曹操軍との決戦の初日は大きな動きはなかった。
お互いが挨拶を交わしてからというもの、前線同士の小競り合いすら起こることはなく、睨み合う形で終わったのだ。双方とも兵力的な消耗というものは見られなかったのは幸いだったろう。
精神的なダメージという点に関して言えば、どちらに軍配が上がるかと問われると、それは非常に難しい。
益州陣営は曹操軍の先鋒の精強さを一度ぶつかっただけで十二分に理解したのだ。永安の救世主たる麗羽を一撃のもとに粉砕し、反撃すら与える余裕がなかった。そんな相手とこれから戦わなくてはいけないのだ。
一方曹操軍は、先の返礼による粉塵爆発の影響があった。この時代のものではまさか小麦粉を使用した爆発など想像出来る筈もなく、あの爆発は本当に天の裁きではないのかと疑うものすら出ているのだ。
だが、どちらとも絶望的という状態にまでは陥っていない。それは両者を治める君主に対する信頼感があるからだ。天の御遣いならば、覇王ならば、という想いがあるからこそ、どちらも崖っぷちのところで混乱状態を避けているのだ。
つまり、彼らの精神状態は先鋒の争いの結果に大きく影響してしまうというところで一致している。その勝敗によって、自分たちは勝てないという不安が溢れ出てしまうのだ。
そして、そのことを麗羽よく分かっていたのだ。
二日目、彼女は前線の指揮を執りながら、今日はある程度の動きがあることを予見していた。前日とは異なり、敵軍から放たれる闘志に、ピリピリとした緊張がよく見て取ることが出来て、様子が違っていた。
当初、曹仁、曹洪の二将軍はこちらを侮っていた。
初撃でこちらの力量はある程度は見極められたに違いない。麗羽ではあの二人には対抗することは出来ず、もしも、益州陣営に彼らに匹敵するほどの将器を持つものがいるとすれば、愛紗や桔梗くらいであろう。
しかし、その思いはこちらの返礼によって覆しているようだ。
あれ以降、二人が前線に出てくるということはなかったが、それでも兵の動きは極めて整然としていて、こちらに対して油断をしていないことは容易に察することが出来た。
――油断してくだされば、こちらにも機会はあるのですが……。
麗羽は詠に誓ったのだ。詠の言ったことが正しいということを証明すると。
もはや落ち込むなんてことしている暇などない。戦場を冷静に分析し、勝利を掴まなくてはいけない。敵に比べ寡兵であり、また指揮官の将器も差があるという困難な状況を打破しなくてはいけないのだ。
――わたくしにあって、彼らにはないもの……。
統率力、武力、用兵術、俊敏性、突破力、いずれを比べても麗羽には分がない。そこで競い合っても駄目なのだ。意地になってしまえば、地力で勝っている相手の思う壺である。そこに麗羽の勝機など存在しないのだ。
彼女が勝機を見出すべき場所は、自分が勝っているところまで戦況を持ち込むことしかない。彼女は勝てるかもしれない戦に挑んではいけないのだ。必ず勝てる戦に持ち込まなくてはいけない。
戦に奇跡などない。
ドラマチックな展開も、あるかもしれない希望的観測も、まさかの逆転勝利も。
そこにあるのはただ血みどろな殺し合いだけ。
麗羽は負けることが許されない。勝てるかもしれないという事柄が、同時に負けるかもしれないという事柄を含蓄している以上、自分が相手よりも上回っている部分を客観的に分析する必要があるのだ。
「わたくしに勝てるところなんて――」
ない、という言葉を途中で呑み込んだ。
そんなことを思っている暇などないと考えたばかりではないか。今は自分がどんな人間であるかなど関係ない。たとえこの戦で身が散り果てようとも、先鋒の勝利を必ず得ないといけないのだ。
「麗羽様……。どうやら敵が動くみたいです」
「分かりましたわ。騎馬隊を猪々子、歩兵を斗詩がそれぞれ纏めなさい。敵の将はこちらを打ち砕きに来るでしょう。何としてでもそれを止めるのですわ。方円に陣を布き、敵の攻撃を受け止めなさい。然る後に反撃を開始します」
「了解だぜっ!」
「了解ですっ!」
