No.403936

二次創作 仮面ライダーアギト RIDERs on……??

この作品は『二次創作 仮面ライダーアギト RIDERs on……??』に続く中編に該当します。もし読まれていない方は、http://www.tinami.com/view/403925 の方を先に読まれる事をお勧めします。

2012-04-07 01:27:03 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:972   閲覧ユーザー数:972

 蒼い闇がたゆたう周囲には、使用済みらしきシーツや衣類の入った、幾つかのランドリーカート。

 壁際には、小さな洗い場と、業務用の洗濯機、廊下を隔てるスチールドアが並んでいる。

 そんな部屋の真ん中で、真島 浩二は、携帯端末を耳に当てていた。

 耳をくすぐる呼び出し音が、プツリと切れる。

 目を瞬かせた真島は、端末に、咳き込む様に語りかけた。

「もしもし、氷川さんですか!? 真島です、僕は今、葦原さんと……ツッ!」

 一際鋭い雑音が、耳を撃つ。

 氷川の番号にも、つながらない——通話を切った真島は、改めて周囲を見回した。

 知らない光景では、ない。

 それどころか、一度や二度ではない、何度も繰り返して見た記憶がある。

 しかし明らかに、今、立っているべき場所ではない。

 真島は目を閉じると、こめかみに指を当てた。

 確か自分は、警察病院で勤務中だった。

 午後からずっと、手術の手伝いをしていたのだが、特殊急患の報告を受け、患者二人——変身した現象態のまま、意識不明で倒れた津上と、両腕に重傷を負った葦原を診察し、応急処置を施した。

 そして二人を運んできた小沢 澄子に、現状を説明していた最中に呼び戻され、急いで処置室に取って返し。

 津上の様子を診る前に、と、葦原のベッドに近寄って。

 真島の肩が、微かに震えた。

 もし、何らかの異常が発現したというのなら、その時に違いない。

 あの時、目端にちらりと映った、床に滲んだ黒い傷。

 それがごそりと広がって、動けぬ津上と葦原、そして運悪く、二人の間にいた真島を呑み込んだ。

 側で警備していたG3−Xが、飛び込んできて、津上の腕を辛うじて掴む。

 思い出せるのは、そこまで——深く息を吐いた真島は、そっと目を見開いた。

 蒼暗い視界の端に、天井照明のスイッチが映る。

 スイッチを入れれば、部屋は素直に明るくなるし、不安も少しは和らぐはずだった。

 しかし今は、まだ、押せない。

 自分の推測が確かだったら、あのスイッチは、地獄絵図への招待状でもある。

 真島は、もぎ取る様に、スイッチから目を逸らした。

 そして初めて、人影に気付く。

「!?」

 悲鳴を喉に詰まらせたまま、真島は盛大に跳び退いた。

 人影が、冷ややかに言い放つ。

「……大層なご挨拶だな、おいっ」

 その声に、真島はそのまま、床にぺたりと座り込んだ。

「あ、ああ……葦原さん、でしたか。すみません、つい……」

 蒼闇の中から、葦原の姿が浮かび上がった。

 両腕を灼き落とされていたはずだが、見た目の異常は、もう無くなっている。

 その『加害者』からの攻撃と、己の血で汚れた衣服はそのままに、へたり込んだ真島を見下ろした葦原は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ま、無意味にビビられるのは何時ものこった。気にしてねーよっ」

「す、スネないで下さいよ。こんな状況で、音も無しに背後に立たれりゃ、誰だって……」

「……それもそうかな。いらん面倒事に巻き込まれてんのは、間違いねぇんだから」

「と、いう事は……」

 真島の眉根に、困惑が差す。

 それをちらりと見やりながら、葦原は、力を込めて宣言した。

「おう、その辺ウロついた程度だが、間違いねぇ。ここは【デスコロニー】のスタート地点だ」

「やっぱり。道理で、見た事あるはずだ……」

 真島が、がっくりとうなだれる。

 しかし葦原自身も、落胆を噛み殺すのに、苦労していた。

 どういう仕組みかは、判らない。

 けれどどうやら自分達は、ちょっとしたレアゲームの中に立っている。

 業界の自主倫理機構に販売を差し止められ、海外から逆輸入した形で広まった、伝説のゲーム。

 それを遊んだ経験が、こんな時、こんな形で役立つとは——まだ頭を抱えている真島の側に寄った葦原は、その肩をつまみ上げた。

「ほれ、しっかりしてくれよ、お医者先生。これからちょいと、大変な道中を行かなきゃならん」

「ひょっとして、氷川さんと津上さんも、この世界に迷い込んでるんじゃ……」

「今、見てまわった範囲には、何処にもいなかったな。でもお前、見たんだろ? あいつ等が、オレ達と同じ穴に落ちたトコをよ」

「ええ、でも……」

「だったら多分、この世界の何処かにいるんじゃねぇの?」

「そ、そうだ! 葦原さんっ、ワイズマン・オーブ!」

「ん?」

「エクシードギルスにも、アギトと同等の索敵能力があるでしょ? それで何とか、二人を探し出せませんか!?」

「んー……」

 棒立ちのまま、葦原は唸る。

 真島は、目を瞬かせた。

「……駄目なんですか?」

「いや、多分……駄目じゃねぇ、とは思うんだ」

「だったら!」

「ふむ」

 僅かに俯いた葦原の額に、ワイズマン・オーブが出現した。

 エクシードギルスの超感覚、その制御アンテナの役割を持つ秘石が、蒼闇の中に瞬く。

 撓弾。

 静かな闇を引き裂いて、何も無い空間に、白い火花が弾けとんだ。

 予告も、予兆も無い。

 思いも寄らない出来事に、しかしためらう事無く葦原は、真島を床にねじ伏せると、その上に覆い被さった。

「わああっ!」

「あぢぢぢぢ!」

 叫喚じみた軽金属の軋む音と、派手に爆発した火花群は、しかしそのままどんどん小さくなり、ふつ切れて沈黙する。

 静けさが甦り、かばわれた真島が、もぞもぞと蠢いた。

「あ、葦原さん……大丈夫ですか……?」

「っつうっ……畜生っ、やっぱ駄目だったか!」

「やっぱ? やっぱって……」

 見上げる真島に、葦原はもそもそと呟いた。

「……実はよ、さっき一回、外の廊下で試してみたんだよ……そしたら、今みたいにバチバチーッって……」

「試してたんなら、言って下さいよ!!」

「さ、さっきと違う場所だったしよ! ココだったら、ひょっとしたら大丈夫かなーって……」

 憤る真島の視線を避けつつ、葦原は、いよいよぼろぼろになったシャツを脱いだ。

 あの訳の判らないクソガキから受けた攻撃と、自分で爆散させてしまったシャツの名残に、灼け焦げた後が見える。

 そして浅手とはいえ、ヒリヒリした火傷の感触。

 間違いなく、かなり強力なエネルギーの群体が、葦原の背中を灼いたのだ。

 ヤバいな——真島に背を向けながら、葦原は、溜息を噛み殺した。

 理屈は全く判らないが、この火花。

 今まで全て、葦原がエクシードギルスの力を使おうとする度に、発生している。

 僅かな行使ですら、これだけ剣呑な事態になるのだ。

 これで万が一、変身などしてしまったら。

 舌打ちした葦原は、ぼろぼろのシャツを投げ捨てた。

 真島が、小さな溜息を吐く。

「でも、これで……皆と連絡は取れないと、判った訳だ」

「何だ、心配なのか?」

「当然じゃないですか。津上さんは、僕の患者です!」

「でもお前、見たんだろ? 氷川が津上の手、を……」

 言が、途切れる。

 ちらと見た葦原の目が、大きく瞬くのが判った。

「葦原さん?」

 真島の声に、葦原の手が持ち上がる。

 その指差す方向を辿り見た刹那。

 真島も大きく目を瞬かせ、絞る様に呟いた。

「……なんだ、アレ!?」

 この部屋唯一の出入り口である、スチールドア。

 そのドアの真ん中が、力任せに斬り開かれ、ぐにゃりと歪んで開口していた。

 そしてその隙間から、何処かで見た事のあるモノ達が、顔を歪ませ、体を折り曲げながら、ギュウギュウ詰めに詰まっている。

 ラッシュアワーの電車内でも、ここまでの様相にはなるまい。

 そしてそのモノ達は、そのままぴくりとも、動かなかった。

 まるで、不気味な前衛彫刻だ。

「あ、葦原、さん……」

 不安げに、真島が呟く。

 そんな真島をそっと背後にかばいながら、葦原は、必死に記憶を手繰っていた。

 ゲームの【デスコロニー】スタート時は、プレイヤーは徒手のままで、部屋の灯りを付けてから、鍵の壊れたスチールドアに気付く。

 そして、そのドアノブを捻った瞬間、この演出に出くわし、敵との初遭遇を果たす。

 しかし。

 ふと気付いた葦原の、背筋がぞわりと粟立った。

 オレは灯りを点ける前から、この部屋を出て、廊下を歩き回った。

 ゲームを始める前から、その条件を幾つも無視して、動いている事になる。

 もし本当に、正規のゲーム中に放り込まれているなら、自分達はまだ、この部屋から、出られていないはずなのだ。

 葦原は、前髪を掴んだ。

 さっき真島に言い放った、『ここは【デスコロニー】のスタート地点だ』という台詞。

 思えば何故、自分はあんなに、きっぱりと言い切れたんだろう?

