No.419180

春陽の空の花庭小路 -二次創作優雨ルート・5(最終)-

くれはさん

「処女はお姉様に恋してる 2人のエルダー」の二次創作作品。本作品は、私の書いた二次創作優雨ルート、最終話となります。  PSP版発表前に書き始め、pixivにて2011年4月10日に最終話を投稿した、妄想と願いだけで書いた、PC版二次創作の優雨ルートです。最終話の投稿から1年が経過し、別の場所にも投稿し、そこでの評価を知りたい、と考えTINAMIへの投稿を致しました。拙く、未熟な部分ばかりの作品ですが、読んで頂ければと思います。

***

――3月。

続きを表示

2012-05-06 15:23:07 投稿 / 全21ページ    総閲覧数:1723   閲覧ユーザー数:1691

 

 

――あの夜から、少しの時間が過ぎた。

優雨の思いに、僕は応える事を選んで。僕達の関係は変わった。

……とはいっても、特に何が変わったというわけでもなく。前よりも少し、

優雨が僕の近くに居る事が増えたような気はするけれど……外から見る分には、そう変わってはいないと思う。

 

「……なんだか、千早ちゃんと優雨ちゃんが前より仲良くなってる気がします。

 しかも2人で解りあってる感じで……ううっ、何だか寂しいです……」

「初音が拗ねるの、久しぶりに見た気がするわね……まあ、仕方ないかしらね。

 ほら、しっかりなさい、初音。貴女は優雨ちゃんの姉でしょう?」

 

…………そう変わってないと思っているのは、もしかして僕だけなんだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

そうして僕達は。

時間の流れを緩やかに感じながら、日々を過ごしていた。

 

 

 

 

 

************

 

 

春陽の空の花庭小路

 

 

************

 

 

 

 

 

……桜。

視界の中を、幾百の桜の花びらが舞っている。

 

僅かに湿った感じのする風が緩やかに吹き、桜並木を構成している木の一本一本から花びらが舞い踊る。

その中を、僕は――

 

 

――ほんと、ここには場違いみたい。

 

 

……これは。

覚えている。これは確か、僕が聖應に来た頃の……。

 

 

――そんなものかしら……大抵、人は場所に合わせてなんて生きていないものだと思うけれど。

 

少しの言葉を交わした後。

僕の隣にいる香織理さんは、身体の少し前に僅かに腕を伸ばしながら……そう呟く。

 

――あら、雨……?

 

 

 

 

……そうだ。この先は、確か。

 

雨に気付き、早々に寮へ戻ろうと踵を返し……その途中で、立ち止まり。

薄く降る霧雨の中を、夢の中の――記憶の中の僕は、視界の中に見えるベンチの方へと急ぎ足で歩いていく。

そうして――

 

 

 

「――――――」

 

 

天使さま、と。そう呟いた彼女を、両の腕で抱えて――

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

……目を開けると、ベッドの天蓋が目に入る。

見回した部屋の中は薄暗く、カーテン越しの星の光以外に明かりになりそうなものは無い。

 

「……夢、か」

 

未だ僅かに冷たさを残す空気の中で、独り呟く。

随分、懐かしい夢を見た。あれは確か、僕が聖應に来てすぐの頃の記憶、

……と、そこまで考えて。ほんの一年前の事なのに、懐かしいなんて思っている自分の思考に苦笑する。

 

――ほんと、ここには場違いみたい。

 

1年前のそんな言葉を、夢で再び見る事になるなんて……思ってもみなかった。

……そして、その言葉の意味を少しだけ考える。今の僕はどうなんだろうか、と。

 

置かれている状況を考えれば、相変わらず容易く肯定は出来ない。……けれど。

一年の時を、此処で過ごして。大切だと思えるものが多く出来た。

だから、この一年の出来事を否定だけはしたくない。……そう、思う。

 

 

 

……時計を見れば、時間はまだ夜の一時半。

起きるにはまだ早すぎたと、再び寝ようとして――

 

「……?」

 

防音がしっかりしている筈の、寮の個室なのに。

何故だか、階下から物音を感じる――そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

部屋の扉を開け、廊下を歩き――ゆっくりと階段を下りていく。

そのまま寝直してしまっても良かったのだけれど、何故だかその感覚が気になってしまっていた。

そうして、階下へ降りていくと――

 

「……明かりが、点いてる?」

 

こんな時間なのに、食堂の明かりが点いていた。

……消し忘れという事は、無い筈だし。こんな時間に誰だろう?

少し前にも、こんな事があった気がするけど……少しだけ気になって、様子を見てみる。

 

何かある、という事は万が一にも無いだろうけれど……それでも一応、念の為、と。

そう思いながら、そこに居る筈の誰かを驚かせてしまわないようにと、

できる限り足音を立てないように歩き――食堂の扉に近付いたところで。

 

「ふぃー、やっぱり夜の作業は冷えますねえ……もうそろそろ終わりにして、今日はこの辺で――」

 

食堂の、更に奥。厨房の入り口から、出て来る誰かの人影が見えて……

そして、僕がその影を誰か判別し終えるのと同時。厨房から出て来た人影も、僕の姿を認識していた。

……それは。

 

 

 

「――ち、千早お姉さま?」

「陽向、ちゃん……?」

 

 

僕の姿を見つけ、あちゃー、とでも言いたげな顔をしたその人影は。

……陽向ちゃん、だった。

 

 

***

***

 

 

「……いえ、そのですね。こう、何だか突然お菓子を作りたいなーという時がありまして」

「だからといって、こんな夜中に作業をしていては風邪をひいてしまうかもしれないわ。

 確かにそういう時が有るのかも知れないけれど……それでもこんな時間に、というのは感心出来ないわね」

「あー……はい、ご尤もです、千早お姉さま……」

 

 

 

――深夜の食堂。

明かりの点いた部屋の中で、僕と陽向ちゃんは向かい合わせになるようにしてテーブルに就いていた。

 

……深夜の厨房で、陽向ちゃんがしていた事。何かと思えばそれは、お菓子作りの練習だった。

あの後、少し不審な態度を取る陽向ちゃんを引き連れて厨房に入り……

そこで僕は、一つだけぽつんと置かれている小皿――恐らくは水洗いしたばかりのもの――と、

それ以外にも幾つかの食器や道具等を見つけた。

そこまで見てから、改めて陽向ちゃんに何をしていたのか、と尋ねると――

 

「――その、ちょっとお菓子作りの練習を」

 

……という事だった。

 

 

 

それぞれの前には、先程手早く暖めたホットミルク入りのカップが一つずつ。

紅茶を淹れるのには時間が掛かってしまうし、それに紅茶には眠気を飛ばす効果もある。

その為、簡単に用意する事の出来るホットミルクを選んだ訳なのだけれど。

 

「……本当の事を申しますと、ですね」

 

……陽向ちゃんはホットミルクに軽く口を付けた後、呟く様にそう言って。

中を満たす液体によって温められたカップにゆっくりと手を当て、指先を暖めるようにしてから、再び話し始める。

 