麗羽にはまだ活路を見出すことが出来ていなかった。タイミング的にも、ここで攻められるのは得策とは言えず、今は守りに徹する他ない。兵士たちには苦しい時間を過ごさせることが心苦しく感じられた。
しかし、斗詩と猪々子は麗羽のその命令に何の不安も見せずに頷いてみせた。
お世辞にも二人とも麗羽の様に戦略に通じているとは言えないが、それでも今の状況が芳しくないことや、曹仁と曹洪という猛者と比べれば、自分たちは容易に勝てないことくらいは承知である。
もっと言ってしまえば、付き合いが誰よりも長い二人であるのだから、麗羽が何を考えていることくらいは分かっている。麗羽の脳裏にはまだ勝利の方程式が構築されておらず、戦況はどちらかといえばあちらに傾いているということも。
だから、二人は微笑んだ。
麗羽は戦場で華麗に舞う。その華美な服装と容姿が戦場という無機質な場に彩りを与えるのだ。今はまだその時期ではないけれど、必ずそのときは訪れる。だから、それまではせめて自分たちが笑顔という華を添えておこう。
二人は信じている。
麗羽が必ず勝つことを。例え相手がかつての曹家を支えた歴戦の強者であろうと、麗羽はそれを討ち果たすことが出来ると。自分たちが慕う主は、どのような苦境に立たされようとも、それを覆す胆力の持ち主であると。
ただ、ただ、それを信じて笑ったのだ。
そして、その頃曹操陣営はというと、曹仁と曹洪を筆頭に敵の先鋒に対して攻撃を再開せよと命令し、着々と準備を進めていた。ここで、攻撃を『再開』させるという表現を使ったのは、彼らが攻めているということを兵士たちに伝えるためである。
敵側の奇襲――それは兵士たちの心に僅かながらの猜疑心を生み出すには充分だった。天の御遣いという不気味な響きを巧妙に利用した策略であり、またそれを考案した軍師、それを実施した将の強さには、二人といえども唸らざるを得なかった。
あの爆発に関しては、曹操陣営内においても正解を導き出すことが出来ないようで、華琳を始め、桂花や稟、風といった頭脳明晰な人材をしても原理の解明は出来ずにいた。
それに対して二人が出した結論とは、自分たちの許容量を超越する事象に関しては、考えるということを放棄することだった。
自分たちは武人である。武人の為すべきこととは、戦場に立ち、立ちはだかる敵たちを蹴散らして、自分たちの主の通る道を作ることである。正確に言えば、彼らの主は華琳の母親をおいていないのであるが、今は華琳の道を作るのが彼らの使命である。
相手が妖術の類を使う者であったとしても、自分たちは己の誇りと武器だけを頼りにそれを一掃するだけだ。その覚悟だけは不動であり、敗北するかもしれないという不安とはかけ離れているのだ。
「のぅ、子廉よ」
「何だ、子孝」
二人は忙しく動き回る兵士たちの様子を逐一観察しながら言葉を交わした。
「敵の先鋒、あの派手な格好をしておる女人をどう見る?」
「好みじゃねーな。ありゃ、金がかかりそうだ。女は質素に限るぜ」
「…………」
「ちっ。分かってるよ。恐れる程の器じゃねぇ……そう思っていたがよ」
「ふむ、お主もそう思うか?」
「はっ。当り前だ。お姫様には勘が鈍ったなんて言われちまったが、ありゃ紛れもなく凡将だよ。特異な才も、豊富な経験も、傑出した力も持ち合わせているわけではない」
「その通り、どこにでもいる普通の女人じゃのぅ」
曹仁と曹洪は互いに溜息を吐いた。それは本人たちには到底理解出来ないことであるからだ。粉塵爆発のようなこの世の理を超越しているかのように思える類のことではない。賢人でなくても、いやむしろ自分たちのような武人の方が理解出来ることなのだ。
「何の才能もねえただの人が、どうしてあそこまで辿り着くことが出来るんだ? 俺たちが怖くねーのか? 死ぬのが嫌じゃねーのか? そうじゃねーなら、ありゃ人外の化け物か、狂人としか思えねーよ」
曹洪は整った眉の横を掻きながら呟いた。
彼らは互いの挨拶の後、確かに大きな行動を起こしたわけではない。華琳からは待機の令が出ていたし、兵士たちの状態も万全とは言えなかったからだ。しかし、だからといって、何もせずに時間を浪費する程、彼らも愚鈍ではない。
戦闘行為は再開されていないが、既に将同士の駆け引きは始まっているのだ。
