曹操軍の先鋒である曹仁、曹洪の両将軍が益州軍に突貫を仕掛けた瞬間を、同じく孫呉の先鋒を預かる雪蓮は目撃していた。あの勢いは並みのものではなく、いくら麗羽だろうと、おそらくは無事では済まないだろう。
「冥琳……っ!」
「抑えろ。ここで我らが袁紹の援護に向かうわけにはいかない。奴らを信じるしかない。それに……」
「それに?」
「見ろ。こちらにも挨拶が来たようだ」
冥琳の指し示す方に視線を向ければ、こちらにも敵の姿を捉えることが出来た。旗印など確認するまでもない。敵の襲来を確認した瞬間から、雪蓮にはそこから放たれる強烈な殺気を痛いくらいに感じていたのだ。
「夏侯元譲……っ!」
「ふむ、どうやら先の戦の意趣返しをしたいらしいな」
「ちっ! 全軍、迎撃態勢をとれっ! 敵軍中央に楔を打ち、両翼より肉薄するっ!」
今は隣を任せている麗羽を信頼する他ない。曲がりなりにも、荊州で争ったときはこちらの軍勢と寡兵で渡り合ったのだ。その実力は益州の将以外では自分がもっとも分かっている。冥琳とてそれは分かっているからこそ、冷静さを保っているのだ。
「任せるわよ、袁紹……」
雪蓮は独り言のようにそう呟くと、南海覇王を掲げて春蘭の部隊の迎撃を開始した。
そして、一方、麗羽たちはというと、曹操軍の二将軍の猛攻に晒されていた。
その中で麗羽は唇を噛み締めていた。
――ここは一つに纏まるべきではありませんでしたわ。
曹操軍の中でも霞の率いる騎馬隊は精強なことで知られている。その突破力は実際にぶつかったことのある麗羽は充分に承知していた。だからこそ、それに意識を置くあまり、他の騎馬隊に注意をしていなかったのだ。
曹仁と曹洪が率いる先鋒の騎馬隊も錬度がかなり高く、その攻撃を受け切ろうと思っていた自分が浅はかであったことを今更ながらに実感したのだ。
――騎馬隊だけでも切り離しておくべきでした。
しかし、後悔してももう遅い。こちらの前曲は既に押され気味になっており、徐々に後退せざるを得ない状況になっている。このまま押し切られてしまうと、前曲だけではなく、後曲まで影響しかねない。
兵士の質で言えば彼我の差はない。こちらの兵士も必死に応戦しており、しばらくの間はこの状態を維持できるであろう。しかし、このまま現状を維持しているのでは不味い。前曲が崩れるのは時間の問題である。
――ならば、撃って出るまでですわっ!
「猪々子っ! 一隊を率いて囲いを突破なさいっ! 然る後に反転っ! 敵に横撃に仕掛けて押し返すのですわっ!」
「了解しましたっ!」
猪々子は速やかに自分の部隊を纏めて、騎馬隊を先頭に包囲陣を破った。
「一気に行くぜっ!」
そのまま馬首を廻らせると、敵の横っ腹を目がけて突っ込んだ。
本来であればそれで敵の動きを鈍らせることが出来たはずだ。鋒矢陣という陣形は矢印のような形をしており、前から圧力には滅法強く、また攻撃力を如何なく発揮出来るものだが、横からの衝撃には弱い。
麗羽の部隊の中では、もっとも突破力に優れる猪々子の部隊が相手ならば、その衝撃は充分に敵の中枢部分を揺るがすことが出来たはずであった。
しかし……。
――な、何だこりゃっ!
