No.412292

妖精の息子

カカオ99さん

ケイネスは長髪にしたら某指輪のエルフに似ていそうという思いつきで書いた話。ケイネスの純粋な出番は冒頭の肉体だけです。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。事件簿発売前に書いた話なので、キャラ造形が違うのはご了承ください。聖杯戦争前のケイネスの名残→http://www.tinami.com/view/381830

2012-04-22 02:49:20 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:3658   閲覧ユーザー数:3654

   1

 

「ではこちらへどうぞ」

 担当者はうやうやしい態度で、アーチボルト家の代表として来た三人の魔術師たちを招いた。

 イギリスはロンドン、魔術協会本部の時計塔の一室、遺体安置所の中央には、簡素なベッドに白い布をかけられた一つの遺体があった。温度管理がされた部屋は無機質で、飾りはない。騒音とも無縁。

 遺体は古代帝国の祭壇に捧げられた生贄のようであり、体の線も面立ちも、爬虫類を想像させる担当者は神官のようでもあった。

 逆に現代文明のスーツを着ている三人組こそが、異端としか思えない空間だった。

「こちらがロード・エルメロイのご遺体です。ご確認ください」

 担当者は白い布の上半身の部分を静かにめくる。遺体確認のために出向いたアーチボルト家の者たちは、一瞬息をのんだ。

「勝手ながら、こちらでご遺体を清め、腐敗防止の術をかけました」

 聖堂(せいどう)教会(きょうかい)が回収し、魔術協会に引き渡されたケイネス・エルメロイ・アーチボルトの遺体。それはお世辞にも綺麗とはいえず、弾痕がいくつもあり、首は斬り落とされていた。両腕は魔術によって作られた精巧な義手。

 話によれば、遺体発見場所には車椅子があり、衛宮(えみや)切嗣(きりつぐ)という魔術師によって作成された自己強制証文(セルフギアス・スクロール)があったという。ケイネスとその許嫁を殺さないと確約する絶対の文書がありながら、二人は死んだ。

 切嗣は礼装に銃火器を使う珍しいタイプの魔術師だと、アーチボルト家の者たちは聞いた。

 おそらく二人が油断した時に切嗣の仲間に殺されたという推測も聞かされ、天才とうたわれた魔術師の最期としてはあまりにも無残なその姿に、立ち会った者たちは哀れみの眼差しで九代目当主の遺体を見た。

「それから、詳しい検分もしました」

「そのような勝手な話、聞いていないが」

「もちろんです。今初めてしました」

 担当者は涼やかな顔で答えると、アーチボルト家の者たちを無視し、「回路は魔力が暴走した形跡があります」と遺体について喋り始めた。

「原因は分かりません。この暴走は刻印(こくいん)にまで影響を及ぼし、ほとんどを破壊しています」

 重力に従って血の気が下へ引いていく音が聞こえたようだと、担当者は内心ほくそ笑む。

 魔道の家にとって、魔術刻印は先祖代々の知識が詰まった宝。魔術回路の破壊は魔術師個人が駄目になるが、魔術刻印の破壊は家全体に致命的ダメージを被ったも同然。

「破壊された刻印は大変興味深いので、サンプルとして協会で管理します。無事な部分は次の当主を決め次第、お返ししましょう」

 命令口調に、アーチボルト家からは次々に不満の声が上がる。

「こちらには協議する時間も与えてくれないというのですか」

「刻印については、当家でも詳しく調べたい。移植できる可能性があるかもしれません」

「なぜそちらに決定権が……」

 担当者は強い口調で「教会側によれば」と、アーチボルト家の発言に割って入る。

「ロード・エルメロイは、監督役が殺された一件に深く関わっているのではないか。そのような疑いがかけられているようです。小耳にはさんでいらっしゃるでしょう? 監督役が拳銃という近代の武器によって殺された話」

 担当者は胸に手を当てると顔を切なげにゆがめ、悲しむ仕草を見せた。

「教会側も調査中なので我々も真相は知りませんが、まさかあのロード・エルメロイが拳銃を用いて手を汚したかもしれないなどと、そんなことは誰も思っていません。彼は誇り高い魔術師で、時計塔の一級講師なのですから。我々は無実を信じています」

 場の雰囲気が十分に冷えたあと、担当者は表情を切り替えて優しい笑みを浮かべ、アーチボルト家の者たちの表情を確かめるようにゆっくり歩く。

「ですが、教会に足元を見られるような隙を作りたくないのです。下手な噂が出れば、我々にもあなた方にも命取りです。言いたいことは分かりますね?」

 年長の男性の前に立つと、蛇のようなぬるりとした動作で顔を近づけた。

「これはお願いではありません。命令です」

 聖堂教会となんらかの取引をしたので、その代償に貴重なサンプルとなりうる壊れた魔術刻印を寄こせ。言外に、そう言っていた。

 最初からアーチボルト家に拒否権はない。家の存続と最低限の名誉を考えれば、どんなに誇り高い名家でも了承せざるをえない。

 だが、それでも引けない部分はある。

「一つだけ条件があります」

 年長者が威厳を保ちながら言うと、担当者は「条件?」と明らかに見下した態度で聞き返した。

「壊れた部分の刻印はこちらでも調べた結果、壊れたと判断し、協会にその部分を譲ったとしていただけるとありがたい」

「……協会が壊れたと、そう判断したのに?」

「アーチボルト家が協会の判断に納得できず、最後のあがきで独自の調査をして、協会の正しさを再認識したとなれば、体裁は保たれるのではありませんか?」

 あくまでアーチボルト家が下に、魔術協会は上に。

 担当者は上目づかいで年長者を見て、鼻で笑う。満足した表情だった。

「いいでしょう。遺体を調べる振りをするのは結構ですが、やるなら協会内でおこなってください。勝手なことをされては困りますから、家に持ち帰ってというのは禁じます。遺体は刻印を摘出したあとにお返しします」

「結構です」

「それから、ロード・エルメロイとソフィアリ家のご令嬢を殺した魔術師。生き残っていますが、どうしますか」

「……どう、とは」

「聞いておきます。念のため」

 切嗣によるケイネスとその許嫁の卑怯な殺され方は、魔術協会にとってどうでもよかった。

 彼の父は封印指定を受けた魔術師で、父親が死んだ時、切嗣を保護していた女性が魔術協会と交渉した。

 一人息子は魔術刻印の残りカスのような部分を継承することになったのだが、魔術協会から見れば、自分たちが存在を許してやった格下の魔術師。

 そんな相手に、時計塔の花形が負けた。

 さらに、聖杯戦争によって失われた自衛隊の戦闘機二機を穴埋めするため、中東経由で密かに代替機を調達するコネクションを聖堂教会に提供した件は、ケイネスが監督役殺害の嫌疑を受けたことで相殺された。

 前者は外側から、後者は内側から、魔術協会のプライドと面子を傷つけた。

「衛宮を雇ったアインツベルンにも聞きましたが、煮るやり焼くなり好きにしろ、という内容の返事がきました。実際の文章はもっと丁寧なものでしたが、聖杯を取れなかった魔術師に、たいそうご立腹のようです」

「……礼装に銃火器を用いる特異な相手だったとはいえ、衛宮という男も魔術師の端くれです。魔術師同士の決闘として日本に行き、それで死んだのなら、異論はありません」

「そうですか」

 話はこれで終わりとばかりに、遺体に白い布がかけ直され、首だけを出した状態にする。

「ああそれと、衛宮はこの戦いで凡人になった可能性があるという報告を受けています」

 大事な情報をわざと後出しにして相手の反応をうかがい、足元をすくう。ずる賢く、他人の不幸を悦ぶ厄介なタイプ。

(点数稼ぎしか能がない三流が)

 アーチボルト家の年長者は心の中で非難したが、表面は硬さを維持する。

「では、まだお別れをしたいのであれば、どうぞごゆっくり」

 担当者が下がると、アーチボルト家の者たちは遺体を取り囲んだ。

「アーチボルト家始まって以来の天才が、破滅をもたらすとはな。まさかケイネスの代で刻印の大部分を失うとは……」

「家をなんとか存続させるにしても、エルメロイの血筋が出した不始末は、同じ血筋がなんとかしなければ……。ほかに示しがつかん」

「こうなればできるだけ早く、私たちの血筋で刻印が移植できそうな子供を当主にせねば」

 なんとしてでも家を守ること。

 それこそが、魔道の名家アーチボルトの十代目当主となる子供に課せられた責務だった。

 

   2

 

 少女は数多くの召喚の成功と失敗談の一つとして記録されている、一族の小さな伝説を覚えていた。

 アーチボルト家がまだ無名だった時代、一族のとある魔術師が、神代から生きる種族と出会ったという。会話をすることに成功して、素晴らしい宝をもらったと。

 それは妖精という、輝かしい亜人の幻想種(げんそうしゅ)

