No.383045

夢の人

カカオ99さん

雁夜が誰かと戦う前の仮の話。一時的に理性が戻ったバーサーカーと桜の会話。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。

2012-02-25 16:15:39 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:1247   閲覧ユーザー数:1241

 太陽が山の向こうに姿を隠し、逢う魔が時を超え、夜の(とばり)が下りた時、晴れ渡った夜空にある月は半分の形をしていた。

(……半月)

 霊体化しているバーサーカーは夜空を見上げる。

 日本では半月を弦月(げんげつ)と呼び、左が隠れていれば上弦、右が隠れていれば下弦という。聖杯から与えられた知識と比べながら、しばしの間、半月をめでた。

(……?)

 めでるという行為に、バーサーカーは今の状況の異変に気づく。今、自分は理性を取り戻している。

(月のせいか)

 潮の満ち引きが月の重力によって引き起こされるように、狂化も月の満ち欠けが大きく影響しているようだと気づいた。ちょうど半月になったことで、狂気と理性のバランスが取れた状態になった。

(おそらく、この夜だけだな)

 ただの獣であれば、理性や完璧さから離れられる。本能のままに生きることで、救いがあるはず。

 そう願って召喚に応じたのに、一時的に理性が戻ったのは皮肉だった。それに嘆き悲しみ、怒り狂うかと思えば、意外に平静を保っている。そんな自分自身に、バーサーカーは少なからず驚いていた。

 自分とは違う人種が、自分が生きていた時代とはまったく違う服を着て、あの時代にはなかった建物の間を歩いている。

 聖杯に現代の知識を与えられているとはいえ、バーサーカーにとっては空想のような二十世紀の世界。好奇心が狂気に勝り、心躍るものがあった。

 せっかく理性があるのだからと、自分のマスターと一度は会話をしようと思ったが、間桐雁夜(まとうかりや)は今、人気のない公園のベンチで寝ている。寒さをしのぐため、上半身には拾った新聞を毛布代わりにかけていた。

 バーサーカーというクラスの桁外れな魔力消費量を考えると、彼には多くの休息が必要。わざわざ起こして会話するのもかわいそうに思えたので、話しかけるのはやめた。

 理性のある状態で雁夜という男を見ると、運命の手のひらで跳ねるようにして踊り狂っているとしか思えなかった。

 まさに道化師。聖杯が今回の戦争のため、時には笑いも必要という目的で用意された、滑稽な存在。

 バーサーカーは狂っている状態でも、マスターのゆがんだ愛と憎しみという激しい感情は、よく伝わっていた。

 愛する女のためと言いながら相手のことを考えず、その言葉の意味を真に理解しない。愛する女の娘を救うと言いながら、どうしてそうなったのかを考えない。

 自分ならできると思い込んで突っ走り、周囲を混乱させるだけ混乱させ、最悪の結果をもたらしかねない。

 そんな男に召喚されたのならば、自分も道化師なのだろうとバーサーカーは考えた。おそらくこの枠は戦争にアクセントを加えるため、ジョーカーのような役も兼ねているのだろうと。

 人妻への恋慕と破滅しかない未来という、生前の自分を思い出させる愚かな男に対して、バーサーカーは哀れみを覚えた。

 そんな己のサーヴァントの状態に気づかぬまま、雁夜は浅い眠りから覚め、寒さに体を震わせる。

 体を巡る痛みは相変わらずだが、寝る前よりはしくしくと小さなものになり、気分はいくらかマシになっていた。起き上がると、毛布代わりの新聞が地面に落ちる。

(今日は……帰るか)

 聖杯戦争の一番の目的である遠坂時臣(とおさかときおみ)が自宅から動かないので、それにしびれを切らしたのと、遠坂家から間桐家に養子として迎えた幼い桜の様子を見たかった。

 魔術回路をおぎなう刻印虫(こくいんちゅう)によって不自由になった左半身を引きずりながら、雁夜は我が家へ向かう。

 雁夜にとって時臣は、実父である臓硯(ぞうけん)と同じくらいに倒すべき絶対の存在だった。

 桜を蟲蔵(むしぐら)に放り込み、拷問に等しい魔術鍛錬を楽しんで見ているとしか思えない臓硯以上に、時臣こそが桜を苦しめている元凶と思えた。幼い娘を、外道な魔術を使う間桐家へ養子に出した張本人。