敵の部隊に突っ込んだ猪々子は、まるで泥沼の中に浸っているような感覚を覚えていた。
「ふん、まだまだじゃわ、小娘め。自分ばかりが突出していて、頼みの部隊全体の力が完全に活かしきれておらん。そんな拙攻では儂には届かぬぞ」
その衝撃を巧みに捌いたのは百戦錬磨の曹仁である。
初撃の勢いを、部隊を固めることで受け止めると、次撃の勢いを受け流すようにそのまま殺し、さらには部隊を広げることで猪々子の部隊を引き摺り込んだのだ。猪々子からしてみれば、沼に呑み込まれたと錯覚してもおかしくはない。
騎馬隊の持ち味はその突破力にある。曹仁はそれを殺すことを最優先としており、またその効果的な方法も長年の経験から把握している。
猪々子は確かに益州軍の中では、騎馬隊を率いたときの力は抜きん出ているかもしれないが、それでもやはり経験という絶対的な数値では曹仁には及ばない。
「重囲せいっ! 所詮は勢いだけの部隊じゃっ! 落ち着いて数の差を利用すれば恐るるに足らんわっ!」
既に曹操軍の先鋒の兵士たちは指揮官のことを信頼していた。
勇猛果敢に突っ込んで敵の算を乱しながら、的確に弱いところに襲い掛かる攻めの曹洪。堅如盤石の布陣で敵の攻撃を受け止めて、更には攻め寄せた軍勢を捉え殲滅させようとまでする守りの曹仁。
二人が、本当に仲が良いのかどうかはいささか不安もあるが、それでもコンビネーションだけは抜群だった。曹操軍が誇る夏侯姉妹のそれを想起させ、この二人について行けば勝てると自然と思ってしまう。
――まさか、猪々子をも捌いてしまうなんて……っ!
麗羽はその刹那の間に現状を打破する策を練り始めた。
このままの乱戦状態が続いてしまえば、勢いと数の利を持つ相手に優位な状態を保たれてしまう。せっかく一刀たちが高めてくれて士気も、このままでは一気に削がれてしまうのだ。
――くっ、このままでは……。
と思った次の瞬間、敵方から鐘が鳴らされると、曹仁と曹洪はすぐに撤退を命じたのだ。
その鮮やかな手並みに麗羽は何もせずにいた――いや、手を出すことが出来なかったのだ。敵はこちらに対して背後を見せているが、殿を守っているのは曹仁である。このまま追撃を仕掛けたところで、こちらが逆に返り討ちにあってしまうのは目に見えていたのだ。
「麗羽様っ!」
「姫っ!」
そこに斗詩と猪々子が駆け寄った。
「……わたくしたちの完敗ですわね。これは華琳さんからの挨拶なのでしょう。自分たちの実力の見せつけると共に、こちらに対して警告をなさっているのですわ。わたくしたちが相手にしている人物が誰であるのかということを」
麗羽の表情が苦渋に染まる。彼女自身、自分に将としての才能がないと思っているが、ここまで実力差があるとは思わなかった。この様ではまるで子供扱いではないか。
その様子には斗詩と猪々子は何か言葉をかけようとするが、上手く言葉を見つけることは出来なかった。ここで麗羽に慰めの言葉でもかけようものなら、それは自分たちの主を侮辱することになる。そして、このまま麗羽が何も出来ずにいるわけないとも思っているのだ。
「さぁ、わたくしたちも一度本陣に帰還しましょう。それまでに被害を確認しなくてはいけませんわね」
麗羽は力なくそれだけを告げた。
麗羽たちが本陣へと帰還すると、それを一刀たちが迎え入れ、労いの言葉をかけた。
報告によると、被害自体は大したことはないようだった。強烈な一撃ではあったが、兵士たちの粘り強い反撃と、麗羽の冷静な対処が功を奏したようだ。しかし、実際の数字よりももっと大きな傷もあった。
――兵士たちの目に不信が見られる。
一刀はそれをすぐに察した。