「お姉さま方が、もうすぐ卒業しちゃうじゃないですか。そうすると、それに伴って色々な事が変わってくると思うんです。

 例えば、私達が学年が上がる事だとか、新らしい寮生が入ってくるだろう、という事とか」

「ええ、そうね。でもそれが、どうお菓子に結びつくのか、私には良く判らないのだけれど……」

 

僕達が卒業して、史や優雨、陽向ちゃんが進級し。そして、新入生が入ってくる。

でもそれが今の陽向ちゃんのお菓子作りにどう結びつくのか、僕には今一良く判らなかった。

 

「……その、ですね。先輩として、新入生に何かをする方法として何がいいか、って考えた時に、

 一番最初に思いついたのが紅茶とか、お菓子とか……千早お姉さまや初音お姉さまがしてくださった事が

 思い浮かびまして。もしするならそれかなー、とか。まあ、それ以外にも自分の為っていう理由もあるんですけど」

「……自分の、為?」

 

そう、聞き返す僕に対して。陽向ちゃんは苦笑しながら、

 

「この一年で、すっかりケーキやデザートのある生活に慣れちゃいまして。でも千早お姉さまが卒業されると、

 作ってくれる人がいなくなっちゃうじゃないですか……なので、いっそ自分で作れる様になれば、と思いまして」

「……成程」

「近くのお店でケーキを買おうにも、頻度を大分下げても結構なお金になりそうですしね……

 それなら、自分で作れるようになってしまったほうが安上がりかな、と。ただの染み付いた貧乏性ですかね」

 

そういう理由なら、この行動に納得出来なくはない。

……でも、納得は出来てもその行動自体がどうなのか、という事はまた別で。

 

「……でもね、陽向ちゃん。だからといって、こんな夜更けにやろうというのは如何なのかと思うわ。

 卒業を間近に控えている今なら、身体も大分空いているし……相談して貰えれば、

 手伝う位は出来たと思うのだけれど」

 

……そう言うと、

 

「あー……。それはですね、千早お姉さま……」

 

……何だろう?

香織理さん相手なら兎も角、陽向ちゃんが僕との会話で言い淀むなんて珍しい。

その香織理さん相手の時も、会話の為のポーズとして言い淀む形を取っている事が多いだけに……尚更。

……そう考えて、それでも結局判らないままで。陽向ちゃんから答えを語られるのを待つ。

 

 

「千早お姉さま、最近はいつも優雨ちゃんと一緒にいますし。優雨ちゃんに悪いかなー、とか」

 

 

…………結構、僕の方が身が痛くなる理由だった。

 

 

 

******

******

 

 

 

「……成る程、ね。千早が珍しく優雨ちゃんとべったりじゃないと思ったら、そういう事」

「香織理さんの目には、僕は一体どんな風に映っているんですか……」

「勿論、今言った通りよ。……まあ、こんな風になるなんていうのは少し予想外だったけど」

 

 

――週末の金曜日。

陽向ちゃんのお願いで、日曜日のお菓子作りの予定を立てている最中……香織理さんが部屋を訪れ。

陽向ちゃんには「どうかご内密に」と言われていたけれど……少しだけこの事について誰かと話をしたいとも思っていた。

丁度良いかな、とあらましを説明したところ、香織理さんからそんな反応が返ってきた。

 

「それにしても、陽向がそんな事を考えていたっていうのは少し意外……でもないかしら。気は利く方だし。

 でもあの子の事だし、只の食い意地って事も有り得るかしら?」

 

香織理さんは、そんな風に揶揄う様な言い方をしてはいるけれど……多分、それを本気で言ってはいない。

今となってすっかり馴染んだ、相変わらずの2人の関係。少しだけ、羨ましくもある。

 

「でも、陽向ちゃんの考えも少しだけ解るような気がします。そうしたいと思ってくれているのは、

 この一年の僕達との生活をそれだけ大事に思っているという事ですし」

「成る程。影響力の塊の千早の言葉は、結構重みがあるわね?」

「そういう揶揄い方は、あまり好きではないんですけどね……。

 それで薫子さん共々、エルダーに選ばれてしまったようなものですし。……それに」

「……それに?」

 

香織理さんの促しに、一拍の時間を置いて。

 

「それに、史がこの寮に残るかどうか、解らないと……そう考えているんだと思います。

 史は飽く迄僕の侍女として生活をサポートする為に寮に居るのだから、僕が卒業すれば……と」

「……そうね。そうなると、この寮に上級生は陽向と優雨ちゃんの二人きり。

 そう考えるなら、無理もない事かしらね」

 

史と皆がいるこの寮生活が何時の間にか当たり前になって、暫く忘れていたけれど……

史はあくまで、妃宮に――御門の家に仕える存在であって。

僕の学院での生活をサポートするという理由で入寮した史は、僕が卒業してしまえばその理由はなくなる。

……陽向ちゃんは、その可能性を考えているのかもしれない。

 

そんな事に気が利き過ぎるのもどうなのかしらと、そう言いつつ。香織理さんは、軽く溜息を吐いて。

 

「まあ、史ちゃんがどうするのかは史ちゃん次第だもの。

 何れ卒業していく私達は、可愛い妹達の選択を待ちましょう」

「そうですね。……僕達に出来るのは、それくらいですから」

 

史も、陽向ちゃんも、優雨も。どんな選択をするにしても、去るべき僕達がその選択に干渉するべき理由なんてない。

それは史達自身の学院生活であって、自身でそれを選択する必要があるのだから。

その選択の結果、僕達に力になれる事があるのなら。……その時は、出来る限り手伝いたいと思う。

 

 

 

 

「……そういえば」

 

香織理さんは、思い出したように。

 

「陽向にお菓子作りを教えるという話だけれど、千早はどういう風に教える予定なのかしら」

「そうですね……手間の掛からない物、少ない材料で出来る物。その辺りから、集中的に教えていこうかと。

 それで少し、明日は学院外での買い物に付き合ってもらおうかと考えています」

 

深夜の時の様子を見る限りでは、陽向ちゃんはまだそういう事には慣れていない様に見えた。

練習用の食材は予め寮母さんにお願いして用意してもらっていた様だけれど、

少し量の加減が上手くいっていなかったようにも見えた。

 

食材の準備は寮母さんにお願いする事も出来るけれど、調理の段では結局自分の慣れと技術が重要になる。

きっと、覚えて損は無い筈。

 

「以前何度か、作るのを手伝って貰った事もありますし……

 もう何回か練習に付き合いながら、応用の範囲を少しずつ広げていこうかと」

「……ふむ」

 

呟き、少しの沈黙の後……香織理さんは、

 

「お菓子には当然、美味しいお茶が付き物だと思うのだけれど。ね、千早?」

 

僕の方を向いて、そう言った。

 

 

******

******

 

 

「……あの、千早お姉さま。私は、出来る限り御内密に……とお願いしたと思うのですけれども」

 

聞こえるか、聞こえないか、その位の小さな声で。                      . .

