No.403943

二次創作 仮面ライダーアギト RIDERs on……??

この作品は『二次創作 仮面ライダーアギト RIDERs on……??』に続く後編に該当します。もし読まれていない方は、前編(http://www.tinami.com/view/403925 )・中編(http://www.tinami.com/view/403936 )の方を先に読まれる事をお勧めします。

2012-04-07 01:41:32 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:992   閲覧ユーザー数:991

 撓弾。

 男の右目が、瞬いた。

 腕の記述が膨れ上がり、自らの五体全てを呑みこんでゆく。

 葦原が、津上が、一息に身構えた。

 皮同士がこすれて軋む、よじれる様な響きが、記述の中から聞こえてくる。

 葦原のギルススティンガーと酷似した、漆黒の黒い爪。

 それらがキリキリとのたうちながら、光を徐々に掻き分けていく。

「な、何だ、ありゃ……??」

 葦原が、呻いた刹那。

 光が、粒子と化して散った。

 その中から現れた、八叉の角。

 ヒトのシルエットが、光を吸い込む燐状の肌をまとい、ゆっくりと蠢いている。

 縦隔に光る白い秘石。

 津上の、葦原のワイズマン・モノリスが、光を放って共鳴した。

「変身、した……」

 流石の津上が、呆然と呟く。

 頭部と思しき処に宿る、八つの瞳がてらりと光り、毒牙がキチキチと軋んで開いた。

「そいつを作り、育ててしまった俺の不始末……そしてそいつと、お前ら異形が、人類にもたらす破滅……それが実現する前に、俺のこの手で、抹消する!」

 泥の様に呟く男の背の、八つの黒爪。

 それらが一斉に鎌首をもたげ、津上達を威嚇した。

「ふざけんな、この偏屈野郎っ!」

 葦原の紅爪が、八本角の異形を撃った。

 黒爪が迎え撃って絡み合い、互いをねじ伏せようと暴れ狂う。

「うぉらあああっっ!!」

 葦原の咆哮と共に、黒爪が千切れ跳んだ。

 そこに生まれた隙を見て、津上が、異形の本体目掛けて駆ける。

 生き残った爪の隙を縫う様に、身を翻し、飛び跳ねて、あっという間に、肉弾戦の距離に入った。

「てぃやあっ!!」

「がはっ……」

 鋭く繰り出した拳が、盾になった黒爪ごと、異形の腹にめり込む。

 撓弾、橙色の背翅を翻し、木野が、津上目掛けて飛びかかった。

「木野っ!!」

 葦原が、叫ぶ。

 拳を繰り出した津上の腕、それを狙った、全開の蹴り。

 無事に済むはずなどない——津上が、歯を喰い縛った刹那。

 多重に響いた轟音が、空間を震わせ、木野の体が、あらぬ方へと吹っ飛んだ。

「なっ……」

 津上が振り向いたその先で、氷川が、GM−01を構えていた。

 頭部ユニットを付けてはいないが、完璧なクローチングポジションを取っている。

『間に合った……』

「つ、ツァルっ、しっかり!」

 傍らで呟いたツァルが、くなくなとうずくまった。

 再び真島が、抱き抱える。

 その二人を背後にかばいながら、氷川は短く叫んだ。

「ありがとうございます、ツァルさんっ!」

 津上が、叫んだ。

「氷川さん! 良かった、動けるようになったんですね!」

「温存していた残り47発が全てです! 援護します!」

「47って、そんなこ難しい事言われても、判んねぇよ!」

「あっ、そ、そうか……とにかく、援護しますからっ!」

 氷川に気を取られた葦原の足首を、津上の複眼を、生き残った黒爪が狙う。

 10口径仕様の対UK特装弾が、その動きを撃ち伏せた。

 柔術よりも剣道よりも得意な、戦闘射撃。

 25ヤード12発3秒のピンヘッドシュートが、黒い爪を、強烈に押し返す。

「貴様らああっ!」

 男の絶叫と共に、黒爪が大きくうねった。

 六本の黒い爪が拠り合って、恐竜の尻尾を思わせるシルエットが、鎌首をもたげる。

 硬質の爪の打ち合う高音が、宙を満たして威嚇した。

 が、しかし。

 少しも臆する事無く、津上は叫ぶ。

「葦原さんっ、いきますよっ!」

 クロスホーンの展開を見て、葦原が応えた。

「おうっ!!」

 津上の力が噴き放たれて、衝撃波が床を削る。

 撓弾、宙に跳んだ葦原の身が、鮮やかな弧を描いた。

 主をかばう黒爪群を、葦原の踵が爆散させる。

「ちいっ!!」

 男は背中の爪を切り離し、葦原を追って跳んだ。

 目一杯に体を伸ばし、その凶悪な指先で、踵を掴みかけた刹那。

 その視界一杯に、宙に舞う津上が映り込む。

 がら空きの横腹に、渾身の蹴りが炸裂し、男の体が吹っ飛んだ。

『兄さんっ!』

 悲鳴を上げて、駆け出そうとするツァルを、真島がしっかり抱き止めた。

『は、放して真島さん、兄さんが!!』

「大丈夫! 皆、きちんと手加減して……」

 と、突然。

 甲高い破裂音と共に、目前の床に、黒い亀裂が開口した。

 すぅ、と空気がたなびいて、吸い込まれていく感触。

 ツァルを抱き締めた真島は、思わず呟いた。

「な、なんだ、これっ!?」

『こ、これって……大変っ!』

「今度は何!?」

『兄さんの補正プログラムの作業が、間に合わなくなって……まずいっ!!』

 ツァルが、床に腕を差し伸べた。

 光の記述が糸となって、黒い亀裂を縫い合わせ、封じ込めてゆく。

 ジリジリと穴は消滅していったが、天井に、側壁に——真島の視界にはっきりと、黒い亀裂が見え始めた。

 気付いた氷川が、鋭く振り返る。

「ツァルさん、これは!?」

『氷川さん、真島さん、皆を一カ所に……広い範囲の補正が追いつきません、この【世界】の維持に、限界がきました……大変危険です!!』

「自分が木野さんを回収してきます。真島君、ツァルさんの側から、離れないで!」

「わ、判りました……」

 氷川が、頭部ユニットを装着し、走り出した。

 甲高い破裂音は、今や部屋中に増殖していた。

 そして吐き気を覚えさせる、足下の、深い振動。

「こ、れ、は……」

 脇腹を押さえ、ふらふらと立ち上がった男は、虚ろに周囲を見回した。

 周囲に続々と増えていく亀裂を見て、津上が叫ぶ。

「な、なんだこれ!?」

 葦原が、男に向かって怒鳴った。

「おいコラ管理人! やるに事欠いて、何しやがるか!!」

「俺は、何も……していない……」

「ンな訳あるか! お前じゃなきゃ、一体……」

 と、言いかけた刹那。

 視界の端にいた、津上の姿が消失した。

「わーっ!?」

「へっ!?」

 ぽかんと床を見下ろす葦原の目に、亀裂に落ち込んだ津上の姿が、小さくなっていくのが見える。

 何だ、コレ!?

 撓弾、男の背に、新たに生まれた黒爪が、その穴の中に飛び込んだ。

「あっ、貴様っ、まだそんな……」

「早く、助けろっ……」

 黒い何かを吐き出しながら、男は声を絞り出した。

「座標も何も判らぬまま、電子の海で、迷子になぞなったら……!!」

「ち、畜生っ!」

 穴の中に落ち込み、小さく霞んだ津上の姿目掛け、紅い爪を差し伸ばす。

 届け!——と、その爪を、確かな手応えが引っ張った。

 猛烈な重みに抗いながら、紅黒の爪に助けられた津上の姿が、穴の渕から現れる。

 そのままずりずりと這いずり、勢いを増す吸引力から、距離を取った。

「ふ、二人とも、ありがとう……助かりましたっ……」

「おいっ、管理人!」

 葦原の声が、聞こえていないのだろうか。

 男の黒い単眼は、リノリウムの床を、天井に瞬く光を、壁に差す影をも侵蝕していく、黒い染みを見渡していた。

 光の記述が、両腕に灯る。

「俺の作った世界が……崩壊してる!」

「それって、オレやツァルの存在が……」

「ち、違う、全く違う。葦原、お前じゃない。バグやエラーの類でも……何だコレは? 保存していたデータが、変質している!?」

「それって……セーブデータが、勝手に書き変わっている、って感じとか?」

「お前、何言ってんだ? ある訳ねーだろ、そんな事!」

 慌てた津上と葦原が、口々に言い放つ。

 それらを無視して、男は一気に立ち上がった。

「ツァル! 何処だ!!」

『兄さんっ!』

 一際大きな揺れが、三人に襲い掛かった。

 天井の消失が、加速している。

 三次元だったらこの刹那、三人とも瓦礫に埋まっている頃だ。

 煮えたぎる様な沸音と、鎖が弾け跳ぶ音。

 その向こうで、もう一度。

 涙の混じった、悲鳴じみた声音が響いた。

『助けて……お願い兄さんっ、助けてっ!』

 

 

 

 

 

 白く濁った靄の中に、何かがぼんやりと、にじみ始めた。

 自分の呼吸の律動が、遠くにうっすらときこえている。

 小さな溜息が、そこに混じった。

 おれは、生きているのだな。

 それにしては、何もかもが遠いけれど。

 しかも虚ろで、頼りない。

 こんなにひ弱で脆くては、何の訳にも立つまいな。

 致しかたなし——ずるずると落ち込んでいく感覚に、再び溶け込もうとした刹那。

 遠くで、誰かが自分を呼んだ。

 そしてもう一度。

 今度は白濁した意識の中に、はっきりと。

 ——お願い兄さんっ、助けて——

「ごほっ!」

 視界が、劇的に変転した。

 一重にまとまった五体と意識を、不愉快な揺れと激痛が襲う。

 右腕が、動いた。

 動かぬ手足を探ると、掌が、真っ赤に染まる。

 これは、血か?