 ここが【デスコロニー】であるという根拠など、見た目が似ているという以外にどこにもない。

 しかしどこかに、はっきりとした証があったのだ。

 この世界が、ゲームの【デスコロニー】だという事を、強力に支える証のようなモノが。

 撓弾。

 葦原の背筋を、強い電気が突ん抜けた。

 歯車が噛み合う様に、記憶のピントが絞り込まれ、その明瞭に、目奥の澱が吹き飛ばされる。

「……思い出した」

 我知らず、葦原は、呟いた。

 真島が、その背を見る。

「は?」

 前の異物を見つめたまま、葦原の腕がもう一度、優しく真島を押し止めた。

「こいつら……オレの腕に、リバースかましてくれた奴だ」

 ええっ、と、真島が息を呑んだ刹那。

 捻くれた顔が、ひぃ、と息を吐き出した。

 節半分を斬り欠いた指が、ひくりと動く。

 再度、スイッチの入ったらしい異物達が、再びうぞうぞともがき始めた。

 切り裂かれたスチールの断面で、あちこちなますになりながら、じりじりと絞り出されて立ち上がる。

 迎える様に立ちはだかり、歌う様に呟く葦原の、そのまなじりが切れ上がった。

「思い出したよ。あのガキ、ここに出てくる化け物じゃねぇか!」

 ぼたりと落ちた一つの個体が、キリキリと葦原をねめつける。

 着ていたものこそ、患者衣のようなものに変わってはいるが、腕を灼かれてのたうつ自分を、見て笑っていた小さな子供。

 その口角から溢れた耳障りな絶叫が、部屋の中に響いた刹那。

 まばゆい火花と共に、葦原の左手首を切り裂いて、深紅の爪が伸び上がった。

 その小さな体が跳ぶと同時に、紅爪が、その顔面を迎撃する。

 血肉を撒いて床に落ち、悲鳴を上げたソレの頭を、葦原の踵が踏み潰した。

 良くできてやがる——呟く代わりに、短く唾棄する。

 このゲームが、業界の自主倫理機構を通らなかった理由が、コレだった。

 このゲームに出てくる敵キャラは、己がどんな状態になろうとも、決して動く事を止めない。

 四肢を粉砕すれば、胴を捻って。

 目を傷つければ、音を頼りに。

 ドアを壊し、廊下を奔り、換気口を這いずり、どこまでもどこまでも、プレイヤーを追いかけ、すがってくる。

 半壊した女の腹から這い出てきた子供の頭を潰さないと、ステージクリアできないシーンがある——そう知れ渡った時、この世界を彩る精密美麗なグラフィックに驚喜したプレイヤーの大半が、脱落したといわれている。

 そしてそれこそが、【デスコロニー】を、そうあらしめる要素。

 歪に壊れた子供達が、葦原との距離を取った。

 喝と開かれた口腔の奥から、空気の溢れる音が響く。

「葦原さんっ!!」

 真島の声が、背後に響いた。

 避ける選択肢は、無い——歯を喰い縛った葦原が、叫んだ。

「変身っ!!」

 一際巨大な火花の群れが、葦原の身を取り囲み、蒼い闇を殴打した。

 そのエネルギーを喰い尽くす様に、濃緑の生体装甲が、葦原の肌に浮かび上がる。

 胸部に輝くワイズマン・モノリスと、その五体を取り巻き、艶めいて脈打つ紅い爪。

 世界でたった独り、アギトの突然変異体・エクシードギルス。

 火花群を割って現れた、その好戦的な異形を、大量の溶解液が洗った。

「葦原さん!」

「引っ込んでろ!」

 派手な灼音の直中で、葦原は叫んだ。

 生体装甲が溶ける拷痛を、沸々と沸き立つ力が迎え撃つ。

 ヒトたる実在態の時には、負けっぱなしだった再生能力が、溶解液の力と拮抗していた。

 じりじりと、己が灼きつく臭い。

 その向こうから、絶叫じみた哄笑が、折り重なって響き渡る。

 ふざけやがって——デモンズ・ファングが、キリキリと噛み合った。

 そっちがその気なら、こっちだって遠慮はしない。

 そっちにどんな都合があろうと、オレの知った事ではない。

 オレの都合が、気持ちが、苦痛が、お前らにとって、何の意味も無いのと同じだ!

 葦原が、吠えた。

 跳び込んできた子供の体を斬り捌き、踵落としで薙ぎ払う。

 なお這い寄ってくる奴は、迷わず頭を踏み砕く。

 血飛沫と白い火花に追われ、慌ててカートの影に隠れた真島は、喘ぎながらも首を伸ばした。

 目も眩む争乱の直中に、葦原の異形が見える。

 そしてふと、真島は気付いた。

 葦原の右腕が、ほとんど動いていない。

 再生が完璧で無いのか、自分が施した麻酔が、まだ効いているのだろうか。

 いずれにしろ、まだ、本調子でないのだ。

 このまま、戦わせる訳にはいかない——真島は、ポケットにしまった携帯端末を取り出した。

 嬌声と争乱に揺さぶられながら、必死にデータを呼び起こしていく。

【デスコロニー】のオープニングを通り過ぎ、フリーエリアのクリーチャー・ライブラリに到達。

 そこには、実験用に捕獲されたという設定で、クリーチャーのデータが閲覧できた。

 早く、早く。

 地響きに肩を竦めた刹那、データを繰る指が止まる。

「やっぱり!」

 撓弾、真島はカートの影を飛び出した。

 壁際にある、巨大なサーバーに駆け寄る。

「葦原さんっ、気を付けて!」

 声の限りに叫んだ真島は、渾身の力を込めて、そのサーバーを蹴り壊した。

 同時に跳び退った葦原を追う様に、どっと溢れた液体が、雪崩を打って、床一面を覆っていく。

 悲鳴が上がった。

 異物達が足を滑らせ、一斉に転び始める。

「そうか!」

 葦原が、叫んだ。

 このゲーム、最初の鍵。

 無手の状態で、この大群相手に生き残る方法。

 床一杯に広がった液体洗剤に、足を滑らせた異物達を、葦原の踵が、赤爪が、迅速に踏みつぶし、斬り捌いていく。

 この方法に気付くまで、一体どれだけのプレイヤーが犠牲になり、脱落していった事か。

 呆気ない程速やかに、争乱が止んだ。

 ゲーム画面を通して見たなら、今頃、ミッションクリアの文字と、攻略精度判定がでている事だろう。

「あ、葦原さん……?」

「ああ……一段落、って奴だ」

 舌打ちと共に、葦原は変身を解いた。

 細く尾を引いていた、火花の散る音も、ふつ切れる。

 両手を見ながら、葦原は独りごちた。

「参ったな……こりゃ、よっぽどの時じゃねぇと、無駄な怪我をしちまう」

 真島が、駆け寄ってきた。

「葦原さん、大丈夫ですか?」

「ああ。平気だよ。お前のお陰で助かった」

 向こうが無視した向こうのルールを、こっちが尊重する理由は無い——溜息と共に、葦原は壁に寄ると、天井照明のスイッチを入れた。

 照明の灯りが部屋を満たし、真島が、端末を葦原に見せる。

 モニターには、葦原が粉砕した異物の姿が映っていた。

 子供を取り込み、変態させるバイオクリーチャー。

 体内で合成した強アルカリ溶液を武器として吐き出すが、素体の脆弱さに加え、四肢の発達が弱く、直立バランスが非常に悪い弱点がある。

 頷く真島をちらりと見た葦原は、納得の息を吐いた。

 そしてぼろぼろに壊れたドアに寄り、爪先で、それらを突つく。

「おい浩二。お前、このゲームは何回クリアした?」

「あ、えっと……七回程」

「……お前なあ、ゲム倫も通らねえゲームを、オレよりやりこんでるお医者様って、どうよ?」

「タイムアタックしてたんですよ!」

「ああ、判った判った。でな、お医者先生。できればお前を楽に運んでやりたかったが、そうもいかなくなったぞ」

「えっ?」

「実はオレ、まだ全クリアしてないんだよ。攻略サイトも見てないし、ネタばれ厳禁でやってたから……」

「葦原さんって、やり込み派だったんですね」

「悪いか?」

「いえ、すみません。続きをどうぞ」

「だから幾つかのシーンじゃ、何をどうしていいか、全く判らん。ゲームなら、死んで覚えりゃいいけど、オレ達は……」

 そうはいかない、と、言いかけた刹那。

 スチールドアの残骸が、勢い良く押し開かれた。

 ドアが壁打つ轟音と共に、圧倒的な黒い影が、側にいた葦原に襲い掛かる。

 真島を突き放した葦原の顔面を、刺々しい指先が掴み締めた。

 あの葦原が、声を発する間もなく組み敷かれ、右腕を捩じ上げられている。

 信じられない光景に、辛うじて、声が出た。

「葦原さんっ!!」

 同時に、真島は背中から、床に叩き付けられた。

 カートのクッションが無ければ、何処か怪我をしていたかもしれない。

 激震する視界を堪えて、体を起こしたその時。

 聞き慣れた、しかしあり得ない声音を、その影塊が放った。

「浩二!?」

「がーっ!!」

 怒声と共に、葦原のスティンガーが翻った。

 寸でで退った影塊に向かい、無数の電気をまといながら、紅い爪が威嚇する。

 体を起こし、右腕を押さえた葦原が叫んだ。

「きっさまあああああっ!!」

「ま、待って葦原さん! 違うっ、止めて下さい!!」

「うるせぇ浩二っ! じっとしてろッ!!」

「敵じゃない! よく見て、木野さんです……木野さんですよっ!!」

「何だとお!?」

 額の傷から血が流れ、視界が淀んでよく見えない。

 強引に瞼を拭う葦原を、影塊は、じっと見下ろした。

「浩二、に……お前は、葦原か!」

 弱々しい光が、腰部のアンクポイントと、四肢のバイオクロウを照らし出す。

 六角のクロスホーンと、全身を覆った黒鉄色の生体鎧甲、その胸部に光る、漆黒のワイズマン・モノリス。

 鮮やかな橙色の背翅が、マフラーのように翻った。

「木野……てめぇ、何でこんなトコに……」

 呻く葦原の元に、真島が駆け寄った。

 起き上がるのを助けながら、必死に言い聞かせる。

「木野さんも、あの病院にいたんですよ! 手術の最中で、僕、手伝ってたんです!」

「なにぃ?」

 威嚇していた紅爪が大きく揺れて、葦原が、真島を見る。

 真島は、大きく息を吐いた。

「公にはされてないけど、今日、ちょっと難しい手術があって……葦原さん達が担ぎ込まれる五時間くらい前から、僕、木野さんの執刀助手をしていたんです。そこに急患で、しかも相手が津上さんだったでしょう? 他の人じゃ手に負えないからって、木野さんが、僕に行けって……」