僕の右側を歩く陽向ちゃんは、僕の方を向いてそう言った後……僕の向こう側にいる優雨をちらりと見て、

 

「どうしてこのお買い物に、優雨ちゃんも付いて来ているんでしょうか。

 ああいえ、勿論嫌って訳じゃないんですけど……一応、理由をお聞きしたいなーって」

 

そんな風に、優雨も連れて来た理由を聞いてきた。

 

 

 

 

 

――土曜日。

空は良く晴れ、雲も少なく。何処かへ出かけるには丁度良い天気の日で。

昼間の暖かな空気が、もう春の日も近いことを教えてくれる。

 

 

そんな、気持ちの良い空の下を。

僕達は――僕と陽向ちゃん、それに優雨の3人は、近くの店へと買出しへ向かう為、歩いていた。

 

 

 

 

――お茶が必要となれば、それは勿論その役目の人も付き合う必要があると思わない?

   だったら、優雨ちゃんも連れて3人で行っても良いんじゃないかしら。

 

あの後、香織理さんはそう言って。僕と優雨と陽向ちゃんの3人で行ってはどうかと、そう言ってきた。

香織理さんからすれば、それは多分退屈を紛らわす為の提案だろう。

飽くまで推測だけど、僕と優雨を一緒に出掛けさせる事で、デートに近い状態にでもしたいのかもしれない。

……それでも一応大義名分というか、話の筋は通す辺り、しっかりしているとは思うけれど。

 

 

陽向ちゃんの問いに対して、僕は少しだけ笑みを作って。

昨日、香織理さんが言ったのと同じ言葉を言う。

 

「あら、理由は簡単よ?だって、お菓子にはお茶が付き物ですもの」

「それで優雨ちゃん、ですか……成る程です。優雨ちゃん、初音お姉さまや史さまから色々教えて頂いていますしね。

 私はてっきり、退屈に飽きた香織理お姉さまがちょっかいを出そうとしてるんじゃないかと思いまして」

 

陽向ちゃん、結構鋭い。……と、そんな風に考えていると。

ふと、左側から軽く袖を引かれる様な感覚があって、

 

「わたしも、頑張る」

 

僕と陽向ちゃんの話を聞いていたのか、そう言いながら。

僕の方に、少しだけ身体を寄せてきた。そんな優雨の様子を微笑ましく思いながら僕も少しだけ距離を詰めてみる。

 

「……ちょっと、歩きづらいかも」

「そうね……」

 

両側から詰めた分、却って歩き難くなってしまった。

 

「やー、お熱いですねえ。そこまで熱々ですと、羨ましいと申しますか、傍にいる私が疎外感を感じると申しますか」

「……ひなたも、ちはやとくっ付く?」

「いえいえ、千早お姉さまと優雨ちゃんの邪魔をするわけには参りませんから。

 私は淋しく、独り身の憂鬱を噛み締めでもしておりますとも」

「その反応も、それはそれで困るわね……」

 

僕達の様子を見ても特にどうという事もない様に、陽向ちゃんは笑う。

僕と優雨の距離感が変わっている事は、陽向ちゃんはとっくに気付いているだろう。

……けれど、それすらも冗談を言い合う為の材料に変えられる陽向ちゃんは。

僕が考えるよりもずっと、大きい器を持ってるんだと思う。

 

 

 

「……さて、それじゃあ」

 

視線の先には、今日の目的地の一つである店が見える。

比較的多くのお茶の葉や茶器が揃えられており、規模もそこそこ大きい。初音さん達とも、何度か来た事がある。

今日はまず此処を見て、それから近場の店の食品売り場に行く予定になっている。

 

 

 

 

……僕達はきっと、思っているよりも多くのものを受け継いで、生み出して。

それを次代に伝えていく。

 

 

紅茶の一杯だって、一皿分のお菓子だって。

それを作った人間が思う以上の影響力を持っているのかもしれない。

 

 

……それをもし、大事だと、大切だと思ってくれるのなら。受け継ぎたいと――そう、思ってくれたのなら。

 

 

 

「まずはお茶から、行きましょうか?」

 

 

 

出来得る限りを、伝えよう。

 

 

 

******

 

 

 

……そして。

卒業式の日が、訪れる――。

 

******

******

 

 

 

――卒業式を終えた日の夜。

特に何をするでもなく、僕は一人、部屋でぼうっとしていた。

 

「……ふう」

 

式を終えた後、僕達は寮の面々だけで卒業祝いのパーティをしていた。

パーティ自体は、とても楽しかった。……けれど。

 

……ベッドの天蓋。部屋の壁。机。窓。鏡台。扉。小さな衣装棚。

ベッドに倒れ込んだまま目を動かし――視界に入るものを、一つずつゆっくりと見ていく。

その一つ一つに刻まれた記憶を、一つずつ思い出していく。

 

 

――だからね、聖應に転入すればいいと思うの。

 

 

始まりは、母さんのそんな言葉からだった。

僕の状態を見かねた母さんの、強引過ぎる行動。……今思い返しても、本当に無茶苦茶だったと思う。

そしてどんな風に無茶が通ったものか、「僕」はこの聖應女学院に転入する事になった。

 

学院の外で、既に一度会っていた薫子さんと予想外の再会をして。

初音さんに出会い。香織理さんに出会い。陽向ちゃんに出会い。

 

 

……そして、小雨の降る中で。ベンチに座っていた、優雨と出会った。

 

 

 

 

 

……それから、一年が過ぎた。それだけの時間を、僕はここで過ごした。

 

 

「…………」

 

僕達は、あと数日でこの寮を離れる。

……離れなければ、いけない。この学院を巣立つものが、居座っていてはいけないのだから。

 

 

******

******

 

 

「――ええ、解りました。……それにしてもお母様、どうして突然その様な事を?」

『ちょっと、ね。お母さん、クリスマスパーティでは色々迷惑を掛けてしまったもの。

 出来るならお詫びをしたいというところかしら』

「優雨は、その様な事を気にはしないと思いますけれど……」

『あら、千早ちゃんたら随分と優雨ちゃんを信頼しているのね?』

「…………私が、優雨はそうなのだと知っているだけです。

 それでは後程、優雨の予定を聞いてから掛け直しますね。お母様」

『ええ。お願いね、千早ちゃん』

 

……その言葉の後、電話が切れる。

僕は待受けの状態へと変わっていく携帯電話のディスプレイを見ながら、軽く溜め息をつく。

 

 

 

――退寮後の諸々の処理について話をする為、母さんに電話をして。

そうしたら何故か急に、母さんは優雨の事を話し始めて。何時の間にかそんな話になってしまった。

 

冬休み以来……二ヶ月近くぶりに聞いた母さんの声は、以前よりも少し落ち着いていたように思う。

それは実際そうなのかもしれないし、僕の気のせいかもしれない。顔の見えない会話では、判断は難しい。

……それよりも。

 

「……母さんも、気にし過ぎだと思うけど」

 

そう呟いた、直後。――控えめなノックの後、部屋の外から史の声が聞こえてくる。

 

「宜しいでしょうか、千早さま」

「ええ、入って良いわ」

「……失礼致します。お茶をお持ちしました、千早さま」

 

部屋に入り、そう言ってから史はお茶を淹れる準備を始める。

……先刻の話は史にも伝えた方が良いかな。そう思いながら、史が準備を終えるのを待って。

 

「先刻、母さんから電話があったんだけど」

「……奥様から、で御座いますか」

「そう。……クリスマスパーティの時の御詫びに、もう一回優雨を招待したいらしい」

 

それが、先刻まで母さんとしていた電話の内容。

優雨の予定を聞いて、それに合わせる……とは言っていたけれど。予定が空いていなかったら、どうするんだろうか?