確かに益州の兵士が精強であることは自信を持って言うことが出来る。しかし、所詮は兵士たちが元は民であることに変わりはない。自分たちのように精神的に強いわけではなく、言ってしまえば周囲に流されやすいのだ。
一刀、桃香、雪蓮の三人による演説で自分たちが勝てると思い込むことが出来たように、緒戦の敵の先鋒による急襲により、今度は自分たちでは華琳たちに勝てないのではないかと思い始めているのだ。
――先の攻撃の本当の狙いは兵士たちの心を折ることにある。
それに一刀も気付いたからこそ、麗羽には明るい口調で労ったのだ。この場で将までも不安な表情を浮かべてしまったら、それは一気に兵士たちにまで伝わってしまう。
「ご主人様、孫策さんの許から伝令が来ました。あちらも先鋒同士が衝突したようで、夏侯惇が先鋒を務めているようですが、陣頭には姿を見せなかったらしく、被害は微々たるものだそうです」
背後から朱里が一刀に報告した。
「分かった。ありがとう」
そう礼を言いながら、朱里に対して目で問うた。
緒戦の様子見には何か狙いはあったのかと。
一刀は朱里を信頼している。此度の決戦に関して言えば、戦略レベルのことは朱里に主導させているのだから。朱里の戦略眼は同じ軍師といえども、詠や麗羽のそれとはまた違っている。一つの行動には必ず理由がある。
出陣直後に朱里が様子見を提言したとき、一部の将は首を傾げていた。
雪蓮の陣営が速やかに迎撃態勢に移行したことを思えばそれは当然であるが、一刀だけはそれを即断で受け入れたのだ。朱里が何も考えずに、ただ相手側の動きを見ようとするはずがない。華琳という強敵を相手にそんなことをしている余裕などないのだから。
その瞳の問いかけに対して、朱里は静かに微笑んだのだった。
「皆さん、まだ戦は始まったばかりです。緒戦は確かに敵が優位に見えるかもしれませんが、私たちは負けていません。そして、これからも負けることはありません」
普段は弱気な口調で、個性が激しい益州陣営の中では、良心的な幼女として知られている朱里ではあったが、このときだけは違った。その決然とした口調には、軍師としての己の誇りが乗せられていた。
その軍師特有の静かな炎に周囲の人間は唾を呑み込んだのだった。
さて、一方、華琳たちはというと、曹仁、曹洪の働きによって士気がますます高まっていた。兵士たちの間にもやはり天の御遣いの噂が流れており、一部の間にはそれを不安に思うものもいたのだ。
だが、それを二人の歴戦の将が打ち砕いのだ。
天の御遣い、焉んぞ恐れることあらんや。
その言葉が瞬く間に兵士たちの間を駆け巡った。自分たちには二将軍の他にも万夫不当の猛将たち、神算鬼謀の軍師たちがおり、更には自分たちを率いるのは大陸の覇王である。負ける要素などどこにもないのだ。
曹洪も、曹仁もその様子を満足そうに眺めていた。久しぶりに戦場に立ち、矛を振るったのだ。しかも相手は、ぶつかった感触では相当に錬度の高い兵士たちであり、指揮官もかなり有能であった。
――まぁそれでも儂には敵わんがの。姫君からの賛辞を頂戴するのはこの儂じゃ。
――筋はいいが、まだ粗削りだ。俺には勝てん。俺の活躍にお姫様の目線は釘付けだな。
などと、いくら自分が仕えた主君の娘だからといって、いい年してそこまで褒められたいのか、それともそれが華琳に仕える者の常識なのか。だが、そんな彼らの心の声は兵士たちには聞こえることはない。
二人が悠々と華琳の許へ到着して、何を言われるのか楽しみにしていると、意外にも華琳の表情は普段と変わりなかった。緒戦を絶対的優位な状態に運べたというのに、その顔はいかにも怪訝そうだった。
「あら? 二人ともご苦労様。被害はほぼ無いようね。そのまま周囲の警戒にあたってくれるかしら?」