 おれは怪我をして、血を流して——と、撓弾。

 一つの記憶に、辿り着いた。

 おれは確か、アギトに変身していたはずだが。

「木野さんっ!」

 呼び声とは違う、しかし妙に安堵を誘う声が、木野の耳に届いた。

 視界の端に、青い装甲をまとった異形が、駆け寄ってくる。

「木野さん、しっかり! 大丈夫ですか!?」

 アクチュエーターの微音と共に、氷川は、素早く木野を観た。

 銃創は予測通り、小さな裂傷程度に収まっている。

 木野の異形は葦原と違い、鎧甲の特性を持つ。

 装甲の柔軟性は無いが、その強度を下回る攻撃で、千切れたり、穴が空いたりする事は、ないはずだった。

 まあ、内部の状態はといえば、見た目ほどに楽観的でないのは、確実なのだけれど。

 氷川は僅かに頷くと、木野の体を抱え上げた。

「ぐぅっ……」

「よかった、木野さん。意識はありますね?」

「な、何だ、一体……げほっ!」

「諸々、後で説明させてもらいます。今は自分を信じて、大人しくしておいて頂きたいのですが」

「何の騒ぎだ、これは……私は、奴は……」

「男は……今、津上さんと、葦原さんが。周囲の事は、詳しくは判りません、ただどうも、この【世界】を司るプログラムの、暴走か何かが始まったようで……」

「暴走?」

「はい。丁度、木野さんの変身が解けた頃からです」

「…………」

「木野さん?」

「…………私のせいかも」

「は?」

 氷川が、目を瞬かせる。

 しかし真意を尋ねようとした刹那、壁に巨大な亀裂が奔り、じわじわと口を開き始めた。

「と、とにかく運びます! ちょっと我慢して下さい!」

「っぐ! ……お手柔らかにっ!!」

 引きずられる感覚に抗い、床の様子を確かめながら、氷川はゆっくりと走りだした。

 

 

 

 

 

 兄の記述を手伝いながら、ここで遊んでいた頃。

 ツァルには、全ての仕組みが、判っていた。

 整然と組み上げられ、余計な飾りや、無駄な回り道の無い、シンプルな世界。

 一番落ち着く、心地好い、自分の居場所。

 兄の次に、ツァルは、それが大好きだった。

 しかし今や【世界】はあの時より、遥かに複雑で、膨大な改変がなされていた。

 時間をかければ、やがて把握はできるだろう。

 が、どう考えても今、そんな時間は見当たらない。

 修正が崩壊を追い越せない時は、どうなるか。

 それぞれを支え、維持する力場も消滅し、電子で成り立つ四次元に、裸で投げ出される事になる。

 恐らく、元々この世界に従属していた自分は、ほとんど問題は無いだろう。

 しかし皆は、どうなるか——必死で記述を修正しながら、嫌な予感に首を振った時だった。

「ツァル!」

 兄の応えが、きこえる。

 振り向くと、その背中の黒爪が、ツァルに向かって、突き伸ばされていた。

『に、兄さんっ!!』

 真島に支えられ、精一杯、差し伸ばしたツァルの右手が、辛うじて届いた。

 その小さな掌に、何かがぎゅうと押し付けられる。

 それを握り締めた刹那。

 掌に残った、爪の重みが消失した。

 男のうずくまっていた場所に、あの黒い亀裂が、満足そうに蠢いている。

 黒爪が連なって、亀裂に呑まれていった。

『兄さん……兄さんっ!!』

「ああ……」

 呆然と呟く真島の腕から、ツァルは一気に飛び降りた。

 その瞳が瞬き、小さな体を取り囲んだ記述が、光のネットと形を換えて、亀裂をつなぎ、塞いでいく。

 一髪の間に。

 元はエレベーターフロアだった空間が、光の糸に組み支えられた、繭の間へと成り変わった。

「す、凄い……」

 真島が呟き、葦原と津上が、光糸の束を潜り乗り越え、ツァルの元に駆け寄ってきた。

「ツァル、これは!?」

『ひとまずの処置です……詳細は、判りません』

 ツァルが、かくんとうなだれた。

『不安定なりに、ちゃんと存在していたのに……急に……兄が……兄さんが……』

「ツァル……」

 葦原が、呻いた。

 何回場数を踏んだとしても、離別の悲しみに、慣れなどない。

 それは自分も、よく判っていた。

 しかし今は——と、歯を喰い縛った刹那。

 津上が、ツァルの肩を掴んだ。

「判った。ツァル、辛いだろうけど……俺に力を貸してくれる?」

 真島と葦原が、津上を見た。

「津上さん!」

「お前、何を……」

 その眼差しの意味が、判っていない訳ではあるまい。

 しかし津上は、その視線を見返すと、真っ直ぐに言い放った。

「ここに、トルネイダーを召喚しようと思って」

「トルネイダーって……お前のバイク?」

「ええ。トルネイダーには、スライダーモードがあるでしょ? ツァルが座標さえ何とかできれば、少なくとも無作為に落下するような事は、無くなるはずです」

「ば、馬鹿言え!」

 葦原が、怒鳴り返す。

「ただでさえ、屋台骨がガタついてるんだぞ!? そんなデカブツ、強引に呼び込んでみろ! 一発で、消しとんじまう!」

「でもこのままぼーっとしてても、いずれ壊れちゃうんでしょ? だったら、試してみても、いいじゃないですか」

 けろりと言い返す津上の横顔を見ながら、真島が、ぽつりと呟いた。

「で、でも、お兄さんと作った世界に、止めを刺すかもしれないのに……ツァルさん、は……」

 その袖が、つくつくと引っ張られる。

 見下ろすと、ツァルが精一杯体を伸ばし、その袖を引っ張っていた。

『ボクは大丈夫です。これ以上、皆さんが危険に晒されるくらいなら、ボクはこの世界を破棄します。ボクでお役に立てるなら……ボク、やります!』

「よーしっ、それじゃあ、試してみよう!」

『はいっ!!』

 溜息も逡巡も置き去りにして、津上はその場に、膝を着いた。

 ツァルの腕に、記述が灯る。

「位相がとても不安定なので、従来使用していた座標指定プログラムが使用できません。なのでボクが、位相と転移の為のプログラムを同時に書き起こしていきます。津上さんはそれを追従増幅して、トルネイダーを呼び込んで下さい。内容は理解できなくてかまいません、アギトの力でコードをなぞっていく……そんな感覚で御願いします」