戦わずとも戦っているのだ。
歴戦の猛者である二人にとって、干戈を交えずとも、思考をぶつけ合わずとも、相手を倒す術を知っている。それは相手の肉体を滅ぼすのではなく、相手の心を砕くことである。戦闘を用いずに勝利する方法である。
確かに、天の御遣いの名を使った策で、曹操軍の兵士たちに恐怖心という種を植え付けるには成功している。しかし、それは相手も同じことなのだ。
益州軍は自分たちの突撃を経験している。
自慢ではないが、この戦場にいるひよっこ達と修羅場を潜り抜けている自分たちでは、用兵術という一点に関しては比べようがない。戦の天才と言われる華琳や雪蓮に比べても、それは同じである。
多少の才は関係すれども、所詮は場数という絶対的なものには勝てない。
しかも、この二人には将器も充分に備わっているのだ。
先の挨拶という突撃、あれは並みのものではない。華琳からは挨拶するように命令されていたから、実際に数を減らそうとしたわけではないが、二人はだからこそ、敵の心をへし折るような苛烈な攻撃を加えた。
そのときの恐怖心は、敵の兵士たちには本能的なレベルで刷り込まれているだろう。
しかし、益州軍に動揺の色は見られない――否、正確に述べるとすれば、先鋒の将の心に、だ。兵の動きは将のそれを映し出す鏡のようだ。今朝がたから何度も威圧をかけているのに、まるで静かな水面のように動きがない。
本来であれば、いつまたあの波状攻撃が始まるか気が気ではないはずだ。反射的にあの恐怖を思い出してしまうように仕向けたのだから。しかし、将は動じない、揺るがない、怯まない。
そこに彼らは違和感を覚えるのだ。
凡人がそれに耐えられるはずがない、その恐怖を抑え込めるはずがないと。
「まるで大岩――いや、岩ならば砕くことも出来よう。しかしここまで不動の決意、峻厳な山と対峙しているようじゃな。大いなる自然を相手取るのはちと難儀なものじゃのぅ」
「爺が何を詩的なことをほざいてやがる。お姫様じゃねーんだ、お前に詩の才などないだろーが」
「だが、言い得て妙じゃろう? 平凡が故に脅威ではないが、平凡が故に恐ろしい。こんな相手は初めてじゃ」
「はっ。まぁ違いねーな」
曹仁が顎に蓄えた立派な白髭を扱きながら告げる。
「儂は恐怖しているのか……」
「理解の範疇を超える天の御遣いとやらには感じねーのに、あの凡将には感じるのか?」
「理解出来る事象が理解出来ない、これ程怖いものもないということじゃな」
「ふん……」
二人は思った。
人間には限界がある。だが、それを超えられる人間がいるとすれば、例えその者に何の才能がなくても、それは天才と呼ぶに相応しいのではないかと。天から才を与えられない天才――そんなものがいるのだろうかと。
さて、二人は麗羽のことを凡将と評しているが、それは正しく本当の事であった。
彼女もそれを自分で事あるごとに思っているが、それは謙遜ではなく真実である。指揮官としても、軍師としても、為政者としても、先天的な才能という点では、彼女には何もなかったのだ。
では、ここで一つ疑問が浮かぶ。
何故、その凡庸な彼女がこれまで雪蓮と冥琳と互角な戦いを演じ、益州では救世主として称えられ、将からも一角の人物として認められているのだろうか。
答えは簡単である。
彼女がそれ程の努力を積んだからである。
最初は何もなかった。
しかし、自分が愚かであると知ったとき、彼女は同時にその罪を知った。
そして、それからというもの、袁家の老人に捕えられ、華琳から見逃され、各地を彷徨い、一刀に拾われ、益州の将として一軍を任せられ、今日曹操軍との決戦の先鋒を命じられるに至るまで、彼女は一日足りとて努力を惜しんだ日はない。
努力と簡単に言ってしまえば、それは誰もが行っていることである。
しかし、彼女のそれはもはや努力と呼べる次元にない。
彼女の屋敷には読み過ぎてボロボロになった書物、書簡が何十冊もある。使い過ぎて修繕不可能になった剣が何十本もある。およそ活動出来るような状態ではないと思われる程に睡眠時間を減らし、政務以外の時間はほとんどを努力に費やしたのだ。