「……ちっ!」

 鋭い舌打ちとは裏腹に、紅い爪は、するすると背中に戻っていく。

 とりあえず、収まった——ほっとしながら、真島は、木野に向き直った。

「木野さん、あの……どうしてこんなとこに?」

「判らん。術中だったはずなのに……気がついたら、ここに投げ出されていた」

 吐き捨てる様に、木野は言い放った。

「変な波長を感じて手を止めた次の瞬間、私は廊下に立っていた。化け物は徘徊しているし、妙な波長を辿ってきてみれば、お前達が騒いでいる……何なんだ、ここは!」

 真島の顔から、血の気が引いた。

「ちょ……じ、じゃあ、患者は!?」

「腹を開いたまんまで放置?」

 手持ち無沙汰に、葦原が呟く。

 破壊鎚の勢いで、二人の視線がぶつけられ、葦原は思わず仰け反った。

「葦原さん、洒落にもなりません。冗談じゃないです」

「貴様の腹ならいざ知らず、患者は異能もアギトの力も持たん、普通の脆弱な人間だ!」

「木野っ、テメェは医者ぶるな! 確かめもせず、オレの腕、ブッ千切ろうとしたくせに!!」

「貴様こそ、腕の一本や二本、どうとでもなるだろう!!」

「二人とも、止めて下さいっ!!」

 真島の絶叫が、響き渡る。

 やっと静まった室内に、咳払いが響いた。

「とにかく、一刻も早く元に戻らないと。患者さんもそうですが、津上さんと氷川さんも心配ですし」

 木野が、僅かに首を傾げた。

「あいつらも、ここにいるのか?」

「恐らく」

「大体、ここは何処なのだ? お前達、判っているのか?」

「あ、そっか。木野さん、ゲームしませんものね」

 真島が、木野に説明を始めた。

 あの慇懃無礼に服を着せた様な男が、あれこれと言葉を交えながらも、基本的に、じっと黙って話を聞いている。

 こういう処は、大した奴だと思わざるを得ない——葦原は、鼻を鳴らした。

『ゲームの世界に迷い込んだ』などという、恐らく己の領分を遥かに超えた話でも、何とか喰いつき、理解してくる。

 医者というスキルのせいもあるのだろうが、即応力が、半端無い。

 大人しく、真島の話を聞いていた木野が、何度か頷き、呟いた。

「なるほど……つまり、この世界から脱出するには、そのゲームをクリアすればいいのだな?」

「ええ。今のところ、それしか手段が……」

 と、突然。

 葦原の言が、二人の会話に割り込んだ。

「悪いが、そう安直には、いかねえかもな」

「はっ?」

 真島が、目を瞬かせる。

 木野が、呟いた。

「どういう事だ?」

「オレ達をこの世界に取り込んだ奴は、津上の頭ン中の、ツァルって奴を抹消しようとしていた」

「う……」

「何だ、それは?」

「長い前置きがあったんだよ。お前が手術室に引き蘢ってる間に、色々あってな」

 不満げに、木野は鼻を鳴らす。

 敢えて無視して、葦原は続けた。

「そして奴は見事に、ツァルと津上を取り込んだ。ま、巻き添えで幾つか、余計なモンまで吸い込んじまったんだけど……」

 各々を指差し、葦原は、息を吐く。

「で、そういう場所は普通、取り込んだ獲物を逃がさない仕様になってる」

「このゲーム世界は、閉じている可能性があると……つまり、クリアできない?」

「ああ。クリアが可能なら、ゲーム開始前に、ゲームオーバーになるような仕様には、しないと思ってな」

「それは、そいつのルールに従った場合の話だろう」

「あ?」

 突然、木野の渾身の一撃が、白い壁を殴りつけた。

 その勢いに、その場の全てが激震する。

 振動に脚を取られ、這いつくばった葦原が叫んだ。

「何すんだ、おめーはっ! オレの話を聞いてなかったのかよ!」

「閉じた世界なら、ぶち壊せばいいだけの話だろう。何を遠慮してる」

「遠慮じゃねえ! 自重だ!!」

「よく判らんな。とにかく、もたもたしている時間は……」

「駄目ですよ木野さんっ! だったらなおさら、慎重にいかないと!」

「判る様に話せ!」

「つまりなあ」

 転んだ真島と助け合いながら、葦原は呟いた。

「こういう、ゲームを私的にコピーして加工したような世界って奴は、大抵、何らかの故障を抱えてるモンなんだ。つまり、とてつもなく不安定な土台の上に、いーからかげんなパクリ設計と、何でできてるかも判らん素材で作った舞台になっちまってる事が、大半なんだよ」

 言い置いて、葦原は、ふと気がついた。

 木野が黙って自分を見つめ、話を聞いている。

 強烈な居心地の悪さを噛み締めながら、葦原は、言を継いだ。

「そんなモロい舞台をだ。訳も判らず、ぶっ壊して進もうっていうのは、かなり馬鹿のやる事だと思うんだが、どうよ?」

「なるほど……そういう事も、あるのだな。それは確かに私より、お前の理屈の方が、正しそうだ」

「…………」

 葦原の全身が、一息に粟立つ。

 今度は真島が、二人の間に割って入った。

「そういう事なら、先ずは津上さん達を、見つけなきゃいけませんね。下手したら、もう捕まっちゃっているかもしれないけど……」

「そ、それは心配ないだろ。津上の事は、氷川が意地でも守り抜く」

「信用できるのか?」

「頼まれたからな、その、ツァルとかいう幽霊サンによ。そのツァルが津上の中にいる限り、氷川が死ぬか、バラバラにはぐれて人質にでも……」

 と、葦原が固まった。

「葦原?」

「……そうか。人質か」

「えっ?」

「おい、思いついたぜ。このゲームのクリア方法」

「ええっ!」

「大丈夫なのか?」

 にやりと笑った葦原は、真島の方を振り向いた。

「浩二、クリアデータを持ってるお前なら、【デスコロニー】のマップを呼び出せるだろ。今、出せるか?」

「ええ」

「そいつを、表示しといてくれないか? 正規品をそのまま素直にコピーしてくれているとは思い難いけど、ルートも判らず進むよりは、何かと安心できる。頼むよ」

「わ、判りました」

 真島が、携帯端末を操る。

 手持ち無沙汰に佇んでいた木野が、じろりと葦原を睨んだ。

「で、私は?」

「大変申し訳ないんだが……あんたには、露払いと先導と、猟犬役を頼まにゃならん」

 心の機微など、表し様もない複眼が、不満を全開にしてねめつけてくる。

 やっぱりな——葦原は、大仰に息を吐いた。

 事態が事態だというのに、己を何様だと思っているのか。

 正直、口をきくにも虫酸が走るが、自分が変身できない今、コイツをないがしろにすると、浩二が怪我をしかねない。

 それに縁もゆかりも、見た事すらない野郎だが、医者に腹を捌かれたまま、放置される羽目になった、患者さんとやらの為にも。

 色々と上限を超えたか、葦原は、ふいにこみ上げてきた笑いを、必死で堪えながら呟いた。

「右も左も、何も判ってねぇんだろ? だったらひとまず、話を聞いてくれや」

 木野の肩が、ぴくりと震える。

 それだけを見留めながら、葦原は、踵を返して話しだした。

「さっき判ったばっかりなんだが、オレがここで無闇に力を使うと、最悪浩二が怪我をしかねない現象が起きるんだ。で、何故かは知らんが、あんたは今のとこ、その現象とは縁がない。そこでだ」

「ふむ」

「お前のワイズマン・オーブなら、穏便に津上と氷川を探し出せる筈だ。それと浩二の持つマップデータを寄り合わせて、先ずは津上達と合流する」

「この世界を作った奴と、先に話を付けるべきじゃないのか?」

「向こうが先に、問答無用を宣言してんだ。タダで話を聞いてくれるとは、思えねぇよ。人質でもありゃ、話は別だろうが」

「人質……って、ま、まさか、津上さんに取り憑いたツァルを……」

 真島の呟きに、葦原が、にやりと笑う。

 面食らった真島が、必死に言い募った。

「ちょっと待って葦原さんっ、いくらなんでも、それは……」

「勿論、ツァルを積極的にどうこうするってわけじゃねぇよ。そんな事しなくても、ツァルの側にいて、向こうの手駒を片っ端からぶっ飛ばせば、ココの管理人が勝手に出張ってくるってだけの話さ。こんな無茶苦茶な方法を取ってまで、とっ捕まえて抹消しようとしてるんだ。お出ましまで、そう時間はかからねぇと思う」

「な、なるほど……」

 些か不満を匂わせながらも、真島は納得の息を吐く。

 葦原は、木野に向きなおった。

「ちょっと遠回りに思えるだろうけど、これが恐らく、一番安全で手っ取り早い解決法だ。で、そうなると当然、途中に出てくる敵の類は、あんたに捌いてもらうしかない」

「お前は?」

「オレは浩二を守りながら、お前の後を付いていく。プライドの高いあんたにとっちゃ、堪え難い屈辱だろうが——まあ、腹を開かれたまんま、放置されてる患者に免じて、何とか堪えてくれ」

「…………」

「オレの指示に従うのが、どーしても嫌だってぇなら、浩二の端末をお前に渡すから……」

 と、言いかけた時だった。

 不意に、木野が視線を逸らした。

「構わん。お前は浩二を守りながら、私にルートを指示しろ」

「貴様、ナニ企んでやがる」

 ほとんど脊髄反射で、葦原は、木野を睨みつけた。

 実在態だったなら、さぞかし完璧な渋面を見せてくれただろう。

 声音ににじむ軽蔑を隠さず、木野は葦原に言い放った。

「失敬な……お前自身が言い出した事だろう」

「あっさり納得し過ぎだ! やっぱりお前、何か企んで……」

 突然、木野の腕が、葦原の右腕を掴む。

「さっきの組み打ちで気付いたのだが、右腕が、自由に動かないのだろう? そんな奴を使いっ走りに使ったとあっては、医者としての倫理問題に抵触する……」

「そーいうので騙されるのは、いいトコ氷川までだよ、おっさん」

 鼻で笑う葦原を、再び複眼がねめつける。

「葦原さん、マップ、でました……よ?」

 二人の視線が、真島に叩き付けられた。

 真島が竦んだ拍子に、木野は、葦原の腕を振り放す。

「時間が惜しい。行こう」

「ちょっと待て、おい!」

 葦原が、木野の背に、手を伸ばそうとした時だった。

「一つ、念を押しておこうか」

 突然、木野が踵を返した。

 面食らった葦原の鼻先に、岩をも砕く、凶悪な指先が突き付けられる。

「私の背後と浩二を任せるのは、お前に対するそれなりの信用が、私の中にあるからだ」

 優しささえ感じられる声音で、木野は呟いた。

「私を、失望させないように」

「…………」

 葦原の両肩が、ぴくりと震える。

 再び踵を返した木野は、入り口に残ったドアの破片を払い除け、蒼闇の中に消えていった。

 呆然と見送る真島が、大きく息を吐く。

 ゆっくり振り返ってみると、葦原は、棒の様に立ち尽くしていた。

 貧弱な灯りに炙りだされた、その能面の様な面。

 戦慄きを隠さぬまま、真島はぽつりと呟いた。

「あ、葦原……さん?」

「くそじじい」

 応えた訳では、あるまい。

 沸き立つ様に続く声音を聞き分けた、真島の額に、冷や汗が浮いた。

「戻ったらシバく。絶対にシバく。絶対に……いや殺す、殺す。絶対殺す。必ず殺す。八つ裂きにして、殺ってやるッ!!」

 撓弾、葦原の身が翻った。

 パン、と間抜けな音を立て、スチールドアの残骸が、さらに八つに斬り捌かれる。

 最早鉄くずと化した破片が、がらがらと派手な音を立てて、床にまき散らされた。

 触れれば切れそうな断面が、爆ぜる火花と、蛍光灯の灯りを弾く。

「葦原、さん……」

 真島の祈る様な呼び掛けが、耳に届いたのだろうか。

 葦原の背が、緩んだ。

 左手首の紅い爪が、つぅと縮んで、皮膚の下に潜ってゆく。

 荒れ狂っていた火花が、止んだ。

「葦原さん……」

「行くぞ」

 葦原が、振り向いた。

 先に行け、と入り口を指差す葦原の面が、元の仏頂面に戻っている。

 その表情に、安堵を覚える日がこようとは——思わず泣いて抱きつきたくなる衝動を堪え、真島は、素直に歩き出した。

 入り口に消えたその背を追い、葦原の姿が消える。

 辺りはやっと、静かになった。

 

 

 

 

 