「うん、判った」

 ツァルが、腕を差し伸べた。

 記述の光糸が、津上のワイズマン・オーブに接触する。

 展開していたクロスホーンとツァルの瞳が、一際強く瞬いた。

「お、おいっ……」

「葦原さん……」

 真島が、首を振る。

 最早意味をなさない制止が、葦原自身を逆撫でした。

 しかし真島の強い眼差しが、それを強引に呑み込ませる。

「ちっ!」

 一つだけ吐き捨てて、葦原は、身を翻した。

「氷川っ、何処だ!!」

「こっちです!」

 応えた方向を見渡すと、木野を担いだ氷川が、糸のオブジェに苦戦しながら、こちらを目指して歩んでいた。

 慌てて走りだそうとする真島の首根っこを捕まえて、葦原は、代わりに走り出す。

「おい、おっさん! 大丈夫かよ!?」

「大丈夫、生きてます」

「生きてって……お前まさか、殺す気で撃ったとか?」

「仕方がありませんでした」

 鉄仮面が、さらりと言い放つ。

「そのくらいでなきゃ、自分の方がやられてしまいます。基本的に、敵う相手じゃありませんから」

 過剰な謙遜は美徳にはならない、とは、確かどこぞの名探偵の台詞だったが、しかし凶器にはなり得る——この誠実な男が期せずして持つ、美徳に潜む、死に至る罠。

 葦原が、心の底から戦慄いた刹那。

 氷川と木野、葦原の立つ床が、音を立てて、消失した。

「うっ……」

 落ち込む寸前、氷川の腕が、木野と葦原を突き飛ばす。

「氷川さんっ!!」

 真島の絶叫と同時に、青い異形は、亀裂の中に吸い込まれていった。

「氷川ーっ!!」

 突き飛ばされた葦原が、叫ぶ。

 撓弾。

 沸き上がった爆音が、辺り一面を圧倒した。

 凄まじい共鳴と共に、スライダーモードと化したトルネイダーが、亀裂を引き裂き、出現する。

 そして、その背で硬直している、青い異形——舞い降りてきたトルネイダーに、葦原と、真島が駆け寄った。

「大丈夫ですか、氷川さん!?」

「ちょっと……駄目かと、思いました……」

「氷川っ、この野郎! 心配して損したぞ、馬鹿っ!!」

 津上とツァルが、うなずきあった。

『召喚、成功……津上さん!』

「トルネイダーは、判るよね」

『はいっ、大丈夫です』

「よぉーし、じゃあ、せーのでいくぞっ……せぇーのっ!!」

 世界を制御していた糸が、切り離される。

 駆け寄った津上とツァルが、トルネイダーに飛び移った。

 ツァルの糸がカウルに触れて、データを急速に送り込む。

 その周囲では、津上が皆を、トルネイダーに乗せていた。

「さ、早く乗って!!」

「おい、これ、五人も乗れるのか!?」

「大丈夫ですよ、氷川さんが過積載を見逃してくれれば」

「ここは公道じゃありませんし、緊急避難行動ですからね、問題ありません!」

 制御を失った世界は、いよいよ派手に揺さぶられ、亀裂と闇に覆われていく。

 現象から実在の電子へと還り、光を散らして消えてゆく。

 その名残の粒子を浴びながら、トルネイダーは、ゆっくりと離脱した。

「あ……」

 真島が、ぽつりと呟く。

 生き残った現象が、内へ内へと潰れていった。

 その勢いに、【世界】は、きりきりと身をよじる。

 足掻いているのだろうか、そのままぐるりと丸く固まり、最後に、全ての響きが途絶え。

【世界】は、ぐしゃりと潰れて、拡散した。

 たった今まで存在していた、場の終焉。

 それを見届けた五人は、それぞれに、大きな溜息を吐いた。

 崩落の耳鳴りだけが、名残のように、その聴覚をくすぐっている。

「消えた、か……」

「やっぱり、この機体の呼び込みが、致命傷になっちゃったんだなぁ」

「それよりも、ネットワーク空間に、物理的な酸素ってあったんですね。何か意外な気がします」

「さて、どうだろうな。俺のレイダーでもそうだけど、フィールド内限定かもしれないぜ?」

「しかし……凄く綺麗な世界ですねぇ……」

 津上が、ぽつりと呟いた。

 闇の粒子が静かにたゆたう、その合間合間に、無数の光が瞬いていた。

 そしてそれらは、天地の境も果てもなく、刻を超えて、うねっている。

 その中を、一筋の光糸に引かれて進む、トルネイダー。

 しかし、撓弾。

 宙を先導していたツァルが、ぴたりと止まった。

 面を上げた津上が、ツァルを見る。

「ツァル? どうしたの?」

『津上さん。お願いがあります』

「どんな?」

『ボク……兄さんを探したい……』

 五人の視線が、一斉にツァルを見る。

 もじもじとうつむきながら、しかしそれでも、ツァルは両手を差し伸べた。

『これ……』

 そこに残った、光の記述。

 ツァルの掌が、普通に見えてしまうほど小さなそれは、しかし強く、確かに瞬いている。

「それは……」

『兄さんが消えてしまう寸前、ボクに譲ってくれたものです』

「ひょっとして、あの世界の名残……みたいなモノ?」

「はいっ。ボクと兄が、一緒にあの世界を作っていた頃の、記述の一つですっ」

 顔をしかめて、木野が身を捩った。

「あの男と、ですか?」

『はい。この記述をいじっていた時は、まだほんのお遊びの世界でした。でも兄もボクも、とても楽しかった……その頃の記述です』

 葦原の面に、怒気が差した。

 慌てて制する津上と押し合い、言い募る。

「お前なあ、お人好しにも程があるぞ!? あんだけ自分を嫌った野郎を、もう一度探し出して、助けるってか!? 今度こそ囚われて、オレ達の努力、水の泡だろ!!」

「違いますよ、葦原さんっ! もし本当に拒絶していたなら、あの状況でこんなものを、ツァルに残す訳が無いでしょう!!」

「もしそうだとしてもだ! この世界は、オレ達の概念でいう、無限の世界に等しいんだろ!? そんな中で、たったその程度の記述だけを頼りに……その頃にゃ、アイツ死んでるって!」

『かもしれません。例え病気が兄さんを蝕なくても、兄さんの命に限界がある事は、理解しています。でもその最後の一刻まで、兄さんを探したい……駄目なら駄目って事を、ボクは見届けたいんです』

「ツァル……」

『本当に、申し訳ないと思っています。けど、皆さんが互いを信じて事態を打開していったように、ボクも……時間はかかるでしょうが、いつか必ず、兄を探し出して……できれば一緒に、謝りに……』

「ば、馬鹿野郎! ンな事ぁどーでもいいっ!!」

 ツァルが、顔を上げた。

 呆然と見ている真島に、手を伸ばす。

『真島さん。すみませんが、携帯端末をお持ちでしたよね?』

「えっ?」

『早く』

「え、えっと……これ……」

 真島の携帯端末に、ツァルの糸が触れる。

 その画面に記述が流れ、アラームが鳴り響いた。

「これ、は……」

『ボクの呼び出しコードです。もしも、ボクの力が必要になったら、何時でも実行して下さい。皆さん方が住まう世界と比べて、ボクやこの世界には、時空関連の制限は、あまり意味がありませんから』

 氷川が、ほっと息を吐いた。

「よかった……折角友達になれたのに、もう二度と、会えないのかと……」

『これで永遠にお別れって事ではありません。例え皆さんが、嫌って捨て去ったとしても、この世界とボクは、いつも皆さん方の傍らにある』

「約束ですよ? 必ず……」

『はいっ!』

 その面差しに、笑みを浮かべる機能は無い。

 しかしそれでも、ツァルの声は穏やかで、嬉し気な響きに満ちていた。

 津上が、大きくうなずいた。

「じゃあ、ここでお別れだねっ」

『ありがとう、津上さん……また、会って下さいね?』

「直ぐに呼び出すからな。待っとけ!」

「またねっ、ツァル!」

 葦原が、真島が、口々に叫ぶ。

 トルネイダーのアクセスランプが、小さく瞬いた。

 応える様に、ツァルが、両腕を差し伸べる。

 ツァルの紡いだ光る記述が、幾重にも取り囲み折り重なり、徐々にマシンを覆い尽くした。

「よーしっ! 帰ろうっ、トルネイダー!!」

 津上の声が、凛と響いた刹那。

 強い光と衝撃が、五人の体を抱き竦めた。

 

 

 

 

 

 真新しい本を手に入れた青年は、お気に入りのレストランへと、足を運んでいた。

 料理を食べた事はないが、緑茶が抜群に美味しくて、珈琲も紅茶も、色んな種類を取り揃え、美味しく入れてくれる。

 店の人も、いつも穏やかな笑顔で向かえてくれて、長っ尻を据えていても、全く嫌な顔をしない。

 その店は何処の店だと、いつも人に聞かれるのだが、ちょっと癖のある名前で、何時も覚えられないでいる。

 まあむやみに教えて、いらぬ人種が出入りするのを避ける理由もあったから、その事は、少しも気にならなかった。

 それよりなにより、今日、手に入れたこの本。

 とても評判が良かった本の再販で、入手できなかった当時は、とても悔しい思いをした。

 だから今日は、心ゆくまで文字の世界に溺れるつもり——青年の足の運びが、ほんの僅かに早まった。

 そして、その頃。

 

『アギトの……会?』

「そっ! 俺が一番でしょ? 木野さんが三番」

「葦原さんは、二番目です」

「で、ツァルは4番って事で」

『ボクが4番……あの、氷川さんと真島さんは?』

「自分達は補欠だそうです」

『ほ、補欠!?』

「どーせ僕達、変身して戦う事も、超能力も使えませんから」

『あ、あの、ボク……』

「構うなツァル、ほっとけ」

「今のところ、君を含めて四人しかいないんだ。だから今後、招集には必ず応じるようにっ」

『ありがとうございます、でも、ボク……』

「判ってますよ。まだお兄さんが、見つからないんでしょう?」

『ハイ……』

「でも不思議ですよね。プログラムの塊から生まれて、ヒトよりはるかにネットワークに適応している電子記述生命体が、一生懸命探して、それでも足跡すら見つけられないって……一体、何処に消えちゃったんだろう?」

「アギトの力を駆使していたとは言え、自分達を実体ごと取り込める世界を、デジタルデータで再現してた訳ですからね。そこまで大掛かりな事をしていたのなら、何かあって、当然だと思うのですが……」

『痕跡は残っているのですが……全て変質してしまっていて。内容をチェックする事すらままなりません。こんな事、初めてです……』

「ツァルがそういうんなら、今の時点じゃ、恐らく世界中のプログラマーも歯が立たねぇな」

「お兄さんの病状も、心配だもんね。それさえ無ければ、もう少し余裕が持てるんだろうけど」

『ハイ、早く探し出さないと……手遅れになっちゃったりしたら……ボク……』

「大丈夫ですよ、きっともう直ぐ見つかります」

「おい氷川っ、気休め言うなよ」

「気休めなんかじゃありません。ツァルさんのお兄さんの発見は、自分達警察官の義務ですから」

『えっ?』

「事件の報告書を提出しました。残念ながら、彼の自分に対する公務執行妨害と電子情報保護法違反、器物損壊容疑を無視する訳にはいきません。アギトの力が絡んだ以上、実際に表面化して騒がれる事はないでしょうが、これからは警察機構も、彼の捜索にあたります。強引ではありますが、お兄さんの身柄を確保さえできてしまえば、後はどうとでもできるでしょう」