その辺りを言ってこない所を見ると、多分それを考えてはいないのかもしれない。

そうなら、相変わらず母さんらしいとは思う。…………そこまでは、良いのだけど。

 

――ええ。お願いね、千早ちゃん。

 

電話での受け答えの仲、母さんの声は随分弾んで聞こえた。

……何だろう、何処からともなく感じるこの不安は。

一応、警戒はしておいた方が良いかもしれない。

 

 

 

 

電話を終え、暫く史と退寮の処理について話をしていて……その作業の途中で。

ぽつりと、史が呟いた。

 

 

「……千早さまも、もうすぐ聖應をお出になられるのですね」

「……そうだね」

 

少しずつ、時間は進み。僕達が此処に居られる時間も、短くなっていく。

……それを、多分。今の僕は、心の何処かで惜しいと感じている。

それだけ、この生活が大事だって……何時の間にか、思っていた。たった、一年なのに。

 

……史は、どうなんだろうか。結局、寮にこのまま残る事を選んだ史は。

僕達が卒業し、新入生が入って来て変化するだろう寮での生活を……。

 

「ふ――」

 

史に少しだけ、聞いてみようとして――途中で止めた。

自分の名前が呼ばれたと思い、史は振り返り。

けれど僕が何でもない、と返すと不思議そうな顔をして作業の続きに戻る。

 

 

この生活がどうだったのか、とか。この後をどうするのか、どうしたいのか、とか。

それはきっと、史が考える事で。僕が今聞くべきではないと思ったから。

 

 

 

******

******

 

「――結局、どうにかなるものなのね。最初話を聞いた時は、ちょっと綱渡りになるかもしれないと思ったけれど」

「現実としては、別の理由で随分な綱渡りでしたけどね。

 エルダーに選ばれる……なんていうのは、流石に予想外でしたから」

 

――ティーカップから立ち上る湯気を注ぎ口で揺らしながら、2杯目の紅茶を注ぐ。

中身を注ぎ終えたばかりのカップを手に取ってから、香織理さんは少し笑って。

 

「あら、可能性としては有り得るかも知れないと思ってはいたわよ?

 目を引く銀髪、美人、優美な物腰。これで話題にならない筈が無いもの」

「……実際そうなってしまった以上、僕には反論できませんよ」

 

 

 

 

……後片付けの為の手配を大方し終えてから、少し休憩を取り。

それから僕は、香織理さんの部屋を訪れていた。

 

春に僕の正体を知られてから、香織理さんには大分面倒を掛けてしまったし……その御礼を、と思ったのだけど。

お茶の準備をしながら、話し始めているうちに。何時の間にか、一年を振り返るような話になっていた。

 

 

「最初は、私と史ちゃんだけで千早を助けていく事になると思っていたのだけど……

 今では寮生全員が千早の秘密を知っていて、それでも成り立っているものね。随分と面白い事になったと思うわ」

「誰か一人に知られた時点でアウト、の筈が……随分有り得ない事態になったと思いますよ、本当に。

 香織理さんにも、薫子さんにも。それに、初音さんにも、陽向ちゃんにも……感謝してもし切れません」

 

……2月に入ってから、月の半ば程を過ぎた頃。

流石に初音さんや陽向ちゃんにも、何かの説明をしなければならないと、そう思い。

僕の事も、僕と優雨の事も。覚悟を決めて、全てを話した……のだけれど。

 

 

 

***

***

 

 

「――千早ちゃんが、男の人……ですか」

「……はい」

 

……食堂の中には、二人きり。他に誰の姿もない。

全てを話し、全てを聞いて。僕の向かい合わせの席に就く初音さんは、硬い表情を浮かべていた。

 

 

 

……初音さんと陽向ちゃんに、全てを話す覚悟を決めて。

そうして、話しはしたけれど……やっぱり、受け入れられないのが当然だ。

それは本来有り得ない、有ってはならない事態の筈で。受け入れた香織理さんや薫子さんが特殊なのだから。

 

「……」

「……」

 

……僕も、初音さんも。どちらも一言も発さず、ただ沈黙だけが続く。

受け入れられない事を前提に、話してはいるけれど……受け入れられなければ、僕はその選択をするしかない。

 

そうなる可能性があるのなら、最初から話さなければいいのかも知れない。……でも、僕はそれをしたくなかった。

例えそれが、相手を傷つけるだけの自己満足だと解っていても。

 

……ややあって、初音さんが口を開く。

 

「……千早ちゃん」

「…………はい」

 

今まで向けられてきた顔が、全て拒絶に変わる。その可能性を考えながら、初音さんに応える。

……けれど、その後に初音さんの口から飛び出してきたのは思いもよらない言葉だった。

 

 

 

「千早ちゃんは、寮則を覚えてますか?」

「……………………はい?」

 

 

 

余りにも予想外の言葉に、固まっていた体から変な風に力が抜けてしまう。……いや待て、待つんだ。

寮則の話が出てくるのは良く解らないが、僕は初音さんの言葉をきちんと受け止めなければいけない。

この後に初音さんが何を言うかも解らない。許容かもしれないし、拒絶かもしれない。

……そう考え、気を取り直してから。初音さんの言った「寮則」を思い出し、口に出す。

 

「……ええと。寮則というのは入寮式の際に初音さんが仰っていたものの事ですよね。……確か」

 

――門限はなし。但し、22時までの帰宅が望ましい。

 

――コンビニエンスストアの利用は、22時以降は出来るだけ控える。

   どうしても必要がある場合は、一人では行かず二人以上で行く事。

 

その他、食事の時間、お弁当の申請と受取の方法、洗濯機の使用等々。

……全て、この一年で僕達が守りながら生活してきたルール。だけど――これに何の意味があるんだろう?

 

 

「ええ、正解です。――さて、千早ちゃん。

 この中に"男性が寮に住んではいけない"なんてルールは、存在していないんですよ?」

 

 

 

 

「…………え″?」

 

 

 

 

……余りにも予想外の返答に、変な声が出た。何だそれ……!?

 

「いやっ、問題にするべきはそこじゃあないでしょう!?

 例えば生徒会長の立場から、男が女学院に通っている事に対しての非難とか、処分とか……っ!」

「生徒会長はさくらちゃんに引き継いでもらったので、私はもう生徒会長ではないですよ、千早ちゃん?」

 

いやいや……っ、そういう問題じゃないでしょう!?

