しかし、程昱が支えるべき日輪であるのか、それを見極めるのにもう少し時間が欲しかった。
ただその時間の不足も天命かもしれない。あの時打てる手としては、あれが最善であったのだ。
だからかつて程立であった女は、程昱と名を変え、その一手の覚悟とした。
確かに曹操が自分を欲しがったのは計算外であった。しかし、曹操が同行に同意しない場合、自分を売り込む覚悟を、程昱はしていたのだ。
「北郷一刀――あなたは」
曹操が話を再開する。
だが、一刀は大きく息を吐いてそれを遮った。
「天の御遣いだ。その噂に照らし合わせるなら」
「――ッ!」
程昱は驚いて一刀を見上げる。何故、今、主張を翻すのか。先ほどまでの口ぶりから、この場は誤魔化してしまいたいのではないのか。
曹操は自認した一刀を嬉しそうに見つめている。
「やっと認めたわね」
「ああ。俺は――きみの力になってもいい」
どう云うことなのだ。
程昱は訝しげに一刀を見上げる。
「ただし――条件がある」
「へえ、この曹孟徳に条件。面白いわね、云ってみなさい」
面白げに云う彼女に、一刀は真剣なまなざしを向ける。
そして――。
「程昱を俺にくれ」
これまでになく張りのある声で、艶のある声で、北郷一刀はそう云い放ったのだ。
「へ……?」
程昱の間抜けな声を、一刀は無視する。
「せっかく手に入れた才を手放せと?」
「俺が程昱を伴ってきみの下に入れば問題ないはずだ」
「ふふ。自分にはそれだけの価値があると?」
「それはきみが見定めればいい」
先ほどまでとは打って変わって、一刀の視線は鋭い。
「いいでしょう。ただ程昱があなたのものになるかどうかは程昱次第。だからは私はこの場で程昱を約定から解き放ち、自由にする。口説くのは自分ですればいいわ。これでどうかしら」
「わかった。これからよろしく頼むよ」
一刀は笑んで、曹操にそう告げた。
「ここは埃臭いわね。桂花、下に陣を張りましょう。北郷一刀――そうね、一刀と呼びましょう。一刀。話が済んだら下の陣まで来てちょうだい」
曹操はそう云って、堂々とその場を後にした。
暫しの沈黙が、空間を支配する。
「……お兄さん」
程昱はそろりと呼びかける。一刀の手はそっと支えるように、程昱の肩を抱いている。
「ん? なに?」
「お兄さんは……」
「迷惑、だったかな」
「え……?」
一刀は柔な苦笑を浮かべている。
「いや、俺、余計なことしたかなって」
声が、優しいものに戻っている。
「でもね。きみが曹操に仕えるなら、俺が理由になっちゃ駄目だと思うんだ。えっと、程昱さんをくれって云ったのはそう云う意味でさ。きみはきみの目で曹操と云う人物を見極めて仕えればいい。だから、その、俺がきみを俺のものにしたいって云うのは――きみを自由にするための、えっと」
方便だと、彼は云いたいのだろう。
今の今まで曹孟徳相手にあれだけ毅然としていたのに、この変わり様は何だろう。程昱は可笑しくなる。照れ臭そうに話す彼が、どこか可愛らしく感じられた。
だから、程昱はすっと背伸びをして、人差し指で一刀の唇を押さえた。
それ以上、語らせぬために。
「嬉しかったのですよ。お兄さんが風のためにああ云ってくれて」
一刀はじっとこちらを見ている。
「だから、その先は云わないで欲しいのです」
淡く笑んでみせる。可愛らしく、笑えているだろうか。そんなことを思いながら、新たな決意を口にする。
「風は……風はもう。お兄さんのものなのですから」
この青年は自分のために、程昱と云う女を解き放つために己をなげうってみせた。そこに彼の落ち度は何もないにもかかわらずだ。
程昱が曹操の条件を呑んだのは、あくまで程昱の都合である。彼を死なせてはいけないと云う、程昱の勝手で一方的な考えゆえである。
だから、そのために彼が、北郷一刀が責を感じるいわれはないのだ。対価を支払うことなどないのだ。
しかし、彼はもう、支払ってしまった。
ならば自分はせめて、そんな彼の傍らにいよう。
彼と共にあろう。
優しい彼と共に、日輪を支えよう。
「て――」
「風と」
こちらを呼ぼうとした一刀を遮る。
「風と、呼んでください。お兄さん」
一刀は――静かに頷く。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
そう云って、彼に支えられながら歩き出そうとした時。
「ひゃっ――」
おかしな声が出てしまう。
彼が突然、こちらを抱え上げるものだから。
「お、お兄さん……っ」
「まだ痛むだろう? まったく、無理するんだから」
困ったように、叱るように彼は云う。
「いいよ。下まで。俺がきみを――風を、抱えて行こう」
「……はい」
彼が初めて真名を呼んでくれた。その思いが風の胸の奥にじわじわと広がっていく。忘れたはずはないのに、真名とはこれほどまでに特別なものだったのだと、そう実感させられる。
彼に抱えられたまま、そっと彼の胸に頬を寄せる。
耳に、彼の鼓動が届く。
一定の調子で響く、暖かな音。確かな脈動。生きている証。
包み込むようなぬくもりに、風は安らかな眠気を感じ始める。
ああ、このまま。
少しだけ。
頼もしい腕に抱かれながら。
――眠ってしまっても、いいですよね。
《あとがき》
ありむらです。近頃、大変暑くなってまいりましたが皆様お元気でしょうか。
まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のお声が、ありむらの活力となっております。
さてさて、一刀君、いや一刀さん。その一刀さんが曹操軍に加入いたしました。加入方法も取引きのような形です。華琳さんに心酔して加入する面々が多い中、一刀さんには例外になってもらいました。
原作でも、一刀さんは華琳さんに心酔して加入したわけではありませんしね。ただ私の一刀さんは原作よりも年齢が上と云う設定ですので(序章参照)、したたかで現実擦れしているところがあります。これからもそう云うところが出てくると思います。
白一刀さんと黒一刀さんをうまく使い分けられたらなあと思います。
あと一刀さんに関連して、ヴィジュアルは原作一刀さんよりもやや『男』っぽいと思っていただければ。三年たっていますからね。『男子』と云う雰囲気はやや薄れつつあります。それでも序章で貂蝉に『変わらないわねん』と云われているのですが笑
次回は盗賊討伐ですかね。たぶんあっさり終わって、日常回、黄巾へと移っていきたいと思います。曹操だけに早々に。すみません。
真名ひとり目は風さんにしました。決めてました。決めていましたとも。真名を許した過程はどうだったでしょう。序盤なので大きなイベントをはさむわけにもいかず、苦心しました。
『俺にくれ』発言は魔が差した結果です。
はてさて自分なりに調節しているつもりですが、原作とキャラが乖離している場合はすみません。口調や呼称が違う場合は教えていただけると嬉しいです。
では今回はこの辺で。今週末はもう少し更新できるかな。以後、更新は週末が中心になると思います。気紛れに平日でもするかもしれませんが。不規則ですみません。
コメント、感想、支援などなどじゃんじゃんください。とても嬉しく思っています。見る度にうきうきした気分になります。
今後ともよろしくお願い致します。
ありむら
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独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは少々お強くあります。苦手な方はごめんなさい。
今回で一刀さんと華琳さんが邂逅します。