 その張本人の苦悩と痛みを、雁夜は知らない。

 すでに雁夜には、魔術師であり父親である臓硯という前例があったため、雁夜は時臣の思考の理解を拒んだ。それしか選べないほどに、遠坂家は幸せだった。

 時臣が手に入れた幸せは、雁夜が欲する幸せの形。

 ならば、その幸せは維持されるべきだと勝手に思い込んでいた。

 同じ魔道の家でも遠坂のほうがマシだと、幼馴染みの葵に恋心を告白せずに身を引き、得るはずだったかもしれない愛と未来を捧げた自分はなんだったのか。

 因果が巡り巡って間桐に返ってくるのは、あまりにも皮肉。まるでピエロ。

 ——似ておるわ。

 地下の蟲蔵に入ることを決意した日、息子の心の内を知り尽くす父は、ほれた女の娘を助けることをあざけったあと、そうつぶやいた。

 その言葉に雁夜は耳を疑ったが、あくまで独り言であり、臓硯はその言葉を言ったことについて、なにも気にしていなかった。

 珍しく隙を見せた父の言動に、雁夜は違和感を覚えた。似ているとはなんなのか。誰に似ているのか。知人か、臓硯自身か。

 もしかしたら化物のようなこの男も、遠い昔に純粋に誰かを愛し、その姿を追い求め、いまだに心に残しているとしたら。

 初めて父を理解できる部分を見つけたかもしれないことに、雁夜は奇妙な感動すら覚えたが、同時に激しく嫌悪した。

 血が繋がっているだけでも十分過ぎるほどなのに、こんな男と似ている部分があるとはおぞましい。自分への嘲笑と遠い過去の自身を重ね合わせ、なんとゆがんでいることかと。

 それが同族嫌悪であることに、父に憎しみを捧げるあまり、雁夜は気づくことはなかった。

「……ッ!」

 人よりも時間をかけて歩き、間桐の家にたどり着く。これだけで一苦労だった。呼吸を整えたあとで門扉(もんぴ)を開け、玄関に行くまでの間、いつ桜に見られてもいいように、まだ元気そうな姿を演じる準備をする。

 洋館の中に入れば、相変わらず広く、どこか暗く、幽霊屋敷のような雰囲気があった。

 雁夜は桜の部屋の前に来ると、遠慮がちにドアをノックして、静かに中の様子をうかがう。桜が寝ている姿に安心すると、起こさないようにゆっくりドアを閉めた。

 今度は自分の部屋に行き、そのまま倒れ込むようにしてベッドに寝る。

 かすかな寝息が聞こえてきたので、休息中なら少しは大丈夫だろうと、バーサーカーは実体化する。雁夜の体の下から掛け布団と毛布を引っ張り出し、かけてやった。

 そばで見れば大人の男というにはやせており、体の半分は自由が利いていない。体内に入れている蟲によって、異界に引きずられているも同然。

(この命、短いな)

 よくこの体で聖杯戦争に挑んだものよと、自分のマスターの無謀さに感心する。

 バーサーカーにとって魔術師といえば、偉大なるマーリンを思い出すが、彼の足元にすら及ばないほどの弱さ。

(マーリンと比べるのは間違いだが……)

 物思いにふけっているとドアをノックする音が聞こえたので、実体化するのをやめる。

「おじさん」

 入ってきたのは、薄いピンクのネグリジェを着た幼い女の子。

(この子は……)

 雁夜が助けたいと願っている子供はベッドに近づくと、もう一度「カリヤおじさん」と聞いた。その声に意識が浮上した雁夜は体をずらし、布団を開ける仕草をする。

 子供は慣れた動作でベッドの中に潜り込み、器用に体を寄せた。雁夜は布団をかけ直すと、今度こそ深い眠りに落ちる。

 雁夜は子供が勝手にベッドに入ってきても、驚く様子がなかった。

 これは日常的な行為らしく、寝つけないであろう子供が大人の隣で寝る光景は微笑ましかったが、頼れる相手がおたがいだけのようにも見える。バーサーカーは複雑だった。

 かといってなぐさめる方法などなく、理性が戻ったといっても、なにもすることがない。生前のことを思い出しても悲嘆にくれるだけだったので、このまま静かに夜を過ごそうと思っていた。