これまで数えきれないほどの失敗を重ねた。努力は時として人を裏切る。どんなに努力をしても、それは花を咲かせることなく、その者を嘲笑うかのように、才能のなさを痛感させるのだ。
しかし、麗羽は諦めたことがなかった。
個人の武では斗詩と猪々子にも歯が立たず、知識の量は朱里や雛里の足にも届かず、用兵術では愛紗や星の相手にもならず、だが、それでも麗羽は諦めなかった。
力は求める者に必ず与えられるとは限らない。しかし、求めなければ決して与えられることはない。少しでも心に揺らぎが生じれば、綻びが生じれば、忽ち掌から零れ落ちてしまうのだ。
麗羽は力を求め続けた。
麗羽は才能という壁に抗い続けた。
麗羽は何度だって起き上がった。
泥に塗れて、何度も土の味を噛み締めても、彼女は自分の両の足で立ち上がった。
失敗の量には自信があった。そして、失敗して失敗して失敗すれば、その後には成功する可能性があることを知っていた。その時に味わう達成感のなんと心地良いことか。涙が出る程の喜びを感じるのだ。
だから、彼女は歩みを止めなかった。
その全てが今の麗羽を形成しているのだ。
必殺の剣、鉄壁の盾――曹家を支えた二人の忠臣、曹仁、曹洪。彼らの将としての腕前は紛れもなく本物だ。才能に恵まれている上に、絶対的な経験を誇る名将であることに偽りはない。
その長年の軍人生活の中で、彼らはこれまで多くの将を見てきた。
その中には勿論、才能がなくそのまま没落していった者もいる。将としての才能が何たるかも充分に知っているのだ。才能のない者が平然と生き抜いていける程、甘い世界ではない。才能がある者ですら、命を散らしていくのだ。
だからこそ、彼らには麗羽が恐ろしく思えたのだ。
才能のない麗羽が、どうしてここまで生き抜いてこられたのか、この最終決戦という大舞台の先鋒と大役を任せられているのか、自分たちの猛攻を受けて尚、怯えることなく向かい合っていることが出来るのか。
それは異常な光景だった。
そこは凡将が立って良い舞台ではない――いや、立てる舞台ではないのだ。
恐怖に対して鈍感だなんて次元ではない。もはや恐怖という感覚が麻痺しているか、そもそも恐怖というものを知らないとしか思えない。だが、そんなことがあり得るわけない。そこに生じる矛盾に二人は言葉を失ったのだ。
油断なんかして良い相手ではない。
むしろ、こちらが全力で臨まないといけないのだ。
天の御遣いよりも、漢中王よりも、小覇王よりも、そこにいる平凡な将をもっとも警戒しないといけないのだ。
「……子廉」
「何だ?」
「分かっておるな?」
「当然だ」
言葉などで伝えなくても、お互いに何をすべきは分かっている。
顔を見ぬままにこう告げた。
「一撃で打ち砕く。遠慮も様子見もなしだ」
「あぁ、狙うは袁本初ただ一人。初撃で決める」
恐怖を感じるからこそ、最初に殺す。
もっとも単純で分かりやすいことだ。麗羽さえいなくなってしまえば、この戦は決まってしまうだろう。必殺の剣に迷いはない。殺すと決めたら、必ず殺す。それが彼の流儀であり、信条であった。
これより、真の凡将と猛将たちとの戦が始まる。
二人は部隊の進撃の準部が整うのを確認すると、高らかに進軍を告げる鐘を鳴らさせた。その音は蒼穹の彼方へと消えていった。燦々と陽光が降り注ぐ中、曹操軍は悠然と進軍を開始したのだ。
さて、再び、麗羽の許に場所を移す。
曹仁と曹洪の進軍を見て、彼女は部隊を三段に構えた。
猪々子の騎馬隊を切り離し別働隊として遊軍に据え、敵部隊を牽制させつつ、斗詩に前曲の指揮を託す。そして、自らは中央に構えて後曲と共にその援護をする。
とにかく今は守りに徹する。勝機の見えないこの状況で、敵を押し返そうとしても、逆に手痛い反撃を喰らうのは目に見えていたからだ。今の自分たちでは曹仁の守りを崩すことは出来ない。
だが、守りに徹することすら、麗羽たちにとっては難しいことであった。曹洪の突破力も充分に理解している。守ることは、攻めることよりも上策ではあるが、それも苦肉の策に過ぎない。
今はどれだけ被害を最小に抑えるかが要になる。
――来ましたわねっ!