 

……そんな風に、僕が軽いパニックに陥っているのを見て、初音さんは。

 

「私は、一年間千早ちゃんを近くで見てきました。それなりですけど、千早ちゃんの人となりも知っています。

 ……だから、私はこう思うんです。――千早ちゃんが此処に居ても、私は構わないって」

 

……笑みと共に向けられた、その言葉に。少しだけ落ち着きを取り戻す。

けれどそれでも、やはり怖れは残っていて。不安が言葉になり、口を吐いて飛び出す。

 

「ですけど……」

「ね、千早ちゃん。生徒会長じゃない今の私は、この寮の寮監で、優雨ちゃんの姉で……ただ、それだけなんです。

 だから、寮監として寮の規則に反していない以上、千早ちゃんを罪に問う事も出来ませんし。

 それに、優雨ちゃんが千早ちゃんを信じてるんですから。姉として、信じない訳にはいかないでしょう?」

 

……一番の問題を無視した、丸っきりの屁理屈。ルールを守る側の、ルールの踏み倒し。

流石にこんな答え方をされたら、勝てる気がしない。はあ、と一つ大きな溜息を吐いて――

 

「……只の屁理屈じゃないですか、それは」

 

……そう、疲れた様に言う僕に、初音さんは。

 

「屁理屈だって良いんです。千早ちゃんは私のお友達で、優雨ちゃんの大切な人で……

 だったら、私に千早ちゃんを非難するなんて事、できっこないんですから。ね?」

 

***

***

 

今考えても、有り得ない屁理屈の捏ね方だったと思う。

でも、結局それで強引に押し通されてしまった。話を聞いて貰っていたのは、僕の筈なのに。

……敵わないな、本当。

 

陽向ちゃんの方はといえば、かなりあっさりと僕の事を受け入れてしまっていた。

それどころか、話を聞いていた間目を輝かせていた気もする。……いいのかな、それで。

 

そして、余談として。寮の全員が事実を知っている今でも。

全員が集まる場では、一人称は「私」のままでいる。これは一応、僕なりのけじめ……のつもり。

 

 

 

「千早と初音、両方から話を聞いてはいても……やっぱり、随分可笑しな理屈だと思うわね。

 ……初音がそんな事を言うなんて、ね」

「初音さんに助け舟を出してもらったのだと、そう考える事にしています。

 僕の方には元々無かった道理を、『寮則の穴』という形で作って貰ったんですから」

「なら、千早はその穴だらけの寮則に感謝しなくちゃ、って事になるのかしらね?……ふふっ」

 

カップを持ったまま、香織理さんは面白そうに微笑む。

話の流れだけで言うなら……まあ、そういう事になるのだろうか。

 

 

 

……穴、と香織理さんは言うけれども。僕には、少しだけ気になる事があった。

寮での、そして学院での生活にも少しずつ慣れ始めてきた初夏の頃、

一度初音さんと寮則の話をした事があった。――本当に、こんなに緩い寮則で良いのでしょうか、と。

 

……それに対して、初音さんは。

数年前に寮則が大幅に改則されたと聞いてはいるんですけど、と前置きをしてから、

 

――寮監督生は、寮生の安全と自律だけでなく、自由に責任を持つ者であり。

   その時代のお姉さまが、寮則の大幅な改則を決めたのなら……きっとそれだけ、

   寮生にもっと自由を与えても良いのではないか――そう考えたのかな、って。私は、そう思ってるんです。

 

そう、言っていた。

 

 

 

その時代の寮監は、初音さんの姉――上岡由佳里さんというらしい――その人の、

更に上の姉が務めていたらしい。……そして、僕はその時代について色々と心当たりがある訳で。

 

まりや従姉さんは、寮に入って学院に通っていた。……そう、母さんが昔言っていた。

清花伯母さんだけじゃなく、まりや従姉さんとも、それなりに話す機会のある母さんの言葉だから……

恐らく、それは事実だろうと思う。

 

 

……なら、その時代に瑞穂さんが――鏑木瑞穂が、この学院に転入していたのなら。

そしてまりや従姉さんが寮監を務めていて、瑞穂さんの転入の可能性を予め知っていたのなら。

まりや従姉さんは、寮則を不都合のないように改則するだろうか?

 

……結局、本当のところは解らない。これは飽く迄僕の推測だし、間違っている可能性も充分にある。

まりや従姉さん以外の人が寮監を務めていた可能性だって勿論あるし、

そもそもまりや従姉さんの時でないかもしれない。仮にまりや従姉さんが実際に寮監を務めていたとしても、

瑞穂さんの事など関係なく、好きに改則した可能性もある。

……だからそんな可能性を考える事自体、只の邪推だ。結局、今ある寮則が全てなんだから。

 

……そこまで考えて、カップを口元に寄せて。そこでふと、部屋に飾られた時計が目に入り――

この部屋に入ってから過ぎた時間と、自分が何の為にこの部屋を訪れたのかを思い出す。

どうしてこの部屋に来たのか、すっかり忘れてしまっていた。

 

 

「……香織理さんは、どうでしたか?この一年間は」

「退屈はしなかったわね。薫子と千早、弄り甲斐のある相手が2人も居たんですもの。

 それなりに面白い一年だったと思うわ」

「弄り甲斐、ですか……そう言われてしまうと、困るものもありますけど。

 ……でも、有難う御座います。香織理さん」

 

……僕がそう言うと、香織理さんは変な顔になった。

 

「……弄ってばかりだった相手に、礼を言う筋合いは普通無いと思うのだけれど」

「でも、僕がこの学院を無事に卒業するために……香織理さんに助けて貰った部分は随分多いですから。

 だから、そのお礼を……と思ったんですけれど」

 

僕のその言葉に、香織理さんは苦笑を浮かべて。

 

「……全く、千早は律儀なんだから。私達は、その事で礼を言い合うような関係じゃないでしょう?

 私が千早を助けて、その見返りに千早に協力してもらう。最初から、そういう契約じゃない。

 ……実際、私も千早に助けられたのだし」

 

……明らかに、僕の方が比重が大きい様な気もするけれど。

香織理さんがそういう形にするのが嫌だと言うのなら、それはそれで仕方が無いか。

照れ隠しと思っておこう。……本人には、勿論そんな風には言えないけれど。

 

「ええ、解りました。……では」

 

中身の少なくなったカップを、中空――肩の高さ近くまで持ち上げる。

香織理さんも、僕のその動きに合わせるようにして。腕を軽く伸ばして――

 

「お疲れ様です、香織理さん」

「お疲れ様、千早」

 

カップ同士がぶつかり、小さな音を立てる。

――互いを労う形なら、僕達の関係にはこれがいい。

 

 

 

 

 

 

そんな風に、一つ一つ整理を終えて。その間も、少しずつ時間は過ぎて行き。

いよいよ明日が退寮の日になった。

 

 

******

******

 

 