「は、はぁ。しかし、姫君よ。相手は相当精神的に被害を受けているようじゃ。すぐに儂らに対して反撃出来るとは思えんがの。相手の兵士たちは儂らに怯えていたようであるし、休息も必要だろう」
「俺も同意見だ。油断しろと言うわけではないが、あまり緊張させすぎると兵たちも心労が溜まってしまうぞ。金も貯めすぎるだけではなく、時には散財する必要がある。今晩くらいは兵士たちに酒でも振舞っても問題ないと思うが」
華琳から褒められなかったことが多少は不満だったのか、華琳の命令に口を挟んだ二人。このようなところは、華琳の親族であり、華琳の母親に仕えていたことの特権である。
また、二人の意見にはある程度は賛同できる余地もある。敵の先鋒は通常ならば敵陣営の中でも有能な人材が選ばれるはずであるし、実際に手強いところもあった。こちらの突撃に対して速やかに反撃を始めようとしたのだ。
その先鋒を圧倒し、彼我の実力差を見せつけたのだ。兵士たちは勿論のこと、並みの将であれば戦意を喪失してしまうだろう。こちらはその士気が下がったところに、更に追い打ちを仕掛ければよいのだ。
そう、並みの将であれば、である。
二人は相手の将のことを完全に知っているわけではない。
その中に、かつて己の君主への一心の想いのみで、華琳を窮地にまで追い込んだ、個人の武のみで三万の軍勢を殲滅させた飛将軍がいることも。
その中に、かつての友人であり、名家であることを誇りにするだけの何の才のない者だったが、死に物狂いの研鑽で天才たちを驚かせた努力の将がいることを。
その中に、かつて西涼で絶対的な武力とカリスマを誇った大陸最強の王の娘にして、その正統後継者であり、西涼では知らない者はいない錦の将がいることを。
そして、彼らを束ねる者こそ、華琳が自ら自分の好敵手だと認める漢中王と、天の御遣いと呼ばれる青年であるということを。
「勘違いしないでくれるかしら? 私は何も相手を警戒し過ぎているつもりはないわよ? ずっと戦場から離れていたから、武人としての勘も衰えているんじゃないかしら?」
不敵に微笑む華琳に対して、曹仁と曹洪は眉を顰めた。
例え相手が主君の娘であろうと、己の武人としての誇りを傷つけてよいはずがない。その発言は何が何でも撤回させなくてはいけない。そのために口を開いた、そのときだった。
「敵襲っ!!」
突如、自陣からその声が上がったのである。
ちょうど、華琳たちが曹仁と曹洪を労っているとき、その華琳陣営の物陰に三人の人影があった。
「ふむ、どうやら上手く忍び込めたようじゃの」
「朱里が曹操軍の具足を準備してくれたおかげですね。それに……」
発言者はそのまま視線を下に向けた。
そこには朱里と同じ水鏡女学院の制服を身に着けた一人の幼女がいた。
「あわわ……、私は何もしていません。桔梗さんと焔耶さんがいたからでしゅ」
「何を言う。雛里が敵に見つからないように、先導してくれたからだろう」
桔梗、焔耶、雛里の三名がそこにいたのだ。
「まぁ、褒めるのは終わってからでも良いの。焔耶、準備は良いか?」
「はいっ! 雛里、私の側から離れるなよ。ここに安全な場所があるとすれば、私の側だけだと思え。近くにいてくれないと、お前を守ることが出来ない」
「ひ、ひゃいっ!」
焔耶のその男らしい台詞が、元から彼女が女性にしては凛々しい顔つきをしていることが相まって、驚くほどに格好良く聞こえてしまい、雛里は思わず顔を赤らめてしまった。
「よし、では行くぞっ!」
「はっ!」
桔梗と焔耶は得物を片手に飛び出したのだ。
そしてすぐに騒ぎが起こった。
再び華琳たちの許に場所が移る。
「敵襲だとっ!? どこからだっ!? 規模はっ!?」
曹洪が怒鳴り散らした。
「はっ! 敵はこちらの陣内に侵入していた模様ですっ! 混乱が酷く、詳細までは分かりませんっ! 念のため、曹操様は安全な場所に避難を――」