敵方から前進を告げるであろう銅鑼の音が響き渡ると、間もなく砂塵が視界に入った。
麗羽は一刀から譲り受けた宝剣を翳すと、味方にも迎撃態勢に入るように指示をする。
こちらから確認する限り、敵の先鋒は先の挨拶と同様に騎馬隊を先頭にした鋒矢陣であった。どう見ても、こちらの首を狩に来ている。先鋒を一気に崩した後、中央まで食い込んで将の首級を挙げるつもりだろう。
それは斗詩にも理解出来た。
従って、ここで前曲の斗詩が容易に抜かれてしまうと、それだけで戦の大勢が決まってしまう。彼らを押し留めることが斗詩の仕事であり、麗羽の勝利に繋げるためにはしなくてはいけないことだ。
「全軍密集隊形をとってくださいっ! 先頭は槍を構えて牽制っ! 私たちが止めますっ!」
斗詩の声に兵士が応える。
緒戦は、雛里の策によって引き分けのように思われるが、実際の兵士同士のぶつかり合いでは、完全にあちらに取られており、兵士たちも身体がその恐怖を覚えている。
麗羽の指揮する兵士は、荊州での激闘を共にした精兵たちであり、麗羽には絶対の信頼を置いている。故に、緒戦で押されたことに関しても、麗羽自身が冷静さを保っていることから、無様に取り乱すような輩はいない。
しかし、それでも緒戦の戦いは身体が覚えている。
それは斗詩ですら感じていた。まだ、激突までには多少の時間の余裕はある程の距離ではあるが、まるで巨大な槍がそのままこちらに飛来してくるかのような圧迫感。
空気を通して敵の気合が伝わってくるのが分かる。攻め寄せる将――斗詩はおそらく曹洪であることを見抜いているが、彼が自分など視野にも入れず、目標は後ろに控える自身の主であることを即座に理解する。
――止めますっ! 何が何でもっ!
片手に構える金光鉄槌を握り直す。手には汗がじわりと浮かび上がっており、気を抜くとそのまま滑り落としてしまいそうだった。
大きく息を吸う。瞳を閉じたまま……一秒、二秒、三秒、そして、瞳を開ける。
「顔良隊っ! 参りますっ!」
斗詩は叫んだ。
自分が麗羽を守る。自分は彼女の盾である。文字通り、身体で麗羽を守るのだ。
敵将の曹仁のような巧みな守りなど出来ない。自分は鉄壁の盾などと呼ばれる器ではない。将としての器など高が知れている。五体満足なまま彼らの突撃を凌げるはずもない。
――例え、私が死んだって、麗羽様だけは……っ!
斗詩は兵士たちの先頭に立ち、数歩前で大きく跳躍した。
騎馬隊の恐ろしいところは、歩兵の部隊ではその勢いを殺せないところにある。しかし、そのまま部隊を貫かれてしまえば、後ろの麗羽の部隊にまで被害が出てしまう。
斗詩の狙いは乗り手に非ず。
斗詩の狙いは馬に非ず。
――狙いは……ここですっ!