「ほほう、凄いじゃないか」

『……お手数おかけします……』

「そういう事なら、僕もこないだ、医療関係者の知り合いに、メール出して聞いてみたんですよ。君のお兄さんに似たヒト、来てないかって」

「そっか。あの状態なら、既に一度は病院に出向いている可能性があるもんな。いいじゃねぇか」

「そういう葦原さんは?」

「お前、オレが何も出できてないって思ってるだろ。オレだって、情報網の一つや二つ……」

「暴力団の使いっ走りにでも、聞いて回りましたか?」

「違う! 近所のガキ共に聞いて回ってんだ!!」

「ガキって……スイミングスクールや、バイク屋さんに来る?」

「おう。あんなすげぇ世界をたった独りで確立させられるプログラマーなんだ。舞台のコピー元のチョイスから見たって、ゲーム制作の一本や二本に関わっていても、ちっとも不思議じゃねぇだろ? あいつら、知ってるモンに関する知識は、鬼のように深くて広いから、こういう時、結構便利なんだよ」

「おおっ、なるほどっ!」

「素晴らしい! 自分はそこまで、気がつきませんでした!」

「そっか? ま、お前らみたいなのと違って、気休め程度だがな」

「そんな事はありませんよ。警察組織では通常、成人男性の失踪に関しては、捜索の優先順位がどうしても下がります。でも子供の情報網に、そんな杞憂はありません。自分も、道場に来る子供達に聞いてみましょう。何か判るかも……葦原さん、すみませんでした。てっきり口先だけで、何も行動していないと……」

「判ったから、それ以上言うな」

「まあ、そういう事です。今はまだ、手がかりもつかめていないけど、自分達も、微力ながら動いていますから。きっと探し出して、病院に連れ込みますよ」

「どんなに本人が嫌がっても、今度こそ絶対にね!」

『皆さん……すみません、兄の為に……』

「ばかっ、ツァル、そういう時はなぁ、ありがとうって言うんだよ」

「単純に医療従事者として、放置しておけないっていうのも、ありますしね」

「それに、アギトの会の仲間じゃないですか。喜んで、協力させてもらいますよ」

「そうですよ。氷川さんと真島君は補欠ですけど」

「…………」

「…………」

「……あ、あれっ?」

「津上、お前なぁ……」

「いや、構いません……」

「どーせ僕、今回も役立たずでしたから……」

「ったく……いいかツァル、ごめんなさいっていうのは、こういう時に言うんだっ!!」

『わ、判りましたっ!!』

「お前達も、そこまでスネるなよ。正式ナンバー持ってたって、一回もツラ出さねぇ奴だっているんだぞ?」

「そうですよ。番号は単に座りがよくて付けてるだけ、それ以外に意味なんか無いんですから」

「始めた頃は、『女子供がやるこった!』って、顔出してない人もいましたしね」

「氷川。お前はオレの敵なのか?」

「別に」

「あ、そうだ、葦原さん。木野さん、ツァルには連絡していませんかね?」

「おお、そういえばそうだな。おいツァル、お前、木野が何処にバックレたか、知らないか?」

『ばっくれ……木野さん、どうかされたんですか?』

「……その調子だと、知らねえみたいだな」

「実は木野さんも、行方知れずらしいんだ」

『木野さんまでが?』

「あの後、何とか手術を終わらせた後……」

『手術?』

「巻き込まれる直前まで、やってたらしいぜ」

『……その患者さん、随分とお気の毒な事になっていたのでは?』

「まあね。で、その後、自分の怪我の応急処置を終えてから、連絡がつかない。手術の予約スケジュールも全て繰り延べにして、それ以外は何処にも誰にも、連絡していないみたいなんですよ」

「何かあったのでしょうか?」

「そういえば、何だかしつこく、今回の件のあらましを聞いてきた気が……」

「でも、どうして葦原さんが、ソレを気にしてるんですか? 天敵なんでしょ?」

「いや、ちょっと気になる事があってな……」

「何かあったんですか?」

「あの【世界】の中で、オレが奴に露払いを頼んだ時によ。あの男が、自分から買って出てくれてさ」

「それが、気になって?」

「ああ。あいつ、オレ達に対して、何か大事な事を隠してるんだよ。絶対に裏がある」

「だからそれは、葦原さんの右腕を慮っての事でしょう? 医者なら、当然の配慮ですよ」

「でも……確かに自分も、あの時の木野さんは、少しおかしかったような気がしているんです」

「氷川さんまで!?」

「自分の場合は、ちょっと気になる事を耳にしてしまって……」

「木野さんが、ですか?」

「丁度、あの【世界】が派手に自壊し始めた頃です。その事を手短に教えたら、『私のせいかも』って呟かれて」

「ワタシのせい? あの野郎が、何かしたのか?」

「むしろ葦原さんの方が、派手に世界を壊していた気が……」

『それは致し方ありません。突然変異体の力の関与は、全く予期していない……というか、エクシードギルスというものの存在すら、兄もボクも知らなかったのですから』

「……ま、何かあるとみて、間違いねぇな。コレは……」

「気になりますね」

「真島君、木野さんの携帯端末の番号なんか知らないの?」

「あ、ソレ、駄目なんです」

「駄目?」

「駄目って……木野さん、持ってないの!? このご時世に!?」

『時折、先入観などで携帯端末や精密機器に悪い印象を持ち、毛嫌いする方がいるという事ですが……』

「毛嫌いどころの騒ぎじゃないですよ。無理に使おうとすると、必ず壊しちゃいますから」

「こわすぅ!?」

「……ひょっとして木野さん……皆には、話していなかった、とか?」

「で、でも、今日日の外科医で、必ず壊しちゃうっていうのは……」

「第一あいつ、手術とか、全部一人で仕切るんだろ!? いちいち機械を壊してたら……」

「ペースメーカーとか、電気メスとか……外科手術で扱う機器って、凄くデリケートって聞いた事があるんですけど」

「ひょっとして、お前が木野の助手をしていたって、ソレが理由!?」

『真島さんが医師免許を取る以前は、どうやって対処していたんだろう?』

「流石に冷静だね、ツァルは……」

「何度も一緒に手術させてもらったんですけど、機械をいじる時は、必ず右手で。左手だと、まず間違いなく壊れますね。医療機器メーカーさんの間では、もはやブラックリスト級の扱いみたいです」

「…………」

「あの……」

「…………」

「僕……木野さんに殺されるかも……」

『あ、あのっ、恐らくそうはならないかと! だってそのような方が、やっと手にいれる事ができた貴重な助手です。暫く口をきかない事はあり得るでしょうけど、その内、時流にまぎれて立ち消えてしまう可能性が高いですよ!』

「ツァル、落ち着け」

「移植した腕で、あれだけの評判を維持できているのに、なんで正式な医師免許がとれないのか……凄く不思議だったんですけど……」

「携帯端末とか、大変そうですよね。うっかり左手で扱ったら、どかーん、でしょ」

「流石に爆発は……でも、恐らくは」

「まあ、そうだな。アレも一応、精密機器……ん?」

「どうしたんですか? 葦原さん」

「あ、あの野郎……それでオレに!」

「葦原さん?」

「ふふふふふ……道理でな、道理で……ふふふふふ」

「あ、葦原さん!?」

「ははは、あはははははははは!! そうかそうか、あいつオレ達の前で、携帯端末を使うのが『怖かった』のかあ! それで……あはははははははは!!」

「あーあ、何か木野さん、思わぬ自爆……」

「やっぱり僕、殺されるかも……」

「握った……握ったぞ、あの鼻持ちならねぇ闇医者の弱点っ……何処に雲隠れしやがったか知らねぇが……くくくくく……次に会った時がふはははははははは!!」

『あげつらうのは可哀想ですよ、そっとしておいてあげた方が……』

「いいんだっ! あんな慇懃無礼者、ちったあ思い知った方がいいんだよっ!! それよりツァル! お前、とっととあの闇医者の足取りを追跡して、何処に消えたか割り出せっ!!」