「無用よ」
「姫君っ!」
どうやら火の準備もしていたようで、華琳の位置からでも煙が見て取れた。こちらの武具や糧食を燃やすためではなく、飽く迄も混乱を強めるためのものなのは、その規模から華琳はすぐに察することが出来た。
そして彼らが何を狙っているのかも。
「報告っ! 陣外に百騎程の騎馬隊が出現っ! さらにこちらの入り口が内側から開かれたようで、こちらに向けて猛烈な勢いで突貫してきますっ!」
「ええいっ! 少数の敵に何を狼狽えておるかっ! 儂が自ら成敗して――」
「落ち着けっ! ここはお姫様の安全の優先が第一だっ!」
「むぅっ!」
まさか緒戦に敗北したと言って良い状態から速やかに攪乱攻撃を仕掛けてくるとは思わなかったのか、鉄壁の守りを持つ曹仁も焦りが見えた。曹仁と曹洪は怒声を放ちながら、敵の撃退を指揮しようとしたときだった。
「おぉっ! こんなところにおったか」
華琳たちの目の前に三人の女性が姿を現した。
この混乱を引き起こした張本人たちであり、その闘気溢れる出で立ちから並々ならぬ武将であることを二将軍はすぐに察し、自らの身体を華琳との間に滑り込ませた。
「曹孟徳殿とお見受けする。儂は益州軍が将、厳顔と申す。先ほどの返礼をしに参上した。貴公とその兵たちに我らが軍師、諸葛孔明からの言葉を贈らせて頂く。焔耶」
「はっ! 曹操軍の将兵よっ! 我らには天より使わされし、御使い様がいるっ! 天に従うことこそ正しく、天に逆らうは愚の骨頂っ! こちらに降るなら危害は加えぬが、もしも、これ以上我が領土を侵そうものなら――」
焔耶はそこで一息を入れた。
「天よりの大いなる裁きを受けることになるだろうっ!」
次の瞬間、陣内に置かれた兵糧庫が爆発を起こしたのだ。
「…………っ!!」
兵士たちは目を疑った。これは本当に天よりの裁きなのか。自分たちは相手にしてはいけない人間と争おうとしているのではないか。仮に自分たちの主君が覇王であっても、天上の存在と事を構えて無事で済むのかと。
種を明かせば簡単なことなのだが、桔梗たちは雛里に言われたように敵の兵糧庫を爆破させたのだ。その中にあったのは大量の小麦粉である。桔梗たちの狙いは最初からそこにあった。
粉塵爆発――雛里は一刀からその話を何かの折に聞いていたのだ。そして、それを実行に移した。焔耶の台詞とタイミングが一致したのは、時限式にしておいたためであり、後は焔耶の方からタイミングを合わせただけなのだ。
そして……。
「桔梗、焔耶、雛里、無事であったか。迎えに来たぞ」
「うむ、ご苦労じゃったな、星よ」
そこに星が現れた。陣外に出現した騎馬隊を率いていたのは彼女であり、それは奇襲というよりも三人を無事に味方の許に返すことが役割のほとんどを占めている。
「それでは、曹孟徳殿。儂らはこれにて失礼する。それからもう一つだけ。お主の旧友であり、我が軍の先鋒を務める袁紹を舐めぬことじゃ。あの者は強いぞ」
にやりと妖艶に微笑んでから、桔梗たちは星が連れてきた馬に乗った。そして、何事もなかったかのように、その場から駆け去って行ったのだ。
「ぐぬっ! 追えいっ! 奴らを逃して――」
「止めなさい、曹仁。追っても無駄よ。それよりも今は陣内の状況を確認して、すぐに負傷者を運び出しなさい。あの爆発、近くにいた兵士たちは大怪我を負っているわ」
「くっ! ……分かり申した」
今ならば霞の率いる騎馬隊を出動させれば追撃が可能かもしれない。しかし、華琳はそれをすることを選ばなかった。こちらもある程度の被害が出た以上、放っておくわけにいかないし、何よりも……。
――あなたたちの挨拶は確かに受け取ったわよ。
華琳は微笑んだ。