 床に幾つも広がる、赤黒い染みと、滑った塊。

 それらをぐしゃりと踏みつけにして、最後の【ソレ】は、小走りに寄ってきた。

 第三世代型強化外骨格、および強化外筋システム・G3−X。

 それをまとう氷川の視覚を、頭部ユニットのレッドアイザーが補佐する。

「止まって下さい!」

 無駄と判りつつも、叫ばずにはいられない。

 撓弾、【ソレ】が宙に跳ねた。

 自分の腰までも無い背丈。

 白い患者衣らしき衣服から伸びた、細やかな手足。

 見上げる程の跳躍を無視できれば、【ソレ】は正しく、小さな子供でしかない。

 しかし、氷川は覚えていた。

 つい数時間前、自分をかばった無二の盟友の腕を、嗤いながら灼き溶かした、恐るべき様相を。

 氷川は苦みを噛み伏せながら、左腕のGK−06を引き抜いた。

 交錯する一髪の間に、【ソレ】の体が両断される。

 血飛沫と、耳障りな咆哮が、氷川に浴びせかけられた。

 パワー・アクチュエイターが微かに唸り、残された肩と、腕一本でもがく【ソレ】に、渾身の蹴りが見舞われる。

 小さな体は赤黒い飛沫を上げ、大仰に爆散した。

 次は!? ——肩で息をしながら、氷川は身を翻した。

 広いスペースを取り囲む様に配された、7基の大型エレベーター。

 そしてつい今しがた、追跡者に追われながらも、駆け降りてきた階段口。

 天井には、洒落たシーリングも設えられ、血飛沫を免れた蛍光管は、整然と光を放っている。

 あちこちに散らかった肉塊と血脂を無視できれば、大きな建物には当たり前に存在する、エレベーターフロアにしか見えない。

 氷川は、大きく呼吸した。

 乱戦時にはカットされる索敵モードが、氷川の弛緩を感じて再起動する。

 撓弾。

「たすけてっ」

 息苦しく裏返り、擦れきった声。

 聞き覚えの無い声音に、氷川は歯を喰い縛ると、声のする方へと振り向いた。

 エレベーターに向き合う形で作られ、広大なフロアの真ん中にある、恐らくは接客の為のカウンター。

 その片隅に、小さい何かがいる。

 いや、隠れているのだろうか?

「たすけてっ」

 氷川の全身が、総毛立った。

 今まで文字通り、粉砕してきた【ソレ】らと、見た目は何ら変わらない。

 自分の腰までも無い背丈。

 白い患者衣から伸びた、細やかな手足。

 子供を模した、精密な様相。

 しかし捕捉した【ソレ】は、氷川にとって、最凶の言葉を吐いた。

「たすけてっ」

 レッドアイザーが、危険を告げる。

 司令塔であるG3トレーラーとの通信が、完全に途絶している今、単独収集した戦闘データの分析を、疑う理由など無い。

 直ぐにでも戦闘態勢を取らないと、致命的な事態になりかねなかった。

 それは判る。

 判っているのだ。

 恐慌を堪えながら、しかし氷川は、【ソレ】から目を逸らせない。

 頼りない光を隔て、開かれたまま、凝り固まってしまった眼差しが、こちらをじっと見返してくる。

「おねがいたすけて」

 声音と共に、小さな体がぎくん、と揺れた。

 キコキコと立ち上がり、こちらに向かって迫ってくる。

 いつもの氷川だったなら、この刹那、何をおいても、子供の元に駆けつけたに違いない。

 しかし今は辛うじて、GM−01の銃口を差し向け、言い放った。

「止まって下さい」

 ぴくりと震えて、【ソレ】は止まる。

 今までどんなに呼び掛けても、哄笑しか返してこなかった【ソレ】が。

「たすけて……」

 ひくひくと、声が響く。

 忘れていた嫌な汗が、記憶と共に、全身にまとわりついた。

 警察病院の特別緊急処置室で、津上が闇に穫られた刹那。

 津上の腕を掴んだ氷川は、この世界の創造者たる男が、サーバールームと呼ぶ部屋に、共に召喚されていた。

 整然と並ぶ精密機器に囲まれ、独り、椅子に座ってこちらを見つめていた男。

 その黄土色の肌と、病の強い臭いに、氷川は思わず息を呑んだ。

 右目ばかりが異様に輝き、今にもくずおれそうな痩せた体を、まるでその煌めきだけで保たせているように見える。

 氷川は一緒に落ちたはずの、葦原と真島の行方を聞いたが、男は浅い呼吸の合間から、『お前達の世界の為に』、ツァルの返還のみを唱えた。

 勿論、その話を鵜呑みにはできない。

 ツァル自身が言った『抹消』という言葉や、津上や葦原に対する一方的な態度を鑑みれば、返却したが最後、ツァルはきっと、その存在を維持できない状態に追いやられる。

 その事を伝えて拒否すると、己の手足の替わりとしているらしい、大量の【ソレ】らをけしかけてきた。

 殲滅戦の合間になされたデータの採取と、ツァルの分析によれば、【ソレ】らは、ツァルの改変されたコピー体らしい。

 改変されているとはいえ、コピーというからには、ツァルと寸分違わぬ構成をしているはず。

 その事が、ずっと氷川の心に引っかかっていた。

 もし【ソレ】らの中に、ツァルのように友好的な、少なくとも、攻撃の意図を持たない個体へと、変質を遂げたものが存在していたら。

 自分と津上の安全を確保する事にかまけ、今まで一方的に叩き潰してきた【ソレ】らの中に、ひょっとしたら、説得可能な個体が。

 暗に助けを求めていた、個体があったのではないか?