――公園に植えられた桜の木は、その枝に開き始めたばかりの蕾を幾つか付けて。

時折少し強い風が吹いても、花びらを散らす事は殆ど無い。

 

暖かな陽光と、少しだけ強めの風が吹く、春の暖かな日。

その中で僕達は、公園のベンチに座り……軽く休憩を取っていた。

……のだけれど。

 

「…………うーん」

 

首を捻る。どうにも、納得がいかないような。

 

「ちはや、どうしたの?」

「いや……何でもないよ、優雨。ちょっと気になることがあっただけだから」

 

 

 

 

 

――退寮前日。

僕は優雨の誘いを受けて、優雨と一緒に少し外へと出掛ける事になった。

近場の店を回り、話をしながらのんびりと歩いたり。春物の服も、優雨の希望で見て回っていた。

天気は絶好とは行かず、少し雲は多かったけれど……それ以外は、内容を考えてもそれなりに充実している筈だ。

 

 

……いや、そこまではいいのだけど。

 

 

――あ、出掛けるんだ。行ってらっしゃい、千早、優雨ちゃん。

 

 

――行ってらっしゃい、千早お姉さま。

 

 

二人の様子を思い出して、改めて不審に思う。

僕達が寮を出る時に、何故か薫子さんや陽向ちゃんが少しニヤニヤしながら見送っていたような気がする。

史も昨夜から、少し様子が変だった気がするし……何だったんだろう?

 

 

……考えてみても、心当たりは無い。

もしかしたら只の気のせいかも知れないと、そう考えて……けれど、やはり何処か納得がいかなくて。

 

 

「……?」

 

……そんな僕を見て、優雨も横で不思議そうに首を傾げていた。

 

 

 

***

***

 

――一方、その頃。

 

***

 

 

……あたしと陽向ちゃん、それに史ちゃんは食堂のテーブルに就いて。特に何をする訳でもなく、ただ時間を過ごしていた。

食堂のテレビからは、数ヶ月前に放映された番組が再放送という形で流れている。

 

最初に見たときは、この結構トンデモなクイズの答えには驚いたんだけど。

流石に見るのが2回目になると、答えも解っちゃってるし。こういう雑学番組は、あんまり面白くないかな。

 

そんな事を思いながら、ティーカップに手を伸ばして。カップを口に運んで、最後の一口を堪能する。

……うん。やっぱり史ちゃんは、紅茶要れるの上手だよね。お茶の淹れ方は奏お姉さまに教わったりしてたから、

あたしも少しくらいなら出来るけど……そんな程度じゃ、ちっとも太刀打ち出来そうにないや。

 

そうしてからになったカップを見て、史ちゃんがお茶の御代わりを注ごうとするけど。

別にいいよ、って、あたしはそれを手の動きで制する。

 

 

……時計を見ると。

千早と優雨ちゃんが出掛けてから、そこそこの時間が過ぎていた。――さて、と。

 

 

「……千早は、行ったよね」

 

椅子に座ったまま、体を伸ばす様に動かして。誰に向けるでもなく、あたしは呟く。

その呟きに、

 

「ええ。お行きになられましたとも、薫子お姉さま」

 

あたしから見て、斜め右。テーブルの対角になるその位置に座っていた陽向ちゃんが応えた。

……そう。千早が出掛けている今は、企みを実行する絶好の機会。――と、そこまで考えたところで。

食堂の扉が開いて、初音さんと香織理さん、それに二人を呼びに行った史ちゃんが入ってくる。

 

一番最後に食堂に入ってきた史ちゃんは、食堂と廊下を繋ぐ扉を後ろ手にゆっくりと閉める。

そして、あたし達に向かって軽く礼をした後――顔を上げて、あたし達の方を見て。

 

 

 

「皆様――厨房の準備、全て整いまして御座います」

 

 

 

***

***

 

 

「……もう、こんな時間なんだ」

「うん。……けっこう、遅くなっちゃった」

「でも、それだけ長く楽しんでいた……って事だから。遅くなるのは、別に構わないと思うよ?」

「うん」

 

――夕暮れの、帰り道。

彼方の空が少しずつ暗くなっていくのを見ながら、僕と優雨は寮への道を歩いていた。

僕も、優雨も。それぞれの片手に一つずつ、買い物の詰まった袋を提げて。

 

 

 

 

優雨と並んで歩きながら、ぼんやりと考える。

……これがきっと、寮への最後の帰り道で。僕はもう明日から、この道を歩く事はないのだと。

 

…………優雨とは、暫く離れ離れになる。

今までが寮生活による同居だったから、接触の密度が低くなるのはどうしても仕様が無い。

でも、それを淋しいと感じるのは……きっと、今の密度に慣れすぎてしまったからだろうか。

 

卒業し、進学して。外に向かう僕と、それとは対照的に、学院の内に残る優雨。

僕達の関係こそ、卒業で途切れず続くと解ってはいるけれど……

それでもどこか遣る瀬無い気持ちを感じる。……随分重症だな、僕も。優雨の事をどうとは言えない。

 

 

……と。

荷物を持たず、空にしていた右手に何かが触れる。手元を見れば、優雨が僕の手を掴んでいた。

そのまま視線を少し上げて見えた右隣の優雨の顔は、うっすらと赤く見え。

僕もそれに応えるように、掴んできた優雨の手を握り返す。

 

 

繋がった影を、引き摺って。

これから行われる、寮での卒業生の送迎会――これから僕も協力して行う、その準備を。

どういう風にしようか、なんて考えながら……優雨と二人、歩き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「只今戻りました」

「ただいま」

 

寮の玄関を開け、中へと入り。靴を仕舞った後、ふと思う。

……随分、静か過ぎる気がする。出掛けた訳でもないだろうし、どうしたんだろう?

 

…………まあ、寮での最後の日だから、各々の部屋でのんびりと過ごしているのかもしれないと、そう考えて。

取り敢えずは買ってきた荷物を置く為、食堂に入――ろうと、した僕に向けて。

 

 

ぱぁん、と。幾つもの破裂音が鳴り響いた。

 

 

 

「――誕生日おめでと、千早!」

 

 

 

――――え?

 

 

 

 

 

そんな言葉を僕にかける薫子さんと。既に食堂に居た、僕と優雨以外の皆がこちらを見ていて。

事態が良く理解出来ていないまま、暫し呆然として――それからなんとか回復して、

混乱する頭の中、とりあえず幾つか質問を目の前の薫子さんにぶつける。

 

「……あの、薫子さん?今日は寮の送迎会の筈では……。それに、私の誕生日は明後日で――」

「勿論、知ってるよ?千早の誕生日が今日じゃないって事も」

「それでしたら――」

 

どうして、と。そう聞こうとした僕に、薫子さんは。

 

 

「だって、千早があたし達皆の誕生日を祝ってくれたのに、千早の誕生日だけ祝わない、っていうのは変でしょ?