 ほとんどが世界の西の果てへと去り、いても隠れて生きているのに、わざわざ人間の土地に出向いてくる妖精は物好きに違いない。記録にはそう書かれていた。

 宝についての詳しい記述はなく、その後、その魔術師の血筋が一族でも有力派閥になったため、妖精の知識を得たのだろうと言われている。

 かくして宝を得たエルメロイの血筋は、ケイネスという天才を生み出すに到る。

「おじさまは、死んでいないのですね」

 目の前にあるケイネスの遺体を見て、末席にいた少女はおそるおそる手を伸ばし、顔に触れた。指先から伝わるぬくもりは、まったくない。

「ああ、冬眠している状態だ。驚くことに、彼はまだ生きている」

「この家に帰ってきてから、肉体の修復が始まったんだ。協会にいた時は、時間を止めていたとしか思えない」

「暗くすると修復速度が上がるようだ。月の光を浴びるとさらに速まる。日の光では駄目だ」

 ケイネスが蘇生に関する魔術を密かに研究し、理論を確立させたかもしれないという結論に達した時、エルメロイの血筋の魔術師たちは色めき立った。このまま肉体の修復が進み、目覚めたなら、多くのことが聞けるのではないかと。

 大人たちの熱を帯び始めた解説を聞くと、つまりケイネスの肉体は研究対象なのだと少女にも分かった。研究対象に尊厳はなく、道具として好き勝手にされる。

「お前が本当に守るべきは、これだよ。今日からこれがアーチボルト家の宝だ。当主という座は、いざとなればとても重要なものだからね」

「協会や他の血筋にこれが渡らぬよう、もっと安全な所に移動させて観察するのだ。この研究成果は、アーチボルトの名誉を復活させるに違いない」

「僻地での聖杯戦争に負け、魔術刻印(まじゅつこくいん)を一部しか継承できなかったアーチボルトは、これから公然と叩かれる。その屈辱は、ケイネスと同じエルメロイの血筋の者が受けるのが道理」

「エルメロイで移植可能な年齢の子供というと、お前くらいしかいない。どうか耐えておくれ。これは一門に生まれた者の務めだ」

 大人たちが口々に言う責務。傀儡と言われようと、当主にふさわしい魔術師となるべく勉学に励み、これ以上家が没落しないように振る舞い、優秀な種を持つ将来の夫を見つけ、才能ある子供を産むこと。

 それらは思春期を迎えた少女にとって重過ぎるものだが、彼女が当主にならなければ、長く続いた名門が途絶える。

 本家から当主になることを打診された時、少女の両親は名誉だと喜びを見せた。

 しかし裏では、娘を抱き締めて泣いた。当主になるといっても養子に差し出すようなもので、永遠の別れに等しい。

 両親や住み慣れた町から引き離され、小さな双肩には重い責務がのしかかることになった。その中にケイネスを守ることが含まれていたのは、少女にとって小さな光だった。

「……分かりました。家もおじさまも、私が守ります」

 その言葉に大人たちは喜び、さすが次の当主と褒めたたえた。少女が布地の上からケイネスの義手に触れ、泣くのをこらえているのにも気づかずに。

(おじさま、絶対に私が守ってみせます)

 アーチボルト家に生まれたとはいえ、末席にいて多くを期待されていなかった少女は、駆け出しの家の魔術師と同じように、普通の人間の感性が残っていた。機械や科学に対して激しい嫌悪や侮蔑をいだいていなかった。

 彼女の中に育まれた人間性は両親だけでなく、時折相手をしてくれるケイネスによっても守られていた。

 ケイネス自身は心を癒やす存在として、無邪気な子供の相手をしたのかもしれない。あるいは一族にとって使える魔術師として教育したのかもしれないと、少女は想像する。

 それでも彼女にとってケイネスは、魔術への興味を引き出してくれた素晴らしい教師だった。少女を一人のレディとして扱い、小さな姫君と呼んで尊重してくれた紳士で、大好きな遠縁のおじさんだった。

「さあ、当主としての初仕事は、ケイネスの葬儀の喪主だ」

 大人の一人が発した言葉に、少女の目から涙がすうっと引く。

「おじさまは死んでいないんじゃ……?」

「死んだことにするんだ。協会が死んだと判断した人間が実は生きていたとなれば、協会はケイネスを奪いにくる。それに死者の復活などという噂が立ったなら、間違いなく聖堂(せいどう)教会(きょうかい)も動く。教会の噂は聞いているだろう? あんな怖いのが来たらどうする?」

 少女はかすかに震える声で、「嫌です」と答えた。

「実験材料としてアーチボルト家が所有している無名の遺体なら、どこも気にしない」

「良い場所があるから、ケイネスの肉体はそこに移動させる。なあに、心配ない。もともとアーチボルトが持っていた屋敷だ。十代目のために改装した別荘といえば、体裁が保てる」

「お前は素晴らしい時に生まれたんだよ。我々は神秘を手に入れたのだ」

「ケイネスは良い時に死んだのだ。分かるかね? この歓びが!」

 次々に頭をなでられ、肩を叩かれ、少女は全身に鳥肌が立った。

 ケイネスが目覚めたら、エルメロイの血筋の魔術師たちはどうするのか。

 魔術協会がホルマリン漬けにしなくても、心臓と肺だけを生かされて解剖される。聖堂教会が肉体を切り刻んで灰にしなくても、細胞の一片まで丁寧に分けられる。

(おじさまは、すり潰される)

 すべては研究の名のもとに。

 ひと通りの説明を終えたので、大人たちは少女を連れて部屋から出ようとしたが、少女は「もう少し、お別れがしたいです」と言って部屋に一人残った。

 身を乗り出し、じっと傷口を見つめる。切られた首と胴体の皮膚が、繋がっている部分が確かにある。

 一体ケイネスは、自身の体になにをしたのか、魔術師ならば誰でも気になる。それは魔術の基礎を学ぶ少女も同じ。

 それでも少女には、大好きなおじさまを研究材料として見ることはできなかった。

「ねえおじさま。私、おじさまが起きるまで、あの人たちから守ってみせる。変なことさせない。約束するから、ね?」

 顔を寄せ、冷たい唇にキスをする。王子様のキスならぬお姫様のキスで目覚めなかったことにがっかりしたが、それでも少女は真剣だった。

「それまでおじさま、お休みなさい」

 

   3

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 玄関で使用人たちが一斉に主人を出迎える。

 といっても人数は必要最低限。彼らは定期的にやって来る十代目当主の身の回りの世話と、田舎にぽつんと建てられた屋敷の維持をおこなっていた。

 屋敷が立つ土地はレイライン上にあり、一帯は魔力あふれる場所としてアーチボルト家が押さえている物件だった。

「おじさまは?」

「つつがなく」

 執事のいつも通りの答えに、「そう」と短く返す。真っ先に向かったのは、屋敷から庭に突き出た形で建てられているコンサバトリー。

 かつては植物を冬の寒さから守るために作られた温室で、太陽光をふんだんに取り入れるために天井と壁はガラス張りとなっており、植物を観賞してくつろぐ憩いの場としての機能も備えている。

 二十世紀にも入ると、庭をめでる部屋として家具だけを置くようになったが、少女が十代目当主となるにあたり、温室としての機能を再活用されることになった。

 だが昼間だというのに、コンサバトリーのガラスのドアから入る光はない。少女がドアを開けると、そこは夜のように暗かった。ドアを開けっぱなしにして、廊下から入る光を頼りにベッドまで歩く。

「こんにちは。おじさま」

 季節の花や植物に囲まれた部屋の中心にはベッドが置かれ、そこには魔術協会から戻ってきたケイネスの肉体が安置されていた。

 外から見れば普通の温室にしか見えないが、ガラスには幻術と結界がほどこされており、昼間は日光が入らないように暗くしてある。

 本来日光浴が必要なはずの植物は、外敵用の罠として偽装させていた。庭にも侵入者撃退用の罠と、自動防御の結界が張り巡らされている。

 守るにしては不便だったが、月光浴をするには、ガラスに囲まれた作りのコンサバトリーは便利な場所だった。すべてはケイネスの肉体を守り、経過を観察するため。

 五年たった今も、彼は仮死状態で眠っていた。腐ることも老いることもなく、ただ静かに。

 少女は長くなった金色の髪にそっと触れると、小さく微笑んだ。

「今日はたくさんお話したいことがあるの。またあとでね」

 次に、ケイネスの観察をするため、屋敷に派遣されている若い男性魔術師から、今までの経過報告を直接聞く。これもいつも通りだった。傷ついた肉体の修復は終わったが、一向に目覚める気配はない。一種の昏睡状態。