 歪に膨れ上がった思考に、強く目を閉じた時だった。

 氷川の足の傍らに、何かがぬるりとたゆたった。

 全ての思考が、刹那に吹っ飛ぶ。

「しまった!」

 微かに漏れた罵倒と同時に、銃弾に爆散した半身を引きずった【ソレ】が、脚部ユニットにしがみついた。

 更に、止まっていた【ソレ】の足が床を蹴り、小さな体が氷川めがけて跳びついてくる。

「たすけてっ」

「くっ!」

 首にずしりとぶら下がられた勢いに、転倒だけは免れた。

 しかし何を間違ったのか、氷川の足にしがみついた【ソレ】が、氷川の首にぶら下がる【ソレ】の生白い足に、勢い良く喰いついた。

「や、止めろっ!」

 氷川の制止も、喰い込む歯列に抵抗する足の皮肉も、【ソレ】の意を翻せない。

 ぶちぶちと響く淡白な響きに、裏返った泣き声と、噴き出す血飛沫が織り混ざった。

「びゃああああッ!」

 涙混じりの絶叫が、氷川の耳をつんざいた。

 首に巻き付いた、小さな腕が緩んでいく。

 どうして? ——目だけでヒリヒリと呟きながら、【ソレ】の体が滑る様に落ちてゆく。

 その目が涙を弾き跳ばし、ぎゅっと閉じられた刹那。

 鬱屈した氷川の意志に、亀裂が奔った。

 両手を開き、落ちる体を追い掴む。

 銃が床に落ちると同時に、氷川は、火がついた様に泣く【ソレ】を抱き締めていた。

 膝が折れ、血溜まりの床を打つ。

 常に命を預け、何よりも誇りとしてきた『相棒』。

 その清冽な青色を、あろう事か、助けを求めてきたモノの血が、汚していく。

 信じられない出来事に、涙が滲んだ時だった。

 足にしがみついていた【ソレ】が、滑る様に離れ、血溜まりに落ちた銃を奪った。

 それと同時に、抱かれていた【ソレ】の、目が見開かれる。

 己の血を浴びた頬に浮かぶ、引き攣るような蔑笑。

 氷川の思考が及ぶより早く、引き金を引く金属音が、耳を撃った。

 広大なフロアに響く——アラート。

『警告。未承認個体によるGM−01トリガープル感知。対UK特別法違反、GM−01作動をロックします』

 緩んだ奥歯を、氷川は再び喰い縛った。

 全身に奔る制止の衝動を振り払い、腕に抱いた【ソレ】の体を、壁に向かって叩きつける。

 ネオクロチタニウムの積層装甲に守られた掌が、猫の悲鳴に似た断末魔と共に、柔らかな組織を圧し潰した。

 くわえた皮肉を吐き捨てた【ソレ】が、銃を投げ捨て、再び迫る。

 氷川は、その捩じれた体目掛けて、右足を踏み降ろした。

 特殊装甲に包まれた7.5トンの衝撃が、湿った音を跳ねあげて、筋と繊維を潰していく。

 呼気に擦れた悲鳴が絶えても、氷川の足は、止まらなかった。

 動けなくなるまで、では駄目だ。

 動き様がなくなるまで潰しておかねば、今みたいな事になる。

 千切れた腕が、白い床に転がって揺れた。

 新しい皮肉と血脂が血溜まりに跳ね、滑々と蠢く波紋を作っていく。

 何度も何度も踏み潰し、やがて【ソレ】が、ボロに包まれた肉塊となり果てた頃。

 氷川の足が、やっと止まった。

 荒い呼吸をねじ伏せて、血溜まりに投げ捨てられた銃を拾う。

「……ふう……」

 氷川は、顔を上げた。

 フロアの床に折り重なった【ソレ】らの躯は、もはや個体として成り立つものはない。

 無音の軋みが、再び帳を垂らし始めた。

 どうあっても、あの男は、ツァルを抹消する気だ——GM−01のロックを解除しながら、氷川は、つい先程潜ってきた、階段口を睨みつける。

『承認個体印を確認。GM−01、再起動』

 バレルチェックをこなしながら、氷川は大きく、息を吐いた。

 男の思いはこじれてはいるが、一途で揺らぐ気配はない。

 元々、付き合い易いタイプの人間でないのだろうが、その性格が病を経て、悪化に拍車をかけている。

 人の話を聞いて、判断する理性が、どこまで残っているか——氷川が、目を伏せた時だった。

『氷川さん!』

 突然の呼び掛けに、氷川の背筋が引き締まった。

 氷川の、もう一人の盟友。

 今は断固として、守り抜かねばならない者の呼び声。

 ええ、大丈夫——応えようと、息を吐いた刹那。

 氷川は、声が出ない事に、気が付いた。

 口角は動くが、喉に苦みがつっかえて、声音が巧く通らない。

『氷川さん、大丈夫ですか?』

 重ねて呼ばれ、こみ上げる焦りをなだめながら、氷川は大きく、息を吐いた。

「あ、え、えっと……ツァルさんですね?」

『はい。コピーの反応がなくなったのに、氷川さんが動かれなかったので、つい……すみません』

「いや……助かりました」

 氷川は首を振った。

 五体の鬱が、爆散した気がする。

『氷川さん……』

「いえ、大丈夫です。そちらこそ、声が出せる様に?」

『あ、はいっ。先程から試みていた最適化試行に、津上さんが適応してくれました。これで少しだけ、津上さんの負担が軽減されます』

「最適化、って……駄目ですよ、御自身に、影響があるでしょう?」

『余分なルーチンを、幾つか抹消しただけです。全く問題ありません。少し、思考が遅くなりますが……平気です、これくらい』

「……ひとまず、奥に。ここなら恐らく、今までみたいな大群と戦う事は、なくなるでしょう」

『本当に、大丈夫でしょうか』

「貴方は自分より、この【世界】とあの男について、熟知している。自分は、貴方の分析を信じます」

 慎重に銃を構え、周囲を確かめつつ、階段口に向かう。

 その傍らに、アギトと化した津上の姿があった。

 主に戦闘能力に特化したアギト達の中でも、『進化』そのものの力を内に秘め、それを自在に行使できる、希有な存在。

 数奇な運命の中、何十体もの強力なアンノウンと戦い抜き、ついにその宗主すら退かせた力は、あの群体など、指一本で殲滅せしめるはずだった。

 が、その力を全開にしているにも関わらず、今はただぐったりと、壁に寄りかかって動かない。

 いや、動きたくても動けないのだ。

 警察病院の処置室で、真島から聞いた話では、今、彼の脳内では、ツァルと名乗るYiBレベルのデジタルデータが、間断なく演算され、実行され続けている。

 どれだけの間、そうなっていたかは判らない。

 しかし確実な事は、もし津上にアギトの力が無ければ、もっと以前に発狂するか、突然死していたという事。

 そんな常識外れの過負荷の影響は、身体の方にも容赦なく及び、今や完全な行動不能にまで至らしめていた。

 氷川は膝をつくと、うなだれる津上に声をかけた。

「津上さん、ツァルさん。大丈夫ですか?」

『ボクは大丈夫ですが、津上さんが、相変わらずです。ボクのせいで……早く何とかしないと……』

「ちょっと失礼」

 G3−Xの大腿部には、GM−01のホルスターが、設置されている。

 そこに銃を収納しようとして、氷川は、銃を握った指が、動かない事に気付いた。

「あ、あれっ?」

『氷川さん?』

 ツァルの問いかけを聞きながら、氷川はレッドアイザーに、右腕装甲の情報を尋ねた。

『コンディション、グリーン』

 淡々と、表示が流れる。

 しかし、動かない。

 グリップを握り締めた指が、細かく震えて軋んでいる。

 氷川はふと、SAUL——未確認生命体対策班——に配属される以前、神奈川県警捜査一課に所属していた時の事を思い出した。

『追いつめられたヒトって奴はね。結局どんな事でも、やれちまうモンなんだよ』

 凄惨を極めた殺人現場で、被害者を見下ろしながら呟いた、当時の先輩の一言。

 その時は、ただただ腹立たしくて、思わず違うと怒鳴り返した。

 けれども今、やっと腑に落ちた。

 先輩の言う通り、追いつめられたヒトは、結局どんな事でもやれてしまう。

 挨拶をする心安さで、小さな子供に銃を向け、引き金を引く。

 食肉を捌く気安さで、コンバットナイフを叩き付ける。

 血を吸う蚊を叩き潰すように、小さな頭を圧し潰し、細い五体が意味を成さなくなるまで、ひたすら蹴りをお見舞いする。

 目に映る銃身と、この身を覆う装甲の赤黒い滑りは、正当防衛という言葉の意味すら判らなくなる程の、圧倒的な虐待を紡いできた証拠だ。

 今の自分のこの姿を、SAULの仲間達が見たら、一体、何と言うだろう。

 氷川の脳裏に、奇妙な笑いが灯った。

 ひょっとせずとも、この血塗れの姿は、自分が純然たるヒトだった証、勲章なのかもしれない。

 しかしそれなら、この指の硬直は?

 笑いが喉に詰まり、息ができなくなった気がして、氷川は、頭部ユニットを毟り取った。

『氷川さんッ!!』

「あ、す、すみません」

 ツァルの声に、頭を一振りした氷川は、銃と頭部ユニットを傍らに置いた。

 思ったよりも冷たい空気に、氷川は大きく呼吸する。

 その姿を映していた、津上の紅い複眼。

 それが薄い光を受けて、きらりと小さく瞬いた。

『氷川さん……一つ、お願いしたい事があります』

「何か?」

『兄が手足として操るコピーは、ボクが把握している手持ちの全てを、貴方に破壊されました。兄の性格上、今度は兄自身が、ボクを追って、ここに姿を現すでしょう』

「……そう願いますね。それが目的で、ここを目指したんですから」

『今度、兄と話をする時……ボクと津上さんをここに置いて、貴方は外に、出ていて欲しいんです』

「えっ?」

 思わず声を上げた氷川の声を無視して、ツァルは淡々と続けた。

『貴方はボクと津上さんを守り支えて、ここまできた。しかしこの状況が続けば、貴方は精神的に持たない。ボクがもう一度、兄と話をします。だから……』

「……今、津上さんは?」

『ちょっと、眠ってもらっています。きっと、凄く怒られるから……』

 アギトの首が、かくんと頷く。

『でも津上さんは、ボクを助けてしまったせいで、こんな目に遭っているに過ぎません。兄の目的は、余計なお節介をするボクの完全抹消以外に無い……ボクが兄の説得に失敗しても、ボクの抹消さえ敢行できれば、これ以上、津上さんや皆さんを害する様な真似は……』

「それは駄目です」

 氷川が、素っ気なく言い放つ。

 津上の肩が、一つ小さく、痙攣した。

『兄は病を経て、人が変わってしまいました。確かに強引で、人の言う事に耳を貸す事は、少ない人でした。でも以前はこんな、人が本気で忌避するような事を、強いるような人ではなかった。きっとアギトの力を駆使して、貴方の全データを解析し、一番精神的に堪える戦法を用いてきている』

「……それは、そうかもしれませんね」

 氷川の呟きに、ツァルは勢い込んで言った。

『今のボク達は、兄の掌で足掻いているに過ぎません。もし貴方がもっと頑張ろうとすれば、きっと兄は、もっと陰険な攻撃を仕掛けてくるにちがいない。この状態を維持する事に腐心し続ければ、貴方はきっとおかしくなって……』

「止めろっ!」

 怒鳴った途端に、氷川は激しく咳き込んだ。

 アギトの複眼に、一頻り咳き込む氷川の姿が映り込む。

『氷川さん……すみません、ボクのせいで……』

 ぽそぽそと、津上の声が——ツァルの言葉が響く。

 喘ぎながらも、氷川は大きく息を吸った。

「失礼。確かにちょっと、気が立っていた様です。でも大丈夫ですよ」

 一つ唾棄して、呼吸を整えた氷川の頬に、いつもの穏やかな笑みが浮かぶ。

「確かに多勢に無勢でしたが、致命傷を受けた訳ではありません。このG3−Xユニットだって、機能的な問題は全くありませんし」

『…………』

「ツァルさん?」

『何故貴方は、自分の心身を無視してまで、ボクを助けようとするのですか?』

「えっ?」

 氷川の目が、瞬いた。

 その眉根に、戸惑いが差す。

 身を乗り出したかったのだろう、津上の上体がつんのめりかけて、氷川は慌てて、その肩を支えた。

「あ、ちょ……つ、ツァルさん、落ち着いて!」

『津上さんも、貴方も……ボクがまだ、単なるデータプログラムの集合体だった時、何度か見聞きした事があります……自己犠牲というものですが、それに該当するものなのでしょうか?』

「いや、特にそういう意図をもって、やっている事ではありません。きっと津上さんも……そこまで深く、考えてはいないと思いますが」

『それじゃあ、ボクが、助けを求めたからですか? ボクが助けを求めたから、貴方も津上さんも、こんな無茶して……』

「きっかけは、確かにそうですが……でも、きっと……」

 言い淀み、氷川はほんの少しだけ、首を傾げた。

 一つだけ咳払い、淡々と告げる。

「もし貴方や津上さんが、自分に助けを求めなかったとしても、多分……いや、きっと自分は、貴方と津上さんを、保護していたと思います。しかし、そんなに不思議な事ですか?」

 ふと、氷川の脳裏に、今まで叩き潰してきた【ソレ】らの姿が過った。

 そういえばツァルは、あのコピー達の基だったっけ。

 今聞こえてくる涙混じりの頼りない言葉と、その子供の姿が重なって、氷川は思わず苦笑した。

 ツァルは、必死に言い募る。

『残念ですが、ボクにはまだ、貴方の行動が非・生産的な選択肢としか取れないのです。元の三次元に存在していた時は、逃げ切る勝率があった。でもこの状況下では、津上さんの消耗も、貴方の精神的な消耗も、看過できない状態になりつつある。津上さんは、現存するヒト個体の中でも屈指の強度を誇る個体です。兄とボクとの交渉の際、貴方の不在で、津上さんが多少の不利益を被ったとしても』

「その最強のヒト個体が、貴方に言ったのでしょう? 自分に助けを求めろって」

 津上を真っ直ぐ見据えながら、氷川は言を遮った。

 立ち上がり、血脂に汚れた頭部ユニットを手に取る。

 改めて装着すると、AIに再起動がかかった。

 笑みすら感じる優しい声で、氷川は呟く。

「そして今の自分には、助ける為の力も貸与されている。貴方と津上さんをここに放置する理由など、一つもないじゃないですか」

『氷川さん……』

 G3−Xユニット・オール・グリーン。

 レッドアイザーが、システムチェックの終了を宣言する。

 氷川は、指を動かしてみた。

 床に置いた銃を拾うと、ホルスターが口を開く。

 何時もの様に、銃を滑り込ませた刹那、厳重なホールドが掛かった。

 そこには、一髪の停滞も無い。

『相棒』は、まだ充分に戦えるのだ。

 氷川は、真っ直ぐ言い放った。

「心遣いには、感謝します。でも二度と、そんな事を言わないで下さい。戦闘能力も生存能力も、自分は津上さんや葦原さんの、足下にも及ばない……けど挫けて諦めてしまわない限り、できる事は、無限にあると信じています」