 それに最後くらい、ぱーっと楽しくやろうじゃない!だから、送迎会と千早の誕生日、一緒!」

 

 

周りを見ると、クラッカーを手にした皆も薫子さんと同じ表情で。

何時の間にか僕の隣に来ていた優雨も、笑っていた。

 

……全く。

 

 

 

「それでしたら、仕方ないですものね――」

 

 

 

宴の準備は既に終わり、僕が手を挟む余地もなく。

後の手順は、開始の合図だけ。

 

 

「それじゃあみんな、手にグラスを持って――」

 

 

初音さんの言葉に従って、皆それぞれ手にグラスを持って。

 

 

 

『――かんぱーい!』

 

 

 

宴が、始まった。

 

 

 

 

 

 

「ふっふっふ……千早お姉さま仕込みのお菓子作り技術、今回は惜しみなく注ぎ込みましたよー!

 なんてったってお菓子作りの師匠のためのお菓子ですから!」

「あんまり調子に乗らないの。……でもまあ、確かにそれなりの腕ではあるわね。悪くはないわ」

「おおー、香織理お姉さまから滅多にないお褒めの言葉が」

「……あら、今のは千早の指導の良さを褒めたのよ?」

「……少しくらい褒めても罰は当たらないと思うんですけど、香織理お姉さま」

「そういえば、優雨はずっと私と一緒に居たのだけれど……もしかして、優雨は私を連れ出す役目だったのかしら」

「じつは、そう。……でも、お出かけ楽しかった」

「優雨ちゃんには、千早ちゃんが帰ってくる時間の調整をしてもらってたんですよ。

 私たちの準備の時間を調整するのに、こっそりとメールで連絡を取ってもらってまして。

 ……それ以外にも、千早ちゃんとのお出掛けがどれだけ楽しいかっていうメールも、ほら」

「……いつの間に」

「ほら千早も、初音も!飲み物が足りないぞー!」

「……薫子お姉さま、何故清涼飲料水で酔っ払った真似など為さっておられるのでしょうか」

「いや、ちょっと盛り上がりが足りないかなーって。……駄目かな、史ちゃん」

「そんな事を申し上げる積もりは史にはないのですが……それは花見の際のノリではないかと」

「……うぐ。あたしの盛り上げ方は親父臭いんだ……」

 

 

 

 

 

 

……そんな風にして、夜は更けていった。

 

 

***

***

 

 

「――ふう。……まだ、少し冷えるかな」

 

……送迎会、兼僕の誕生日祝いのパーティーを終えて。

皆が部屋に戻った後、僕は何となくテラスに出ていた。部屋に戻っても特にする事はないし、

宴の興奮を少し、風に当たって冷ましたかったというのもある。

 

……どうしても。この生活が惜しいと、少しだけ思ってしまう。

それだけ、此処での生活を気に入っていて。だからこそ、今になっても未練がある。

 

「……一年、か」

 

ぽつりと、そう呟く。

 

――手摺りに手を掛け、空を見上げても。ただ雲ばかりが夜の空を覆っていた。

昼に出掛けた時、少し雲が多いと思っていたけれど……夜空の中、其処にある筈の月は雲に霞んでしか見えない。

 

この夜が明ければ、この生活は終わる。

結局、どんなに未練があろうと……時間の流れは留まらず、朝は来る。卒業してからの、この数日と同じ様に。

 

 

 

 

――と。

 

「……ちはや?」

 

僕を呼ぶ声が、少し遠くで聞こえて。――振り返ると、テラスの入り口からこちらへと、優雨が歩いてきていた。

優雨もあの後、部屋に戻って休んでいたと思ったんだけど……どうしたんだろう。

と、そう思うと同時に。この構図が、何時かの僕達とよく似ていると気付いて、少しだけ苦笑する。

 

「……?」

 

優雨はそんな僕を見て、少し不思議そうな顔をしていた。

 

「どうしたの、優雨?こんな時間にテラスに来たりして」

「うん。……なんとなく、ここにちはやがいる気がしたの」

 

僕の問いに、優雨はそう答える。

……優雨は、もしかして僕を探していたのかな――と、そう思った後。優雨は僕に、こう言って来た。

 

 

「……あのね、ちはや。わたし、ちはやに見せたいものがあるの」

 

 

 

 

 

――見せたいものがある、と。そう言われ。僕は、歩き出した優雨の行く先へと付いて行く。

優雨はそのまま何故か寮を出て、学院内の何処かを目指して歩いていた。

 

……優雨は、何処へ行くつもりなんだろう?

そう思いながら、月の見えない夜闇の中……足元に注意を払いながら、優雨の隣を並んで歩く。

その間、優雨は何も言わず。ただ、僕の方を時折ちらりと見ながら歩き続けて。

 

 

……そして、気付く。

僕は以前にも何度か、こうして優雨と歩いていた記憶がある。

だとするなら――この先にあるのは。

 

……優雨も、僕も。ほぼ同時に、足を止める。

そして隣に立つ僕に向けて、囁く様に。優雨は――

 

 

「――これを、ちはやに見せたかったの」

 

 

その言葉と、タイミングを合わせるかのように。

今まで隠れていた月が雲間から姿を見せ、地上を照らして――

 

 

――花壇を覆う、幾十もの花の姿が見えた。

 

 

夜闇の中で色彩を失い、けれど月の光によって輪郭だけが際立つ。

その中には一年前に見た事のある花もあれば、初めて見る花もある。

……花壇一杯の、小さな花庭。その姿はただ、壮観で。

 

「……綺麗、だね」

「うん。園芸部のみんなや、うたのといっしょに頑張ったの」

 

隣に立つ優雨は、微笑んでいる。「一緒に頑張った」の中に、色々な出来事があったのかもしれない。

それこそ優雨を微笑ませるような、楽しい出来事が。

 

「みんなにたくさん助けてもらって、わたしもお花、咲かせられた。

 ……助けてもらって。わたしは、こんなことも出来るんだって、わかった」

 

少し、間を置いて。

 

「他にも、たくさん。すごくたくさん。ちはやや、ちとせや、お姉さま。それに、ひなたにも、あわゆきにも、うたのにも……

 たくさん、教えてもらって。すごく、助けてもらったの。だから――」

 

 

弱い風が吹き、花壇に植えられた花の影が揺れる。

花と同じように、緩やかに揺れる黒髪を右手で弄び……そうしながら顔を僕の方へ向けて。

 

 

 

 

「――わたしも、誰かにそうしたい。そんなふうに、なれるかな」

 

 

 

 

 

 

……そんな風になれるか、なんて。答えは勿論、決まっている。

優雨はそれを自覚していないのかもしれないけれども、僕達は随分優雨に助けられてきたのだから。

 

だから僕は、優雨に向かい合って。笑顔で答える。

 

 

 

 

 

「勿論――優雨がそうしたいと思うのなら、幾らだって」

 

 

 

 

 

――その僕の言葉に、

 

 

 

 

「――うん」

 

 

 

 

優雨も同じ様に、笑って答えた――。

 

 

 

 

******

 

 

――それから、2度の冬が過ぎ。

再び春が来る。

 

******

******

 

 