 ケイネスの肉体のことはアーチボルト家でも限られた、さらにエルメロイの血筋でも少数の者しか知らない極秘事項とはいえ、進展が見られない状況にあせりを隠せない。それは少女に報告をする魔術師も同じ。

 長椅子に座っていた少女は立ち上がると、立って報告をしていた魔術師に近寄り、あいている手を取って包み込むように握る。

「苦労をかけますね」

 微笑みとともにねぎらいの言葉をかけ、上目遣いで小さく首を傾げる。これからも力を尽くしてくれるようお願いして、最後に軽く力を込めて手を握った。若い女性にそういうことをされて、心を良くしない男性はそうはいない。

 笑顔で退出する魔術師を見送ったあと、少女はため息をついた。長椅子に腰を下ろすと背中を伸ばし、筋肉の緊張をほぐす。

「この手、いつまで使えるかな」

 そうつぶやいたあとで背もたれに背中を預け、足を投げ出してだらけた格好をする。来客では背筋を伸ばし、足はひざをそろえて斜めにして、上品さを演出するよう言われているため、同じ姿勢でいるのは辛かった。

「恋愛映画で研究しようかなぁ」

 天井を見上げ、しばらくの間ぼうっとする。

 もともと、どういうふうに演じれば大人受けがいいのか、空気を読むことにたけた子供だったため、当主の役目はそつなくこなすことができた。

 そういうことができる子供だったから自分が当主に選ばれたのだろうと、本人も分かっている。

 エルメロイの血筋。小さい頃から慣れ親しんだ魔道の世界。魔術刻印(まじゅつこくいん)を受け継ぐのに適した思春期の子供。敗残処理をする当主にふさわしい気質。少女にはそれらがすべてそろっていた。

 子供のずる賢い遊びがそのまま必要とされ、少女はその技を磨いて成長した。それは社会を生きていくうえでは有効だったが、少し寂しくもあった。

 少女がアーチボルト家の末席にいた時は心を許せる友が何人かいたが、今となっては住む世界が違い過ぎて共通する話題がないため、疎遠になった。

 現在の級友は時計塔という特殊な学校生活を円滑に進めるための、その場しのぎの関係であり、将来の人脈を築くためのきっかけでもあり、本当の意味で友はいなかった。

 さらに当主となったことで親より格が上となり、親子関係も奇妙なものになった。一家団欒よりも当主としての行動が優先され、食事もあまり一緒にできない。少女はますます達観していった。

「当主っていうのも面倒なもんねー」

 棒読みでつぶやいてみる。ケイネスがあれだけの才覚と力を持ちながら、常に孤高の雰囲気をまとっていた理由が分かったのは、少女にとって嬉しい誤算だったが。

 部屋の時計をチェックして、姿勢を正す。響くのはドアをノックする音。「お嬢様」と時間ちょうどにメイドが来た。「なに?」と答えるとドアが開き、メイドが入室する。

「お食事の用意ができました」

 完璧な若い当主として、「今行きます」と答えた。

 続く食事もマナー通り。肉も野菜も、小鳥がさえずるように小さく切り分ける。口を大きく開けない。

 食材を輝かせる溶かしバターの風味。タマネギの甘みと旨味が凝縮されたソース。ナイフからでも伝わる牛肉の(やわ)らかさ。舌の上で溶けてなくなる白い脂身。濃い目の味に慣れた舌をさっぱりと一新させるスープ。果物をそのまま閉じ込めたようなアイスクリーム。

 一人きりの食卓で、ロンドンの家とは違う種類のおいしさを感じさせる料理を堪能する。

 料理人はケイネスを幼少の頃から知っている人間で、彼の舌を作ったといっても過言ではない。ケイネスがいつ目覚めてもいいようにと、田舎の屋敷に異動させた。

 この屋敷にいる使用人たちは、生前のケイネスをよく知る人物ばかり。皆の忠義は厚く、口は堅い。

 心地よく腹が満たされたあと、少女はシャワーを浴びて身綺麗にすると、寝る前にコンサバトリーに向かった。

「こんばんわ、おじさま」

 少女はベッド脇に用意された椅子に座る。目覚めないケイネスにさまざまな報告をするのが、少女のいつもの行動パターンだった。

「今日は時計塔のことから話すわね。錬金術科の政治闘争にちょっとした進展があって…」

 少女の話は多岐にわたる。時計塔のこと、ロンドンの流行、スポーツの結果、他愛のない噂話、社交界での人間関係。時には少女の愚痴もある。

「……そうそう。表の社会で知られてる恋愛のおまじない、あるでしょ? あれを一つ一つ調べて、駄目だしするのがブームなの。どれだけいいとこのお嬢様が集まっているって言っても、やっぱり女の子よね」

 少女にとって、田舎の屋敷は小さな隠れ家だった。常に計算し続けなければならない社交界や級友たちから解き放たれる、心休まる場所。

 夜中のコンサバトリーは昼間と違い、月光が入るようにしてある。肉体の修復は終わったが、念のため、日光に当てないようにしていた。

 目覚めない肉体に対して、外では議論がかわされていた。はたしてこれは人なのか。永遠に目覚めることはないのではないかという、長い議論。

 修復過程で大きく変わったのは魔術回路。魔術回路を持って生まれた人間ではなく、魔術回路を人間にしたような、ホムンクルスともいえる存在になっていた。

「恋の妖精も大変だと思わない? 仕事が多過ぎて、書類不備でほとんど落としていそう」

 少女は一人笑い、沈黙が訪れると、寝ているケイネスの耳元でささやく。

「そうだ。おじさまって妖精なの?」

 静かに耳を澄ましてみるが、答えはない。

「ずっと前に見たの。小さな妖精が、おじさまの耳元でささやいてるところ」

 少女は一度だけ見たことがある。人がいない時、小さな妖精はケイネスの耳元でなにかをささやいていた光景を。

 見られていることが分かったとたん、小さな妖精は慌てて消えた。

 土地柄のせいもあり、ここは人外の存在の目撃談が多い。彼らはこの屋敷になにがあるかを知っている。

 そして人間たちと同じようになにかを待っているのだと、少女は考える。

「妖精なら、会話できるのかな」

 独り言は夜の空気に溶けていく。

 エルメロイの血筋の魔術師たちも、ケイネスの深層意識に潜り込んで会話を試みようとしたが、失敗した。

 潜った魔術師によれば、より大きな意識にのみ込まれ、自分のほうが溶かされてしまうので無理。そう言われた。

 他者の意識と同化することを、この肉体に眠る意識は拒否しない。むしろ溶けることをうながす。浅瀬で泳いでいたと思ったら、突然現れる大きな穴の中に落ちていくような感覚で引きずり込まれていく。

 「これは恐ろしいモノです」と、これ以上潜ることを完全に拒否された。

「じゃあね、おじさま。また明日」

 家族にするように、額にキスをした。コンサバトリーを出る前に、室内の結界や幻術が正しく作動していることを確認する。

 その間にケイネスの指先がわずかに動き、まぶたの下の眼球が動いたことを、少女が気づくことはなかった。

 

   4

 

 ——飽きたらいつでも戻ってくるといい。

 記憶の海の彼方から、海と魔術の妖精王の懐かしい声がする。

 ——体を大事にしなさい、好きな時に戻ってきたらいいという伝言よ。

 耳元で小さく誰かにささやかれる。

 ——目が覚めた?