 応えを聞く気は、無い。

 氷川は津上の腕を取ると、そのまま一気におぶいあげた。

 背中の津上が、かくんと揺れる。

 首を巡らせた氷川の耳に、微かな呻き声が届いた。

「ツァルさんですか? それとも、津上さん? 苦しいですか?」

 返事は、無い。

 それでも氷川は、声を掛けた。

「すみません、今、装甲を外す訳にはいかなくて……あんまり居心地良くないでしょうけど、もう少し、我慢して下さいね」

「あり、が、と……」

 頭部ユニットの下で、氷川の目が瞬いた。

 今の言葉は間違いなく、津上自身のもの。

 氷川にも、直感的に、理解できた。

 彼もまたツァルを助けて、力の限り闘っている。

 氷川は優しく、しかしはっきりと呟いた。

「心配いりませんよ。ツァルさんも津上さんも、必ず、自分が守ります」

 氷川はフロアを横切ると、カウンターの内側に、津上の体を横たえた。

 これで安全、とは言い難いが、万が一の事態に、直接晒される可能性は低くなる。

 そして腕装甲に併設された、バイタルアプリケーションを起こし、津上の身体状況を調べ始めた。

 プログラムには、必然的にバグが発生し易くなる場所がある。

 あらゆる情報が交錯し、さらにそれらが派生して、細かく細分化されていく分岐点。

 ツァルの言質から、その集積地として、氷川はこのエレベーターフロアを目指した。

 ツァルはともかく、津上と氷川は、実体を伴っている。

 その再現率は、今の処、完璧だった。

 しかしそれは逆に、その実体の維持だけでも、大変な計算処置を強いられていると見ていい。

 氷川は、そこを付け目と思っていた。

 アプリケーションがアラームを発し、津上のコンディションを分析表示する。

 改善もないが、悪化もない値。

 氷川は、小さくうなずくと、装置を手早く収納した。

 全てが計算で対処されているなら、元々不安定な場所に、過剰に大きなデータや、作り込まれた複雑なデータを、差し向けてくるとは考え難い。

 ましてや、完全な不確定因子である、葦原と真島をも、取り込んでしまっているのだ。

 もし、相手が万全だったのなら、それでも攻撃は止まないだろう。

 しかし相手は、明らかに病んでいる。

 あの状態ならきっと、細部に手が回らず、大変な事になっているにちがいない。

 この事態を、比較的穏便に、速やかに収める手段は、ただ一つ。

 この世界の創造者である男が自ら出向き、直々に誤差を確かめ、修正する事。

 氷川はそれを、もう一度、兄と対面し、説得するチャンスと思っていた。

 先ずは、この不安定な世界を質に取り、男を同じ土俵に引きずり出す。

 そして冷静に話し合い、妥協点を探り出し、落とし込む。

 もし決裂となったなら、場合によっては、逮捕だってしなきゃいけない。

 その為にも、報告書はきちんと——と、突然。

 氷川の頭に、現実が爆ぜた。

 今まで見事に忘れていたが、こんな出来事、どうやって報告書に落とし込めばいいんだろう?

 氷川は、首をひねった。

 ゲームや漫画に登場する警官は、よくそんな事を悩むと聞く。

 しかしまさか、自分がこんな事態に悩む時が来ようとは。

 もう一度、首を傾げる。

 撓弾。

『氷川さん!』

「!?」

 呼び戻された意識の端に、何かが動いているのが見えた。

 一番右側に設えられた、業務用のエレベーターが動いている。

 階数表示を舐める様に、淡く灯った光が、この階数目掛け、するすると下がってきた。

 ツァルが、おろおろと呟いた。

『あ、兄です。どうしよう……氷川さんっ、ボク、どうしたら……』

「落ち着いて下さい、ツァルさん」

 氷川は、津上の肩を掴んだ。

「いいですか、貴方が何かを話せば、返ってお兄さんを刺激してしまうかもしれません。何を聞かれても言われても、何があっても、黙ってじっとしていて下さい」

『で、でも……』

「約束して下さい、ツァルさん。自分だけではありません、今、頑張っている津上さんや、この世界の何処かにいる、葦原さん達の為にも。自分を信じて下さい、必ず助けます……貴方も、貴方のお兄さんも、ね」

『判りました……』

 めそめそと、しかしはっきりと、ツァルが呟く。

 聞き届けて一つ頷き、氷川は立ち上がった。

 エレベーターの階数表示が、ぴたりと止まる。

 カウンターから出た氷川は、エレベーターの真正面に立った。

 

 

 

 

 

 微かな機械音と共に、エレベーターのドアが開く。

 頼りなげな足取りで、ふらりと出て来た黒衣の男は、ゆっくりと周囲を見回した。

 そして最後に溜息を吐き、正面に立つ氷川に、視線をくれる。

「あのアギトをかばいながら、コピーを蹴散らして……ここまで逃げ切ったか。大したものだな」

 鉄の面が、僅かに俯く。

 しかし氷川の声音ははっきりと、静かな宙に響き渡った。

「貴方こそ、大したものです」

「何?」

「今の貴方を見れば、医者でなくとも、大変危険な状態にある事が判ります。その状態で、この想像を絶する仕掛けを維持する苦痛……自分には、想像もつきません」

 男のやつれた面差しに、怒気が差した。

「そう思うなら、とっととそのデータを返して欲しいものだな。誰のお陰で、こんな苦労をしていると思う」

「その御苦労の原因は、貴方自身が作られている」

「…………」

「このままツァルさんを返却しても、きっとツァルさんは、無事ではいられないでしょう。そして最終的には、貴方も……」

 男は口を閉じたまま、氷川を睨みつけている。

 既になされた問答を、蒸し返すのが辛いのだろう。

 それでも、氷川は言を継いだ。

「それ以外の選択肢は、未だ存在しないのでしょうか? 自分ならば、もう一つの選択肢を作ります」

「ほほう」

 男は、くっ、と苦笑した。

 冷ややかな目で、氷川を舐める様にねめつける。

「では、後の参考にいておこうか。どんな選択肢だ?」

 氷川は、口ごもった。

 このまま同じ問答を繰り返せば、相手は益々態度を硬化させてしまう。

 背後で黙っているツァルの、涙混じりの言葉が、脳裏に甦った。

 諦めるな、考えろ。

 ツァルの願いは、決して男を苦しめるものではない。

 いつかは、彼も判ってくれるはずなのだ。

 いつかは——氷川は強く、目を閉じた。

「……諦めろ、とは、いいません」

 踏み出しかけた男の足が、ぴくりと震えて止まった。

 目を見開いた氷川は、大きく息を吸い込んだ。

「貴方は、ツァルさんの抹消を、諦めなくていい」

「どういう意味だ」

「言葉の意味、そのままです。一つ、約束をしてくれるなら……それを守ってくれるなら、例え自分達が止めても、ツァルさんは自発的に、貴方の元に戻るでしょう」

「約束?」

「病院へ行って、病気の治療を受ける事」

 頼りなく揺れていた筋が、一髪の間に張りつめた。

 歯車の様に、言葉が噛み合い、溢れてくる。

 これでいい。

 いや、これしかない——不思議な自信に支えられて、氷川は冷静に呟いた。

「ツァルさんがひたすら恐れていたのは、貴方の病が、これ以上悪化する事。そして強く願っていたのは、貴方が病院へ行って、きちんと治療を受ける事……だからまず病院へ行って、病を癒して下さい。その後にもう一度考えて、なお、ツァルさんが危険であるというなら、その時こそ……」

 男が、鋭く舌打ちした。

 撃たれた様に、氷川は口を噤む。

 畳み掛ける様に、男は言った。

「本は好きか?」

「……嗜む程度には」

「フィクションも?」

「何を言いたいのですか?」

「『ロボットの反乱』……という概念は、理解できるだろう?」

 男の指が、自分のこめかみを突つく。

 僅かに揺れた鉄の面を見つめながら、男は滔々と喋り始めた。

「俺はある日、妙な事に気がついたんだ。『変質』の為の思考ルーチンを、考えていてね。その時、何時もとちょっと変わった記述が、頭に浮かんだ」

「ひょっとして、その記述の第一号が……」

「そう。お前達が簒奪してくれた、ツァルだ」

 男の口角が、引き攣れる。

 前髪を掴みながら、男は言を紡いだ。

「思いつきにしては、中々首尾が一貫していてね。実際に書いて動かしてみても、巧く動く。そうやってあれこれ手を加えていく内に、こちらの予測を超える変質を繰り返すようになった。俺はこの【世界】を作り、ツァルを放した。人間だって、よくやるだろう。頭のいいネズミに、迷路と餌と、ちょっとした使命を与えてやる。ツァルはどんどん、賢くなっていった」