 が、異変は起きた。幼女の体から半透明なものが浮き上がる。ふわりふわりと宙に浮かび、バーサーカーと同じ目線に立った。ネグリジェのすそがぼやけていて、空気に溶けている。

(……幽体離脱か)

 半分だけ意識が覚醒しているような表情で、子供は「だれ?」と目の前にいる鎧姿の男に問うた。

 バーサーカーは「見えるのですか」と問うた。子供は答えた。「見える」と。バーサーカーはさらに問うた。「私の声が聞こえるのですか」と。

「きこえる。あなたは、ゆうれい?」

 子供の問いに、バーサーカーはしばし考え込む。今の自分は霊体化しているものの、厳密に言えば幽霊ではない。

 だが、他者から見れば、幽霊のようなものにしか見えない曖昧な存在。

「……ええ。幽霊です」

「よろいのゆうれい、はじめて見た」

 子供はバーサーカーに近寄り、生気のない目で黒い兜を見つめた。

「中、からっぽなの?」

「いいえ」

 バーサーカーは兜を取る。

「中身はありますよ」

 生前、優男の彼の容貌に多くの女性が心をざわめかせたが、子供には通じなかった。子供はバーサーカーの素顔を見ると、唐突に「水?」と言う。

「水、ですか?」

「おにいさんのイメージ。みずうみみたい」

 勘の鋭い子だとバーサーカーは思った。

「あなたは夜ですね」

「よる?」

「ええ。みんなを包み込む、夜のような優しさがあります」

「くらいのはきらい」

「だから、彼の隣で寝るのですか?」

「かれ?」

 バーサーカーは不思議そうな顔で子供を見る。

「ほら」

 子供は鎧の男が指差す方向を見た。下にはベッド。間桐邸に戻ってきた雁夜のそばに、子供が寄りそうようにして寝ている。

「……?」

 理解できない。子供はそんな雰囲気を出す。無表情でも、それはバーサーカーにも伝わった。

「わたし、あなたとおはなししてるのに」

 なるほどとバーサーカーは気づいた。

 真っすぐに立った状態で、小さな子供が大人と同じ目線で会話している状況はおかしいのだが、この子は今の状況を把握できていない。

「いいですか。あなたも今、幽霊のような状態なんですよ」

「わたしも……?」

「ええ、そうです」

「しんじゃったの?」

「いいえ。あなたが寝ている間に、魂が体から抜け出てしまったんです。このまま体のそばにいれば、戻りますよ」

「もどっちゃうんだ……」

 明らかに戻りたくないという気持ちが伝わってくるが、このまま魂が戻らなければ、肉体が衰弱して死に到る。

(戻さないと危険だな)

 バーサーカーは兜を霧のように消してしまうと、子供の両手を取り、優しく床に下ろす。

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。小さなお嬢さん、私の名前はランスロット。それから……」

 マスターのことをどう呼ぼうかと思ったが、桜に分かりやすく名前で呼ぶことにした。おそらく、マスターやサーヴァントという聖杯戦争の専門用語を出しても分からないだろう。

 ただし、魔道の家の子ならば、簡単な用語は分かるかもしれないと。

「雁夜の使い魔です。よろしければ、あなたの名前を教えていただけませんか」

 片膝をつき、子供の目線に合わせて語るランスロットの優雅な姿に、子供は実の父を思い出した。間桐家の後継者として養子になる前、幸せだった頃の記憶を。

「わたしは……サクラ」

「桜とは、春に咲く美しい花ですね。良い名前です」

 ランスロットは桜の小さな手を取ると、今度はベッドの(はし)に座るようにうながす。二人とも霊体なので、音も重さもなかった。

「こんなふうに、幽霊のような状態になったのは初めてですか?」

 桜は首を横に振る。

「なんどもある」

「何度も?」

「いやなことがあったとき、こうなる。こうすると、いたくないから」

 子供をここまで無表情にさせるのも、マスターである雁夜の体の状態を察するならば、この子も同じ目に遭っていると見てしかるべき。

(まだ感情が残っている部分が、こうして外に出るのか)

 幼い身には重過ぎる運命。まるでアーサー王のようだとランスロットは思った。たった十五歳の少女に国のすべてを託したあの重さが、桜と被る。

「そうやって心を守っているのですね」

「こころ?」

「あなたの優しい部分です」

「……やさしくない」

「優しいですよ。あなたは幽霊の私を怖がらない」

「……おじいさまのほうがこわい」

「おじいさま?」

「マトウのおじいさま」

(おじいさま……。あの老人か?)