 起きる時のイメージを呼び起こす。紅色の髪の女性に起こされる。あるいは夜更かしをして、起こしにきた彼女に朝だと告げられる。

 ——エルメロイ。

 その名は。

(ソフィアリ)

 声なき声で、愛する女性の名を呼ぶ。燃えるような炎の髪と大地の色の瞳を持つ、生にあふれた美しい妖精。

「エルメロイ」

 名を呼ばれたことで、水のように広がっていた意識が集まり、形を与えられる。その顔はケイネスと瓜二つ。

 違うのは流れるような長髪と、剣呑さが消えた雰囲気。

 そして、常若の国にいた頃のゆったりした服装。内側の衣は白い光沢のある絹、羽織っている薄手の外套は海を思わせる瑠璃色。

(ここは…)

 精神の奥深い所にある、二人だけの世界。妖精たちの楽園の再現。

「……ソフィアリ」

「おはよう」

 うしろから抱き締められる。腰に細い手が回され、背中に豊かな胸が押し付けられる感覚があった。

「帰るの?」

「ああ。肉体の再生も終わった。君の癒やす力のお陰だ」

 エルメロイはソフィアリの手に自分の手を重ねた。自然にたがいの指を絡め合う。

「ケイネスの体にいろいろなことが起きたけど、あなたが無事で良かった」

「生きてと言ったのは君だ。簡単には死なない」

 エリンの島、現在のアイルランドの支配権を巡り、人間の祖先たるミレーの民との戦いで、ダーナ神族の一員であるエルメロイが負った傷は深かった。

 その傷を癒やすため、妻ソフィアリとともに向かったのは、妖精王マナナン・マクリルが治める常若の国。

 妻の献身的な介護と治療の甲斐あって傷は癒えたものの、古傷がエルメロイを苦しめた。時折うずいたそれは、まさに七転八倒する激しい痛みをもたらした。

 夫を深く愛していた妻は心を壊しかけ、完全に壊れる前に、「あなたに私の命をあげるから、生きて」と言って傷を完治させ、自身は消えた。生命力のすべてを相手に与えて同化することで傷を癒やす、最後の技。

 エルメロイは消えたソフィアリを取り戻そうと、魂の分離手術をできるかマナナン王に相談したが、「深く融合しているから難しい。死ぬ確率のほうが高い」と言われた。

 生きてという妻の最後の願い。それを叶えるため、エルメロイは融合したまま生きることを選んだ。

 結果、エルメロイの性格は変化が見られ、女性的な部分はソフィアリに寄る部分が大きくなった。

「あの女は死んだわ。悲しい?」

「哀れみは覚える」

「ケイネスはあの女を愛していた。あなたはどうだった?」

「私は彼の一部で、彼は私の一部だ。ならば、私もソラウを愛していた」

 令呪(れいじゅ)というものが刻まれていた手の甲に、ソフィアリは爪を立てる。爪の先が皮膚に食い込み、血がにじんだ。

「そういう時は、嘘を言うものよ」

「そんなことを言ったら、すぐに嘘だと伝わるだろう?」

「それでも嘘を言ってほしい時があるの。なぜケイネスがあの女に近づくことを許したの。彼の精神の奥に隠れていても、そういう操作はできるんじゃないの?」

 そう言いながら爪をぎりぎりと引き、鮮やかな赤い線を作る。

「私は見るだけだ。どう生きるかは人間に任せている。誰と出会い、恋をしようと、その人間の自由だ」

「あなたの望みを叶えるためなら、なんでもするわ。でも、私にだって嫌なことがあるの」

「君の髪の色と似ている女性には、弱いんだ」

「ええそうね。でも、今度の人間では私の言葉を無視した。そんなこと初めてよ。だからケイネスは、あんな酷い死に方をした」

「酷い死に方なら、ほかにもあったじゃないか」

「私が酷いと思う死に方よ」

 その言葉に、さすがのエルメロイも苦笑した。

「嬉しかったんだよ」

「嬉しい?」

 ソフィアリはエルメロイの腕をつかむと強く引いて、自分のほうへ向かせた。

 その顔はソラウと双子のように似ている。二人の外見はそっくりだった。違うのは豊かな表情。

 人間としての生を繰り返すエルメロイが赤毛の女性に会うたびに、ソフィアリは忠告した。

 ——誰を愛してもいいけど、同じ顔と声の女は駄目。それだけは駄目。

 ——私を情熱的に見つめた眼に、私ではない女を映さないで。私を愛してると言った声で、外見しか似ていない女に愛をささやかないで。私を優しく包み込んだ腕で、模造品を抱き締めないで。

 ——エルメロイ。私のエルメロイ。お願いだから、私とよく似た女だけは愛さないで。本物の私がここにいるのに偽物を愛するなんて、私が耐えられない。

 そんな呪いのような言葉を男は受け入れた。それが男なりの、命まで捧げてくれた女に対する愛の返し方だった。

「ねえ、なにが嬉しかったの」

 感情をおさえない表情で、ソフィアリは男の顔をにらむ。

「人間にとっては遥か遠い昔、君を覚えていた誰かが、君の名を一族の名にして残してくれたことが嬉しかったんだ。形を変えて、君は今も生き続けている。あれは君の娘のような存在だ。ソフィアリ」

「あの女とは、なにも繋がってないわ。娘じゃない」

「分かっている」

「私が繋がっているのはあなたとだけよ。エルメロイ」

 表情は怒りから微笑へと代わり、体を密着させる。男は美しく微笑む女の顔を両手で包み込んだ。

「ならばケイネスの人格形成は、君と私が溶け合った魂が深く影響している。彼は私たちの息子も同然だ」

 その手をするりと首元に落とす。指先に紅色の長い髪の毛が絡んだ。

「君は、私たちの息子の妻となるはずだった女に、干渉したか?」

 今にも首を絞めることができる状態で、ソラウと同じ色の眼を見つめながら、エルメロイは問うた。

 ケイネスが自分と外見がまったく同じ女に恋したことに怒ったソフィアリが、ソラウに破滅的な行為をするよう、ひそかにそそのかしたのではと。

 内なる声と称し、あるいは夢にまぎれ込み、甘やかな毒を心に注ぎ続けたのではと。

 が、ソフィアリは「これ、痛いでしょう? 治すわね」と、エルメロイの無機質な氷の眼差しを無視した。

 自分がつけた手の甲の傷をいとおしげに優しくなでながら、「私はなにもしてないわ」と言う。

「私がなにかをすれば、すぐにあなたにも分かるはず。ケイネスも、あの女も、花のようなサーヴァントも、みんな心のままに行動しただけ。そうでしょう?」

 傷口に唇を押し当て、一つずつ癒やしていく。

「ケイネスは、婚約者がもっと表情豊かになってほしいと願っていた。ケイネスの願いはあなたの願い。あなたの願いは私の願い。あの戦いで、私たちの息子の願いは叶えられた。そうでしょう?」

 聖杯戦争中、ソラウの表情は熱のあるものになり、豊かになった。ただし、ケイネスの愛によってではなく、サーヴァントであるランサーの魅了の呪いによって。

「……そうだな。君がそう言うなら、その通りだ」

 優しくささやかれた言葉を聞いて、ソフィアリは傷一つない手の甲に頬をすり寄せ、微笑んだ。

「君はなにもしていない」

 女は男の首に腕を絡め、頭をかきいだく。金の髪と紅の髪が混ざり合った。男から女の表情は見えない。

「ええ。私はなにもしていない」

 男は耳元でささやく女の背中に腕を回し、強く抱き締めた。女から男の表情は見えなかったが、事実を問う言葉よりも、女を包む体のほうが真実を雄弁に語っていた。

 男は女がつむぐどんな言葉も信じ、行動も止めず、あるがままの姿を黙って受け入れる。女は男の望む通り、望むままにあらゆるものを捧げ、一途に尽くす。

 それは溶け合う前から変わらない、二人だけの愛の形。

「愛してるわ。エルメロイ」

「愛してるよ。ソフィアリ」

 これは儀式だった。溶け合って一つになってもなお、自分たちはこうやって二つの人格として対話できるのだという、再確認の儀式。

「さあ、帰りましょう」

 二人が口づけをかわすと、世界も、彼らの体も、蜜のようにとろりと溶けた。

 

   5

 

 ソフィアリ、ケイネス、その他大勢の意識のかけらが集められ、融合し、主人格であるエルメロイという存在が構築されていく。

 形を成すまでの間、大きな意識と繋がったのか。それとも過去と記録を混ぜ合わせた夢か。エルメロイは白い世界にいた。

 立っている。どこまでも平らな空間。無数の黒い影。白い手袋。青いロングコート。ケイネスという人間を形作っていた服。帰る。

 エルメロイの頭の中に情報が通過し、考え、意思を持つ。

(私は、帰る)

 海と魔術の妖精王の許可を得て、常若の国から次元の海原を渡り、人間が住む島にたどり着いた時と同じように。

 生と死の狭間から、彼は歩き始めた。方向は分かっている。大勢の人間が同じ方向に歩いている、その逆。誰も自分自身以外のことを気にせず、行くべき所を目指して歩いている。

 その中で、彼を見て足を止めた影がいた。黒い影が取り払われ、一人の男性の姿が浮かび上がる。

 エルメロイのことを知っているようで、驚いた表情をしていた。なにか聞きたそうだったが、詳しく追求する時間がないことも分かっていた。

「寝ていた子を起こしてしまったかな」

 楽しそうに微笑むと、「まあいいや」とエルメロイとは反対方向へ行く。すれ違う時、「じゃ」と左肩を軽く叩いた。

 その瞬間、ぱちりと目が開く。見えたのは暗いガラス天井。雨戸でも閉めたように、すべてのガラスが暗いものでおおわれ、室内の暗さは夜と変わらない。

(ガラスのは……幻術?)