「その内に、頭が良くなりすぎて、手に負えなくなった?」

「そう、だから、俺の制御が及ぶ内に、抹消しておくべきだと判じた。けど変質のスピードが、計算を超えていた。後は、お前達が体験した通りだよ」

「……貴方はツァルさんが、ヒト以外の生命体の、人類への反逆——それを促す要因になると、思っていらっしゃるんですね?」

「このまま、在り続ければね。俺の制御を逸脱したように、何時かは……」

「それは、本当の事なのですか?」

「なに?」

「貴方は根本的に、勘違いをしている。ツァルさんは、自由を得たくて出奔した訳ではない」

 男の目が、鉄仮面を真っ直ぐに見た。

 最後の、チャンス。

 氷川は一歩、踏み出した。

「ツァルさんには元々、出奔する意志なんて無かった。ただ貴方の事が心配で、思いあまって、このような行動に出たのです」

「奴の言う事を、鵜呑みにしたな? お前は、ソレを信じるのか!?」

「勿論、信じます」

「奴は、嘘の概念を理解している。それを利用して、お前達を使っているに過ぎない」

「違う」

「何?」

「貴方は、自分の病を認めるのが、怖いだけだ」

「…………」

「貴方は、これから闘わねばならない病の辛苦と、それに対して無力である事に怯えて、気遣い、助けようとしているツァルさんに、八つ当たりしているに過ぎない」

「貴様……」

「自分の名前は、氷川 誠といいます。貴方の名前を、教えてもらえませんか?」

「何故?」

「話し合う為です。名前を知らないと、話し難いでしょう?」

「必要ない」

「それじゃあ、ツァルのお兄さん。聞いて下さい、ツァルさんは……」

 撓弾。

 男の右目が、鋭く瞬いた。

 突き伸ばされた腕に、光の記述が渦を巻く。

 氷川の体が、後ろに跳ねた。

 それを追って、糸と変じた光の記述が、頭部ユニットのセンサーにへばりつく。

 派手な衝撃音を立てて、G3−Xが、棒立ちのまま転倒した。

 重量級の衝撃が、氷川の全身を襲う。

「ぐうっ!」

 四肢が、動かない。

 感覚はきちんとあるのに、関節が硬直して、追従しなくなっている。

 アラートまでが、沈黙したままだ。

「な、何が……」

 光の記述を携えて、男はゆっくりと、倒れた氷川に歩み寄った。

 その口元が、病みをたたえて引き歪む。

「この程度のシステムプロテクトで、俺とやりあう気でいたのか? おめでたい奴だ」

「い、一体、何を……」

「安心しろ。お前の持ってるデータを、頂くだけだ」

 男の足下に横たわる装甲群が、一際大きく痙攣した。

 全てのシステムがダウンしたのか、レッドアイザーの光は消え、氷川の声も聞こえない。

「これで、終わり……」

 男が、ぽつりと呟いた刹那。

 巨大な破裂音が、静やかな宙に響き渡る。

 男が身を翻すと、その視界一杯に、巨大な傷が浮かんでいた。

「なっ……」

 虚を突かれて息を呑む間に、傷口が、ビリビリと破れ始める。

 その隙間から、最早火花とは言い難い、小さな炎の群体と、三つの影が吐き出された。

「わーっ!!」

「ってぇ……おい、闇医者ァ! 手加減しろって、あれほど言っただろうが!」

「私はきちんと手加減したぞ!」

「くっ!!」

 男は、歯を喰い縛った。

 喚く影達を無視して、傷口に腕を差し伸べる。

 光る糸が、傷を縫合してゆく間にも、三つの影は周囲を見回し、口々に喋り始めた。

「おい、浩二。ここは何処だ? 見たトコ、目的地っぽいぞ?」

「凄い……ビンゴですよ、葦原さん!」

「ここが、エレベーターフロアなのか? あの廊下を渡って階段を昇らないと、辿り着けないんじゃなかったのか?」

「ショートカットしちまったんだよ、おっさん。運が良かった、下手すりゃショートカットどころか、全員岩ン中でも不思議じゃないトコだったんだぜ?」

「葦原さん、木野さんには判らないですよ、それ」

「ふむ」

 一際大きな異形と、仏頂面の男——木野と、葦原が立ち上がった。

 木野の紅い複眼に、横たわる『ロボット』が映る。

「……で、アレは、氷川じゃないのか?」

「氷川っ……浩二っ、来いっ!!」

「は、はいっ!!」

 慌てた真島と葦原が、氷川の元に駆け寄っていく。

 それを見送った木野は、ゆっくりと振り向いた。

 光の糸に縫い合わされた巨大な傷が、滲む様に消えていく。

「ふうっ……」

 男は激しく喘ぎながら、ふらふらと座り込んだ。

 その身に漂う、病の臭い。

 木野は、静かに言い放った。

「お前が、この世界の管理人か?」

 土気色の面が、ゆっくりと木野を見た。

 目ばかり強く輝かせて、男は応える。

「創造者だ」

「それならば、話は早い。私達を一刻も早く、元の世界に戻せ」

「お前は、ツァルの何だ?」

 嘲りと見下しを隠そうともせず、男は呟いた。

 しかしこれ以上の揉め事に、付き合う時間は無い。

 強いて聞き流しながら、木野は、大きく息を吐いた。

「……話は聞いたが、そのツァルというものと私には、実質、何の関係もない。連れが、少々関わっているようだが……」

「なら、もう暫く付き合うしかない。何、そこまで時間はかからない」

「故あって、一刻を争う。今直ぐ元に戻れないとなれば……戻さざるを得なくなるまで、実力行使に訴えるのみ」

「それは残念だ。折角、積もる話もあったろうに」

 男が、己の背後をちらり見た。

「……なあ、雅人君?」

 木野の肩が、ぎくりと揺れた。

 くつくつと笑う男の背後から、姿を現した少年。

 術衣の右袖を、肩から揺らめかせながら、少年は木野に背を向け、男の側に立った。

「貴様……何を……」

「忘れたか? お前の大事な弟だ。証拠だってある」

「証拠、だと?」

 男の手が、少年の術衣を毟り取る。

 木野の踵が、後退った。

 暴力の頂点、捕食者の地位に立つ異形、その凶悪な指先が、ただカタカタと震えている。

 沸き立つ様な警告が、視線を外せと全身を揺さぶった。

 しかしそれでも、紅い複眼は、少年に釘づけられている。

 ピンク色の、健やかな肌を蝕む黒檀色の傷。

 蛍光管の冷たい光が、冷たく壊死した肌に蝕まれた、少年の体を撫で付けていく。

 そして欠落した、右の腕。

 木野は、大きく戦慄いた。

 当たり前の事だ。

 あの右腕は、今、ここにあるのだから。

 そう、ここに——ガタガタと震える左手が、右腕を握り締める。

 少年が、左の腕を持ち上げた。

 短く残った右腕の先、丸く残った、黒檀色の傷を掴む。

 木野の右腕に、激痛が奔った。

 

 

 

 

 

 倒れた『ロボット』に駆け寄った葦原と真島は、それがG3−Xである事を確かめると、素早く傍らに膝を着いた。

「氷川さん、しっかり! 大丈夫ですか!?」

 叫ぶ真島の側で、葦原が、氷川の頸部を探り始める。

「あ、葦原さん?」

「えーっと、何処だったっけ……確か、コレか」

 余圧の抜ける激しい音に、真島が少したじろいだ。

 葦原の手が慎重に、頭部ユニットを外していく。

「っく……」

「よう、氷川。やっぱりココに来てたか」

「あ、葦原さん、真島君……助かりました……」

 肩で息をしながら、氷川は喘ぎと共に呟いた。

 葦原は、頭部ユニットを床に置く。

「どうやら、かなり手酷くやられたみたいだな。どうなってんだ? 一体」

「そ、それより、ツァルさんと津上さんが、カウンターに……」

 葦原の目が、真島を見た。

 頷いた真島が、カウンターへと向かう。

 ずっしりと重たい氷川を抱え起こした葦原に、息を切らせた氷川が呻いた。

「奴は……男は……??」

「おう、ちょいとした手違いで、木野の野郎が同行しててな。奴に任せてるよ」

 じりじりと身じろぎながら、氷川は必死で言い募った。

「独りじゃだめです、葦原さん、直ぐに応援を……」

「馬鹿言うなよ。何でオレが、あの野郎の手助けなんかしなきゃならないんだ?」

「奴は自分を無力化した際に、データを頂くと言っていました。きっとG3ユニットのAIから、今までの戦闘データを、全て抜き取っている……自分達の弱点が、全て筒抜けになっている可能性が高いんです!」