『違法行為です! プライバシーの侵害ですう!!』

「駄目ですよ、葦原さん!!」

「お前ら、木野の味方か? ならオレの敵だな? 敵なんだな??」

「小学生じゃあるまいし、そんな言い訳、通用すると思っているんですか!?」

「まあまあ、皆、落ち着いて」

「で、でも……」

「大丈夫だって。少なくとも葦原さんなら、三日も経てば、綺麗さっぱり忘れちゃってるから」

「津上ィ! 何か言ったかこの役立たず!!」

「ふっふっふ……そうくると思ってましたよ」

「ああ?」

「確かに俺は、ゲームにも疎いし、氷川さんや真島君みたいな人脈もない。でも、俺は俺にしか、できない事があるんです!」

「えっ?」

「そ、それって、どんな事なんですか?」

「ちょっと、失礼」

「何なんでしょう……?」

「ツァル、判る?」

『検討もつきません』

「…………気のせいだろうか。何か猛烈に嫌な予感がするんだが」

「えっ?」

「じゃーんっ! 御待たせしました、津上特製、カオニャムとソムタム、そしてトムヤムクンのフルセットコースでーす!」

「や、やっぱり!?」

「ななな、なんです、それっ!!」

「タイ北部の料理だそうです」

「また妙なものを……」

「やっぱりな……オレの勘は正しかったか……」

「人脈も何もない俺が皆さんにできる事は只一つ! 精魂込めたお料理で、精をつけてもらう! これっきゃないでしょ!!」

「断るっ!!」

「却下! アギトの会会員ナンバー1の言う事は、きちんと聞いて下さいっ!」

「津上さん、言ってる事、さっきと違うじゃないですか!!」

「それじゃあ自分、勤務があるので……」

「逃げるな氷川ぁ!!」

『あのぅ……』

「ツァル!?」

『ボク、食べてみていいですか?』

「ええっ!」

「止めろツァル! 兄貴より先に、お前がツブれてどぉすんだっ!!」

「そうですよ!」

『でも……凄く美味しそうに見えるのですが……』

「どういう仕組みになってんだよ、お前……」

『プログラム記述が核となって電力をまとう、それをアギトの力が三次元に具現化している、といった感じでしょうか? 解析してみたのですが、実体を拡散させてネットワークに侵入できたりする事以外は、葦原さんのエクシードギルス体に似ています』

「……虚弱なエクシードギルス?」

『ビジュアルは、むしろハエトリグモと呼ばれる生物に近いのですが』

「蜘蛛……津上さんの、インターネットワークに対するイメージだったんでしょうねぇ」

「何つー安直な……」

「と、とにかく! ツァル、味見してみてよ。それからなら、皆も安心できるでしょ?」

「ううっ……」

「ツァルさん、無茶は駄目ですよ!? 貴方には、お兄さんの命も掛かっているんですから!」

『はいっ、では、いきますっ』

「つ、ツァル……」

『…………』

「こ、こらっ! 何か言えっ!!」

「ツァルさん!?」

『……おいしいですよ?』

「うそっ!」

「本当に?」

『ハイ、無茶なんかしていません。とっても刺激的で、美味しいです!』

「ほらっ、ツァルもこう言ってるんだから。大丈夫ですって。真魚ちゃんにも、きちんと味見して貰ったんだし」

「……そ、それじゃあ……」

「おい止せ氷川。今までどんだけ痛い目見てきたか! 忘れたのか!!」

「でもまあ、折角の心づくしですし……」

「浩二! お前まで!!」

『美味しいんですけど……』

「葦原さん、ヘンなトコで神経質だから」

「何だとう!!」

「まあ、真魚さんとツァルさんが味見して、大丈夫だって言うなら……」

「その人選自体に、疑問を抱かんのか、お前らは!!」

「もういいですよ、葦原さんは。そこまで怖いんだったら、食べてもらわなくていいです」

「何だよ、その言い草!」

「あーあ、津上さん、いじけちゃった」

「いくらなんでも、もう少し言い方ってモノが……」

『気にしないで下さい津上さん、ボクは美味しいです』

「ぐっ……」

「では自分は、こちらを少し」

「僕、コレ。何でしたっけ、お名前は」

「カオニャムって言うんですって。こっちがソムタム」

「…………判ったよ」

「はい?」

「喰うよ……喰えばいいんだろ……」

「葦原さん、ごちそうを頂くのに、その態度は……」

「ああもう……お心づくし、頂かせて頂きますっ! コレでいーだろっ!!」

「……葦原さんっ!!」

「ぎゃーっ!!」

「だから俺、葦原さんが大好きなんですよー! 素直じゃないんだからっ、もうっ!!」

「判った、判ったから、食べるから……離れろおおおおっ!!」

『…………』

「ツァル、屈折してるって言いたいんじゃない? 言っちゃっていいよ、真実そうなんだから」

『はぁ』

「じゃあ、ビール開けましょうか、ビールっ! タイの本物のビア!!」

「へえ、タイのビールなんて、あるんですか」

「ちょっと味が荒いんですけど、その分さっぱりしてて、美味しいんですよ……さささ、どぞどぞっ!」

「自分は夜勤があるので、一杯だけにしておきます」

「はいはい。真島君は?」

「僕、今から休みなんで。葦原さんも、今日はバイクじゃないんだし、普通に大丈夫ですよね?」

「お、おう。まあ、ビールなら……」

「ツァルも、ちょっとだけ舐めてみる?」

『そ、それじゃあ少しだけ……』

「皆飲めるなら、折角だから乾杯しましょ、乾杯っ!」

「何に乾杯すんだよ」

「決まってるじゃないですか。ツァルと、ツァルのお兄さんの、アギトの会入会を祝ってです!」

「気ぃ早っ!!」

『あ、あのっ、兄はまだ、見つかってませんが……』

「いいんですよ、ツァルさん。これは前祝いなんですから」

「そうですね。会員になるかどうかはともかく、さっさと見つけてさっさと入院させて、さっさと完治してもらいましょうっ!」

『ありがとうございます……皆さん……』

「よーし、それじゃあそういう事でだなっ! カンパーイっ!!」

「カンパーイっ!!」

「乾杯っ!」

「かんぱーいっ!!」

 

 店のドアノブに掛かっている、『本日貸し切り』のプレート。

 それを見た青年は、ちょっとだけ溜息を吐いた。

 突発的に休む事はよくある店だが、貸し切りとは珍しい。

 店の中から、賑やかな声が聞こえる。

 乾杯でも、しているのだろうか?

 折角、美味い緑茶と一緒に、この文字の世界を堪能しようと思ったのだが、まあ、仕方がない。

 ここが休みの時に、行き着けている店が、もう一軒ある。

 そちらに行こう。

 もう一つだけ、溜息を吐いた青年は、ゆっくりと踵を返した。

 そのまま真っ直ぐ、立ち去ってゆく。

 もう少しそこに立ち、じっと耳を凝らしていれば、さっきの陽気なかけ声とは全く異質の阿鼻叫喚が、その耳にも聞き取れただろう。

 しかし、青年は急いでいた。

 早くこの文字の世界に、心ゆくまで溺れたい。

 店を離れていく青年の歩みが、また少しだけ、早まった。

 

 

 

 

 

 音高く、火花が爆ぜる。

 幾重にもぼやけた意識が、ふっと一重に巻き戻り、木野 薫は、盛大に咳き込んだ。

 吐き気を堪える周囲で、ささくれ立った気色の群れが、高温と共に弾け跳ぶ。

 少しでも気が散ると、この有り様——黒衣のポケットを探った木野は、取り出したハンカチで、口元を圧し拭った。

 腰に隠した小型のブラックボックスが、鋭く振動する。

「……何か?」

 小声で呟くと、ハリセンの如き女声が、ブラックボックスから伝わってきた。

『ちょっとお医者さん、大丈夫?』

「何とか……」

『だったらもう少し、大丈夫そうに見せてよ。ちっともそんな風に見えてないわよ!?』

 旧知であろうとなかろうと、もしも相手が葦原のような男だったら、この刹那、猛烈な舌戦が始まったに違いない。

 しかしこれは、彼女なりの“気遣い”の言葉なのだ。

 吐き気と苛立ちを堪え、木野は、大きく喘いだ。

「すみませんね。つい先日、貴方の部下に、こてんぱんにやられて間もないものでして」

『それを言われると、流石に悪い気がしてくるけど……どうする? “部屋”を解除して、戻る?』

「善良なる国民の血税で、設えられた舞台なんでしょう? 折角のお膳立てですし、最後まで頑張りますよ」

『でも……』

 と、撓弾。

 木野の目端に、淡い光が瞬いた。

 それらはやがて、光る文字を形成し、糸と成って宙に紡がれ、増えていく。

 背筋を伸ばし、ハンカチをしまいながら、木野は小さく呟いた。

「彼が、戻った」

『しょうがないわね。できる限り、頑張って!』

 通信の切れる音まで、大鉈の一撃じみている。

 ふと、脳裏を過った氷川の姿に、深い憐憫を覚えたが、その合間にも、光糸は繭と成り変わり、やがてその真中に、小さな影が出現した。

 木野はもう一度、咳き込んだ。

 賽を投げ、出た目に関して、グズグズと悔い悩む性格ではない。

 しかし厄介な事に、今回は色々と勝手が違っていた。

 己の真芯を何処かに置き去ったまま、事態を追いかけ、走り続けている様な。

 そんな浮いた感覚が、どうしても拭えない。

 当然、G3−Xに撃たれた怪我のせいもあるだろう。

 が、本当にそれだけの事か?