 皮膚を通じて布地の感触が伝わった。手を動かすと、布と布がこすれるかすかな音が聞こえる。胸元をさわれば、簡素な服を着せられているのが分かった。

 右手を外に出してかざす。握って開き、足のつま先も意識して動かす。両手両足は動くようになった。

 頭を動かしてあたりを見回すと、壁も天井と同じくガラス張りで、幻術によって外の光と風景を遮断している。

 花と植物に囲まれているが、普通の植物でないことはすぐに分かった。

 置かれた家具は、エルメロイが横たわるベッドと一人掛けの椅子しかない。魔力の気配で、床に魔法陣が描かれているのが分かった。

 上半身を起こし、左手で右腕の皮膚を二の腕から手首へとなぞる。長くなった金色の髪を一房つかむと、砂のように手の内から流れ落ちた。

 次いで顔に触れ、そのまま指を下へ滑らせ、切り落とされた首が繋がっていることを確認する。

 ベッドから身を乗り出して魔法陣を見つめた。おそらく警報装置の(たぐい)で、この陣の中になにかが入ったら監視者に侵入者が来たことを知らせ、声にも反応する作りに見えた。攻撃性はないと判断する。

「……さて」

 エルメロイの声に魔法陣が反応する。部屋に描かれている魔法陣は、変化があった起点から外側に向かって光を伝える。この光が監視者に情報を届けるらしい。

 誰が来るのか、そういう興味もあった。何百年か振りに、妖精として人間と会話をしてみたかった。アーチボルトの人間ならば、悪い扱いはしないはずだと。

「私は最初に誰に会えばいいのかな?」

 再び魔法陣が光り、静かになる。向こうが気づいてこの部屋に来るまで、少し時間がかかるようだった。

 すぐに来ると予想したがはずれたので、試しに首や肩を大きく動かしてみることにした。取り替えた部品を確かめるように、指や手、前腕を動かし、肉体が機能することを再確認する。

 左肩に触れた時、目覚める前に誰かと会った気がしたことを思い出した。

 エルメロイは、頭の中に詰め込まれた最新の記録を頼りに思い出す。おそらくあれがケイネスの魔術回路を壊し、命を奪ったアインツベルンの人間。肩を叩かれた位置は、ケイネスが彼から初弾を受けた個所。

(あの人間、悪戯心があり過ぎる性格だったのか)

 妖精が口元をゆるめるのと同時に、部屋の扉が勢いよく開かれた。

 開けたのは少女。うしろにはメイド姿の女性。二人は部屋に入ることなく、少女は驚いた顔で荒い呼吸を何度か繰り返し、穴が開くほどエルメロイを見つめた。

「……嘘! ほんとに…!? ほんとに…目覚めて……」

 震える声でつぶやきながら両手を強く握り締め、高ぶる感情を制御しようとする。

 アーチボルト家の末席にいた少女は目立つ存在ではなかったが、ケイネスとは親交があった。

 意外な存在の登場に驚いたあと、エルメロイは柔らかい笑みを浮かべ、軽く両手を広げて出迎える仕草をした。

「やあ、小さな姫君」

 第四次聖杯戦争の五年後。同じ日、同じ時、衛宮(えみや)切嗣(きりつぐ)は死に、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは復活した。

 正確には、ケイネスの中に潜んでいた妖精が、ケイネスの肉体を乗っ取った。

「ただいま」

 少女はかわいらしい顔をゆがめると、小さく一歩を踏み出す。メイドの「お嬢様!」と抑制する声を振り払ってベッドへ駆け寄り、妖精に抱きついた。

「おじさま…!」

「心配をかけたね。小さな姫君」

 五年振りの再会に、少女は声を上げて泣いた。妖精は少女の細い肩を優しく抱く。

「すまない」

「いえ……いえ! 五年間、ずっと待ってました!」

 ケイネスという名を持っていた妖精は、記録の中にある姿よりも成長した少女をあやし続ける。

(本当にすまない)

 心の中でもう一度つぶやく。自分は君の大好きなおじさまではないんだよと。

 妖精にとっては一つのシミュレーションで記録に過ぎないものが、少女にとってはなまなましく重い記憶として、人生に影響を及ぼす。

 これから大人の談義を子供にすることは心苦しかったが、魔術師としてエルメロイの血筋に連なる者なら、この子も否応なしに巻き込まれる。

 だからせめて、最初に伝えようと思った。

 君の大好きなおじさまは、自分が人間として過ごした人生の一つの記録となり、二度と戻ってこない。

 そのことを。

 

   6

 

「お嬢様! ご無事ですか!」

 そう言って少女が泣きやむ前に慌ただしく来たのは、若い男性魔術師。「起きてる……」とつぶやく。

「今すぐロンドンに報告しましょう!」

 大声で宣言され、少女はびくりと体を震わせた。

「ちょうど朝ですし、皆起きてるでしょうから、大丈夫です!」

「ちょっと待って、落ち着いて!」

「落ち着いていられますか! やっと起きたんですよ!? 今すぐ確かめるべきです。『これ』が人なのかどうか!」

「妖精だ」

 突然はさみ込まれた言葉に、少女と魔術師は同時に「え?」と驚く。

「妖精。昔々、今はアイルランドと呼ばれる島にいた神族の現世の姿、と言えば通じるか?」

 一瞬の沈黙のあと、魔術師はその場で拳を握り締めながら、「本当ですか!」と叫んだ。

「僕、初めて見ました! 神族ってダーナのことですよね! そっちの妖精は初めてです!」

 顔全体を輝かせて語る魔術師を、妖精は「そうか」と軽やかに受け流す。

 近づこうとする魔術師を少女が慌てて止め、「おじさまは今起きたばかりだから……」となだめようとするが、声はまったく届いていない。

「どうか、どうか話を聞かせてください!」

「その前に、この子も言っている。落ち着こうか。『静かに』」

 妖精が魔力をともなった言葉をつむぐ。

 すると、暗かった部屋に日光が入る。突然のまぶしさに、少女と魔術師は目を細めた。室内に流れていた魔力が消え、幻術が解けたことが分かり、妖精の仕業だと分かる。

 人間たちは声を出そうとして、出ないことに気づく。不安げな表情で二人がたがいを見た。

 妖精はベッドから降りると、五年間眠っていたとは思えない確かな足取りで魔術師に近づき、額に軽く指先を当てた。

 魔術師の体から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。床に倒れる前に妖精が体を支えた。腕の中では魔術師が寝息を立てている。

 妖精は魔術師を両手で抱きかかえると、ベッドに運ぶ。俗に言うお姫様抱っこ。自分が寝ていたベッドに魔術師を寝かせると、わざわざ靴を脱がせてやり、毛布をかぶせた。

 少女の記憶が確かなら、ケイネスは細身なうえに体を鍛えていなかったこともあり、同じくらいの体格の男性を抱きかかえることはできなかったはず。

 それが、苦もなく普通にできている。

(この人、誰)

 ケイネスが目覚めた喜びは消え、疑問と不安が湧き上がる。それは本能が告げる恐怖。

 目覚めた時にケイネスの人格でなかったら。

 少女の脳裏に大人たちの議論が甦る。

 もし彼の中に宿る意識が、人間とはまったく違うなにかであったのならば。自分たちで制御できる存在でなかった、その時は。

 ——殺さねばなるまい。

 その結論に少女は恐れ、拒絶し続けた。考えないようにしていた。

 我を忘れて室内に飛び込んだが、いざとなれば、この部屋には寝ている相手を閉じ込める作用もあった。今は過去形。人間が細心の注意を払って敷いた魔術は、すべて妖精によってあっというまに解かれた。

 少女は妖精から距離を取り、ドアに近づく。人間の魔術がどこまで本物の妖精に通じるか分からない。

 先程の魔術の行使を見る限り、呪文の詠唱は必要なかった。普通に喋るだけで、手を動かすだけで、呼吸をするように、彼は魔術を使える。それを当たり前のものとして使っている。

 名が知られていなくても、神代から生きる妖精であれば、その強さは押して測るべし。

 少女が知るケイネスとは違う。

 ケイネスの肉体の中にある意識が、忌むべきであった時は。

(殺す)

 当主として。

(でも…)

 殺せるのかという、小さな疑問が芽吹く。

「力づくですまないが、彼は少々興奮気味なので、静かにさせてもらった。そうだな……二時間くらいたったら起きるだろうから、心配しなくていい」

 妖精はぱちんと指を鳴らした。

「さて、君への術は解いたが……声は出るかね?」

「あなた……!」

「この部屋も静かにさせてもらった。これで少しは私のことが分かったかな? 言葉で説明するより早いと思うが」

 悪意のない表情で微笑む。

「自己紹介をしよう。私の名前はエルメロイ。君の先祖と契約し、その証しにエルメロイの名を与えたのは、この私だ」

「エルメロイ……?」

 妖精は少女に近づくと、手を取って甲にキスをする。

「君たちの血を住処とする代わりに、知識の探求に力を貸す者だよ。小さな姫君」

 目の前にいる存在は、先祖が出会ったという妖精の姿と似ていた。少女は彼だと確信する。先祖が出会った亜人は、彼だと。

「ケイネスおじさまではないのですか……?」

 ——その姿は人間と比べると細身。背はやや高く、肌は白い。長い金糸の髪は魔力にあふれ、碧眼は創世の星の光を宿し、つむがれる言葉は英知に満ち、老いと死を知らぬ光り輝く高貴な存在。