そうだ。それで良いのだ。それでこそ自分が戦うに値する相手である。先ほど挨拶に来た桔梗も相当の手練れであることはすぐに見抜いていた。恋や麗羽や翠だけではない。益州には自分の知らない猛将たちがまだまだいるのだ。
その強敵たちを自分の手で打ち倒し、従えることが出来てこそ、自分は真の大陸の覇王になることが出来る。それが出来ずして、どうして大陸中の愛する民たちに幸福を与えることが出来ようか。
「さぁ、戦いはこれからよ。少なくとも、私をここから動かしてみなさいな、麗羽」
もう随分と会っていないけれど、彼女はどのような姿をしているのか。以前と変わらぬ華美な格好をしているのか、それとも人格が変貌したことと同様に容姿まで進化を遂げたのか、戦場で会うのがますます楽しみになっていた。
「お館様、ただいま戻りました」
「お館、桃香様、朱里と雛里の策通りに陣内の兵糧庫を燃やし、挨拶をしてきました」
「桔梗さん、焔耶、雛里、それに、星もご苦労様。危ない任務だったけど、皆が無事でほっとしたよ。朱里から策の内容を聞いたときは驚いたけどね」
あれからすぐに朱里からどうして様子見という選択肢をとったのかについて説明がなされた。勿論、それは桔梗たちを敵の陣内に忍び込ませることに狙いがあったのだ。
こちらが様子見に出れば、それに対して敵は確実に初手をとろうとする。こちらは麗羽が先鋒にいる以上、大した被害は出ず、また敵自身もこちらの気勢を削ぐことを狙いとすることから、そこに付け入る隙があるのだ。
荊州で夏侯惇の部隊とぶつかったときに曹操軍の具足は入手していたため、それを身に着けた桔梗たちが潜り込んでも、すぐには分からず、それからは雛里が上手く見つからないような場所を見つけてくれる。
この策の考案者自体は雛里であり、朱里はそのきっかけを作ったに過ぎない。雛里自身が極度の恥ずかしがり屋で、常日頃から他人の死角に身を置きたがる性質を利用し、敵陣地における攪乱作戦を思い付いたのだ。
侵入さえ出来てしまえば、後は先ほど行ったことをすれば良いだけだ。この奇襲に軍師である雛里自らが同行したのは、敵陣地における安全地を確保するだけではなく、粉塵爆発を引き起こす必要性があったためだ。
「だけど、さすがは雛里だなぁ。粉塵爆発なんて雛里に話した記憶なんて残ってないぞ。それを憶えていただけでなく、実際に起こせるようにするなんて、本当に驚いたよ」
「あわわ……、敵陣地には小麦はあると思ったので、もしかしたら、出来るかもしれないと思っただけでしゅ。それに、私は守られてばかりいて、実際に陣地を混乱させたのは桔梗さんと焔耶さんで――」
「ふむ、雛里よ。お主も軍師として己に自信を持てば良い。詠を見習え。あんなにぺたんこな胸を一生懸命に張って、自分の存在を誇示しているのだぞ」
「ちょっとっ! どうしてボクに振るのよっ! それに胸の大きさは関係ないでしょっ!」
星の軽口に顔を真っ赤にして反論しようとする詠を見て、雛里もクスクスと微笑んだ。
雛里の自分に対する自信のなさは、朱里よりも酷かったのだ。戦略眼では確かに朱里には劣るかもしれないが、戦術レベルであれば、正直なところ、雛里に勝てる者は益州陣営にはいなかった。
長い付き合いのある星は、これを機に雛里が自分にもっと誇りを持てるようになれば良いと思ったのだ。いつか――この世界が平和になった後にでも、雛里が自分よりも若い世代に対して、自分の軍師としての魂を語ることが出来る日が来ればよいと。
「しかし、まさか曹操さんが引退した将まで連れてくるとは思いませんでした。麗羽さんでも対応出来ない程の実力を持つものが敵の先鋒を預かることは、私の予想を上回り、結果としてこちらにも被害が出てしまいましたね」