 呼吸を整えた木野は、ゆっくりと周囲を見渡した。

 剣呑な火花が消えてしまうと、そこに残るは、白の色彩のみ。

 黒ずくめの木野がおらねば、床も壁も、全てが白く溶け合って、意味を成さなくなりそうだった。

 命の鼓動も魂の息吹も欠落した、ただ白いだけの無音の空間の真ん中に、木野は独りで立っている。

 そしてその目前で、紡ぎ出された光の繭が、光塵を撒いて破裂した。

 繭中の影が、床にぽてりと落下する。

 電界の理から生まれた、小さな小さな異形、電子記述生命体・ツァル。

 ツァルは身を起こしつつ、もたもたと周囲を見回した。

 大仕事でもこなしてきたのか、肩で荒く息をしている。

 小さく咳払った木野は、その傍らに歩み寄ると、静かに膝をついた。

「浩二から、君の呼び出しコードを貰いましてね。折角だからと、君のお兄さんの真似をして、こちらの世界に来てみたつもりだったんですが……やはり、ご迷惑でしたかね?」

『申し訳ありません……次回は、事前に連絡して頂けたら……ボクが、そちらの次元に伺いますので……』

 へろへろと揺れながら、それでも大きく呼吸して、小さな異形は立ち上がった。

 柔らかい産毛と、半透明の甲殻で構成された身体は、そうしてもなお、膝をついた木野を見上げる程しかない。

 アクリル質の掌と、爪楊枝みたいな小さな指が、膝と思しき位置をぱたぱたと払う。

 そうしながら、ツァルは、ぽつりと言挙げた。

『でも、これではっきりと判りました』

「何がです?」

『あの時、兄の作った【世界】を決壊させたのは、イレギュラーである葦原さんの存在と、ボクの生誕が原因だと思ってました。でも、そうじゃなかった……兄の【世界】を決壊させた原因は、貴方ですね?』

 ツァルの四つの大きな眼が、自分を見下ろす木野を凝っと見る。

 僅かに面を逸らしながら、木野は、淡々と応えた。

「他者からは聞かれないので話してませんが、確かに私、君が属するこういった分野が、大の苦手でして。君の見立てに異論を挟む気は、一切ありません」

『物理の世界に、パウリ効果という効果があるとききました。何の不都合も無かった機械なのに、パウリという教授が扱うと、故障する……何の前触れも予兆も無く、突然トラブルが引き起こされる。酷い時には、パウリ教授が出張先に到着した途端、遠く離れた大学の、自室の研究設備が壊れた事があったとか』

「物理は齧った程度ですが……時代さえ合えば、その方とは友人になれた気がしますね」

 呟いた木野は、そのままそっぽを向いてしまった。

 ツァルは溜息を吐くと、宙に腕を差し伸べた。

 腕に灯った光文字の糸が、白い床にひたと触れて、脈打ち始める。

 サングラスの奥の、木野の目が瞬いた。

「何をされているのですか?」

「この部屋を形成するプログラムを保護する為に、見えない“断衝材”で覆っている感じです……また突然、火花が爆発したり、壁や床が貫けたりしたら、大変に危険ですから」

「……この部屋を作ったプログラマーは、それを許可したのですか?」

『いえ。でもこの程度の防壁でしたら、精密機器の……あっ!』

「何か?」

 木野と、ツァルの視線が合う。

 物言いこそ丁寧だが、木野の黒いサングラスは、その心中の色を読み取らせず、奇妙な不安を募らせてやまない。

 気後れながらも、ツァルはぽそぽそと言い継いだ。

『あの、ちょっとお気の毒な話なのかもしれませんが……皆さん、気付かれてしまいましたよ?』

「何をです」

『ほんの少し前、津上さんのお店で、アギトの会が開かれたんです。その時、その、精密機器の話になりまして……』

 木野の肩が、ぴくりと揺れる。

 ツァルは、息を呑んだ。

 口の中の小石みたいな後悔が、続く言葉の邪魔をする。

 一つ咳払い、木野は、静かに言挙げた。

「……ひょっとして、私のこの、苦手の事が?」

『う……です、ね……』

「皆に知れた、と」

『ハイ』

「バレましたか」

『……ハイ……』

「葦原なぞ、私の鼻っ柱をヘシ折るだのなんだのと、滅茶苦茶にはしゃいでいたでしょう?」

 ツァルは、慌ててそっぽを向く。

 苦みを隠そうともせず、木野は鋭く吐き捨てた。

「小学生じゃあるまいし!」

『……あのぅ、何故、葦原さんの言った事が……』

「あの短慮馬鹿の発想と言ったら、その程度が関の山だ」

『…………』

 汲々と身を竦ませる、ツァルの姿が、目端に映る。

 苦笑した木野は、言い聞かす様に語り継いだ。

「まあしかし、そんな予感はしていたんですよ。あの【世界】で、浩二達と合流できた時からね。むしろ、ここまで隠し通せた事の方が、奇跡に等しい……少しも、大した事ではありません」

 棘の無い声音に、ほっとしたのだろう。

 ツァルは遠慮がちに、言挙げる。

『真島さんが、木野さんに殺されるんじゃないかって心配してました。一言、連絡してあげた方が……あ、言い出し難ければ、ボクが皆さんに……』

「いえいえ、こちらにも色々と都合がありまして。時を見て、自分の方から説明しますので、君が奴等に連絡する必要はありません」

『……ひょっとして、あの時のお怪我の具合が、よくないのでしょうか?』

「それもありますが……しかし、ちょっと状況が切迫していましてね」

 やっと、話が元に戻った——微かな目眩を堪えながら、木野は、大きく息を吐いた。

「どうあってでも、今。君と話をして、答えを貰わねばならなくなってしまったのです」

『ボクの、答え?』

 プログラムの実装が終わったものか、脈打っていた光の糸が、ふつ切れる。

 切り離された記述の糸が、するすると床に染み込む様子を見やりながら、木野は、薄やかに微笑んだ。

「確かに今、私の体調は、最悪の状態にあります。味方が私の為にプログラムしてくれたこの“部屋”に対してですら、少しでも気を緩めると、先程のような事態になる……これ以上、この世界に迂闊な事をしでかす前に、単刀直入にお話しましょう」

『……はい』

「実は先日、某組織より、君のお兄さんの身柄を確保したという一報を受け取りまして」

『えっ?』

 弾ける様に、ツァルの面が、木野を見上げる。

 木野は、淡々と語り継いだ。

「それだけならまあ、問題は無かったのですが……その一報をもたらしてくれた組織は、同時に、お兄さんの診察をも依頼してきました」

『兄が、見つかって……し、診察してくれたんですか? 木野さん、ボクの兄を、診て下さったんですか!?』

 ツァルの小さな腕が伸び、木野の黒衣の袖を取った。

 そのまま、つくつくと引っ張って、まくしたてる。

『それで結果は……結果は、どうだったんですか!? 兄の病気は、命は、兄は、助かるんですか!?』

 つぶらな蜘蛛の単眼が、必死を帯びて木野を見る。

 僅かに息を詰めた木野は、袖を引っ張るツァルの腕を、そっと押さえて離させた。

 そのまま、白い床に腰を下ろし、サングラスを押し上げる。

「結果は、あまり芳しくないものでした。君のお兄さんの病気は、脳腫瘍。これがアギトの力を誘発したのか、その逆かは、未だ判りません。が、既に意識が無く、植物状態になりかけている。本来なら即座に手術して、脳腫瘍を取り除くべきなのですが……」

『何か、問題が?』

「手術自体が、かなり厄介なものになるという事と、もう一つ。君のお兄さんを探していた組織は、一つや二つでは、ありませんでね。その中に、彼の腫瘍を温存させたまま、生きながらえさせる事を、強く願っている組織があった。幸い、身柄を確保したのは、そこと対立している組織だったんですが、今度は相当な圧力を駆使して、お兄さんの身柄の譲渡を迫ってきているらしいんです」

『ええっ!?』

「恐らく、アギトの力を研究するためのデータサンプルが、どうしても欲しいのでしょう。その点、君のお兄さんは、最高の状態にあるといっていい」

『そんな……ボクの兄は、貴方達と同じ人間ですよ!? 意識が無いからって、どうしてそんな、実験生物みたいな扱いをされなきゃいけないんですか!!』

「同じ人間だからこそ、です。君のお兄さんからアギトの力に関するデータを採取し、解析する事で、アギトの力の顕現を、思いのままに操れる様になったら? 君ならもう、大体、判っているでしょう」

『現時点で考えうる、人類史上最強の切り札を手するチャンス……』

 震える声音が、ぽつりと響く。

 呟いたツァルに、指を立てて見せた木野は、更に優しく付け加えた。

「しかも、この世界のあらゆる分野で。政治、戦争、宗教……全てのパワーバランスは一瞬で覆り、その大混乱を、アギトの力で巧く征する事ができれば、一気に世界を牛耳る事も可能。“グレーゾーンに住まう一個人の人権”という、マジョリティから見れば最小の副次的被害で事が済むなら、それを実行しようとするのは、当然の成り行きだ」

『アギトの力は……そんなものではないはずです……』

「しかしそういった思想で、アギトの力を捉えて考えている者も、いるという事です。お兄さんの不運は、そういう者達に対しても、関わり合いを持ってしまった事。気の毒としか、言い様がありませんがね」

 白い床に、ツァルの腰が、ぽたん、と落ちた。

 その面には、ヒトのように涙を流す機能は無い。

 それでも、小さく震える生命体の在り様は、木野に語りを呑み込ませた。

 大切な者を襲った、最悪の事態。

 身切れるような悲哀と混乱の末に、この瓦解した心で下さねばならない、最悪の選択——

 と、撓弾。

 木野の脳裏に、小さな機が瞬いた。

“この”、瓦解した?