「ケイネスは私が憑依した人間。外見がそっくりなだけの、赤の他人だ」

 ——たとえるならば、人の世の百年は彼らにとって一年。千年が十年。時の流れだけでなく、命の長さすらも違う。

「本当に、もう、おじさまは戻らないのですか?」

 ——存在そのものが魔法。人が苦心しておこなうこともたやすくできる、うつろわざる者たち。

「ケイネスの記録は私の中にあるから、彼の人形なら作れる。君がそれを望むのならば、作ろう」

 ——彼らに願いを言う時は気をつけよ。代償は大きい。すべて人が望む形で叶うと思ってはならない。それでも求めるものがあるというのなら、覚悟せよ。

「作れるんですか……?」

 覚悟せよという重い言葉で締めくくられた先祖の記録と、人形を作れると軽く言う妖精の言葉。鉄と羽毛のような落差に、少女はめまいがする思いだった。

「君は私の体を守ってくれた。だから、私のできる範囲でなにか礼をしたい。今すぐとは言わない。じっくり考えてからでもいい。君が一生を終えるまでの間は、待っても構わん。私も、今のこの状況に興味がある」

 消失。記録。人形。興味。矢継ぎ早に出される情報に、少女の頭が混乱する。

 そこで一つのことに気づく。

「私の声、聞こえてたんですか? ここでのことも…全部……?」

 少女はケイネスに聞こえるようにさまざまなことを喋っていたが、いざ聞こえていたとなると恥ずかしくなった。赤裸々な心情まで話していたことがあったからだ。少女は顔が赤くなるのを止められなかった。

「全部ではない。君が私を守ると言った言葉と、小さな妖精からの伝言くらいだ。それ以外は肉体の修復を最優先にしていたので、感覚は閉ざしていた」

 ホッと安堵のため息をつき、火照った頬の温度が下がるのを実感する中、今度は顔を輝かせる。

「寝ている間、やっぱり妖精と話してたんですね!」

「こちらの状況を向こうに知らせたくて、少しだけだ」

 人がたどり着けぬ遥か西方に常若の国はあるのだと知り、少女は嬉しくなると同時に寂しくなる。帰る理由があれば、この妖精はここからいなくなる。

「帰るんですか?」

「君の先祖との約束を果たしていないから、まだ帰りはしない。だが、君の願いを叶えたなら、次に憑依する人間を探そうと思う」

 ——帰ってくるよ。

 ケイネスは少女にそう言った。

 ——帰ってきたら、ソラウと結婚式を挙げる予定だ。君も出てくれないか、小さな姫君。

 彼には珍しい浮かれた態度に、少女は「ありがとうございます」と笑顔で答え、心の内では、だったら帰ってこなければいいのにと思った。そうすればケイネスは結婚しない。

 それは現実となった。ケイネスも婚約者も、見るも無残な遺体となって帰国し、結婚話はもちろん消えた。

 小さな恋の突然の終焉と罪悪感から、少女は眠るケイネスの肉体を見守り続けた。それが当主となる原動力であり、それがなくなったらどうすればいいのか。

「では!」

 今度は少女が妖精の手を取った。両手で握り締める。離さぬように、力を込めて。

「では願い事を考えるために、ここでもう少しお話をしましょう。私は、あなたと話がしたいのです」

 少女の熱の籠もった真剣な眼差しに、エルメロイは彼女の遠い先祖を思い出す。先祖も同じように、必死で引き止めた。その熱はどんな言葉よりも雄弁だった。

 エルメロイは少女の手に自分の手を重ねると、片ひざを着く。

「ならば小さな姫君、紅茶を飲みながら話しませんか」

 少女は初めて、笑顔らしい笑顔を見せる。

「喜んで」

 

   7

 

「あなたは人として生まれ、生き、死ぬことを感じたいというのか! 人の営みと知識の流れを知りたいというのか!」

 エルメロイはケイネスと同じ顔、同じ声で、ケイネスがしなかった表情や喋り方をする。今がまさにそうだった。

「ならばあなたに私の子孫の血脈を貸そう。その代わり我が血筋に栄光と名誉を、根源へと至る知識の探求に力を貸してくれ。私は人の力でたどり着きたいのだ! 人の臓腑と魂の中にある生命の力がどこまで行くのか、積み重ねた知識に託して見てみたいのだ!」

 小芝居を終えると、エルメロイはアッサムで()れたミルクティーを一口飲んで、喉をうるおした。

「君たちの先祖はそう言って、私と契約をした。妖精であることがばれてはいけないから、子孫にも秘密のままにしようと言ったら、二つ返事で受け入れてくれた。あれは……情熱的と言うのだろうな」

 気圧された少女は、「そうですね」と返事をして受け流す。

 二人はコンサバトリーで語り続けていた。少女は堂々と仮病を使って長逗留することを決め、エルメロイを苦笑させた。

 彼は、自身がずっと寝ていた温室を気に入った。寝起きするために用意された部屋とは別に、日々を過ごす場所として、室内の物を入れ替えた。

 ティータイムができるテーブルと椅子のセット、本物の観葉植物、美しく香る生花。それらを運ぶ時、エルメロイはドールハウスの小道具のように小さくして運んでみせた。

 屋敷の結界も、もともとあったものをベースにして組み替えられた。ソラウの兄は少女に「嫉妬というものが湧く暇がないほど、ケイネスは天才だったよ」と教えたが、少女はまさにその通りの感情を妖精にいだいた。

 神童と婚約した妹の兄であり、同じく魔道の名門を継ぐ身ともなれば、嫉妬心をいだきそうなもの。

 だが妹の婚約者が突き抜けた天才であればあるほど、人間とは別の生き物であることを認識する。それが分かった気がした。

 ——私とケイネスは確かに姿形は似ているが、本当に他人だ。血の繋がりはない。

 妖精からそう言われても少女はすぐに納得できなかったが、それでも一族の中で、十代目当主である自分が最初に納得したかった。

 だから少女は妖精が目覚めたことを屋敷の者たちに堅く口止めして、二人だけで語り続けることを選んだ。

 使用人たちは、他人と言いながらケイネスと同じ反応を見せることがある妖精に戸惑いながらも、新しい住人を受け入れる姿勢を見せている。

「結局エルメロイおじさまは、人間としての体験をする代わりに、エルメロイ家の優秀な人間に憑依して、内側から改造を繰り返していたんですか」

 少女は妖精をおじさまと呼び、妖精もそれを許した。ケイネスと区別するため、妖精自身の名前で呼ぶことも許した。

 エルメロイは妖精が与えた名前。それが契約の証しであり、恩恵を受ける血筋の範囲を示すもの。

「そうだ。それ以外は心の奥に隠れて、人の一生を見る。死んだら離れる。その繰り返しだ」

「飽きません?」

「環境や条件が違えば、育ち方は全く違う。人の一生はめまぐるしい。改造の良い結果も悪い結果も、目に見えて早い。あれは新鮮な驚きの連続だ」

 こういう感覚のズレにも、少女はようやく慣れてきた。人間と妖精では時の流れが圧倒的に違う。人間でたとえるなら、虫の一生を体験し、実験台にするようなもの。

「それに、やることがあると、ソフィアリがいない寂しさを忘れることができた」

 エルメロイの顔に微笑みがにじむ。彼が愛した妻ソフィアリ。自分の怪我を癒やすために同化し、今もともに生きていると少女は説明を受けた。赤毛の女性だと。

 ——だから、私が一番目に愛するのは私。私の中のソフィアリだ。

 ケイネスとそっくりの妖精を見て、少女がいだこうとしていた淡い思いは、形になる前にあっというまに消え去った。愛の物語は二人の中で完成されていて、そこを永遠に巡り続け、誰も近寄ることはできない。

 それは鏡に映った自分に恋する美少年ナルキッソスではなく、自らの尾を飲み込む蛇ウロボロスのよう。

 少女はさりげなく、「ばれずに済んだのが奇跡ですね」と話題を変えた。

「気づかれないようにするのが重要だ。仮にどこかにばれていたとしても、害がないから放っておかれたのだろう」

「改造を繰り返した成果がケイネスおじさまだとして、目をつけられなかったんですか?」

「ケイネスは封印指定を受けるほどの才能は持っていなかったが、人が許容できるギリギリの位置の天才だった。彼ならサーヴァントに少しは対抗できただろう。結果はああなったがね」