朱里が唯一の失敗として挙げたのが、敵の先鋒に予想よりも遥かに有能な指揮官がいるということだった。本来であれば、こちらの被害はほとんど出さずに、この奇襲を成し遂げられるはずだったのだ。
「それは仕方ないさ。曹操さんが相手なんだから、こちらも相当な覚悟が必要になる。被害が出ることを躊躇ったら、それこそ、次の攻めを止めることは出来ないよ。おそらく次が本命、敵も全開で来るだろうね」
今、この場にいないが、麗羽は益州ではもう認められている。麗羽が先鋒を務めることに対して異論など全くなかったのだ。しかし、その麗羽でも児戯の様にあしらわれたのだ。果たして、次から始まる本格的な戦闘に勝利することが出来るのか、一刀の胸中には一抹の不安があることは確かだった。
「まぁ、今回の雛里の策でこちらの下がりかけた士気が元に戻ったのは事実なのだし、今は素直に喜びましょう。さて、そろそろボクも準備に行くわね」
「詠? 準備って何のだ?」
「はぁ? あんた、そんなことも分からないの?」
「むむ……」
「むむ、じゃないわよ。戦闘が本格的に動く以上、必ず敵の騎馬隊が動くわ。ボクが翠たちを上手く補佐しないと不味いのよ。霞は――張遼は、指揮官としての器は翠や白蓮よりも上よ。ボクが側にいて多少の援護をしないと、そっちの戦いで敗れる。そうなったら、本隊まで格好の餌食になっちゃうじゃない」
此度の遠征では詠には翠と白蓮の率いる騎馬隊の補佐をしてもらう。詠ならば、馬の扱いにも慣れているし、ある程度は翠たちと行動を共にすることが出来る。逆にそのくらいのことをしないと、霞の率いる騎馬隊は止められないのだ。
かつての仲間である霞の実力は詠がもっともよく分かっている。荊州でぶつかった麗羽の話を聞く限り、かつてよりも指揮官としての腕前は相当伸びている。翡翠の軍勢とぶつかった経験が大きく影響しているのだろう。
だからこそ、本隊は朱里と雛里に任せて自分は騎馬隊の方に専念するのだ。戦いは本隊同士のぶつかり合いだけではない。騎馬隊をどの程度まで抑えることが出来るかに大きく左右されるのだ。
――まぁ、その前に挨拶位はしておこうかしら。
そのまま翠たちに合流しても良いかと思ったのだが、詠はとある場所に向かった。
それは麗羽の天幕だった。
「麗羽、入るわよ」
中に入ると、麗羽は一人で俯いていた。
天幕の周りは人払いがしてあり、斗詩と猪々子しかいなかったことから、おそらく意気消沈していて、それを兵士たちには見せんとしているのだろう。指揮官としては当然である。
しかし、その暗澹とした表情を見るなり、詠はいきなり麗羽の胸ぐらを掴んだ。
「あんたっ! まだうじうじしてんのっ!? いい加減にしなさいよねっ!」
「し、師匠……?」
「確かに曹仁と曹洪の話は聞いたことがあるから、その強さは間違いないわ。あんたよりも将としての技量は一枚も二枚も上よ。だけどね……」
詠は麗羽の顔にぐっと自分の顔を寄せた。
「先鋒を務めるのはあんたにおいて他にはいないのよっ! 戦場で兵士たちを守れるのはあんたしかいないのっ! あんたがそんなことでどうするのっ!」
「で、ですが……」
「ボクはね、今回の戦いは翠や白蓮と行動を共にするの。本隊の指揮も不安ではあるけど、朱里や雛里もいるものね。だけど、何よりも先鋒はあんたならば任せられると思ったのよ。ボクの弟子にして、誰よりも信頼を置ける麗羽、あんたならね」
「…………」
「あんたの将としての器は敵の先鋒の指揮官よりも下よ。だけど、あんたにはこれまでの努力がある。並みの者なら出来ないような量の努力をあんたは積んできたじゃない。ボクは麗羽を信じるわ。だから、麗羽も自分を信じなさい。ボクが間違ったことを言ったことがあったかしら? ボクが、あんたなら連中と戦えると言っているの。だから、ボクを信じなさい」