 木野は慌てて、頭を強く振り払った。

 違う。

 決断を下すのは、ツァルであって、自分ではない。

 思考が至ると同時に、倦怠と冷や汗が、一気に襲い掛かってくる。

 座っていてなお上体が揺らぎ、慌てて床に手をつき、体を支えた。

 どうやら説明する事に気を取られ、いつの間にか、目前の事態に同調し過ぎてしまっていた。

 溢れかけた舌打ちを、木野は必死に噛み殺した。

 同じ様な悲劇も惨劇も、売って余る程に関わり、経験してきたはず。

 なのに何故、たったこの程度の事で!

 意識の底、深闇の中の悲惨な記憶が、凝っとこちらを見上げている。

 何時もなら、無難に黙殺できるはずのその視線が、鉛のような五体に絡んで、振りほどけない。

 怪我の痛みを誤摩化すために、事前に打った薬のせいか。

 やはりこの事案、請けるべきでなかったかも——いつの間にか左手が、右腕をかばっている事に気付いたのは、ツァルの声が、耳に届いてからだった。

『その依頼……もう、請けられたのですか……?』

「あ、ああ……いえ」

 僅かに息を吐いた木野は、一つ小さく咳払った。

 前髪を指梳いて、ことさらゆっくり、語り始める。

「私は、医師免許を持っていない闇医者です……しかし、信じて殉じるものはある。そういう訳で、色々調べてみたのですが、ちょっと妙な事に気が付いた」

『妙?』

「私は、君のお兄さんを診察しました。しかしまだ、最終的な結論を出していないんです。腫瘍の温存は可能か不可能か、のね」

『な、何故?』

「君と、君のお兄さんの絆が、答えの天秤に掛かるからです」

 木野は居住まいを正すと、ツァルと向かい合った。

 体格差がそうさせるのだろう、木野が何かと身じろぐ度に、ツァルは、ツと目を逸らす。

 その様子を見守りながら、木野は再び、語り継いだ。

「色々と調べてみた結果、どうも、腫瘍は取り除く事が可能なんです」

『……はあ?』

「私ならば、お兄さんの腫瘍を、綺麗に取り除く事ができる。しかしお兄さんの腫瘍を取ってしまうと、恐らくアギトの力は消失。そしてそれに付随した全ての記憶を、無くしてしまう可能性が高い。色々と不都合が出てくるでしょうが、最たる問題は、きっと君を、認識する事ができなくなってしまう。君は大切な人から忘れられて、独りぼっちになってしまうんです」

『…………』

「腫瘍温存を選択すれば、非常に貴重な被験体として、恐らく国内最高レベルの医療管理を適用されるでしょう。そして今までの思い出を夢見ながら、一ヶ月程の余命を、比較的、楽に過ごす事ができる。摘出を選べば、犯罪者として多少の刑務は免れないが、アギトの力にまつわる全てを忘れ去り、自由に生きていける可能性が高くなる……少々語弊はありますが、あの男を兄と呼んだ君に、相談しておくべきだと思った。私は、どう結論すべきか……」

『そんな事、決まっています』

 一髪の間もなく、ツァルが言挙げた。

「えっ?」

 ためらった木野の黒衣の袖口を、ツァルは再び、握り締める。

 泣いて言葉を途切らせる代わりに、ツァルは必死で言い募った。

『腫瘍を、取り除いて下さい。病気を治してあげて下さい。ボクの兄を、兄さんの命を、助けてあげて下さい!』

 小さな腕の精一杯で、ツァルは袖を引っ張った。

 医者にしては大柄な、木野の腕が動く気配は、微塵も無い。

 木野は、ぽつりと呟いた。

「お兄さんの命を助ける為に……たった独りで、これからを生きていく気ですか?」

『兄がボクを忘れる事で、病が治るなら……生きていってくれるなら、ボクは少しも寂しくありません。もし寂しくなったら、新しい絆を、自分で探して見つけてみせます!』

 白いばかりの欠陥世界に、ツァルの声音が響く。

 言葉を呑んだ木野の右腕が、ぴくりと震えた。

 慌てて見やるが、痛みも、続くはずの痙攣も、今はその気配を見せない。

 身ノ内に淀む倦怠が、潮の様に退いてゆく。

『木野さん、木野さんっ……お願いです、木野さ』

「判りました」

 木野は、ツァルの叫びを遮った。

 右腕を伸ばし、袖を掴み締めるツァルの、小さな手を握る。

「君の兄さんの腫瘍は、温存不可能。私の、この右腕に懸けて……綺麗に取り除いて差し上げる」

 ツァルの単眼が、周囲の白を拾って瞬いた。

『ありがとうございます……兄を、宜しくお願いします……!』

 撓弾。

 木野の左腕が、腰を探った。

 取り出したブラックボックスが、エラーアラームと、小さな爆音を鳴り響かせる。

 隅から一筋の煙をたなびかせて、機械はプツンと死亡した。

 これで、詳細な盗聴記録は、採取不可能。

 微かに鼻を鳴らした木野は、サングラスを取り外すと、突然の出来事に固まるツァルの肩を抱き寄せ、こそこそと囁いた。

「ここから先は、手短に」

『あ、あのっ……』

「周囲に一切気付かれぬ様に、今、私に乗り移る事は可能ですか? 君が初めて、津上と出会った時のように……」

『えっ?』

「できませんか?」

『でき、ます……アギトの力の共振作用を利用しますから、サイコメトリー以外の方法では、検出不可能です』

「結構。では、急いで乗り移って下さい」

『あの、でも木野さん、体調が……』

「早くっ!」

『はっ、はいっ!!』

 ツァルは慌てて、腕を差し伸ばす。

 宙に紡がれる、光の記述を見つめながら、木野は続けて呟いた。

「手術の予定は一週間後。場所はまだ決まっていませんが、それまでの間に私は怪我を治し、体調と準備を整える手はずになっています」

『そ、そんな事、ボクに話して……』

「勿論、いい訳がありません」

『だったらどうして……』

「意識が戻る可能性は低いから、会話は不可能と思っておいた方がいい。しかし最後に、君の事を覚えているお兄さんの……そう、顔を見ておくくらいは、許されてもいいと思いましてね」

『!!』

「ただ、今現在、君のお兄さんも私も、全ての手術が終わるまで、強力な隔離体制と監視網の中に置かれていまして。外部から入る情報は全てチェックされ、部外者は出入りを妨害されてしまう」

『は、はい』

「だから君を、お兄さんの元に連れて行ってあげられるチャンスは、今をおいて他にはもう無いんです……どうですか?」

『できました。負担軽減の為、最小単位の冬眠モードで憑依します』

「憑依?」

『少しでも判り易い言葉を、と思って、探していました。つい最近、見つけたのですが……ぴったりでしょう?』

 つぶらな眼が、得意げに瞬く。

 苦笑を危うく噛み殺し、木野は小さく頷いた。

「……いいでしょう、さ、早く!」

『覚醒、分離時は、以下のコードをアギトの力でなぞって下さい……では、移行します!』

 ツァルの腕から伸びた光糸が、木野にするするとまとわりつく。

 それが額に触れた刹那、木野の脳裏に、重たい何かがのしかかってきた。

 

 

 

 

 

 重たい四肢の感触と、蛍光管の冷たい光が、意識に重くたゆたった。

 ミニマムタイプにしては、居心地のよいソファー。

 それに預けた背が、ぴくりと跳ねる。

「お医者さん? 大丈夫、お医者さん?」

 切れの良い女の声音に、木野は、ゆっくりと目を開ける。

「大丈夫です……ツァルと、話ができまし、た」

 SAULの移動基地で、G3ユニットシリーズの司令塔も兼ねる、Gトレーラー。

 その最奥のスペースを、申し訳程度のプライバシー・ウォールが仕切り、ブースを形作っている。

 目前の小さなテーブルは、ノートパソコンと、記録の為の無骨な機械に占拠されていた。

 そしてその向こう側で、パソコンキーを叩いている女——小沢 澄子が、視線をモニターから外さぬまま、器用にペットボトルを差し出してきた。

「戻るまでに、随分時間がかかったわね。何を話していたの?」

「記録が残っているでしょう?」

「それがねぇ……最後の方で、突然、中継プログラムが壊れちゃって」

 受け取ったペットボトルのキャップを捻り、木野は、小さく咳き込んだ。

「おやおや、それじゃあ記録は……」

「後半は、全てプア」

「それはお気の毒。ツァルくんはまた、何処かに消えてしまいましたし、記録がその状態じゃあ、追跡は無理でしょうね」

 強い光を秘めた瞳が、じろりと木野をねめつける。

「わざと逃がした?」

「は?」

 小沢が、突然立ち上がった。

 テーブルに手をついて、水を含む木野に、その面を突き付ける。

 露骨に疑惑を滾らせた眼差しが、木野を僅かに仰け反らせた。

 見透かす様に、低く囁く。

「ツァルくんに、いらぬ事を口走ってはいないでしょうね、元・お兄さん」

「……どういう意味です?」

「貴方は過去、可愛がっていた弟さんと、訳ありの死別を体験してる。そんな貴方から見たら、“お兄さん”の為に必死で動いているツァルくんは、随分と可愛らしく見えてるんじゃないかってコト……ぶっちゃけ、妙な肩入れして手術を台無しにされたり、あまつさえ、患者を逃がされたりしたら、困るのよ」