 召喚された時に見た、小さな老人の姿。まがまがしい塊に見えた存在を、ランスロットはぼんやりと覚えていた。

 桜はネグリジェをぎゅっとつかむと、「いまのこと、おじいさまにいわないで」と恐怖のにじむ声で訴えた。

「おじさんのつかいまなら、おじいさまのいうことはきかないでしょ?」

「ええ、もちろんです。それに、ご婦人を守るのは騎士の勤めですから、この話は二人だけの秘密です」

「きし?」

「はい」

「まじゅつしのつかいまになったきしって、どうわみたい」

 初めて桜は嬉しそうに反応した。硬かった顔に柔らかさが生まれる。

「あなたというお姫様を助けるために、雁夜は頑張っていますよ」

「おじさん、おうじさまなんだ」

「魔術を使える王子様です」

「……わるいまじゅつし、やっつけられるかな」

「私がそばにいて、お手伝いします」

「おじさん、どんどんからだがわるくなってたから、よかった」

 ようやく桜は、微笑と言っていいくらいの笑顔を浮かべた。その顔を見て、ランスロットは少しだけ安心する。

「おかあさまとおねえさまといっしょに、またあそぼうってやくそくしてくれたから」

 この子にはまだ感情がある。希望がある。無意識のうちにそれを求めている。奥底に沈めようとしても、反動で戻ってくる。今、幽体離脱しているように。

 雁夜が望むのはこの子の未来。未来を得るためには、この子に希望はいらない。

 ランスロットは桜の両手を優しく握る。

「桜。実は、私も魔術を使えるんです」

「ほんと?」

「本当です。これから、あなたにおまじないをかけましょう」

 桜の小さな額に、ランスロットは自身の額を当てる。

「本当の家族が、あなたの敵ではありませんように」

 それはアーサー王の生涯の敵となった姉モルガンとは違い、善き者であることを願って。

「あなたをいつくしみ、光を与える女性が現れますように」

 王を悩ませ続けた女性たちとは違い、心を許し、頼れる同性の友がいることを願って。

「あなたを助ける、健やかで真っすぐな男性が現れますように」

 王の妻という道具であることを強いられたギネヴィアを救えなかった自分や、愛する女の子供を救いたいと願いながら、違う方向に走って命を削り過ぎた雁夜とは違い、本物の騎士がいることを願って。

「そして雁夜が死んだら、雁夜のことも、私のことも、すべて忘れますように」

「しぬ?」

「はい」

「いや」

 とっさに桜はランスロットから額を離し、否定した。

「わすれたくない」

「いいえ、忘れなさい」

「どうして」

「優しい思い出は、あなたを傷つけます」

「そんなことない」

「本当に?」

「そんなこと……」

 下唇をかんで耐える。そんなことはあった。

 押し込められた暗い世界にいたのは、色鮮やかな蝶にも、奇抜な紋様の蛾にもなれない蟲たち。

 肌の上をはって動き回る不快なぬめり、幼子自身でさえ存在を知らない器官から入る異物の痛みに、桜はなにが起きているのか理解できなかった。

 最初に出た感情は恐れ。声が枯れるまで助けてと叫び、赤子のように泣き、逃げようと試みて、失敗した。

 どうして。どうして。どうして。

 逃げられない体に代わり、心は思い出の中に逃げた。優しい家族と温かい家を思い出し、記憶の中の家族に向かって助けを求めたが、誰も来てくれなかった。

 次に幼い心から噴き出た感情は、怒り。

 ひどい。ひどい。ひどい。

 自身を表現する言葉が多くない子供は同じ単語を繰り返し、最後は嘆願に変わり、そんな声すら届かないことが分かると、諦めた。

 憎いという感情が、まだ分からなかった。憎いという言葉すら知らなかった。ただ暗い感情が溜まり、腐っていた。

「いいですか、桜。これは夢です。夢は忘れるもの。だからすべて忘れなさい。これからもっと酷いことが起こって、傷つけられると思ったら、夢の中に嫌なことを閉じ込めて、そのまま忘れなさい。そうやって、自分の心を守りなさい」