「…………はい」
詠の激励に麗羽は小さく頷いた。彼女は師としての詠を絶対的なまでに信じている。その師が言ったことにこれまで間違いなどなかったのだ。
だから、もしも自分がこのまま敵の先鋒に敗れてしまえば、詠が間違ったことを言ったことになってしまうのだ。そんなことがあっていいはずがない。詠の言ったことが正しいかどうかではなく、自分がこの手で正しくしてしまえばよいのだ。
「師匠の言葉に間違いはありませんわ。この袁本初がそれを証明してみせますわ」
麗羽は優雅に笑った。
その表情を見てふんと鼻を鳴らした詠だったが、その表情は満足そのものだった。
戦はまだ始まったばかりである。
これから、麗羽たち益州軍の先鋒、雪蓮たちの江東軍の先鋒、そして、翠たち騎馬隊同士のぶつかり合いが本格的に動き出すのだ。
あとがき
第八十七話の投稿です。
言い訳のコーナーです。
さて、今回は緒戦の続きとなっています。
曹仁、曹洪、歴戦の猛将によっては麗羽が率いた先鋒は窮地に陥りますが、飽く迄もそれは挨拶に過ぎないとばかりに、速やかに撤退していきました。
それよりも、前回、どうして朱里ともあろう者が曹操軍に対して様子見などと言う選択肢に出たかというと、これが狙いだったわけですね。
挨拶には返礼をする。これ常識です。ニーメンハオと言われたら、きちんと返しましょう。怖い人が襲ってきます。
粉塵爆発、とある科学と魔術が交わるラノベで見たのですが、文系である作者には細かいところまでは分かりませんでした。ご都合主義で申し訳ないのですが、今回は起こったことにしてください。
それによって敵兵に再び天の御遣いの恐怖を認識させることに成功したわけですね。
この立役者がかなりお久しぶりの登場になった雛里ちゃんです。
雛里ちゃんは作者の養女。よって嫁に出す気はない。ですが、一刀くんの嫁である麗羽様や詠が活躍してしまい、あまり日の目を浴びなかったので、こういうところで出せて良かったです。
さてさて、その麗羽様ですが、曹仁と曹洪にいいように扱われたのがショックだったようですね。それに対して師匠である詠ちゃんが叱咤激励。何とかこれから勝負できそうになりそうです。
それから前回コメントにて、非常に分かりづらく申し訳なかったのですが、益州軍と江東軍は指揮系統が別々なので、部隊自体も別と言う解釈でお願いします。
勿論、隣り合ってはいるのですが、雪蓮と麗羽が協力して曹仁と曹洪と戦うわけではありません。あとがきにてそれを補足させて頂きます。
さてさてさて、物語最後にありますが、これからは麗羽様と曹仁・曹洪、雪蓮対春蘭、翠・白蓮対霞という三つのパートに分かれて物語が進行します。
最初は麗羽様のパートになり、それから雪蓮、翠・白蓮という順序で進みます。どのような戦いになるかは次回までゆるゆりとお待ちください。
今回はこの辺で筆を置かせて頂きたいと思います。
相も変わらず駄作ですが、楽しんでくれた方は支援、あるいはコメントをして下さると幸いです。
誰か一人でも面白いと思ってくれたら嬉しいです。
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第八十七話の投稿です。
ついに決戦の火蓋が切って落とされた。曹操軍の先鋒を務める歴戦の猛将、曹仁と曹洪は麗羽の部隊に怒涛の攻撃を加える。その中で、益州軍の筆頭軍師である朱里は何を狙っているのだろうか。
少し詰め込みすぎた感が出てしまいました。精神的に、今は書ける描写は書いてしまいたいので、ご理解して頂けると幸いです。それではどうぞ。
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