――敷地の外周の限り、延々と煉瓦の外壁は続き。その高さを越えて、樹は悠々と枝を伸ばしている。

青青とした葉を付ける木の下を、僕ともう一人――史は、煉瓦の壁に背を向けるようにして立っていた。

 

 

 

……そこに。

 

「千早ちゃーん!」

 

僕達の姿を見つけて、初音さんが早足で歩いてくる。

……そんなに急がなくてもいいと思うんだけどなあ。

 

「……ごめんなさい、遅くなってしまって。向こうの方でさくらちゃんと沙世ちゃんを見掛けて、ついつい話し込んでしまって」

「その位でしたら、特に問題ありませんよ。……というか、まだ予定の時刻より少し早いのですし。

 もう少し位お話を続けていても宜しかったのでは?」

「あはは……それがですね、沙世ちゃんのほうから話を打ち切られちゃいまして。

 沙世ちゃんが、私達はこれから、耶也ちゃんを迎えに行くけど……

 私の方は自分の妹が卒業するんだから、そっちの方に行ってあげなさい、って」

「……成程」

 

沙世子さんも来てるのか……問題のなさそうな服装で来てはいるけど、それでもあまり遭遇したくはない。

……こんな格好をするのに、すっかり躊躇いがなくなっているのは自分でもどうかと思うけど。

そんな考えを振り払うように思考を切り替え、目の前の初音さん、隣の史――と、順に目を向けて。

 

「これで、この場に寮生は3人……ですか。香織理さんと薫子さんは、

 一足先に喫茶店へ向かっている、という風に話は聞いていますけれども……やはり?」

「ええ。……去年、史ちゃん達の卒業式の時に、千早ちゃんと薫子ちゃんの、

 先代エルダーの2人共が来て大騒ぎになってしまったのを覚えていて。

 それで多分、今年は行かない方がいいって思ったのかもしれません」

「……そんなに気にしなくても、良いとは思うのですけれど」

 

けれど、薫子さんの気持ちは分からなくはない。この日の主役は別にいるというのに、

それを差し置いて僕達ばかりが目立ってしまう、なんて事態を避けたいと考えているのかもしれない。

 

……実際、あの時は来ないほうが良かったかな、という風にも少しだけ考えた。

本来卒業生として見送られるべき立場の雅楽乃や雪ちゃん、ケイリまでもが僕達の元に集まり、

大騒ぎになってしまったのだから。

 

「確かに、大きな騒ぎにはなってしまいましたけれども……卒業する姿を見送りたいと思う人がいるのであれば、

 それ位はしても許されると、私は思います。……但し、出来る限り密やかに、が条件ですけれどね」

 

……そういえば、香織理さんはどうなんだろうか。

聞いたら多分、私は妹を出迎えるなんて柄じゃないわ――とでも言うのかもしれないけれど。

 

そんな風に考えている僕を横目に、初音さんは少し苦笑している。

……まあ、薫子さんに『密やかに』は少し難しいかもしれない。それが出来なくて去年見つかってしまった訳だし。

 

 

 

「……千早さま、初音お姉さま。そろそろ頃合かと存じます」

 

……時計で時間を確認した史が、僕達にそう伝える。

僕の方でも腕に巻いた時計を見ると、確かに優雨達と打ち合わせた時間が近い。

 

「有難う、史。……では、そろそろ行きましょうか?」

「ええ。ただし、『密やかに』ですよね、千早ちゃん?」

「勿論です」

 

僕達は、互いに頷き合い。正門に向けて、ゆっくりと歩き始めた。

 

 

 

 

――ここは、聖應女学院。

明治十九年に設立された由緒ある女学院。日本の近代化に合わせ、

女性にも相応しい教養を学べる場が必要だ、という理念に基づいて創立された……所謂『お嬢様学校』。

 

 

此処を卒業した彼女達は、多くの思いを胸に、様々な様な道を行くのだろう。

……けれどその心は、きっと未来へ馳せた思いに溢れている。

 

 

 

「……あ!千早ちゃん、優雨ちゃん達がいましたよ!」

 

煉瓦のの外壁沿いの道の先、正門の付近。

そこに、こちらに向けて手を振る陽向ちゃんの姿と。長い黒髪を揺らしながら横で微笑む、優雨の姿があった。

 

「そんなに急がなくても、優雨も陽向ちゃんも逃げたりはしませんよ?」

「だって、早くおめでとうって言ってあげたいんですよっ」

「……もう」

 

結局、こんな場で『密やかに』なんていうのは無理なのかもしれない。

……だって僕達は、優雨と陽向ちゃんを祝う為に此処に来ているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「優雨ちゃんってば、下級生の子達に大人気だったんですよ?卒業しないでくださいーって泣いてる子もいましたし」

「……ひなた、はずかしいから言っちゃダメ」

「あら、どうして?つまりはそれだけ優雨を慕ってくれる子達が居た、という事でしょう?」

「だって……なんだか、くすぐったい」

「くすぐったくたって良いんですよ、優雨ちゃん。だって、それはすっごく嬉しい事なんですから」

 

 

――この世界は、広くて。そして、多くの出会いがある。楽しい事も、悲しい事も……素敵だと思える事も。

 

 

「そういえば、優雨と陽向ちゃんは寮の子達にお祝いをしてもらう予定は有るのかしら。

 もし有るのなら、こちらの方のお祝いの時間を考えないといけないけれど……」

「あ、そこは心配要りませんとも。寮の子達とのお祝いは夜にやる予定になってますので、それまでに帰れば大丈夫です」

「みんな、行ってらっしゃい、って言ってた」

「……そう。なら、大丈夫かしら?」

 

 

――その出会いは、奇跡の様に世界を変える。一人では諦めていた事も、簡単に解決してしまえる事もある。

 

 

「とは言っても、あまりゆっくり歩いていると、その内に薫子さん達から催促のメールが来てしまうかもしれないわね」

「……実は、薫子お姉さまからは既に。『出来るだけ早く来てくれないと、ケーキの誘惑に負けそう』との事です」

「あらら……じゃ、ちょっとだけ急ぎ足で行きますか。薫子お姉さまと香織理お姉さまを待たせちゃ悪いですし」

「そうですね……それじゃあ千早ちゃんも優雨ちゃんも、急ぎましょう」

「ええ」

「うん」

 

 

――誰かの隣にいて、誰かに助けられて。

   そうして自分の、誰かの世界を変えながら。僕達は長い道程を少しずつ歩いていく。

 

 

 

 

「……ね、ちはや」

 

 

薫子さん達が待っている喫茶店までの道を、ほんの少しだけ早く歩く。

その途中で、僕の隣を歩く優雨が声を掛け。歩く邪魔にならない様に気を使いながら、ゆっくりと僕の手を握ってくる。

 

 

「なに、優雨?」

 

 

手を握る優雨に応える様に、僕も優雨の手を握り返す。

 

 

「うん。あのね……」

 

 

 

 

……手を握る力が、少しだけ強くなり。そして、優雨は花の様な微笑を浮かべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――大好き、ちはや」

 

 

 

 

 

                                            了

 


 
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