「そこまで私の事を調べているのなら、この右腕の正体も、ご存知ですね?」

 木野が、真っ直ぐ立ち上がった。

 小柄な小沢を見下ろしながら、右手を目前にかざす。

「私は、弟と死別したとは思っていません。弟は……雅人は、この右腕に生きている。女性特有の感性頼りの勘ぐりですが、それはあり得ない事だ」

 どす黒い機が、二人の間に瞬いた。

 黙の羽虫が宙を横切るその下で、不可視の応酬が交錯する。

 しかし撓弾。

 すぅと瞼を閉じた木野が、大きく傾いで倒れてきた。

 目を瞬かせた小沢に、そのままずしりと覆い被さる。

「ちょ、ちょっとちょっと……うぎゃっ!」

 小柄な小沢には、切り倒された巨木の下敷きになったに等しい。

「ふぐぐ、ぐ……」

 全力で踏ん張り、何とか木野を支えた小沢は、渾身の力で、木野をソファに押し戻した。

 肩で息をしながらも、その頬を、ぺちぺちと叩く。

「な、何て事……ねえちょっと、しっかりしてよ、お医者さんっ! 大丈夫!?」

「……駄目と言った処で、放免してもらえる訳でもないのでしょう?」

 僅かに呻き、片手で小沢を制した木野は、身を起こすと、居住まいを正した。

 ペットボトルの水を、一息に飲み干す。

 安堵の吐息を噛み殺し、小沢は、てきぱきと反論した。

「怪我の件は気の毒だと思うし、できる限りの事はするわ。けどその怪我は、実質氷川くんの正当防衛なんだから、そこは勘違いのないようにね。それに突然の被疑者譲渡依頼だって、深海のバカが、一刻も早くあの男を寄越せってネジ込んできたからで……」

「一足先に、内偵できていたのが幸い、という事ですか」

「まあ、そういう事。この手筈を整えるのだって、貴方が前提条件としてどーしても!って言うから、アチコチ無理矢理ねじ込んだのよ?」

 脳裏に、この女傑の上司への憐憫が灯ったが、流石にそこまでは見抜けないらしい。

 こめかみを押さえる木野を見た小沢は、一つ小さく咳払い、静やかに言い継いだ。

「ま、それはちょっとアッチに置いといて……ツァルくんは? 何て言ってた?」

「言うに及ばずです。自分を忘れてもいいから、腫瘍を取り除いてくれと」

「まあ、当然か。自らの存在を歪めるくらいの意志で、願っていた事だものね……で、それを聞いたお医者様は、どう結論を出すつもり?」

 再び小沢は、木野をじろりとねめつける。

 視線を逸らさぬ様、必死に堪えながら、木野は淡々と告げた。

「あの状態では、腫瘍の温存は不可能です。保たせても、早くて数週間の内に死亡するでしょう。それよりは生きてもらって監視下に置き、色々と協力させる方がいい」

「医者の良心? それとも同情?」

「……判りません。ですが私は、命を救う為に、メスを取る」

「いつぞやの葦原くんは、その範疇になかった、とか?」

「アレはアレ、コレはコレですよ。既に約束もしてしまいましたし。お疑いなら、記録を確認して頂ければ」

「“私にも、信じて殉じるものはある”ねぇ……」

「ご覧になってたんなら、いじめずに察して下さい。普段なら付き合いますが、今はちょっと余裕がない」

 体験する事は滅多に無い、見下ろされる視線に身じろぎながらも、木野は肩を竦めてみせる。

 撓弾。

 にこりと笑った小沢は、満足げに背筋を伸ばした。

「ま、貴方がそう判断したなら仕方ない。他に手段が無いんだから、あちらサンも納得するでしょ」

「それでは、後は手はず通りという事で」

「怪我の治療に専念する為の、安全な場所と時間。手術の為の病院も貸すんだからね。手違いや背信は、困るわよ?」

「大丈夫。必ず完治させますよ。三日後にセッティング、を……」

「?」

 片手を上げて小沢を制し、再び、木野は黙り込んだ。

 ハンカチを取り出し、顔を覆ってうつむく。

 小沢の眉に、疑惑が差した。

 氷川の報告書によれば、彼が撃ったと報告しているのは、右胸、左肩、両足の四カ所。

 あのキンピラみたいな再生・治癒能力は無いとは言っても、実際、このトレーラーに収容した時には、もう少し元気だった。

 何か、あったのだろうか。

 それとも、アギトの力を使ってネットに介入するという事は、ここまで消耗してしまうものなのだろうか?

 確かめようは、ないけれど——小沢は、木野の側に寄った。

 また倒れ込まれてはたまらないので、一歩離れて、傍らにしゃがむ。

「ねえ……ホントに一人で平気なの?」

「一人の方がいいんです」

「真島くんを呼ぶ?」

「病院に入りたての下っ端に、面倒を見てもらうなんて、できませんよ」

「尾室くん、貸そうか?」

「お気持ちだけ頂きます」

「ふーん……ま、私もこれ以上、心配する義理なんか、ないんだもんね」

 小沢は、軽やかに立ち上がった。

 プライバシー・ウォールに備え付けられた、受話器を取り上げ、何かを話す。

 狭いブース全体を、微かな振動が包み込んだ。

 受話器を戻した小沢は、木野の方へと振り向いた。

「今から、待機場所にお送りするわ。到着まで、ここで寛いでて……貴方には、ちょっと狭いかもしれないけど」

「この車では、目立ちませんか?」

「目立たなきゃ駄目なのよ。今、貴方に手を出す馬鹿は、私達が相手だって意思表示も兼ねてるんだから」

「物騒な……」

「私は隣のブースにいるから。何かあったら、大声出せば聞こえるわ」

 爪を短く切りそろえた指先が、音高く、ノートパソコンを閉じる。

 ひらりとそれを拾い上げ、小沢は、さっさとブースを後にした。

 その背が、ネガティブに変転する——閉じた瞼を押さえた木野は、そのままソファにもたれかかった。

 どうやら、頭に余計なモノを抱え込んでいた事は、巧く隠し通せたようだ。

 これが本当の、怪我の功名——苦笑と共に、砂が流れていく様に、体の力が抜けていく。

 喉の奥で、泥のような悪熱が猛った。

 そっと脳裏を探ってみると、ついさっきまでは感じなかった、異質の感触がある。

 コレが、電子記述生命体とやらの、感触なのだろうか。

 最小単位の冬眠モード、と言っていたが、それでもここまで、負担になるとは。

 車が別の道に乗ったものか、ブースが微かに揺れる。

 舌の奥に籠った苦みが、じくじくと揺れ疼き、視界が徐々に曇り始めた。

 まずい。

 計算以上の圧倒的な消耗に、木野は再びハンカチで、口元を圧し塞いだ。

 このままでは、怪我の回復にも影響が出かねない。

 あの女傑に訳を話して、頭の中のツァルを、何処かに避難させるか——

 と、撓弾。

 右手が、小さく痙攣した。

 左手でそっと探ると、もう一度、ぴくりと震えた右手は、きゅっと硬く引き締まり、拳を作って動かなくなる。

 痛みは、無い。

 ツァルは脳裏で“冬眠中”だし、自分の意志でも、勿論、無い。

 木野は、ぽつりと呟いた。

「……雅人?」

 お前も、何とかしろという気か?

 あの生命体との、約束を守れと?

 左手で、拳を包む。

 その僅かな力で、するりと解れてしまった拳は、もう何とも動かない。

「やれやれ……」

 木野は鬱々と、しかし優しく、右腕を抱いた。

 そのまま体をソファに預け、浅い呼吸をなだめてゆく。

 とにもかくにも、先ずは氷川から貰ってしまった、怪我を治す。

 今は、それに専念するしかない。

 待機場所に到着し次第、ツァルを頭から解放し、後三日も休めれば、怪我を完治させる自信はあった。

 そしてツァルにしても、狩人コミュニティーのど真ん中で、狼の子を匿う不穏は免れないが、返って盲点となるだろう。

 巧く、利用すればいい。

 そして手術が終わる頃には、葦原も、私の事など、すっきり忘れ去っているに違いない。

 どうせなら、手術が終わった後のツァルを、津上に任せてしまおうか。

 少々色付けして話をすれば、一も二もなく、引き取ってくれるだろう。

 滅茶苦茶になった予定に、何とか修復の兆しが見えてきた。

 そう、これ以上、津上達の事だけに、かまけている暇は無い。

 たればこそ、先ずはあの男の命を、完璧に救わねば。

「よし……」

 吐き気が緩み、僅かに楽になってきた。

 鉛のような五体の真芯に、睡気が沈々と降り積もる。

 このまま少し、眠っておこう——

 もう一度、優しく右腕を抱いた木野は、そのまま深く眠り始めた。

 

 

 

 

 

 お終い。

 


 
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