斗詩は騎馬隊が目の前に来ると同時に地面を金光鉄槌で叩いた。
その爆砕の一撃は地面ごと大きく周囲のものを吹き飛ばした。先頭を駆けていた敵の兵士はそれによって馬から振り落とされ、後続の馬たちは驚きにより一気に恐慌状態に陥る。斗詩の狙いは正にそこであった。
騎馬隊の突撃を誰よりも前で、そして正面から受け止めるなど、彼女の胸中に渦巻く恐怖感など、到底推し量ることなど出来ないが、彼女はそれを呑み込んでそれを敢行した。
「はっ、狙いはいいな。だが、それでも足りねー」
斗詩の耳にその声が届いた。
はっとして見上げると、ただ一騎だけ斗詩の攻撃を華麗に避けている者がいた。
――この人が曹洪……っ!
彼は斗詩の頭上にいた。
斗詩が跳躍した瞬間に、その狙いを理解し、すぐに馬を跳ねさせたのだ。それでもさすがに部隊全体で避けることが出来なかったのは、彼の中では失態の部類に入るのだが。
――まさか、こんな簡単に馬で跳躍する人がいるなんて……っ!
唇を噛み締めながらその光景を見送った斗詩。以前、白蓮から聞いたことがあった。白蓮が長年戦っていた烏桓族は馬をまるで自分の足の様に扱い、跳びながら弓矢を放ってくる姿には戦慄したと。
漢民族ではここまで上手く馬を操れる人間は多くない。烏桓族や羌族といった異民族と戦っていた白蓮や翠なら兎も角、中原を中心に戦ってきた曹操軍の中でこんな人物がいるなんて予想もしていなかったのだ。
「おらぁっ! てめぇら、馬は抑えるなっ! 馬の意志を上手く操れっ! 敵兵は目の前だっ! 戦功を争えっ! 敵を殺せっ! 全てを……薙ぎ払えっ!」
曹洪は自ら斗詩のやや後方部に着地すると、剣を掲げて檄を飛ばす。曹操軍の兵士たちもその声に応えるように、斗詩に向かって刃を振るおうとする。
ついに先鋒同士の衝突が始まった。
前曲を託された斗詩は、必殺の剣のその一撃を受け止めることが出来るのだろうか。
あとがき
第八十八話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
さて、始まりました。麗羽対曹仁、曹洪戦です。
今回以降のあとがきは短めで参りたいと思います。
今回の主眼は麗羽の将としての力を客観的語り、それが曹仁、曹洪にどのように映るのかについて。
真の凡将。この物語では度々活躍する姿が見られますが、物語中にあるように、本来は麗羽には将としての才能は皆無と言っても過言ではありません。
それでも活躍することが出来ているのは、並外れた努力の成果と麗羽の不屈の闘志にあるのかと。そして、その動機となっている一刀への忠義と、斗詩と猪々子に対する愛情であることは言うまでもないかと。
さてさて、そんな麗羽様と歴戦の猛者との戦いが始まります。
先頭で戦いを始めたのは斗詩と曹洪。
必殺の剣と言われた男を前に、斗詩は命を懸けた戦いに挑む。
そこに勝機はあるのか。
そこに活路はあるのか。
そして、麗羽の脳裏に勝利の方程式が描かれることはあるのか。
ちなみにその方程式の鍵となるものは物語中に少し触れています。お暇でしたら、それを妄想して頂くのも一興ではないかと。
さてさてさて、それでは今回はこの辺で。
次回もこのまま麗羽たちの戦いにスポットを当てて話を進めたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第八十八話の投稿です。
詠から叱咤激励された麗羽は、必勝の誓いを立てながらも、敵に勝つ戦略を未だに練れずにいた。しかし、麗羽に対して並々ならぬ評価を与えた曹仁と曹洪は、そのまま麗羽の部隊に襲い掛かる。果たして、麗羽は彼らに勝利することが出来るのか。
投稿が少し遅れました。すいません。それではどうぞ。
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