 おとしめているようで、褒めている。ケイネスが他人を褒める時は遠回しで、ねじれていた。

 妖精は見れば見るほどケイネスにそっくりなのだが、会話を続けていると別人だと実感する。

 それでも、似ていると思う部分があるのはこういう時。

 ——ケイネスは私の一部であり、私はケイネスの一部。もう一つの人格のようなものだ。分けて考えることは難しい。

 妖精が人間に憑依して改造をほどこす際、憑依した人間に負担をかけないよう、次世代が改造された遺伝的資質を確実に継げるよう、体や心を深く繋げ、人間からすればゆっくりした速度で改造を施すのだという。いわば一心同体。

 その副作用でたがいの精神は影響し合い、特に上位の存在である妖精からの反映は強いという話だった。

「もし彼が子孫を残せたなら、常に複数属性持ちを用意できる、いい土台になれただろう」

 ケイネスと同じ顔と声で、他人事のようにケイネスのことを語る光景は、少女にとって不思議だった。俳優が演じた役について語っているような錯覚さえ覚えた。

「ケイネスおじさまの人形を作ったとして、子孫を残すことはできますか」

「人形は、ただの人形だ」

 妖精はばっさりと切り捨てる。なにも言わぬ少女を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、「君たちの血は濃い」と言った。なにか思い当たる節があるのか、遠い目をする。

「また彼のような天才魔術師が生まれてくるだろう。似て非なるものだが、やはり似ている」

 金髪と青い三白眼、通った鼻梁に薄い唇。優秀であるとされたアーチボルト家の、特にエルメロイ家出身の魔術師たちは、そういう顔立ちの者が多かった。

「あの顔は血が濃いと言われて、一族内では褒めたたえられただろう?」

「はい。本当に……あなたにそっくりでした」

 エルメロイは喉の奥で笑いながら、「違うな」と言った。

「似たのは私ではない。君たちの先祖だ」

 少女に顔を近づける。近くに寄れば違うのは分かる。

 ケイネスも透明度が高い碧眼だったが、妖精のはそれに加え、星のようなきらめきがあった。先祖が言うところの、創世の星の光。

「君たちの先祖と契約したのは、情熱もさることながら、顔が私とそっくりだったんだ。それが面白くてな」

「顔?」

「そうだ。この顔とそっくりの顔で、先程の情熱的な台詞を言ったのは彼だ。私も君と同じような驚いた顔で、もう一人の私を見ていたよ」

 ——私が知る限り、一族に妖精の血が混じった者はいないが、こういうこともあるのだな。これは僥倖だ! 運命だ!

 エルメロイやケイネスとはまったく似つかない性格の明るい魔術師は、現代でいうなら躁病の()があった。

「人との間に子を残した覚えはないのに、そういう偶然が起こった。その偶然と出会うのは、それこそ運命だろう。妖精の再生能力が人の体に働いたのも、なにかの運命だ」

「ケイネスおじさまの魔術回路は全滅だったのに、エルメロイおじさまはよく無事でしたね」

「そういう時は強制的に遮断する」

 それは深く繋がっている妖精自身にも痛みはともなうが、攻撃で荒れ狂った精神の影響を受けるより、遥かにマシだった。

(……そっか)

 少女は妖精の人間の肉体への認識を理解する。彼にとってはトカゲのしっぽ切りのようなもの。

「魔術師殺しの攻撃は、興味深いものだった。人間のケイネスの切られた一部が完全に遮断される前に、妖精の私の部分に繋げられた。それで、本来なら人に働かないはずの妖精の再生能力が働いてしまったんだ」

 少女は首をひねった。

「つまり、その肉体はケイネスおじさまのもの?」

「素体はな。あとは造り変えた。彼の魂はもうこの肉体にはないが、私が彼の人生を全部記録している」

 それを聞いた少女は、なにか気づいた表情を浮かべる。

「それって、ケイネスおじさまがやってきた研究も記録しているんですよね」

「している」

 少し戸惑う素振りを見せたあと、「実は……」と、ある青年がロード・エルメロイの今までの研究をまとめていることを話した。

 妖精は「いいじゃないか」と軽やかに答える。

「その人間にやらせてもいいと、君が判断したのだろう?」

「記録を持っているエルメロイおじさまがやったほうが、効率がいいと思うんですが……」

「ウェイバー君が罪滅ぼしにやっているのなら、それはいいことだと思うがね」

「そうですよね……」

 ウェイバー・ベルベット。アーチボルト家が用意した聖遺物(せいいぶつ)を盗んでイスカンダルを召喚し、第四次聖杯戦争において五体満足で生還した魔術師。

 逆に、神童ロード・エルメロイが婚約者とともに無残な遺体となって帰国したため、彼の無事な帰還は魔術師としての評価を上げるきっかけになった。

(おじさまに対して思うところがありそうだから、会わせてあげたいけど……)

 少女はそう思ったが、彼の心境を思えば、複雑過ぎて彼自身もどう対処したらいいか分からないだろう。

 そもそもアーチボルト家にとっての極秘事項を公開するような真似を、果たして一族が許すのか。

(……無理ね)

 ウェイバーのアーチボルト家での立場は、ロード・エルメロイの研究をちゃんとまとめ、成功するかどうかにかかっている。

「ウェイバー君に会ってほしいのか?」

「え?」

「顔に書いてある」

 エルメロイが身を乗り出し、人差し指と中指、そろえられた二本の指が軽く少女の額を突く。薄い皮膚も硬い骨も(やわ)らかく通り抜けてにゅるりと入り、脳内を直接いじるなにかが入り込んできた感覚。

 情報が高速で走馬灯のように脳内を駆け巡り、吸い出されていく。

 しまったと少女が思うよりも先に、妖精が「ずいぶんとしかめっ面の青年になった」と言葉を発した。

「突然そうやるの、やめてくれませんか」

 体は軽く散歩をしてきたような疲労感を覚える。

 少女は額を押さえながら、あからさまに不満そうな顔で訴えると、微笑とともに「すまん」と返答される。

(…そう思ってないくせに)

 触れられた瞬間、少女の中にあるウェイバー・ベルベットの情報がエルメロイに読まれた。

 普段からの接触もこうではないが、妖精が明確に読む意思を持って働きかけた時、文字通り読まれてしまうのである。

 エルメロイは目覚めたあと、アーチボルト家や人間社会の今の状況を知りたくて、若い魔術師を実験台にして情報を読み取った。根こそぎ読まれた若い魔術師は疲労を訴え、ここ数日間はベッドが友人だった。

「ケイネスが生きていた時はもっと生意気な少年に見えたが、変わるものだな」

「変わりますよ。だって……五年です」

 疲れと悲しみが混じった笑みで、「人には長いです」と付け加える。

「今日はここまでにしましょうか」

 少女は強制的に話を打ち切った。「では、失礼します」と言ってコンサバトリーを出ていく。

 一人きりになったところで、エルメロイはクッションを整え、長椅子に寝そべった。

「五年、か」

 その間に人は成長し、あるいは老ける。

「短いな」

 

   8

 

「そろそろロンドンに帰ったらどうかね」

「あら、うるさくなりました?」

 今日の紅茶はシレットの葉で()れたインド式のミルクティー、チャイ。大量のミルクと砂糖を入れるため、少女が普段飲むミルクティーよりも甘い。甘いものは心を落ち着かせる。

「いや。いい加減向こうが心配しないか? さすがに当主が不在では、社交もうまくいくまい」

「私が不在のほうが、うまく進むこともあるでしょう」

「そうなのか?」

「そういうこともあります」

 エルメロイは一瞬だけ笑みを浮かべると、それ以上追及しなかった。椅子に深く座り直すと、「それで? 今日はなにを聞きたい?」と話を始める。

「そうですね……。ああ、ウェイバー・ベルベットとは会ってみたいですか?」

「人間には気づかれないように、というのが当初の目的だから、これ以上誰かと会うのはどうかと思うが」

「それ、会ってみたいということですか?」

「アーチボルト家の当主である君が望むなら。子孫に正体がばれたとあっては、家長の命に従おう。これでも契約続行中の身だ」

 軽く両手をあげ、降参のポーズを取る。

「分かりました。いつか彼に会わせたいと思っているので、心の片隅に留めておいてください」

「仰せのままに」

「エルメロイおじさまは……会いたい方はいないんですか」

 少女はさらに言葉を続けようとしたが、口をつぐんだ。

 エルメロイは聖杯戦争での経緯を大筋で伝えていたが、少女との会話で不自然なほど話題に上がらない人物がいる。

 サーヴァントの異性を魅了する呪いに自ら身をゆだねた婚約者と、ケイネスの令呪(れいじゅ)によって強制的に自害させられたサーヴァント。ケイネスのもっとも近くにいたはずの二人。