 いつかあの人はああしてくれる、こうしてくれる。そんなふうに生半可な希望があると心が砕けてしまうことを、ランスロットは知っていた。

 希望を与えられ、叶えられなかった時のほうが辛い。裏切られたとすら思い込む。

 これから桜に多くの不幸が降りかかっても、最初からなにも知らなければいい。あるいは忘れ、絶望したままのほうが遥かにいい。

 これで、この子が憎む人間が一人減る。

 憎む対象が少なければ、心が壊れる瞬間が遅くなるはずだと考えた。その間に、姫を救う本物の騎士に会えるはずだと。

「まもるためにわすれるの?」

「そうです。私たちを夢の国の人だと思いなさい。これは童話と同じなんですよ」

「なんでそんなひどいおまじないをかけるの」

 酷いと言われ、ランスロットは苦い笑みを浮かべた。

「あなたを助けたいと強く願った雁夜が、私を呼びました。だから、私はあなたを助けるおまじないをかけたんです。私には精霊の加護がありますから、効き目があります」

 おまじないといっても気休め程度。明日いいことがありますようにと祈るのと同じような、そういうたぐいのものだった。

 それだけが、道化として死ぬであろう今生の主へ、かつて国を滅ぼす原因となった愚かな騎士ができる、ささやかな忠義のおこないだった。

 せめて一つくらいはいいことがありますようにという、小さな願い。

「そんなのいらない。いらないから、そばにいてほしいの。おじさんをちゃんとまもって」

「雁夜はずっとそばにいますよ。あなたの夢の中に」

 そばにいてほしいという桜の願いは、物理的な意味。それをランスロットはわざとねじ曲げてとらえる。それでしか、答える(すべ)がなかった。

「——ッ」

 空が白み始めると、ランスロットの心はなにかにむしばまれ始めた。奥底から湧き上がるように、黒く、重く、絡みつく。

(限界、か)

 太陽が山の向こうから姿を見せれば、一夜限りの魔法の夜が終わり、また狂人となる。それを分かっていても、せめて桜の前では、最後まで普通の姿を見せたかった。

「さあ、夜明けです。自分の体に帰りなさい」

 トンと軽く胸を押される。なにをされたのか気づいた桜は、必死になってもがいた。

(ランス! らんすっ!)

 記憶の中の家族に叫び続けたのと同じように、ランスロットへの声なき訴えも届かない。桜の幽体は引きずり込まれるようにして、肉体の中に吸い込まれていく。体が激しく痙攣し、桜は起きた。

 その衝撃が雁夜にも伝わり、眠りから目が覚める。部屋はまだ薄暗く、寒い。

 桜は体を動かし、ベッドの中から部屋を見回す。誰もいないことを確認すると、また態勢を戻した。

「桜ちゃん…?」

「ゆめを見たの」

「夢?」

 こくりと桜はうなずく。

「でも、わすれちゃった」

「夢だからね」

 仕方ないよと雁夜は言う。

「まだ早いから、もう少し眠るといい」

「……うん」

 雁夜は自由に動く右手で桜の背中を優しくなでた。何度も、何度も、繰り返し。

 桜は雁夜の胸に顔をうずめるようにして体を密着させると、伝わってくる温かさに安堵した。

 いつからこうして雁夜の隣で寝るようになったか、桜は覚えていない。それでもなかなか寝つけない夜は、雁夜のそばで寝るのが当たり前になっていた。その理由は桜自身も分からない。

 遠坂の家にいる時から、取材から帰ってくるたびにお土産をくれる、優しいおじさんではあった。

 桜は雁夜が魔道を捨て、間桐家から出ていった人間と聞いていたが、彼は一年前、突然戻ってきた。

 臓硯におびえながら従う雁夜の兄、鶴野(びゃくや)とは違い、いつも実父に対して喧嘩腰で会話をした。間桐家で一番恐ろしい人間に真っ向から反抗しながら、一度は捨てたはずの魔術の修行を猛烈な勢いでおこなった。

 優しい父と母。恐ろしい臓硯。弱い鶴野。分かりやすい大人たちとは違い、桜にとって、雁夜は訳が分からないことをする大人だった。

 それでも、彼のそばでだけは安心して眠ることができた。

「おやすみ、おじさん」

「お休み、桜ちゃん」

 良い夢を。

 

END

 

   後書き

 

桜が会話で使う漢字は、小学校一年生で習うレベルに合わせています。


 
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