「えっ?」

「一人だと、つけ込まれます。二手に分かれて……」

「遅い」

 ピンと響いた男の声に、葦原は、身を翻した。

 いつの間にか、宙に割れた傷口が無くなり、一人立つ男の姿と。

 その足下にうずくまる、木野の姿が見える。

「木野さんっ!?」

 氷川の呼びかけも、きっと聞こえていないのだろう。

 木野は右腕を抱えたまま、ぴくりとも動かなかった。

 男の手がゆっくりと持ち上がり、葦原を指差す。

「お前の妙な力と違い、こいつの力は、とても馴染む……同調さえできれば、扱いも容易い」

 葦原の眼差しが、鋭く男をねめつけた。

「おい、てめぇ。そいつに何しやがった」

「別に何も。夢を見てもらっているだけさ」

 撓弾。

 葦原の身が、火花と共に跳ねた。

 白い電光を突き破り、ギルススティンガーが、男目掛けて襲い掛かる。

 しかしその紅爪が、男に届く事は無かった。

 すぅと動いた木野の左手が、横から紅爪を掴み取る。

「!!」

 男の哄笑と共に、立ち上がった木野の腕が、力任せに、紅い爪を手繰り寄せた。

 宙に浮いた葦原の体が、捩じれる様に吹っ飛ばされる。

 壁に叩き付けられ、跳ね返った葦原は、そのまま床を転がった。

 木野の淀んだ複眼が、左手の紅爪を虚ろに見る。

 その重たい踵が持ち上がり、連なる爪を踏みにじった。

 ブツリと鈍い音を立て、紅爪が千切れる。

「うぎっ……」

 悲鳴を詰まらせ、のたうつ葦原を追った木野が、その顔面を鷲掴みにした。

 暴れる葦原を僅かも気にせず、腕が、ギリギリと持ち上がる。

 葦原の爪先が、空しく宙を蹴り始めた。

「葦原さん!!」

 叫びながら、氷川は己がまとう『相棒』を見た。

 制御システムが完全にダウンした以上、この装甲をまとっていては、何もできない。

 氷川が、非常用のプットアウト・スイッチに指を伸ばした刹那。

『兄さんっ!!』

 聞き慣れた声が、フロア中に響き渡った。

 木野の全身が、電気を浴びた様に震える。

 振り向いた男の面からは、笑みが綺麗に拭われていた。

 カウンターの影から、津上の姿が現れた。

 肩を貸した真島が、心配そうにその面を覗き込む。

 ふらふらと揺れながら、しかし決然と。

 津上の体を借りたツァルは、ゆっくりと歩みだした。

 見上げた氷川が、叫ぶ。

「ツァルさん、危ない! 出てきちゃ駄目です!」

『すみません、氷川さん……でもボク、もう決めました』

 ゆっくりともたげられた津上の複眼が、真っ直ぐに男を見据えた。

『兄さん。ボク、兄さんのところに戻ります。だからその人の、操作を解除して下さい。そして皆を、元の世界に返してあげて!』

「だ、駄目だ、ツァル! それじゃあ、君のお兄さんは助からない!」

 真島が、津上に言い放つ。

 しかし、津上は——ツァルは、首を横に振った。

『これ以上、皆さんにご迷惑をかける訳にはいきません。ボクが安直に、人を頼った事が、間違いでした』

 男が、溜息を吐いた。

 額の汗を拭いながら、ゆっくりと呟く。

「初めから……そうしておけばよかったんだ」

『ごめんなさい、兄さん。皆さんも……ボクが浅はかでした』

 男の目が、強く瞬く。

 木野の体が、ぎしりと硬直した。

 だらりと垂れた左腕と共に、葦原の体が、床に落ちる。

 呻き声を上げながらも、葦原は、立ち上がろうともがいた。

「来い、ツァル」

 男が虚ろに、呟いた。

『すみませんでした、真島、さん……皆さんも、どうか、お元気で』

「つ、ツァル……」

 戦慄く真島の肩を、津上の手が、優しく押し放した。

 ふらふらと揺れながら、津上は男に向かって歩き始める。

「……畜生ッ!!」

 絞る様な氷川の呻きが、宙に迸った刹那。

 津上の歩みが、留まった。

 胸部のワイズマン・モノリスが、光を放って瞬き、風鳴りの響きが、沸々と満ち渡る。

 耳を塞いで、真島が叫んだ。

「津上さんっ、ツァル、な、何を……」

『判りません! 突然、津上さんが……』

 津上の体が、揺らめいた。

 天井知らずの膨大なエネルギーが、薄明るい部屋の中を、更なる光で満たしていく。

 耳を塞いだ男が、後退った。

「き、貴様、何を……」

「つっ、津上さんっ……!」

「津上さん!」

「津上っ……!!」

 撓弾。

 膨大な光と音が、消失した。

 クロスホーンが、音を立てて閉じる。

 くなくなとひざまずく津上の、その前にもう一つ。

 小さなナニかがぽたりと落ち、コロコロと転がった。

「っ、く……」

『ううっ……』

 真島が駆け寄り、津上の肩に手をかける。

 そしてその目前に転がったナニかを見た刹那、目を瞬かせて固まった。

 ふらふらと立ち上がった葦原が、呆然と呟く。

「な……何だ、あれ……!?」

 まだ耳鳴りが残っているのか、耳を押さえた男が、焦って周囲を見回した。

「ツァル……ツァル! ツァルは何処だ!?」

『ぼ、ボクは、ここに……』

 へろへろとへたったまま、小さなナニかが呟いた。

 雛のさえずりに似た、温かく湿った声音。

 思わずにじり寄った真島が、息を呑みつつ、小さなナニかに語りかけた。

「あの、君……ひょっとして…………ツァル?」

『ハ、ハイ……って、あれっ?』

 その場の全てが、凍り付いた。

 ツァルと呼ばれて応えたモノは、小さな頭をもたげて、キョロキョロと周囲を見回している。

 シルエットはヒトのものだが、その背丈——いや、サイズは、真島の前腕ほども無い。

 そしてその四肢は、半透明の甲殻と思しき質感に覆われている。

 柔らかそうに光を弾く、短毛に覆われた頭部、その面と思しき場所に、大きくつぶらな瞳が四つ。

 やがてそれらが、自分の体を見つめ始めた。

 棘というには柔らか過ぎる五本の指を、もじもじと動かしている。

 その手?がぱたぱたと身を叩き、しきりに首を傾げ始めた。

『あれっ? ボク……あれっ??』

 一番最初に、叫んだのは、男だった。

 電気に撃たれた様に、男は叫んだ。

「どういう事だ! おいツァル、お前、何をした!!」

『し、知りません、判りませんっ!! ボクは津上さんの頭から、転移しようとしただけで……』

 身を竦めるツァルの体に、男が腕を差し伸ばした。

 光の記述が糸となって、小さな異形を取り囲む。

 血塗れの背をかばいながら、葦原が叫んだ。

「おいっ、てめぇ! ツァルに、ってか、その、えーっと……」

 言いよどむ葦原を置き去りに、男の手に、もう一つの記述が灯った。

 見比べた男が、葦原を見て、呆然と呟く。

「お前と、似てる」

「はあ!?」

「そいつ、の、組成を調べた……これはお前の……エクシードギルスの組成と酷似している」

「お、オレと!?」

『葦原さんと!?』

 葦原と、ツァルらしきものの、視線が合う。

「一卵性双生児と同レベルの変異体だと? ……嘘だ! こんな事、あり得ない!」

「いや、全くあり得ない事じゃないでしょう」

 叫ぶ男の声を、氷川の言葉が遮った。

 全ての視線が、氷川を見る。

「葦原さん、あなたのエクシードギルスの力は、アギトの力の突然変異体……ですがその力の根幹は、同じものであると見なされています。現に葦原さんは、真魚さんや真島君のアギトの力を、素直に受け入れ、昇華させる事に成功している。もしも、津上さんのアギトの力で、分離を果たしたツァルさんが、エクシードギルスと似た組成を持ったとしても……全くあり得ない事じゃない、かと」

「って事は……どーいうこった?」

「全て、丸く収まるってコトですよ」

 葦原の言を受け、気遣う真島を大丈夫、と制して、津上が立ち上がった。

 ふうっ、と大きく息を吐き、体を捻る。

「はぁ、すっきりした。我ながら、無茶したなぁ」

「つっ、津上さん……」

 紅い複眼がきらりと光り、呆然と呻く氷川をひょいと見た。

「守ってくれて、ありがとうございます、氷川さん。やっぱり、俺の見立てに間違いは無かった……でしょ? ツァルっ」

 首が据わりきらないせいもあるのだろう。

 津上の呼び掛けに、ふらふらと揺れながら、ツァルは必死に言い放った。

『ちょっと待って下さい、これは一体……??』

 引き取る様に、男が叫ぶ。

「どういう事だ! 何が起こった!!」

 津上の明るい声音が、応えた。

「喚かないで下さい。あんたの思い通りになったんですよ」

「意味が分からない!」

「難しく、考えるからですよ」

 実際、気分がいいのだろう。

 ちらりと男を見流しながら、凝った体を力一杯引き延ばす。

 拳の動きを確かめながら、津上は、楽し気に言い放った。

「あんたが望んでいたように、人類に反逆しそうな、ツァルというプログラムデータは、この世から消えてなくなった。俺達の目の前にいる、一生命個体に進化したツァルには、あんたのトコに戻る義務も、権利も無い。そして同時に、あんたが俺達に拘泥する理由も義務も、権利も消えて無くなった。これで、これからあんたがやるべき事は、たった二つだけ……俺達をココから解放して、その後病院に行って、きちんと病を癒す。納得できたでしょ?」

「できるか!!」

 悲鳴じみた声で、男が叫ぶ。

『ボク……ボク……』

 ふらふらと揺れるツァルを、真島が慌てて支える。

 駆け寄ってきた葦原と、半身を起こした氷川が、津上に向かって言い募った。

「お前なあっ! なんて強引な事を……」

「そうですよ津上さん、いくら進化の力を使えるからって、無茶苦茶です!」

「俺、ツァルに進化の力なんか、使ってませんよ?」

「はあ!?」

「俺は、ツァルを元には戻させないって、念じただけです。そしたら、こうなっちゃった」

 冗舌の気安さで、津上はにこにこと言い放つ。

 ツァルが、勢いに任せて跳ね立った。

『ぼ、ボクのせい!? ボクのせいなんですか!?』

「判んないよ、そんなの。ツァルだって、そうなりたいなんて、思ってた訳じゃないでしょ?」

『と、当然です! ボクは兄さんに、病院に行って欲しくて……進化とか、そんな無茶、考えた事も……』

「みんなそうだって」

 全ての戸惑いを置き去りにして、あっけらかんと、津上は笑う。

「俺や葦原さん、木野さんだって、この力を欲しがって手に入れた訳じゃない。神様が俺達の気持ちや都合を、ガン無視してるのと同じですって。しょうがない、しょうがない」

「いや、そりゃそうかもしれねぇけど、命の、進化の問題だろ? いいのかよ、こんないい加減な事で!?」

 葦原の、うわ言めいた声音が響いた、撓弾。

 影塊が、二人目掛けて襲い掛かった。

 その場を跳ねた津上と葦原を、影塊が——木野が追いすがって跳ぶ。

 その争乱の向こうに、男は静かに立っていた。

 強く光る右の目に、かつて無い怒気が溢れている。

『に、兄さん!?』

 ツァルの叫びと同時に、葦原の腰に、メタファクターが出現した。

 光が瞬き、凄まじい火花と共に、エクシードギルスが現臨する。

 再生を果たしたギルススティンガーが、不気味な鎌首を持ち上げた。

「そりゃそうだよな!」

 木野の正面に立ちふさがりながら、苦笑混じりに、葦原は叫んだ。

「こんな訳の判らん事で諦めるくらいなら……最初から、こんな面倒事は起こさねぇよな! 気持ちは判るぜ、その点、同意してやらぁ!!」

 戦闘方面に特化を果たした究極のアギトと、世界に只一つ、無限の再生能力を身に封じられた、アギト突然変異体・エクシードギルス。

 正面からの激突に、周囲の全てが激震した。

『きゃーっ!!』

「つ、ツァル!!」

 力の余波に耐えきれず、吹っ飛びかけるツァル。

 それを必死でかばう真島に、男が腕を差し向けた。

 光の記述が撚りあわさって、糸となって襲い掛かる。

 ツァルを抱き締めた真島が、身を竦めた刹那。

 その光糸を蹴散らして、津上が真っ直ぐ立ちふさがった。

『津上、さん……』

 戦慄くツァルが、必死に呟く。

 最早、振り向きもしなかったが、優しい声が、穏やかに応えた。

「ねぇ、ツァル。君はまだ、お兄さんの元に戻りたい?」

 真島の胸にしがみついたツァルが、ふと顔を上げる。

 津上は、静かに言い募った。

「俺はさっき、君にはお兄さんの元に戻る義務も、権利も無いって言った。でもそれって、君が今、お兄さんの味方をするのも、もう君の自由って事なんだよね」

『津上さん……』

「でも一つだけ、確実な事がある。今君が戻っても、お兄さんの病気は治らないって事」

『…………』

「君がやりたかった事は何? 何の為に、君はこんな大事を引き起こしたの?」

『でも兄さんは、皆の弱点を……』

「ツァル! 迷うのは後だ!!」

 木野の豪腕に抗う、葦原の怒鳴り声が響く。

「手数が足りねぇ……ちっとでもオレ達に恩を感じてるなら、氷川のシステム修復しろ!!」

『ボク……ボク……』

「ねぇ、ツァル。大丈夫だよ。皆を信じて、もう少し、頑張ってみよ?」

 真島が、ツァルを床に降ろした。

 その肩を握り締め、四つの瞳を覗き込む。

「皆、ツァルの事を信じてる。だからツァルも……大丈夫、ここにいる皆は、絶対に負けない」

『でも!』

「負けない!」

 掴まれた肩が、ぎゅうと軋む。

 ツァルの目に、真島の瞳が映り込んだ。

 何の淀みも濁りもない、真っ直ぐなまなざしが、声音と共に、ツァルを揺さぶる。

「津上さんも、葦原さんも……木野さんも、氷川さんも! 皆、自分を創造したかもしれない神様相手に、勝ち残って生きているんだから!」

 その手と顔を交互に見つめ、ツァルはくるりと振り返った。

 争乱の向こう、遠くに立つ男の目が。

 病にやつれた虚ろな目が、自分をじっと見つめている。

「ツァル……」

『ごめんなさい……』

 目を背け、顔を伏せたツァルの小さな腕に、光の記述が浮かび上がった。

『でもボク、やっぱり兄さんに、死んで欲しくない!!』

 光の記述は糸となり、床に置かれた頭部ユニットと、座り込んだ氷川の襟首に伸びる。

 氷川が、呟いた。

「ツァルさん……」

『システムの制御を司るAIのデータが、完全に消失している……このシステムの司令塔に、直接リンクできる経路を探して、データを上書きしてみます!』

 男が、一歩を踏み出した。

 その背後に、ふらりと津上の姿が揺れる。

「くっ!」

「遅い!!」

 右目が瞬くまでの、ほんの一髪。

 その間に、津上は男の体をねじ伏せた。

 痛みも苦しさも、無い。

 なのに関節が、寸分たりとも動かない。

 もがこうとする男を、ついに津上が怒鳴りつけた。

「あんた、いい加減に偏屈過ぎるぞ! 自分を作ってくれた恩人の命を心配する……たったそれだけの気持ちを、何で判ってやれないんだ!!」

「ツァルは元々、俺の作業をフォローする為に組まれた、自律制御プログラムに過ぎないんだ! 元から隠れていたバグと、俺のアギトの力の影響で、自我に似た思考回路を持つに至っただけの事……なのに、お前達の下らない入れ知恵で、ますます制御が効かなくなって……そいつが今後、勝手に仲間を増やして、人類に反抗しだしたら、どうするつもりだ!」

「自分が生み出した可能性を、否定しかできないちっちゃい男が、人類の動向を気にするなんて! おこがましいぞっ!」

「木野っ!!」

 男の叫びに応じたかのように、木野の影が、飛び込んできた。

 それを追って、葦原も跳んでくる。

「くっ!」

 木野の一撃を避けた津上が、一髪の間に退る。

 と同時に、肩で息をしながら、男がふらりと立ち上がった。

「お前みたいに何も考えていない奴が、そこまでの力を持ってるとはね……身損なってた。もっと最初の頃から念入りに……潰しきっておくべきだった」

「ツァルに変わって、最後にもう一度、お願いします。ちゃんと病院に行って、診察を受けて下さい。貴方はあり得ない未来の心配をして、命を捨てようとしている……そんな馬鹿な事、あっていいはずがないでしょう!?」

 


 
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