「いるといえば、いる。ディルムッド・オディナには会ってみたい」

「ランサーのサーヴァント、ですか?」

「ああ」

 予想と違った答えらしく、少女は驚いたあと、ホッとした表情を見せた。

「サーヴァントとは英霊の映し身であって、本体ではない。ならば、私と似たような存在だ。彼らは映し身が体験した記録を持っている。ディルムッドの感想を聞いてみたいものだ」

「話を聞いた限りでは、サーヴァントとは最悪の別れ方をしたように思えるんですが……」

「模造品とはな」

 エルメロイのこの切り捨て方は、ケイネスが才能なしと判断をくだした魔術師への態度とそっくりだった。

 魔術師は先天的資質がすべて。それ以上努力しても意味はないというケイネスの考えは正しかったが、それで全員が諦められるわけではない。

「本体なら、妖精の私のことを覚えているかもしれない」

 少女は先程より驚いた表情で、「会ったことがあるんですか?」と問うた。

「ある。さすがに向こうは覚えていなかったがね」

「いつ? どこでですか?」

 目を輝かせながら聞く少女の姿に、エルメロイは意外な一面を見たと思った。

「事の発端はオェングス王だ。私が人の世界に戻ってきた時、彼の養父殿に世話になったので恩を返そうと思ったら、養子の愛の逃避行を手助けしてほしいと頼まれた」

 ディルムッドの養父たる妖精王オェングス。愛と若さの妖精王は不幸な死をとげた養い子の遺体を魔法で保存し、話相手にしたという逸話が伝わるほど、ディルムッドを愛していた。

「待ってください。もしかして、ディルムッドはグラニア姫と逃げてる最中だったんですかっ」

「ああ、かの有名な逃避行の最中だった」

 冷静に答える妖精とは対照的に、少女の腰は椅子から若干浮いていた。

「でも、あの話にはエルメロイという名はどこにもありませんよ?」

「当たり前だ。偽名を使っていた」

 その答えを聞いたとたん、少女は冷静な表情で椅子に座り直し、「偽名?」と低めの声で聞く。

「お忍びというものだな。使えそうな血を探して吟味するには、変装と偽名が一番……」

「それなら覚えていないのは当たり前じゃないですか!」

 言い終える前に少女から突っ込みが入り、エルメロイは声を出して笑った。

「お陰で、この血筋に出会えたがね。変装をして人の世を旅するのは面白いぞ?」

「では本体に会った時に偽名を名乗るか……あとは助けた時の様子も伝えれば、分かるんじゃありません?」

「だといいが」

「偽名が現代でも伝わっているくらい有名なものなら、本体も覚えていそうな気がしますが」

「今は読み方がたくさんあるからな。確か…モダン、ムーダン、ムアダン、どれがいいだろうな。とっさに名乗った名前が、長く伝わると思わなかったよ」

「海の三勇士の話で二人を助けた雇われ従者って、おじさまだったんですか」

 逃避行を続けるディルムッドとグラニア姫の物語には、フィン・マックールから差し向けられた外部の追手、デュコス、フィンコス、トレンコスの海の三勇士と、彼らが率いる戦士団、それに三匹の猛毒犬と対決する話がある。

 ディルムッドが五十人の戦士を倒し、ゲイ・ボウやゲイ・ジャルグ、モラルタといった武器が活躍するのだが、そこに一人の従者が登場する。

 従者として雇われた彼は、魔法を使って二人の逃避行を助け、三勇士との戦いが終わると別れるのだが、その話以外には登場しない謎の人物でもあった。

「本人が目の前にいるのだから、もう少し感動してくれても良いと思うのだがね」

「……エルメロイおじさま」

「なんだね」

「ケイネスおじさまもそうでしたが、思い立ったら即行動で、かなり行き当たりばったりの性格ですよね」

 少女の発言に妖精は視線をそらして、考え込む態度を見せる。

「なまじ解決できる能力があるので、結果オーライでごまかしていますが、ギャンブラーですよね」

 聖杯戦争におけるケイネスの行動を思い出す。令呪と魔力供給の分割という変則契約。ランサーに令呪を使ってまでやらせたバーサーカーとの共闘。アインツベルン城でのセイバーのマスターとの戦い。拳銃を使っての監督役の射殺。

「……」

 思い当たる節があったので、さらに顔をそらした。

「聖杯戦争では、ケイネスおじさまのああいう性格が全部裏目に出た、というのはありませんか?」

 エルメロイは体をのけぞらせるように少女から距離を置き、「いや、全部ではないな」とつぶやく。冷たい眼差しで少女は「そうなんですねっ」と強く言い、大きくため息をついた。

「ケイネスおじさまじゃないのに、ほんとそっくり」

 かすれる小さな声でつぶやく。

「彼の人格形成には、私が大きく関わっている。息子といえるかもしれないな。だから、似ているのは仕方がない」

 少女は常に問う。果たして天才であるケイネスのそばに、心の底から褒めてくれる人がいたのだろうかと。

「ケイネスは、いい子だったよ」

 彼を純粋に褒める存在は、実はケイネス自身の心の奥底にいて、会うことは不可能という皮肉さ。

 少女自身が当主になってみて分かる孤独。家族ですらも自分を我が子ではなく、まずは当主として見て、扱っている事実。

 ケイネスは生まれ持った才能ゆえに、最初から決められた社会で生き、その道以外歩むことなく、アーチボルト家の忠実なる天才という道具であり続けた。

 その彼が、聖杯戦争では魔道の世界も名誉も栄光もすべて捨てて、婚約者とともに生きて故郷へ帰ることを選んだ。それを利用され、殺されてしまった。

 そのことを少女が妖精から聞いた時、アインツベルンの魔術師に怒りを覚えたが、それ以上にケイネスの行動に驚いた。生まれた時から疑う余地がないほど絶対であった魔術よりも、愛しい女性を選んだことに。

「ケイネスおじさまは、良い最期を迎えましたか」

「ああ」

 即答された断定の言葉に、少女はスカートのすそを握り締め、大粒の雫を流し、声を押し殺しながら泣いた。遺体の惨状を見る限り、いい最期だったとは思えない。

 それでも少女は納得したかった。彼の跡を継ぎ、同じ道を歩む十代目である自分こそが、陰では無様とすら言われた彼の死を受け入れたかった。

 だからこそ、妖精が目を覚ますのを待ち続けていた。

「愛するとはなにかを知らなかった子供が、最後にそのなにかを得た」

 妖精は立ち上がると少女のかたわらに来て、震える頭を抱き寄せて優しくなでる。

 ケイネスの天才魔術師としてのプライドや心が砕かれたこと、すべてを捨ててまで捧げた愛が報われなかったことは、なに一つ言わなかった。その事実は、この少女には関係のないこと。

「だから、良い最期だった」

 妖精がケイネスの中にいる間、天才魔術師はもう一人の自分だった。親子であり、兄弟であり、半身ともいうべき存在。

 エルメロイという人格が、ケイネスという人格を生み出す大きな要因になった。肉体の親がアーチボルト家なら、精神の親は妖精。

 ならば、我が子の小さな名誉を守るのは親の仕事。

 ケイネスは生まれた時から愛されてきた子供だった。ケイネスが愛を示さなくても、親戚や他人が打算で、あるいは物で、愛と呼ばれるものを与え続けてきた。

 そういう環境で育った彼は愛に対して受け身になり、愛されることが当たり前だった。

 金持ちの名門出身の神童に対して、これといった反応を示さなかった初めての相手がソラウ。

 周囲とは真逆の反応を見せる彼女に恋をして、幸運なことに、婚約という形で難なく手に入れることができた。

 ソラウが彼に愛を与えなくても、自分の意思で誰かを愛している状態に満足していた子供は、セイバーのマスターの脅迫に屈服する形で勝利を上げることなく戦線から離脱し、忠実なはずのサーヴァントには呪いの言葉を吐かせた。

 それはまさしく、愛するという行動に出た瞬間だった。誰かを傷つけ、切り捨て、自分も傷つく血まみれの行為。

(ケイネス。君は本当に、人間らしい人間だった)

 ——私たちの子供で、あなたの期待に応えない子がいた?

 誰かが妖精にそうささやいた。

 

END

 

   後書き

 

アニメビジュアルガイド1で奈須(なす)先生がケイネスの能力について触れていましたが、サーヴァント相手でもアサシンなら勝てるようで、ケイネス先生強いじゃないですか。


 
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